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鈴鹿の風 vol.2:裏側からのF1GP

平成25年10月28日
鈴鹿F1日本GPによせて
今回18年ぶりに鈴鹿サーキットとご縁が復活し、ご担当
者の出口氏(変わった名前ですよね)のご好意でいきな
りF1-GPに臨時出店させて頂くことになった経緯は前回
お話した通りです。ただタバコ屋は母校である同志社大
学自動車部の創部80周年式典と日程がかぶってしまい、
急遽倅のマー君を派遣することになりました。いざ出陣
です。
IMG_3103.jpg
写真は先般商談方々鈴鹿サーキットの見学をした時の
マー君です。タバコ屋は今回同行出来なかったので以下
はマー君の撮ってきた写真をもとにした想像記事です。
IMG_32491.jpg
決勝レース3日前の10月10日(木)のことです。早めに
準備をするため、フリー走行の前日から乗り込むことに
しました。指定されていた正面メインスタンドから右方向
へ坂を上りシケインを左に見ながらしばらく行ったところ
にある立体交差ポイントに到着です。
「希望の島」のテントブースが既に準備されていました。
モンゴルの遊牧民のパオのような形状の簡易テントで
すが、真ん中が当社のブースです。
立体交差2
これは今回のものではありませんが、レーシングコース
としては極めてユニークな立体交差の形状がわかりや
すいポイントです。下側が往路でやがてヘアピンカーブ
へ向かいます。上側は復路で西ストレートから130Rにか
けて超高速走行のあとシケインへと向かいます。手前が
丘になっておりそこが立体交差ポイントです。
IMG_32511.jpg
只今、開店準備中です。急なお話だったので、店の作り
も急ごしらえにて、例えば看板は3.6mという幅の規格が
ありその通りに作らねばならず、とりあえず「希望の島」
のロゴをはめ込んだため、間伸びしたものになりました。
新入りなので慣れない事でもあり、ま、いいか。
IMG_32541.jpg
GP初日(金曜日)、フリー走行です。タバコ屋が通ってい
た当時(18年前)はもう熱病のごとく鈴鹿詣でが行われ
た時代だったので比較にはなりませんが、この状況は
出店業者の立場から言いますと、ガッカリで倅のマー君
も悪い予感がしたことだと思います。
右端に立っているのは、今回マー君が同伴したウチの
社員で21才の若者です。尚、早生みかんの納品が遅れ
たため売り場はスカスカ状態ですが、今回の観戦客の
入り具合からはこれでいいかも。
IMG_32571.jpg
まわりの出店業者さんの状況です。カレー屋で全国展
開しているCoCo壱番屋さんです。そこそこの行列です
が、F1-GPの行列というのはこんなものではなく、マー
君が聞いたところによると、今年はもう全然アカンワと
言っていたそうで、どの店も客数がすべてです。
IMG_32691.jpg
GP2日目(土曜日)午前中はフリー走行、午後は決勝の
予選です。かなりお客さんは増えてきたようですが、全く
盛り上がりません。隣にはラーメンと焼きそばの店が開
店しました。
IMG_32721.jpg
この日は牛ステーキ串屋さんにかなり行列が出来てい
たようです。
IMG_32751.jpg
「希望の島」の右隣には鈴鹿F1-GPのメインスポンサー
の一つであるコカコーラさんが出店していました。コカコ
ーラさんはメインスポンサーなので軒上看板の設置義
務も免除されているのか何も飾っていませんでした。
まあコカコーラさんはサーキット中に店を出しているので、
看板等どうでもいいといえばそれまでですが。

メインスポンサーの威力は凄いもので、愛煙家にはおわ
かりのことでしょうが、JTさんもメインスポンサーで鈴鹿
F1-GP3日間のサーキット内自販機はマルボロとマイル
ドセブンしか売ってないという徹底ぶりです。(今回どう
だったかは未確認です)
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日も暮れてきました。場所は立体交差でなくメインスタン
ド近くだと思われますが、仮設テントでなく立派なプレハ
ブの仮店舗で鈴たこ(たこ焼き)と焼肉ランチを販売して
いました。看板には鈴鹿サーキット名物とありましたから、
相当売るのでしょう。
IMG_32811.jpg
富士宮やきそばと大分からあげの店です。こうなるとも
う鈴鹿サーキットというよりは鈴鹿神社の年に一度の大
祭に参拝というイメージでしょうか。この2店、ムードがよ
く似ているので多分同じ業者が2つの店を出しているの
だと思います。右側はポッカさんのドリンクブースでウチ
よりもまだ殺風景なしつらえでした。
尚、タバコ屋の店「希望の島」のように本当に地方から
来て、ご当地品を販売している業者は皆無で、ほとんど
は名古屋とか近畿方面以内の専門業者でした。ですか
ら仮に石狩ポテトとかがあったとしても業者は札幌から
来ている訳ではありません。ということは当社はよほど
物好きだということになるのかも・・・。
IMG_32851.jpg
メインスタンド右手にある観覧車です。かなり早い時期
から設置されていて一種鈴鹿サーキットのランドマーク
ともなっています。ただしタバコ屋は10年ほど通いまし
たが唯の一度も乗った事はありません。
IMG_32861.jpg
夜のメインストレート付近です。写真ではいかにも静か
な夜のとばりが降りてくるといった趣ですが、実際は逆
で、各チームの整備スタッフが明日の決勝に備え徹夜
で修理、調整を行っており、特にエンジンのブリッピング
(空吹かし)がハンパでなく、夜通しライオンの雄叫びを
聞いているようで、眠りたい人にとっては大苦痛の一夜
となります。言い忘れましたが各チームのピットはこの
メインストレートの真向かいにあります。

蛇足ながらこの記事によくご登場頂くペンネームそろば
ん氏らとともにそのピット作業を飽きもせずに震えなが
ら眺めていた遠い昔の記憶があります。開封すると自
動的に加熱し即席熱燗となる便利な日本酒缶のおいし
かったこと忘れられません。
IMG_32901.jpg
決勝前夜のエントランスゲートです。サーキット内では
前夜祭が行われているはずで、徐々にムードを盛り上
げます。タバコ屋が通っていた頃は、前夜のこの周辺は
もう人で埋め尽くされていたような記憶があるのですが。
IMG_33041.jpg
いよいよ決勝当日です。ここは観客の比較的少ない立
体交差ポイントなので、断定は出来ませんが、ウーン客
数はかなり少ないようです。やはり真打のHONDAが参
戦していないので仕方がないことかも知れません。この
点夏のメインイベント8時間耐久バイクレースはHONDA
からYAMAHAから国内メーカーがワークスとして大挙出
場するのでこういう問題は起こりません。
IMG_32991.jpg
遅れていた早生みかんの品揃えも出来、メニューはスイ
ーツのマドレーヌ、ジュース及びみかんといった内容で、
さあいらっしゃいという体制です。お弁当に類する店は
有り余るほどでしたが、このカテゴリーの店はコカコーラ
さん、ポッカさんくらいでほとんど他に出ておらず、今回
売れなかったとしてもメニュー次第では有望だと思いま
す。あとはくどいようですが観客数がすべてです。

余談の手前味噌になりますが、同時開催だった京都で
の母校同志社の自動車部80周年式典で大先輩の松村
氏が大のF1ファンであることを知り、観戦に行かれると
いうことなので、「希望の島」の倅の所へお立ち寄り頂く
ようお願いしたところ、快く了解頂きました。ご縁はどこ
にあるやら知れません。大先輩に感謝。

今回腕はともかく撮影マニアのタバコ屋と違いマー君は
あまり写真を撮ってくれていないのでこれ以上のご報告
が出来ません。ただし観客数は過去最低だったらしく、
したがって売上げも奮わなかったようですが、これも勉
強、次に向けて若いフレッシュな発想で頑張ってほしい
ものです。

鈴鹿F1GP付録
読者の方々もこれだけでは物足りないでしょうから、付
録として'平成25年(2013年)鈴鹿F1-GPの実際を断片
的にご報告しましょう。
H25鈴鹿F1-7
現在F1を休止中のHONDAのことです。2年後にはかつ
てのパートナー、マクラーレンと組んでF1に復帰すると
最近発表されF1ファンにとっては今から待ち遠しいこと
となりました。
今をときめくHONDAだってかつてF1初挑戦の頃はバイ
クの世界チャンピオンではあったものの四輪は勝手が
違い中々勝てなかった訳で、最初は誰だってうまくいか
ないのが当たり前なのです。
「希望の島」も今回売れなかったといってしょげることは
ないです。それよりもHONDAがF1でやってきたように、
チーム希望の島も鈴鹿F1を研究開発の実戦学習及び
若手の研修の場ととらえ、積極的に挑戦してほしいと思
います。
H25鈴鹿F1-10A
今回の鈴鹿F1のテーマは「語り継ぎたい走りがある」と
いうキャッチフレーズでしたが、どこかの広告代理店の
コピーっぽい気がしないでもなく、実際は笛吹けど何と
か・・でやはりHONDAもしくは日本人ドライバーが参戦
していないためあまり共感は呼べなかったような気もし
ます。それよりもHONDAが語り継ぎたいクルマを早く出
してほしいものです。
H25鈴鹿F1-8
余談話となりますが、F1の世界でシャシーもエンジンも
オール自社製というのは写真のフェラーリくらいなもの
で、実戦で成功しているのはほとんど、コラボで参戦し
ているメーカーです。HONDAもかつて2度、オール自社
製マシンで挑みましたが、優勝こそ数度成し遂げたもの
の、その苦闘の歴史は労多くして益少ない結果で、ウイ
リアムズやマクラーレンといったF1のプロのシャシー屋
(コンストラクター)と組んだほうがはるかに優秀な成績
を上げることが出来ました。

2年後のHONDAはかつてのパートナー、マクラーレンと
再びコンビを組むようで、喜ばしいことです。エンジンは
再び小排気量に戻り1.6LターボというHONDAが最も得
意としているスペックで戦われるようです。すぐに好成
績を上げることは難しいかもわかりませんが、参戦の意
義は大きく、そうなると鈴鹿詣でも再び押すな押すなの
大盛況となるでしょう
H25鈴鹿F1-3
決勝レースに先立ち、エキシビションとして往年の日本
人ヒーロー中島悟氏によるロータス99Tのデモ走行が
ありました。
H25鈴鹿F1-5
中島氏は当時雨の中島と言われて雨天のレースでは
抜群の速さを発揮したのですが、ロータスの2回の優勝
はその僚友アイルトン・セナによってもたらされたもので
した。天才ドライバー、アイルトン・セナはその翌年マクラ
ーレン・HONDAに移籍し以後、怒涛の快進撃の立役者
となったことは言うまでもありません。
H25鈴鹿F1-6
この日はそのアイルトン・セナが使用したマククラーレン・
HONDA-MP4/6もデモ走行に参加した模様です。
F1マクラーレンホンダMP4・6-1
ご存知のようにマクラーレン・HONDA-MP4シリーズは
それまで1.5L・V6ターボ搭載のMP4/4を皮切りに3.5L・
V10に発展後、究極の進化系として.3.5L・V12搭載の
MP4/6となりました。
HONDARA121(V12)-1.jpg
そのマシンに搭載されたHONDA-3.5L・V12エンジンで
す。無駄をそぎ落とし、究極の性能を追求したそのデザ
インは一種の芸術的な機能美さえ感じられ、今でもその
魅力は色褪せることがありません。
F1Dアイルトンセナ-1
HONDAをこよなく愛した孤高の天才ドライバー、アイル
トン・セナの名声と共にMP4/6は当時の世界チャンピオ
ンとしてHONDA-F1が最も輝いた時代の記念碑とも言
えるマシンです。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照
願います)
H25鈴鹿F1-12
20年の時が過ぎ、現在今日の鈴鹿F1-GPレースです。
予選ではレッドブル・ルノーのマーク・ウエーバーがトッ
プ、僚友で4年連続世界チャンピオンとなった若きエー
ス、セバスチャン・ベッテルは2位となりました。あとは
マクラーレンのハミルトンが続きます。
H25鈴鹿F1-1
決勝レースです。やはり本命のレッドブル・ルノー操る
セバスチャン・ベッテルが優勝しました。彼は若い頃の
M・シューマッハーを彷彿とさせるものがあり、当初は荒
っぽいドライビングでひんしゅくを買ったものの現在では
その才能を遺憾なく発揮し慎重さも増して今や押しも押
されもせぬ世界チャンピオンです。
H25鈴鹿F1-2
今年の鈴鹿F1-GPは優勝ベッテル、2位ウエーバー、
3位はロータスの伏兵グロージャン、という結果でしたが、
いつの世も栄光は続くものではなく、現在無敵のレッド
ブル・ルノーのS・ベッテルでさえもやがて2年後に復帰
するマクラーレン・HONDAによってその栄光は粉々に
打ち砕かれるかも知れないのです。

余談になりますが、現在のF1マシンのデザイン、皆さん
どう思われますか。20年前のマクラーレン・HONDA-F1
の無駄を省いたシンプルな造形美に比べいかにもゴテ
ゴテしていると思いませんか。小手先の空力デバイスは
排除し、「速いものは美しい」という不変の定理を再現し
てくれる革新的デザイナーは現れないものでしょうか。

鈴鹿F1-GPでの「希望の島」出店の記念すべき報告レ
ポートが何やら、タバコ屋のグチのようになってしまい
ました。紙数も尽きたようですので、今日のところはこ
れにて終わりにしたいと思います。


鈴鹿の風 vol.1

平成25年10月4日
ブログ閲覧1万人突破記念号
先日独り言の欄で何か特集記事を書くことをお約束しま
したが、やや迷った末、タバコ屋の好きなオクルマに関
連し、しかもエポックメイキングな出来事として鈴鹿サー
キット再訪問に至ったいきさつをお話ししようと思います。
F1ウイリアムズホンダFW11-2
写真はHONDAが昭和39年(1964年)以来、自動車レー
スの世界最高峰であるF1に挑戦し続け、苦難の時代を
経てウイリアムズとのコラボで、昭和61年(1986年)悲願
のF1メーカー部門世界チャンピオンとなった時のマシン、
FW11です。翌年はドライバー部門も含めて総合チャン
ピオンとなり、名実共に世界の頂点を極めました。
F1マクラーレンホンダMP4・4-1
その後は一転、マクラーレンとのコンビで昭和63(1988
年)以降何と4年連続世界チャンピオンに輝き、無敵の
HONDA-F1神話が生まれることとなりました。写真は怒
涛の快進撃を開始することになったマシン、マクラーレン
HONDA-MP4/4です。
その年は年間16戦中15勝という驚異的な勝利を収め、
もはやHONDAがいる限り、F1では勝てないと他のチー
ムに言わしめた程の破竹の快進撃でした。
H7第9回F1日本GP3
昭和61年(1986年)鈴鹿初のF1-GPが開催されて以来、
タバコ屋は足繁く鈴鹿に通いました。途中HONDAはバ
ブルの崩壊による経営悪化によりF1を撤退しましたが、
鈴鹿F1-GPはそれ以後も継続され、HONDAもワークス
チームとしては撤退したものの、側面からはF1に関わっ
ておりまだまだ人気は高かったように記憶しています。

タバコ屋をはじめ当時の若者にとっては、幕末の日本人
が黒船の出現で経験したごとくF1が一種の黒船であり、
カルチャーショックであったのは間違いのないことです。
H6第8回F1日本GP4
タバコ屋は思い高じて平成6年(1994年)には愛媛のHO
NDAディーラーさんのご紹介により、ご縁あって鈴鹿F1-
GPでふるさと中島のみかんを販売することになりました。
一日に15万人もの人が押し寄せる超弩級のイベントは
ハンパではありませんでした。慣れない場所で声をから
して販売し、悪戦苦闘したことは言うまでもありませんが、
印象に残っているのは、鈴鹿サーキットのスタッフの皆さ
んがとても親切でいろいろ気を使って頂いた事でした。
今でも感謝一杯です。
H7第9回F1日本GP1
写真は偶然京都から観戦に来られていたお嬢さんが、
島のみかんを買って頂いた記念に撮った写真です。やさ
しい物腰のお二人でしたが今頃どうされているんだろう。
一つわかったことは、タバコ屋のみかんのブースは試食
接客販売でしたがお隣の手しぼりジュースのカップ販売
ブースは試飲どころか長蛇の列が出来ており、販売員
さんは顔を上げる間もなく忙しそうだったことです。飛ぶ
ように売れると言うのはこのことです。
この時のタバコ屋の驚きというか悔しさが、10年後に島
で自家生産のジュース工場を作る直接の動機となりま
した。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願
います)

2年間ほどお世話になった後当時栃木県にツインリンク
もてぎが開設されることになり、鈴鹿の担当スタッフも応
援のためかなりの人数の方が転勤となったため、それま
での良い関係がうまくいかなくなり、それ以後はお取引
が途絶えてしまいました。
鈴鹿サーキット全体図
時は過ぎ、今回の鈴鹿サーキット再訪問のことです。
2年後の平成25年(2013年)にはHONDAがいよいよF1
に復帰することが決まり、タバコ屋はいても立ってもお
れず、本来なら、今年のF1は開催が迫っており出店の
業者選定などはとっくに終わっているはずなのですが
昔取った杵柄にてまずは担当者の方に電話で打診し、
会ってお話しを聞いて頂くことになりました。
IMG_3075.jpg
夜のうちにフェリーで大阪まで行き、難波からいつもの
(と言っても18年ぶりですが)名古屋行き近鉄特急に乗
り込みました。以前は一人ぽっちの旅でしたが、今回は
倅のマー君といっしょでいわば親子鷹での再訪問となり
ました。
IMG_3077.jpg
今までは、皆さんもそうされるように、白子駅まで直行で
行き駅からバスで鈴鹿サーキットまで行くのですが、今
回は勉強の意味もあり、途中の津で第三セクターの伊
勢鉄道に乗り換えて白子よりもかなりサーキットに近い
鈴鹿サーキット稲生駅に向かいました。
IMG_3079.jpg
やって来たのは何と1両編成の電車でした。じぇじぇじぇ、
これってあまちゃんの世界やんか~。何やら悪い予感が
しましたが、平日でもあり半ば貸切状態で、我々以外で
は年配のおばあちゃんが一人乗っただけでした。マー君
と缶コーヒーを買って不安で一杯ではあったものの、しば
しのどかな旅を楽しみました。
IMG_3081.jpg
鈴鹿サーキット稲生駅に到着です。悪い予感は的中しま
した。駅を出てみるとそこにはサーキットに続く一本道と
畑があるだけでバスの接続もタクシーも何もなかったの
でした。
IMG_3082.jpg
仕方なく、プレゼンの荷物が入ったキャリーやショルダー
バッグをゴロゴロ引きずって鈴鹿サーキットまで死の行
軍を敢行することにしました。タバコ屋はかつてF1観戦
時、終わってバス移動しようにも大渋滞でバスがあてに
ならないので、皆さんもそうされたように、白子駅まで約
5kmを歩いて帰ったものでしたが、マー君は初めてなの
でかなり面食らったようでした。
IMG_3085.jpg
いよいよ聖地鈴鹿です。ここは正面ゲートよりはかなり
手前のモータースポーツゲートで、サーキットへ直接入
れる所です。
IMG_3087.jpg
ゲートにはいかついガードマンがと思いきや、妙齢のお
嬢さんが立っていてにこやかに応対して頂きました。
目指す事務所は中に入ってすぐ右手のモダンな建物で
した。白子駅からの距離程ではなく約1/3の距離でした
が、当日はお天気が良すぎて到着する頃には汗だくで
した。
IMG_3096.jpg
実は鈴鹿の正面ゲートはこちらなので当初勘違いして
先ほどのゲートは通り越し、こちらに来てしまいました。
おもむろに担当者であるDさんに電話したところ、先程
のゲート内であることがわかり今来た道を500mUターン
ということになりました。
今浦島のタバコ屋は18年前とすっかり様相が変わり、
事務所も変わっていてとまどいましたが、何とか無事到
着です。
IMG_3047.jpg
担当者のDさんにタバコ屋の鈴鹿とのかつてのご縁や
島のことやら(例のダッシュ島が中島の近くの島である
こと等)をお話しすると初対面にもかかわらず非常に丁
寧に話を聞いて頂き、本来なら、出店業者さんの選定
等すべて終わっており最終の詰め作業に入っていると
ころながら、今回遠方よりのオファーでもあり、また業態
も大手さん(コカコーラとか)に比べかなり個性的なので、
特例として許可しましょうと言って頂きました。商談時刻
も約束の2時間前であったにも関わらず、偶然にもその
時刻の業者さんが来なかったので繰り上げて商談頂き、
有難い結果となりました。ご親切なDさんには感謝の言
葉もありません。
鈴鹿サーキットF1売店2
出店の仮店舗イメージはこのようなものだと思いますが、
当日はこのようなブースがコースのいたるところにずらり
と並ぶので、さしずめF1村B級グルメ大会といった感じで
しょうか。しかし一日10万人以上の観客の胃袋を満たす
のは並大抵ではないと思いますが、販売はもちろんのこ
と事故やクレームのないよう万全を尽くさねばなりません。
希望の島パネル(WT)
さて何を売るかですが、前回はみかんだけだったため
悔しい思いをした訳で、今回は念願の自家製ジュースを
主体にみかんやスイーツのいよかんマドレーヌを販売し
ようと思います。
また、鈴鹿に行かれた方、特に野宿のご経験者はよくご
存知でしょうが、鈴鹿は意外に寒いのです。したがって
ホットはちみつレモンなどもよく売れるかもわかりません。
IMG_3101.jpg
最悪の結果を想定していたので、出店の許可を頂いた
ことは望外の喜びであり、時間も早く終えることが出来
たので、鈴鹿サーキットを親子連れでゆっくり見学する
ことにしました。TVではよく拝見するものの実物は大迫
力で、この18年の間に随分場内の整備がされ、タバコ
屋が学生時代に行った時の草深いイメージやアイルトン
・セナがHONDA-F1マシンで所狭しと走り回った頃と比
べても格段に洗練されていました。さすがは世界屈指の
鈴鹿インターナショナル・レーシングコースです。
IMG_3109.jpg
皆さんご存知のように、メインストレートは左進行方向に
やや下り勾配の坂道になっていて、いくら完璧に整備さ
れているF1と言えどもここを時速300km以上で走り抜け
るには、かなりの度胸がいると思うのはタバコ屋だけで
しょうか。
IMG_3103.jpg
倅のマー君は初めての訪問ながら比較的冷静に振舞っ
ていました。案内役のタバコ屋は逆に、なつかしさとサー
キットの立派な変身ぶりにオロオロするばかりでした。
IMG_3131.jpg
F1ドライバー達が鈴鹿を好きな理由の一つに上げるの
がこのS字コーナーでしょうか。観戦側もこの場所は非
常に見ごたえがあり、よく陣取って見たものでしたが、
それにしてもあちこち随分きれいになりました。ちなみに
ここはグランドスタンドの真反対の場所で、ここまで来る
のも結構大変です。担当のDさんから指定された「希望
の島」出店の場所はここから左手方向にある立体交差
という場所で、鈴鹿サーキットでも最も特徴的な、レーシ
ングコースが立体交差するという場所でした。
立体交差1
コース一周が5km以上もある広大な場所ゆえ、移動にも
骨が折れ、そこへ行けないことはなかったのですが、帰
りのバスの時間も迫りつつあり、またこの日はすでに歩
きくたびれていたので、その地点まで行くのは断念する
ことしました。
IMG_3105.jpg
サーキット入口の案内ボードも以前はショボイ感じのも
のでしたがトテモ立派に作り替えられていました。
IMG_3112.jpg
鈴鹿はおおまかに言うと遊園地部分とホテル部分及び
サーキット部分から出来ており、F1観戦にはチケット持
参でこのゲートを通過する必要があります。この日は平
日なのでフリーでした。
IMG_3127.jpg
出口から逆に入口の方をご説明するような手順になりま
したが、実はこの通路をくぐらないとサーキットゲートに
は行けません。
IMG_3115.jpg
タバコ屋がかつて島のみかんを売らせて頂いたなつかし
いジョイフル広場です。ほとんど様変わりしている中で
この広場のタイルだけは当時のままでした。もちろん補
修はされていると思います。
IMG_3139.jpg
もうすぐ正面ゲートなのですが、その途中言ってみれば
「表参道」にあるショップです。今回はパッとしませんで
したが、当時はここにHONDA-F1グッズはもちろんマク
ラーレン他多数のチームグッズが並べられて飛ぶよう
に売れていました。

今でも思い出しますが、当時遊び方々一緒に来てお手
伝い頂いた松山のペンネームそろばん氏はザウバー・
メルセデスのキャップがほしかったのですが、どのショッ
プも売り切れでもう観戦そっちのけで探し廻った結果や
っとの思いで見つかり目出度しとなった経緯がありまし
た。そろばん氏、その後あのキャップはどうされたのだろ
うか。確か今の彼の愛車はそのメルセデスのライバルで
オリンピックマークのようなロゴの某車なのですが・・・。
IMG_3143-2.jpg
尚、鈴鹿詣でのおみやげと言えば、F1グッズはもちろん
ですが何と言っても圧倒的に売れるのはスイーツです。
先般スイーツの記事でご紹介した、仙台の萩の月のパ
クリ風「鈴鹿の風」です。
20年前から売られている、鈴鹿のベストセラーだと思う
のですが、フツーの品でも20年売れ続けると一つのブ
ランドになるのではないでしょうか。一方すでに古くから
の伊勢地方ブランド品である「赤福」も売られているの
ですが、伊勢神宮とは異なり、この地では今ひとつの感
がありました。ここだけの話ですが、当然ミスマッチです
よね。
IMG_3145.jpg
そのようなことで、今浦島親子の18年ぶりの鈴鹿巡礼の
旅はご担当者Dさんのご好意により、嬉しい結末となり
ました。ただし本番はこれからなので、あまり期間もなく
さっそく準備にとりかからねばなりません。
入口近くの広場にはF1ではないですがそれ風のマシン
が飾ってありました。「語り継ぎたい走りがある」その言
葉はタバコ屋がマー君に伝えたい言葉でもありましたが、
何せケイタイ装備の万歩計が2万歩をはるかにオーバー
しており、語り伝えるどころではありませんでした。
IMG_3149.jpg
日はすでに西に傾きつつあり、行きに懲りて帰りはバス
で定石どおり近鉄白子駅に到着しました。語り伝えるよ
りも、親子共々冷たいビールの方が飲みたかったのは
言うまでもありません。


鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期

平成24年12月10日
【HONDA美酒に酔う】 【加筆版】
今はもう遠い過去のように思われるバブル景気の時代、
懐かしいコトバになりつつありますが、昭和61年(1985年)
頃から平成4年(1992年)頃にかけて、土地の投機に伴う
架空の資産上昇により発生した8年余りの異常な好景気
の時期を指します。
停滞していた日本の景気はこのバブルにより一気に活
況を呈しました。ほとんどすべての産業分野で前向きの
明るい話題が聞かれるようになり、ジャパンアズ・ナンバ
ーワンなどともてはやされ、その象徴的な出来事として、
三菱地所によるニューヨークのロックフェラーセンター
買収劇などがありました。日本中が戦後の高度成長期の
再来として、再び熱にうなされたように突き進みました。
fukatu-juliana1[1]
バブル末期にはディスコクラブ、ジュリアナ東京が出現し、
妙齢のお嬢さん方がお立ち台なるものに駆け上がり、
あられもない姿で集団乱舞するといった世紀末的ハシャギ
現象も起きたりしました。
fukatu-juliana2[1]
ボディコン、パラパラ、ジュリ扇などというキーワードが
もてはやされ言ってみれば、盆踊り現代版の年中興行
みたいなものでした。

当然オクルマ業界にもその流れは色濃く反映され、大排
気量車やスペシャリティーカーを競って発売するようにな
りました。
ニッサンシーマ
写真は初代ニッサンシーマで、成金主義的なものがもて
はやされる風潮からシーマ現象というコトバが生まれま
した。
ホンダプレリュード3
三代目プレリュードです。当時のホンダのドル箱車種とし
て、機能や性能よりもムードを重視したスペシャリティー
カーですが、別名デートカーとも言われ、当時の若者に
支持されました。
フェラーリテスタロッサ カウンタック
また我々一般庶民とは縁のないものであった、スーパー
カーがもてはやされ、各種のイベントの目玉になったり、
マンガなどにも連載されスーパーカーブームというのが
起きました。
写真はフェラーリ・テスタロッサとランボルギーニ・カウン
タックです。浮世離れしたしろものですが、当時は何故か
大人気でした。
今回はそのことがテーマではないのですが、時代背景
として、山本リンダさんの歌の如く、もうどうにも止まらな
という一つの大きなうねりのようなものがありました。
山本リンダ
山本リンダさんです。比較的優しいお顔のものを掲載し
ました。タバコ屋の同級生でもあり、けばいメイクのもの
は載せたくなかったのです。同級生といってもクラスメイト
でもないのに何故か親しみがあって、夏目雅子ちゃんに
見つめられた程はクラッと来ませんが、なるべく自然に
近いものを選びました。

それはさておき、HONDA-F1のお話です。
バブル時代より少し前の昭和57年(1982年)頃HONDA
は密かにF1復帰を目論みつつありました。F1エンジン
の規格が1.5Lターボとなったため、その頃ターボの研究
を進めていたHONDAは今が復帰のチャンスと判断しま
した。
昭和58年になり、まずスピリットチームにエンジンを提供
しF1復帰、様子を見た後、まもなくウイリアムズチームに
本格供給を開始し、翌59年にはアメリカGPで復帰後初の
優勝を飾りました。快進撃が始まったのは翌昭和60年
(1985年)からで、F1のプロ、ウイリアムズチームと本格
的に組むことでHONDAエンジンはその実力を発揮出来
るようになりました。
F1ウイリアムズホンダFW11-2
いきなりの写真ですが、HONDA快進撃の元になったF1
マシン、ウイリアムズFW11です。プロが作ったマシンだ
けあって、非常に軽量で、当時研究が進みつつあった
高速走行中の空気抵抗を利用してボディを地面に押し
付け(ダウンフォース)安定を良くするデザインがされて
おり、外観はずんぐりしていますが速さはトップクラスの
実力を持っていました。
事実このマシンによりHONDAがF1に復帰して4年目の
昭和61年、待望のコンストラクターズ(車体メーカー)
チャンピオンを獲得することが出来ました。
結局ウイリアムズFW11は、翌年の昭和62年(1987年)
鈴鹿F1-GPが開催された年にも鈴鹿ではフェラーリに
優勝をさらわれたものの、年間チャンピオンとなり、
HONDAにとっても鈴鹿への誇らしい凱旋となりました。

余談ながら、タバコ屋はこのややイルカにも似た丸っこい
デザインが歴代のHONDA-F1マシンの中で一番好きでし
た。冷徹なF1の世界にあって、何か愛嬌があるというか
ぬくもりを感じませんか。
HONDARA166(V6)-1.jpg
それに搭載されたエンジンはHONDA-RA166で、仕様は
1.5L-V6DOHCターボチャージャー付きでした。ターボチャ
ージャーとはわかりやすく言えば、排気ガスの圧力を利用
して強制的に燃料を送り込み、性能を向上させる装置で、
写真右下のカタツムリのような格好をしたものです。
それに対し、スーパーチャージャーという装置もありこれ
は排気ガスでなくクランクシャフトの動力を利用してター
ボチャージャーと同様の効果を狙うものです。いずれも
元を正せば航空機のエンジン技術から来ています。
尚、写真右方向が車体前方になります。

ターボチャージャーがどのくらいの効果があるかというと
通常1.5L-V6エンジンですと、良くて150馬力程度なので
すが、それが800馬力くらいまでアップするのです。
最終的には1,000馬力前後まで改良されたという話です。
馬1,000頭分とは恐ろしいほどのパワーですよね。
F1Dナイジェルマンセル F1Dネルソンピケ
その暴れ馬を乗りこなしたのはナイジェル・マンセルと
ネルソン・ピケでした。彼らは期待に応え、車体メーカー
(コンストラクターズ)チャンピオンとドライバーズチャンピ
オンの両方を獲得しました。
速いのはマンセルでしたが、彼は瞬間湯沸し器のあだ名
があり、ムラがあるので、冷静なピケの方がチャンピオン
となりました。

昭和62年(1987年)になると、日本のフジテレビがレース
の中継放送を開始、そしていよいよ鈴鹿サーキットに於
いて初めてのF1レースが開催されることとなったのです。
鈴鹿サーキット全体図
広大な鈴鹿サーキットの全体写真です。中央横方向が
メインストレートで、メインスタンド前を左へスタートし、
第一コーナー、S字、デグナー、ヘアピン、スプーン、
西ストレート、130R、シケインと続きメインストレートに
戻ってきます。コース全長5km余りで、世界のサーキッ
トの中でも有数のハイスピード・テクニカルコースとして
F1ドライバーからも高い評価を得ています。
ついでながら、HONDA鈴鹿製作所は写真左手山側を
もう少し行ったところにあります。
アコード・レジェンド
突然の写真で恐縮すがこれはタバコ屋のかつての愛車
アコード・ハッチバックと初代レジェンドが仲良く写ってい
るところです。納車時に写したものと思われます。
その当時、HONDAにはよく出入りしていました。ある日の
ことです。HONDAディーラーの店長殿が、一枚のチケット
を見せて、今度、鈴鹿で始めてF1レースがあるのでご招
待致しますが、お時間あれば行ってみませんか・・・・。
元同志社大学自動車部としては、据え膳食わぬは・・・で
断る手はありません。さっそく承諾し、思わぬ形での鈴鹿
詣でとなりました。
S63第2回F1日本GP3 S63第2回F1日本GP4
久しぶりの鈴鹿は懐かしいやら、人が多いやら、やかま
しいやら(その爆音はサーキットの数キロ先からもろに
響き、現地では耳をつんざくようなサウンドでその迫力
に正直ビビリました)
タバコ屋が学生時代の頃から比べると大分整備されて
きていましたが、まだ当時は急ごしらえの感じで、トイレ
というトイレはある種の黄色い物体がてんこ盛りといった
加減で、大混乱でした。
1日に10万人も押し寄せたらそりゃ~仕方のないことか
も知れません。仕事の出張の帰りに立ち寄ったので、
勝手がわからずうろうろしているうちにあっというまに終
わってしまった印象があります。何しろ見る場所を変えよ
うと移動するだけでも数十分はかかってしまうのです。
来年からは泊りがけで2日は滞在しないとろくに観戦出
来ないことがわかりました。
尚、瞬間湯沸し器のあだ名を持つマンセルは、予想通り
というかオーバースピードでスプーンカーブに突っ込み
コースアウトしてタイヤバリアーへクラッシュ、その後
ヘリで病院に緊急搬送されるという一幕もありました。
凱旋レースのはずだったHONDAにしては残念ながら、
優勝はフェラーリのベルガーだったと記憶しています。
S63第2回F1日本GP1
翌年の鈴鹿スプーンカーブ付近です。実はこの年から
ガラリと体制が変わり、ウイリアムズとの契約を解消し、
新たにマクラーレンと契約、また前年からロータスとも
契約していたので、HONDAは新たにマクラーレンとロー
タスの2チームにエンジン供給をすることになりました。
F1マクラーレンホンダMP4・4-1
マクラーレンMP4/4です。エンジンはウイリアムズ時代
と同じHONDA-RA166(1.5L-DOHC・V6ターボ)でしたが、
シャシー性能及びバランスがウイリアムズに比べて一段
と優れ、何と全16戦中15戦優勝という驚異的なパワーを
見せつけ、この頃からHONDA以外のエンジンではF1で
勝てないと言われるまでになりました。
空前絶後、HONDA-F1が絶頂期を極めたマシンです。
F1マクラーレンホンダMP4・4-3
このマクラーレンMP4/4は、HONDAのF1参戦史上最も
勝利に貢献したマシンとして長く歴史に名を留めることと
なりましたが、ドライバーはロータスから移籍した若き
ブラジルのエース、アイルトン・セナと世界チャンピオン
のアラン・プロストで2人の天才ドライバーは天才なるが
ゆえにその後レースごとに激しい確執を起こすことにな
ります。
F1ロータスホンダ99T-4
ロータス99Tです。エンジンはマクラーレンと同じHONDA
-1.5LV6ターボで、ウイリアムズに次ぐ速さを見せ、2回
の優勝と多くの入賞を果たしました。左右ラジエターの
上にある突起がターボエンジンンの空気取入れ口です。
F1D中島悟1 F1D中島悟2
話題は何と言っても日本人初のF1ドライバー中嶋悟を
起用したことで、もう一人は当初アイルトン・セナでした
が、ロータス2回の優勝はセナによってもたらされたもの
でした。しかしセナがマクラーレンへ移籍したため
ネルソン・ピケが中嶋のパートナーとなりました。
当時雨の中嶋と言われて雨天のレースでは抜群の速さ
だったのを憶えています。
F1マクラーレンホンダMP4・5B-2
F1の主催者側としてはマクラーレン・ホンダの一人勝ち
を阻止するためエンジン規定を変更、ターボを禁止し
自然吸気3.5Lエンジンとしました。それに合わせて開発
されたのがマクラーレンMP4/5で、依然としてトップの
競争力を持っていました。マクラーレンというF1のプロは
手堅いメーカーで、いきなりメカをがらりと変えたりせず、
良いところは残し、最低限の変更に留めました。
その結果、実戦向きの競争力あるマシンとなるのですが、
かつてHONDAが空冷のRA302を開発した時とは正反対
の手堅い手法でした。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと VOL.3:混迷期参照
願います)

セナ、プロストという天才ドライバーに恵まれたせいもあ
るでしょうが、主催者の意図に反して前年ほどではない
にしろ、またしても勝ち続けるという結果になりました。

後日談ですが、HONDAは結局その後ずっとマクラーレン
と組み通算69勝というF1史上空前の成績を残すことに
なります。
またHONDAはウイリアムズ及びマクラーレンとペアを組
んで以来、6年間ものあいだ、(ウイリアムズで2年、マク
ラーレンで4年)F1チャンピオンとして君臨しました。
F1のエンジン規定でターボが禁止となり自然吸気の3.5L
になった主な原因はHONDAが勝ちすぎたせいでしたが、
規定を変えてもHONDAの快進撃は留まる所を知らない
かのようでした。
HONDARA109(V10)-2.jpg
マクラーレンMP4/5に搭載されたHONDA-RA109エンジン
です。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V10でターボよりも
馬力は劣るものの使いやすい実戦向きエンジンでした。
HONDAの特徴は他のメーカーに先駆けて燃焼をコンピュ
ータ制御する技術が優れていたことで、プログラム数値を
変えるだけですぐに仕様変更が出来、このことが常勝の
一因であったと言われています。つまり現場のメカニック
はキカイ屋さんでなくコンピュータ屋さんが巾をきかせて
いたという訳です。

余談ですが、奇遇ながらタバコ屋の親戚の子がHONDA
-F1チームに入っていて、そのコンピュータ制御をやって
いました。今から思えばセナのサインでも貰っておけば
良かったと後悔しきりです。
F1マクラーレンホンダMP4・5-1
マクラーレンMP4/5で力走中のアイルトン・セナです。
やがてセナとプロストの確執は決定的となり、プロスト
はフェラーリに移籍、新たにセナとベルガーのコンビで
戦うことになりました。
F1Dアイルトンセナ-1 F1Dゲルハルトベルガー-1
言わずと知れたセナとベルガーです。その後このコンビ
はHONDAが撤退するまで仲良く続くことになります。
ちなみに2人の胸のワッペンはスポンサーロゴでマルボ
ロはタバコ、シェルは石油でおわかりかと思いますが、
BOSSというのはドイツのメンズファッションメーカーの
ロゴでこの頃から日本でもレイトンハウスとか、バブル
時代に流行ったアパレルメーカーがスポンサーになり
つつありました。
HONDAF1チームロゴ
ちなみに当時のHONDA-F1チームのロゴマークですが
時代を感じさせます。
F1マクラーレンホンダMP4・6-1
そのうち他のチームもHONDAのコンピュータシステムを
真似る等必死の努力で力を付けつつあり、以前のように
圧倒的なパワーの差がなくなり、簡単には勝てなくなって
きていました。
そこで新たに投入されたのがマクラーレンMP4/6で、ボデ
ィはともかくエンジンの主な改良点はそれまでのV10から
V12へと変更され、パワーアップを狙ったものでした。
HONDARA121(V12)-1.jpg
更なるパワーアップのため開発されたHONDA-RA121
エンジンです。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V12で
ぜい肉を落とし性能のみを追及したそのエンジンは本
物の持つ機能美を感じますが、事実過去のHONDA-F1
自然吸気エンジンの中で最も美しくパワフルなもので、
世界一の実力を如何なく発揮しました。
F1マクラーレンホンダMP4・7-1
その後、おもにボディーの空力面に改良が重ねられ
マクラーレンMP4/7となります。ノーズの形状がやや盛
り上がったようになっているのがおわかりでしょうか。
しかし他チームの力が接近してきたこともあってアイル
トン・セナの卓越したドライビングをもってしても期待した
ほどの成績を挙げることが出来なくなってきました。
HONDARA121(V12)-2.jpg
もちろん原因は他にもいろいろあったでしょうが、美しい
ながらも見るからに重くなったエンジンの重量増が負担
になったことは想像され、以前も重量というトラウマで
苦労したHONDAでしたが、またもや同様の苦しみを味
わうこととなりました。
(後日調べ:V10よりV12のほうが重くなったというのは
タバコ屋の勘違いで実際は5kgも軽量化し馬力は数十
馬力アップさせていました。常勝が難しくなったのは他
のチームがエンジンでは勝てないのでボディの空力等
を改善し速くなり、片やマクラーレンはHONDAの強力な
エンジンに頼ってボディの改善があまり出来てなかった
と言うのが真相のようです。)

結局HONDAはそれ以降勝つことが難しくなり、当初の
参戦目的は達したことと、またバブルの崩壊に伴う本体
の業績悪化等もあって、その年、平成4年(1992年)を
もってF1から撤退することになりました。
ちなみに最終年度は旧知のウイリアムズ・ルノーが
チャンピオンとなりマクラーレンHONDAは2位に終わり
ました。
HONDAマクラーレンスタッフ写真
HONDAとマクラーレンのチームスタッフです。ラリーも
そうですが、F1も動くシカケ付き総合格闘技みたいなも
ので、その陰では大変な人数の人達が影で支えている
のです。
前に座っているのは左から、アイルトン・セナ、マクラー
レン総帥ロン・デニス、ゲルハルト・ベルガーです。

余談ですが、当時セナ個人のスポンサーにはブラジル
の国営銀行がついていました。日本銀行がスポンサー
になるようなもので、すごいと思いませんか。タバコ屋
なんか銀行からスポンサー料貰うどころか、返すべき
お金が沢山あるのですからえらい違いです。
ついでながら中嶋悟はHONDAがメインスポンサーでした。
これもすごいことです。同じナカジマでも中島のタバコ屋
なんかHONDAから鈴鹿F1-GPの招待チケット1回もらっ
たきりですから。
鈴鹿F1GP
鈴鹿サーキットに話を戻します。
多分平成3年の鈴鹿F1-GPスタートシーンです。先頭
2台がマクラーレンHONDA、右後ろ2台がウイリアムズ
・ルノー、左後ろ2台がフェラーリで、当時の力関係を
端的に表しています。
鈴鹿はスタートから第一コーナーまでやや下り坂になっ
ていて各車フル加速で雪崩れ込むのですが、たいてい
は行き場を失う車が出てきて第一コーナーでクラッシュ、
リタイアするケースが毎回ありました。
そんなに焦らなくてもと思いますが、彼らも10万人以上
が見ている中ですので、目一杯やるのでしょう。
ベンハー1
いきなりの写真で恐縮です。これはタバコ屋がまだ小学
生の頃、昭和34年封切り映画「ベンハー」のスチール写
真です。
6年半の製作期間と54億円の巨費を投じて描いた一大
スペクタクル映画で、世界的大ヒットとなった作品です。
アカデミー賞史上最多の11部門受賞し主演のチャール
トン・ヘストンは一躍トップスターとなりました。

あら筋をかいつまんで言いますと、時はローマ時代、
キリストが誕生した頃のエルサレムを舞台に迫害され
つつあったユダヤの豪族の息子ベン・ハーの数奇な運
命を通してローマの圧政とキリストの最期を描いた長
編ですが、鈴鹿F1-GPのスタートシーンを見るにつけ、
映画の中で出てくるあまりにも有名な戦車競技のシーン
が何故か思い出されます。
ベンハー2
ベンハーと旧友で宿敵のメッサラの一騎打ちのシーン
です。メッサラは車輪にのこぎり付けたりして悪どいやり
方で勝とうとするのですが、最後は競り負け自滅して
クラッシュという結果だったように憶えています。
当時はロールバーもエアバッグもありませんからメッサラ
はそれで命を落とすことになるのですが・・・。

はるかローマ時代から人間は競争しなければ気が済ま
ない生き物だったのでしょう。またスチール写真にもあり
ますが、それを熱狂したローマ市民達が鈴なりで観戦す
るという図式も何やら鈴鹿F1-GPと重なるものがあるよう
に思います。
H1第3回F1日本GP2
その第一コーナーです。先頭を行くマクラーレンHONDA
の2台に続き後続の各車が殺到しています。もつれあっ
てマシンを破損するか、右手のエスケープゾーンにはじ
き出されてリタイアする等、スタート早々、このコーナー
が修羅場に成り果てるという場面です。

多分ここでは目一杯ブレーキングするのでカーボン製の
ディスクブレーキが焼けた匂いだと思うのですが強烈な
カーバイドのような匂いがあたりに充満していたのを覚え
ています。これがF1の匂いだと思いました。
H2第4回F1日本GP2
只今、アイルトンセナがHONDAと日本の期待を一身に
背負ってトップを力走中ですが、注目頂きたいのは観客
席の人の多さです。10万人を超える観客が一ヶ所に集ま
って暴動が起きないのは日本だけだそうで、世界一マナ
ーの良い国でもあります。
場内のスピーカーからは、今ではTV報道ステーションの
キャスターとなった古館伊知郎さんが独特のプロレス実
況風のしゃべり方で興奮を煽っていたのが懐かしいです。
鈴鹿サーキットTV
一般の観客席でレースが見えずらい場所には数ヶ所、
巨大なTVスクリーンが設置されていました。見えにくいと
思いますがセナが鈴鹿で初めて優勝しトロフィーを掲げ
ているシーンです。
H4第6回F1日本GP3
平成4年HONDAがV12エンジンで挑んだ最後の年の写
真です。旗には「吼えろホンダV12、必ず帰ってこい」と
書かれていますが、それにはまた10年近く待たねばなり
ませんでした。
本田宗一郎とセナ
多分セナを招いての歓迎パーティか何かの席だと思うの
ですが、F1で絶頂を極めることは、宗一郎氏にとっても
セナにとっても夢だったと思うのです。至福の時を迎えた
2人のツーショットです。この日のシャンパンの味は格別
だったに違いありません。

話はうんと飛びます。
当時タバコ屋は島の特産品であるみかんを販売する事業
を始めていました。元がショウバイ人なので、F1を見に行く
だけでは面白くない、3日間にわたり1日10万以上の人が
押し寄せる場所で、みかんを売ることが出来ないものかと
考えていました。F1観戦に懲りもせず7年程通った後の
ある日のこと、行きつけのHONDAディーラー店長殿に
そのことを相談すると、それは島のためにも絶好の宣伝
機会だから応援したいと言うことで、さっそく鈴鹿サーキッ
トの施設購買課に掛け合ってくれました。
結果は面談したいのでサーキットまでお越し下さいという
ことでした。
H6鈴鹿サーキットホテル
喜び勇んだタバコ屋が愛車2代目レジェンドで鈴鹿サー
キットホテルに出向いた時の写真です。ここは現地を
知る意味でも一泊してから面談に臨むためでした。
生まれて初めてプレゼンなるものをやった訳ですが、
結果は大成功、GPの3日間、サーキット内の特設テント
でみかんの販売をさせてもらうことになりました。

どうでもよいことですが、敏感な読者は私の愛車レジェ
ンドの色が、他の記事でご紹介したものと違っているの
に気付かれたと思います。当初はガンメタとシルバー
グレイのツートンカラーでした。後年その上部のみを
シルバーに塗り替えたのです。尚、ホイールは店長殿
のご好意で特別にクーペ用を装着しています。
H7第9回F1日本GP3
念願かなった鈴鹿サーキットでのショウバイ、その場内
の賑わいです。
この頃になるとトイレも整備され、異様な物体のてんこ
盛りもかなり解消されてきていました。
ちなみに3日間で全国から延べ40万人近くの若者が(一
部高齢者も)この人里離れた鈴鹿に集まるという異常な
現象は当時の社会評論家も首をかしげる程で、一種の
現代版お伊勢参りとも言えるものでした。また見方を変
えると行政や公共輸送機関、地域の各種サービス業も
巻き込んだ巨大な村おこしでもありました。
H7第9回F1日本GP7
右手正面ゲートからサーキットに至る通路です。左側の
ストライプ柄テントがタバコ屋の陣取った特設売り場です。
サーキット側も遠方から売りに来たということで気を使い、
人通りの最も多い場所に設置してくれました。
今でも思い出すと有難いです。
H6第8回F1日本GP4
丁度11月の初めだったので早生みかんを販売しました。
業者さんも、ものすごい数で負けないように声を涸らして
の販売です。
H6第8回F1日本GP3
サーキット側が地元女子学生のアルバイトさんを用意
してくれて試食販売と相成りました。皆さん一般席の席
取りに必死で、みかんどころではないといった表情です。
自分も経験しているのでそのことはよくわかりました。
あの時のバイトのお嬢さんたち、今はもういい年のはず
ですがどうしているんだろう。
H7第9回F1日本GP1
翌年も販売を許可して頂き同じ場所に出店しました。
お買い上げ第一号となった、京都から来られた仲良しお
嬢さんです。エ~鈴鹿の社員さんか思ったけど愛媛から
来はったん、おいしそうやから一袋買わしてもらいますわ、
ということで記念すべき2ショットとなりました。
H7第9回F1日本GP6
この年はサーキットの売店前にも置かせて頂き、販売増
加を図りました。左手の飛ぶように売れているお弁当の
横に置いて、関連販売を図ろうというものです。スーパー
ではよくやる手法です。一緒に観戦に行った、タバコ屋の
友人で、松山の某会計事務所にお勤めのU氏がボランテ
ィアでお手伝い頂きました。
彼は到着した時から3日間、宿泊は業者さん用の無料簡
易宿泊所に同宿し3度の食事も一緒で、まるで大学時代
の合宿を再現したようなものでした。
ちなみにU氏はザウバーメルセデスチームの帽子がほし
くて、サーキット内あちこちのF1ショップを探しまくりやっと
見つけて購入、得意げに被っている一コマです。
蛇足ながらこの年はHONDAがすでに撤退しており宗一郎
氏の息子さんである博俊さん率いる無限が後を引き受け
引き続き参戦し、優秀な成績を挙げつつありました。
H7第9回F1日本GP4
忙中閑ありの1シーンです。タバコ屋もフードキャップ着用
にて戦闘態勢です。後ろ正面は上の写真のU氏、右は同
じく友人で取引先のA氏です。2人ともボランティアでよく
お手伝い頂きました。今でも感謝で一杯です。

総括と言いますか、この大遠征は、鈴鹿サーキットのご
好意で一定の成果を収めたのでしたが、ショックだったの
は隣に出店していたグレープフルーツの手絞りジュース
をカップで販売していた店でした。当方は声を涸らして
販売を試みたのに対し、そのジュース屋さんは長い行列
が出来ていたのです。お客さんに聞きました。そしたら
みかんは皮を剥かんならんし邪魔くさいけどジュースや
ったら簡単に飲めますやんか~。
カルチャーショックでした。そうかそれで長い行列が・・・。

タバコ屋が自前のジュース工場を作ろうと思ったのはこの
時かも知れません。事業の動機って案外そんなものじゃ
ないでしょうか。

ちなみに鈴鹿サーキットでお祭り期間中に何が売れたか
というと、タバコ屋の勝手な推測によれば以下のような
ものです。
1.F1グッズ・・・HONDAを中心にF1チームのキャップ、
キーホルダー、ワッペン、ブルゾン、その他諸々
2.F1公式プログラムブック・・・F1各チームの紹介や
鈴鹿サーキットの案内、各種読み物満載のガイドブック。
(有料で、確か2,000円でした。メチャ高か~)
3.お弁当、お菓子、飲み物類
(希望の島みかんも若干の売り上げには貢献しました)
4.レストラン、ファーストフード(洋風屋台)関係
5.おみやげ類(売れ筋ランキング)
 1.鈴鹿サーキットサブレ・・何の変哲もないしろもの
   でしたが、名前入りだったのでそれこそ飛ぶように
   売れていました。まあ羽田空港の東京バナナ程で
   はないでしょうが面白いほど売れるというのはあの
   ことでしょう。
  2.赤福餅・・伊勢市の老舗赤福が作っているお餅を
   あんこでくるんだもので本来はお伊勢参りのお土
   産なのでしょうが現代版お伊勢神社でも大人気で
   した。もっともずっと後になって消費期限の不正表
   示等で大問題を起こしてしまった会社ですが、何で
   も売れないのも困りますが、売れすぎるのもよくな
   いのです。

島のタバコ屋はこういう時に何が売れて皆がどのような
買い方をするのかについて、またどういうサービス体制
をとるべきか等々、大学の眠い講義でなく、緊張した実
戦の中で多くのものを学ばせて頂きました。
鈴鹿サーキットの施設購買課さんには感謝あるのみです。
それとHONDAディーラーの店長殿にも。
H7第9回F1日本GP8
突然ですがF1マシンを展示した1枚の写真です。マシン
は第一回目の鈴鹿F1-GPにおいてゲルハルト・ベルガー
のドライブにより優勝したフェラーリF187です。

注目して頂きたいのは左正面に写っている白い箱です。
見にくいですが、箱には希望の島と書かれています。
そうなんです、当時タバコ屋が特産みかんの販売を始め
るにあたってネーミングしたブランド名なのです。何故ここ
にあるのでしょうか。種明かしは実のところキャンペーン
ガールさんに持ってもらって撮影しようとセコい考えで行っ
たところすごい人だかりで断念し、売り場に帰ろうとしたと
ころ、このブースが目に留まりガードマンさんがよそ見を
している数秒間に貴重な秘密撮影をしたと言う訳です。

この写真はタバコ屋の宣伝に使った訳でもなく、単なる
思い出として撮ったものなので、時効でもありフェラーリ
さんも許してくれると思ったので掲載致しました。ガード
マンさんすみません。しかしよくそんな悪さをするヒマが
あったものです。
鈴鹿キャンペーンガール
タバコ屋の目的を達せなかったそのキャンペーンガール
嬢です。同行した友人のAさんは人だかりを巧みに切り抜
けうまいこと撮影に成功しました。それにしてもお嬢さん
のお衣装の切込みが半端でないのは時代のせいだった
のでしょうか。
老婆心ながらかなり寒い時期だったので仕事とはいえ
忍耐が必要だったと思います。

こうして苦しくも楽しい2年間の鈴鹿サーキットみかん販
売は無事終了しました。3年目はどうだったのか・・・。
同じことはなかなか続かないものです。その頃HONDAは
栃木県に新しいツインリンクもてぎを建設していました。
これはF1とは異なるアメリカのインディカーシリーズに対
応出来るサーキットでした。またそこに鈴鹿コレクション
ホールと施設購買課が移転集約されることになったの
です。従って商談は栃木県まで行かねばならずタバコ屋
もこれには尻込みしてしまい、それ頃となりました。
継続出来ていれば、品揃えの改善や自家製のジュース
等も持ち込めたのにと思い、残念でしたが程なくバブルも
終焉しF1もそれにつれて一時のような勢いは失われてい
きました。一つの時代が終わったと言うことでした。

このF1ブームとも言える過去の出来事は、HONDAがわざ
とやったことではなく、夢中でF1に挑戦し、鈴鹿サーキット
という巨大な舞台装置を準備したことで、時代の風潮が
それに乗っかった訳で、現代版お伊勢参り、ひいては
日本一の村おこしが実現したということでしょう。

まったくの余談ですが、その頃流通業界では総合スーパ
ーが全国へ出店競争を繰り広げ、ダイエー、ヨーカドー、
ジャスコ、ユニー、ニチイ(マイカル)、セイユー等が主に
新しい業態開発をすることで優位に立とうとしていました。

当時タバコ屋はニチイの主導するボランタリーチェーンに
加盟していたのですが、ニチイはマイカルと社名を変え、
サティ、ビブレ等の業態開発を進め、横浜本牧で巨大複
合タウン開発を行う等その投資は当時の日産自動車に
匹敵する規模で、タバコ屋レベルで見ると恐ろしいような
やり方でした。しかしそれはやはりバブルだったのです。
やがてマイカルは破綻し、イオンに吸収され、タバコ屋は
新しい道を模索することとなりました。

当時話題になりつつあったのがホームセンターで全国は
もとより愛媛県でもダイキさんがディックという店名で展
開を始めつつありました。そこでタバコ屋は紆余曲折の
末、島で初めてのホームセンターを開設したのですが、
奇しくもそれはバブル経済が破綻しHONDAがF1を撤退
した翌年の平成5年(1993年)の出来事でした。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

今回は鈴鹿サーキットにまつわるさまざまな思い出を書
き綴るうちに相当長いものになってしまいました。
最後までお読み頂き感謝致します。まだ書き足したいこ
ともありますがまたいつかの機会とし、鈴鹿サーキット
シリーズ4部作はとりあえず完結とさせて頂きます。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
鈴鹿サーキット発行の各年度F1-GP公式プログラムブッ
クより引用 させて頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期

平成24年11月26日
【HONDAの挫折と苦悩】
ジョンサーティースによりF1-GP2勝目を挙げたHONDA
は翌昭和43年、新たにローラ社とシャシーを共同開発し
たRA301を投入しました。当時HONDA-F1マシンの最高
傑作と言われましたが、やはり車重が重く世界の強豪
揃いの実戦ではなかなか十分な成果が得られません
でした。一旦車重は軽くなったのに、何故再び重くした
のか分かりませんが、パワーへの過信があったのでは
ないでしょうか。
HONDARA301-2
車重のハンデはあったものの、基本的には非常にまとま
りの良いマシンで中村監督とサーティースの必死の努力
により、優勝を狙えるイイ線まで熟成が進められていまし
た。歴史にイフはないものの、多分このまま改良を重ねて
いれば確実に世界チャンピオンを獲得出来たマシンであ
ったと思います。

しかし2輪のGPで圧倒的な実績を持つ宗一郎氏は、F1
でのもたつきに苛立ちがあったと思います。またエンジン
以外をほとんどイギリスで別個に改良していた中村良夫
監督と意見が合っていなかったのかも知れませんが、
HONDAは宗一郎氏の肝いりで、これとは全く別に100%
本社製のRA302というマシンを開発しつつありました。
HONDARA302
とにかく重くてどうしても勝てないという呪縛から逃れる
ために、HONDAは思い切った手段を取りました。
V12エンジンはV8に、冷却は水冷をやめ自然空冷としま
した。ポルシェがファンを使った強制空冷方式を採用して
いましたが、自然空冷というのは前代未聞でした。また
シャシーは思い切って小さくした結果、劇的なダイエット
に成功しました。
かえって軽く小さくなりすぎて可愛く感じるほどでしたが、
実際は大きな問題を抱えており、自然空冷で冷却がうま
くいくのかと言うことと、前端部のラジエターがなくなった
ことでシャシーがコンパクトになった反面、ドライバーの
位置が極端に前寄りとなり運転しずらかったこと、また
それによりマシンの前後重量バランスが崩れたことによ
る挙動の不安定さが挙げられます。
素人考えでも、あのコクピット位置で外気にさらされなが
ら時速300km近くで走るなど、恐ろしい世界ですが、いく
らプロでも、いやサーティースのような一流のプロだから
こそ、ヤバイと思ったんではないでしょうか。

現場の中村監督とサーティースはRA302をいきなり投入
することには大反対でしたが、宗一郎氏の苛立ちもあっ
たのか、強行出場させることに決まりました。中村監督
の立場とすれば戦闘力がなく危険なマシンを出走させる
ことは出来ず本社の意向を拒否、その結果急遽別個の
二つのチームがGPを戦うという変則的な事態となり、
中村氏と宗一郎氏の確執が深まるとともに現場の空気
も気まずいものとなりチームの士気にも大きく影響しま
した。
HONDARA302-2
そのエンジン部分の写真です。自然空冷ということで、各
部に冷却のためのダクトやフィンが設けられ、苦心の跡
が見られます。
ここだけの話ですが、設計者の若き久米是志は自然空冷
方式には技術的に絶望していたものの、宗一郎おやじの
かたくなな主張により、抜本的な方式変更は認められず、
半ばやけくそ状態になっていたと伝えられています。

今思うに、コンパクトになったV8の冷却を水冷方式とし、
また前寄り過ぎるドライバーズシートをやや後ろにずらし
てやるか、シャシー前部をやや延ばすかするだけで、
それこそRA301が一年間存分に戦った後の後継マシン
としてF1チャンピオンを狙える革新的マシンに成り得た
であろうに、またそれなら中村監督とサーティースも大
賛成で協力してくれたであろうに、宗一郎氏のそのせっ
かちさが、タバコ屋には残念でなりません。
HONDARA302-3
その間、鈴鹿サーキットに初めてサーティースを招いて
実際にテスト走行を重ねましたが、その結果オーバーヒ
ートはどんなに工夫しても解決出来ないないことが判明
しました。
サーティースはプロのレーシングドライバーの立場から、
このマシンを実戦に投入すべきではないことを再度伝え
たようです。恐らく鈴鹿サーキットで日本最初のレーシン
グスクールを開講したポールフレール氏も、もしテスト走
行に立ち会っていれば同様の意見を述べたと思います。
それでも実戦で改良するという考えだったのか冷却問題
が未解決のままF1-GP出場となりました。
(関連記事:鈴鹿サーキット vol.2:発展期参照願います)
HONDARA302-3
写真はデビュー戦のフランスGPでのRA302で、右に写っ
ているのがドライバーのジョー・シュレッサーです。マシン
の出来は別にして非常にコンパクトであるのがよくわか
ると思います。
宗一郎氏と中村監督との確執の結果としてドライバーも
正規の契約ドライバーでなくF1未経験のシュレッサーが
急遽出場となりかなりの不安を抱えての決勝スタートで
した。
しかしやがて悲劇が起こりました。スタート間もなくRA302
はコントロールを失い土手に激突、シュレッサーが事故死
するという事件が起きたのです。事故の真相は明らかに
されていませんが、HONDAがあせってテストもろくに出来
ていないマシンを実戦に投入したことが一因であることは
間違いのないところです。
逆にサーティースのRA301は同じGPで2位に入賞したた
め、RA302を投入する必要はなかったという見方もありま
す。しかし宗一郎氏の技術者魂がそれを待てなかったの
でしょう。

それにしても2輪GPの栄光とは裏腹にHONDAは予期せ
ぬフランスGPでの大事故で大きな挫折を味わいました。
RA302は宗一郎氏自身が設計した訳ではありませんが、
その思想や意思はマシンの設計に生かされている訳で、
懲りすぎて失敗することや、せっかち過ぎて失敗する
いう宗一郎氏の一大特徴パターンが悪い面に出てしまっ
たのでした。
この事件をきっかけに、また当時社会問題化しつつあっ
た排気ガスの浄化問題の集中的な研究のためもあり、
昭和43年をもって、5年間に及んだHONDA-F1活動は
撤退休止となりました。宗一郎氏の無念はさぞかしであ
ったと思われますが、それが当時のHONDAの限界でも
ありました。
ホンダ1300-2
余談になりますが、HONDAがRA302のGP出場をあせっ
たもう一つの理由は、昭和43年当時、HONDAが初めて
開発する乗用車として間もなく発売予定だったHONDA-
1300のF1との宣伝相乗効果を狙っていたためでした。
優れた技術はシンプルでなくてはならないという宗一郎
氏の技術者としての信念から「空冷化」「前輪駆動化」が
推進されており、1300はそれを形にしたものでした。
ホンダ1300-3
エンジンはRA302とよく似た強制2重空冷方式という独
創的なもので、SOHCながらCVキャブを4連装し、横置き
前輪駆動方式を採用、当時のセダンとしては前代未聞
の凝りに凝ったメカニズムでした。
しかしエンジンが重かったため、操縦性にクセがあり一
部の熱狂的なホンダファンは別として一般には評判が悪
く、結果的には偉大なる失敗作!となりました。
経営理念の「顧客の要求に応える」というよりは、顧客の
要求を超えた懲りすぎの作品により失敗した事例であっ
たと言えます。

宗一郎氏はその信念から、空冷、前輪駆動を推進して
いましたが、確かにエンジンの露出しているバイクや熱
量の小さい小排気量の車では冷却があまり問題になら
ず、部品点数の少ない空冷や前輪駆動にした方が合理
的でメリットがあると思います。
しかしRA302のようなレーシングカーや3リッターとかの大
排気量車では熱量がハンパではなく安定して冷却出来る
水冷方式が望ましく、また大型乗用車では前後の重量配
分や操縦性の面から後輪駆動の方が優れているようです。

余談ながら、今から思うと私の愛車であったレジェンドも
V6エンジンは大満足であったにも関わらず、駆動方式は
後輪駆動にすべきであったと思います。

このHONDA1300を開発した頃から宗一郎氏の技術理念
と若手エンジニアの実務感覚にズレが生じてきており、
やがて大きな確執となり、1300の開発を最後にその後
宗一郎氏は藤澤副社長とともに電撃的引退を果たすこと
となります。
ホンダN360-2
話は前後しますが、HONDAが初めてのセダン1300を投
入する2年前、昭和42年には初めて本格的に4輪車に進
出するため比較的参入しやすかった軽のN360を発売し
ました。
もうあまりにも有名で別稿にも詳しく書いているのでここ
では詳細は省略しますが、当時の国産車としては画期的
で、スポーティで軽快な走りとオースチンミニ同様のコンセ
プトによる軽らしからぬ広いキャビン、また32万円という安
さにより当時の若者から圧倒的な支持を受け、一躍ベスト
セラーとなったのです。
ホンダN360-3
メカは横置き前輪駆動を採用、空冷2気筒SOHCエンジン
に常時噛合い式ドグミッションを組み合わせたものでバイ
クのノウハウをそのまま軽自動車に応用したものでした。
シフトもセミフロアシフトを採用しスポーティなムードを持っ
ていました。
(関連記事:荒ぶる心 vol.2:スカイライン2000GT及び
鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期参照願います)

これは想像ですが、このN360の爆発的ヒットにより自信
を深めた宗一郎氏は空冷、前輪駆動への信念を一層深
めていき、F1にまでそれを応用しようとしたところに無理
があったと思います。何とかマシンを軽くしたい、現場で
はそのことで苦しんでいる、よしこれだと思ったのですが、
現実は甘くなかったのです。

HONDAの躍進を支えたN360ではありましたが、数年後
アメリカの消費者運動家ラルフネーダー氏を中心とする
グループにN360の事故の多さから欠陥車であると訴えら
れ、長い裁判となりました。
結果的には因果関係が明白でなく疑いは晴れたのですが、
その間、N360の売れ行きは低迷し、またもやここで別の
意味での挫折を味わうこととなりました。
ホンダライフ
これらの汚名挽回のためと、マスキー法の制定による大
気汚染防止に関する法的な規制のため、HONDAは従来
のパワー主義やロマン主義から一転して現実主義へと方
向転換せざるを得なくなりました。
その第一弾として、昭和46年に発売されたのが写真の
ライフで、空冷から水冷へ、またパワーから実用性重視へ
と大きく変化したクルマでした。またこれをベースにシビッ
クが開発されることになります。
ステップバン
その間、ライフをベースに今でもユニークさを感じるステ
ップバンも発売されました。今では機能性よりも愛嬌の方
を感じます。
ホンダシビック
昭和47年、ライフを基に新しい時代のしかも世界に通用
する本格的大衆車を模索して開発されたのがシビック
でした。
当時世界の主流になりつつあった2BOXスタイルを軽以
外では国産車で初めて採用しパワーではなく機能性や
使い勝手、デザインを重視したものとなり、またもや別の
意味で世界に衝撃を与えた車でした。
以後画期的なCVCCクリーンエンジンとともにHONDAの
躍進の原動力となって行きます。
ホンダシビック2
シビック発売の前年発表翌年発売されたCVCCエンジン
です。1.5L-4気筒SOHCシングルキャブレター仕様ながら、
最大の特徴は燃焼室の横に副燃焼室を設け、薄い燃料
を効率よく燃やす仕組みを開発したことで世界一厳しかっ
たアメリカのマスキー法を自動車メーカーで初めてクリア、
一躍話題となりそのことがアメリカにおけるシビックの成
功へと繋がっていきました。

ちなみにマスキー法が制定された当時、アメリカのビッグ
3はそんな厳しい排ガス規制値は達成不可能としてその
緩和を政府に働きかけたりして大騒ぎになった時期でした。
HONDAの成功はF1での悔しさをCVCCにぶつけた執念
の結果でもありました。
ホンダシビックRS
また若者向けにはCVCCでなく生の1.2LエンジンにCV
キャブレターを2連装したスポーツタイプも用意され、
HONDAらしいスポーティな性格は受け継がれました。
同志社大学自動車部でタバコ屋の2期後輩のU君も若か
りし頃、ご愛用されていたと聞きました。多感なお年頃で
もあり、さぞかし爽快なドライビングを満喫されたと想像
致します。もっとも現在は多忙な公認会計士さんとして
日々ご活躍と伝え聞いております。
またこのブログによく登場する同期で元兵庫県警のギー
ちゃんも大学卒業後、多分初めてのお給料で買ったと
思われる、おろしたてのシビックで私のいる某所まで遊び
に来てくれた記憶があります。その心遣いが嬉しく、今で
もよく憶えています。
ホンダCB750フォア
突然ですが、皆さんよくご存知のHONDA-CB750フォア
です。
タバコ屋は4輪派だったので、恥ずかしながらスペックは
あまり知りませんが、エンジンは排気量736cc-4サイクル
SOHC並列空冷4気筒で独立した4本独立マフラーを装備
し、ディスクブレーキはあり~の、最新のダブルクレードル
をおごり~ので、当時2輪のスーパーカーであったのを憶
えています。確かその気になれば時速200kmも可能だった
夢のバイクで、おもにアメリカで爆発的なヒットとなり、それ
こそドルの雨をHONDAにもたらした立役者であったと聞い
ています。

奇しくも、CB750フォアの発売は昭和44年でHONDA-1300
の発売と同年であり、RA302で苦しんだF1を撤退した翌年
のことでした。HONDAにとっては苦しくも激動の数年間で
ありました。

4輪においては市販車でもF1でも随分失敗を重ねた宗一
郎氏でしたが元祖2輪においては宗一郎氏の技術理念
と持ち前のええカッコ好きが見事に実を結びました。

私見ながら、このシビックとCB750フォアが挫折と混迷の
中、苦しかったHONDAを立ち直らせ、次の発展の礎石と
なったと思います。皆さんのご意見はどうでしょうか・・・。

ついでの話ながら、タバコ屋はCB750フォアの白バイに
乗ったことがあるのです。元兵庫県警のギーちゃんには
叱られそうな話ですが、うそのようなホントのお話です。
(関連記事:トライアスロンと月光仮面参照願います)
本田宗一郎
将来社長となる久米氏や川本氏等、若手エンジニアの
台頭と現実的な技術提案に当初は反発し、若手との間で
深刻な確執を起こした宗一郎氏でしたが、藤澤氏の進言
もあり、やがて新しい時代の到来を悟ったのでしょう。
HONDAライフの発表、続いてシビックの発表、CVCCエン
ジンの快挙を見届けた後の昭和48年盟友だった藤澤氏
(当時副社長)とともに揃っての電撃引退となりました。
その鮮やかな引き際はなかなか出来ないことであり、
タバコ屋もその時強い衝撃を受けた記憶が今でも鮮明
に残っています。

今回も前回に引き続き鈴鹿サーキットのことよりも
HONDAのF1と四輪での苦闘記録のようになってしまいま
した。次回はいよいよ鈴鹿サーキットでの予期せぬ出来
事についてのお話が出来ると思います。お楽しみに・・・。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
単行本ワールドカーガイド29:HONDAより引用させて
頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.2:発展期

平成24年11月23日
【HONDAの飛躍】
迫り来る総ての可能性を予知して自己のテクニックの
限界を作るな
」?????一体何のことでしょうか。
この言葉は世界で最も信頼され愛されたモータージャー
ナリスト故ポール・フレール氏が残した言葉なのです。
ベルギー生まれの彼は、若いときはベルギーのバイクチャ
ンピオンを皮切りに、四輪に転じ、F1での入賞、F2での優
勝を始めフェラーリのワークスドライバーとしてルマンに優
勝するなど、目覚しい活躍をし、一流のレーシングドライバ
ーでありながら、その後はモータージャーナリストとして活
動するかたわら、世界中の自動車メーカーに的確な助言
をし、今日の自動車産業発展に貢献した類まれな人物で
ありました。
特に日本との関係が深くとりわけHONDAとは深い親交を
持ち、当時の主だった市販車には彼のアドバイスが生かさ
れたとともに、その後MAZDAにも関わり多大な影響を与え
たことはあまり知られていません。
ポールフレール1
冒頭の言葉ですが、危険と隣あわせのレーシング走行、
もしくは一般の高速走行において、周りのことを注意深く判
断して、自分のドライビングテクニックの限界以上で走行し
てはいけません。と言っているのです。
ポールフレール2
この写真は昭和44年、彼が始めて日本に招かれ鈴鹿サー
キットで開催された「ポール・フレール・レーシング・スク
ール」においてレース・ドライビングテクニックについて
日本で初めて数式を交えた理論的な解説による実戦講
義を行っているところです。
(黒板の上にスローガンのように貼ってあるのが冒頭の
言葉です)
ポールフレール3
彼がスクールで教習車として使用したのがHONDA-S800
でした。ドアパネルにはポール・フレールと大きく書かれて
います。
このクルマを使用してレーシング走行の真髄を100人の
受講生にマンツーマンで指導したと言われています。
(こんな神様に教われるんだったら島のタバコ屋も受講し
てみたかったです。ちなみにその年はタバコ屋が同志社
大学に入学した年でした)
PF4
鈴鹿のSベンドにて。ポール・フレール講師がこれから
S800で模範走行するところです。ポール・フレール氏は
サスペンションを固め、レーシングタイヤをはいただけの
S800で、このSベンドを110km/hオーバーで走り抜けた
そうです。彼の卓越した技術があったからこその模範走
行だったのでしょう。多分受講生はまずP・F先生の横に
乗せてもらい、その後自分で走行する手順だと思われま
すが、緊張した面持ちで立っていますよね。
PF5
ところでこの講習会はHONDAが企画したものではなく、
数年前から親交のあった自動車雑誌カーグラフィックの
初代編集長、小林彰太郎氏がP・F氏に依頼したところ
快く引き受けて頂いて実現したものです。
写真は初来日の際、鎌倉に立ち寄った時のものと思われ
ます。左がポ-ルフレール(P・F)氏、真ん中はスザンヌ
夫人、右が小林彰太郎氏です。
カーグラフィック(通称CG)は鈴鹿サーキットが完成した
昭和37年に創刊された日本で始めての本格的な自動車
雑誌で、それこそHONDA同様世界的視野に立った記事
内容でした。
(ただし、ヨーロッパ車ばかり褒めるので、日本やアメリカ
の自動車メーカーは気に入らなかったようです)
彼は小林エディターとは親交があり、そのCGにFROM
EUROPEと言うコラムを連載し当時のヨーロッパの最先端
情報を日本の読者に伝えていた経緯がありました。

余談ですが、タバコ屋が同志社大学に入学したその年は、
学園紛争が最も激しかった年で授業もままならない状況
でしたが、その授業の退屈さには失望してしまいました。
(2年間の一般教養課程のことです)
老教授がカビの生えたようなノート片手に経済原論など
という感動も発見もない机上の遊びごとのような内容を
惰性的に講義していました。
マルクス理論を教えていた教授もいましたが、マルクス
主義自体が破綻した今日の状況をどう説明出来ると言う
のでしょうか。ここだけの話ですが、彼らは明らかに月給
泥棒だったと思います。これが大学かと。これは教授だけ
でなく大学側にも何を教えるかについての重大な誤りが
あったように思います。

タバコ屋は5才の時から実戦の商いは体で経験しており、
大学まで来て学びたかったのはそれを体系、理論づける
生きた講義でした。その願いは3回生以降の専門ゼミに
入ってからも満たされず、子供の頃からショウバイの実
務を経験しているタバコ屋にとっては、幼稚で物足りない
ものに思えました。同志社にドラッカー教授でもいてくれ
たらタバコ屋も最前列でノートを取るところでした。

それに引き換え、CGはジャンルは異なるものでしたが、
オクルマそのものや業界のこと世界の現状などが満載で、
発刊が待ち遠しいほどでした。但し、親からの仕送りに
頼っていたタバコ屋は高価なCGを買うことにかなりの
ためらいはありました。そのしわ寄せは学食で100円の
うどんをすするということになりましたが。
小林彰太郎1
小林彰太郎氏ですが、P・F氏を日本に招き、また彼を
本田宗一郎氏に紹介しP・F氏とHONDAとの深い親交の
きっかけを作っただけでなく、彼自身もHONDA-S600で
ヨーロッパ横断旅行を試み、当時HONDAが参戦していた
F1など当時のヨーロッパオクルマ事情をつぶさに見て回り、
それがご縁で、その後本田宗一郎氏とも親密な関係を持
つようになりました。

裏話ですが、彰太郎氏がそのS600のことでHONDA本社
にケチをつけに行った時、宗一郎氏自身が出て来られ、
丁寧に謝罪したあと、そのケチの原因と解決法を詳しく
説明されたことから、二人の親密な関係が始まったと言
われています。
ホンダS600
彰太郎氏がヨーロッパ視察に使用したS600(通称エスロ
ク)は、HONDAが2輪車事業の成功と確立の後、更に4輪
車事業に進出を図った際の初めての記念すべきクルマ
で、鈴鹿サーキットが完成した2年後の昭和39年に発売
されました。
初めて発売したクルマがスポーツカーというのもシャレ
者の宗一郎氏、ひいてはHONDAらしいやり方ですよね。
ホンダT360
実際は軽トラックT360も発売しましたが地味なカテゴリ
ーの車だったであまり目立ちませんでした。
裏話として宗一郎氏はカッコイイ車以外関心がなかった
のですが、藤澤専務がそれではお米の種にならないの
で、同時に実用的な軽トラックの発売を主張しました。
エンジンは排気量は違うものの基本設計をSシリーズと
共通にしたので、トラックとしては前代未聞のDOHCエン
ジンとなりました。(やりすぎ!)
ホンダS800-9
センセーションを巻き起こしたS600の評判に気を良くし
たHONDAは続いて昭和41年にS800(通称エスハチ)を
発売しました。P・F先生が鈴鹿を駆け抜けたあのクルマ
です。
スペックはS600とほぼ同じで、ボアアップされた排気量は
791cc、HONDA定番の京浜精機製4連CVキャブレターと、
等長エキゾーストマニホールドを装備し縦置きされた水冷
直列4気筒DOHCエンジンをフロントに搭載、足回りは前輪
がダブルウィッシュボーン、後輪はデフから先の動力伝達
に2本のローラーチェーンを用い、それをケースごとトレーリ
ングアームに使うというユニークなものでしたが、HONDAは
バイクメーカーだったのでバイクの後輪駆動システムでは
一般的な形式をそのまま4輪に応用したものでした。

ともかく当時の国産車では例を見ない凝りに凝ったメカニ
ズムでしたが実際にはその後輪駆動方式はかなり無理
があり、評判が悪かったので、後期型では一般的なデフ
と固定車軸を4リンクで支える常識的なリジッドアクスル
に改良されました。
懲りすぎて失敗する!というパターンは以後、宗一郎氏が
現役の間特に4輪においてHONDAについて回った一大特
徴となりました。
ホンダS800-4
HONDA-S800のエンジンルームです。一つ一つのパーツ
がまるで精密機械のように研ぎ澄まされ、芸術的とさえ
言える機能美を持っていました。
ついでながらこのSシリーズエンジンを設計したのは後に
社長となる若き日の久米是志氏で、当時HONDAが参戦
していたF1のエンジン設計者でもあったため、S600、800
のエンジンはHONDA-F1と同じコンセプトで作られたとい
う訳です。
ちなみに最高出力は8000回転で70馬力を発生するという
レーシングエンジン並みの桁外れの高回転型で、F1のデ
チューン版と言われるゆえんもそこにあります。

そのF1ですが、宗一郎氏は2輪でのGPで世界チャンピオ
ンとなった後、昭和39年には、無謀と言うか壮挙というか、
果敢にもF1に参戦することとなりました。
鈴鹿サーキットを作った理由の一つは、公表されていない
ものの、2輪のGPマシンと新たに参戦するF1マシンをテス
トするため、自前のサーキットを作ることが宗一郎氏の夢
であったようです。
もっとも藤澤専務はそれだけでは経済的に破綻してしまう
ので、鈴鹿サーキットを遊園地化してソロバンも合うように
仕向けたとか。
夢だけでも食えず、ソロバンだけでも感動はなく
人生とはかくも難しいものなり。
」タバコ屋の独り言です

F1に戻ります。HONDAがF1に参戦するのは昭和39年の
ことですが、実はその3年前昭和36年には2輪の世界GP
を制し、宗一郎氏の次の目標はF1でした。いくらレース好
きとはいえ夢のスケールが違いますよね。
当初はF1を研究する目的でクーパーT53を購入し、それ
をもとにHONDAオリジナルのRA270を開発しました。
ホンダRA270
本田宗一郎氏と一緒に写ったHONDA-RA270です。
プロトタイプなので実戦に投入されることはありませんで
した。
ところで、HONDAは何の技術の裏付けもなくF1に参戦した
ように見られていますが、実は戦後当時日本最大であっ
た航空機メーカーの中島飛行機がGHQにより解体され、
航空機の製造が禁止されたため、世界でもトップクラス
だった優秀なエンジニアの仕事がなくなりました。HONDA
はいずれ航空機を作るんじゃなかろうかというほのかな
期待と当面の食いブチを得るために中島飛行機の技術
者が大量にHONDAに入社していたのです。
またHONDAにしてみれば4輪車への進出を図るに当たっ
て、宗一郎おやじ一人が吼えまくっているだけでノウハウ
はゼロに等しく開発は中島飛行機の技術者に頼らざるを
得ませんでした。
航空機のエンジニアにとってはF1の開発は未知との遭遇
ではあったものの、技術的には不可能なものではありま
せんでした。
ちなみに初代HONDA-F1チームの監督となった中村良夫
氏も元中島飛行機の設計技術者でありました。その中村
氏がS600、800の開発設計に深く関わっていたことは、
あまり知られていないエピソードです。
ホンダRA271
HONDAが始めてF1に参戦した時のマシンRA271です。
当初ロータスにエンジンのみ供給する計画でしたがロー
タス側のドタキャンにより、急遽シャシーもすべてHONDA
製となりました。今改めて見ると相当時代の落差を感じ
るマシーンですが昭和39年当時は最先端でした。

しかし新参者の悲しさ、勝利とは縁のないほろ苦いデビ
ューでした。
エンジンは1.5L-V12気筒DOHCを横置きに搭載し、エンジ
ンの真ん中から駆動力をギヤボックスに導くという独創
的なもので、すべてはバイクのノウハウから応用した技
術でした。(バイクではすでに採用されていました)
ホンダRA272 F1メキシコGP
実戦によるフィードバックにより改良されたRA272です。
このマシンは参戦2年目の昭和40年1.5Lの排気量規定
最後の年、しかも最終戦のメキシコGPにおいてアメリカ
人ドライバー、リッチーギンサーにより劇的な初優勝を
遂げました。
中村監督とともにその喜びはひとしおであったことでしょ
う。傍らのレースクイーンのお衣装と髪型が当時の時代
を感じさせます。
HONDAF1RA273
翌年からは名手ジョン・サーティースと契約し、排気量規
定も3Lとなったため、マシンを新たに設計しRA273を投入
しました。エンジンは3L-V12気筒DOHC、燃料はインジェ
クションによる供給でレイアウトは常識的な縦置きとなり
ました。ボディはグッドデザインでしたが各部が凝った
メカのため何分重すぎてその実力を十分発揮出来ませ
んでした。
HONDARA300 F1イタリアGP
HONDA自製のシャシーでは勝てないと判断したサーティ
ースはHONDAにローラ社を紹介し、急遽軽量マシンを
製作、エンジンはそのままでシャシーをサーティースの
考えにそって軽量化、そのかいあってテストする時間も
ないままぶっつけ本番のデビュー戦イタリアGPにおいて
もはや伝説となった最終ラップまでもつれた末の劇的な
勝利を収めることになります。
左サーティースと右ジャックブラバムの激闘は、僅差で
サーティースの勝利となりました。彼の軽量化戦略が見
事実を結んだ瞬間です。
2輪では圧倒的なパワーを見せたHONDAといえどもF1で
の勝利はこの2回のみで、やがて排気ガス等の環境問題
が起こり、その方面に研究を集中するため5年間に及んだ
第一期のF1活動から撤退することになりました。

鈴鹿サーキットのことを書くつもりが、何やらHONDAの社
史のようになってしまいました。紙数が尽きてしまいました
のでこの続きはまた近いうちに・・・・。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
雑誌ノスタルジックヒーローより引用させて頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期

平成24年11月18日
【HONDAの歩み】
わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、
性能の優れた、廉価な製品を生産する

これはご存知の方も多いと思いますが昭和36年HONDA
の社報に掲載された経営理念です。創業者本田宗一郎
の純粋で無垢な志が表現された極めて格調の高い文章
であると思います。
一見淡々と述べられているその内容は実現の困難なこと
ばかりで、掘っ立て小屋の町工場のおやじが発するよう
なものではなく、当時の大企業でもそのような崇高な経営
理念を掲げていたところはほとんど皆無で、宗一郎氏の
スケールの大きさを思わせます。
社員や社外に対するものというよりは、その理想と意志を
彼自身に言い聞かせ鼓舞するためのものだったのでは
ないでしょうか。
社内外で公表する、しないは別にして一つの事業を創業
継続するに当たり、経営者が経営理念を持ちそれを文章
に表現することは、ある意味実務以上に大変重要なこと
であると思います。

余談になりますが私が卒業した京都の同志社大学創立
者、新島襄先生も教え子に対し「良心之全身ニ充満シタ
ル丈夫(マスラオ)ノ起リ来ラン事ヲ
」と有名な檄文を贈り、
現在では「良心の碑」として校門前に残されていますが、
心の叫びを簡潔な文章に表すことは極めて難しいことで
もあります。
(関連記事:今出川でのことVOL.1参照願います)
本田宗一郎1
写真は昭和32年発売のドリーム号(C70)にまたがり、
得意満面の本田宗一郎氏です。彼は学歴もなく裸一貫
で成功した戦後の日本を代表する立志伝中の経営者の
一人として、知らない人もないくらいの方ですが、一人の
情熱的な技術者として常々「技術の競争は技術をもって
すべきである」また「良品に国境はない」と言い続けた方
でもありました。
彼は、当時の世界と日本の技術力の圧倒的な差を痛切
に感じており、その世界レベルに追いつき追い越したい
という負けず嫌いな彼の一途な思いが体からほとばしり
出たのが冒頭の経営理念だったと言えましょう。

恥ずかしながら、やや唐突に以下をご紹介致します。
栄えよ我がふるさと、美しき中島、
・小さな島に大きな希望

これは島のタバコ屋が島のみかん農業への危機感から
平成16年より始めた島のジュース・ジャム工場を立ち上げ
るに当たり、自己流で定めた我が社の経営理念です。

本田宗一郎氏の熱き思いとスケールとは宇宙的隔たりが
ありますが、数年間真剣に考え一途な思いを文章にした
点では若干の共通点があるかも知れません。
もっともタバコ屋は世界的視野に立ってはおらず、島の過
激な親父のレベルですのでその活動内容もたかが知れて
はいますが、発起の原点は本田宗一郎氏の生き様にあっ
たのかも知れません。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

ホンダN360-2
余談ながらタバコ屋が同志社大学自動車部の現役時代
に最初の自己所有車となったのはHONDAが実用的な乗
用車として初めて発売した軽四輪のN360でした。
先輩O氏からかなりくたびれた中古の車両を2万円で譲り
受け同期のS君と共同所有し、クルマの楽しさを教えてく
れた思い出深いオクルマでした。尚、伝統に従って?
卒業時はクラブに寄付致しました。

ところで、このN360ですが、当時の血気にはやる、若き
宗一郎氏のお気に入りはオースチンミニでした。
タバコ屋の想像ながらこのN360は本田宗一郎氏が作っ
た日本版ミニともいえ、各部のメカニズムや基本レイア
ウトはミニの丸ごとコピーとも言えるものでしたが、空冷
2気筒OHCエンジンだけはHONDA独創の、高回転まで
よく回るバイクのように気持ちの良いエンジンでした。
宗一郎氏のオースチン社に対する憧れは後の技術提携
へと繋がり、その提携の結果として生まれたのが他なら
ぬ初代レジェンドだったという訳です。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.2:スカイライン2000GT参照
願います)
アコードハッチバック
卒業後数年は食べるのがやっとでクルマどころではあり
ませんでしたが、昭和52年頃だったでしょうか、自分のお
給料で買った最初のクルマがアコードハッチバックでした。
黄色のそのクルマは当時とても日本車離れしていてハイ
カラだった記憶があります。

ついでながら島のタバコ屋はこの2ドアハッチバックとい
うスタイルが痛く気に入ったようで、後日還暦が来て購
入することになった赤いお嬢さんこと、フェアレディ240Z
もカテゴリーは違え、同じ2ドアハッチバックであったこと
は偶然とは言えないでしょう。
レジェンド
アコードに7~8年乗ったでしょうか、次はかなり無理をし
てHONDAがイギリスのローバー社(宗一郎氏の大好きな
オースチン社はすでにローバーに吸収されていました)
と提携し共同で作った初めての大型セダン、レジェンドを
購入しました。
パワフルなHONDAのイメージに対して大人っぽいクルマ
と言うんでしょうか、V6のパワーはあまり感じませんでし
たがHONDAらしく非常に吹けあがりが滑らかで気持ちよ
く、またボディデザインやインテリア、ダッシュ等にヨーロ
ッパのセンスが光っていました。
当時国産車にはヨーロッパ車のセンスが感じられるよう
なクルマは皆無でしたので、レジェンドに乗ることは何か
知的な満足感がくすぐられるように感じました。
レジェンド2
初代レジェンドに6~7年乗ったでしょうか、平成3年には
2代目レジェンドが発売され、かなり大きすぎるボディサ
イズではあったものの、パワフルになったのとその塊感
のあるデザインが気に入り、平成4年に購入し、その後
何と20年!も乗るハメになりました。
タバコ屋もやや凝り性なところがあり、標準ではなかった
2トーンカラーに塗ってもらったり、クーペ用のアルミホイ
ールを特別に装着してもらったりして、ディーラーの店長
を困らせてしまいました。
レジェンド4
その間、故障らしい故障もなくよきパートナーとして働い
てくれ、国産車の品質向上は40年前とは隔世の感があ
りますが、近年は乗ることも少なくなり、また時代もこの
バブリーな大型車を所有する意味がなくなりつつあると
判断し、先般残念ながら手放すことになりました。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)

延べ40年間に及び、HONDA一色の愛車人生でした。
そのHONDAとのご縁で、後日鈴鹿サーキットを舞台に
様々な予期せぬ事件が起ころうとは・・・。
詳細はvol.4にてお話致します。
カブF号2
今ではHONDAは経営理念のとおり世界的な自動車メー
カーとなりましたが、創業当時は様々な苦難のドラマが
ありました。
創業後、写真のカブF号(通称バタバタ)やバイクのドリー
ム号、またその後ベンリィ号を次々開発し、国内ではトッ
プの2輪メーカーに成長しつつありました。
ベンリィJ号
昭和30年発売のベンリィJ号です。自転車やバタバタより
も便利だろうというので宗一郎氏がベンリィとネーミング
したと言われています。まあ当時からネーミングの由来と
いうのは意外性があり、また一面的を得ていて面白いの
ですが昨今ではムシコナーズとか言いたい放題のネーミ
ングが散見されます。
月光仮面のTV放映が始まったのが昭和33年ですから、
月光仮面のおじさんが乗っていたバイクはベンリィ号かも
知れません。(確認してないので不確かです)
それと前後してスクーターのジュノー号を発売したりもし
ましたが、スクーターの開発は不慣れだったため欠陥商
品にて売れず、また同時期にバイクの不具合によるクレ
ームも多発し返品の山となり、窮地に陥った時期があり
ました。
本田宗一郎6
本田宗一郎氏と意気投合し宗一郎氏の片腕というより
共同経営者として有名な藤澤武夫氏はすでに当時専務
として販売を一手に受け持っていましたが、クレーム処
理に追われ、技術的な問題は解決したものの(ちなみに
バイクはキャブの欠陥でした)その苦い経験から、販売
ルートを当時考えられなかった自転車販売店に求め、
巧みなDM作戦で一気に劣勢を巻き返した凄腕の経営者
でもありました。
創業当時のないないずくしの中で二人が技術と販売に
それこそ命がけで知恵を絞りに絞った結果、苦境を切り
抜けたのです。
この二人のどちらが欠けても今日のHONDAはなく、
人の出会いというものがいかに大切かということを物語
っています。
スーパーカブ号1
そのようなHONDAが昭和33年、起死回生の新製品を発
売することになります。
「オートバイでもない、スクーターでもない乗物」その名は
スーパーカブ号でした。開発に2年近くを掛け、ヨーロッパ
などの先進国の類似品を徹底的に研究し、万を持しての
発売でした。
それはわずか50ccながら音の静かな4サイクルOHV機構
を持つエンジンを積んだ可愛らしいミニバイク?でしたが、
当時まだ市販化されてなかったプラスチック樹脂をカウリ
ングに採用、また足で操作出来るクラッチ、ブレーキ等々
HONDAのアイデアと技術の粋を結集したものでした。
スーパーカブ号3
結果は空前の大ヒット、一躍HONDAのドル箱になるととも
に今日まで改良を重ねて生産累計が6,000万台以上と言
う天文学的数字となり(平成20年時点)今現在でも世界中
のHONDA工場で生産されており、世界でも類を見ない
不朽のロングセラーノリモノとなりました。またその結果
このような形状のバイクを皆がカブと呼ぶようになり、
一種の国民語として定着していきました。

余談ながら、バイクは後からまたぐものという常識を覆
し、前から足をかわして女性でも難なく乗れるというユー
ザー目線のデザインを主張したのは宗一郎氏自身で、
えぐりの部分は彼のこだわりが相当入り、徹底的に
えぐったのでガソリンタンクを置く場所がなくなってしまい
エンジニアを困らせたというエピソードが残っています。

また販売側から(ということは藤澤専務から)の要求で、
販売価格は5万5千円にすることが決まりました。
現状では採算割れとなり、それには月間3万台の生産
販売が必要で、既存の工場の能力では不可能に近いこ
とがわかり、後述の最新鋭鈴鹿製作所を建設し月3万台
の大量生産を目指すことに賭けた理由はここから来てい
ます。
マーケティング理論でよく言われるプライシング(価格設
定)の重要さをHONDAの藤澤専務は身をもって理解して
いたのです。
スーパーカブ号4

開発コンセプトの一つが「蕎麦屋が片手で運転出来る
便利な乗り物
」でしたが、それを忠実に実現したことによ
り事実蕎麦屋さんからの注文が激増したと伝えられてい
ます。
スーパーカブ号の成功は、HONDAが掲げるもう一つの
モットー「三つの喜び」即ち、作る喜び、売る喜び、買った
人の喜びをまさに事実で証明することにもなりました。

写真は当時の宣伝チラシですが、タイトルの「ソバも元気
だおっかさん」そして「きょうも話題はカブがさらった」
まさにそのとおりの結果となりました。
タバコ屋の先代が購入したSUBARUラビットスクーター
とはまた違った意味で当時のハイカラ乗り物でした。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
ホンダ1300クーペ

ホンダ1300エンジン
本田宗一郎氏はエンジンとデザインにはめっぽううるさか
ったそうで、そういえば、彼の最後の作品とも言える1300
クーペは、前輪駆動横置きSOHC2重空冷、4キャブレター
という前代未聞の凝りに凝ったメカもさることながらデザ
インも当時の国産車離れした超カッコいいクルマでした
よね。スーパーカブ発売よりずっと後の昭和46年頃のお
話です。
鈴鹿製作所1
上記の理由によりさあ大変です、売れるのはいいのです
が、それに合わせて大量生産をする近代的工場が必要
になりました。全国各地の候補地の中から、熟慮の結果、
鈴鹿が選ばれ数十万坪の敷地を確保、昭和35年、当時
としては画期的だった、窓なしの完全空調設備を備えた
超近代工場が竣工したのです。
またその数年前には当時のお金で4億数千万円(現在で
80億円?)もの工作機械を欧米各国から買い集めており、
資金の調達とそれの活用が重大問題でした。
鈴鹿製作所2
それもさることながら当時で45億円(現在で800億円?)
を投資するスーパーカブ号生産のための鈴鹿工場は
HONDAの社運を賭けた巨大プロジェクトでもあったの
です。
ちなみにその時の工場コンセプトも国内目線ではなく、
スケール、ポテンシャル、クオリティ、どれをとっても世界
的視野に立ったものでした。

創業者本田宗一郎は困ったことに三度のメシよりレース
がお好きだったので、その趣味が高じて当時浅間山麓で
行われていた国内バイクレースには果敢に参加していま
したが、なかなか勝てませんでした。
その鈴鹿工場が立ち上がるよりかなり前には、無謀にも
当時バイクレースでは世界最高峰だったイギリスのマン
島TTレースに出場すると、大風呂敷宣言を出したのです。
マン島TTレース
事実その後昭和34年には後の社長となる河島喜好氏が
監督を務めレース初出場を果たし、2年後の昭和36年に
は念願の初優勝を遂げました。
その後の2輪世界GPでの大活躍に繋がっていきます。
ホンダ2輪レーサー
マン島TTレースの優勝を始め、世界GPで優勝を重ねた
栄光のGPマシンHONDA-RC143(125cc)です。宗一郎は
負けず嫌いではありましたが、勝利よりもレースを「走る
実験室」としてとらえ、その技術を市販車にフィードバック
していくという手法をとり、それは後のF1-GP参戦におい
ても伝統として受け継がれました。

話は飛びますが、鈴鹿サーキットのことです。
開設は昭和37年ですが、前述の鈴鹿製作所の用地購入、
建設と並行して同じ鈴鹿の山間部で数十万坪に及ぶ
サーキット用地が確保されました。
鈴鹿サーキット1
それ以前、ヨーロッパ各地を視察して回った宗一郎氏は、
世界の先進地にはサーキットがあり、そこで技術を磨く
ことが出来るのに、日本には本格的なサーキットが皆無
であったことと、自社でも2輪の世界GPに進出しつつあり、
近い将来、日本でもサーキットで一流のチームが競い合
う時代がやがて来ることを予感しており、誰もやらないの
ならHONDAがやろうと決心したようです。
鈴鹿サーキット4
工作機械の桁外れの購入、鈴鹿製作所の建設、それと
並行しての鈴鹿サーキットの建設と続き、宗一郎氏自身
は常々、倒産は覚悟の上で、もしそうなっても世界一の
キカイや設備が残るんだからそれは日本にとって宝だろ。
と言ってケロッとしていたとか。
同じ決心でも度肝を抜くスケールだと思いませんか。
鈴鹿サーキット6
鈴鹿サーキット開設後、夏の恒例となった鈴鹿8時間耐久
レース(通称8耐)のスタートシーンです。
街でやんちゃなお兄さんがストレートマフラーで騒音を撒
き散らし、皆のひんしゅくを買ったりしていますが、本当の
GPレースでのサウンドというものはそんなチャチな音とは
桁違いのスケールで、耳をつんざき、体が揺すられるよう
な凄さで、街のチンケなお兄さんも、やりたいのだったら、
鈴鹿でその度胸を試してもらいたいものです。

鈴鹿サーキットは今年で開設50年を迎えます。上の一連
の写真は数度にわたり改良工事を行い、ずいぶん綺麗
に充実した後のもので、開設時とはまるで別物のように
なりました。
鈴鹿サーキット9
島のタバコ屋が若い頃は、ご覧の写真のごとく、グランド
スタンドとピット、パドック以外はほとんど未整備状態で、
北野元、高橋国光といった懐かしいドライバーがHONDA
で、またその後NISSANで活躍していた頃はそれこそ一般
観客席はぺんぺん草に土留めの杭が打ってあるだけの
お粗末なものであったのを覚えています。
サーキットラリー1
突然ですがタバコ屋が同志社大学自動車部に在籍中、
4回生の頃でしょうか、一般道路を使用してのラリーが
警察の方針で出来なくなりつつあり、鈴鹿サーキットを
使用して行う変則的なラリー、即ちサーキットラリーなる
ものが始まりました。サーキットを指定された速度で正確
に周回することを競う競技で、一般の方から見ればかな
り違和感があるでしょうが、お金のない大学生のやるスピ
ード競技と言えばこのような形にならざるを得なかったの
でしょう。
タバコ屋は当時ある事情(痔の手術)で一時部活動から
離れていたのですが、確か女子が目覚しい活躍にて、
優勝したことを聞きました。その時のドライビングクルー
で、一期後輩のT嬢とS嬢です。
慣れない競技で、よく頑張ったと思います。競技車両は
別記事にてご紹介した北海道遠征時の旗艦スカイライン
2000GTです。
競技とはいえあのエレガントな容姿がサーキット走行用
に改良(破壊?)されていて、この車両を購入時の当事
者としては、複雑な心境でした。
サーキットラリー2
鈴鹿サーキットのグランドスタンド前を疾駆する同志社
大学自動車部・女子チームのスカイライン2000GTです。
一般の方には公開してない競技なので当然ながらスタ
ンドには人影はあまり見受けられません。
タバコ屋は卒業を控え部室に顔出しすることもほとんど
無くなってしまいましたが、その後スカイライン2000GTは
どうなったんだろうか。やや気になることではありますが、
聞かないほうが良い場合もあるでしょう。

いずれにしても鈴鹿サーキットは当時まだ草創期にあり、
日本の自動車産業、高速道路等の急速な発展、レース
に対する一般の関心の高まりとともにその姿を変えてい
くことになります。
鈴鹿サーキットが草創期に果たした役割は数えきれない
ほどありますが、一例として当時日本の高速道路の舗装
技術は確立されておらず鈴鹿サーキットの舗装が基準に
なったと言われています。

余談ですが、鈴鹿の代表的イベントとなったバイクの8時
間耐久、また後年開催されることとなるF-1によりその集
客数は飛躍的に増え、鈴鹿サーキット詣ではある意味
現代のお伊勢参りとも言えるのではないでしょうか。

紙数が尽きたようなので今回はこの辺で終わりにします。
次回は鈴鹿サーキットにまつわる意外なお話などを書い
てみたいと思います。

(尚、HONDAの社史に関わる記述の一部、写真等は
HONDA技研ホームページより引用させて頂きました。)

★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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