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ハローたんぽぽ vol.5(完結編)

平成26年3月15日
タバコ屋はゴフク屋に始まり、スーパー、ホームセンター、葬儀屋、
みかんのジュース、ジャム工場と島のお役に立つものなら何でも手
掛けてきたのですがさすがにキャバレーとパチンコ屋だけはやろう
と思いませんでした。
東広島市1-1
余談ながら田舎者のタバコ屋はせがれが広島の大学入学時、引っ
越しの手伝いで同行したのですが、昼時となりどこかで食事をと
いうことで、ふと見るとパーラーという看板が掛かっていました。
タバコ屋は学生時代パーラーと言えば軽食が取れる場所という
認識があったので勇んで入っていきました。しかしそこはパチンコ
屋だったのです。笑ってしまいますが笑えない思い出がありました。
その場所はタバコ屋の一期後輩でD大学自動車部のキャプテンを
勤め、卒業後は東広島市の行政の偉いさんとなったO氏の地元で
酒どころとして有名な賀茂西条の町の周辺での出来事でした。
写真は新装なった東広島市庁舎です。O氏はこの立派な建物で
ご勤務だと思うのですが、タバコ屋が行ったころはこの建物は
ありませんでした。
(関連記事:農業とレストア vol.2参照願います)
伊丹十三エッセイ
ところで、先日の記事で伊丹十三氏はカーマニアであると申し上
げましたがタバコ屋が彼の愛車遍歴についていちいち存じ上げて
いる訳ではありません。ただ若い頃は当時の日本のレース界を牽
引していた生沢徹、浮谷東次郎、欧陽菲菲のご主人の式場壮吉、
福沢諭吉翁のお孫さんでもあった元トヨタのワークスドライバーの
福沢幸雄(その後事故死)らの各氏と交流があり、また現在著名な
写真家でコメンテイターでもある浅井慎平氏とも親交がありました。
伊丹さんは若い頃からヨーロッパ文化、中でもイギリス文化に傾倒
しており身の回りの持ち物もその趣味に応じてかなり凝ったものが
多かったようです。得意だったエッセイなどもその感性に基づいた
彼独特の軽妙洒脱でヨーロッパのエスプリが効いたものでした。
MGTF
ちなみに当時の彼の愛車(のうちの一台?)はイギリス製のMG-
TFで前出の浅井慎平さんも横に乗せてもらって青山、六本木界隈
を乗り回したそうです。伊丹さんがまだ商業デザイナーをしていた
頃のお話しで、後年バブル時代にはBMW3シリーズが六本木の
カローラなどと揶揄される数十年前のことです。
MGロゴ1
余談になりますがMGはモーリス・ガレージの略で元々は手作りの
バイクやモーリス社のクルマを販売するベンチャー企業でした。
積極的なレース活動で頭角を現し大活躍した後、やがてはモーリス
社に吸収されるのですが、例の八角形(オクタゴン)が特徴のMG
ブランドのみは生き残ったという訳です。
MG-TC-1.jpg
いずれも第二次大戦前のお話ですが、そのMGブランドにて軽量
オープンスポーツカーのT-ミジェットタイプを発売し、TAから始まっ
てTFまで長期間に亘って販売されました。戦後の一時期はその
かっこ良さから一世を風靡した時代がありました。伊丹氏の愛車
だったTFは昭和28年頃に発売されたもので今ではクラシックカー
もいいところですが、タバコ屋が中学生の頃、そのMG-ミジェット
(多分TD)の安物のプラモデルを作って飾っていた記憶があります。
フェアレディアメリカ試走-1
やがてMGを始めとするイギリスの自動車産業にとっては主戦場の
アメリカにおいて悪夢のようなトヨタ、ニッサン、ホンダを中心とする
メイドインJAPAN車やドイツ製のカブト虫による怒涛の進撃を受け
イギリスの自動車産業はほぼ壊滅してしまうのですが今回はその
ことがテーマではないのでまたの機会にお話しさせて頂きます。
(関連記事:零戦の末裔参照願います)
MGTF-2
伊丹先輩のお話に戻ります。MGのスポーツカーで六本木を徘徊
する等、エッセイスト、商業デザイナーとして一定の充電期間?を
経た後、映画監督として「お葬式」「たんぽぽ」とたて続けに話題作
を世に出した伊丹さんは一躍日本を代表する若手映画監督として
脚光を浴びるようになりました。
スーパーの女2
その後は「マルサの女」、「スーパーの女」、「マルタイの女」等、
オンナシリーズで夫人の宮本信子さんを主役とした意欲作を発表
していきましたが、コメディのスタイルを採りながらも、そのテーマ
があまりにも社会の不条理とか暗部をえぐり出すものであった
ため、公表されては困る一部の社会勢力から脅迫や暴行を受け、
重傷を負ったこともありました。またその後、禁断の分野とも言え
る医療問題をテーマにした新しい映画制作を試みつつありました
が、不可解な突然死により表向きは自殺ということにされたものの
そのあまりにも唐突な死は様々な憶測を呼び、問題の映画製作に
からむ他殺説も取り沙汰されました。タバコ屋は独断ながら伊丹
さんは自殺などする理由があまりなく、後者の説を採りたいと思い
ます。(あくまでも個人的な見解です。)
伊丹十三記念館1
実は映画制作に当たってはそのスポンサーとして我が松山の一六
タルトでおなじみの「一六本舗」さんが一貫してバックアップして
きたのですが、彼の死後その業績を偲び夫人の宮本信子さんと共
同で松山の一六本社の近くに「伊丹十三記念館」を建設し、その
館長には夫人の宮本信子さんが就任(常勤ではないです)一般に
開放されて今日に至っています。
伊丹十三記念館12
その設計は伊丹さんのファンでもあった建築家の中村好文さんで、
伊丹さんの好みと中村さんのセンスを反映させたシンプルでモダン
なグッドデザインの建物です。
伊丹十三記念館6
その記念館には彼の遺品が多く収められていますが建物の脇に
特設のこれまたイキでシックなガレージが建てられ、そこには
彼の晩年の愛車だったベントレー・コンチネンタルが納められて
います。正面の8という番号は何の意味でしょうか。それは秘密
で実際にご見学頂いての楽しみにしておきましょう。
ベントレーロゴ2
余談ながらベントレーといえば1919年と言いますから大正8年
と気が遠くなるなるような昔、W・O・ベントレーによって創業された
高級スポーツカーメーカーですが、その後昭和6年ロールスロイス
によって買収され、ロールスのスポーティ版ブランドとして生き残る
ことになりました。第二次大戦後しばらくはうまくいっていたものの
やがてはそのロールスロイス自体が立ち行かなくなり、紆余曲折の
後ロールスロイスはBMW、ベントレーはVWグループが所有する
こととなり、両ブランドとも世界の最高級サルーンとしての地位を
保ちつつ今日に至っています。
伊丹十三記念館15
伊丹さんのベントレー・コンチネンタル(カブリオレ)は、戦後まだ
ロールスロイスが元気だった頃のもので、ロールスの成功作である
シルバーシャドウのクーペ版だったロールスロイス・コーニッシュの
姉妹車としてベントレーブランドで販売されたものです。
コーニッシュ2-1
姉妹車とは言っても中身はロールスロイスですから新車だったの
か中古車だったのかは存じ上げませんが、お聞きしたところでは
信子夫人がその浮世離れした金額に絶句したという話です。でも
それで離婚したという話は聞きませんでしたから何とかなったの
でしょう。タバコ屋なんかですともう次の日には追い出されてしま
うと思うのですが、皆さんのオウチではどうでしょうか・・・。
裕次郎記念館300SL-3
高価と言えば、栄光への5000キロで主演した我らが裕ちゃんも
伊丹さん同様とびっきりのカーマニアでしたが、彼の愛車の一つ
であるメルセデス・ベンツ300SLの購入価格は当時のお金で
1億円だったそうで映画の1年分の出演料を全部注ぎ込んだそう
です。タバコ屋にとっては浮世離れした坂の上の雲のそのまた上
のお話しです。
裕次郎記念館ロールス1-1
その裕ちゃんも伊丹さん同様ロールスのシルバーシャドウを所有
していました。でも普段あまり乗ることはなかったようです。
裕ちゃんはやっぱりメルセデス300SLやキャデラックの方が
良く似合うように思います。
(関連記事:札幌紀行 vol.2:小樽へ参照願います)
伊丹十三記念館14
伊丹さんのベントレーに戻ります。そのボディカラーはイギリス
好みの十三さんらしくブリティッシュグリーンでオープンカー仕様
(カブリオレと言います)のため幌が付いているのですがその幌
はタン色にて最もイギリス車らしいカラーリングになっています。
フライングスパーV8-5
かつてのベントレーはVWグループ、ロールスロイスはBMWの
傘下となって言わばドイツに乗っ取られた形ではありますが、そう
でなければ消滅するところであり、現代に蘇ったBMWミニ同様
世界の最高級サルーンとしてのコンセプトと品性は残しつつ中味
はドイツの堅牢なハイテクメカで固めるという方法は悪くないかも
知れません。
(関連記事:クグロフとミニ・クーパーの謎参照願います)
ゴースト12-1
事実、タバコ屋が世界の高級サルーンの中で最もお気に入りの
ロールスロイス・ゴーストなどはドイツの救いの手が差し伸べられ
なかったとしたら、そもそも誕生していなかったでしょうから。
ついでながら、ゴースト(お化け)とはまた恐ろしくも思い切った
ネーミングをしたもので、実際はロールスで最も成功したオクルマ
シルバーシャドウの後継車種でもあるのですが、誕生しなかった
かも知れず、ゴーストというのは妥当な名前かも知れません。
ゴースト10
それにしてもグッドデザインだと思いませんか。ただタバコ屋の
好みからするとボンネットのおしゃれな2トーンのシルバーを
Aピラーまで塗り上げるのはあまり感心出来ません。
また耳ピョコンという感じのサイドミラーも個性的で好ましく、
ポルシェ911のそれ同様タバコ屋のお気に入りアイテムです。
(関連記事:好みの基準 vol.4:品性とダイナミズム参照願います)
ゴースト1
ただこれを実際所有するとなると話は別で、3,000万円という
途方もないお札の束を用意しなくてはいけません。こういうもの
は1万円札が千円札に見えるハイソサエティの方々のお道具
なのだとつくづく思います。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
ゴーストを見るにつけ、またもや出るのはグチで我がHONDAよ
レジェンドよ、一体何してんねんと言いたい。自称元PTA会長と
しては高級車売りたいんだったらそれなりのデザイナー用意しろ
と叫びたいです。(ゴーストとは土俵が全く違うにしてもです。)
ミロのヴィーナス5-2
話は脱線しますが、日本人というのは線が得意な民族で塊は苦手
なんです。その点ミロのヴィーナスで鍛えているギリシャ民族や
タバコ屋お気に入りのイタリア人デザイナー、ジウジアーロ氏は
その塊の表現が最も得意なんです。だからレジェンドのデザインは
ギリシャに任せなさいっちゅうの。
記憶違いかも知れませんが、ゴーストのチーフデザイナーだった
イアン・キャメロンはギリシャ人だったような・・・。
キャリートラック1
伊丹さんにしろ、裕ちゃんにしろ一流の仕事をしつつとびきりの
カーマニアでもありました。タバコ屋もちょっぴりマニアの端くれ
ではあるものの何分島では道路が狭く、軽四以外は使いものに
なりません。したがって「たんぽぽ」で使用するオクルマもつつ
ましくスズキキャリーとかで十二分で、しかもかさばるお花等を
運ぶためカブリオレ仕様?となっています。(何のことはなくただ
荷台に背の高い幌をかぶせているだけなんですけど。)
たんぽぽ6
「たんぽぽ」にまつわるお話しを長々としてきましたが、これで
一連の謎がお解り頂けたかと思います。伊丹さんや裕ちゃんが
活躍した頃のことやまた彼らが好きだったオクルマのことに思い
を馳せながら島のせまい波打ち際の道を走り回っているタバコ屋
改めソウギ屋の今日この頃です。
(尚、タバコ屋を廃業した訳ではありませんので念のため。)


ハローたんぽぽ vol.4

平成26年3月11日
話は突然のことになりますがタバコ屋の島、中島には「葬儀屋」
なるものがかつて一軒もありませんでした。全国どこの僻地、
離島でも似たような状況だったと思うのですが、タバコ屋が子供
の頃には「棺桶屋」というあまり響きの良くない言葉の職業が
あり、そこの息子なんかはカンオケヤの息子とか今で言う差別
用語で呼ばれていたような気がします。その棺桶というのも今の
ように垢抜けたものではなく、粗末なお棺だったように記憶して
います。
野辺送り8
いざ葬儀ともなるとお棺以外の諸々の道具を作る必要がありま
した。当時は野辺送りの儀式として、たいていは自宅からその
町村のはずれにある式場までの練り歩きがあり、幟(のぼり)旗
から始まって辻々で撒き散らす紙吹雪とか遺族が手に持って歩く
小道具とか今となっては滑稽きわまりないようなものを隣近所や
親戚の男性が集まり、真面目くさって作るのです。また女性は
その方々や葬儀に案内した方々のまかない料理を手作りでこし
らえてふるまうのですからもう葬儀の前後3~4日は、つきっきり
という状態でした。
中島昔の野辺送り
この写真はタバコ屋がへたなイラストで当時の記憶を元に野辺
送りの様子をスケッチしたものですが、田舎ではどこも似たよ
うな状況だったと思うのです。都会では古くから葬儀屋があり
タバコ屋の松山での高校時代の同級生にも葬儀屋の息子がおり
ました。しかし田舎、離島では依然として葬儀屋ではなくご近所
親戚が葬儀のお手伝いと施行をする習慣が根強く残っていたと
思います。
野辺送り6
やがて昭和時代も終わり頃になると、田舎にも都会のスマートな
やり方が序々に浸透してきました。映画「お葬式」はそういう社会
状況のもとで制作されました。
野辺送り7
中島のお話しに戻ります。昭和も終わり平成の世となっていま
したが、島でもすでに棺桶屋というようなショウバイはなくな
っており、実はタバコ屋の親戚筋にあたる「おばさん」がお棺
をはじめ葬儀用品を扱うお店をやっていました。葬儀屋ではな
いので、いざ葬儀になると親戚の方がそこへ必要なものを買い
に行き、あとは自分たちで葬儀一切の準備と施行を行うのです。
ホームセンター2
ある日のことでした。それはタバコ屋が島で唯一のホームセンター
をオープンして多忙にしていた頃でしたが、その「おばさん」が
やってきてもう年をとったので自分の店を引き継いでくれないか
というものでした。タバコ屋にとっては専門外のことであり、また
縁起でもないと思いお断りしたのですが、飽きずに何度もやって
来るのです。最後にはとうとう根負けをして引き受けることになっ
てしまいました。平成10年、タバコ屋が48歳の頃のお話です。
赤い霊柩車2
写真はタバコ屋のお気に入りの片平なぎさちゃん主演の山村美沙
サスペンス「赤い霊柩車」シリーズで脇役の大村昆さんと絶妙の
コンビで京都の葬儀社のまわりでおこる様々な事件を解決していく
番組でしたが、葬儀屋のことが少しはわかるかと思いよく見ていた
記憶があります。
赤い霊柩車1
それはともかくやる以上はと思い、実態を調べてみると実は松山
の某葬儀社から特約店的な関係で一切の品を仕入れていました。
今風に言うとお葬儀用品のフランチャイズシステムとでも言うので
しょうか。その葬儀社さんと今後の打合せをしたところ意外な話
を持ち出されたのです。タバコ屋さんは島でいろいろショウバイを
されているのでこの際「葬儀屋」もやってはどうでしょうか。という
ものでした。そのお気持ちがあるならノウハウは当社がお教えする
のでその代わり極力商品仕入れは当社経由にしてほしいと言われ
ました。タバコ屋も50の手習いということになり、かなり躊躇しまし
たが時代も変わりつつあり、島にもせめて一社くらい葬儀屋は必要
だと感じていたので、思い切ってゼロから教わることにし、その後
数年かけて葬儀屋のオベンキョウをするはめになったのです。
たんぽぽロゴ1-1
さて今回のたんぽぽにまつわる一連の記事の謎解きをしなくては
なりません。タバコ屋は新しい事業として葬儀屋を始めるに当たり
その社名を何と言う名前にするか、わが子に名前を付けるのも一緒
でかなり悩みました。その時ふと浮かんだのが伊丹さんの「お葬式」
と「タンポポ」でした。そうだ新しい社名は「たんぽぽ」にしようと直感
で思ったのです。幸い松山界隈では「たんぽぽ」という社名を使って
いるところはありませんでした。
たんぽぽロゴ1
ただ、ここだけの話ですがタバコ屋が知っている限りでは「たんぽぽ」
という名前でショウバイしているのは松山のある飲み屋(クラブ)と
広島のお好み村の3Fにあるお好み焼き屋さんだけです。(今では
あるかどうか・・・?)
ついでに言うなら、愛媛では著名な詩人の坂村真民先生(念ずれば
花開くというコトバが有名です)の記念館として松山市の郊外に
「たんぽぽ堂」というのがあります。
恥ずかしながら、社名のたんぽぽの文字はタバコ屋自身の手で書い
たものでその意味ではかなり愛着のある社名ともなりました。
尚、イメージカラーはタバコ屋の母校、同志社大学のスクールカラー
でもある「紫」とさせて頂きました。(正式にはロイヤルパープルと
いう色だそうです)
大浦地区(公民館)5
写真は地元の公民館を使用してたんぽぽが施行したお葬式の一
例ですが、葬儀屋のオシゴトを甘く見ていたタバコ屋はその後、
夜昼関係ないお葬儀業について地獄の日々が待っていようとは
夢にも思いませんでした。目くら蛇に怖じずとはこのことを言うの
でしょうか。
大浦地区(公民館)2
おもしろ傑作川柳に「プロポーズ、その日に帰って断りたい」と
いうのがありますが、お葬儀のお世話で寝る間もない時などは
それを思い出し「(葬儀屋の)引き受けをその日に帰って断りたい」
と思ったことも何度かありました。
ただその後の中島は「たんぽぽ」の出現により旧来の習慣が一変
し、キョンシーの行列及び八つ墓村みたいなものはすべてなくなり、
都会の葬儀に近い形が徐々に出来ていった訳で、その意味では
島の生活の近代化に役立ちたい」というタバコ屋の切ない願いは
少し果たせたかなと思います。
大浦地区(寺院)
葬儀の会場も自宅を使用することがなくなり、公民館とか写真の
ように菩提寺の本堂をお借りして施行するようになりました。
写真はたんぽぽ流のお荘厳(しょうごん)表現ですが、手前味噌
で恥ずかしながら結構シンプルかつ厳かにまとめていると思うん
ですけど・・・。

また葬儀に関わる仕事をするしないは別にしてタバコ屋は中国の
道教(俗習)の影響が大きいと思われる日本の旧来のキョンシー
まがいの習慣が大嫌いだったので、それをなくするという望みも
叶えることが出来ました。多分熱心なクリスチャンだった実母の
影響もあったと思いますが、その母親もそのようなチンケな習慣や
当時の女性蔑視の社会状況が嫌で嫌でたまらなかったのだと思
います。タバコ屋がかつて新島襄、八重夫妻が興した同志社大学
に学んだこともその後の人生観を大きく左右したのかも知れません。
中島斎場1
余談になりますが近年、島内の火葬場が甚だしく老朽化し、島民
の方々も松山で葬儀をするようになってしまい、「たんぽぽ」も
その役割を終えたかなと思っていましたが、昨年春松山市によって
写真の近代的な斎場が島に建設され島民の方々も序々に新斎場
を利用するようになりました。そうなると一転「たんぽぽ」も再び
忙しくなってくる訳で、島の波打ち際で辞世の句を読んでいる場合
ではなくなりつつある今日この頃です。
FF第二工場1-1
余談の余談ながら、タバコ屋は島の特産品である柑橘を使用して
ジュースやジャムを作る工場を建設したのですが、写真はその建設
中のものです。偶然なんですが、新設の斎場とデザインがよく似て
おり、また屋根や壁に使用している材料もガルバ鋼板という最新式
のもので他人の空似とは言え、何やら因縁を感じます。
たんぽぽ5
今回は野に咲く可愛い花、たんぽぽに始まり映画「タンポポ」や
「お葬式」にからんで「たんぽぽ葬儀社」が誕生したいきさつを
お話し致しました。尚、前回お約束した伊丹さんのカーマニアで
もあった一面や、その後の彼のことについてはVOL.5にてお話し
したいと思います。今日のところはこの辺で・・・。


ハローたんぽぽ vol.3

平成26年3月8日
俳優としてスタートした伊丹十三氏ですが、一方で父君の伊丹
万作氏同様、イラストレーター、エッセイストとして多彩な才能を
発揮しつつありました。それと前後して彼の溢れる才能はまず
TVで紀行番組のハシリだった「遠くへ行きたい」のコーディネー
ターと言いますか旅の案内役として開花しました。
遠くへ行きたい3
ここでおさらいの意味で「遠くへ行きたい」のご説明をしますと、
昭和45年のオンエアー以来今日まで続く超長寿番組で、最初
はご存知永六輔氏がプロデューサー兼メインキャスターであった
ものの、諸々の事情で降番しその後は伊丹さんや渡辺文雄さん
をはじめ諸々の個性的な俳優さん達が担当するようになりました。
タバコ屋の若き日、D大学自動車部2回生の頃のお話です。
遠くへ行きたい11
忘れられないのは、その永六輔氏が作詞しコンビの中村八大氏が
作曲した番組のテーマ曲「遠くへ行きたい」ですよね。当時売り出し
中の混血歌手ジェリー藤尾さんが歌って大ヒットしました。
遠くへ行きたい14
「♪知らない街を歩いてみたい~、どこか遠くへ行きたい~♪」
今でもタバコ屋はその歌詞をそらんじて言える程ですが、戦後の
焼け跡から脇目も振らず無我夢中で突き進んできた戦中派世代、
及びその子供達が高度成長時代を迎えるにあたり、ふるさと日本
のどこか遠くへ旅してみたいという衝動があったと思うのです。
その後、百恵ちゃんの「いい日旅立ち」など、名曲も生まれたり
しましたが、そのハシリの番組ではありました。伊丹十三氏はその
初期の頃の作品で登場したのです。
遠くへ行きたい16
凝り性の彼は案内役だけでなくその制作にもかなり関わっていた
ようで、それはその後の映画監督としてデビューする素地が出来
つつあったとも言えます。その頃の番組制作風景です。
遠くへ行きたい12
この写真は彼が天空の地、天竜川の上流の伊那谷を訪ねるシーン
で、段畑の急斜面下に点在する家々を眺めているところです。
伊丹十三3
やがて彼はそれだけでは飽き足らず、自ら映画を製作したいと思う
ようになり、その記念すべき第一作が「お葬式」でした。彼も才能は
あったにしても、映画製作にあたってはまず先立つものがいる訳で、
それには故郷松山の老舗菓子舗「一六本舗」が影のバックアップを
し、無事制作に励むことが出来ました。蛇足ながらそこのオーナー
は玉置泰さんで、元電通に勤務した後一六グループの社長となりま
した。尚、生い立ちや学校は異なりますが玉置さんとタバコ屋とは
同級生で、両方の先代同志は親しい交流があったと聞いています。
また一六グループはタバコ屋同様あれこれショウバイをやっており、
スーパーとレストランも経営している多角化企業です。
お葬式1
彼の息子さんが描いたイラストを映画のポスターに採用したと言う
極めてユニークなポスターですが、この映画の内容を予感させるよう
な「おかしみ」に満ちています。

お葬式4
皆さん、ほとんどの方はストーリーをご存知だと思いますが、例に
よっておさらいの意味で簡単にご説明しますと・・・。
ある日、俳優の井上侘助と妻で女優の雨宮千鶴子は夫婦共演の
CM撮影を行っているとそこに突然連絡が入り千鶴子の父・真吉
が急に亡くなったという。親族代表として葬式を出さなくてはな
らなくなった侘助はマネージャー里見の助けを借りつつも途方に
暮れる。千鶴子の母・きく江や千鶴子の妹・綾子夫婦、そして
真吉の兄らととともに遺体を伊豆の別荘に運び、お通夜の準備に
取り掛かる。葬儀屋・海老原とともに、お通夜当日の朝を迎える
侘助達。付人も応援に駆け付けたが、そこには喪服を着た侘助の
愛人・良子も来ており、通夜でありながら良子は侘助にあられも
ない要求をし、二人は人目を忍んで茂みの中へ・・・。
お葬式2
どたばたが繰り返され、葬儀の時にはお香典が風に吹き飛ばされ
たり、肝心の喪主挨拶は侘助がもたもたする中、かわりに故人の
兄正吉がやったりと、悲しいお葬儀でありながら笑いに包まれる
コメディーに仕上がっています。タバコ屋には出棺のあと煙突から
立ち昇る火葬の煙を皆が見上げるシーンが印象的でした。
お葬式6
伊丹監督の基本コンセプトは泣き笑いのストーリーの中で、食べる
ことやお金のこと、また男女関係について「人間の業」というもの
を深く掘り下げ、彼なりの価値観、人生観でそれを表現することに
あったように思います。
今まで採り上げられることのなかった「お葬式」というテーマを
あえて採り上げたこのデビュー作は彼の実際の体験を映画化した
もので、笑いの中にもリアリティがあり、また制作は費用を節約
するため、箱根湯河原にある彼の別荘を使用するという徹底ぶり
でした。ちなみに制作費は1億円だったそうで、裕ちゃん主演の
栄光への5000キロが今の貨幣価値で10億円以上かかったの
と比べればそのスケールは格段の違いがあるものの、超省エネ
映画だったといえます。タバコ屋の荒っぽい計算ですが、出演の
俳優さん達へのギャラが5,000万、その他の経費が5,000万
程度ではなかったのでしょうか。
伊丹十三6
昭和59年発表のこの作品はタバコ屋が34歳の頃でありその後
立て続けに「タンポポ」「マルサの女」「あげまん」「ミンボーの女」
「スーパーの女」「マルタイの女」と話題作、問題作を発表していき
ました。
すべてをご紹介することは出来ませんがタバコ屋にとっては映画
「タンポポ」と「お葬式」が濃厚にリンクしているのです。その訳は
次回VOL.4以降でお話しすることにして今日のところはこれで終わ
ることに致します。



ハローたんぽぽ vol.2

平成26年3月2日
前回の記事でご紹介した伊丹十三氏はまず俳優として
デビューした訳ですが、初期の出演作品で「北京の55日
というのがありました。
北京の55日1
封切りは昭和38年(1963年)と言いますから、タバコ屋が
まだ中学生の頃であり、実際に見たのは後年TVのロード
ショーだったと思います。主演は世界のトップスター、チャ
ールトン・ヘストンでその脇役はデビッド・ニーブン、及び
美人女優のエヴァ・ガードナーでした。
北京の55日2
ストーリーは皆さんご存知の方も多いとは思いますが、
おさらいの意味で説明しますと、明治の世、黄昏の中国、
清王朝にあって欧米列強に蹂躙されていた状況を憂い、
大規模な宗教結社である義和団が暴力による外国勢力
排斥の行動を起こし、北京の外国人居留区に押し寄せ
包囲したのをきっかけに当時の清国皇帝の立場にあった
西太后が今まで欧米列強にいいようにされていた恨みを
晴らすため義和団を支持し国ぐるみで列強に宣戦布告、
しかし当時の清国の武力は極めて幼稚なレベルで日本を
含む欧米列強の圧倒的な火力によりすぐさま敗北、その
後の清国滅亡を早めた結果となりました。この事件は後日
義和団事件」又は「北清事変」と呼ばれ「北京の55日」は
その時の出来事を映画化したものです。

蛇足ながら、こてんぱんの理由は義和団と清国正規軍が
刀、槍とチャチな鉄砲、大砲だったのに比べ、欧米軍及び
急速に近代化を遂げた日本軍の装備は格段の火力を備
えており、それこそ赤子の手をひねるも同然のことにて、
例えは悪いですがダイハツミゼットと三菱ランサーエボリ
ューションがゼロヨンレースするようなもんです。分かりや
すいでしょう・・・。
北京の55日3
映画では北京の外国人居留区を包囲した義和団は、ナラ
ズ者で欧米が正義の戦いをし、それを撃破したように描か
れていますが、実際はやや異なり日本の尊王攘夷運動の
よなナショナリズムの運動であって、義和団のスローガン
は「扶清滅洋」(清をたすけ洋を滅ぼすべし)というもので
した。
北京の55日8
この時の2ヶ月に及ぶ籠城戦を指揮し防衛に成功した立役
者は欧米の武官でなく日本の駐在武官「柴五郎陸軍中佐
でした。柴中佐は会津藩出身の気骨溢れる軍人でしたが、
英語、仏語、独語、中国語に堪能でそのため寄せ集めの
籠城部隊の指揮統率を上手にやり、後日には各国から賞
賛されることになりました。映画ではその役を伊丹十三氏
が演じたのです。
北京の55日4
かくして55日間に及んだ北京の籠城戦は応援に駆けつけ
た日本軍の大活躍により無事成功し北京は解放されたの
ですが、犠牲も多くその筆頭はやはり日本軍でした。
この写真はその6年程前に日清戦争に大勝利していた日
本軍が、今回の事件で再び誇らしげに北京に凱旋入城し
ているところですが、この時ロシアの北京派遣軍はどさくさ
に紛れて満州を占領し、結果としてその後の朝鮮半島を含
めたミリタリーバランスの不均衡を招くことになり、それが
4年後の日露戦争に繋がる直接要因となりました。詳しく
は司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」をお読み頂きたい
と思います。
裕次郎記念館P510-0
さて伊丹十三氏はその後映画出演を重ねましたが、何と
言っても忘れられないのが我らが裕ちゃんの映画「栄光へ
の5000キロ
」ではないでしょうか。この映画は昭和44年(
1969年)に封切られましたがタバコ屋が同志社大学自動
車部に入部した年で、石原プロダクションが「黒部の太陽」
に続いて制作した第2作目にあたります。
当時は高度経済成長真っ盛りの時代で急激なモータリゼ
ーションの普及とともにトヨタ、ニッサン等国産メーカーが
海外へ雄飛しようとしていた時期でした。当然ブランドの認
知度を高めるため国際的なレース、ラリーに積極的に参戦
しつつあった時代背景があります。日産自動車とタイアップ
し、巨費を投じて制作したこの作品は当時としては見応え
があり、レース、ラリー熱の高まりもあって興業的にも成功
した第一級の作品でした。主役は当然我らが裕ちゃんで
恋人役が浅丘ルリ子、脇役として三船敏郎、仲代達也等
当時のトップスター達が総出演という感じでした。
栄光への5000キロ1
タバコ屋世代の方であれば、そのストーリーはご存知だと
思うのですが念のためご説明致しますと、プロのレーサー
である五代(裕ちゃん)は親友でもありライバルでもある
ピエールと一緒に世界各地のレースを転戦していたので
すが、モンテカルロラリーでの事故をきっかけにうまくいか
なくなりそれぞれの恋人との微妙な事情もあったりして別
々の道を歩むことになりました。
ニッサンR381-4
しかし期せずしてその後日本GPでは二人はライバルチー
ムのマシンをドライブすることとなり五代はピエールの走
行妨害により結果として2位に留まったのです。五代がドラ
イブしたのがニッサンR381でこれは実際には日本GPで優
勝したマシンでした。ニッサンにその高い技量を認められ
た五代は東アフリカに舞台を移し、世界一苛酷なラリーと
して知られるサファリラリーに挑戦することになりました。
その時のマシンがダットサンP510、通称ブルーバード1600
SSSでした。
裕次郎記念館P510-4
当時ニッサンは実際にサファリラリーに挑戦しており、この
映画の撮影に当たっては撮影用の車を実際にエントリーさ
せ、競技に参加しながら撮影した訳ですが、驚いたことに
ロケの撮影車が総合5位に入賞したのです。ちなみに裕ち
ゃんの影のドライバーはエドガー・ハーマンで、その手腕を
買われて翌年はニッサンワークスチームとして同じP510で
参戦し見事に初の総合優勝を果たしました。
(関連記事:今出川でのこと vol.1参照願います)
裕次郎記念館P510-1
裕ちゃんが撮影に使用したP510ブルはゼッケンNO.90で
したが、翌年初の総合優勝を果たした車はゼッケンNO.4
で、そのスペックも翌年型はフロントにオーバーフェンダー
を装着しており、エンジンのパワーアップ及び各部の補強
もされ、より進化した形状になっています。
ボディカラーもそれまでのB410や撮影時のP510までは赤
みがかったエンジ色でしたが、翌年からはニッサン純正の
レッドとなりました。
栄光への5000キロ3
さて伊丹十三氏のことです。彼はこの映画でニッサンラリ
ーチームの監督という役柄で出演していました。五代のド
ライブする車をサポートして勝利に導くために汗と技術と
知恵の限りを尽くすという地味な役柄を好演しました。
浅丘ルリ子2
五代はその献身的なサポートによく応え、また日本GPの
雪辱を果たす意味もあり、再び立ちはだかったライバルの
ピエールと手に汗握るデッドヒートを展開しつつ、レースの
途中では疎遠になりかかっていた恋人(浅丘ルリ子)が手
編みのセーター持参で応援に現れたことで再び絆を取り
戻すという粋なストーリーも挿入されました。
5000キロに及ぶ苛酷なレースの終盤、スタートでは90番と
いう不利な位置からスタートしたにも拘わらず五代の驚異
的なドライブでトップ争いに加わり最後の最後には意外な
展開で五代はついに栄光のゴールを・・・。後のことはDVD
でお楽しみ頂きたいと思います。

尚、どうでもいいことながら、ルリ子さんが右手に持ってい
るのはF1マシンかあるいはインディカーの模型だと思われ
ますが、何故彼女がこれを持っていたのか、多分裕ちゃん
がレースの夢を語っている場面だったのかも知れず今とな
ってはもう一度映画を見てみないと思い出せません。
それにしてもルリ子ちゃんの何といじらしいことか、関係な
いですが都はるみさんの「北の宿から」をつい思い出して
しまったタバコ屋です。「着てはもらえぬセーターを涙こらえ
て編んでます・・」やはり女子は美形に生まれる必要があり
ます。
栄光への5000キロ5
この写真は映画ではなく、実際翌年に総合優勝した時のも
のですが、ドライブクルーもサポートチームもその喜びは
ひとしおだったと思います。ニッサン本社においても当分
お祭り騒ぎだったのではないでしょうか。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照願います)
裕次郎記念館P510-2
尚、自身カーマニアでもあった裕ちゃんは当時の撮影車
を大切に保管していました。サファリでの激走に耐えた
その撮影車は現在小樽の石原裕次郎記念館できれいに
レストアされ静かに余生を過ごしています。タバコ屋は実
際その目で確かめることが出来たので、今はささやかな
満足感に浸っています。

尚、別記事でも紹介していますがここ小樽は同志社大学
自動車部の部長先生だったオーテス・ケーリ先生のふる里
でもあり、当時の日活スターで裕ちゃんとよく共演していた
二谷英明氏は同志社アーモスト館出身で、そのアーモスト
館館長であり、タバコ屋の所属していた自動車部の部長
でもあったオーテス・ケーリ先生とは生涯親交を持たれて
いたようです。
(関連記事:札幌紀行 vol.2:小樽へ参照願います)
栄光への5000キロ2
伊丹氏のことを書くつもりが裕ちゃんのことやダットサン
P510のお話しになってしまいました。ついでながら伊丹氏
も裕ちゃん同様熱心なカーマニアだったのですが、そのこ
とはVOL.3でお話することにして今日のところはこれで終わ
りにしたいと思います。

尚ここだけの話ですが、裕ちゃんは浅丘ルリ子さんと数多
くの作品に出演し当時はラブラブで本当はルリ子さんと結
婚するのではと言われていました。実際は北原三枝さん
と結婚した訳で、判官びいきのタバコ屋とすればルリ子ち
ゃんが可愛そうでした。名前は言いませんが当自動車部
でタバコ屋の一期後輩にも可愛い女子を袖にして泣かせ
た不届きな男がいました。


ハローたんぽぽ vol.1

平成26年2月23日
春を告げる代表的な花と言えば菜の花やスミレが思い起こされ
るでしょうが忘れてならないのが「たんぽぽ」ではないでしょ
うか。踏みつけられても逞しく生きる雑草の代表選手としても
有名ですが、葉っぱはアザミのようでイマイチながら黄色い
可憐な花と綿菓子のようなふわふわした種子は「たんぽぽ」
という可愛らしいネーミングと相まって、春の訪れを感じさせ
る花というか野草だと思います。
たんぽぽ5
さて、昭和60年と言いますから今から30年程も前に封切ら
れた映画で「タンポポ」というのがありました。恥ずかしながら
団塊世代の末裔にて万博世代のタバコ屋35才の頃のお話です。
監督は伊丹十三氏、主演はその実際の奥様で宮本信子さん及び
相手役が山崎努氏でした。
たんぽぽ1
タバコ屋世代の方はほとんどの方が、映画やTVのロードショー
でご覧になっていると思いますが、おさらいの意味で簡単にその
ストーリーをご説明しますと・・・
タンポポ4
長距離トラックの運転手、ゴロー(山崎努)とガン(渡辺謙)が
とあるさびれたラーメン屋に入ると、店主のタンポポ(宮本信子)
が幼馴染の土建屋ビスケン(安岡力也)にしつこく交際を迫られ
ていたところでした。それを助けようしたゴローだが逆にやられて
しまう。翌朝、タンポポに介抱されたゴローはラーメン屋の基本を
手解きしタンポポに指導を求められる。そして次の日から「行列の
できるラーメン屋」を目指し、厳しい修行を始め、その後様々な
キャラクターの登場人物が交錯して最後は「タンポポ」という
ラーメン屋が大繁盛と言うハッピーエンドで終わる物語です。
たんぽぽ3
この作品は一種のサクセスストーリーだとタバコ屋は思うのですが
それはともかくこの映画の面白いというかやや変わったところは
いろんなキャラクターの人物が現れてそれぞれ独立した短編物語
を構成しており、一種オムニバス風のコメディとなっているように
タバコ屋は思います。それも随所に伊丹十三氏のエスプリと含蓄が
出てきて、伊丹氏独特の「泣き笑い」という世界へ観客をさそい込ん
でゆくのです。
たんぽぽ2
この写真なんか、笑ってしまいそうなんですが、ラーメンの権威と
いう役柄で出演した故、大友柳太郎氏です。真面目くさった顔で
ラーメンの極意、含蓄をガン(渡辺謙)に話しているシーンです。
大友柳太郎と言えばかつて泣く子も黙る東映時代劇の剣劇スター
として数多くの映画に出演した大スターですよね。伊丹監督は
その大スターをこともあろうにラーメンの先生役に抜擢したのです。
そこが彼一流のエスプリと言いますか、パロディと言いますか
タバコ屋が好きな部分でもあるのです。伊予言葉では彼のような
感性の持ち主をYOMODAと言います。
大友柳太郎1
余談になりますが大友柳太郎氏は広島生まれ(能美島)の山口
(柱島)育ち、長じてはタバコ屋の母校でもあり、かつて明治の
世には夏目漱石が赴任し後年小説「坊ちゃん」の舞台ともなった
松山中学(愛媛県立松山東高校)の出身なのです。と言うことは
タバコ屋の大先輩ということになります。
伊丹十三2-1
また肝心の伊丹十三氏は映画の脚本家、監督だった父の伊丹万作
氏の長男として京都で生まれ一時東京で生活したものの幼少時は
京都で育った生粋の京都っ子でしたが、終戦後父の生まれ故郷で
ある松山に帰り多感な時代を過ごしました。父と同じ松山東高校
に入学し、当時在学中のノーベル賞作家、大江健三郎氏と親しく
交流しましたが、どういう理由だったのか同じ市内の松山南高校
に転校してしまいました。紆余曲折のため彼が高校を卒業したのは
20歳だったと言います。したがってタバコ屋としては先輩ではある
ものの微妙な関係となっています。同級生でもあり親交のあった
大江健三郎氏とはその後も伊丹氏の妹が大江氏に嫁ぎ、より深い
親戚関係となっていきました。
タンポポ5
映画タンポポに戻ります。かくしてタンポポ(宮本信子)はさびれた
ラーメン屋をまわりの暖かい応援により泣き笑いの末繁盛店へと変身
させハッピーエンドとなる訳です。先ほどこの作品はオムニバス風
だと申し上げましたが、劇中で役所広司や井川比佐志、大滝秀治等
芸達者な脇役が出てきて、意味不明ながらもそれぞれ独立した物語
を挿入し、人間の食べることに対する業のようなものや、男女関係
の業について演じておりそれが伊丹流プロデュースということなの
かも知れません。タバコ屋はそのYOMODA感覚が大好きなので
すが、興行的にはややストーリーが散らかったせいなのか成功しま
せんでした。
たんぽぽ3
たんぽぽとラーメン映画「タンポポ」一見何の関連もないことながら
タバコ屋がたんぽぽのことをお話しするにはどうしてもこの映画の
ことから始めなければなりませんでした。

本来なら、これからいろいろお話しして長たらしい記事となるのです
が、有力なコメンテイターのご助言もあり今回はここまでとし、後は
vol.2にてお話ししたいと思います。お楽しみに。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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