福井巡礼 vol.9:出会いと別れ

平成29年9月3日
福井巡礼初日はあっという間に終わったものの、記事
においては8編を要することとなり、その中身はと言うと
日本自動車博物館のオクルマに関することがかなりの
部分を占め、タバコ屋のお好きなカテゴリーとは言え、
ちと度が過ぎたようにも思います。
DSCN3679.jpg
さて、初日の夜も更け3人衆各自ホテルの部屋でご就寝
となった訳ですが、前回記事で予告したように、深夜とん
でもない事件が起こりました。その事件とはまずこむら返
りで足が引きつり、その痛みで深夜飛び起きてしまったこ
とです。別に勝家公の怨念でもあるまいに、しばらく部屋
でストレッチしたりして痛みはなんとか治まりました。しか
しそれから程なく午前3時過ぎだったでしょうか、突然左
胸の腕の付け根あたりが鈍く重い痛みに襲われました。
別に重いものを持った訳でもないのに何故だろうと思い、
水を飲んだり部屋の中をうろついたりしましたが、中々
収まりません。よっぽど隣室の平尾センセを呼ぼうと思
ったりもしましたが、彼も何でも出来るスーパーマンなが
らドクターではないのでご迷惑だと思い、辛抱していると
やっと収まったので事なきを得ました。尤も、かつて若か
った彼も今では高齢者の仲間入りで午前4時頃には目が
覚め、福井城祉のお堀端を散歩でうろついていたそうで
すので声を掛ければ良かったのでしたが・・・。

後日談として、タバコ屋は島に帰った後、再び深夜に同
様の痛みに襲われ島の病院でドクターに相談したところ、
「多分、このままですと今晩死ぬかも知れません」などと
言う物騒なことを宣告され、慌てて松山の総合病院で再
検査したところ、同様の診断結果にて即、心臓のカテー
テル手術となりました。病名は初期の「狭心症」でした。
狭心症1
つい最近まで心臓手術と言えば胸をかっさばいて行う恐
ろしい大手術というイメージがありましたが、タバコ屋が
受けた手術は手首の付け根から細い管を血管に挿入し、
それを心臓まで送ってつまりかけた血管を風船と呼ばれ
る拡張器で膨らませ、再びしぼまないようステントと言う
金属メッシュの管を挿入するというハイテク手術で、今で
はあたりまえの手術となっているそうです。万博世代の
タバコ屋にしてみれば「すごい」の一言に尽きるのですが
レオナルド・ダビンチもビックリポンの急速な医学(医術)
の進歩には驚かされますよね。
レオナルド・ダビンチ2
余談ながら、術後タバコ屋は生まれて初めてICU(集中
治療室)なるところを経験しました。とにかくかみさんに
も知らせずに来たものですから完全看護は有難かった
のですが、尾篭な話しながら尿意を催した時が困りまし
た。絶対安静にてトイレに行くのが禁止!なのです。従
ってベッドの上でYARUしか選択肢はありませんでした。
ナース1-1
うら若き(多分25才前後の)ナースが、ご自分で出来なけ
れば私が尿瓶(しびん)をそっとあてがって差し上げます
よと優しく囁いては頂いたものの、奥ゆかしいタバコ屋と
してはLADYの介添えで堂々と放水する勇気はありませ
んでした。結局ドクターから特別許可を得てベッドのそば
で一人で立って放水作業をすることで事なきを得ました。
スッキリ!。
DSCN4026.jpg
術後の後日談として、手術の翌日ドクターに退院したい
旨申し入れたのですが、いくら手術が簡略化されたとは
言え、翌日退院した患者は今まで皆無だそうで数日は
静養して退院されては如何ですかと勧められましたが、
翌日には倅、若嫁、初孫と一緒に花見の食事を約束し
ていたので、可愛らしいナースには後ろ髪を引かれつつ、
一方的に退院することにしました。結構無茶なおっさん
ですよね。
ミクロの決死圏1
遠い昔の記憶ながらタバコ屋が高校1年生だった昭和41
年(1966年)に「ミクロの決死圏」というSF映画が封切ら
れました。ストーリーは荒唐無稽なもので近未来に物質
をミクロ化する技術が実現されたのですが、ミクロ化は1
時間が限界でそれを越えると元に戻ってしまうのです。
アメリカはこの限界を克服する技術を開発した東側の科
学者を亡命させるものの、敵側の襲撃を受け科学者は
脳内出血を起こし意識不明となりました。科学者の命を
救うには、医療チームを乗せた潜航艇をミクロ化して体
内に注入し、脳の内部から治療するしかないのです。
はたして1時間のタイムリミット内で、チームは任務を遂
行し体内から脱出出来るのか・・・と言うアクションSF映
画でした。
ラクエルウエルチ1
タバコ屋の記憶に残っているのはその奇想天外なストー
リーもさることながら、体内に潜り込む決死隊の一員だ
った肉体派女優のラクエル・ウエルチでした。名前から
してもうムチムチしていますよね。
ラクエルウエルチ6
ここだけの話ながら、タバコ屋の1期後輩で京都の老舗
和紙店のいとはんF嬢はウエルチと互角のプロポ-ショ
ンにて合宿中の男子部員を随分悩ませたと聞き及んで
います。

今回の手術に際しふと昔の映画を思い出したタバコ屋
でしたがもしナースがこのようなお姉さんだったとしたら、
翌日退院するようなバカなまねはしなかったと思います。
DSCN3680.jpg
さて長い前置きとなりましたが、福井巡礼2日目はまず
地元野尻君の経営する野尻コンクリート工業を表敬訪
問することにしました。彼の会社は道路に使うコンクリー
ト製のU字溝やその蓋、取水マスあるいは山間部の土
止め用ブロックやその他建築現場で使用するあらゆる
コンクリートパーツを作っている会社で、福井県でも有
数もしくはトップ企業だとお見受けしました。

ついでながら、彼は県内外で交流が広く近々福井葵ライ
オンズクラブの会長を拝命されるとのことで、多忙に輪を
かけることになると推察致します。
DSCN3682.jpg
梅田のブリンナーこと上山青年が一期後輩の野尻君と
何やら話し込んでいるようですが、察するに「野尻よ、
すまんがこの車止めブロック1セット分けてくれんやろか、
俺近々BMWの4WD買うんやけど、マンションの車止め
壊れてるんや」とか・・・。
DSCN3684.jpg
アオリ大魔王こと平尾センセはと言うと、察するに「いや
実は京都府庁横の俺んとこの事務所もな~元中学校の
再利用なんやけど、取水マスがあちこち壊れてんねん、
野尻よ、すまんけど見積り貰えへんやろか」とか・・・。
DSCN3687.jpg
以前野尻君の青春オデッセイアの記事でご紹介をしたこ
ともある懐かしのご実家です。昭和40年代は日本国中ど
こも新築と言えばこのようなデザインの家でした。ショウ
バイ道具が所狭しと置かれていますが、その脇には朽ち
果てつつあると思われるかなりクラシカルな年式の軽四
バンが止まっていました。何故ここにあるんだろう?。
ちなみに当時の三種の神器は3C即ちカラーTV・マイカ
ー・クーラーでしたよね。エアコンなんてずっと後のお話
です。
DSCN3686.jpg
朝日を背に受けて本社ビルをパチリ、この建物はもとよ
り美人ママ(奥様)の住む豪邸もすべて彼の設計だと言
いますから、ちょっと職業間違えたかも知れませんよね。

ちなみに島のタバコ屋は他の人の仕事を奪ってはいか
ん!という固い信念のもと、今まで行った数々の投資
(店舗等)をはじめ、古いオクルマのレストアに至るまで
すべて丸投げを徹底してきたため、いつしか人知れず
島の丸投げ王」と呼ばれるようになったとか。
DSCN3704.jpg
さて巡礼団4人衆は本日の最初の目的地「恐竜博物館」
に到着です。お出迎えは恐竜のモニュメントでしたが、そ
の近くにはオクルマ業界の恐竜であるTOYOTA・FJクル
ーザーが停まっていました。とにかくデカイです。パワー
、トルク、図体、どれを取っても恐竜並みです。

蛇足ながら、同行の平尾センセもつい最近までこれと同
等のパジェロ4ドア・ロングボディなる獰猛な恐竜を飼育
されていましたが、恐竜時代の終わりを悟られて泣く泣く
手放されたという噂です。
DSCN3694.jpg
巨大なエントランスの吹き抜けを下り、いよいよ恐竜の
ご遺骨?の展示場へと向かいますが、エスカレーターを
降下中の野尻君と上山君はお線香とお数珠は持ってな
いようです。
DSCN3699.jpg
ありました。ありました。皆さんよくご存知のように恐竜
は中世代と呼ばれる今から2億年前という気が遠くなる
ような昔の時代に生息繁栄したイキモノなんですが、そ
れでも地球の誕生が45億年前だそうですのでそれから
見ればごく最近ということにはなりますよね。
DSC_3991-1.jpg
その中世代でも後半の白亜紀と呼ばれる1億年前前後
が最も栄えたらしく写真のティラノサウルスやステゴサウ
ルス等我々になじみの深い恐竜が王者としてのし歩い
ていたようですが、当時は我々人類の祖先である哺乳
類なんていうのは今で言えばアリンコ程度の存在で、
恐竜様の天下が長く続いたのでした。しかしある日突然
大異変が・・・、その後のことは皆さんよくご存知なので
申し上げるまでもないのですが、当時「奢る平家は久し
からず」なんて諺はなかったものの同じことが起こった
訳でして。
DSC_4015.jpg
とても短時間では見学しきれないご遺骨の数々を前に
野尻君とタバコ屋は1億年前の地球に思いを馳せたの
ですが、架空の会話ながら「野尻君、こんなんにガブッ
とやられたら一たまりもないやろな」親鸞、蓮如ゆかり
の地、福井の人である野尻君は「チャンさん、そんな時
はもう南無阿弥陀仏と唱えてお浄土へお参りする覚悟
を決めるしかないでしょうね」
DSC_3988-1.jpg
見学を終えた島の丸投げ王は恐竜博士と仲良く記念撮
影となりました。「おぬしも福井のために励まれよ」とか
言葉を掛けたのかどうか忘れましたけど。
DSC_4021.jpg
恐竜の聖地から下山途中、立山連峰を背後に望む白
山勝山スキー場に立ち寄りました。3月下旬とはいえ雪
深い景色は南国中島では考えられない異国の風景でし
た。みやげ好きのタバコ屋は、先般札幌東急百貨店で
催事をしたばかりでしたが、同じ東急の経営するリゾー
トホテルでお土産に白山ワインを買い込みました。誰に
差し上げるのかと申しますと、札幌の帰り際に催事を
手伝って頂いたマネキンのおばさん方にワインを送る
約束をしていたのを思い出したのでした。
DSC_4031.jpg
今回の巡礼テーマは教育者である平尾センセの発案で
おもに科学に関する施設を訪問しましたが、地元野尻君
にしてみればまだまだご案内したい場所は沢山あったと
思います。時間もないのでそこらは素通りということにな
りました。写真は鎌倉時代、親鸞や日蓮などと同じく当
時の国立大学であった比叡山延暦寺の古臭くカビの生
えたような教義内容に失望した道元が創業した曹洞宗
の総本山である「永平寺」山門で、代表的な禅宗寺院と
して有名ですよね。
20150602_1646441-1.jpg
いささか古い話しで恐縮ながら、今から35年程前タバコ
屋が30才前半の頃、業界雑誌「商業界」の主幹倉本師
が主催する後継者育成グループに参画していた時期が
ありました。内容は経営コンサルタントを中心とする各
界有識者の講義と合宿実習や社会見学でした。1年間
のコースで延べ12回に亘ったのでしたが多感な時期で
もあり、後の経営観に随分影響を受けたと思います。
DSC_7638.jpg
そのセミナーの一環で東京西麻布にある永平寺別院
で数日間体験入山をしたことがあったのです。内容は
もう忘れてしまいましたが午前3時に起床し、洗面、極
めて清楚な朝食のあと座禅、清掃、講義、再び座禅と
いったようなもので、夜は8時か9時頃?にはもう消灯
だったように思います。印象的だったのは食事で一汁
一菜とかいった極めて清楚なメニューはもとより後始
末はたくあんで器をふき取りそれを食べ、最後はフキ
ンのようなものでキレイにしてから箱膳にしまい込む
というやり方で、究極の簡素化、合理化を感じました。
DSC_7853-1.jpg
また、座禅以外はお掃除がおもな日課で、皆がそれを
やるので、建物やそのまわりは古いながらもいつもピカ
ピカの状態が保たれる訳です。タバコ屋がいつも申し上
げているカンキョーセイビの究極の姿がそこにありまし
た。

ここだけの話しながら、数年前、自動車部創部80周年大
会の帰途、久しぶりに懐かしの京田辺キャンパスにある
自動車部のガレージに立ち寄った際、あまりの荒廃ぶり
に驚き、失望しブチ切れてしまったことは以前の記事で
お話したとおりなんですが、その背景にはこういう体験が
あった訳なんです。そのせいかどうか、その後ガレージ
を綺麗にするための環境整備委員会が発足し、本来の
姿に戻りつつあるのは大変喜ばしいことだと思います。
IMG_4406-1.jpg
手前味噌になりますが、この写真は京田辺キャンパスに
自動車部ガレージが出来た当時のもので今から約30年
程前のものです。ガレージもピカピカ、我々昭和48年卒の
同釜もピカピカで、多分自動車部創部50周年大会の終了
後、皆で殴り込みを敢行した時のものだと思われます。
DSCN3718.jpg
さて「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」とは松尾芭蕉
がおくのほそ道紀行で平泉を訪れた際に往時の藤原一
族の栄華とそこで悲劇的な死を遂げた義経に思いを馳
せて詠んだ有名な俳句ですよね。
DSC_4040.jpg
我々巡礼4人衆は奥州の覇王、藤原氏とまではいかな
いものの、戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配
した戦国大名朝倉氏が信長によって滅ぼされ家臣の柴
田勝家が北ノ庄に越前の首邑を構えるまではこの狭隘
な谷が天然の要害となり栄華を誇った一乗谷朝倉氏遺
跡を訪れました。尤も平尾センセはお子達を引率して何
度も訪問されているでしょうから「トロイヤの遺跡」を発掘
したシュリーマンのような感動はないと思うのですが・・・。
DSC_4044.jpg
短時間ながら一行は駆け足で見学をさせて頂きました。
ただ困ったことに上山青年はトイレを見つけることが出
来ずにあちこち徘徊したようで、集合時間がやや遅れた
のでしたが、遅れついでにタバコ屋は芭蕉気取りで日向
ボッコをしながら一句捻りました。
「春草や、上山トイレは早よ、しよし!」
DSCN3720.jpg
野尻君ご推奨場所の見学も終え、一行は福井市内へと
逆戻りです。途中で道の駅っぽいJAさん経営の「愛菜館」
に立ち寄りました。想像ながら「平尾先輩、この店無茶苦
茶流行っているんですわ、市内のどのスーパーより客が
多いんですよ」それに応えて「野尻君、俺もな~ヨメはん
と一緒にアッシー君兼ねてしょっちゅう宇治のスーパー通
ってる買い物おじさんなんやけど、そらちょっとホラっぽい
んと違うか」・・・。
DSCN3723.jpg
タバコ屋が気になったのはご当地グルメの「おろし餅」で
した。大根おろしに味付けしたタレで餅をまぶしただけの
シンプルな食べ物ですが、何故か一番印象に残りました。
正岡子規の後輩であるタバコ屋としては、ここで一句捻る
べきだと考え、ひとしきり悩んだ末の句が以下のもので、
「餅見れば、腹が減るなり愛菜館」でした。
DSCN3726.jpg
そのような訳で、お昼時を迎えた一行は「愛菜館」のすぐ
隣の「蔵」というトンカツ専門店に向かいました。お聞きす
るとここのオーナーは野尻君とはかねてよりのご親友で、
奥さん同士も職場で元同僚という少なからぬご縁のある
ご夫婦が経営しているお店らしく、既に予約されているよ
うでした。
DSCN3731.jpg
もちろんトンカツ定食を頂いたのでしたが、聞くところに
よると福井の地はトンカツソースではなくウースターソー
スを掛けたソーストンカツが名物だそうで、それを頂くこ
とにしました。タップリのカツに目玉焼きが載せられ、ボ
リューム満点で、タバコ屋には多すぎる量でした。
IMG_2245.jpg
尚、昔話しで恐縮ながら、同志社大学自動車部在籍中
の4年間、今出川キャンパスの向かいにあり新町ガレー
ジからも程近いところにあった「京楽食堂」がタバコ屋唯
一の御用達食堂であったのですが、卒業後オハイオ・
メアリーズビルのHONDA社員食堂でサラ・メシを食べる
夢を投げ捨てたタバコ屋は、数年後大阪京都を股に掛
けゴフク屋、衣料品屋のバイヤーとして各地に出没する
ことになったのでした。その当時、お気に入りは大阪本
町の「自由軒」の元祖ハヤシライスと船場の「マツバヤ」
の鍋焼きおじやうどんだったでしょうか。京都室町では
ほとんどゴフク問屋さんが仕出しの幕の内弁当を用意し
てくれるので食べに行く必要がありませんでした。

余計なことながら、その昼食時にうら若き社員のお嬢ち
ゃんが、「ごゆっくりしていっておくれやす」とか言ってお
茶などよそおって引き下がると、要らないものまで余計
に仕入れてしまうタバコ屋ではありました。
DSCN3734.jpg
福井名物ソーストンカツを頂いた後、しばしの休憩です。
まったくの想像の会話ながら「野尻君、今回は俺の我儘
なプランをよく調整してくれて素晴らしい出会いの旅にな
ったと思うんやけど、お世話になりました。この調子で今
後も自動車部OB会のために尽力してくれんやろか。また
チャンタが今回どうしても上山君のご実家へ行きお母様
に一言ご挨拶したい言うてんのやけど・・・。ちょっと上山
よ、俺の話聞いてんの?。」
DSCN3735.jpg
腹ごしらえも終わり、再び福井の中心部に帰ってきました。
美人ママがお住まいの某豪邸に立ち寄りおいとまをする
ことにしました。ご夫婦揃ってスリーポインテッドスター印
のオクルマをご愛用です。
DSC_4049-1.jpg
少し時間の余裕があったので、野尻君のご自宅のすぐ
近くにある福井市立郷土歴史博物館に立ち寄りました。
またせっかくなので隣接する旧福井藩主松平家の別邸
である「養浩館庭園」も見学しました。日本の名園の一つ
らしく平尾センセの薀蓄話しによれば、天井に写る水面
(みなも)の明かりが風情のあるものだそうで、この写真
は平尾センセの撮影されたものです。

このような風情ある場所を訪れるとふと思い出すのが、
タバコ屋が自動車部4回生の晩秋に訪れた京都洛北、
岩倉にある円通寺の借景です。訪れたのにはある意味
もあったのですが、忘却の彼方にしまい込み多くを語り
ますまい。
DSCN3741.jpg
その床の間ですが、室町時代に確立されたと言われる
日本建築様式を代表するような佇まいにて、簡素化され
た中に洗練された美を感じますよね。ただしこの違い棚
にシャケを咥えた北海道の熊や布袋(ほてい)さんその
他ご趣味の品を所狭しと雑多に並べてあるおうちを拝見
したりすると幻滅の悲哀を感じる時があります。何も飾ら
ないのがベストですがあえて一品飾るとすれば備前焼の
壷くらいでしょうか。
DSCN8594-1.jpg
ついでながら、備前焼の壷をご所望の場合はタバコ屋
の同期で、岡山在住の三宅裕氏にお願いするとお値打
ち品が入手出来ます。ちなみに彼はかつて岡山の神童
と言われ、蝶よ花よともてはやされ、京大を蹴って同志
社大学にご入学、栄えある自動車部卒業後は地元岡山
高島屋にご奉職、外商部に配属されトップの成績を収め
山陽新聞にデカデカと掲載された記事の切抜きを貰った
ことをタバコ屋は昨日の事のように覚えています。写真
真ん中のアーティスト風変なおじさんが彼です。
DSCN3743.jpg
さて短くも味わい深かった福井巡礼の旅も、まずは野尻
君とお別れの時が来ました。「♪松風さわぐ丘の上~」と
はいかないまでも現代の福井城天守閣を仰ぎつつ再会
を期してしばしの別れと致します。野尻君お心尽し有難う。
DSCN3753.jpg
タバコ屋の我儘な希望ながら、帰り道でかねてより親し
くさせて頂いている上山青年のご実家に立ち寄り、お母
様に一言ご挨拶をさせて頂くことにしました。上山青年
のご実家はかつて京都、敦賀方面から北国街道へ向か
う要衝の宿場町として栄えた今庄にあり、その役割を終
えた今は山間の静かな町となり、タバコ屋の中島同様
過疎化が進んでいるようです。
DSC_4056-1.jpg
全く意外でしたが、今庄にはオートパーク今庄というダー
トコースがあり上山青年の案内で見学しました。何でも
日本屈指の有名なコースだそうですが、恥ずかしなが
らタバコ屋は生まれて初めてダートコースなるものを見
聞しました。
DSC_4058-1.jpg
各地からその道のオタク連中が集まって走行練習をし
ていました。中でも平尾センセ御用達の現代の零戦こと
ミツビシランサーエボ10と同じタイプのオクルマは一際
精悍で存在感を示していました。このオクルマは一旦生
産中止となったのですが、ファンの熱い期待に応えて再
びカムバックするという噂です。ただ残念な事にNISSAN
と親戚になったせいでエンジンはルノー製になるとかなら
ないとか、ルノーランサー?、ミツビシオタクにとっては耐
えられない屈辱かも知れません。

それはさておき、今回の巡礼のもう一つの目的である
上山家訪問とお母様へのご挨拶がやっと実現しました。
ついでながら、せっかくなので仏間へ通して頂きお線香
を上げさせて頂きました。
DSCN3748.jpg
上山青年から亡きお父様の思い出話やら聞かせてもら
ったあと望外にもお母様手作りの手打ち蕎麦が出てきま
した。何でも近くの道の駅で販売している今庄名産手打
ち蕎麦の製造指導部長さんだそうで、素朴な中にも腰の
ある美味な蕎麦でした。
DSCN3749.jpg
それで終わりかと思いきや、今度は蕎麦のエビセンの
ようなおつまみと、蕎麦入りのお稲荷さんが出て来まし
た。もう蕎麦尽くしの歓待にて恐縮してしまった同行2人
?ではありました。また別れ際にはその手打ち蕎麦や
お稲荷さんをお土産に頂き、お母様の優しいお心遣い
に二度恐縮をしてしまいました。
DSCN3754-1.jpg
今庄駅から敦賀行きの列車に乗る予定でしたが上山
青年のご好意で敦賀まで彼の愛車VOLVOで送って頂
くことになりました。せっかくなのでしばし駅を見学して
歴史ある町、今庄に別れを告げました。
DSC_4091-1.jpg
敦賀駅で上山青年とはしばしの別れとなりました。駅の
売店で平尾センセと車中で一杯やるべく缶ビールとつま
みを買い込み、これより特急サンダーバードにて一路、
京都、大阪を目指します。ただフランシスコ・ザビエルで
もあるまいに、かつてはフサフサしていた体のある部分
は一体何処へ行ってしまったんだろう。
DSCN3758.jpg
やがて大阪行きの特急列車が入ってきました。あっとい
う間の2日間でしたが、感慨深い巡礼の旅にて車中2人
で飲んだ缶ビールは心なしか酔いが回るのが早かった
ようです。
DSC_4112.jpg
鉄道マニアの平尾センセはタバコ屋が乗ったこともない
デラックスなグリーン車指定席を取ってくれていて、2人
でビールを飲みながら今回の旅を振り返りました。尚、
F・ザビエル風の頭髪とは不釣合いの派手なジャケット
はタバコ屋が所属している初代フェアレディZのオーナ
ーズクラブであるCLUB-S30の会員用のものでロゴや
ワッペンだらけで知らない人が見たらNISSANの廻し者
かと思いますよね。
clubs30.gif
列車は途中、平尾センセのお嬢さんが嫁いでいる琵琶
湖、湖北の永原を通過しやがて京都に到着、同行2人
(どうぎょうににん)の一人平尾センセともしばしのお別
れとなりました。別れに際しこの濃厚な2日間のことを思
うとタバコ屋は一瞬ながらウルッとくるものがありました。
DSCN3761.jpg
終点大阪駅に到着です。ここまで来るとタバコ屋の庭み
たいなもので、何も考えずに南港方面に移動です。
DSCN3764-1.jpg
途中、駅中を通過中タバコ屋の古くからのお取引先で、
芦屋に本店のあるいかりスーパーさんが目に留まりまし
たが、お疲れモードにて素通りすることにしました。
DSCN3770.jpg
大阪南港フェリーターミナルに到着です。夜の10時出港
ながら8時頃から乗船させて貰えるので、タバコ屋はそそ
くさと乗船し、展望浴場へ直行、その後は定番の泡の出
るドリンクにて疲れを癒すことに致しました。
DSCN3773.jpg
早朝の愛媛、東予港に到着です。いつものようにこれか
らバスで松山まで移動し、島に帰ります。

思えば今回の福井巡礼の旅はわずか2日間だったにも
拘わらず、ブログ記事においては何と過去最高の9編
にも及びました。比較的筆まめなタバコ屋も今回は疲れ
ました。次回はちょっと一服で、短い記事をご紹介したい
と思います。尚、今回の長たらしい福井巡礼シリーズを
最後までご精読頂いた読者の皆様には感謝致します。

福井巡礼 vol.8:北ノ庄の夜は更けて

平成29年8月19日
迷宮(ラビリンス)をやっとの思いで脱出した巡礼団4人
衆は、次の目的地、東尋坊へと向かったのでしたが、
そこは気配りの人野尻君の粋な計らいにて、ご一行は
迷宮見物でさぞかし腹を空かせたであろうという思いや
りのもと、途中の海岸に面した彼のお友達の店「釣」とい
う海辺のレストランでしばし休憩ということになりました。
その場でお聞きしたところ、ここのご主人は「立っちゃん」
即ち立命館大学のご出身にて、タバコ屋も大学自動車
部当時は随分仲良くしていた大学ゆえすぐに親近感が
湧いた次第です。どうも福井というのは織豊の時代から
京都との交流が盛んで京大、同志社、立命館とのご縁
は相当深そうな印象を受けました。
DSCN3641-1.jpg
想定外なことに、普通おやつタイムの時間ながら、彼が
用意してくれていたのはご飯タイムのメニューでした。
カメラマニアの平尾センセは例によってゴッツイNIKON
の一眼レフカメラをご携帯です。テーブルにはこれまた
野尻君が地元のお友達の蔵元から調達して来たラベル
なしのマニアックな地酒(甘口、辛口2種)が用意されて
いました。この手のドリンクが嫌いではないタバコ屋は
おいしく頂いたのでしたが、東尋坊に行く前から酔っ払
ってしまうという事態になりました。
DSCN3638-1.jpg
おやつとは到底言い難い、贅沢な地元の海の幸を頬ば
った一行ですが、またもや野尻君の気配りによりご飯は
ごく少量の控えめでした。しかしタバコ屋は食べ切れませ
んでした。かつて香里の合宿所ではご飯は何度もおかわ
りした筈なんですけど、何故だろう。
DSCN3645.jpg
ご先達の平尾センセは校長時代に何度もこの方面には
お子達を連れて修学旅行に来たらしく、途中海岸沿いの
かつて宿泊した国民宿舎に立ち寄ったりした後、あっけな
く東尋坊に到着です。東尋坊に横文字は似合わないと思
うのですが、CAFEなんてこじゃれた看板がありました。
北海道遠征37
突然の写真で恐縮ながらこれは今から45年も前の東尋
坊付近でのお写真です。恥ずかしながら何やらクドクドと
前で喋っているのがタバコ屋で、もう忘却の彼方に消えて
しまったものの「おまえらな~、もうすぐ京都なんやから、
気を抜かんと、同志社大学自動車部のプライドを持って
運転せないかんぞ~」なんてことを言っていたのではない
かと推察致します。

聞く側から申しますと前列右端は京都洛北の元マドンナ
S嬢でかつて野尻君を悩殺したという殺し文句「あんたら、
早よ、しよし!」と言う名フレーズを発明したお嬢さんです。
お二人目は京都三条麩屋町の老舗のいとはん「福ちゃ
ん」ことF嬢です。彼女はその天性のふくよかな上半身の
ある部分の悩ましさにより自動車部はもとよりアメリカン
フットボール部に至るまで練習に身が入らないほどの
悩ましき魅力」を発散した張本人です。残念な事にタバ
コ屋はオクテだったためにその魅力に気付かずにあたら
青春を無駄に過ごしてしまったのでした。

そのお二人なんですが、察するにチャンタさんもつまらな
いことクドクド言わんと早よ~やめてくれはらへんやろか、
私らトイレ行きたいんやけど・・・。

余談ながら、ここだけの話しとしてそのS嬢には今でもタバ
コ屋のトラウマとなっているある出来事があるんです。
北陸遠征の途中だったと思うのですが、自動車部恒例
の抜き打ちランニング訓練において、S嬢が若き女性特
有のある生理現象中だったにもかかわらず、何も知らな
いタバコ屋は「今からマイクロバス降りて、迎えの車が停
まっているところまで走って来い!」と言ってしまったので
す。S嬢は泣く泣く走ったそうなんですが、ばかなことをし
てしまったと後で悔やんだタバコ屋なれど、もう手遅れで
すよね。それ以来、清張の「砂の器」でもないですけど、
S嬢に対し消し難き業を背負ってしまったタバコ屋でした。
もう地獄の業火に焼かれるしかないんだろうか・・・。
DSCN3655.jpg
東尋坊のはしょり訪問も終え、一行は福井市内へと戻り
ました。今晩のお宿は福井城祉そばのアネックスホテル
でお堀に面して福井城の石垣を眺められる野尻君お気
に入りのおすすめホテルです。

尤も、4人衆の一人福井出身の上山青年によるとこの福
井城祉が気に入らないそうで、歴史を辿れば家康の次男
である結城秀康が北ノ庄の藩主となり松平を名乗り、やが
て北ノ庄城(福井城)が築城されて以来、焼失するまでは
福井のシンボル(ランドマーク)であった訳で、その跡地
にこともあろうに県庁や県警本部など行政の施設を建て
るとはけしからんと憤慨するのです。彼によれば跡地に
は天守閣を再建すべきで、そうすることで福井の歴史文
化が保たれ、観光客もより多く見込めるということでした。
IMG_4385.jpg
福井藩とは近い親戚関係だった我が松山藩は幸い松山
城が焼失せずに残り、その優美な姿を後世に伝えていま
すが、上山青年に言わせれば松山がうらやましいとのこと
です。ま、隣の庭はきれいに見えるものでありまして・・・。
DSCN3660.jpg
さて、ホテルで一休みしたあと野尻君のご先導でお食事
会をということで福井駅前を目指します。
DSCN3663.jpg
福井駅には凄いものがありました。まるでジュラシックパ
ークです。さすが恐竜の街で、これ以外にもいろんな恐
竜の模型が並べられていました。上山青年の仰るように
これに福井城天守閣が加われば有数の観光都市になり
得ると思います。
DSCN3672.jpg
今では珍しくなりつつある路面電車がこの福井の地にも
走っていました。因果関係はないんでしょうが福井とは親
戚だった我が松山にも路面電車が走っています。
DSC_3187.jpg
地下鉄のない松山では路面電車とバスが市民の貴重な
足になっており近年は漱石にちなんだ「坊ちゃん列車」
を走らせたりして観光客を楽しませています。
DSC_3253.jpg
ただしこれは外観だけのレプリカで、実際の駆動はスチ
ームエンジンではなくディーゼルです。
左大文字-1
ところでこのお写真はどこの路面電車でしょうか。ヒント
がありすぎてもうバレバレですよね。山の中腹に大の字
があるということは京都の路面電車ですよね。

ネタを明かしますと、写真マニアの平尾センセより頂いた
恐らく昭和40年代中頃の懐かしい写真なんですが、恥ず
かしながら当時ジドーシャ部に所属していたタバコ屋は
この便利な路面電車を利用することがほとんどなく、帰省
時に京都駅まで行く時ぐらいしか乗った記憶があまりない
のです。やがて京都も路面電車が廃止となり、ズバリこの
型式の車両は現在松山市や広島市の路面電車としてそ
の余生を過ごしています。
DSC_0116-1.jpg
写真はこれまた平尾センセの撮影した広島市内の路面
電車ですがズバリ京都市電のお下がりですよね。
ちなみに日本で初めて路面電車が走ったのはどこの街
かご存知ですか、それは意外な事に京都市なんです。
明治28年(1895年)のことでした。
DSCN3677.jpg
またしても野尻君の気配りにて、北ノ庄ゆかりのお市の
方、及びそのお嬢さん方である、茶々、お初、お江の三
姉妹の銅像が佇む場所へ案内されました。柴田勝家公
が統治していた時代にはこの場所に北ノ庄城の天守閣
があったそうで、福井の街の原点ともいえる場所ですよ
ね。勝家公とお市の方の悲劇、及びそのお子達の波乱
の人生については小説やTVドラマで何度も取り上げら
れているので今回ははしょることに致します。
IMG_2484.jpg
さていよいよ今晩のお食事会場である居酒屋「わらび」
に到着です。福井のおいしい酒と肴で昔話に花が咲き
盛り上がったのは良かったのですが、野尻君が香里合
宿時代を懐かしみ、かつて悩殺されたS嬢と一目ならぬ
一言お言葉を交わしたいなどと言うものですから、タバコ
屋も不憫に思いS嬢のところ即ちご主人の和君こと奥村
氏にTELするハメになりました。S嬢は快く電話に出て頂
いたのですが、その後は野尻君との秘密の長電話とな
り何を話したのかわかりません。タバコ屋としてはせっか
くのお料理が冷めるので、野尻君に「早よ、しよし!」と
言いたい心境でした。

話しもお腹も満腹になったところで、野尻君の次なるプレ
ゼンテーションが行われました。近くに美人のママが経
営する会員制クラブがあるのでそこへ行きませんかと
仰るので、一同ついていくことにしました。しばらく福井
城祉のお堀端に沿って歩いたのですが、繁華街とは離
れて行くようでややおかしいなとは思いました。やがて
とある一軒の豪邸の前に到着しました。クラシカルなの
かモダンなのかトラディショナルなのかアバンギャルドな
のかよく分からないウッドを多用した豪邸でした。

不思議に思いつつラウンジ(お座敷)に通されたのでし
たがそこでやっと気が付きました。なんやここ野尻君の
ご自宅やんか!、ハメられたとは思ったものの後の祭り
でその後確かに美人のママ(奥様)がご挨拶に見えられ
三つ指つかれたのにはやや当惑しました。
IMG_2485.jpg
結局二次席は野尻君のご自宅でということで、高価な
ブドー酒の肴にはご当地名産の小さなイカ(ホタルイカ
?)の酢味噌合わせが出てきました。同行2人衆はおい
しく頂いたのですが、タバコ屋は島育ちにも拘らず生の
イカを食べると何故かトイレ直行現象を起こすのでご辞
退しブドー酒のみと致しました。

彼の粋な計らいでそこには自動車部当時のアルバムや
部誌「ウインカー」のバックナンバーが用意されており、
3月下旬とは言え、肌寒い福井の夜の更けるまで飽きも
せず、当時の思い出や今後のOB会のあり方等を語り合
ったのでした。

当初は平尾センセとタバコ屋がアオリ役でOB会のことや
らかなりアオッたつもりですが、途中からは野尻君の方
が積極的にあれこれアオッて来るようになり、イカづくし
の今回の旅で彼の学術名を正式に「越前アオリイカ殿
と命名し、一方アオリの世界ではすでに定評のある平尾
センセの学術名を「アオリイカ大魔王」と命名することに
致しました。上山青年についてはかねてよりそのアピアラ
ンスの特徴から「梅田のユル・ブリンナー」というお名前が
付いているので今更必要ないでしょう。

尽きない話に一応の区切りをつけ明日の「恐竜博物館」
見学に備えて野尻君宅を辞した3人衆でした。その後、
ホテルに帰った後、タバコ屋にはとんでもない事件が待
ち構えていましたが紙数も尽きたようですので、詳しいお
話は次回の記事にてお話致します。お楽しみに。

福井巡礼 vol.7:ああ旧車よ(後編)

平成29年8月9日
タバコ屋達、巡礼団4人衆は迷宮(ラビリンス)に迷い込
んだまま、出るに出られずという状態でしたが、40年代
国産車の神々しいお姿を拝見した後、いよいよ最後は
外国車の広場に誘(いざな)われました。
DSCN3553.jpg
大英帝国のオクルマ業界における高貴なる御三家と言
えば、ロールスロイス、ジャガー、ローヴァーではないで
しょうか。今でこそ世界一のSUVの誉れ高きレンジロー
ヴァーを製造するローヴァー社ですが、元はと言えば第
二次世界大戦で戦車や軍用車(ジープのイギリス版)を
作っていたメーカーで、戦後その既存技術の流用でラン
ドローヴァーなる武骨な荒地走行車?を作っていた訳で
す。写真の展示車はそのランドローヴァーで昭和39年
(1964年)登録とクラシカルな外観の割には意外に新し
いものです。
DSCN3624.jpg
時は過ぎ、ローヴァー社はローヴァー3500等富裕層を
ターゲットにした高質なセダンを製造するに至り、また
後年、我がHONDAが高級車のカテゴリーに殴り込みを
掛けるにあたり、ローヴァーに教えを請いその第一号と
して初代レジェンドが誕生したことなどは歴史の裏話と
して知る人ぞ知るお話ですよね。

写真はそのロ-ヴァーが絶頂期にあった頃の作品であ
るローヴァー3500で比較的コンパクトなセダンにV8エン
ジを驕り、イギリスの富裕層をターゲットにした高級サル
ーンでした。専門用語で言いますとアッパーミドルサル
ーンと呼ばれるもので、カーグラフィックの元編集長で
あった小林彰太郎氏が絶賛し、こよなく愛したのがこの
オクルマです。写真の展示車は昭和45年(1970年)登
録で、タバコ屋が大学2回生頃のものです。

ついでながら、ボディカラーはいわゆるブリティッシュ
グリーンと呼ばれる深みのあるグリーンで中々シブイ
です。当時の国産車が白、赤、黄、黒といった単純な
色しかなかった時代にグリーンと言うのは一種エキゾチ
ックな文明の香りがしましたよね。
DSCN3621.jpg
次は御三家ほどではないですが、大英帝国オクルマ界
のアバンギャルドであったロータス社のロータス・7です。
ロータスとは「蓮の花」の意味なんですが、タバコ屋の
こじつけながら、愛媛の詩人坂村真民氏がこよなく愛し
た「念ずれば花ひらく」という理念のイギリス版とも言え
ると思うのです。ロータスは良くも悪くも創業者のコーリ
ン・チャップマンの情熱とともにあった訳で、天才チャッ
プマンの才能により急成長し、またその若すぎる死によ
って名前だけは残ったものの、ロータスは終わりを告げ
たと思います。

展示車の登録は昭和44年(1969年)ですからロータスが
創業時のバックヤード・スペシャル的なオクルマからまと
もな市販車に脱皮しつつあった時期のものです。
DSCN3556.jpg
タバコ屋はロータスのことを思うと、マイクロソフトを創業
したビルゲイツやアップルを創業したスティーブ・ジョブズ
のことに思いが至るのです。カテゴリーは異なるものの
共通していることは彼らが当初はボンビー学生であり、
理想に燃えて大企業が考えつかないような革新的な製
品を生み出し、それが既存の大企業に多大な影響を与
えたばかりか、やがては自らが大企業になって行くと言
うサクセスストーリーを歩んだことです。

ただロータスのコーリン・チャップマンは志半ばで亡くな
ってしまいましたが、晩年には我がTOYOTAと深いご縁
を持つこととなり、現在のロータスのエンジンはTOYATA
製のものが使用されています。

写真のロータス・ヨーロッパはそのロータスがバックヤー
ド・スペシャル的なメーカーから市販車メーカーとして脱
皮し、まともなスポーツカーを販売しつつあった頃の作
品で、日本では目にすることもなかったミッドシップスポ
ーツカーとして自動車史に残る名作でした。登録が昭和
49年(1974年)ですからタバコ屋が大学卒業1年後のこと
にて、オクルマどころか食うや食わずの時代の頃の出来
事です。
F1D中島悟2
尚、ロータスについて話せば、ヨーロッパの後継機種で
あるボンドカーに採用されたエスプリのことや、その後
我がHONDA-F1エンジンを搭載しウイリアムズとともに
大活躍したロータス・HONDA-F1のことなど話せばきり
がなくこの迷宮(ラビリンス)から出ることが出来なくなる
ので今回ははしょることに致します。
DSCN3594.jpg
さて、いよいよジャガーです。展示車は高度成長時代に
至る前の昭和34年(1959年)登録のジャガー・マークⅡ
で比較的安価なスポーティ小型サルーンとして人気を
博しました。いわゆるビンテージカーらしいクラシカルな
デザインで、後年日本の光岡自動車がNISSAN車を改
造してこのレプリカっぽいオクルマを販売していますよ
ね。タバコ屋もこのマークⅡのデザインは結構お気に
入りです。

余談ながら、高名な自動車評論家の徳大寺有恒氏や
タバコ屋の高校時代の先輩である伊丹十三氏などは
ジャガーのことをジャギュワと表現していたようですが、
実際の発音に近いとしてもジャガーの方がスマートだ
と思いませんか。
DSCN3593.jpg
タバコ屋世代がジャガーと言うときはマークⅡではなく
このXJ6を指します。展示車は昭和48年(1973年)登
録ですから、タバコ屋が大学を卒業した年で、もちろん
ボンビーゆえ大英帝国王室御用達のジャガーXJ6なぞ
まったくご縁のない、いわゆるプレステージカーと呼ば
れるカテゴリーのオクルマだったと申せましょう。

余談ながらジャガーはネコ科の猛獣ですが、ジャガー
のスポーティでしなやかな足回りがいつの頃からか
ネコ足と呼ばれるようになりました。多分それはこの
XJ6あたりからだったのではないでしょうか。
ジャガーXE-1
ちなみに現代のジャガーはというと、ローヴァーと一括
りとなってインド人もビックリのタタモータースというイン
ド資本の傘下となっています。かつて植民地として支配
していたインドに逆支配されるというのも歴史の皮肉で
しょうが、パトロンを得たジャガーは往年の輝きを取り戻
し魅力的なオクルマを次々と世に送り出しつつあります。
その中でもタバコ屋が最もお気に入りのオクルマはジャ
ガーXEサルーンで、日本でいえばアコードクラスのオク
ルマですが、スペックはともかくそのスポーティかつ洗練
されたデザインはさすがジャガーと思わせる高貴な香り
がします。

チンケなデザインを懲りずに連発する我がHONDAのデ
ザイナー諸君には猛省を促したいです。高等教育を受
けた彼らが何故「品性とダイナミズム」というデザイン
コンセプトを理解出来ないのかタバコ屋は歯がゆくてな
りません。

またかつてタバコ屋が20年間にわたって乗り続けたレジ
ェンドに至っては世界一売れない高級車などと言われて
いる今、おまえらHONDAマンとしてのプライドっちゅうも
のはないのかと言いたいです。
DSCN3608.jpg
次はロールスロイスです。展示車はシルヴァーレイスで
昭和20年代後半から30年頃に製造されたものだと思わ
れます。現役のナンバープレートが付いており、プレート
からは登録年度が判別出来ませんでした。
DSCN3609.jpg
シルヴァーレイスと言えばロールスロイスが戦後初めて
製造販売したプレステージカーでパルテノン神殿をモチ
ーフにしたその特徴的なラジエターグリルが当時の世界
最高級車であることを誇示しています。

皆さんご存知のようにロールスロイスは進歩的な貴族
で車の販売を手掛けていたロールズと裸一貫でたたき
上げた実業家のロイスが創業したメーカーで良心的か
つ堅実な設計でやがて世界最高級の評価を得るように
なりました。
P51マスタング-2
第二次世界大戦中はオクルマ作りをやめ有名な液冷
V12気筒の「マーリンエンジン」を製造し、スピットファイ
アやアメリカのP51マスタングに搭載され、その名声を
高めたのでした。
シルバーシャドウ4
戦後、オクルマ作りを再開し、展示車のシルヴァーレイ
スを皮切りにシルヴァークラウド、そしてタバコ屋世代に
なじみの深いシルヴァーシャドウへと血脈が受け継が
れます。
伊丹十三記念館15
余談になりますが、タバコ屋の高校時代の先輩である
故伊丹十三氏がその晩年においてこよなく愛したベント
レー・コンチネンタル(カブリオレ)はシルバーシャドウの
クーペ版だったロールスロイス・コーニッシュの姉妹車と
してベントレーブランドで販売されたものです。
DSCN3562.jpg
この展示車はシルヴァーシャドウの後継モデルである
シルヴァースピリットだと思いますがナンバーが丸に外
という文字が入っているので、外国大使館が使用して
いたものではないでしょうか。ロールスもこの辺まで来
るともう旧車とは言えず、タバコ屋のあまり関心がない
昭和50年以降の年代物となります。
DSCN3628.jpg
さて果てしない迷宮(ラビリンス)も薄っすらとその出口
が見えてきたようです。巡礼団4人衆は最後にジドーシ
ャそのものを発明したメルセデス(ダイムラー)ベンツの
コーナーを参拝することに致しました。

展示車は数ある歴代ベンツの中でもその歴史的価値か
ら言って最高峰とも言えるメルセデス・ベンツ300SLで、
今で言うところのスーパーカーのカテゴリーのオクルマ
ではないでしょうか。展示車は昭和30年(1955年)の登
録で、いわゆる高度成長時代以前のオクルマです。

そのスペックは3L直列6気筒SOHCエンジンながらソレッ
クス製キャブレターに替えて、ボッシュ製の機械式燃料
噴射装置を世界で初めて採用し、最高出力は当初の2
倍近い215 馬力を発生しました。今でこそ平凡な数値で
しょうが、昭和30年当時では驚異的なパワーだったと思
います。

そんなことよりもSLを最も特徴付けているのはガルウイ
ング(カモメの翼)ドアで、当時としては革新的なこのメカ
は以来、ベンツの特許になっていると聞いています。
裕次郎記念館300SL-7
メルセデス・ベンツ300SLと言えば、真っ先に思い浮かぶ
のは我らが裕ちゃんの愛車ですよね。裕ちゃんの300SL
は現在世界に6台しかないらしく、裕ちゃんが年俸をすべ
て注ぎ込んだと言いますから、フェラーリ、アストンマー
ティン、はてはマクラーレン等よりも高価で今のお金で
1億円以上したと思われます。(タバコ屋の推測です)
DSCN3630.jpg
さて迷宮巡りも最後となりました。しんがりを飾るのは
巡礼団4人衆の一人、タバコ屋より4期後輩の野尻君が
007の「私が愛したスパイ」改め「私が愛用したベンツ」
の一台である、メルセデス・ベンツSLです。展示車は
ナンバープレートが外されていましたので登録年はわか
りませんでしたが、上記の初代SLから数えて4代目に当
たり、バブル華やかなりし頃の昭和64年(1989年)に発
表されたオクルマです。

メカと装備もさることながら、このSLを特徴付けているの
は、初代SL同様メタルトップの開閉式ルーフではないで
しょうか。このエレキ仕掛けによりあるときはクーペとして
ある時はオープンロードスターとして自在に使えるという
のはキカイ好きなセレブのお方が好むメカなんです。

ま、タバコ屋にとっては浮世離れした「坂の上の雲」のオ
クルマであり、竜宮城で垣間見た鯛やヒラメの舞踊りの
一つだったのかも知れません。
DSCN3635-3.jpg
さて大急ぎでの巡礼参拝となりましたが、これで迷宮か
らいよいよ脱出という段になって、一つの誘惑が待ち構
えていました。お土産売場です。土産好きのタバコ屋が
あれこれ拝見していると、アオリイカ3人衆に取り囲まれ
あれ買え、これ買えと煽られまくり、その結果DATSUN
のプレートと博物館の名入りキーホルダーを買うことに
しました。我ながら修学旅行の頃のパターンが抜け切
れず子供っぽい趣味だと苦笑した次第です。                                                
DSCN3635-1.jpg
もと来た正面玄関を退出します。可愛そうなことにアメリ
カご自慢のリンカーン・コンチネンタルには誰も関心を示
そうとはしませんでした。何故だろう。

思えば、オクルマを始めとする製品にはイメージというも
のが付いて回るのですが、ショーバイという観点からは
良いイメージの構築(アイデンティティ)が最も大切である
ことは前の記事でも申し上げました。アメリカ車いわゆる
「アメ車」はオートマやエアコン、エアサスペンション等々
快適装備に関わる数々の発明や技術革新をもたらした
にも拘わらず、「粗大」という負のイメージが出来てしまい、
戦後は世界一のオクルマ大国だったにもかかわらず、
タバコ屋世代にとってはただ大きいだけの魅力のない
オクルマになってしまったのです。ああ世に恐ろしきは
「イメージ」です。
DSCN3633.jpg
あっと言う間の迷宮巡礼は終わりました。記念に玄関前
で野尻君の愛車メルセデス・ベンツEクラス2.4Lステーショ
ンワゴンをバックにパチリです。タバコ屋としては今後もこ
のアオリイカ3人衆に煽られまくるのかと思うと何やら複雑
な心境がしないでもない一瞬でした。

これで日本自動車博物館見学記を終わらせて頂きます。
例によって4編にもわたる長たらしい記事を最後までご精
読頂いた読者の皆さんに感謝致します。

この後、越前アオリイカ殿のコーディネートで福井の夜へ
と誘(いざな)われるのですがそれは次回の記事にて。
お楽しみに。

福井巡礼 vol.6:ああ旧車よ(中篇の続き)

平成29年7月17日
クノッソス宮7
巡礼団4人衆は膨大な旧車コレクションを前にして、まる
でクレタ島の迷宮(ラビリンス)クノッソス宮殿にでも迷い
込んだ如くになりました。
クノッソス宮2-2
途中には悩ましいお姿をした数々のオクルマが微笑ん
でおり、その都度そのお姿に見とれることになると、一行
は果たしてその迷宮から出て来られるのでしょうか。
MGTF
あれはいつの頃の事だったのか・・・。タバコ屋がこのオ
クルマかっこいいな!と思ったのは。遠いセピア色の記
憶を辿ってみると、多分その皮切りは小学生時代、タバ
コ屋の母校松山東高校の先輩でもある故、伊丹十三氏
が愛用した大英帝国のスポーツカーMGだったと思うん
です。(伊丹先輩はTFでしたがタバコ屋の思い出にある
のは初期のTDでした。写真はTFです)さっそく安モンの
プラモデルを組み立て、後生大事に飾っていたのを思い
出します。
DSCN3589.jpg
時は過ぎ、今から思えばタバコ屋の先代は随分キカイ
好きで、SONYのバカ重いオープンリールのテープレコー
ダーを愛用し、ショウバイのセンセの講義録を熱心に聞
いていたのを覚えています。さてその父はタバコ屋が高
校3年の頃、ということは昭和43年(1968年)なんですが、
NISSANサニー4ドアセダンを購入しました。タバコ屋は
まだ免許がなかったので横に乗せて貰うだけでしたが
随分モダンな印象がありました。博物館にはその同じ年
に登録されたサニークーペが展示されていました。
サニー1000クーペ-3
タバコ屋がMG-TDの次にかっこいいなと思ったのは実は
このサニークーペでした。スリムで無駄のないボディに当
時としては斬新なファストバックデザインを採用したとても
おしゃれなオクルマでした。リアゲートが跳ね上げ式では
なく、トランク部しか開かない形式でしたので実用面では
今一つでしたが、スマートさに惹かれて購入した人が多
かったのではないでしょうか。リアトランクのエンブレムが
またかっこよくて・・・。
サニー1200GX-6
サニーで特徴的だったのはその軽量(645kg!)でスマ
ートなボディもさることながら、軽やかに吹け上がるエン
ジンでした。A型エンジンと呼ばれ、L型エンジンとともに
NISSANの屋台骨を支えた看板エンジンでした。L型の
重くて眠い特性とは真逆で、ビューンと軽快によく回り、
給排気が同じ側にあるターンフローでしかもOHV機構
のいわば古めかしいメカだったにも拘わらず性能は抜
群で、後に傑作エンジンと呼ばれるようになりました。
旧ミニ-16
ルーツはミニなどにも搭載された大英帝国のオースチ
ン製エンジンで、戦後の一時期NISSANにとってはオー
スチン社がセンセだった訳です。見た目もそっくりだと
思いませんか。
さてサニーの評価ですが、「隣のクルマが小さく見えま~
す」なんていうセコいCMを流す前の初代サニーは軽量
コンパクト、必要十分の動力性能を備え近代的大衆車
の草分けとして高度成長時代を切り開いた意味で「アッ
パレ」を差し上げます。
DSCN3590.jpg
続いてはNISSANチェーリーです。こちらはサニーより
やや遅れて開発されたものの、合併前の旧プリンスが
総力をあげて開発した意欲作で、前輪駆動横置きエン
ジン、2層式ギヤボックスレイアウト等、アレック・イシゴ
ニス博士が発明したオースチン・ミニのメカをそっくりパ
クッたものでした。エンジンはNISSANと合併したために
サニーと共通のA型エンジンを横置きにして搭載されま
した。それにより偶然ながらパッケージデザインからエン
ジンまでオースチン・ミニの完全パクリ版となりました。
以後、大衆車クラスはすべてこの合理的なレイアウトが
採用されることになりますが、アレック・イシゴニス博士
はさぞかし面目躍如たるものがあったことでしょう。
展示車は昭和昭和45年(1970年)の登録ですから、タ
バコ屋が同志社大学自動車部2回生の頃のものです。
チェリーX1-2
チェリーはその斬新なメカもさることながら、ネーミング
同様可愛らしいデザインが特徴で、特にスポーティ版で
あるX・1はグリルのオレンジ色のウインカーランプが特
徴的で結構精悍なフェイスとなりタバコ屋にとってはサニ
ークーペの次にかっこいいなと思ったオクルマでした。
チェリーX1-3-1
リアがまたシンプルながらも可愛らしいデザインでタバコ
屋のお気に入りでしたが、Jラインと呼ばれるCピラー周
辺のデザインは今一つで、斜め後方視界はゼロに近く、
もっと他に方法があったように思います。
ケンメリスカイライン1
余談ながら、このデザインコンセプトは4代目スカイライン
通称「ケンメリ」にも引き継がれ、確かに個性があり格好
良かったのかも知れませんが、斜め後方視界ゼロという
悪しき伝統は引き継がれました。
チェリーX1-25
チェリーのエンジンはサニーと同じA型OHVエンジンを
横置きに搭載しエンジン下部にギヤBOXをくっつける
方法でプロペラシャフトを省略し、軽量(670kg!)かつ
広いキャビンを確保することに成功しました。写真は
スポーティ版のX・1のものですがSUツインキャブでチュ
ーニングし、1200ccで80馬力程度ながら車重がメチャ
軽いためキビキビとよく走りました。
北陸遠征-1
ところで、そのチェリーX・1と同志社大学自動車との間
には深いご縁と思い出があるのですが、いったん話せ
ばフェアレディZの記事よりも長くなってしまいますので、
かいつまんでお話し致しますと、昭和46年(1971年)、
タバコ屋が自動車部の幹部を拝命した3回生の時です
が、大阪ニッサンチェリーより、新発売を記念して光栄に
も、モニターとして我が自動車部に1年間そのX・1を貸与
して頂ける事になったのです。
S575-1.jpg
当時はモータースポーツの一環としてレースほどオカネ
が掛からないラリーが盛んで、我が自動車部も「同志社
ラリー」を主催し第3回まで開催するに至っていました。
部内にもラリーおたく、メカおたく、レースおたく、部活の
取り仕切りおたくと、そのカテゴリーにおいてそれぞれ得
意な科目でグループ化していたのですが、このチェリー
X・1貸与のお話しは平尾センセを中心とするラリーおたく
にとっては願ってもないおいしいお話で、その後平尾セン
セを中心に部員一丸となり、何と第4回、5回と続けさまに
同志社ラリーを成功させたのでしたが、その裏でコース
作成の試走にはこのチェリーX・1が縦横の働きをしてく
れたのでした。その間、筆舌に尽し難い様々なトラブル
も経験し、苦渋の決断もあったりしましたが、幸い死亡
事故等による破滅的なアクシデントが起こらなかった事
は不幸中の幸いだったのかも知れません。

蛇足ながら、写真は同志社ラリーのコース作成で試走
中に写した若き日の平尾青年と庄坪青年です。チェリー
X・1を挟んでお二人の胸の三つ葉のクローバーが誇ら
しげです。
チェリーX1-34-1
さてチェリーの評価ですが、当時としては極めて斬新な
エンジン横置き前輪駆動車として、特にX・1は和製ミニ
クーパーとして颯爽とデビューし、タバコ屋を始めとする
オクルマ好きの若い衆をビビらせた点で「アッパレ」を差
し上げたいと思います。ただし横置きミッションゆえにシ
フトチェンジには無理があり、特徴的なゴキッというシフ
トフィールだったのには「喝」です。

蛇足ながらメカオンチのタバコ屋にとってはシフト方向が
ギヤBOXと直角になる構造のシフトってどうやってやるん
だろうと今でもミステリーの部分です。
DSCN3540.jpg
次はNISSANブルーバードです。当時NISSANはフェアレ
ディと言い、このブルーバードと言い、オーナー自らが
夢に溢れたネーミングをし、それが多くの人に愛された
という微笑ましくものどかな時代でもありました。展示車
は昭和55年(1980年)の登録ですから6代目ということに
なります。
ブルーバード3
ブルーバード、幸せを運ぶ青い鳥ですよね。初代が発
売されたのは昭和34年(1959年)ですが、その後例の
ピニンファリーナがデザインしたタレ尻の2代目となり、
タバコ屋の青春時代にはスーパーソニックラインと呼ば
れる直線的でスマートなデザインの3代目となりました。
ブルーバードは2代目以降曲線デザイン、直線デザイン
を交互に繰り返し、直線デザインのみが成功するという
ジンクスが出来、その中でも最も成功したのがこの3代
目でした。
P510サファリ仕様-1
当時NISSANは世界に打って出ようと目論んでいる最中
であり、世界に認めてもらう手っ取り早い方法として、世
界ラリー選手権に果敢に挑戦しつつありました。我らが
裕ちゃんこと石原裕次郎が映画化した「栄光への5,000
キロ」で一躍有名になったDATSUNブルーバードP510-
SSSは、エドガー・ハーマンのドライブにより、昭和45年
(1970年)悲願のサファリラリー総合優勝を遂げることに
なりました。タバコ屋が大学2回生の頃の出来事です。
P510サファリ仕様-3-1
ビックリポンのこのお写真はタバコ屋の1期後輩で、京
都の某和紙製品老舗のいとはんである福ちゃんが銀
座のニッサンギャラリーに立ち寄られた際、偶然P510
ワークス仕様車が展示されてあった時のものを頂いた
貴重なお写真です。尚彼女からは掲載許可を頂いてお
りますので念のため。

ついでながら、彼女が同志社大学自動車部在籍中には
ご両親におねだりしてブルーバード1600SSSを買って貰
い、クラブのガレージに乗り付けたものの、心ない先輩
に無断乗車され、乙女の心はいたく傷付いたとか・・・。
その時無断乗車したやつ、出て来い!。
サファリP510-3
ブルーバードの評価につきましては、ある意味昭和40年
代のNIPPONを代表するオクルマでもあり、その国際ラリ
ー特にサファリラリーでの活躍により世界で最もタフで壊
れないオクルマというイメージを獲得したことは「アッパレ」
印以外にはあり得ません。ただしチェリー同様そのシフト
フィールはポルシェシンクロ特有のグニュッとした感覚で
メリハリがなく、シフトの爽快さという点ではサニー等の
ワーナータイプに数段劣っており、「喝」でしょう。
DSCN3560.jpg
さてオクルマ好き、ラリー好きの御三家メーカーと言えば
昭和40年代当時、NISSAN、ミツビシ、スバルだったので
はないでしょうか。その中でもマニアックでメカ志向のや
や変態っぽい方が好まれたのがSUBARUだったと思う
んです。その理由は独創的なメカニズムにありました。
写真はSUBARU1000で昭和42年(1967年)登録のもの
です。
スバル1000-11
SUBARU1000が独創的だったのはそのメカニズムで、
水平対向4気筒(BOXER)エンジンを縦置きにし、前輪
駆動としたことでフラットで広いキャビンを生み出しまし
た。ボディデザインもシンプルで無駄なラインがなく好
感が持てるものでしたが、2代目以降は徐々にやぼっ
たいデザインとなり、タバコ屋の好みからはズレていき
ました。そのBOXERエンジンはボロボローという独特の
エキゾーストノートを発し、マニア好みの個性的メカニズ
ムと相まって後にスバリストと呼ばれる熱烈ファン集団
を生み出すこととなりました。

余談ながら、それまでもっぱら欧米車の技術のパクリを
重ねてきたNIPPON車でしたが、SUBARUのエンジニア
の意地の結晶でもあるこのオクルマのメカは初めて欧
米のエンジニアの注目するところとなり、アルファロメオ
のコンパクトセダン、アルファ・スッドにはSUBARU1000
のメカが丸パクリされたことは知る人ぞ知る裏話です。
上山君1
今回の巡礼団4人衆の一人、タバコ屋の3期後輩で通称
パンタロンな人」上山青年もメカマニアの例に漏れず、
SUBARUの熱心な信奉者で、自動車部在籍中から中古
の1300G・SPORTSを購入し武骨なラリータイヤを装着し
て乗り回したようですが、雪深い福井のご出身という出
自が影響し、その後はSUBARUの4WDを延々と乗り継
ぎ、VOLVO等の遍歴の後、最近BMW・330Xi(4WD)と
いう誰も買わないようなオクルマを購入された由、変態
メカマニアの面目躍如たるものがあると思いませんか。

さて、SUBARU1000の評価ですが、その独創的メカニズ
ムにより欧米の技術者の鼻を明かしたという点で「アッ
パレ」を差し上げたいと思います。2代目以降のデザイ
ンについてはその野暮ったさに対し「喝」でしょう。
DSCN3561.jpg
ミツビシギャランGTO・MRです。昭和46年(1971年)登録
となっていますから、タバコ屋が大学3回生の頃のオクル
マです。GTOは当時流行り始めていたスペシャリティー
カー、もしくはアメリカンマッスルカーの草分け的な存在
で、ギャランの派生車でした。
ギャランGTO-2
そのエンジンルームです。ギャランンのSOHC1600cc
エンジンをDOHC化したものを搭載し高性能を誇りまし
た。ボンビー学生だったタバコ屋はこんな高級なオクル
マには乗ったことがありませんが、ギャランのフツーの
セダンには乗ったことがあり、そのエンジンはNISSAN
のL型エンジンとは雲泥の差で軽やかに吹け上がりまし
た。しゃれにもなりませんが、ギャラーンというようなエ
キゾーストノートだったのを覚えています。
ギャランサザンクロス
当時のミツビシはNISSAN同様ラリーに力を入れていて
オーストラリアのサザンクロスラリー等に果敢に挑戦し
昭和47年(1972年)には名手アンドリュー・コーワンの
ドライブでギャランが悲願の初優勝を果たしました。
奇しくも丁度同じ年、NISSANはフェアレディ240Zでサフ
ァリラリー総合優勝を果たし、日本が最も輝き始めた時
代でした。
大阪産業大ラリー1
突然の写真で恐縮ながら、これは今回の巡礼4人衆の
ご先達である平尾センセの若かりし頃の写真で大阪産
業大学主催のラリーで初優勝した時のものと推察され
ます。尚、撮影は自動車部今出川ガレージ前です。

ラリーおたくの平尾青年がミツビシの活躍に影響を受け
ない筈はなく、彼の愛車はギャラン1600GSでした。それ
にしても平尾センセのお若いこと。ABURAぎってますわ。
DSCN3564.jpg
マツダの広場に移動します。マツダのアイデンティティ
(自己証明)は何かと言えばロータリーエンジンですよね。
写真は世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載した
マツダ・コスモ・スポーツです。
ロータリーエンジン1
アイデアは超革新的ではあったものの実際は出来損な
いのヴァンケルエンジンの特許をボッタクリ価格で当時
のNSU(現アウディ)から買い取ったマツダはその後聞く
も涙、語るも涙の苦闘により世界で初めて実用化に成
功したことはNHKのプロジェクトXにも採り上げられまし
たよね。展示車の登録年度は昭和43年(1968年)で、
タバコ屋が高校3年生の時のものです。
コスモ24
さてロータリー・コスモの評価ですが、誰も成し得なかった
夢のロータリーエンジンを実用化し搭載したということに
対し「大アッパレ」を差し上げたいと思います。ただし妙に
現実感のない宇宙的(まさしくコスモ)ボディデザインは
好みの問題でしょうがタバコ屋は「喝」です。
ずっと後のMAZDA787Bによるルマンでの執念の総合優
勝のお話しなどは別記事で紹介していますし長くなるの
で今回は省略致します。
DSCN3563.jpg
続いては、マツダ・カペラです。展示車の登録が昭和45
年(1970年)ですから、タバコ屋がハタチの青春真っ盛り
の頃のオクルマです。カペラの特徴は何と言っても夢の
ロータリーエンジンを搭載していたことです。結果として
ゼロヨン加速は凄まじくGTRと互角かそれ以上の15秒台
でした。ただ哀しいかな、バカッ速いのが取り柄ではある
ものの、当時としては二流メーカーの哀しさ、前回の記事
でも申し上げた「イメージの構築」及び「アイデンティティ
の確立」がまったく出来ておらず、正直なところタバコ屋
世代の話題にも上らないオクルマでした。そういう訳で
夢のロータリーエンジンを実用化し、またそれを実用セダ
ンに搭載した快挙には「アッパレ」を、またイメージ戦略の
稚拙さには「喝」を差し上げたいと思います。「愛のスカイ
ライン」に対し「風のカペラ」では勝負になりませんよね。
DSCN3541.jpg
浦島太郎の如く、まばゆいばかりの旧車達を目の前にし
て、鯛やヒラメの舞踊りを堪能しつつある巡礼団ご一行
ですが、次は我がHONDAのコーナーです。SONYと共に
戦後のNIPPONを牽引してきた双璧のメーカーと言えば
HONDAですよね。創業者本田宗一郎は原動機付き自転
車、バタバタからスタートしベンリイ号やカブ号の大ヒット
によりあれよあれよと言う間に二輪車のトップメーカーへ
とのし上がったのでしたが、次なる一手は四輪車への進
出でした。
ホンダS800-2-1
宗一郎の目論みはまずバイクのエンジン技術を応用して
360ccエンジンを開発し、それをこともあろうに軽のトラッ
クに搭載したのでした。しかし彼のホンネはスポーツカー
をやりたかった訳で、その証拠にそのエンジンとは凝り
に凝ったDOHC4気筒4キャブレター仕様で、当時参戦し
ていたF1エンジンの技術!が流用されていました。
その後、すぐにS600・800が発表され、非常にいびつな
形で、四輪車参入を果たしたのでした。

写真の展示車S600は昭和39年(1964年)登録で、タバコ
屋世代より一世代上の方々が憧れたオクルマにて自動
車部で言えば3期上の石黒先輩が乗られていたのを覚
えています。
ホンダS800-3-1
タバコ屋も一度だけ横に乗せてもらった記憶があります
が、その乗り心地はスパルタンを通り越してまるで戸板
の上に乗っているような感覚でした。一方そのコクピット
は非常に斬新かつ機能的で、タバコ屋は今でもGOOD
デザインだと思っています。またギヤシフトはカチッとし
た感じの極小ストロークで、節度のあるものでした。

ついでながら、タコメーターのレッドゾーンは9500rpm!
からとなっており、もうスポーツカーと言うよりはバイク
のエンジンですよね
F1メキシコGP
余談ながらS600・800の設計者は元ヒコーキエンジニア
でHONDA-F1の監督を務めた中村良夫さんでした。彼
はまっとうで賢い技術者でしたが、きかん坊の宗一郎氏
はなかなか勝てないF1に業を煮やして彼と対立し、勝手
に別の空冷マシンを開発した挙句J・シュレッサーの事故
死という痛ましい事態となり、F1撤退に追い込まれたこと
はHONDAの負の歴史としてタバコ屋の記憶に痛々しく残
っています。
DSCN3582.jpg
軽四トラックにDOHCエンジンを積むなんていう無謀な
ことをやらかしたその記念すべきオクルマがコレで、
ボンネットには初期のHONDAロゴマークが描かれてい
ます。尚、このオクルマは珍しい雪上車仕様!です。
DSCN3580.jpg
町工場あがりのオッサン経営者、本田宗一郎氏が全身
全霊を傾けて開発したのがこのN360でした。HONDAに
とっても四輪車に参入したのはいいものの、軽四トラック
とスポーツカーではオクルマメーカーとしての面目が立
たず、是非とも大衆乗用車の開発が必要でした。

まだ若かった宗一郎氏は不眠不休で開発に没頭し、極
めてユニークと言うか、バイクエンジンを流用したような
空冷!4サイクルSOHC2気筒エンジンを完成させたので
した。独創的なエンジン同様、パッケージもモダンな前輪
駆動方式でボディデザインも当時の常識を覆すシンプル
かつ可愛らしい2BOXカーでした。ま、言ってみれば和製
ミニのパクリ版であり事実宗一郎おじさんはミニの影響
を相当受けていたと思います。展示車は昭和44年(19
69年)登録ですから、タバコ屋が大学に入学した年のも
のでやがてその2年後には大伴先輩からこの通称Nコロ
のお下がりを譲り受けることになるのですが・・・。

その結果、当時は若者だった団塊の世代に爆発的な支
持を受け、大ヒットとなり販売台数ダントツ1位のオクル
マとなったのでした。ただその大成功の後遺症?として
宗一郎氏はF1エンジンを始め市販車のエンジンも排気
量を問わずすべて空冷でなければ気が済まず、その拘
りがあだとなり、F1での失敗や若手エンジニアとの空冷
水冷理論を巡って深刻な対立を招き、天才技術者として
の限界を示すことになりました。

蛇足ながら、事実として空冷が適しているのはエンジン
が外気にさらされるバイクのしかも500cc程度までの小
中排気量のノリモノに適したメカニズムだと思います。
(大排気量のゼロ戦も空冷でしたが大空で冷気に晒さ
れるのでオクルマとは全く状況が異なります)
DSCN3577.jpg
本田宗一郎の信念を具体化したオクルマの代表として
HONDA1300がありますが、写真の展示車は昭和45年
(1970年)登録の1300クーペ9です。
ホンダ1300エンジン-2
HONDA-1300の最大の特徴としては、空冷に拘る本田
宗一郎氏の信念によりF1マシン、RA302からのフィード
バックである一体式二重空冷(DDAC)と呼ばれる冷却
方式を採用した空冷エンジンを用いていた点で、そのス
ペックはオールアルミ製 1,298 cc 直4 SOHC 8バルブ
クロスフローで、当時の1.3 L級エンジンとしては驚異的
なシングルキャブレター仕様で100馬力、4連キャブレター
仕様は115馬力!を発生しました。

ただエンジンに力を入れすぎたために重くなり、また足
回りがそれに付いて行けず、フロントヘビーによるアン
ダーステアやタックインといった挙動で、乗りにくいオク
ルマになってしまい、宗一郎氏渾身の作にも拘わらず
N360の成功作に比べ世紀の失敗作となってしまったの
でした。
ホンダ1300クーペ11-1
ただそんなこととは夢にも思わないタバコ屋はひたすら
HONDA神話を信奉しまた自動車部の同期の連中もこの
1300にはぞっこんだったと思います。それが証拠に2期
先輩の下村キャプテンは奈良のオウチが裕福だったの
かどうか、発売間もない1300クーペ9の新車!を購入し
普段のアシにしてました。
ホンダ1300クーペコクピット
タバコ屋は一度だけ横に乗せて頂いたことがあるのです
がそのメカと言い、ボディデザインと言い、コクピットと言
い、当時の国産車とは一線を画するスポーティでアカ抜
けたシロモノで、後にタバコ屋が自称HONDA-PTA会長
を拝命する一因ともなったオクルマでした。
HONDARA109(V10)-14D.jpg
余談ながら、タバコ屋は軽やかに吹け上がるエンジンに
ぞっこんで、重くて眠いNISSAN-L型にはあまり良い印象
を持ってなかっただけに、8,000rpm!までストレスなく吹
け上がるHONDAエンジンは大のお気に入りでした。まし
てやその後のF1での大活躍は強烈なインパクトとなり、
自称HONDA-PTA会長を拝命したのでしたが、今となっ
てはそれも遠い日の懐かしい思い出となりつつあります。

さてHONDAの評価です。創業者の本田宗一郎氏の志
やよし、それには「アッパレ、アッパレ」ですが、ご自身が
あまりにもオクルママニアだったためメカに懲りすぎたこ
とには「喝」でしょう。そのレベルは客の要求をはるかに
超えていたにしろ、「過ぎたるは・・・・」という事なんです。
DSCN3598.jpg
さて国産車のシンガリは王者トヨタです。トヨタも最初か
ら王者であった訳ではなく、地道な開発、改良と丁寧な
販売活動によってその地位を築いたのですが、技術の
NISSANに対し販売のトヨタと言われ、それはタバコ屋が
ハタチの頃からだったでしょうか。写真はそこに至る前
のトヨタが開発したスポーツ800で、展示車は昭和40年
(1965年)の登録ですから、まだタバコ屋が中学生だった
頃の作品です。この可愛らしいオクルマはHONDA-S600
・800のよきライバルとして当時の若者の憧れとなったの
ですが、HONDA同様、元ヒコーキのエンジニアが設計し
ただけあってメカ及びボディは斬新かつ独創的で、エンジ
ンはパブリカの流用ながらボディは空気力学を取り入れ
た抵抗の少ない形状でしかも徹底した軽量化により重量
は僅か580 kg !に抑えられていました。
S800-2.jpg
余談ながら、今回の巡礼4人衆の一人、越前アオリイカ
こと野尻君は自動車部時代初期にこのオクルマに乗っ
ていた幸福な青年のお一人だったようですが、お聞きす
るとお父様がメチャオクルマが好きなお方(エンスー)で
まずかなりくたびれたスポーツ800を購入し、続いて中古
のパブリカを買ってきて主な部品をすべて移し変えて完
成させたワンオフカー(手作り別注品)だったそうで、蓼
食う虫も好き好きというのはこのお方のためにある言葉
ではないでしょうか。う~んその執念に脱帽ですが、一
方、大切なお父様のオクルマをパクッて京都で乗り回す
ご子息がいたとは、言語道断のようにも思われます。ま、
お父様が倅のために作られたのならハナシは別です。
S800-7.jpg
トヨタスポーツ800の評価ですが肩肘張ったものでなく、
慎ましくも可愛らしい国産初のライトウエイトスポーツカ
ーとして「アッパレ」を差し上げたいと思います。
DSCN3620.jpg
次は言わずと知れたトヨタのドル箱車種カローラですが
ブルーバードとともに当時のNIPPONを代表するオクル
マでしたよね。展示車は昭和48年(1969年)登録で発売
4年後のものですが、高度成長期の絶頂を迎えようとし
ていた当時、カローラVSサニー、コロナVSブルーバード
の開発競争及びシェア争いが激しく行われました。挙句
の果ては「となりのクルマが小さく見えま~す」なんて言
う品性に欠けるCMの登場となりました。

その熾烈なシェア争いに関して、専門的なお話しながら
トヨタは敵の2倍の販売力を持つには4倍の戦力を投入
する必要があるといういわゆるランチェスターの法則
実践したのでした。この法則は第二次大戦で投入戦力
とその結果(勝敗)を科学的に研究したランチェスター
によって発見された法則なんですが、戦後は戦争では
なく実業の世界でも応用されるようになりました。その
方程式は2乗または平方根の数式ながら、逆に言えば
4倍の戦力で戦ってやっと2倍の効果があらわれるとい
うことで、技術で劣っていたトヨタがNISSANを抜くため
に人、物、カネを販売に集中的に投入した結果、徐々に
引き離すようになり、やがてNISSANがどのように努力
しようと二度と追い付けないことになったのです。
結果は三河あきんどの勝利に終わったのでした。
DSCN3618.jpg
続いてはそのカローラの派生車種でスポーティ版と言う
より本格的なメーカーチューング車であるレビンです。
特徴はエンジンでセリカ1600GTから移植された2T-G型
1.6L のそれは、2バルブながらも高度なDOHCが採用さ
れ、115馬力を誇っていました。また当時流行のオーバー
フェンダーを装着し、ボンビーな若者の垂涎の的でした。
展示車は昭和48年(1973年)の登録ですから丁度タバコ
屋が大学を卒業した年になります。

世にボーイズレーサーという言葉があるようですが、この
オクルマはまさにそれで、高性能かつお手頃価格のオク
ルマに飢えていた当時の若者はこぞってこのレビン(しか
も中古車)のお世話になったのではないでしょうか。ライ
バルはNISSANサニー1200GX-5で、どちらとも甲乙付け
がたい魅力があったように覚えています。
DSCN3619.jpg
さて、販売のトヨタと言われながら性能イメージで劣って
いたトヨタですが、そのダルい!イメージを払拭したのが
セリカではないでしょうか。写真の展示車はセリカ・リフト
バックGTで昭和49年(1974年)の登録ですからタバコ屋
が大学を卒業した翌年のものだと思います。
セリカ6
セリカは昭和46年(1970年)に発売されましたが、日本
初のスペシャリティ・カーとして70年代に一世を風靡した
オクルマですよね。そのずっと後の4代目にはWRC(世界
ラリー選手権)への挑戦にからみ、4WDシステムを備えた
GT-FOURを発売するに至り、初代から数えて20年後!
の平成2年(1990年)に名手カルロス・サインツの手によっ
て日本車初のドライバーズタイトルを獲得することとなっ
たのですが、販売のトヨタのみならず技術のトヨタとなり
得た歴史的な一瞬でした。
DSCN3543.jpg
ご先達の平尾センセが3期後輩の上山青年にレクチャー
しているオクルマは5代目セリカGT-FOURですが、偶然
にもC・サインツが4代目セリカを駆りドライバーズチャン
ピオンに輝いた同じ年の平成2年(1990年)に登録された
ものです。ワークスカラーに塗られていますが、本物の
ワークスカーかどうかは確認出来ませんでした。

勢いに乗ったトヨタはこの5代目セリカをインタークーラ
ーやターボで重武装し、再びWRCに挑戦、3年後の平
成5年(1993年)には名手C・サインツを擁して並み居る
世界の強豪ランチア、アウディ、プジョー等を蹴散らし、
悲願のドライバーズ&メイクスダブルタイトルを獲得、
ついに世界の頂点に上り詰めたのでした。
セリカWRC-1
平尾センセのレクチャーの中味は推察ながら「なあ上山
よ、トヨタもこのセリカで世界一になったんやけど、やっぱ
4WDやないと世界では通用せ~へんのやなあ。」とか。
受講生の上山青年も普段はかなりの論客ながら、相手
が先輩にて、フムフムとかいう感じで神妙に聞き入って
いる風情です。

まったくの余談ながら、タバコ屋はその頃に何をしていた
かと申しますと、当時全国で急成長中だったホームセン
ターを中島で開設すべく研究中でしたが数年間の開発
期間を経てそのトヨタの快挙と同じ年の4月、ついに念
願の島で唯一のホームセンターを開設するに至りまし
た。コホン。
DSCN3613.jpg
さてトヨタのというか国産車の最後を飾るのは言わずと
知れた、珠玉の名車トヨタ2000GTです。展示車の登録
は昭和44年(1969年)となっていますが、形式には前期
型と後期型があり、各部のディテールからして後期型で
すが、この年はタバコ屋がちょうど同志社大学自動車部
に入学?(入部)した年なんです。
DSCN3614.jpg
トヨタ2000GTは、トヨタとヤマハが共同開発し、実際の生
産はヤマハが担当したいわゆるOEM(委託)生産車で、
昭和42年(1967年)から数年間販売された国産初の超高
級スポーツカーでした。
トヨタ2000GTエンジン-1
開発の裏話として当初ヤマハが企画した夢のスポーツ
カー構想をNISSANに持ち込んだのですがNISSANでは
既にフェアレディZの企画が始まりつつあり断られた結
果、トヨタに採用されトヨタの設計陣との共同開発という
ことになりました。芸術品のようなエンジンはトヨタのクラ
ウン用2M型エンジンをヤマハが改良チューニングし、ヘ
ッドをDOHC化するとともに当時としてはレーシングカー
用だったSOLEXキャブを3連装するという夢のようなスペ
ックでした。その結果150馬力を発生しましたが今でこそ
大した数字ではないものの、ベースの2Lエンジンの馬力
が100馬力程度であったことを考えると5割増しであり、
当時の国産2Lクラス市販車では最強馬力を誇りました。
007トヨタ2000GT-1
発売時の価格が238万円で、トヨタ自動車の高級車であ
るクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高
価でした。昭和42年(1967年)当時の日本における大卒
者の初任給がおおむね2万6000円前後であったので、
現在の価格に換算すると1500万円から2000万円程度の
超高額車でした。

トヨタはその価格で販売しても赤字だったそうですが、世
界への宣伝の意味があった訳で、そのせいもあって話題
にはことかかず、娯楽映画「007は二度死ぬ」でも定番の
ボンドカーであるアストンマーティンDB5とは別に写真の
若林映子さんが乗るトヨタ2000GTロードスター(別注品)
が採用されました。裏話として若林さんは免許を持ってお
らず実際の走行シーンはカツラを被った別の男性が運転
したそうです。
トヨタ2000GTコクピット-4
タバコ屋の思い出としては、自動車部時代5年先輩で通
称ミナミのパチンコ王と言われた西山さんのキャデラック
をご自宅まで運転して行った時、トヨタ2000GTがドドーン
と鎮座しており、その後何度かクラブのガレージにも乗っ
て来られました。タバコ屋ふぜいはこの世のものとは思
われないそのオクルマにただただ憧れと畏怖を感じて
そっとフェンダーを撫でる程度ではあったもののヤマハ
のピアノ木工技術を駆使したそのコクピットは芸術品の
如きに輝いていたのをはっきり記憶しています。
トヨタ2000GT-11
さてトヨタ2000GTの評価ですが、浮世離れしたオクルマ
だけに恐れ多く評価も何もあったものではありません。
しいて言えば高度成長時代の技術革新の頂点とも言う
べきこのトヨタ2000GTは発売に際し、当時の長時間走
行スピード記録を塗り替える等、NIPPONが世界にその
技術を誇らしげに示したことに対し「大アッパレ」を差し
上げたいと思います。またそのデザインといいクオリティ
と言い、非の打ち所がなくこれはもうオクルマというより
は「神(ゴッド)」と申し上げたほうがよろしいでしょう。

巡礼団4人衆はこれでやっと国産車を回り終えたのです
がまだ外国車が残っています。ふ~。
それにしても昭和30年代後半から40年代にかけての国
産車を見て回りそれぞれに忘れ難い思い出があるので
すが、不思議なことにフェアレディZの実車での思い出と
いうものがまったくないのです。あれだけの名車でカーグ
ラフィック等の雑誌を華々しく飾っていたにもかかわらず
先輩の誰も乗っていませんでしたし、京都の街中でも滅
多に見ることはありませんでした。
IMG_2789-1.jpg
それゆえ卒業後40年もたってからせめて「死に土産」に
乗ってみたいと思うようになったのかも知れません。
誓って申しますが、一部宇治方面のアオリイカ大魔王
氏が目論んでいる様なこれでレジェンド・オブ・ラリー
に出場し篠塚建次郎氏に一泡吹かせるなどという野望
を持っている訳ではありません。
しかし40年以上も前の昭和48年(1973年)に製造され
たオクルマをまともに走らせること自体が大変なことで、
そこには「地獄のレストア」が待ち構えていようとは当時
夢にも思いませんでした。
手前味噌になりますが、この度タバコ屋の「赤いお嬢ち
ゃん」は2度目の大規模なレストア及びチューニングを
実施し見違えるように若返ったことをご報告致します。
そのいきさつについては別の記事にて詳しくお話しする
ことに致しましょう。山口百恵ちゃんでもないでしょうが、
「♪緑の中を走り抜けてく真っ赤なZ~」なんて。
S30Z-4.jpg
後日談ながら昨年4期後輩の野尻君から膨大なお写真を
頂いた時、彼が現役時代そのZのオーナーだったのを知
りビックリ仰天し、何やら戦友に巡り会ったような懐かしい
気分がしたのですが、それ以後彼とは親密な交友が始ま
り今日に至っています。

タバコ屋は今回の記事で迷宮から這い出たかったのです
が、国産車だけで紙数が尽きてしまいました。外国車に
ついては次回の記事でお伝えすることに致します。お楽し
みに・・・。長時間のご精読有難うございました。

福井巡礼 vol.5:ああ旧車よ(中編)

平成29年6月22日
今回いよいよ昭和40年代のオクルマ達を見て回ること
にします。タバコ屋達、巡礼団4人衆はやっとの思いで
大聖堂の奥に静かに佇む聖母マグダラのマリアならぬ
初代フェアレディZ432にご対面です。
マグダラのマリア1
一部ワタナベのホイールやシビエのヘッドライト以外は
ほぼ発売当時のオリジナルの状態が保たれていました。
ボディカラーはZ432純正色なのかどうか、朱赤のような
カラーでしたが、S30Zの純正色であるグランプリ・レッド
とはやや異なっているように見受けられました。
DSCN3547.jpg
マグダラのマリア様のおなかの中味を拝見することなど
罰当たりで恐れ多いことながら、多分エンジンルームは
このようになっていると推察されます。言わずと知れた
S20エンジンで、日産に合併する以前のプリンスが開発
したプロトタイプレーシングカーR380に搭載されたレース
用GR8型エンジンをデチューンしたものですよね。
S20エンジン1
スペックはZ432の由来でもある4バルブ、ソレックス3キャ
ブレター、ツインカム(DOHC)で160馬力を発生しました。
当時としては夢のようなエンジンでタバコ屋世代はただ
ただ「仰げば尊し」の存在でした。しかし実際は相当ナー
バスなエンジンで調整が難しく、またZに搭載した場合は
車体の剛性が低いため高速で振動が激しくなる欠点が
あり、レースでは実力を発揮出来ませんでした。つまり
(私見ながら)相性が悪かったということです。

Z432の名誉のために申し添えますとタバコ屋の所属す
るクラブS30のお仲間でANAの国際線パイロットである
某氏の愛車Z432は完璧なチューニングで素晴らしい状
態と性能を保たれています。稀なことでしょうけど。
DSCN3549.jpg
この博物館は粋な計らいがされていて、ナンバープレー
トに登録年月日が表記されているんです。即ちこのオク
ルマは日本製で昭和45年(1970年)に登録されたという
ことです。初代フェアレディZが発売されたのは昭和44年
(1969年)ですから、発売1年後のオクルマということでし
ょうか。

昭和45年と言いますとタバコ屋が同志社大学自動車部
2回生でしかもハタチの頃ということになり、今や当時の
思い出はセピア色に褪せてはしまったものの、人生で
最も多感な時期ではありました。
フェアレディZ5
当時は高度成長時代、モータリゼーションの真っ只中で
戦争で打ちのめされたヒコーキ産業にかわりNIPPONが
カデン産業と共に今後の国の夢を託したジドーシャ産業
が熱にうなされた如く開発に明け暮れた時代で、目まぐ
るしいくらいに次々と新しいオクルマが発売されましたが、
その中でも一際異彩を放ったのがフェアレディZでした。
フェアレディアメリカ試走-1
その開発背景として当時北米NISSAN社長だった片山
豊氏の国際的視野に立った新型スポーツカーの開発
要請に基づき、基本コンセプトの具体化及び車両設計
は東大卒の優秀な設計技師だった植村斎氏を中心と
するチームが、またデザインは神戸生まれの異端児、
松尾良彦氏を中心とするチームが担当し、何と、東洋
の小さな島国からやがて世界を席捲するスポーツカー
が生み出されたのでした。尚、写真中テンガロンハット
を持たれているのがZ開発の中心人物、植村氏です。
片山豊氏Z-2
ちなみに片山豊氏がZの開発を促すにあたり、そのイメ
ージとして伝えた言葉は「ジャガーEタイプみたいなスポ
ーツカー作ってよ」だったそうです。写真は後日片山氏が
アメリカでは発売しなかったロングノーズのZGを日本か
ら取り寄せご自分の愛車としてモディファイしたものです
がある意味ジャガーEタイプよりデザインも性能も洗練さ
れたものとなり、「Z生みの親」である片山豊氏ご自身は
面目躍如たるものがあったと思います。
フェアレディZ2
結果として販売開始直後からアメリカで大ヒット、1978年
までの10年間で世界総販売台数55万台(日本国内は8
万台)という空前の大記録を打ち立て、ジャガー、ポルシ
ェ等世界の強豪を押しのけて世界で最も売れたスポーツ
カーとなりました。当時ジャガーやポルシェは1万ドル以
上したのですが、初代フェアレディZは約3分の1の価格
3,600ドル前後と、当時世界一の文明国アメリカに於いて
は一般庶民でも無理をすれば手の届く価格だったことか
ら、プアマンズポルシェまたは秘書などを務めるやや上
級のオフィスレディがよく購入したことからセクレタリーズ
カーなどと陰口を叩かれたこともありました。
(しかしあの重いステアリングを秘書のお嬢ちゃんはど
うやって乗りこなしたんだろう?)
240Zサファリ1-2
またNISSANは満を持して発売したこのフェアレディZを
当時宣伝目的もあって積極的に参戦していた国際ラリー
に投入しました。特に世界で最も過酷なラリーと言われ
たサファリラリーにおいて初参戦の昭和46年(1971年)
E・ハーマン、H・シュラーのコンビは見事な走りでポルシ
ェ、フォード等他のワークスチームを蹴散らし、前年の
ブルーバードP510の優勝に続き2年連続での総合優勝
という快挙を成し遂げました。
240Zモンテ11
続く翌昭和47年(1972年)雪のモンテカルロラリーでは
名手R・アールトーネン(サイドブレーキターンで有名)は
狭く曲がりくねった道路でのハイスピード走行には不利
なロングノーズ、FR車のZを駆り天才的なドライビングに
より奇跡の総合3位入賞を果たしました。彼の話しによ
ればDATSUN240Zは直線では明らかにポルシェ911よ
り速かったそうで、当時の我等がNIPPON若者衆として
は神様、仏様、240Z様の心境でした。
240Zモンテ5-1
このような快挙が、血気盛んなオクルマ好きの若者の
心を捉えない筈はなく、タバコ屋などは当時大学2回生
だったと思うのですが、カーグラフィックの速報記事を読
んで、手に汗握ったものでした。
240Z-1.jpg
一方、国内では当初PRINCEの桜井真一郎氏を中心と
するワークスチームが開発したレーシングカーR380の
流れを汲むツインカムのS20エンジンを搭載したZ432を
国内レースに投入したものの振動が激しく思うような性
能が発揮出来ずその後NISSAN製のL型SOHC2.4Lエン
ジンに換装してからは目覚ましい活躍を見せ、当時の
NISSANワークスドライバー北野元選手(京都出身)が
昭和48年(1973年)全日本鈴鹿1000kmレースにおいて
総合優勝を飾ったことなど今となっては懐かしい思い出
です。
フェアレディZ9
ついでながら日本国内では2LのS30Zと高性能なツイン
カム仕様Z432の2タイプが売られたのですが広大なアメ
リカでは高速巡航性能重視のため排気量を2.4Lにアップ
した240Zが販売され「DATSUN・Z(ダッツン・ズィー)」また
は「Z・CAR(ズィー・カー)」の呼び名で親しまれました。
当時のアメリカでのNISSAN車はDATSUNブランドで売ら
れていたのです。
ダットサンエンブレム4
余計なことながら後日談として、NISSAN首脳はブランド
統一(CI再構築)のためDATSUNブランドを廃止しました
が、結果としては大失敗で販売ががた落ちとなりました。
タバコ屋に言わせれば机上またはコンサルが進言する
CIの統一などと言うものは吐き違いをしていてむやみに
ブランドを変更したりするものではないのです。何故かと
言えば、そのブランド醸成には長い年月が掛かっており
それ自身の自己証明書みたいなものだからです。
NISSANにとっては極めて恥ずかしいことに今ではブラ
ンド変更の失敗例として大学のセンセの講義材料にな
っているそうですから、悔しいですよね。

タバコ屋の独り言、「当時の日産の責任者、出て来い
と言いたい。「おまえら、何してんねん!」と言いたい。
4才から前垂れ掛けて道端の草にまで「こんにちは」と
言って来たタバコ屋にしてみれば、こんな商いの大切な
基本を無視するようなアホな決定を誰がしたんやと責め
たい気持ちになってしまいます。

前回の記事同様、再びクールダウンが必要ですが、それ
はもう言いますまい。さて上記の如くNIPPONの夢を託し、
アメリカで爆発的な人気を勝ち得たポクらの240Zでした
が、当時ボンビー学生だったボクら、即ちタバコ屋達は
国内仕様のS30Z、輸出仕様の240Zなんて和製スーパ
ーカーであり、まして購入なんて夢のまた夢で、言わば
「坂の上の雲」のオクルマでした。
フェアレディZコクピット1
ちなみに日本国内での販売価格が当時90万~100万程
度、アメリカでの価格が排気量が違うにしても130万程度
だった訳で、今の価格に換算すると550万~600万くらい
になるので、やはりボンビー学生などお側に寄れるオク
ルマではなく荒稼ぎして銀座、キタあたりで豪遊している
お兄さんか、もしくはえーとこのボンが親にねだってお乗
りになるシロモノでした。

たとえ買えはしなくても、当時のタバコ屋を始めボンビー
な若者の憧れとしてフェアレディZは存在していたように
思います。
DSCN3548.jpg
以上長たらしい解説はさておき、ヘッドライトはシビエ製
に換えられていました。実は当時の照明技術は今から
思えばショボイものでヘッドライトはもとよりコクピットの
各種計器類の照明もろくに役に立たないくらいのレベル
でした。このオーナーもたまりかねてシビエに換装され
たのだろうと思うのですが、確かにハロゲンランプでは
シビエと言うのは一流ブランドで、我らボンビー学生もか
つて憧れた一品でした。
シビエ1
余談ながら、先般元祖宇治のアオリイカ大魔王こと平尾
センセに、タバコ屋の赤いお嬢ちゃんのヘッドライトが暗
いとグチを漏らしたところ、さっそく煽り攻撃を受け、シビ
エのヘッドライトを買わされました。いつ装着するか迷っ
ているところです。また大阪豊中の別のアオリイカ青年
からは手持ちのシビエドライビングランプを親切にもご送
付頂いたのですが、サイズが巨大過ぎて装着を断念しま
した。
さてフェアレディZの評価です。その栄光の歴史と現車の
素晴らしい保存状態には「超アッパレ!」なんですが、
これほどの博物館にS30(2L版)もしくはHS30(240Z)が
無かったことには「喝!」でしょうか。

蛇足ながら、初代Zはその後アメリカの厳しい排ガス規
制の洗礼を受け、また徐々にゴージャスなGTの方向に
軌道修正された結果、片山氏、植村氏、松尾氏、ひいて
はタバコ屋達が夢見た颯爽としたライトウエイトGTカー
のコンセプトは壊れてしまい、現在のだるくて重々しい
Zに成り果ててしまいました。タバコ屋の激しい失望は
皆さんのご想像に任せることに致します。
DSCN3604.jpg
次に初代フェアレディZと共に、昭和40年代を代表する
オクルマ界の2大スターの一台である3代目スカイライン
2000GTのコーナーに行く前にそのお父さんである2代目
スカイライン2000GTを見ることに致しましょう。
写真はスカイライン2000GT-AかBか確認し忘れたので
すが、外観のイメージからは想像がつかないほど速い、
そうしたクルマのキャラクターを示すのに「羊の皮をかぶ
った狼」という言葉が初めて使われたと言われているの
が、昭和39年(1964年)に誕生したスカイライン 2000GT
-A/Bです。Aタイプはシングルキャブなのに対しBタイプ
はウェーバーキャブ3連装で武装した高性能版で、個人
的にはこのBタイプこそが「羊の皮をかぶった狼」に相応
しいと思います。
2代目スカイライン4-1
コクピットにしても、まるで零戦のそれを移設したような
ビジネスライクなもので、タコメーター、スピードメーター
を中心に、油圧、電流、水温、燃料の各種計器を配した
その出で立ちは、タバコ屋世代にとってはそのスパルタ
ンなムードと共に決して忘れられない室内風景です。
ステアリング中央には誇らしげにPRINCEのロゴが貼ら
れていて、まるでイタリアの毒サソリ、アバルトを彷彿と
させますよね。
第2回日本GP-3
余談ながら、そもそも2代目スカイラインは昭和30年代
後半から過熱しだした自動車メーカー(ワークス)同士の
戦い、即ちその集大成であり絶好の宣伝ともなった日本
GPに勝利を収めるべく各社しのぎを削る中で、プリンス
が第2回日本GP(昭和39年(1964年)開催)に於いてGT
-II(1001〜2000cc)のカテゴリーでクラス優勝を果たす
ために開発されたオクルマでもありました。1500ccクラス
のボディに2000ccのエンジンを無理やり押し込んだので
すから、当然高性能となり、実際のレースでは式場壮吉
氏のPORSCHE・904VS生沢徹氏のスカイライン2000GT
との一騎打ちとなりました。
第2回日本GP-2
理論的にも実際も式場壮吉氏のPORSCHE・904の圧勝
となったのですが、途中一瞬ながら生沢徹氏のスカイラ
イン2000GTがポルシェを抜いたラップがあり、そらもう当
時の観客は総立ちで、単純にもプリンスがPORSCHEに
勝ったなどと勘違いをしたのですがそもそもレース目的
に開発されたプロトタイプスポーツカーのPORSCHE904
にフツーのセダンであるプリンス2000GTがどんなに逆立
ちしようとも勝てるはずがなかったのです。
第2回日本GP-1
しかしイメージというのは恐ろしいもので、その第2回日
本GPにおいて一周なりともプリンスがPORSCHEを抜い
たという事実のみが誇張され、いわゆる「スカイラインは
我らの神なり
」という伝説が誕生することになりました。

タバコ屋はこれらの鮮烈な事実を体験したうえで、究極
の商いというのは「イメージの構築」だと思うようになり
ました。販促も安売りも要らないんです。企業イメージの
構築(アイデンティティの確立)こそ、各企業が目指すべ
きものなんです。

母校同志社において、かつては経済学部の平山センセ
が「経済原論」などと言ってカビの生えたような講義を懲
りもせずお話され、他の教授も五十歩百歩似たようなも
ので、ゼミに進級してからもそのクオリティの低さは覆い
がたく、最新の流通理論を学びたいという夢は果たせず
同志社大学そのものに対し多大な幻滅を感じたタバコ
屋でしたが、当時の過激派学生のように「授業料返せ」
とまでは言う勇気がありませんでした。と言うより、その
うちに自動車学部での幹部としてのオシゴトが山積し、
本来のオベンキョウは放ったらかし状態になりました。

その結果、タバコ屋は皮肉にも大学の講義ではなくオク
ルマの世界での見聞によって「商いの真髄」を知ること
となりました。その真髄とは「自分は何者かというアイデ
ンティティ(自己証明書、個性)の確立」と「良きイメージ
の構築」だと思います。
DSCN3603.jpg
そのような時代背景の下で昭和43年(1968年)日産との
合併を経てプリンス荻窪で開発された3代目スカイライン
2000GT(通称ハコスカ)がデビューしたのでした。展示車
両は後期型で、フロントグリルのデザインが初期型より
も洗練されたものになっています。それが証拠にナンバ
ープレートには発売4年後の昭和47年(1972年)製となっ
ていますよね。
スカイライン2000GTR-16
さてスカイライン2000GTことスカGですが、話せばブログ
記事3回分の長さになるくらいタバコ屋及びタバコ屋世代
にとっては思い出深いオクルマゆえにここは読者のご迷
惑を考えて簡潔にお話しする必要があります。
スカイライン2000GTR-7
まず、第2回日本GPにおいて「神」となったスカGは3代目
となってその集大成と言うべく、国内レースにおいて空前
の52勝という大記録を打ち立て、やがて神から一歩前進
し「不滅のスカイライン神話」となったのでした。

またフェアレディZが2シーターのスポーツカーであったの
に対し、スカGは2ドアハードトップ/4ドアセダンであり実
用的であったことと、当時のお値段がGTRの150万は例
外としても2000GTが80~90万だったことから、我々庶民
の中でも比較的オカネ持ちの家では無理をすれば買え
た価格でした。
スカイライン2000GT-2
スカイラインはGTRのレースでの活躍によってメチャ高性
能なオクルマという「イメージ!」が確立しそれによって大
ヒットした訳ですが、この「イメージ戦略」というのが商い
にとっては最も高級で重要なことであることがわかります
よね。ただ3代目スカイライン(通称ハコスカ)のキャッチ
フレーズは広告代理店の電通あたりが考えたものかも知
れませんが「愛のスカイライン」で「なんのこっちゃ」と思い
ますが、4代目が「ケンとメリーのスカイライン」ですから、
キャッチフレーズと言うのは荒唐無稽で非現実的なもの
が好まれるのかも知れません。
L型エンジン
ところで、フェアレディZ432とGTRにはプリンス製DOHC
4バルブのS20エンジンが搭載されたのですが、フェアレ
ディS30Zとスカイライン2000GTにはそれとは逆に日産
製のSOHCターンフロー(吸排気口が同じ側にあるもの)
式のL型エンジンが搭載されました。このエンジンはとに
かく丈夫に作られていたのですが、その結果重くて眠い
エンジンとなり、軽快な吹け上がりを期待して購入した
ユーザーをがっかりさせるものでした。
IMG_6034-1.jpg
それにまつわるお話として、タバコ屋が同志社大学自動
車部3回生の時、クラブ員の皆がアルバイトで稼いだお
金をもとに中古の3代目スカイライン2000GT4ドアセダン
を部車として購入したのでした。もうそれはそれは「神」
のごとく部車の旗艦としてまた幹部専用車として大切に
されましたが、「竜頭蛇尾」の言葉どおりレースでの輝か
しいイメージとは裏腹に重々しいフィーリングのオクルマ
で、タバコ屋は内心ああ、竜のアタマをイメージしていた
のに蛇のシッポだったのかと、やや失望した思い出が残
っています。
スカイライン2000GT-15
尚、L型エンジンの名誉のために申し添えますと、それ
だけチューニングのキャパシティが大きかった訳で、事
実L型2000ccエンジンはボアアップと高速走行用チュー
ニングを施した場合は、見違えるようにレスポンスが良
くなり、もともとトルクが大きく扱い易いエンジンであった
ため、スカGはもとより、フェアレディZとの相性も良く、中
でもワークス240Zは国際ラリーで驚異的な活躍を見せ、
また国内レースで240ZRはS20エンジン搭載のZ432を
凌ぐ大活躍を果たしたのでした。
鉄人28号3
さて桜井真一郎氏を中心とする旧プリンスチームの渾
身の作品であるスカイライン2000GTの評価ですが、極
めてNIPPON的な感性のGTとして、またレースでの輝か
しい実績に対して「アッパレ」を差し上げたいと思います。
しかしタバコ屋が抱いていた颯爽と軽やかに「ビューン
と飛んでく鉄人28号
」というイメージに対しては「喝」で
しょう。

今回は一気に40年代オクルマ見学を済まそうと思った
のですが意に反しフェアレディZとスカイライン2000GT
のことだけで紙数が尽きてしまいました。まだまだ書き
残したことは多いのですが、このあたりで終わりに致し
ます。次回は昭和40年代を彩ったその他のオクルマ達
を駆け足で一気に見て行く事に致します。お楽しみに。

福井巡礼 vol.4:ああ旧車よ(前編)

平成29年6月15日
前の記事で、タバコ屋は何故「ゆのくにの森」などという
名前を付けたのか意味がわからなかったのですが、ま
わりをよく見ると加賀温泉を始め山中温泉、その他温泉
だらけで後になってなるほどそうだったのかと思った次
第です。印象深いその「ゆのくにの森」を後にし、同釜4
人は自動車部OBとして是非とも訪問しておかねばなら
ない聖地「日本自動車博物館」を目指します。ここは我
々にとってはエルサレムよりも永平寺よりも本願寺より
も果てはガンジス川の畔よりも崇高な場所なのです。
モーゼ3
その聖地はあっけないほど近くにありました。「ゆのくに
の森」から北へ少し走って国道8号線に行き当たる少し
手前の閑静な場所にいきなり場違いとも思われる建物
が出現したのでした。ああモーゼよ、紅海が二つに割れ
ようが割れまいが、約束の地カナン改め小松の地に導
いて頂いた事に感謝致します。

これも後から知ったことですが、「ゆのくにの森」も「日本
自動車博物館」も加賀市ではなくお隣の小松市に所在
しており小松市としては加賀温泉に来られたお客をうま
く取り込むというなかなか賢いやり方です。
14737417385.jpg
建物の外観はまるでベルサイユ宮殿か赤坂の迎賓館か
と思わせる重厚なもので、やはり美術館とかコレクション
ホールと言われるものはまず入れ物からして「華」がなく
てはなりません。大英美術館にしてもルーブル美術館に
してもドロボーして自分のものにした世界の遺産を誇らし
げに見せびらかすその神経は厚顔無恥レベルではある
ものの、そのプレゼンテーション自体は洗練されたもの
ですよね。(但し、今からでも遅くないから返却しなさい)

英国よ、フランスよドイツよロシアよ、強欲、搾取、強奪、
あなた達は時代に沿ったとは言え何と破廉恥なことをし
て来たのでしょうか。大航海時代の前段で活躍したスペ
イン、ポルトガルに至っては言語道断で、強盗国家と断
定してもよく、当時のチンケな世界地図を前にして半分
っこしようやなどと笑止千万な目論見を企てたと言いま
すから呆れ果てます。
帆船9
勝てば官軍という言葉があるのはタバコ屋とて知らない
筈はありませんが、人類としてあまりにも品性に欠ける
行為をやり過ぎたと思わないのでしょうか。タバコ屋の
独り言、「おまえら毛唐連中、許さへんど

ま、今回のテーマとは関係ない事でカッカすることもない
ので、しばしクールダウンすることに致します。
DSC_3865-1.jpg
実は福井巡礼の少し前、スケジュールが決まった後、何
もかも皆さんにMARUNAGEでは申し訳ないと思い「日本
自動車博物館」にどのようなオクルマが保存展示されて
いるのか調べてみようと思い立ちました。博物館のHPを
拝見するとタバコ屋お目当てのフェアレディS30Zが展示
リストにないのです。え~日本屈指のコレクションを誇る
この博物館にS30Zがないなんて、嘘やろ~と思いました
がその代わり後ろに補助座席の付いたフェアレディZ2+2
とGTRと同じDOHCエンジンを搭載したフェアレディZ432
がリストアップされていました。ま、百聞は一見に如かず
でまずは見学あるのみです。
DSCN3535-1.jpg
建物に入る前からして、すでに他を圧する威容を漂わせ
つつ、かつての大英帝国のオクルマのシンボルである
ロールスロイス・シルバーシャドウのお出迎えです。我ら
同釜4人のうちアオリイカ3人衆がさっそく記念撮影です。
DSC_3866-1.jpg
余談ながら、シルバーシャドウが発売されたのは昭和40
年(1965年)で、タバコ屋がまだ中学生の頃でしたので
知る由もなかったのですが、後日今出川時代にオクル
マに興味を持って以降はプレステージサルーンとして
世界で最も気品と格調のあるデザインだと思うようにな
りました。
ゴースト12-1
ちなみにその後継車種であるゴーストはプレステージカ
ーのカテゴリーにおいてタバコ屋が世界で最もお気に入
りのデザインです。乗ることは一生ないでしょうけど・・・。
DSCN3537-1.jpg
気のはやる一行は横のリンカーンには目もくれず、正面
エントランスからそそくさと入館したのでしたが、さて膨大
なコレクションをどのように見学するか、修学旅行ではな
いので、別に打ち合わせた訳ではありませんがタバコ屋
なりに一定のテーマは携えて来ました。そのテーマとは
我ら同釜が今出川時代に親しんだオクルマ」を見学す
ることでした。

タバコ屋の定義によれば、戦前から敗戦直後(昭和30年
年代前半まで)のオクルマをクラシックカー(ビンテージカ
ー)と呼び、昭和30年代後半から40年代及び50年代にか
けてのオクルマをネオクラシックカー旧車)と呼びます。

今回、「今出川時代」と言うことはNIPPONのオクルマ産
業が最も輝き熱病にうなされた如く成長、発展した昭和
40年代のオクルマ達を見たいという下心がありました。
DSCN3559.jpg
博物館側では粋な計らいをしていて、昭和30年から40
年にかけて日本のライフスタイルをイメージする展示ブ
ースをしつらえていました。そうなんです、こういうイメー
ジのもとでボクらは育ったんです。
梅ちゃん先生16-1
つつましくも向上心に燃え、3種の神器(じんぎ)と言われ
た、白黒TV、冷蔵庫、洗濯機を購入するという夢に憧れ
た時代でした。昭和40年代になるとその夢は更にエスカ
レートし3C即ちカラーTV、クーラー、マイカーへと高度化
していきました。我々同釜4人はまさにそのうなぎ上りの
狂気の時代に青春時代を過ごした訳です。
B29空襲4-1
さて太平洋戦争の敗戦によりアメリカによって完膚なき
までに叩きのめされたNIPPONのヒコーキ産業ですが、
敗戦後行き場のなくなったそのヒコーキ産業の若きエン
ジニア達は活路をオクルマ産業に求めました。その萌
芽となったのは昭和20年代に試みられた数々の国産車
開発でした。お目当ての狂気の時代(昭和40年代)のオ
クルマを見る前に、それまでの時代のオクルマを見学す
ることに致します。
DSCN3569.jpg
まずは昭和30年(1955年)発売のフライングフェザー号
です。メーカーは何と現在ではカーペット製造の大手で
あるスミノエ織物の子会社であった住江製作所製で、
日産自動車出身の富谷専務が中心となって開発されま
した。当時の国産小型セダンと言えばダットサンでした
が、それよりも更に小型軽量のオクルマを企画開発し
発売したものの、前輪ブレーキを省略する等の超合理
化!や、簡素すぎる装備・デザインにより評判が悪く、
わずか50台足らずの生産で中止されたようです。

ただタバコ屋は世間の評判とは全く逆で、このオクルマ
を実用軽自動車としてではなくスポーツカーとして見た
場合、タイヤはまるでバイクのように超大径で、ボディは
超軽量(400kg!)、まるでイギリスのライトウエイトスポ
ーツカーの趣があり、前輪ブレーキがない等は論外と言
うか笑ってしまうものの、造形も斬新かつ個性的でむしろ
GOODデザインだと思うんです。
オースチン・ヒーレースプライト6
愛嬌のあるヘッドライトなんかオースチン・ヒーレー・スプ
ライトを彷彿とさせるじゃないですか。
DSCN3570.jpg
リアデザインにしても、初代フェアレディZで松尾良彦氏
が試みたコーダトロンカ(リアエンドをスパッと切ったデザ
イン)が採用されていて、なかなかモダンで渋いです。

本日の見学評価の目安としてフライング・フェザー号に
は「アッパレ!」印を差し上げたいと思います。以下、
関口宏さんのサンデーモーニングのパクリにて、タバコ
屋のお気に入りには「アッパレ!」、気に入らないものに
は「喝(かつ)!」を差し上げたいと思います。
DSCN3574.jpg
続いて、コニー・グッピーです。このオクルマはかつて存
在した愛知機械工業が、昭和36年(1961年)に発売した
軽商用自動車(ピックアップトラック)なんですが、今とな
っては笑ってしまうほどつつましいスペックで、排気量は
何と200ccの空冷エンジン、車両重量は290kgとメチャ軽
く、しかも4輪独立懸架を備えたユニークなものでした。

さてこのオクルマの評価ですが、商業的にはデザインが
ダサく、性能もメカがユニークな割にはパッとせず、失敗
作としてやがて生産中止となりました。したがって「喝!」
印を差し上げたいと思います。
ヂャイアント号1
実はこのオクルマにまつわるオハナシが2つ程あるんで
す。一つは昭和20年代の新興メーカーだった愛知機械
は「ヂャイアント号」というトラックを製造していて、島の
タバコ屋の先代はゴフク屋でありながら島で最初のバス
事業を試みるにあたり、その運行車両としてコンパクトな
「ヂャイアント号」をバスに改造し、ろくな道とてない島の
デコボコ道を果敢に走らせたのでした。
IMG_0048-1.jpg
しかし道路整備に金はかかるは、しょっちゅう故障で走る
よりピットに居座る時間の方が長いはではショウバイに
はならず、結果大赤字となり、悪戦苦闘した訳でしたが
昭和28年の開業5年後の昭和32年に旧中島町がバス
事業を丸ごと引き受け町営バスとなり、それにより先代
は危機を脱したのでした。

タバコ屋は当時4~5才だったのですが、ガソリンの懐か
しい匂いと、子供なりに大きなオクルマだったのを鮮明
に覚えていますが実際は現在のミニバン程度の大きさ
で乗車定員も10人程度だったのではないでしょうか。
ダットサンベビー1
もう一つのオハナシはその後、愛知機械工業はうまくい
かなくなり昭和40年(1965年)頃より日産自動車と業務
提携するに至ったのですが、昭和45年頃(1970年頃)
その日産が神奈川県の遊園地「こどもの国」の遊戯車
用にダットサン・ベビイという可愛いオクルマをコニー・
グッピーのパーツを使って開発し100台程製造したので
したが、何とそのデザインには初代フェアレディZの主な
デザインスタッフだった松尾良彦氏が入社前の職場体
験時に関わったそうで、知る人ぞ知る意外な裏話ですよ
ね。

愛知機械工業は結局、昭和45年(1970年)日産自動車
に吸収され日産の子会社となったのですが、生産面で
はエンジン、トランスミッション等一部の精密部品の製
造に特化しまた販売面では日産・コニーから日産・チェ
リーを経て現在のレッドステージ店系列に吸収されまし
た。

ビックリ・ポンながら、愛知機械工業の技術力は相当優
秀で、現行ZやGTRのトランスミッションを始めミツビシ・
ランエボⅧのマニュアルミッションは愛知機械製だと言い
ますから大したものだと思います。元「故障だらけのヂャ
イアント号」の末裔?として誇らしく思います。
コニーフランシス1-1
脱線ついでの余談ながら、コニーと言えば我ら団塊の
端っこの世代で思い出されるのは、コニー・フランシス
ですよね。戦後のオールディーズと呼ばれるアメリカン
ポップスの代表的な歌手としてその甘ったるくも伸びの
ある歌声で世界中を魅了しました。
コニーフランシス3
代表曲は「大人になりたい」「ボーイハント」「夢のデイト」
「ヴァケイション」など多く、日本では弘田美枝子や伊東
ゆかり等がその日本版を歌いこれまた大活躍しました。

コニー・フランシスはその歌もさることながら、イタリア系
のオカラダもよくご成長され、上半身のある部分などは
重いほどたわわに実っており、吸引?は望めないまでも
せめて両手で支えてあげたいほどです。
DSCN3585.jpg
さて続いてダイハツ・初代ミゼットです。昭和32年(1957
年)発売のこのオクルマは通称「バーハンドルミゼット」と
呼ばれます。特徴は単座(座席が一つ)でバーハンドル
という最低限の仕様で、屋根と背面は幌であり、ドアも付
いていませんでした。エンジンは空冷2ストローク単気筒
249 ccで最高出力は8馬力!、最高速度60 km/h、燃
費は驚異的で28km/L、最大積載量は300 kgで車両総
重量は306 kgという超軽量でした。

タバコ屋が7才の時に発売されたシロモノであり、奇しく
もヂャイアント号が中島町営バスに移管された年です。
映画3丁目の夕日を彷彿とさせるノスタルジックな造形
で、ほのぼのとしたジドーシャの黎明期を感じさせます
よね。
さてこのオクルマの評価ですが、プリミティブなメカと造
形ながらシンプルで無駄がなくまた可愛さを感じるデザ
インにて「アッパレ」印を差し上げたいと思います。
カラーリングなんか黄色とグリーンの2トーンカラーに塗
り分けられていてまるでロータスのようでもあり、なかな
かオシャレじゃないですか。
DSCN3583.jpg
初代ミゼットに続きわずか2年後の昭和34年(1959年)に
発売された2代目ミゼットは通称「丸ハンドルミゼット」と呼
ばれるものです。特徴は嘴の形状を連想させるノーズ部
分とジドーシャらしく一体化されたキャビンで、先代と異な
り随分スタイリッシュになりました。仕様はエンジンが空
冷2ストロークながら305ccにボアアップされ、扱いやすく
なり、また最大積載量は350 kgで車両総重量は重くはな
ったものの僅か415 kgでした。各部が随分リファイン近代
化されたこの2代目ミゼットは「NIPPONの元祖軽トラック」
と言えるのではないでしょうか。
評価としては初代からわずか2年で大進化を果たしたそ
の努力に対し「アッパレ」印を差し上げたいと思います。
DSCN9656.jpg
タバコ屋の島でも親戚のオクルマ好きのおじさんがいて
このライトグリーン?色のミゼットを買って農作業に使っ
ていました。そのおじさんには悪ガキの弟がいて中学生
のくせにその虎の子のオクルマを無免許で乗り回してい
ました。2人乗りでしたので小学生のタバコ屋はチャッカ
リ横に乗せて貰ったセピア色に褪せた楽しい思い出が
あります。これを学術用語で「小判ザメ商法」と申します。
紫電改引き上げ1
余談ながら、そのおじさんと言うのはキカイ好きが高じ
てお百姓をやめて民間ヒコーキのパイロットになりまし
た。しかし悲しいことに宇和島沖の海中で「紫電改」が
見つかりその引き上げ作業をセスナで取材中に墜落死
してしまったのです。
F1マクラーレンホンダMP4・4-16
時は過ぎ、その息子さんは最初上記のダイハツに入社
してエンジン研究室にいましたが一念発起、HONDAに
途中入社、HONDA-F1チームの一員として当時F1界を
席捲したアイルトン・セナのサポートをしていたそうです。
バブルの終焉と共に昭和の時代が終わりつつあった頃
の懐かしいお話ですが、彼は今頃どうしているんだろう。

さて昭和30年代はこのくらいにして早く昭和40年代のオ
クルマを見たいのですが、脱線しまくりで紙数が尽きて
しまったようです。今回はこのくらいで終わりとし、次回
また40年代のオクルマをご一緒に見ていくことに致しま
しょう。お楽しみに。
(尚、文中ダイハツ初代及び2代目ミゼットの解説につい
ては一部ウィキペディアより引用させて頂きました)

福井巡礼 vol.3:加賀へ

平成29年6月1日
さて、同釜4人打ち揃って今回の最初の目的地である
「ゆのくにの森」へ向かったのですが、タバコ屋は「ゆの
くにの森」が福井県ではなく石川県にあること自体知ら
なかったのです。そもそもタバコ屋は福井巡礼と言う崇
高な目的のために一念発起したのでしたが、いきなり
加賀の国(石川県)とはこれいかに。

福井県と石川県は隣接県ながら清張の「砂の器」でも
あるまいし、その相関関係はどないなってんねん!と
上山、野尻両氏に言いたいくらいでしたが、現実的には
修学旅行の生徒よろしく、素直に且つはしゃぎながら、
野尻君のメルセデスBENZ-E240ステーションワゴンの
後席に収まっているタバコ屋でした。
福井平野1
野尻君のメルセデスは北陸自動車道をまっしぐら、一路
加賀を目指します。途中広大な福井平野を臨み、坂井、
芦原なんて言う地名が出てくると、かつてタバコ屋の島
の特産品であるみかんを買って頂いた元マイカルグル
ープの「だいとら」さんがこの地域にお店を複数展開し
ていて、各店を表敬訪問したこと等が走馬灯の如く思い
出されるタバコ屋でした。

ただ残念な事に、その後マイカルグループは総帥である
小林社長(京都出身)が、ガンで急逝され、カリスマの求
心力を失ったマイカル(旧ニチイ)は急速に業績が悪化
し、あげくの果ては迷走の末破綻、ライバルであるイオン
が合併吸収してしまったことはタバコ屋にとって痛恨の
出来事ではありました。
マイカル茨木1
現代流通業界の悲劇とは言えこの物語はまるで豊臣
家の栄光と挫折、消滅の物語に似ていると思いません
か。ちなみに当時、全盛期のマイカルの年間設備投資
額はハンパではなく500億円という巨額で、世界を相手
に戦っていたトヨタ、日産の年間投資額と同等だったと
言いますから、小林社長率いるマイカルの事業展開と
言うのはいかにビッグスケールで鼻息荒いものだった
か、おわかり頂けるのではないでしょうか。
露と落ち、露と消えにし我が身かな、難波のことも
夢のまた夢


お話しを「ゆのくにの森」に戻します。野尻君はやがて
高速道を降り一般国道に入ったのですが、途中閑静な
場所を通過中に、見慣れない看板を見かけました。
それには大きく3年2組と書いてありました。田舎者の
タバコ屋はこんな所に学校か学習塾でもあるのかと思
い、地元の野尻君に聞いても顔を伏せて笑っているだ
けでまともに答えてくれません。挙句の果ては「僕は中
学の時3年3組でした」などとタバコ屋の質問とは関係な
いことを仰るので「そんなこと、聞いてないっちゅうの!」
と言いたかったのですが「こらアカンわ」と諦め、ここを
何度も通った筈の平尾センセにお聞きしても、「そうやそ
うやこの道や、この次のカーブがな~」とか、これまた要
領を得ません。
yjimage[1]
こうなったらタバコ屋は推測するしかないのですが、記憶
のカケラによれば「休憩の場合はいくらいくら」とか書いて
あったので、学習塾や学校なら「授業料いくら」のはずな
のに何で塾や学校で休憩するんやろと思いました。

ところでタバコ屋は福井ご出身で今をときめく防衛大臣
の稲田朋美女史がいたくお気に入りで、地元福井産品
の宣伝のため派手なメガネや網タイツをご着用なのは
ご愛嬌としても、知的で理路整然としたお話しぶりに惚
れ惚れしていましたが、昨今はやや狼狽、迷走気味で
従来のキレとツッパリがなくガッカリしています。
稲田朋美1
ところで朋美ちゃんは早稲田に進学する前の花も恥ら
う乙女の時代には、何とタバコ屋が大学自動車部時代
前半の2年間を過ごした叔母の家がある京都長岡京市
の府立乙訓(おとくに)高校へご通学されたそうで、同窓
ではないものの、他人とは思えずこんな閑静な学習塾
もしくは学校で朋美ちゃんと一緒に机を並べてオベンキ
ョウ出来たら楽しいやろなと空想を膨らませたのでした。

昼食時など隣で「ちょっと~何してんの、早よ食べよし」
等と言われるとわざとグズグズしたりして・・・。ま、本日
のドライバーを拝命している野尻君は合宿中そのような
実体験をされたようですが、多くは語りますまい。
香里体育ハウス3
蛇足ながら、かつて同志社大学に学び幾多の苦い体験
とそれによる貴重な学識を習得された、次期福井葵ライ
オンズクラブ会長で地元の名士たる野尻君のお話では、
朋美ちゃんは現在安倍内閣の重要スタッフであり、政務
多忙なれど、福井出身と言うだけであまり地元のお世話
が出来ていないらしく、評判は今一つとのことでしたが、
そんなことより何よりもタバコ屋は乙訓高校出身の朋美
ちゃんと一度でいいから、3年2組の教室でご一緒にオベ
ンキョウしたいと思いました。
鉄人28号1
タバコ屋より福井の方々へ:あまり朋美ちゃんをいじめな
いで下さい。彼女はヤリテながら何でも出来る鉄人28号
でも鉄腕アトムのウランちゃんでもないんです。風邪も引
くし鼻水も出る生のヒトなんです。

後でお聞きした話ではそこはお子達ではなく大の大人
がオベンキョウではなくご休憩をされる場所なんだそう
で、いずれにしても大爆笑の道中談となりました。

気配りのヒト、野尻君は後日そのガッコウの写真を決死
の思いで撮影しタバコ屋にお送り頂いたのですが、学校
関係者やPTAの方にご迷惑を掛けるといけませんので、
掲載は見合わせます。選抜白襷隊の野尻君・・・すまん。
DSCN3493.jpg
さていよいよ加賀伝統工芸村「ゆのくにの森」に到着です。
平尾センセがかつてお子達を修学旅行で何度も引率し
て連れて来られたゆかりの地です。平尾センセにとって
はエルサレムよりも永平寺よりも崇高なる巡礼の聖地で
ありましょう。
DSC_3864-1.jpg
それが証拠に、我々ご一行は正面からOKANEを払って
ではなく、横の事務所へ通されそこで平尾センセとは旧
知の福森支配人さんと面会、ひと時お二人の思い出話
に花が咲きました。ここだけの話しですが、その後入館
しようとすると、どうも平尾センセのお顔でフリーパスの
TADAで入れたのでした。何とも申し訳ないような気がし
たタバコ屋でしたが、お二人の長年の交友とご好意に
甘えることに致しました。
DSCN3494.jpg
森と言うだけあって広大な敷地は加賀の伝統工芸を紹介
するテーマ館(屋敷)がゆったりと配置され順路に沿って
見学出来るようになっていました。「彩り長屋」は九谷焼
の紹介と体験実習+お土産を売っている場所のようです。
DSCN3496.jpg
また「金箔の館」では加賀の誇る金箔技術の紹介実演
が行われているようでした。その他輪島塗りから加賀友
禅からガラス工芸から様々なテーマ館がありましたが、
一行は「通るだけ~」とし、次の場所を目指しました。
DSCN3506.jpg
一行の本日お目当ての場所は「和紙の館」及び併設の
「そば処白山」でその理由は、平尾センセがお子達を連
れて何度もここを訪れ、お子達の卒業証書を手漉き和紙
で実習製作するという、奇想天外なアイデアを発案実践
したなつかしの場所であるからなのです。
DSCN3512.jpg
その館のご主人と久しぶりの再会を果たした平尾センセ
ですが、タバコ屋の想像ながらその会話は「いや~ご主
人その節は子供らと何度もお邪魔してお世話になりまし
て。」「いえいえ、こちらこそ。先生の思い出のコーナーは
今でもちゃんと残してありますよ。」といった内容ではない
でしょうか。
DSC_3854-1.jpg
事実そのコーナーには平尾校長センセのお名前で手作
り和紙の卒業証書が飾ってありました。タバコ屋はこの
平尾センセの奇想天外なアイデアと過去の前例にこだ
わらない前向きで革新的な姿勢に感心致しました。
同釜を褒めても仕方ないのですが、京都屈指の優れた
教育者だと思います。
DSCN3521.jpg
せっかくですので同釜4名はその「平尾センセコーナー」
をバックに記念写真をパチリ。
DSCN3515.jpg
お昼になり腹ごしらえをという段になりましたが、ご主人
がなかなか粋な計らいをしていて、予約テーブルには
「京都市立石田小学校御一行様」と書かれていました。
同釜一行はそのウイットに思わず爆笑してしまいました
が、先程の「3年2組」同様ノスタルジー満載のオコトバ
ですよね。
DSCN3517.jpg
同釜一行にふさわしく、この日のスペシャルランチはダ
ジャレっぽい釜飯と手打ち蕎麦に天婦羅付きの豪華定
食でした。お味のほうはとても美味でしたがこの時も
センセの気遣いによるOGORIで皆でごっちゃんに預か
りました。
DSCN3531.jpg
腹ごしらえも出来たところで、施設内にある高名な書家
であり詩人である相田みつをさんの記念館へ立ち寄り
ました。栃木県足利市ご出身の相田みつをさんの記念
館が何故ここにあるのか理由は聞き忘れましたが、書
家である以上本当は字がお上手な筈なのにいわゆる
「へたうま」の技法で、一度見たら忘れらない印象的な
書体で数々の人間賛歌的な詩を残されました。
DSCN3529.jpg
オクルマ好きのタバコ屋としては多くの展示作品の中で
この詩が一番お気に入りでした。詩の中味はアホみたい
なものですが、ほのぼのとした人間味が感じられますよ
ね。残念なことに相田さんは平成3年(1991年)に亡くな
られていますがそのお年が現在のタバコ屋の年である
67才だったそうで、身につまされるものがありますよね。

つまらないギャグながら、タバコ屋が詩を作る場合は以
下のようになります。「あのねえ、自分にエンジン掛ける
のは自分なんやけど、回し過ぎると壊れるんだからね。」
坂村真民1
余談ながら、愛媛松山にも相田みつをさんと良く似た
タイプの書家、詩人がいらっしゃってその名は坂村真民
さん(故人)と言います。「念ずれば花ひらく」という祈り
のコトバが有名で世界中にその碑が建てられています。

お二人に共通するのは「へたうま」な書体で心に残る平
易で印象的な詩を書かれていることでしょうか。
IMG_4353-2.jpg
3年前平尾センセご夫妻が、中島、松山に行幸された時
松山の坂村真民記念館をご案内しました。そこで案内を
お聞きした時、全世界で600基以上の碑が建立されてい
るそうで、その第1号碑は奇しくも京都西北の常照寺さん
にあることが偶然わかったのでした。
念ずれば花ひらく2 念ずれば花ひらく1
平尾センセの地元、宇治の禅定寺(ぜんじょうじ)にもそ
の碑が建てられていることは後日センセが訪問して発見
されたようです。

余計なお話しながら、かつてタバコ屋が若かりし頃、VAN
ヂャケット等のファッション旋風が巻き起こったことがあり
ましたが、その頃時代の波に乗って「レーシングメイト」と
いうオクルマファッションブランドを立ち上げたのが元トヨ
タのワークスドライバーだった杉江博愛(ひろよし)さんで
すが、ブームが去るとその後破綻し、失意のどん底にあっ
たものの、やがてご自分の経験をもとに徳大寺有恒という
ペンネームで「間違いだらけのクルマ選び」を出版、絶大
な支持を受け、晩年は成功者としてカムバック出来たこと
は皆さんご存知のことだと思います。「つまづいたってい
いじゃないか、にんげんだもの」を地で行った人生だった
のではないでしょうか。残念ながら今では泉下の人となり
ました。

さて同釜4人のこれまでの人生は果たして「念ずれば花
開いた」のか、あるいは「つまづきっぱなしの人生」だった
のか分かりませんがでもタバコ屋はすべてを肯定したい
と思います。だって「間違いだらけの!にんげんだもの」。

蛇足ながらタバコ屋の同級生の和田アキ子調で言えば
「笑って許して」になるでしょうし、山本リンダ風に言えば
「もうどうにも止まらない」ということになるのでしょうか。
DSCN3532.jpg
印象深い「和紙の館」や「相田みつを記念館」を後にし、
出口近くのお土産ショップへと戻って来ました。タバコ屋
はTADAで入館させて頂いた以上、ここでどっさりお土産
を買うべきでしたがまだ旅の最初であるのと、次の目的
地である「日本自動車博物館」を早く見学したいため、
入館には感謝しつつ素通りしてしまったタバコ屋でした。

この後、本日の二大目的地である「日本自動車博物館」
へと移動しますがあれこれ余談が多く、紙数も尽きたよ
うですので、その模様は次回の記事でお話ししたいと
思います。お楽しみに。

福井巡礼 vol.2:同釜の再会

平成29年5月12日
今回の福井訪問にあたり、京都の平尾センセと大阪の
上山青年、そしてタバコ屋の同釜3名で野尻君のところ
へ押しかけることにしたのですが、実は福井、石川の地
はかつてタバコ屋が島の特産品のみかんを売りに行っ
たことがあるのは以前の記事で申し上げたとおりです。
また、平尾センセにとっては京都石田小学校の校長時
代、修学旅行で何度も訪問している地(らしく)、あちこち
思い出の場所があり、従って訪問プランは平尾センセの
大構想に基づきそれを地元の上山、野尻両氏に修正し
てもらうという形にしました。言いだしっぺのタバコ屋は
と言うと、もともとMARUNAGEが得意技でもあり、まる
で修学旅行の生徒のように付き従うことにしました。

余談ながら、以前「野尻君の青春オデッセイア」の記事
では彼が同志社大学自動車部に入部したあとのことを
主に書いたのでしたがそのBEFORE部分がありました。
愛車遍歴1
この写真は野尻君から送って頂いた膨大な写真の中の
一枚で、恐らく昭和40年初頭のものだと思われますが、
オクルマはいすゞベレット4ドアセダンで正面のお嬢ちゃ
んは野尻君の妹さん、後ろに恥ずかしそうに写っている
のが中学生時代の野尻君です。前回の記事で福井の
イメージは雪深く風すさぶ日本海だと申し上げましたが
何の何の、暑い夏があるんじゃないですか。

藪から棒ながら、小学生と思しき野尻君の妹さん、心な
しかほのかな品性が漂っており、このお写真を写したの
がお父さんだとしても「早よ、写しよし」とか言ったんだろ
うか?。遠い記憶の中の夏休み、妹の麦藁帽子は何処
へ飛んでいったのだろう・・・。
ひまわり1
彼の当時の思い出の文言を引用しますと「実家がコン
クリート関係の仕事でトラックはいすゞだったこともあり、
乗用車もずっといすゞ車でした。フローリアンを買うと言
うので格好が嫌いだからと言って反対したことを覚えて
います。」
7月25日10-1
「父はじゃあカッコいい117クーペを買おうと終始言って
いましたが、何せ高価なクルマでしたから結局は実現し
ませんでした。当時ベレットがほぼ2台買える!価格で
したからね。」
IMG_0785.jpg
懐かしい写真と言えば、タバコ屋の手元にはこんな写真
があります。これは何を隠そう、今をときめく京都教育界
の重鎮、平尾センセのご幼少の頃の写真です。恐らく昭
和20年代後半のものと思われますが、ウイリスJEEPの
動くお子様用ジドウシャで、戦後食べるのに精一杯だっ
た時代にこのような希少かつ高価なノリモノをよくぞ買っ
て貰えたものだと思います。センセは既にこの頃から暴
走癖が芽生えていたらしく、前方の丸太に堂々と衝突を
試みているようです。

手前味噌ではなはだ恐縮ながら、タバコ屋の初孫はそ
の平尾センセよりPORSCHE911のノリモノオモチャを
昨年夏お誕生のお祝いに頂戴しており、現在は未来の
PORSCHEドライバーを目指して特訓中です。
IMG_5013-3.jpg
PORSCHEと言えばタバコ屋の同期で九州のラーメン
王こと末永氏の愛車がPORSCHE911カレラ4Sで(6代
目のポルシェ911で通常997の名称で呼ばれる)、彼
は九州地区のポルシェクラブのメンバーでもあります。
ちなみにタバコ屋は歴代ポルシェ911の中ではこのタイ
プのデザインが一番お気に入りでしたが、期せずして
末永センセも同じお気持ちだったようです。

そら、今出川で共に過ごした4年間は伊達ではなく、甘い
も辛いも共有した故に、価値観も同じようなものが芽生
えたのかも知れません。
IMG_5005-2.jpg
そのようなことで、タバコ屋がいつも申し上げている塊感
がありかつシンプルで無駄のない面とラインで構成され
たGOODデザインだと思いますが、NIPPON人デザイナ
ーは何故これが出来ないのだろう?。特にHONDAのデ
ザイナー諸君よ、この際猛反省しなさい

老婆心ながら末永氏に一つだけお願いしたいことは、お
年の割にはアドレナリンの分泌が多すぎるようなので、
福岡県警と仲良くならないようにして頂きたい。警察が
お好きであれば兵庫県警のギーちゃんがいらっしゃる
ではありませんか。

早くも話しが脱線しつつあるので、福井巡礼に戻します。
実は今回の訪問話より少し前、タバコ屋の赤いお嬢ちゃ
んこと愛車フェアレディS30Zを、親しくさせて頂いている
静岡の川嶋さんちに長期ホームステイをしエンジン・足
廻りを徹底的に再レストア?することになりました。
DSCN9545-1.jpg
蛇足ながら彼にご提示したタバコ屋のコンセプトは鉄人
28号の如く「ビューンと飛んでく鉄人28号」にして頂き
たいという意味不明なもので、川嶋さんも当惑している
ことと推察しますが、いずれ近い将来、上山、野尻両氏
がこの赤いお嬢ちゃんに試乗し、この世にこんな素晴ら
しくもパワフルなフェアレディS30Zが存在するのかという
カルチャーショックを味わって頂きたいというささやかな
望みもありました。
鉄人28号1
陸送でお届けすることにしたのですが、丁度福井訪問の
時期と重なったので、福井へ出発する日に松山へ乗って
行き、行きつけの整備屋に持ち込むことにしました。つい
て行きたいような心境で、後ろ髪を引かれる思いでしたが
しばしのお別れです。
DSCN3479.jpg
さて、いつもの上阪のパターンであるオレンジフェリーに
夜遅く乗って翌早朝の大阪南港に到着です。
DSCN3481.jpg
ニュートラムというモノレールに乗り、途中からは乗り慣
れた大阪地下鉄で上山青年の待つ緑地公園を目指しま
す。
DSCN3482.jpg
早朝にてスムーズに目的地に到着です。ただし田舎者
ゆえカードの金額が不足していて改札口を出られず、
まごまごしていると親切な若い女性駅員さんが丁寧に
チャージ代行をしてくれつつあったのですが、そこへい
きなり後ろから「チャンさん朝っぱらから何イチャイチャし
てるんです?」なんて言うけしからぬ男が出現しました。
振り返ると上山氏でした。
DSCN9965.jpg
余談ながら、同志社大学自動車部創部80周年大会の
前後でオーテス・ケーリ先生及びアーモスト館繋がりの
ご縁で親しくさせて頂いている、アーモストクラブOBの
吉﨑さん(川崎市在住)は、ここ緑地公園にもご自分の
マンションをお持ちで、東京、大阪を行ったり来たりの
羨ましい境遇です。
DSCN3484.jpg
上山青年の愛車VOLVO-XC70が駅前でお行儀良く停ま
っていました。タバコ屋はVOLVOに乗るのは久しぶりで
す。
DSCN3485.jpg
一瞬左ハンドルかなと思ったのですが、上山青年は右側
のドアを開けたので右ハンドルであることが判明しました。
リアゲートにはスエーデン製であることを示すSのマーク
やスエーデンの国旗が貼られていましたが中々良いご趣
味だと思いました。

余計なことながら、タバコ屋はVOLVOのアイデンティティ
でもある特徴的なリアコンビランプのデザインがお気に入
りで、あの独特のRを描くラインは中々他のプレミアムメー
カーも真似が出来ないところです。
DSCN3487.jpg
挨拶もそこそこに、平尾センセの待つ京都インター近く
の待ち合わせ場所まで急がねばなりません。上山青年
が随分使い倒したVOLVO-XC70ではありますが、快調
に名神をひた走ります。

メカマニアの上山青年らしくコクピットにはタバコ屋の知
らない計器類があれこれ取り付けられていましたが何に
使うのかは聞きそびれました。ご愛用のXC70は一世代
前のものながらコクピットのデザインはタバコ屋好みのシ
ンプルかつシンメトリカルなもので、個人的には最新の
XC70よりもこちらの方がGOODデザインだと思いました。

上山氏とは一昨年の大阪モーターショーでご一緒して
以来の再会だったのですが、途中上山氏はふるさと福
井の福井城址が県庁になってしまっており地方文化を
代表するランドマークであるべき福井城が県庁や消防
署では嘆かわしいといった話や、片やタバコ屋の住む
中島には信号が2つしかないというような話しをしました。
後日訂正
越前アオリイカこと野尻君よりご指摘があり、福井城の
テナント!は県庁以外では県警本部だそうで、タバコ屋
も道中、上山青年からそのようにお聞きした筈なんです
が記憶違いでした。
BMW5-4.jpg
突然の写真で恐縮ながら、かつてタバコ屋がアコード
ハッチバックに乗っていた頃、カミさんには内緒での次
の愛車として、ローヴァーと合作のHONDAレジェンドに
すべきかそれともBMW5シリーズにすべきかハムレット
のごとく真剣に悩んだことがありました。

これはBMWのチーフデザイナーだったNIPPON人!の
永島譲二さんがデザインしたBMW5ですが当時のBMW
は、PORSCHE同様無駄のない面とラインで構成された
塊感と清潔感のある
デザインで、タバコ屋はいたくお気に
入りでしたが結局はNIPPON人として、また同志社大学
自動車部の元キャプテンとしての矜持からという奇妙な
思い入れによりHONDAレジェンドを選択したのでした。
上山君1
道中で上山青年がポロッと漏らしたお話によると、どうも
彼の次期愛車候補はBMWであるらしく、彼の過去の凛々
しいパンタロンな人としてのお姿はともかく、現在のアピア
ランスからしてBMWが似合うのかどうか、また彼特有の
メカオタク的かつ変人っぽいご性格から総合判断して、
PORSCHEのSUV(マカンあたり)がお似合いだと老婆心
ながら思うのですが彼はPORSCHEはあまり関心がない
ようなので、それ以上はツッコまないことにしました。
DSCN7249.jpg
彼は情緒的なお話よりはオクルマのメカのお話の方が
お好きなようで、昨今流行のオンデマンド方式4WDシス
テム(コンピューターが自動的に最適な駆動方式を選択)
はホンモノの4WDではなくニセモノでけしからんという彼
独特の持論を展開し始めました。こうなるともう雪国福井
出身の彼の独壇場でメカオンチのタバコ屋はかなり閉口
気味でしたが、間もなく平尾センセとの待ち合わせ場所
「竹田」に到着したのでやや救われる思いでした。

平尾センセとも再会出来、いよいよ福井に向けて出発で
す。名神で米原まで行き、そこから北陸自動車道へ入り
敦賀経由で福井北ICを目指します。同釜の3人は久しぶ
りの再会を果たし、福井への道中は飽きることのない話
題でまったく退屈はしなかったのですが、南国育ちのタ
バコ屋にとっては3月下旬とは言えその残雪まだ解けや
らぬ景色は異国情緒たっぷりでした。
伊吹山6-1
敦賀までは琵琶湖東岸を走るので秀吉ゆかりの長浜を
皮切りに伊吹山を右手に見ながら途中信長亡き後羽柴
秀吉と柴田勝家が雌雄を決した「賤ヶ岳(しずがたけ)の
戦い
」の古戦場あたりを通過しました。

福井に至る道筋の地形は起伏のある深い谷間を縫うよう
になっていて、500年前武将はともかく足軽兵隊はすべて
徒歩で移動したわけで、賤ヶ岳の合戦どころか戦場にたど
りつくまでにヘトヘト状態だったのではないかと思います。

皆さんご存知の如く、この戦に破れた柴田勝家は北ノ庄ま
で退却し、自分の命運はもはやこれまでと、お市の方ととも
に自害して果てた戦国の世の悲劇の歴史がありますよね。
賤ヶ岳の戦い1
余談ながら、このやや手前に木の本というところがあり、
実は平尾センセのお嬢さんが嫁がれていて、ご主人は
NISSANのディーラーにお勤めの関係で最近娘婿殿の
お世話で平尾センセはパジェロミニ改めNISSANキック
ス(OEM車)を購入されました。平尾センセにしてみれば
京都で自称ミツビシPTA会長を長年に亘り拝命して来た
以上、そのようなオクルマの一台や二台無償でも手に入
るお立場ながら、ジジバカと申しますか、娘婿は可愛い
のでしょうね。
IMG_2615.jpg IMG_2618.jpg
今まで長年に亘りご愛用だったパジェロを手放し、ダウン
サイジングの実践としてご購入されたのでしたが、フツー
の人と違い彼はネジお父さん(キカイいじりエンスー)で
あるため、いじり倒さねば気が済まず最近とうとうキック
スをパジェロミニに改造してしまいました。
IMG_2616.jpg IMG_2640.jpg
リアのスペアタイヤケースには誇らしげに第3回同志社ラ
リーのカーバッジが取り付けられています。また最近では
ホイールハウスのブラック塗装から始まりタイヤスペーサ
ー装着によるワイドトレッド化等、そのネジ遊びは留まる
ところを知らず、タバコ屋はスニーカー代わりにとお勧め
したものの全く違う方向に暴走中のようです。予言して
おきますが今冬には、ラリータイヤ履いて雪深い今庄!
あたりに出没するかも知れません。

福井巡礼に戻ります。一行は途中賤ヶ岳S・Aは言うに及
ばず、南条S・Aやらあちこち休憩の後、やがて福井北
ICへ到着です。そこには若々しい同志社MANの野尻君
が待ってくれていました。尤も彼は年甲斐もなく野球帽
を被っていたのでそのように見えたのかも知れません。
DSCN3490.jpg
上山青年のオクルマは待ち合わせ場所の駐車場に置
いておき、野尻君の愛車メルセデス・BENZ-Eクラス
2.4Lステーションワゴンに乗り換えて本日の目的地に
移動です。
後日訂正
野尻君からご指摘があり、彼の愛車のBENZ-Eクラスは
正確な車名はE240ステーションワゴンでそれも後期型
にて、2.4Lから2.6Lにスケール(ボア)アップされている
そうです。

このドイツ製のオクルマはサンルーフを装備していたの
ですが、それに何とスリットの仕掛けがあり、暑い時は
サンシェードとして使えるという優れモノでした。気配り
おもてなしでは世界一のNIPPON車ですが、この仕掛け
は今まで見たことがなかったです。

前席パッセンジャーシートには土地勘のある地元出身
の上山青年にお乗り頂き、平尾センセとタバコ屋は黄
門さんよろしく後席でくつろぐことにしました。平尾センセ
は「いや~、野尻君久しぶりやな~」と言ったかどうか
忘れましたが、同釜4名が仲良く同乗して気分はいきな
り40数年前にワープです。

正直、平尾センセは卒業後も京都在住でしたので、同志
社大学自動車部新町ガレージにはかなりな頻度で出没
し、当時新入生だった野尻君らを相手に垂涎の的であっ
たミツビシ・ランサー1600GSラリースペックを前にして、
最新のラリー理論をご教授されたことでしょう。
12 A73
片やタバコ屋は卒業後、今出川からは遠ざかっていた
ので、野尻君との邂逅(めぐりあい)は今回が最初とい
うことになりますが、たとえ一度もお会いしていなくても
同志社大学自動車部の同釜というだけの「浮世の契り
で「竹馬の友」の如き信頼と交友が生まれるというのは
現代科学では解明出来ないことかも知れません。
7月21日 (9)-1
正確に言えばタバコ屋は卒業の翌年、昭和49年の卒業
生歓送会(早よ、しよし及びそんなんいやや~のお姉さ
ん方が卒業された年)には出席していますので間接的
には一度お会いしている筈です。

これから第一の目的地である「ゆのくにの森」へと向かう
のですが、途中抱腹絶倒のお話等もありまして、話せば
長くなりそうです。紙数も尽きてきましたので、そのお話
は次回の記事でご紹介したいと思います。お楽しみに。

福井巡礼 vol.1:プロローグ

平成29年5月9日
太陽がいっぱい1
いきなりの写真で恐縮ながら、タバコ屋を含む万博世代
の皆さんにとってはあまりにも有名なフランス・イタリア
の合作映画「太陽がいっぱい」は、哀愁溢れるテーマ曲
をバックに、アラン・ドロンのデビュー作とも言えるサスペ
ンス映画でしたが、ボンビーで野望を秘めた陰のある青
年が、アメリカから来た裕福な青年を殺害し彼女を騙し
て奪ったうえその青年になりすまそうという完全犯罪を
目論んだのでした。
太陽がいっぱい6
彼女を演じたのはマリー・ラフォレという女優さんでした
が、タバコ屋はあまり記憶に残っていません。その後の
ストーリーは警察がそれを嗅ぎ付け、最後はヨットから
海に投げ込んだ筈の遺体がひっかかったロープによっ
てヨットとともに陸揚げされるという劇的なラストシーンに
よってFINとなるのですが封切りは昭和35年(1960年)
ですから、愛しのオードリー・ヘップバーンとジョージ・ペ
パードが演じた「ティファニーで朝食を」が発表される前
年ということになり、タバコ屋なんかはまだ小学4年生の
頃のお話です。
イスキア島1
何故冒頭から「太陽がいっぱい」かというと、そのロケ地
は南イタリアのリゾート地、イスキア島で、陽光溢れる
地中海の眩しいイメージがタバコ屋の生まれ育った島、
瀬戸内海の「中島」に若干ながらも似ているからなんで
す。
イスキア島2
明るい海の色も似ており、電気もガスも水道も同様に付
いていますが、ただ違うのは建物のデザインと色です。
日本と地中海地方が全く異なるのはこの点です。一方
は絵になり片方は残念ながらあまり絵になりません。
IMG_1580.jpg
これはやや手前味噌ながら、もう30年以上!も続いてい
る恒例の「中島トライアスロン大会」の前座で、お子達の
ジュニア版トライアスロンの競技風景なんですが、大人
顔負けの結構な迫力バトルです。
IMG_1606.jpg
大人たちはと言うと美しい多島美を満喫しながら(でも
ないでしょうが)、スイム1.5kmバイク40kmラン10km
をこなしへとへと状態でゴールするという鉄人競技です。
ちなみに毛色の変わったところではこの中島大会に元
ヤクルトスワローズの古田選手が参加されていました。
また世界的にはF1ドライバーのジェンソン・バトン選手も
著名なトライアスリートですよね。
IMG_2873.jpg
こんなコスチュームで出場するお調子者もいます。にわ
かスコールにてその辺ドロドロでした。
IMG_2822.jpg
これは毎年、前夜祭で見事な京の舞を披露して頂くホン
モノの舞妓ハン親子です。おかあハンの方はややイメー
ジ壊れそうなお姿をしていらっしゃいますが・・・。
「おきばりやして、はよ、走りよし」とか・・・、そんなん言
われると気力も萎えるっちゅうの。

さて長い前置きとなりました。その南国育ちのタバコ屋
なんですが、この度は昨年夏に送られてきた一通のメ
ールが発端となり、その当事者である野尻青年の青春
オデッセイ全7編を執筆するに至り、挙句の果てはお住
まいの雪深い福井の地へ京都の元祖アオリイカ大魔王
こと平尾センセ及びやはり福井が故郷である大阪在住
で同志社大学自動車部のユル・ブリンナーこと公認会計
士上山氏とご一緒に殴り込みを掛けることになりました。
今回は崇高な目的で訪問するため、いわば巡礼と言う
ほうが相応しい旅となることでしょう。
砂の器3
上記のような環境で育ったタバコ屋ですので、福井と言う
とどうしても雪深く寒くて風の強い日本海の冬のイメージ
を描いてしまいます。
日本海と言えば松本清張の推理サスペンス小説の代表
作である「砂の器」を思い出しますよね。既に何度も映画
化やTVドラマ化されて皆さんよくご存知だと思いますが、
タバコ屋が最も印象に残っているのはやはり最初の映画
化作品で昭和49年(1974年)封切られました。昭和49年
と言うとタバコ屋が同志社大学自動車部を卒業した翌年
と言うことになり、随分若い頃の作品であった訳です。

主演は加藤剛でその恋人役が島田陽子、脇役として丹波
哲郎、森田健作、緒方挙、加藤嘉、等々豪華キャストで監
督は野村芳太郎でした。
砂の器2-1
「砂の器」は昭和35年(1960年)5月から翌年4月にかけ
て「読売新聞」夕刊に連載されたいわゆる推理小説もの
で、時代背景としては、戦中から終戦直後及び戦後にか
けての日本が描かれています。
おさらいの意味であらすじをご紹介しますと、ある日の
早朝、国電蒲田操車場内にて、男の殺害死体が発見さ
れた。前日の深夜、蒲田駅近くのバーで、被害者と連れ
の客が話しこんでいたことが判明するが、被害者のほう
は東北訛りと思しきズーズー弁で話し、また二人はしき
りと「カメダ」の名前を話題にしていたという。当初「カメダ」
の手がかりは掴めなかったが、ベテラン刑事の今西栄太
郎は、秋田県に「羽後亀田」の駅名があることに気づく。
今西は若手刑事の吉村と共に周辺の調査に赴くが結果
は芳しいものではなかった。帰途につこうとする二人は、
そこに評論家・関川重雄と前衛音楽家・和賀英良がいる
のを発見した。
砂の器13
一方殺人事件の捜査は行き詰まっていたが、被害者が
島根県出雲地方の元巡査「三木謙一」であることが判明
する。実は島根県出雲地方は東北地方と似た方言を使
用する地域であることがわかり島根県の地図から「亀嵩」
の駅名を発見する。続いて第二・第三の殺人が発生し、
事件の謎は深まっていくが、長い探索の末に、今西はつ
いに犯人の過去に迫ることになる。
砂の器12-1
捜査はやがて、本浦秀夫という一人の男にたどり着く。
秀夫は石川県の寒村に生まれた。父・千代吉がハンセ
ン氏病に罹患したため村を追われ、やむなく父と巡礼
(お遍路)姿で放浪の旅を続けたが、秀夫が7歳の時に
父子は、島根県の亀嵩に到達し、当地駐在の善良な巡
査・三木謙一に保護された。三木は千代吉を療養所に
入れ、秀夫をとりあえず手元に置こうとしたが、秀夫は
すぐに三木の元を逃げ出し姿を消した。
砂の器12-11
大阪まで逃れた秀夫は、和賀英蔵・キミ子夫妻のもとで
住み込み奉公していたが大阪市浪速区付近が空襲に遭
い、住民の戸籍が原本・副本ともに焼失した。当時18歳の
秀夫は戸籍の焼失に乗じて、和賀夫妻の長男・和賀英良
として年齢も詐称し、新たな戸籍を作成していた。
砂の器8-2
いまわしい過去を消し去り長じては前衛音楽家として華々
しい再スタートを切ったかに思われた矢先、その三木巡
査から英良のもとへ便りが届き、父千代吉が生きている
ことを告げようと東京に上京し、事件の冒頭のバーで英良
に再会するが英良は自分の過去がバレるのを恐れ三木を
殺害する。第二・第三の殺人も犯し完全犯罪になるかと思
われたが、今西刑事の執念の捜査はそれを許さず、英良
の新作発表会の会場へ逮捕状を携え吉村刑事と赴くので
あった・・・。
砂の器7
加藤剛演じる英良の恋人役で英良の子を宿しながら捨て
られ失意のうちに流産出血多量で死んでしまう可愛そう
な女性を演じたのが若き日の島田陽子ちゃんです。これ
がまたタバコ屋にとってはTOTEMOお気に入りでした。

「あなた、今晩はすき焼きにする?、それとも水炊き?」
なんてもし陽子ちゃんが言ったとしたら、タバコ屋はその
場で失禁、気絶することでしょうよ。これを究極の楽園と
申しますが、イエスだって、空海だって、親鸞だって、
果ては日蓮だって現出することは不可能だと思います。
HONDA-F1チームでは1,000馬力のエクスタシーなんて
言っていた時代もかつてあったようですけど・・・。
砂の器11-2
タバコ屋より3つ年下のお嬢ちゃん(だったの)ですが、
持って生まれた品の良さというのは争えません。陽子
ちゃんお願いですから、タバコ屋の方を見ないで下さい。
ハイライト10本まとめて吸ったくらいクラクラが来てしま
います。そうでなくとも最近狭心症のカテーテル手術で
一命を取りとめたばかりなんですから。

余談になりますが、上記二つの映画が作られたのは10
年程の開きがありますが「太陽がいっぱい」が封切られ
た頃、「砂の器」が新聞に連載されたのでした。偶然なが
ら二つの物語の主人公は暗い過去を持ったボンビーな
青年で、犯罪を犯してまで自己中な野望を果たそうとした
ことがよく似ていますよね。

タバコ屋が何故「砂の器」を持ち出したかと言いますと
小説の舞台は石川県だった訳ですが、福井、石川とい
うのは隣接しており、他県からみると同じに思えてしま
うのです。よってタバコ屋のイメージする日本海の厳し
い感じをご説明しようとこのようなお話しになりました。

さてタバコ屋は福井巡礼をしなくてはならないのですが
またもや寄り道をしてしまいました。この現象をダッチロ
ールと言うのか、ミスコースと言うのか、4輪ドリフトと言
うのか分かりませんが、ステア修正をしていよいよ巡礼
に出発です。

大阪で上山青年が愛車に乗せてくれて、途中京都で
平尾センセをお迎えし、3人そろっていざ福井へという
算段ですが紙数も尽きてしまったようですので、この続
きは次回の記事で詳しくお伝えします。お楽しみに。

今出川慕情 vol.7:野尻君の愛車遍歴

平成29年3月11日
オーティスケリー先生2
突然の古い写真で恐縮ながら、これはタバコ屋が同志
社大学自動車部に入部した昭和44年(1969年)から恐
らく卒業した昭和48年(1973年)春までの4年間、自動
車部の部長先生を務めて頂いた、オーテス・ケーリ先生
なんですが、もしそれが事実であれば、タバコ屋の同期
はケーリ先生と共にあった訳で、今となっては言葉には
表せないご縁の不思議を感じます。

またケーリ先生は学生の寄宿舎であったアーモスト館
の館長も拝命されており、そこは俳優の二谷英明先輩
等を輩出した由緒ある施設でした。(ケーリ先生がお亡
くなりになった後、現在は学生の寄宿舎としての使命を
終え、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設とし
て再利用されているようです)
(関連記事:京都・宇治・巡礼 vol.1参照願います)
DSCN8336.jpg
さて、今から4年前の平成25年(2013年)10月に同志社
大学自動車部創部80周年大会がありましたがそれより
やや早く前年にアーモスト館も80周年を迎えていました。
ケーリ先生が関わった二つの歴史の営みが、奇しくも
同じ年月を刻んで来た訳です。

ところでアーモスト館80周年の1年前平成23年(2011
年)のことながら、一期後輩のヘータこと井村氏は久し
ぶりに上洛を果たし、醍醐寺や哲学の道の桜がお目当
ての散策を終えた後、懐かしい今出川キャンパスに立
ち寄り、アーモスト館にも足を伸ばしました。そこで偶然
にもケーリ先生のお嬢さんであるベスさんと初対面遭遇
し、知己を得ることとなりました。尚、ケーリ先生の3人の
お嬢さんのご長女であるベスさんはアメリカ在住ながら
その時たまたま帰国しアーモスト館に滞在されていたそ
うで、双方が偶然ながらもまさに奇跡的な出会いだった
と申せましょう。この写真はその時の奇跡の瞬間を井村
氏から送って頂いたものです。
DSCN3444-2.jpg
ただ一部の読者の方は初対面の井村氏は何故その女
性がベスさんだと分かったのか、不思議に思われるで
しょうから、そのいきさつをご説明しますと、アーモスト
館の前を歩く年配の外人男性と若きLADYを発見した
井村氏はその男性がてっきりケーリ先生と思い込み、
とっさに「君の名は」とは言わなかったようですが、つた
ない英語で「私は元自動車部員だった者ですが、ケーリ
先生ではないでしょうか?」と尋ねると横のLADYが「父
は5年前に亡くなりました」と日本語で仰ったので、ああ
先生は既に亡くなられており、目の前にいらっしゃっる
のがケーリ先生のお嬢さんであることがわかったという
次第なんです。ちなみにベスさんは日本人男性とご結
婚されており日本語が堪能であるのも頷けます。

その後井村氏はケーリ先生及びベスさん繋がりで次女
のアンさんやアーモスト館OB会(DAC)のお世話をされ
ている吉﨑さんと知り合いになりました。その吉﨑さん
より両部を結び付ける重要生き証人として、井村氏に
アーモスト館80周年記念OB会報への執筆依頼があり、
その時のいきさつを寄稿されたようです。こう見えても
井村氏はかつて高砂の神童と言われ、学園紛争による
入試の中止がなければ東大に軽く合格したであろうと
言う逸材だったそうですが、残念なことにそれは彼自身
が語った言葉にて信憑性がやや疑われます。

ついでながら井村氏には心秘かにアーモスト館に対す
る憧れと入寮願望があったらしく、どのような事情があ
ったかは存じませんが結果的には果たせなかったもの
の、一連のアーモスト館との数奇な!ご縁もそのような
心情が背景にあったのではないかと推察されます。
(尚、井村氏の愛車遍歴に興味のある方は、
アウディな人 vol.1:高砂での出来事参照願います)
オーティスケリー先生4-1
その後話は更に進展し、そのOB会報へ「ケーリ先生の
思い出
」の執筆依頼が、こともあろうにタバコ屋のところ
に来たのです。丸投げが得意種目のタバコ屋にとっては
井村氏より逆丸投げをやられた訳で、しまったとは思い
ましたが、我慢強く忠誠心の厚いタバコ屋のこと、そこは
耐えて寄稿させて頂きました。

蛇足ながら、その記事が掲載されたOB会報(DACニュ
ース72号)は80周年大会時に吉﨑さんのご好意でOB
諸氏に配布しましたので、ご記憶の方もいらっしゃるの
ではないでしょうか。
(関連記事:終わりなき旅 vol.3:宴のあとさき参照願い
ます)
DSCN5967.jpg
それ以来、共通の師と思い出を共有していることから
吉﨑さんとは急速に親しくさせて頂くことになり、一昨年
はタバコ屋の一期後輩の福ちゃんこと石川女史及び吉
﨑さんのご親友の中山氏と吉﨑さんご夫妻の計4名で、
名も知らぬ遠き島「中島」にご来島頂く等、親密な交友
が続いています。
(関連記事:東京大紀行 vol.4:ウォーターフロント参照
願います)
オーティスケリー先生3
ケーリ先生はお爺さんが同志社大学で教鞭を取られた
同志社ゆかりのご一家なんですが、お父様が宣教師だ
ったため、幼少時代を北海道小樽で過ごされ、青い目
をした日本人ではありましたが、日米開戦となり一旦は
帰国し、USネイビー情報将校として日本通のドナルド・
キーン氏とともに日本軍捕虜への対応をし、戦後はご縁
の同志社大学に教授としてご奉職、以来終生同志社の
ために尽くされました。
(関連記事:今出川でのこと vol.1及び
札幌紀行 vol.2:小樽へ参照願います)
ケイトねえちゃん
この写真はケーリ先生の愛車ケイトねえちゃん7号の前
でのもので、戦後いち早く軍用ジープで幼いベスお嬢ち
ゃんを伴い北海道遠征を敢行する等、カーマニアでもあ
りました。ケーリ先生はオクルマに愛称を付けるのがお
好きで、それには必ずケイトねえちゃんの愛称が付けら
れました。ケイトねえちゃんネーミングのいきさつについ
ては別記事にて詳しくご紹介しているので今回ははしょ
ります。先生はカーマニアではあったものの、オクルマ
自体にのめり込むタイプではなくあくまでも生活をエンジ
ョイするためのツールとして割り切るというタイプでした。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.2参照願います)

そのケーリ先生が、自動車部の部長先生をして頂いて
いた頃、クラブへ寄稿された文章が残っていますので
抜粋させて頂くと、
「クルマが社会の貴重品だった時代は、自動車部という
ものはクルマ自体を動かすということに意義があり、一
種のステイタスのようでもあったでしょうが、これからは
もっと他のことで若い人が共通の何か目的を持って自
動車部を楽しんでいく必要があるでしょうね・・・。」
今読み返しても示唆に富んだお話だと思います。
タバコ屋達はそのケーリ先生の願いを実現出来たので
しょうか・・・。自問する必要はあると思います。
D:クラーク記念館2
さて長い前置きとなりましたが、野尻君の青春に戻りま
す。思い出深い今出川での4年間を過ごした野尻青年
でしたが、ふるさと福井に帰りご実家のコンクリート製品
製造業に携わることになりました。
S30Z-13-1.jpg
いきなりビックリポンな写真ながら、これは野尻君が親
戚の叔父さんちへ恐らく婚約の報告に行った時のもの
だと思われます。当時としては超モダンなS30Zの前で
写されているのは叔父さん夫婦だそうで、ラリー仕様Z
の勇姿もさることながら、元ゴフク屋のタバコ屋としては
叔父さん夫婦のファッションが気になったんです。

後日注釈:実は当初野尻君からお預かりした写真は、
横に伸びた形になっており叔父様夫妻が実際よりずん
ぐりした体型になっていたので、何とかして差し上げた
いと思い、丸投げが得意種目のタバコ屋は平尾センセ
に丸投げ依頼したところ、見事に復刻!してくれました。
平尾センセには誌面をお借りしてお礼申し上げます。)

今の若い方や、当時タッセル・スリッポンで新宿界隈を
のし歩いていた上山青年などはかなり違和感があるか
も知れませんが、タバコ屋にとってはお正月など、押し
なべてこういうファッションが一般的でした。

若干の解説を試みますと、叔父さんはU首のメリヤス下
着の上に長襦袢という下着を着て、その上にウール又
は正絹(しょうけん)=シルクのアンサンブル(羽織+着
物)の上着を着用し多分角帯に黒足袋+スリッポンなら
ぬ桐下駄という出で立ちです。
また奥様はこれまた正絹の小紋または付け下げ(フォー
マルウエア)に袋帯を締め、和装用のバッグに「君の名
は」の氏家真知子もご愛用だった毛糸のショール、白足
袋に草履という出で立ちです。

ここだけの話しながら、超近代的なS30ZとNIPPONの
トラディショナルな衣装との組み合わせが何とも可笑し
く、あえてご紹介させて頂きました。飲み意地の張った
タバコ屋が気になるのは赤いお嬢さんのボンネット上
にある清酒の一升瓶と風呂敷包みなんですが、恐らく
野尻君が叔父さん夫婦に持参したお土産だったのでは
ないでしょうか。
ヂャイアント号1
ちなみにその叔父さんは若い頃、島のタバコ屋の先代
が終戦後間もない昭和28年から昭和33年まで経営して
いた島のバス会社で運行していた「ヂャイアント号」を作
っていた愛知機械(後のコニー)にお勤めだったそうです。
ご縁はわからないものですよね。
(関連記事:異説:007私を愛したスパイ参照願います)
ヂャイアント号資料1-3
その野尻君も良きご縁があり、地元のご親友との繋が
りで現在の奥様と一目惚れ電撃結婚を敢行されたとお
聞きしていますが、デートに際しそれまで得意絶頂で乗
っていた高貴なお名前のフェアレディZながら彼女にとっ
てはすこぶる評判が悪く、かつての鈴木女史のように
「こんなんあかんえ!」とか「乗り心地硬いのいやや!」
とか言われたのかどうか、あれほど愛したフェアレディZ
を泣く泣く手放したとお聞きしています。

老婆心ながら、デートに際し、S30Zでは巨大なフロアト
ンネルのせいで、彼女の手をそっと握るのが精一杯で、
それ以上のエスカレートしたアクションなんて到底無理
なお話しです。やはりデートはキャデラックなんですよ、
野尻君!。
(関連記事:今出川慕情 vol.3:野尻君の青春1及び
今出川慕情 vol.5:野尻君の青春2参照願います)
愛車遍歴2-1 愛車遍歴3-1
その後、TOYOTAランクル、ミツビシJEEP、とワイルド
カントリーライフをテーマとしたオクルマを乗り継がれる
のですが、野尻君の会社がコンクリート製品を扱う会社
なので山間部の工事現場等に出かけることも多かった
のではないかと推察されます。ま、何はともあれ野尻君
の壮大な愛車遍歴はこのあたりから始まるのでした。
愛車遍歴4-1
写真は黄色のSUBARUレオーネツーリングワゴンです。
ターボに乗ってみたくてご購入されたようです。冬はレオ
ーネ、夏は奥に停泊している彼(または会社?)のクル
ーザーヨットでブイブイ言わせたらしく、卒業後もボンビー
生活を送っていたタバコ屋と比べると月とスッポン程の
差があります。
蛇足ながら、この写真を見たらSUBARISTの上山青年
なんか泣いて喜ぶのではないでしょうか。上山君、泣く
のはいいけど、机叩いてまで泣かないように。
アコードハッチバック3
余談ながら、その頃は丁度タバコ屋が島に還った頃だ
と思うんですが、当時タバコ屋はHONDAがお気に入り
で自分のなけなしのお給料で初めて買ったのが野尻君
のレオーネ同様黄色のHONDAアコード・ハッチバック
CVCCスペックでした。当時黄色は斬新で結構流行りま
したよね。
愛車遍歴5
当時京都帰りの舶来品として福井では結構目立つ存在
だったであろうと推察される野尻君の次なるテーマは
キャンピングカー」でした。恐らくケーリ先生がそのこと
を聞けば泣いて喜んだであろう「オートモービルのある
トラベル生活」というアメリカ発祥の新しいライフスタイル
です。ご購入されたのは三菱オタクの平尾先輩が聞け
ばケーリ先生同様大いに喜んでくれたであろう三菱スペ
ースギアでした。
愛車遍歴5-1
今でこそキャンピングカー、百花繚乱のご時勢ですが、
当時としては野尻君なんかそのハシリだったのではな
いでしょうか。まあオトナのママゴトの延長ながら、すべ
ての新しいイノベーションはママゴトから始まるんです。
P1070664.jpg
野尻は野尻でもタバコ屋世代にとっては「坂の上の雲」
の存在である、京都在住の野尻先輩(OB会副会長)の
場合は、同志社大学自動車部創部80周年大会の目玉
イベントであった、「愛車ミーティング」に於てご自分で
は愛車メルセデス・BENZを出すべきか、それともお気
に入りのNISSANシビリアン・キャンピングカー特別改造
スペックを出品すべきか、かなり迷われたようです。
(ちなみにそのオクルマはありとあらゆる情報機器+贅
沢装備満載でフロントシートは何とRECARO!でした)
IMG_3375.jpg
富永君どうやろか?と仰るので、その実行責任者であ
ったタバコ屋は迷わず申し上げました。「野尻副会長、
僭越ながらかつてのオーテス・ケーリ先生のご遺志に
より、是非キャンピングカーのご出品をお願いします」
と。タバコ屋は今でもその時の「愛車ミーティング」に於
いて、野尻先輩のキャンピングカーは自動車部の示す
ニュー・ライフスタイルについてのプレゼンテーションが
果たせたと思っています。タバコ屋としても卒部40年以
上を経てケーリ先生の思い描いていたオクルマのある
楽しい生活
というライフスタイルを少しでも現実化出来
たと自負しています。

しかしまあ、大人のママゴトもここまで来ると、もうハイソ
サエティの高貴なご趣味となり、そうでなくともタバコ屋
にとっては「坂の上の雲」のお人であった野尻先輩は、
いよいよそのまた上のゼウス(神)という存在になりつ
つあります。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照
願います)
愛車遍歴6
野尻君の愛車遍歴に戻ります。その後野尻君もかつて
明治期の大日本帝国陸軍が新興の強国ドイツに憧れ
たように、質実剛健のメルセデス・BENZに傾倒していく
ようになりました。写真は3Lのメルセデス・BENZ-Eクラ
ス・ステーションワゴンですが、左ハンドルだったゆえ、
またもや鈴木女史でもあるまいに「こんな変な位置の
ハンドルいやや!」とか言う奥様の大ブーイングに会
い、あえなく手放したという苦い思い出を持たれている
ようです。
愛車遍歴7
仕方なく乗り換えたのが写真のBENZ・S320だったそうで、
排気量は似たようなものながらEからSへとご出世されま
した。右ハンドルにしたまでは良かったもののしかしまた
もや奥様からのブーイングで「こんなデカイのいやや!」
とか言われて、またもや手放すという悲劇に見舞われま
した。ちなみに野尻君が購入されたのは、3代目のSクラ
スだと思われます。

野尻君、老婆心ながら申し上げておきます。大和撫子は
毛唐は嫌いなんです。そんなけなげな奥様に何故最初
からフツーのNIPPON製のオクルマをご用意して差し上
げなかったのかと思います。たとえばTOYOTA製の足の
いい奴「カリーナ・セダン」とか。千葉ちゃんのCMもさるこ
とながら、タバコ屋は好きなオクルマでした。
2代目Sクラス7-1
タバコ屋はメルセデス・BENZのオーナーになったことは
ありませんが、親戚のおじさんがBENZオタクでSクラス
以外は目もくれないような方でしたから、横に乗せてもら
う機会は多くありました。

余談ながら、タバコ屋が過去現在とも最もお気に入りの
メルセデス・BENZは2代目のSクラス5Lサルーンで、当
時世界各国のV・I・P御用達のオクルマでしたよね。
塊感と存在感のある重厚なボディは無駄なラインがなく
意外とシンプルで、しかもラジエーターグリルなどにシル
バーメッキを多用することにより、BENZのアイデンティ
ティを上手に表現しています。今でもプレステージサル
ーンはこうあるべきだと思います。特にHONDAのデザ
イナー諸君、今のレジェンドなんてかつてのタバコ屋の
愛車ながら、嘆かわしいデザインにて、宗一郎氏がご
存命なら「やめちまえ!」と怒鳴っているはずです。

ただ残念なことは、お金があればこれを誰でも買えると
いうことで、中東の王族が金にあかせて特別仕様のSに
乗るのはご愛嬌にしても、今世界中の鼻つまみ者であ
る北朝鮮の元指導者の故金正日(キムジョンイル)が御
愛用だったことなどは、タバコ屋にとっては極めて苦々
しい過去の出来事です。
(関連記事:東京モーターショー異聞 vol.6:外国車編
参照願います)
愛車遍歴8
「いつかはクラウン」というのは高度成長期に誰しも思い
描いた理想のオクルマ購入パターンでしたが、野尻君
の場合も「いつかは5LのBENZ-Sクラス」という夢があり
ました。その夢は以外にも早く叶ったようで、今度は二
度と奥様のブーイングを食らうことのないよう周到に右
ハンドルでメタルトップのBENZ-SL500を見つけ、格安
で購入されたようです。
愛車遍歴8-1
野尻君はこれで理想の桃源郷にたどり着いた訳で、用
もないのにメタルトップを開けたり閉めたりして子供じみ
た喜びを満喫していたものの、さらに落とし穴が待って
いました。今度はよもやまさか、奥様は「こんな税金の
高いのいやや!」というブーイングによりまたしても手放
さざるを得ないはめになりました。こうなるともうBENZに
よる妙なる悦楽どころか地獄のBENZ選びですよね。
愛車遍歴8-3
その間、三菱パジェロ・ミニやNISSANテラノ等、つまみ
食いをされた後、どさくさまぎれと言いますか、野尻君
ご乱心と言いますか、あれほど質実剛健、信頼性の塊
であるかの如きメルセデス・BENZを愛用されていたの
に、ある日突然香里体育ハウスの思い出が蘇ったのか
どうか、一度ローヴァーに乗ってみたいと思うようになり
ました。
(関連記事:今出川慕情 vol.5:野尻君の青春2参照願い
ます)
愛車遍歴9
購入したのはローヴァー・フリーランダーでローヴァー社
の中ではコンパクトで取り回しの良いオクルマであった
筈なんですが、野尻君の場合はアタリが悪くてエンジン
廻りで次々とトラブルが発生しこれも泣く泣く手放したと
いうか返品したと言うか。短い同棲生活だったようです。

それにしても007に出てくるようなゴッツいフロントマスク
は今にもそこからマシンガンが出てきそうで軍用車の様
でもあり異様です。オプションだったのでしょうが、タバコ
屋は初めて拝見しました。
ローヴァー3500-3
タバコ屋にとってローヴァーというブランドは格別の響き
を持っています。その理由はかつて我がHONDAがロー
ヴァーと提携関係にあったからです。ローヴァーというメ
ーカーは戦時中は戦車等の軍用車両を作っていたので
すが戦後はアメリカのジープに刺激されランドロ-ヴァー
なる元祖SUVを開発し、その後上質なサルーンやレンジ
ローヴァー等の高級SUVを生産し英国王室御用達のメー
カーとなりました。

余談ながら当時カーグラフィックの編集長をされていた
小林彰太郎氏は大の英国車贔屓でローヴァーのサル
ーンを絶賛するとともにご自身の愛車もローヴァーV8・
3500でした。
(関連記事:時事雑感 vol.8:とと姉ちゃんのこと参照願い
ます)
初代レジェンド7-1
しかしその後、怒涛のようなNIPPON車、ドイツ車の攻勢
に押しまくられ倒産の危機に瀕しましたが昭和54年(19
79年)に当時破竹の勢いだった我がHONDAと資本及
び技術提携し、ドマーニ、クイント、さらには集大成とし
て満を持して開発していた初のプレステージサルーンで
ある初代HONDAレジェンドの開発に主導的な役割を果
たし、その結果当時のNIPPON高級車とは一線を画する
ヨーロッパの香りのする国産車が誕生したのでした。

タバコ屋はこのようなオクルマが買える身分ではありま
せんでしたが、「HONDAの志やよし!」としてディーラー
に押しかけ、無謀にも「このクルマ、下さい!」と叫んで
しまったのでした。それ以来自称HONDA-PTA会長とし
て、20年もレジェンドを乗り継ぐとは夢にも思いませんで
した。バカですよね。
(関連記事:好みの基準 vol.7:カーデザイン及び
好みの基準 vol.2:愛車変歴参照願います)
愛車遍歴10-2
さてメルセデス・BENZを中心に様々な愛車遍歴を重ね
てきた野尻君ですが、近年は不惑の年からさらにロマン
スグレーのお年となりつつあり、オクルマ選びも落ち着
いて来て、浮世離れしたものからは遠ざかりつつありま
す。写真は現在お乗りになっているメルセデス・BENZ
Eクラス2.4Lステーションワゴンで、現役社長がオーナ
ーとしてお乗りになるのには極めて妥当だと感じます。
またもや老婆心ながら、いいお年ですのでAMG欲しい
などと言って奥様を困らさないで下さいね。
愛車遍歴11-3
またセカンドカーとして、BENZのチョロQことスマート・
フォー2にお乗りで、フツーのお方はベンツのマークが
付いていないため分かりづらいでしょうが、れっきとした
BENZなんです。
IQ-1.jpg
TOYOTAにもスマートと全く同じコンセプトでIQというの
がありますが、そら存在感から言って圧倒的にスマート
フォー2だと思います。その意味でマニアックなセカンド
カーのご趣味ですよね。
シグネット1
尚、蛇足ながら高級スポーツカーメーカーであるアストン
マーティン社は、何を思ったのかよりによってこのTOYO
TA・IQをベースにシグネットというシティカーを開発し販
売しています。メカはIQですがお顔はアストン顔でそれ
なりに高級感を演出しています。最近ではMAZDAロー
ドスターをベースにFIATが124スパイダーというのを発
売しましたが、それと同じ手法です。ただ違うところは
シグネットはアストンマーティン社が仕上げを行うのに
対し、FIATはMAZDAに対し、タバコ屋の得意技である
丸投げをしていることです。
愛車遍歴12-1
それ以外にもサードカーなのかどうか、BENZ・A180も
所有されているようで羨ましい限りです。その内メルセ
デスBENZ・JAPANから表彰状が届くことはほぼ間違
いないと思います。
ディスカバリースポーツ9
最後になりましたが、かつてローヴァーで大やけどをさ
れているだけに、やや申し上げにくい事ながら、BENZ
も乗り尽くしたと思われるので、雪深い北ノ庄福井で乗
られるのであれば、この際ローヴァー・ディスカバリー
スポーツあたりにチャレンジされてはいかがかなとも思
います。
ディスカバリースポーツ5-3
雪国では必需品の4WDは元祖SUVメーカーゆえ当然の
ことながらも、タバコ屋が気に入っているのはかねてより
主張している「ダウンサイジングすべし!」のコンセプト
にぴったりな2L・ターボ仕様だからです。240馬力ありま
すから普段の使用には十分ではないでしょうか。
ディスカバリースポーツ6-1-2
手前味噌で恐縮ながら、タバコ屋は品性漂うコクピット
が大のお気に入りで、安らぎと癒しを感じるのです。
親鸞も蓮如も果ては日蓮上人だってここまでの癒しの
世界のプレゼンテーションは創出出来なかったと思い
ます。それにしてもああ国産車よ、デザイナー諸君よ、
何故このような凛とした品性の漂うハイクオリティな
コクピットをデザイン出来ないのか!。タバコ屋は残念
でなりません。
(関連記事:品性とダイナミズム vol.2:NSXどうやねん
参照願います)

蛇足ながら、同志社大学自動車部OB諸氏の中にも
何人かはローヴァーオーナーがいて欲しいものです。
だってタバコ屋の古くからのお取引先である芦屋の
いかりスーパーさんなんか駐車場にゴロゴロ停まって
ますから。
後日追加
この記事を投了した後、タバコ屋の古くからのお取引先
でオクルマで言えばメルセデス・BENZ-Sクラスやレンジ
ローヴァーを専門にお売りになっているような東京の一
流フルーツ専門店の社長さんから写真付きのお便りを
頂きました。それはビックリ仰天の内容でした。
069.jpg
何とそこに写っていたのは、ランドローヴァー・ディフェン
ダーでした。皆さんピンと来ないでしょうが、ローヴァー
は元々大英帝国陸軍御用達の軍用車両メーカーであり
戦後ジープの影響を受けてランドローヴァーなるSUVを
開発したことは既に述べましたが、その進化系と言いま
すか、かつて野尻君が灼熱の香里体育ハウスグラウン
ドで汗水流してフィギュア競技の練習をした、あのランド
ローヴァーの末裔がこのオクルマなんです。

2015年(平成27年)に生産終了されるまで67年!の長
きに亘り生産され続けたガラパゴスなオクルマですが、
幸運にもその社長さんは製造末期の2012年(平成24
年)頃に直輸入にて入手されたようです。それにしても
タバコ屋がローヴァーのお話をあれこれするものです
からエールの意味で写真をお送り頂いたのではないか
と推察されます。
069-2.jpg
かつてドイツのメッサーシュミットやV2ロケットによる怒
涛の攻撃でスピットファイアによる絶望的な戦いを挑ん
だ大英帝国ですが、パトロンのアメリカの参戦と絶大な
バックアップによりかろうじて薄氷の勝利を得た、アング
ロサクソン・グレートブリテンの意地と誇りがこのディフェ
ンダーという勇ましいブランドとフロントグリルにも感じら
れると言えばタバコ屋の考えすぎかも知れません。
ステッカー01 ステッカー04
尚、その社長さんと言うのはお茶目な方で、何とご自分
でオリジナルのステッカーを作ってはボディのあちこちに
貼られているようです。間違いだらけならぬ「楽しみだら
けのステッカー選び?」皆さんもやってみてはいかがで
しょうか。長年に亘り自称HONDA-PTA会長を拝命して
きたタバコ屋などはPOWERED BY HONDAというステ
ッカーを後生大事に今でも硬く握り締めています。貼る
べきオクルマとて今は無いのに、もうバカですよね。
DSCN6805.jpg
蛇足ながら、その社長さんというのは懐かしいWEBER
キャブの時代からオクルマに親しんで来た、タバコ屋世
代の感性と合い通ずるオクルマのエンスーで、公認会計
士の上山センセ同様、熱烈なSUBARISTでもあり、ちな
みに現在のアシは泣く子も黙るSUBARU・WRX!です。

誰も知らないことながら、数十年前には名も無き瀬戸内
海の島へ行幸頂き、ご一緒に遊んだ懐かしい思い出も
あります。
リゾート風景1(ミリアム)
それにしても野尻君の初恋のオクルマ、初代NISSAN
フェアレディZはもう野尻君の地元の日本自動車博物
館とかいった特別の場所でしか見ることが出来なくなり
つつあります。しかしある内部情報によれば、例外的に
瀬戸内海の名も無き島で、かつての赤いお嬢ちゃんの
残影を垣間見ることが出来るかも知れないそうです。
後日追加
その日本自動車博物館を近々訪問予定なんですが、
事前に展示車両リストを見ると、フェアレディZが載って
ないのです?。もしそれが事実とすればあとは神奈川
の日産座間工場跡地にある日産ヘリテージコレクション
(旧、日産記念車車庫)か、瀬戸内海の名も無き島を訪
れるしかないと思います・・・。
フェアレディZG-1
終わりにあたり上山青年と野尻青年には次の言葉を捧
げたいと思います。蓮如上人のパクリながら、
寂しくば、今出川と唱うべし、我ら同釜は三文字の内
にこそ住め
」  
(作者注:三文字はみもじと読みます)

長きに亘った野尻君の青春オデッセイアもこれをもって
終わりにしたいと思います。7編に亘り辛抱強くご精読
頂いた読者の皆様に感謝申し上げます。タバコ屋も
さすがに疲れました。少し休みます。

★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
メニューの見方について
各カテゴリー別に最新記事10件が表示されます。10件以上の場合は最下行のホーム右の矢印で次のページをご覧頂けます。
記事の見方について
島のタバコ屋手帳のタイトルをクリックすると最新記事10件が表示されます。また個々の記事のタイトルをクリックするとその記事と投稿コメントが表示されます。
最新記事(30件)
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる