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今出川でのことvol.1

平成24年8月28日
オーテス・ケーリ先生の思い出
タバコ屋の若かりし頃のお話です。
昭和44年、私は京都の烏丸今出川にキャンパスのある
同志社大学に入学しました。田舎者の私は烏丸(からす
ま)を(とりまる)と読んだりしました。その大学はキリスト
系(プロテスタント)大学で創始者は新島襄という人です。
赤いレンガ造りのクラシカルな建物が多くあり、それだけ
でもうカルチャーショックでした。
同志社今出川キャンパス
今出川キャンパス内です。古い建物なのにこの赤レンガ
がとてもモダーンに見えました。
同志社今出川チャペル
同じく今出川キャンパス内のチャペルです。蔦はからまっ
ていませんでしたが、それなりのシックで落ち着いた建物
です。

しかし当時の世相は東大安田講堂の立てこもり事件等、
過激な学生運動がピークになっていた年で、京都も同様
にてキャンパスは封鎖されるは、教授は団交と称する吊
し上げでひどい目に会うはで、授業は出来ず、結局期末
の試験は中止となり、レポート提出で単位がもらえること
になりました。
これも良し悪しのことにて、私は商学部だったのでそれほ
どのダメージを受けたとは感じませんでしたが、実験の成
績を重視する工学部の同期生は随分困ったと思います。
クラーク記念館2
同じ今出川キャンパスにあるクラーク記念館です。同志社
大学のシンボル的建物で、明治26年アメリカのクラーク夫
妻の寄付により実現したものです。長らく神学の授業に使
用されてきましたが、老朽化がひどく、平成20年、5年にわ
たる大工事の末、修復され記念館として保存されています。
尚、この写真は修復前、昭和44年当時のものです。
(レア物ですが、ネタをばらすとタバコ屋が大事に取ってい
た当時の入学案内の裏表紙です。)

話は前後しますが、烏丸通りの西隣に新町通りというのが
あり、烏丸新町(京都はタテヨコの通り名で場所を表します)
の角に、やはり大学の校舎があって、新入生はそこが教室
でした。そこに通ううち北隅にきたならしいガレージがあり、
くたびれた複数のクルマが並び、学生が頻繁に出入りして
いるのを見ました。ただそのクルマの中にいすずの6tトラッ
クがありました。それだけが何故か印象に残りました。

同じ頃に、クラブ活動の勧誘合戦みたいなのがあって、
私はオクルマに乗りたいのと、そのいすずの6tトラックの
印象などもあって、あまり深く考えずに体育会自動車部と
称するクラブに入りました。地獄が待ち受けているとも知
らずにです。そのお話は別途させて頂くことにします。
ついでながらその勧誘合戦が行われていたのが、上の
写真のクラーク記念館の前でした。

オーテス・ケーリ先生のことです。
ケーリ先生は当時、同志社大学の教授でありアーモスト
館の館長でありまた私共の自動車部部長でもありました。
オーティスケリー先生
この写真は随分お若い頃のものでおそらく昭和30年代に
写したものでしょう。日本通らしく電気スタンドの笠には
いろはにほへと・・・と書かれているのが見て取れます。
どうでもいいことですが、先生の着ておられるのはボタン
ダウンの多分オックスフォード生地のシャツでアメリカ東
部のアイビーリーグ出身の方が好んで着ていた物です。
多分、当時日本で売られていたかどうか?
島のタバコ屋は呉服屋でもあるので、その辺やや気にな
るところではあります。
(出典:一聴一席19690815より)
オーティスケリー先生2
私らが知っているケーリ先生です。写真では恐そうですが
とても穏やかな優しい先生でした。元阪神のバースのヒゲ
を剃った感じでしょうか。

余談ながらアーモスト館というのは、創始者の新島襄が
アメリカ留学で学んだアーモスト大学にちなんだもので
共に学んだ、ケーリ先生のお爺さんとのご縁に始まり
そのご縁の人々の寄付に寄り昭和7年に竣工しました。
昭和7年と言えば、島のタバコ屋の先々代が念願の新店
舗を建てた頃のお話です。
(関連記事:人生いろどり参照願います)
アーモスト館
現在のアーモスト館です。同じ今出川キャンパス内にあり
ケーリ先生が館長をしていた頃は学生寮として使用されて
いましたが、平成9年に改修工事がされ、現在は海外から
の研究員の教育・研究のための長期滞在用の施設として
使用されています。蛇足ながら、島のタバコ屋が好きな
アーリーアメリカンテイストの清潔感あふれる建物です。

話は飛びますがケーリ先生はお爺さんが新島襄とアーモ
スト大学で同期生で、やがて請われて同志社大学教授と
して日本に赴任、その息子さんはキリスト教(プロテスタン
ト)の宣教師として日本に根付きました。赴任先は小樽でし
た。ケーリ先生は、その息子さんで、小樽で生まれ小樽で
育った準日本人のアメリカ人だったのです。
ついでながら、小樽といえば我らが裕ちゃんの記念館が
ある街でもあります。
裕ちゃんと言えばその後、栄光への5000キロという映画を
作りましたよね。(黒部の太陽もいい映画でしたが)
NISSANが当時の最新兵器ブルーバードP510を駆って、
あの当時最困難だったサファリラリーを制した物語です。
しかも当時最強のフォード、ポルシェを蹴散らしてです。
NISSANブルーバードP510
サファリラリーに出走した当時のNISSANワークス・ブルー
バードP510です(ワークスとは専門用語で自動車メーカー
直属の特殊戦闘部隊のこと)
実際のロケは初優勝の前年、実際にレースに参加し撮
影したもので、驚くことに撮影車も総合5位入賞したので
す。ちなみに裕ちゃんの影のドライバーはその翌年実際
に総合優勝したエドガー・ハーマンでした。
勝因はスピードよりタフネスさと迅速な修理作業でした。
つまり壊れにくかったのと壊れてもすぐに直してしまう器
用さというか、サポートの良さだったのです。
走破コースのあまりの過酷さからカーブレイクラリーとも
呼ばれていたほどです。
さらに言うなら、その後NISSANはさらなる進化を遂げスピ
ードでもポルシェ等、ヨーロッパ強豪に引けを取らない
フェアレディ240Z(HS30)をサファリラリーやモンテカルロ
ラリーに投入することになります。
フェアレディZサファリ仕様車
ゼッケンNO.11ハーマンのドライブするフェアレディZです。
昭和46年、サファリラリーにおいて前年のブルーバード
P510の総合優勝に続き、デビュー戦でいきなり総合優勝
の偉業を成し遂げました。しかも1、2フィニッシュのおまけ
付きで。
しかし見るも痛々しい格好で走行しておりいかに過酷な
ラリーであったか想像出来ます。
フェアレディZモンテカルロ仕様2
この写真はサファリと同時に参戦していた雪と氷のモンテ
カルロラリー仕様車です。通称240Z、排気量が2400cc
だったのでこのネーミングで呼ばれました。
名手アールトーネンのドライブにより総合3位に入賞した
車です。当時のモンテカルロでは前輪駆動もしくは四輪
駆動の車でないと勝てないと言われており、それは常識
でもあったのです。フェアレディZは後輪駆動、しかもお鼻
(ノーズ)が長くラリーには不向きのデザインでしたが、
その常識を覆す快挙!でした。昭和47年の出来事です。

ケーリ先生に戻ります。
数奇な運命のもとで、ケーリ先生はあの忌まわしい太平
洋戦争の数年前アメリカに帰り、お爺さん、お父さんの
過ごしたアーモスト大学に入学、そこへよもやまさか日米
開戦となったのです。彼は悩んだ挙句、志願してUSマリ
ーンに志願入隊。日本語通として情報部に所属しました。
当時の同僚で、同じく日本通として有名なドナルドキーン
氏がいます。

余談ながら、作家の故司馬遼太郎氏はその頃(終戦直
後)、某新聞社の文化部(宗教)担当として京都の寺院、
大学をこまめに巡回取材しており、同志社大学にもちょ
くちょく出入りしておりケーリ先生にも会っていたようです。

そのケーリ先生は、キーン氏とともに、当時のアメリカ占
領地(ガダルカナルやアッツ島とか)で心理作戦や、日本
兵捕虜の尋問、調査を担当していました。先生は準日本
人として、日本兵や従軍看護婦等が負けて自ら死を選ん
でいくのが忍びなく死なないように随分説得、腐心したと
か。ちなみにサイパン玉砕で当時従軍看護婦だった菅野
静子さんに自決を思いとどまらせたのは、ケーリ先生だっ
たそうです。

戦争も終わり、請われて同志社大学に来られ、教鞭を取
る傍ら、私らのクラブの部長にもなって頂いたのですが、
ケーリ先生自身もオクルマ大好きでジープを駆って家族
3人故郷の北海道旅行を決行されたこともあるとか。
昭和20年代前半頃のことゆえ、道路の悪さからよくぞ・・
と思ったりします。
ケリー先生北海道旅行
その時の写真です。道路というより原野を行くという感じ
です。赤ちゃんも連れて行ったはずなんですが・・・・。
オクルマはJEEPで、当時はメイドインUSAは世界一の品
質でした。国産車などおもちゃレベルでした。
意外でしょうが、車にまつわる特許の大部分はアメリカが
発明したものなんですヨ。(たとえばオートマティックトラン
スミッションとか)

尚、ケーリ先生の生まれ故郷であったせいかどうか、
自動車部が夏休みに実施する遠征旅行は北海道が定
番コースとなっていました。それはそれで地獄があった
のですが、別の項にてお話致します。

ケーリ先生は偉いお方だったので、私ら新入生ごときが
出入りするお方ではなく、もっぱら3、4回生の幹部が出入
りするものと思っていましたし、普段はあまり部室に来ら
れるというようなこともなかったので実際お目にかかった
のは自分が3回生になってからのような記憶があります。
たまに部活動の報告等におじゃまするといつもにこにこし
て応対して頂き好々爺というイメージでした。

もちろん当時はケーリ先生がもとUSマリーンの情報部
将校であったことなどはつゆ知らず、不勉強の極楽トンボ
だったのですが、在学終わり頃になって、先生の書かれ
た著書の一つ、「横糸のない日本」という本を読んで、
ケーリ先生の足跡というか、苦難の時代を切り抜けて来
た超日本びいきの一アメリカ人の良心というものに触れた
ような気がします。

ついでながら、創始者新島襄の大学設立理念を表すもの
として、教え子に宛てた手紙から抜粋した一文の碑が
今出川キャンパス校門入り口に建っています。
良心碑
碑には以下のように刻まれています。
「良心之全身ニ充満シタル丈夫(マスラオ)ノ起リ
来ラン事ヲ」 (良心碑と呼ばれます)

尚、長きにわたり日本人にエールを送りまた同志社大学
のために御尽力頂き、体育会自動車部の良き理解者で
もあったケーリ先生も最晩年はアメリカの施設で過ごされ
平成18年惜しまれつつ、84歳にて天に召されました。


苦渋の選択

平成24年8月24日
先日の人生いろどりの記事で、島のタバコ屋はいずれ
農業のことをお話しすると言いました。実は私の家の本
家筋は代々島でもかなり大きな部類のみかん農家でした。
先々代はその家から独立した人で、また先代は同じ本家
の生まれで、先々代の甥でしたが、養子として迎えられま
した。
実は、その本家の跡取りである私のいとこが7年前に急死
したのです。50才ちょっとだったでしょうか。近年はみかん
が安いので彼の死後、あとの畑を引き受けてくれる親戚も
ありませんでした。もう畑を荒らそうか(廃園にすること)と
いとこのお嫁さんが言うので、タバコ屋はまったく職業違い
ながら、本家のみかん農業が絶えてしまうことが忍びなく、
最低の管理(草刈程度)で良ければ私が引き受けましょう
と言ってしまったのです。地獄が待っているとも知らずに
です。
実際は草刈だけでも大変で、私は当時本業のショウバイ
が多忙だったので人を雇って草刈作業をしてもらったりし
ました。タバコ屋は農薬、除草剤がいやで、どうせやるな
ら有機農法でやりたかったのです。

ちなみに安請け合いした畑の面積は、1町歩半ほどで約
5,000坪ありましたが、かなり無理があり4,000坪程に減ら
しました。それでも実際やってみると気が遠くなるような
面積でした。
H17いよかん畑
その当時(平成17年頃)のいよかん畑です。数年間は
草刈だけでもいよかんはよく成りました。しかし徐々に木
が枯れたり、果実が実らなくなってきたのです。
原因はろくに肥料をやらなかったのと、剪定(せんてい)、
摘果(不良果の間引き、しないと余計な養分負担がかかる)
害虫、病原菌等の防除作業が出来てなかったからなので
す。当時は素人でしたので、そういうことをしなくてもまさか
木が枯れたりはしないだろうと安易に考えていたのです。
H19いよかん畑
平成19年頃のいよかん畑です。この頃はまだ木が弱ってく
るまでには至りませんでした。一面草が生い茂ってますが
農薬を使用してないので自分自身は満足でした。
H22いよかん畑
平成22年頃のいよかん畑です。木はまだ元気でした。
いよかんはもともと芳香系の柑橘でいい香りがしますが
無農薬の場合はそれがよりいっそう引き立ちます。

ついでながら、いよかんのルーツは山口県に自生してい
た穴門(あなど)みかんで、明治期に温暖な伊予の松山に
持ち帰られ、適地を得た後、いつしかいよかんと呼ばれる
ようになりました。その時点ではいま一つの魅力でしたが、
伊予松山の宮内さんというマニアックな農家が改良を重ね
た結果、容姿端麗、香り立つ美女に変身し、昭和40年代の
高度成長期には一世を風靡する愛媛の代表柑橘になった
というドラマティックな物語があります。
H24はるみ畑
今年(平成24年)春頃のいよかんとはるみの混植畑です。
枯れたり弱ったりしているのは、はるみの木です。
はるみはもともとデリケートな木で環境変化に弱く私の
ような大雑把な管理方法では無理があったのかも知れ
ませんが、丈夫なはずのいよかんの木も枯れだしたので
心配になりだしました。

尚、はるみは清見とポンカンを掛け合わせた比較的新し
い柑橘で手で、皮をむくことが出来て、ジューシーな食味
により近年人気が出てきており、ポストいよかんとして
中島でもさかんに植えられるようになりました。
はるみ畑2
はるみのアップ写真です。ジューシーかつマイルドな甘さ
でとても魅力的なのですが、かなりわがままな性格で、
1年成ると次の年は実を付けず休みます(隔年性と言いま
す)その点、いよかんは丈夫で毎年元気に実を付け、孝行
息子ではありましたが、活躍が長きにわたったため近年で
はその役割を終えようとしています。
ただしその独特の芳香は柑橘のなかでも屈指のもので
ジュースやマーマレードといった加工品には好適品です。

それはさておき、
今や、みかん、りんごの消費量は昭和30年~40年頃の
半分以下になりました。ということはコタツの上にみかんを
山盛りにし紅白歌合戦を見ながら手が黄色になるくらい
食べまくるというライフスタイル(生活様式)は、遠い昔の
語り草になろうとしているのです。例えて言うならばみかん、
りんご産地はたそがれの三池炭鉱になりつつあるという
ことです。

島のタバコ屋は若い頃から有機農業に関心がありました。
ひょんなご縁で島内に住むIさんという有機農業の実践家
(レモンの有機栽培で全国的に有名な方)と交流するよう
になり、当時は非農家でしたから、その考え方をお聞きし
たり、またそれが高じてIさんの作るみかんを売らせてもら
ったりしました。
有機温州みかん畑
有機栽培の温州みかん畑です。有機栽培の特徴はみか
んの表面に黒い斑点がついていることで、これは農薬を
かけないため黒点ウイルスなるものが果皮に悪戯をする
ためです。

話が前後しますが、平成3年秋、記録的だった台風19号
が中島を直撃し、みかん(特にいよかん)が全滅したの
です。今から思えばこの時、いよかんをやめ新しい何か
に取り組んでいれば今日また違った産地の形になって
いたかも知れません。
しかし当時の中島町は補助金を出していよかんの復興
を推進したのです。ああ何たる間違いでしょうか・・・・。
有機農業のIさんは違っていました。みかん畑が全滅した
のでさる高名な韓国のT先生(元獣医さんで有畜自然農
業を推進)に教えを乞い、放し飼い型の養鶏に取り組みま
した。いろいろご苦労があったようですが、今ではその有
精卵が松山の百貨店等で売られているようです。

生姜(しょうが)のことです。
Iさんはかなりのご高齢にもかかわらず、最近では有機栽
培の生姜に取り組むこととなりました。タバコ屋も見習うべ
きチャレンジ精神です。農業のイノベーションです。
余談ながら、以前の記事に何度も登場している広島の
Oさんが、実は中島に来訪されたことがあるのです。
その折、Iさんと面識となり、別名ニックネームの帝王とい
うあだ名もあるOさんがIさんのことをショウガおじさんと名
付けました。
生姜といえば、中島には遠い昔(明治、大正時代)に生姜
で栄えた歴史があるのです。
生姜の碑1
その生姜の繁栄を記念した碑です。
温故知新という言葉がありますが、まさに故きを訪ねて、
タバコ屋にとっては新鮮な、生姜の碑を発見しました。
文字がダイナミックでとてもいいですよね。
生姜の碑2
昭和2年に建てられたようです。大浦部落中となっている
のでタバコ屋の住む地区が建立したということでしょうか。
生姜の碑3
碑の裏面です。どうも明治の初め頃に島田なにがしという
方が生姜を島に導入し、皆にも勧めて普及させ、明治29
年の博覧会で表彰されたことや、特産品として島の発展
に寄与したことなどが書かれているようでした。上部には
種徳と書かれていましたが徳のいわれとか言う意味でしょ
うか。

現在に戻ります。Iさんの勧めで島のタバコ屋も生姜栽培
に挑戦することになりました。放棄しようと思っていた畑を
松山市が土砂がいるので分けてほしいというので、応じた
ところその跡地をきれいに整地してくれたのです。Iさんに
見てもらい放棄は勿体ないから生姜を植えなさいと言わ
れました。めくら蛇に怖じずですが、タバコ屋の好きなオク
ルマ業界用語を使えば、農業素材のレストア(修復、復元)
とも言えなくもありません。
生姜畑2
区画を作り、生姜の種芋を植え付けた状態です。
あまり日が当らない畑で、通称カゲジと呼ばれてました。
生姜畑3
島のタバコ屋は小学6年生の理科の実験以来、野菜の
栽培などしたこともなかったので、心配でしたが、やがて
芽が出てきました。ヤレヤレ。
ちなみに元肥はショウガおじさん手作りの鶏糞発酵肥料
で非売品です。
生姜畑4
最近の写真です。大分成長してきました。歯も生え揃い
そろそろカタカタも押せるくらいじゃないかとPTA会長は
連日ハラハラです。這えば立て、立てば歩めの親心です。
ショウガおじさんのアドバイスで8月は日照りがきついので
堆肥を施して水分蒸発防止と地熱調整をしなさいとのこと
にて、そのように実施しました(黒い筋がソレ)
これって、まるでテレビの鉄腕ダッシュ村のような感じだと
思いませんか。素人の生徒と熟練の師匠が繰り広げる
どたばた農業日記です。

ちなみに収穫は11月頃になりそうです。それまでショウガ
君、病気にならなければいいのですが。
ついでながら、みかん畑の夏草との闘いは平行して進行
中、こちらは炎天下、気持ちと体が折れそうです。
その作戦についてはまた別記事にて。


あこがれの宮島

平成24年8月21日
恥ずかしい話ですが、島のタバコ屋は60過ぎになるまで
安芸の宮島詣でをしたことがなかったのです。廻りの人に
聞いても行った事がないというのは私くらいのものでした。
宮島と言えば日本三景の一つとしてつとに有名で、
宮島=厳島神社ということなのでしょうが外人さんの人気
観光スポットNO.1でもあるらしいです。ご存知のように
平清盛が宋との貿易を推進するに当り、瀬戸内海の重要
拠点(守護神的位置付け)として厳島神社を造営し、その
後社殿のすぐ丘側に豊臣秀吉が戦死者供養という名目で
大経堂(千畳閣)を作りかかったものの、亡くなってしまっ
たので施主不在で作りくさしのまま今日に至っているとい
うことはどなたもご存知のことと思います。タバコ屋は恥ず
かしながら知りませんでしたが。

先日の記事でカーターという考古学者がツタンカーメンの
墓を発掘した話をしましたが、島のタバコ屋は近年、ひょん
なきっかけで広島駅近くの橋の近くを拠点にされている
ふるさと発掘師と呼ばれるOさんとご縁になりました。
(もっともふるさと発掘師というのは私の勝手な造語です)
実はそのOさんが、宮島行った事ないんやったら案内して
あげるけ~、広島来んさいや~と言ってくれたのです。
私はお言葉に甘え、喜び勇んで出かけたという訳です。
まるで小学生が修学旅行に行くような気分で・・・・。
後で聞いた話ですが、宮島の船着場とか各みやげ店に
置いてあったわかりやすくてしかも詳細な手書きの宮島
観光マップ
はそのOさんが10年の歳月と執念の現地取材
で完成させた汗と涙の作品だったのです。発掘師の面目
躍如です。これから行かれる方で、このマップを手に入れ
られた場合はこの話を思い出して下さい。

Oさんは子供をあやすように宮島の隅々まで丁寧に案内し
てくれ、宮島の島おこしの仕掛け人であるシックな和風作
りの旅館のご主人とか、和風レトロな外観のソバ屋改め
あなご丼屋さんとか、最後は宮島でも有名なお好み焼き
屋さんで広島焼きをおいしく頂きました。壁には錦絵風の
海上出前舟?の額が掛かってました。

ついでながら、3つのお店すべてはこのOさんがプロデュ
ースしたものだそうで、そうすると私の推測ながら、この
Oさんというのは発掘師だけでなく開業請合いから店舗
デザインまで何でもこなす言ってみればマルチタレント&
プロデューサーではないのでしょうか。誰かOさんの実像
を知る方がいたら教えてほしいものです。

実は宮島詣でには目的がありました。
もみじ饅頭のことです。ある調査でも饅頭では全国一の
知名度だそうで、広島といえばお好み焼きかこのもみじ
饅頭のイメージが浮かぶと思います。もみじ饅頭に直接
関係がある訳ではないですが島のタバコ屋は似たような
ことで1年ほど前にかなり悩みました。

というのは島で唯一の洋菓子屋さんでありうちのスーパ
ーの店内で30年以上営業されてきたFさんが廃業すると
言い出したのです。それまで本業のショートケーキとかの
他に、島で唯一のおみやげ品として「姫みかん」という
焼き菓子を作ってくれていました。
フランセ1
Fさんの店舗です。Fさんといっても店名書いているので
バレますよね。フランセさんです。
ご主人が製造、奥さんが販売で、何でもご主人は若い頃、
東京の有名店で修行したそうでショートケーキの味は松山
でもひけをとらないくらいおいしかったです、残念。
フランセ2
そのショートケーキ売場です。島は人口が少ないので沢山
作ると残るので、味は良くとも作るほうはやりずらかったと
思います。
フランセ3
島の唯一の手土産菓子「姫みかん」の売場です。ラベルと
いい、包装紙といい、プロのデザイナーが関わっていない
であろうことはすぐに見て取れますが、とにかく島で唯一の
土産菓子でした。
フランセ4
その「姫みかん」のアップです。スポンジのなかにみかんの
皮のピールが入っていて全体にみかんの果汁で香り付け
がしてあり、一口タイプになっていて帰省客などには随分
喜ばれましたが、今では幻の一品となりました。

このままでは島の土産がなくなってしまう、島のタバコ屋は
随分悩んだ末、こうなったら自社開発しかないと思い立ち、
相談するあてもなかったのですが、ハタとそうじゃ八天堂
の大ヒット作、クリームパンをデザインした発掘師のOさん
がいらっしゃるのでお願いしよう・・・と。
Oさんはマルチタレントにつき多忙で、困ったようなお顔で
したが、窮状を察して快く開発を引き受けてくれました。
Fさん廃業までの残された時間はあまりなく、突貫の開発
でしたが幸い、島にはトンカツで晩酌というのが唯一趣味
のお菓子屋、K親父さんがいて新商品の製造を引き受け
てくれることになりました。
マドレーヌ1
やっとこさ出来上がりました。特産のいよかんをモチーフ
にした島のおみやげ菓子です。中身はマドレーヌ本体に
いよかんの皮をピールにして練りこみ、同時に果汁もいっ
しょに入れてあります。
表面にはいよかんの皮をスライスして貼りつけた、やや凝
ったディテールとなりました。肝心のお味の方は、製造が
島のガンコ親父につき、昔風(昭和風)のやや濃厚な甘さ
の仕上げで、若い方には違和感アリでしょうが、こちらが
あれこれ言ってもガンコ親父は聞かないので仕方ありま
せん。商品名は「中島いよかんマドレーヌ」としました。
マドレーヌ2
発掘師Oさんはとてもユニークなパッケージデザインを考
えてくれました。梅ちゃん先生、三丁目の夕日、の時代を
彷彿とさせるとてもほのぼのしたデザインです。お金を使
わなくていいように、無地の化粧箱にハチマキをする形に
してくれました。5個入りが単位です。
マドレーヌ3
オリジナルのしおりです。右手に希望の島本舗の文字が
見えますが、これはマドレーヌ用に急遽出現した謎の店舗
で、何故希望の島本舗なのかについては別記事にてまた
お話することと致します。
マドレーヌ4
しおりの裏面です。別記事で登場したヂャイアント号が写
っています。またその当時、海上の主役だった、はやとり、
くれひめも仲良く写っています。ちなみに2隻とも焼玉エン
ジンというので動いていて、はやとりは松山、くれひめは呉、
広島へ通う定期船でした。
これらもすべて発掘師Oさんのデザインです。兎にも角にも
これで何とか格好がつきそうです。
マドレーヌ5
出来上がったマドレーヌを陳列してみました。まだ陳列途
中でスカスカですがこの乗りでやってみたいと思います。
パネル等は発掘師Oさんの弟子でやはり同じ頭文字の
OKさんが作ってくれたようです。
マドレーヌ6
上の写真の下部です。最初はおそるおそるのスタートでし
たがすぐにこのスペースでは足りなくなり横へ倍の広さで
並べるはめになりました。トンカツ親父は晩酌が出来なく
なるのでこれ以上は作らんぞとか、わがままなことを言い
ます。
後日談ですが、今年のお盆は後半途中で品切れという
悲しい?結果となってしまいました。

再びもみじ饅頭のことです。
一度宮島に行って、もみじ饅頭を食べてから中島の土産
菓子のことを考えようとしたことが、お陰様で、実際は
宮島詣でよりやや先に出来上がりました。
(マドレーヌの完成は年明け頃、宮島詣では5月でした。
発掘師Oさんとそのスタッフが骨を折ってくれたおかげな
のです。)
もみじ饅頭のルーツは明治の後期に、やはり宮島の土産
品として発案されたらしく、それには当時宮島ファンで度々
来訪していた宰相伊藤博文が旅館岩惣の茶屋の給仕娘
の手を見て、「何と可愛いもみじのような手じゃ、焼いて
食べたらさぞおいしかろう」と軽口を言ったのを女将が聞
きとめこれをヒントに出入りの菓子職人高津常助なるもの
が製品化したという説が有力だとか。
それはともかく、前の記事のカティーサークにまつわる話
と同様、ブランドには物語が必要であることが再度感じら
れました。

余談ながら、宮島参りの際、タバコ屋はクズ鉄同然だった
しろものを足掛け5年掛かりで修復した、あるオクルマに
乗って行ったのですが、いろいろよもやまさかの出来事が
待っていました。
MYフェアレディZ
このオクルマの購入時は気が遠くなるほどのポンコツでし
たが何とか乗れる状態に復刻して、今回宮島行きとなり
ました。しかしさあ宮島へという段になって、シートベルトが
いきなりロックしてしまい、広島駅の近くの橋のあたりで
急遽、路上修理となったものの、先述のOさんの助けで
何とか応急修理することが出来ました。
宮島バイパスではアルトのおばちゃんにスッと抜かれるは、
挙句の果ては宮島口の駐車場では外車お断りとか言って、
たらい回しにされるはで散々でした。
駐車場のオッチャンへ・・・
「外車じゃないっちゅうの、ボディ横の日の丸が目に入らぬ
かの~」
オクルマ好きのタバコ屋としては、この赤い車についての
詳しいお話を別記事にて、しない訳にはいかなくなったよ
うです。

長くなりましたので今日はこの辺にて。


トロイの木馬とツタンカーメン

平成24年8月19日
トロイの木馬といえば、ギリシャとトロイアの長い戦争の
物語の終盤でギリシャ軍が劇的な勝利を上げるキッカケ
となったしかけとその物語で、イーリアスという神話のよ
うな叙事詩の中で語られています。作者はホメロスだと
言われており今で言う語り部(吟遊詩人?)のような存在
であったと考えられています。イーリアスとオデッセイア
いう2つの物語がセットで、トロイア戦争とその後のことで
構成され、紀元前8世紀頃の作とされていることや、ギリ
シャの神々が登場する神話的内容のために長い間、
事実なのか作り話なのかわかりませんでした。

話は飛びますが、19世紀に入ってから、ドイツにシュリー
マンという少年がいました。彼は幼い頃に聞かされたこの
神話をほんとうの話に違いないと信じるようになりました。
長じてから、彼は商人となり成功して莫大な富を手に入れ
た結果、トロイア戦争の舞台となった古代都市トロイアの
発掘を行いついにその遺跡を発見したのです。
ただしこのサクセスストーリーは彼自身が吹聴したことで、
実際はその動機からしてかなりいかがわしいものだったら
しく、トロイアの発掘はすでに着手されており、それに便乗
するような形で行ったようです。また発掘に際しても国に
無許可でやったり、発掘品を私物化したり無茶だったよう
です。

余談ですがシュリーマンが確信を持って発掘した古代都市
トロイアはエーゲ海をはさむギリシャの対岸、現在のトルコ
北西部にあるヒッサリクの丘で、確かに9層にも及ぶ古代
城塞?が形成されておりシュリーマンは第2層がトロイアで
あるとして、発掘した訳ですが、後の科学的調査で年代が
一致せずそれははるかに古い時代のものであることがわ
かったのです。その後の精密な再調査で、現在では第7層
がトロイアではないかと推定されています。
ただ残念なことに、当時シュリーマンは無茶な乱掘をやっ
たので第7層の遺跡そのものが殆ど残っていないため、
現在でも決定的証拠がなくあくまでも推定となっています。
ついでながらHONDAオデッセイのネーミングはこの物語
から取られています。

ツタンカーメンのことです。
あまりにも有名なので説明の必要もないでしょうが、簡単
に言えば紀元前14世紀ころのエジプトの王で、アメンホテ
ップ4世の子としてその後を継いだのですが、近親結婚の
弊害で、体が弱く19才にして病死(他殺説もあり)した悲劇
の王として知られています。実際はほとんど知られてなか
ったのですが、20世紀に入りイギリスのハワードカーター
という考古学者がカーナボン卿という貴族の資金援助に
より執念の発掘を行い、契約切れ寸前についに王家の谷
(歴代エジプト王の墓地)で無傷のままのツタンカーメンの
墓を掘り当てたのです。

この二つの話に何の関係があるのでしょうか。
実は、小学校4年(昭和35年頃)に、どういう機会だったか
忘れましたが、担任は愛媛大学を出たばかりでやる気満
々のM先生でした。校長とはいつも衝突してましたが私ら
生徒は随分可愛がってくれました。後年先生は愛媛県の
教育事務所のトップになられたので、偉い方だったのだと
思います。
その先生から一冊の本を頂きました。小学校高学年向き
の本だったように思いますが、その本にはシュリーマンと
カーターの発掘物語が2編納められていたのです。動機は
どうであれ、遺跡発見の難しさ、気が遠くなるような作業、
底なしにかかる費用の調達、折れそうになる志、成功への
不安と執念、といったものを子供心に感じたのを憶えてい
ます。
ちょうど怪傑ハリマオが放映され、頭にフロシキ巻いて走り
回っていた頃の遠い昔の記憶です。
小学校給食
突然ですが、上記小学校4年頃の給食準備の写真です。
アルマイトの食器に味気ないコッペパンとシチューとかの
おかず及びお茶と牛乳がついていたように思います。
尚、学習机は天板がちょうつがいで開け閉め出来る戦後
の全国定番のタイプです。

後ろに立たれているのが先述のM先生です。若い!!
ちょっと伊丹十三さん似の今で言うイケメンでしたが、伊丹
さんといえば、私が通った高校(松山東高校)の先輩で、
京都生まれの京都育ちなんですが、終戦後お父さんの
伊丹万作氏の故郷松山へ移り住み青春期をすごされた
ようです。
初めは映画俳優でしたが同時にイラストレーター、エッセ
イスト等マルチタレントとして活躍、(妻信子さんとは再婚)
その後監督として才能を発揮しお葬式を始め、たんぽぽ、
マルサの女、スーパーの女、等その時代を象徴する問題
作品を次々と発表されたことは皆さんよくご存知でしょう。
時代をえぐり出すような問題作であったため暴力団等から
も脅迫暴行を受けたりしましたが、くじけず信念を貫きまし
た。しかし最後は極めて不可解な死により、早すぎる他界
が惜しまれました。

余談ながら、松山にある伊丹十三記念館の横にある漆黒
のガレージには彼の愛車ダークグリーンのべントレーカブ
リオレが収まっています。(カブリオレとは専門用語で幌付
きオープンカーのこと)
エンスー的見方によると、これは変人に近い方が乗られる
オクルマでその前はMGミジェットだそうで、要するに英車
オタクという類の趣味と思われます。(たしかオタクという
コトバは広島出身イラストレーター渡辺和博さんが発明し
たと思うのですが)

余談が長くなってしまいました。島のタバコ屋はすぐ話が
飛ぶので今後とも読みづらい点ご容赦願います。


ハリマオ

平成24年8月18日
明日は中島トライアスロン大会です。
愛媛県内はもとより、全国から多くの方が島に来られ熱
い戦いが繰り広げられます。
トライアスロン1
昨年の前夜祭の模様です。全国から選手とそのサポート
部隊(おもに家族ですが)の方が大勢来られこの時だけは
過疎でない島です。
トライアスロン2
地元テレビ局のアナウンサーが煽って、これからコーラの
一気飲み大会が開かれようとしています。参加した人は
翌日の競技にさしつかえると思いましたが、次の日平気
で走っていました。別腹ということでしょうか。

さて突然ですが、ハリマオのことです。
トライアスロンとは何の関係もありませんが何やら勇まし
いと言うのが唯一の共通点でしょうか。
怪傑ハリマオは昭和35年から36年に放映された初期の
お子様向け白黒TV番組で、昭和の団塊前後の方なら
知らない人はない名前です。ハリマオとは、マレー語で
虎のことである、と当時の番組冒頭で言ってましたので
多分そうでしょう。
余談ながら、島にはおトラ婆さんが創業者だったゆえに
タイガー劇場と名付けられた映画館がありました。島の
タバコ屋の店の隣にありました。
ついでながらその映画館にユニークな命名をしたのは私
の叔父です。そのタイガー劇場には苦い思い出がありま
す。当時その劇場に封切り映画がよく来ました。娯楽のな
い時代大人は押すな押すなで連日見に行ったものです。

あるとき忠臣蔵の映画が封切られて両親が見に行くことと
なり私もくっついていったのです。翌日のことです。小学生
は映画を見に行くことは禁止だったのですが、昨日映画を
見に行った人は席を立ちなさいと言われ、私ともう一人立ち
ました。行った理由を聞かれ、私は両親が行こうや~と言
うので行きましたと、もう一人は自分が見たかったので行っ
たと、担任の先生はもう一人の子は正直でよろしい、あな
たは両親のせいにしたからダメ、後ろに立ってなさいと言
われました。何かワシントンの桜の木のような話ですが、
それ以来私の心のトラウマになっています。

ハリマオに戻ります
♪真っ赤な太陽燃えている~、果てない南の大空に~
轟きわたる雄叫びは正しい者に味方するハリマオ~ハリ
マオ~僕らのハリマオ~
その当時の子供は歌詞なんかすべて丸覚えしてました。
当時若かった三橋美智也サンが歌っていました。
余談ですが三橋美智也も売れない時があり、何でも横浜
の銭湯で風呂焚き(良く言えばボイラーマン)をしていた
時期があったとか。小学校4年頃でしたか遠足でお弁当を
風呂敷に包んで持って行き食べた後はその風呂敷を頭
に巻き付けハリマオ気取りで走り回った記憶があります。
他愛ない思い出です。

もう一つ忘れられないのは南十字星のうたです。
ハリマオの劇中歌でした。ハワイアンぽいメロディーで
♪・・・・・・幼い頃の思い出に~輝くは々々南十字星~
歌はあまり意味のない他愛ないものだったのですが
歌っていたのが近藤圭子さんというおねえさんで何とも
言えない大人の女性の香りと言うんでしょうか、子供心に
綺麗で優しいお姉さんというような心情をはじめて意識し
た記憶が残っています。
現実にはその後の人生でそのような淡いイメージはこと
ごとく壊れていくのですが・・・・。

ついでながら島のタバコ屋の先代が始めた乗り合いバス、
ヂャイアント号はその頃には、町営バスとして引き取られ、
再出発していました。ヂャイアント君も波乱に満ちた前半
生でしたが、路頭に迷うことなく、幸せな晩年を過ごすべ
く安住の地を得たのです。


紅茶と人絹モスリン

平成24年8月16日
島のお盆は終わりました。
母が今年亡くなったので供養盆踊りに参加しました。
島では新仏さんの家は盆踊りの会場に遺影写真を持ち
込み地区会主催で供養法要をしたあと仮装盆踊りをしま
す。通常隣組ごとにチームを作り仮装をして参加します。
ちなみに私のチーム名はワイキキの娘で、それなりの
ハワイアンな衣装で踊りました。60過ぎたオッサンの女
装は見られたものではなかったです。尚、東京の六本木
界隈ではソレ(女装)を職業にしている方もいらっしゃる
ようですが。
大浦盆踊り
続いて19日にはトライアスロン大会が行われます。
お盆からその時にかけては島の人口が約2倍になります。

さて紅茶のことです。
お茶はもともと中国の専売特許でしたが、緑茶が主体で
した。日本にも最初は薬として伝わり、やがて戦国時代頃
になるとお抹茶文化が生まれ、戦国武将も茶の湯というの
を一種のステイタスとして競うように取り入れました。
その後中国で烏龍茶のような(半分程度発酵した)褐色茶
が発明されましたが時を経て、18世紀になるとイギリスの
植民地となったインドでもお茶が生産されるようになり、
ヨーロッパ人(とりわけイギリス人)の食生活習慣により良
く合うよう、完全発酵した緑茶即ち紅茶(BLACK TEA)が
発明されました。ブラックというのは葉っぱの色の表現でし
ょうね、多分。

問題はそこからなんです。発酵食品とはいえ、香りを楽し
む生鮮食品に変わりはなく、インドから紅茶をいかに早く
イギリスに運ぶかということが最重要テーマとなりました。
そこで登場するのがティークリッパー即ち(紅茶専用高速
運搬船)でした。民間の船会社が3本マストの高速帆船を
作りインド、イギリス間の最短運搬レースを競ったのです。
その時の最速マシン(船だからシップですね)はサーモピ
レーとカティーサークでした。やがてスエズ運河が開通す
ると、スエズは風がないので帆船は使い物にならず蒸気
船に取って代わられました。サーモピレーはなくなりました
がカティーサークは奇跡的に生き残り現在はロンドンで保
存されています。
船のお話ではないので、それはどちらでも良いのですが、
先行者利益というのは恐ろしく、イギリス一番乗りの船は
紅茶の運搬代金でもう一隻買えるくらい儲かったそうです。
全く比較にもなりませんが、島のタバコ屋も創業者の先々
代が、人絹モスリンなる新商品を大阪、京都の問屋から
ダイレクトに仕入れて他店に先駆けて売り、その先行者
利益によりそれまの行商から新店舗を建てるための元手
を作ったという伝え話(レジェンドと言ってもいいような)が
思い出されます。

話が飛びますが、レジェンドと言えば大型セダンを作るの
がへたくそなHONDAがかなり以前からムリして作っていて
実は私もつい最近まで乗ってました。残念ながらある事情
により手放すことになりましたが、バブル時代に開発され
たクルマが今の時代に合わなくなったことがその理由の
一つではあるのですが・・・・・。
ホンダレジェンド
平成4年に購入した2代目レジェンドのフロントビューです
が、今でも意外に古さを感じさせないでしょう。HONDAデ
ザインはこの頃が一番良かったように思います。トレンド
から言いますと最近のデザインは前後をギュッと絞り込む
のが主流ですが、この当時はそこまでの絞込みはされて
いませんでした。
HONDAレジェンドH04TYPE-11
リアサイドビューです。どうでもよいことですが、ホイール
は購入時にクーペ用のものを無理やりおねだりしたもの
で、通常は出来ない相談だと思います。
また、ペイントはイレギュラーなツートンになっています。
この角度からの眺めは当時としてはかなり日本車離れし
たフォルムだと思います。
ホンダレジェンド3
リアビューです。LEGENDのエンブレム配置が正規と全く
異なりアメ車のリンカーン風な配置に付け替えました。
また法規違反ではあるものの、補助のバックランプが2基
、バンパー下に見て取れると思います。(夜間のバック時
には超便利なんです)
ホンダレジェンド4
コクピット廻りです。機能中心で控えめなシンプルデザイン
です。当時のVWとかドイツ車と同様のテイストです。ただ
ステアリング径の大きさが時代を感じさせます。残念なが
らその後のデザインはかなりゴテゴテしてきておりタバコ
屋の好みとは大きくズレてしまいました。

話を紅茶に戻します。
情報の少ない時代、時間と言うのは貴重なアドバンテー
ジでした。またインドからイギリスへ儲かり商品を運ぶに
はその方法について相当なイノベーションが必要だった
ということです。船体はよりスマートに、帆柱は2本から3
本に・・・とか。

余談ながら、その後20世紀になって以降1923年頃、その
高速ティークリッパーの活躍にちなみ、あるウイスキーメ
ーカーがカティーサークというブランドのウイスキーを発
売しました。飲み口が軽く人気を博して今では世界中の
人々に親しまれるブランドになっていますが、ビンのラベ
ルに例の3本マストの帆船が描かれているアレです。
このことはかなり示唆に富んだ話ではあります。つまり
ブランドには物語が必要であると・・・・。

ついでの話ですがカティーサークとはスコットランドに伝わ
る民話に出てくる、短い=カティ、シミーズ=サークを着た
色っぽい魔女に由来するという説が有力で、船首にはなる
ほどその魔女をモチーフにした悩ましい彫刻が張り付いて
います。

またまた島のタバコ屋のとりとめもない話になってしまい
ましたがお許し願います。

人生いろどり

平成24年8月14日
お盆です。多忙な皆さんもこの時だけはご先祖の供養
にお墓参りをされた事でしょう。
長い人生、いろいろありますね。いろいろと言えば、
「人生いろいろ」は昭和62年にリリースされ、130万枚も売
れた島倉千代子さんの大ヒット曲ですが今度それと題名が
よく似た「人生いろどり」という映画が製作されたそうです。

ニッポン映画ファンの方はすでにご存知でしょうが物語の
内容は高齢化と過疎化が進む徳島県・上勝町で、平均年
齢70歳の女性(おばちゃん)達が中心となり、葉っぱや野山
の草を料理のつまものとして販売、売上高2億6,000万円を
あげるビジネスとして見事成功させた実話を映画化したも
のです。

舞台は人口約2,000人、高齢者が48%を占める四国で一
番小さな町上勝町。ミカン産業が全滅してしまった町の活
気を盛り返そうと農協職員の江田が葉っぱをつまものとし
て販売することを企画。周囲から冷ややかな目で見られる
江田だったが、3人の女性がともに立ち上がる。
吉行和子が、夫の猛反対にあいながらも、初めて自分の
意志を貫く女性薫を、富司純子、中尾ミエが薫とともに仕
事を始める幼なじみの友人を演じる。それぞれ悩みを抱え
ながらも生きがいを見出し、友人や家族に見守られながら
輝く女性たちの姿を描いたものとなっています。

実話だけに身につまされるお話です。
すでにそのギョーカイ(おもに農業関係者の方々)では葉っ
ぱビジネスとして高知県馬路村のごっくんユズ物語ととも
に超有名になっている数少ないサクセスストーリーです。
中島遠景2
さて広島、愛媛、山口の境界点に位置する私の島、中島
のことです。上勝町と同様、過疎が急速に進む人口3,000
人余りの離島です。地場産業も全滅まではしていません
が斜陽化が著しいみかんがおもな産品です。あれ程栄え
た三池炭鉱も、夕張炭鉱も石炭がいらなくなった途端さび
れてしまったように、かつて島のタバコ屋がヂャイアント号
を走らせた昭和30年代のみかん景気はもう永久に戻らな
いのです。

島のタバコ屋は大心配です。島の人が食えなくなったり、い
なくなったりするとタバコ屋も潰れるからです。実は島のタ
バコ屋はヂャイアント号以外にも、いろいろやってきました。
創業は大正時代の中頃で、呉服屋兼よろず衣料店として
のスタートでした。
富永呉服店1A
昭和7年頃、島のタバコ屋の創業者で先々代が建てた店
です。安普請で今では笑ってしまいそうですが当時として
はモダンな建物だったように思います。塀のところにもたれ
ているのが先々代で得意満面、心なしか嬉しくて仕方がな
いといった風情でしょうか。
ちなみに当時広島の三原に大きな工場を作って人工繊維
の製造を開始した今のテイジンも帝国人絹製造会社と言う
いかめしい名称がついていた時代の話です。伝え聞いた
話では先々代は当時珍しかったその人工繊維、人絹モス
リンなるものを正絹(シルク)に代わるきもの生地として島
でいち早く売りさばき、先行利益を得て後の開店の元手と
したそうです。(それまでは島内及び周辺の島での行商が
主体でした)
やがて戦争となり品物は配給制で、商売どころではありま
せんでしたが、戦争も終わりやがて高度成長期の熱にうな
された時代、先代は島の足としてヂャイアント号を走らせた
り、島で初めてのセルフサービス衣料店や、当時はまだ珍
しかった、セルフサービス方式の食品店である主婦の店を
開業したりしました。
富永商店3-1
昭和30年前半頃の島のタバコ屋です。すでに総合衣料品
店に変身していました。なつかしいトンボ学生服の看板が
見えます。
ちなみに当時は戦後のベビーブームで子供が多く学生服
はメジャーな販売品でした(トンボは岡山の帝国学生服と
いうメーカーの商品)当時は若い女性が島に沢山いて、店
員さんとして働いてくれました。5人もいたということは結構
忙しかったということでしょう。
富永商店1-1
当時、商人向けの雑誌で「商業界」というのが発行されてい
て、そのエディター(主幹、編集長)であった倉本長治さん
が全国の若い商人を励ますための旅の途中、中島を訪問し
講演をされた時の写真です。(正面横向きの方が倉本主幹
左が先代)
倉本先生
当時の全国の商人を励まし、指導し、ダイエー、ヨーカドー、
ジャスコ、ニチイ、その他各種の専門店等、革新的な商人
を育てるとともに、近代的、合理的な思想で闇市的ボッタ
クリ商法を排し、「店は客のためにある」と訴え続けたカリ
スマ的な方でした。また今では当たり前の正札販売(値引
きなしの適正価格)も熱心に指導されました。(価格に対す
る信頼性を築くいう意味で)
ちなみに当時の島のタバコ屋のキャッチコピーは「品も負
けない値も負けない」というかなりツッパリ調のコピーでし
たがその結果先代は一時は客にきらわれ一時は客足が
遠のく等、随分悩んだこともあったとか。
その近代的な合理精神はある意味暮らしの手帳の花森
安治さんと通じるところもあり、全国の熱心な若手商人に
慕われた思想家でした。
中島主婦の店1
倉本主幹の教えに従い開業した島で初のセルフサービス
食品店、中島主婦の店です。今から思えば随分粗末な店
でしたが、レジスターを導入したりアメリカ式のエブリデイ
ロープライス(ある特定の品目を年中原価前後で販売する
やり方)を実践していました。専門用語で部門ミックスとい
い特定の部門で利益が出なくてもお客が増えれば全体と
しては経営にプラスになるという考えで、当時の日本では
そのようなやり方は想定外でした。以後そのやり方は戦略
的手法としてさまざまな業界で取り入れられました。
店頭のガラスには「野菜は年中原価販売します」と書いて
いるのが見て取れます。当時は大真面目だったのです。

その後先代と私と二人三脚にて、島で唯一のスーパーを
始めたり私の代になってからはその後ホームセンターを
作ったりしました。
IMG_1624.jpg
島のスーパーです。250坪のささやかな店ですが、昭和50
年代、当時全国展開していたニチイ(後年マイカル)さんが
田舎の繁盛店と提携して店作りの指導や商品の提供を試
みた時代がありました。(後にマイカルは大規模なショッピ
ングセンターへ投資をしすぎて破綻してしまい、今はイオン
グループに吸収されましたが)
その頃、昭和53年にオープンした店です。随分な長寿店で
す。衣料、食品、雑貨と一通り揃うお店ですが、それが当時
のはやりでした。(大きな町の駅前に出来ていた総合スー
パーの形態)開店時は壁面に幼稚園の壁画のようなもの
を一面に描いていて楽しかったんですが、色あせてしまい
後年には消しました。
言い忘れましたが店頭に掲げてあるZの看板はそのニチイ
(マイカル)なきあと独自でやっていたところ、近年になって
全日食チェーンという地方主体のボランタリーチェーン(共
同仕入れ組織)に加盟したのでその看板です。

余談ながらニチイグループに加盟していた当時の仲間に
は、高知県須崎市でショッピングセンターをやっていた、
ハマヤさんや、また広島では海田のサティを立ち上げた
中野のMさんなど、西日本でもかなりのお店が参画して
いました。
ほとんどの店が時代の荒波にのまれ消えていった中で
伝え聞くところではハマヤさん(社長の通称浜ちゃん)は今
須崎市のショッピングセンターからは退去し四万十町(旧
窪川町)で別に大きなスーパーをされているようです。また
最近では広島から気鋭のデザインプロデューサー氏をお
招きして四万十町の町おこしに取り組んでいるようです。
ちなみに小手調べとしてカッパ弁当というおもしろ商品を
開発して今、売出し中だそうですが一度食べてみたいもの
です。
IMG_1618A.jpg
島のホームセンターです。120坪の小さな店です。平成の
初め頃、全国的にホームセンターがブームとなり愛媛・広
島地区でもダイキさんがディックという店名で多く出店した
頃、平成5年にオープンした店です。やはり長命です。
この時はダイキさんと提携の話がまとまっていましたが、
地元の商店さんの反対で泣く泣く解消となり、自力で立ち
上げた苦い思い出があります。ホームセンターというより
はホームコンビニといったコンセプトです。
スーパートミナガ2
スーパーの店内です。長寿につき、店内の老朽化が進み
平成19年にお色直しをした直後です。
スーパートミナガ3
余談ですが、東北関東大震災の時、東京方面の親戚も
パニックになってスーパーから品物がなくなったことがあり、
その時、西日本でしか売っていない金ちゃんラーメンをお送
りしたら、ことのほか喜んでくれました。

この稿でタバコ屋はイノベーション(革新)のことを言いたか
ったのです。
「人生いろどり」、その物語は村のおばちゃんのイノベー
ションの物語だと思うのです。かつてアメリカの経済学者
ドラッカーが言い始めたコトバだと思いますが、私なりの
解釈ですと「いつまでもあると思うな親と客」ということで
時代が変わる時はその時代に合わせて新しいことをやら
ないとジリ貧になりますよという意味だと思うのです。勝手
な想像ですが、多分三原の八天堂さんのクリームパンを
企画し大ヒットさせた広島の某プロデューサー氏も同様の
お考えだと思います。
ひるがえって我がふるさと中島も今、イノベーションが必
要です。放っておくと島は確実に沈みつつあるのです。
島のタバコ屋は気が気ではありません。思い余ってつい
にみかんビジネスに手を染めることになりました。
手を染めるというよりは祖国防衛戦争です。「坂の上の雲」
です。203高地(新規事業)攻略は至難であり、バルチック
艦隊(島の崩壊、没落)はすぐそこに来ています。
FF工場1
島のタバコ屋が平成16年に作ったみかんジュース工場で
す。知識ゼロ、販売ルートゼロでしたが、若気の至りと言い
ますか、何とかしないといかんという使命感が唯一の心の
支えで実現しました。当初不良品の山は作るは、機械は
壊すはで踏んだり蹴ったり悪戦苦闘の連続でした。
FF工場2
その向かい隣に建設中の第二工場です。最初の失敗に
懲りていろいろ技術も学びその経験を生かして再度立ち
上げようとしています。建物も最初のものはいかにも工場
または作業場といった感じでしたが今回は、例の広島の
デザイナー氏がまるで工場とは思えない、酒蔵のような
シックなイメージのデザインをご提案頂いたのでそれを形
にすることになりました。
FF工場3
正面から見た建設中の工場です。ちょうど真ん中に電柱
がきてしまったので移動する予定です。さてどのようなジュ
ース蔵が出来ますか・・・。(実際にはジャムの製造も行い
ます)

島のタバコ屋は人生いろどりをやれるでしょうか。
中島を救うことが出来るのでしょうか。
ついでながら、思い余ってジュース工場の後にはみかん農
業そのものもやることになりそうですが、今回は商いの話が
長々と続いてしまったのでそのことはまた次回お話したいと
思います。

技術の粋

平成24年8月13日
夏も盛りを過ぎようとしています。もうお盆です。
夏が来るといつも思い出されるのが戦艦大和のことです。
この当時の技術の粋を集めたハイテク戦艦が生まれた
時は当然私はまだ生まれていませんでしたが島の長老
の話を伝え聞くところ、呉から試験航海に高知沖へ向か
う途中、まっすぐ南下して私の島(中島)の沖を通ったそう
です。それはもう想像を絶するほど大きなフネで、向かい
の島(怒和島といいます)がかくれるほどだったそうです。
戦艦大和
以前、呉にあるヤマトミュージアムに行き戦艦大和を拝見
しました。技術の粋を集めた当時の世界第一級品も、もう
当時はすでに時代遅れの鉄の塊になっていて、活躍する
場所はありませんでした。とても悲しいことです。
戦艦大和2
戦争と関係なしに、工業製品として見た場合は惚れ惚れ
するようなデザインですよね。フロントの球状船首(バル
バスバウまたはバウ船首とも言います)とか、リヤのスマ
ートな形状とか、無駄がなくとても美しいです。ただ子供の
頃、安物のプラモデル買ってきて組み立てた時、何故か
大和は格好が悪かったのです。その謎が大和ミュージア
ムで解けました。
戦艦大和3
大和を上から見た写真です。
魚雷食らっても傾かないよう船体左右に大きなバランス
タンク付けたりして要するにウエストがとてもヒマンタイ
になっているのです。それで子供心にカッコよくなかった
のだと悟りました。その点、私の叔父が乗っていた重巡
那智とかのほうが格好良かったです。もっとも叔父が乗
員交代で下船した数日後に撃沈され九死に一生を得た
そうですが。
紫電改
大和が時代遅れになっていたのは、こういうノリモノが主
役になりつつあったからです。零戦ですが、こういうのに
攻められたらヒマンタイの大和としてはどうしようもないで
すよね。

余談ながら、先ほど話にでた私の叔父は前の記事で登場
した島の乗り合いバス、ヂャイアント号の初代運転手でし
た。その稿でヂャイアント号は愛知機械の製品だと申し上
げましたが、タバコ屋の広島の知人が申されるには愛知機
械と呼ぶのはしろうとでマニアはコニーと言うんだそうです。
つまりダットサンみたような愛称のことだそうです。
その方によるとヂャイアント号は当時としては斬新な1200
CCの水冷水平対向エンジンを乗せていたそうで、まるで
今をときめくスバルかポルシェ、BMWのごときです。
ただし故障三昧だったことは先般の記事で申し上げました。
HONDARA121(V12)-2A.jpg
唐突ですが平成3年頃マクラーレンMP4/6というF1カー
に積まれたHONDA-RA121Eという究極のレーシングエン
ジンです。V12と言って燃焼室が12個もあるスーパーメカ
です。片側6個づつV字型に並んでいて上からエアを取り
入れ排気は横から出します。排気管の形状が見とれる程
芸術的ですよね。
HONDARA121(V12)-1A.jpg
蛇足ながらカムカバーの形状が無駄な箇所を削り落とした
凹凸状になっているのが当時のHONDAレーシングエンジ
ンの伝統的特徴です。
技術の粋を集めたこのエンジンは大和とはまた違った意味
で当時の世界最高峰と言えるもので、結果としてブッチギ
リの強さを発揮したのは言うまでもありません。素人のタバ
コ屋が見てもこの鉄の塊にはデザインの無駄がなくうっとり
するほどの機能美を感じさせます。
ではこの鉄の塊がどれ程世の中の役に立ったのか、それ
はかなり疑問の点もありますが、たとえば排気ガスの有毒
な成分を極端に減らすとか難しい技術解決を迫られる時、
この一見実用には役に立たないF1エンジンの技術が生き
るんだそうです。何故なら、それは究極の燃焼というのが
研究テーマだからです。
言い忘れましたが、私の親戚の子が当時のHONDA-F1チ
ームに在籍して天才ドライバー、アイルトンセナが乗るマシ
ンのエンジンメンテナンスチームの一員だったそうです。

ついでながら広島のMAZDAは最近すごいエンジンを開発
したらしくSKYACTIVという名前で売り出しているそうです。
このメーカーはご存知のように以前ルマンにロータリーエ
ンジンで挑戦し苦難の末総合優勝した経験を持っており、
燃焼の研究にかけては他社が真似出来ない技術を持って
おられるようです。
ちなみに先ほど登場したコニーにめっぽう詳しい知人のお
父さんはMAZDAでロータリーエンジンの開発部隊にいた
お方だそうで、そのことを広島駅横のガード下の赤ちょうち
んの店でお聞きした記憶があります。

また今回も島のタバコ屋の売上げにまったく関係ない話を
してしまいました。

山口百恵とフェアレディZ

平成24年8月10日
♪ミ~ドリ~の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ
昭和前半生まれ世代(即ち団塊の世代前後の方)は誰で
も知っている百恵ちゃんの一世を風靡した曲プレイバック
PART2(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)の出だしですよ
ね。残念ながらレコード大賞はピンクレディのUFOに持って
いかれましたがこの曲にレコード大賞を取ってほしかった
のは私一人ではないと思います。(昭和53年頃の話です)
さてポルシェのことです。
それよりかなり以前より(昭和40年代)第一級のスポーツ
カーとして、ジャガーとともに世界を席捲していましたが、
ラリー、レースの世界でも同様でポルシェをしのぐクルマと
いうのはそうざらにはなかったのです。
そこに昭和44年、颯爽と現れたのが、東洋の隅っこの国、
ニッポンのマルビメーカー(マルビの説明は別記事参照)
NISSANが満を持してリリースしたフェアレディZです。
フェアレディZはやってくれました。ポルシェの半額のプラ
イスで同等に渡りあえる性能とユーティリティ(専門語で
使い勝手のこと)を実現したのです。
ついでながら、このスポーツカーが世に出たのは企業人
でありながら天性の名プロデューサーだった、エンスー
おやじの片山豊(当時アメリカNISSAN社長)また神戸生ま
れのエンスーデザイナー松尾良彦の両名がいたからこそ
なのです。もちろん優秀なエンジニアは沢山いましたが、
イメージを形にしてそれを売れる商品にまとめ上げること
はエンジニアリングとはまた異なる世界で、この両名がい
なければこのクルマが世に出ることはなかったでしょう。
憶測ですが多分、二人の頭の中にはジャガーEタイプの
ハイセンスなイメージが色濃く焼きついていたと思います。
フェアレディZ
当時ポルシェが最も売れていたアメリカでポルシェを蹴散
らしたフェアレディZはプアマンズポルシェ(即ちマルビポ
ルシェ)と陰口を言われました。悔しながら的を得ていた
かも知れません。
フェアレディZ3
ヤンキー野郎にマルビとか言わせないためにNISSANは
ポルシェをやっつけるべくラリーの最高峰、モンテカルロ
やサファリに果敢に挑戦しました。苦難の末、雪と氷の
モンテカルロでは総合3位、サファリでは遂に総合優勝を
成し遂げたのです。結果として、ポルシェを撃破しただけ
でなく、マルビNISSANのイメージを飛躍的に向上させま
した。今のマルキンNISSAN(マルキンとはマルビの反対
でお金持ちのこと)からは想像も出来ないような汗と涙の
物語なのです。

島のタバコ屋がショーバイに関係ないクルマのことを何故
書いているのか、その理由は次回またお話させて頂きます。

仰天の出来事

平成24年8月8日
皆さんもニュースでご存知かも知れませんが日本たばこ
産業(JT)が製造元で島のタバコ屋が販売している主力
商品の一つ、マイルドセブンが今度そのネーミングを変
えるそうなのです。新しい名前はメビウスで、プリウスな
ら言いやすくてなじみやすいですがメビウスというのは
どうも・・・。
JTとしてはマイルドセブンは世界商品なので、もう少し
高級感のある名前にして上位のウインストン等を追いか
けたいのだと思います。
ビックリ仰天したのはそれを大企業のJTがやろうとして
いることです。売れている商品の名前を変えるということ
は大変勇気が要ることで、オカネもすごくかかると思いま
す。つまり商品イメージのイノベーション(革新)をやろうと
しているのです。イノベーションはしかし危険を伴います。

かつてNISSANがアメリカで当時親しまれていたDARSUNと
いうブランドをNISSANに統一した結果販売がガタ落ちになっ
た苦い歴史もあります。島のタバコ屋の看板を作り変えるの
とは訳が違います。
島のタバコ屋1-1
突然ですが昭和30年頃の島のタバコ屋です。
今見ると笑ってしまいそうですが当時はモダンでした。ついで
ながらハチマキ看板に英語でTOBACCOと書かれています
がタバコ本来の語源はポルトガル語のTABACOです。
当時売られていたのはゴールデンバットとかビース、光とか
でした。
島のタバコ屋2-1
梅ちゃん先生のおかあさんのようなかっこうをした島のタ
バコ屋の看板娘が座っているのが見えます。恥ずかしな
がら、若かりし頃の私の母です。上のほうに日の丸の旗が
見えますが、何か祝賀行事があった時かも(写真がとても
小さく、接写がうまくいかずブレましたがお許し願います)

島のタバコ屋ならユルユルと商いやっても何とか続くでし
ょうが大企業は大変だと思います。
余談ながら、私が若かりし頃アメリカにドラッカーという新
進気鋭の大学の先生がデビューして、カイシャは常にイノ
ベーションをやらないとダメになってしまうと主張しました。
分厚い本も読みましたがよだれの跡が沢山残っています。
(途中寝てしまったということ)革新なくして繁栄なし、つま
り現状維持=ジリ貧になるということを言われているんだ
ろうと思います。
ヂャイアント号2
唐突ですが、梅ちゃん先生の冒頭に出てきそうな三輪ジ
ドウシャです。島のタバコ屋が昭和28年から32年に走ら
せた島の民間バス第1号です。実施したのは先代(父)で
すが、当時新進の愛知機械というメーカーが作っていた
ヂャイアント号というトラックをバスに改造したものです。
今のホンダステップワゴンよりまだ小さいくらいの可愛らし
いバスでした。警察に内緒ですが車体後部には定員以上
乗れるぶら下がりバーがついていました。(足はバンパー
に乗せる)道なき道の幌馬車のたぐいで道路整備から始
めねばならず、また故障も多く、当然5年間は本業である
呉服屋のもうけをすべてつぎ込んでも大赤字で、最後は
町営バスとして中島町が引き受けてくれたといういわくつ
きのクルマ及び事業でした。先代はドラッカー先生のこと
など知る由もありませんが随分革新的なことをやったもの
です。
蛇足ながら車体の屋根にある2個の物体はGPSのパラボ
ラアンテナではありません。多分町の依頼で、選挙日は投
票に行き正しい選挙を、とかいう宣伝のためのメガホンス
ピーカーです。

メビウスがヂャイアント号になってしまったお話でした。

季節遅れの海開き

平成24年8月7日
海開きは7月16日の海の日に行われますが私のブログが
まだ出来てなかったので、遅ればせながらご紹介しておき
ます。場所は広島県の江田島、または倉橋島より南にまっ
すぐ松山方面への途中にある愛媛県の中島です。海岸は
やや色っぽい名前の姫ヶ浜と言います。
海開き1
島の八幡神社の神主さんが神事を行っている様子です。
正確には忽那島(くつなじま)八幡宮と言い900年以上の
歴史を持つ由緒ある神社で、神主は大宮四郎さんです。
タバコ屋の先代とは同級生で随分親しくして頂きました。
海開き2
最後に紙吹雪みたいなのを投げて海の安全を祈念しま
すが正面の島は釣島(鯛がよく釣れる所)で明治6年イギ
リス人技師ブラントンが設計し建てた灯台がある釣島です。
(松山市文化財になっています)その向こうは松山、この
姫ヶ浜海岸は中島トライアスロン大会の時にメイン会場と
なるところです。
トライアスロン1
スイム、バイク、ランの3競技のうちスイムが行われているとこ
ろです。
トライアスロン2
2種目めのバイクに移る準備会場です。
トライアスロン3
鳥居をくぐってバイクの競技に移ります(少しヘン?)。
トライアスロン7
サービスエイド(補給所)で水分補給、スイカもあるでよ。
トライアスロン4
ウルトラマンも走っています。
トライアスロン5
ランが終わってゴールです。
IMG_2822.jpg
京都から来られた舞妓さん親子です(常連さん)。前夜祭
ではしとやかな京の舞を見せてくれました。
トライアスロン8
会場の特設テントでは当社の手作りジュース、ジャムを
販売させて頂きました。話せば長くなりますが、過疎化し
つつある中島を何とか活性化したいと思い、ブランド名を
「希望の島」と名付けて開発した一連の商品です。

これらの写真は去年のもので、今年は8月のお盆過ぎに
開催されます。もう20年以上も続いている長命イベント
です。


救世主・・・原爆の日によせて

平成24年8月6日
今日は原爆の日で、暑い最中何万人もの方々が一堂に
会し亡くなった方々に慰霊を捧げていました。
戦争で仕方ないとはいえアメリカはむごいことをしたもの
です。原爆投下の日は、私の島からもピカッと光ったのと
きのこ雲が空高く上がったのが見えたそうです。その結果
数え切れない方々が亡くなり、また苦しみました。

トテモ素朴な疑問がわきます。
こういうものを考え出したのはアインシュタインをはじめと
するユダヤ、またアングロサクソンの西欧人ですが、優秀
な日本人がこの呪わしい原子力、放射能といったものを
無力にするような原理、シカケを発明出来ないものかと・・。
またそれに代わる画期的なエネルギーの仕組みを発見、
発明出来ないものかと・・・。(IP細胞みたいに)
そのことは今、大問題になっている原発をなくし、安心の
未来を約束する世界の切り札になるでしょうに。それが救
世主というものでしょう。ニッポンはここの部分をやるべき
です。私の家の宗旨は浄土真宗ですが、南無阿弥陀仏と
いくら唱えても何も救われないのです。メシアたる弥勒菩
薩は現れません。もちろんイエス様も現れません。

話は飛びますが、かつて私が若い頃、NISSAN、HONDA、
MAZDAはそろってビンボーなメーカーにもかかわらず技術
でレースで(専門語でコンペティションと言います)世界中を
アッと驚かせ当時の若者をドキドキ胸躍らせてくれました。
NISSANのラリー、HONDAのF1、MAZDAロータリーでの
ルマン殴り込み、等々鮮明に覚えています。
ホンダV10
鉄の塊ですがこれが当時(昭和64年頃)のF1レースをぶっち
ぎったHONDAのV10(V型10気筒)エンジンです。
F1マクラーレンホンダMP4・5-2
そのエンジンを積んだF1カー(競争車)です。マクラーレン・
ホンダMP4/5というクルマです。ちなみにドライバーはアイ
ルトン・セナというブラジルの若者でした。

マルビメーカー達が(マルビとはビンボーの略で広島出身
のイラストレーター渡辺和博さんが発明したコトバです。)
これだけのことをやってのけたのだから、我がNIPPONと
しては原子力に代わり、放射能廃棄物などといった猛毒の
うんこを出さない仕掛けを作り出せるはずだと思うのです。
私だけのはかない夢かもわかりません。
でもマルビメーカー達はお金があったからではなく、夢が
あったからやれたんです。
アインシュタインに負けるなニッポンと言いたいです。

皮切り

平成24年8月5日
初めまして。島のタバコ屋、たそがれ本舗です。
60過ぎたオッサンですがよもやま話、書き綴ってみようと
思います。宜しくお願い致します。尚、皮切りとは事始め
のことと思っていましたが最初のお灸が皮を切るほど痛
いのでそこから来ているそうです。(辞書に書いてました)
島の風景
12月の島の風景です。いよかんがたわわです。
ところで話は飛びますが、年配の方、または愛煙家ならご
存知でしょう、タバコの銘柄にJPS(ジョンプレイヤースペ
シャル)というのがありますよね。タバコメーカーは宣伝の
ためレーシングカー(競走用ジドウシャ)にロゴマークをよく
書き込んでいますが、私の若かりし頃(昭和40年代)のF1
はロータスが強くてロータス72というマシンに書き込まれ
ていたのがJPSでした。

ちなみに競走用の車体を宣伝に使おうというグッドアイデ
ア(商売根性)をはじめて考えついたのがロータスのオー
ナーのコーリン・チャップマンでした。白地に赤くは日の丸
ですがJPSは黒地に金文字のとてもハイカラなロゴでした。

クルマ自体も空気をボディの両脇から取り入れるサイドラ
ジエター方式やブレーキをボディの中に配置して、それま
での葉巻型スタイルをやめいわゆるくさび型(ウエッジシェ
イプ)を採用した画期的なものでしたが以後他のチームが
皆真似をしました。

余談ながらドライバーは天才と言われたロニーピーターソン
(ペテルソンかな)でしたが残念ながら事故で亡くなりました。
我が日本のHONDAもそのF1に参戦し悪戦苦闘していた時
代の一エピソードです
ホンダF1
尚、悪戦苦闘していた当時(昭和42年)のホンダF1です。
ちなみにこの頃のドライバーは元世界チャンピオンのジョ
ンサーティースで彼はこの未熟なマシンを操り、その天才
的なドライビングセンスにより奇跡的な1勝をあげることが
出来たと言う、今となっては神がかり的な逸話が残ってい
ます。写真のマシンはRA273で、優勝したのはその改良型
のRA300でした。(その年の第9戦イタリアGP、改良型でい
きなり優勝しました)
余談ながら、パワーがありながらもなかなか優勝出来なかっ
た原因はシャシーにありエンジンを始めすべてを自社製作
したHONDA-F1マシンは重すぎたのです。改良点がおもに
ダイエットにあったことは言うまでもありません。

★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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