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鉄腕ダッシュと水軍

平成24年9月30日
9月も終わりました。残暑も和らぎ中島はこれから秋です。
台風が接近していて大荒れです。みかん畑に行けません。
畑と言えば皆さんTVでご存知の鉄腕ダッシュのDASH村
は平成12年日本テレビで新たな架空の村落を作るプロジ
ェクトとしてスタートしましたがやがてTOKIOの5人が地元
の人などの協力を得ながら民家の再生や農作物の栽培、
動物の飼育などに挑戦する企画に発展、昔ながらの古き
良き山村のライフスタイルを忠実に再現する企画となりま
した。
ダッシュ村
当初からの方針で所在地は明かされていませんでしたが、
この度の大震災により避難区域となったため公表された
所在地は福島県双葉郡浪江町山間部の津島地区でした。
残念ですがもうこの企画を継続することは出来なくなった
ようです。
ダッシュ村2
余談ですが、タバコ屋が同志社大学在学中の頃、ゼミで
一緒になったK君がいました。誠実でおとなしい方でした
が友人があまりいなかったようで、こちらから声を掛ける
と親しく接するようになりました。一度家に泊まりにと誘い
を受け、行った所が伊賀上野のさらに山の中だったよう
に思うのですが、このDASH村の家とよく似ていて、五右
衛門風呂に山菜料理でもてなして頂いた記憶があります。
彼は辛抱人でしたからいい会社に入られたとは思います
が、今頃どうしているんだろうか・・・・。

もう情報通の方ならご存知でしょうが、日本テレビがこれ
に代わる企画として無人島を開拓する新企画「DASH島
に挑戦することになったようです。9月16日放送回からスタ
ートで同局によると、舞台は「比較的暖かい地方」に実在
する無人島で面積は0.45平方キロ。大小2つの島が洲で
つながった形をしており、かつては数百人が生活していた
時もあったが昭和40年代に無人島となってからはほぼ手
つかずの状態の島。

あれれ、これって旧中島町で今は松山市の一部になって
いる「由利島」のことじゃなかろうか。ピンポ~ンです。
全国の暇人マニアがすでに調べまくっていて、由利島に
間違いないことを特定したようです。
え~!!えらいこっちゃ~。晴天のヘキレキとはこのこと
です。私がうろたえることでもないのですが、TOKIOに釣
られて意味もわからずDASHしてしまいそうです。実際そ
ダッシュは後ほど起こるある出来事で実現することに
なるのですが・・・・。
由利島2
上空から見た由利島です。中島から南西方面、松山から
北西へ山口県の周防大島との中間点のあたりにあります。
由利島1
正面から見た由利島です。ふたつのコブがあり、TV局の
説明とピッタリでDASH島はここに間違いないようです。
昔、島のタバコ屋は子供を連れてキャンプに行ったことが
あります。周辺の海は鯛がよく釣れる所です。
由利島3
TV局の説明ではかつて数百人が生活していたとなってい
ますが地元の言い伝えでは由利千人という言葉があり、
現に海底に集落が水没したと思われる形跡があります。
実際は江戸時代かそれより以前かの大地震で水没した
というふうに聞いています。

水没といえばクレオパトラ宮殿伝説のアレキサンドリア
やはるか古代ローマ遺跡の眠る世界最古のリゾート地、
南イタリアのバイアが有名ですよね。もっともバイアは
ナポリから西へ約15km、海辺の小さな温泉リゾート地で
日本ではあまり知られていません。
日本の殿方の一部はバイアの後ろに二文字の怪しげな
薬を乱用してお医者さんを困らせているらしいです。
バイア
ついでながら、バイアは元アメリカ大統領ケネディ夫人
だったMrsジャクリーンがこよなく愛した避暑地としても
有名で、現在でもセレブ御用達のリゾートとして息づい
ています。
この地は富裕な中年夫婦が生前伊丹十三さんの乗って
いたベントレーとか、アストンマーティンDB9とかで乗り付
けるのが似合うのではないでしょうか。(タバコ屋の僻み
ですけど)
アストンマーチン
そのアストンマーティンDB9です。我々庶民が見るしろも
のではありません。目の毒というものです。ジェームズ・
ボンドという人はよく乗っていたそうですけど。
バイア2
バイア古城からの眺めですが、遠くヴェスビオ火山を望
み、そのふもとには一夜にして灰に埋もれた悲劇の町
ポンペイがあったりします。
中島遠景1
島づくしで恐縮ですが、島のタバコ屋が住む、中島本島
です。人口は大和の乗組員より少ないくらいの3,000人余
りでタバコ屋経営のジュース工場はありますが、ラムネ工
場はありません。
(関連記事:ヤマトとラムネ参照願います)

また由利島よりは若干有名な避暑地ですが、ジャクリーン
夫人は来られたことがありません。ただし歌手の坂本冬美
さんは島の歌「白い香りの島へ」を歌って頂いて以来、
中島の名誉島民です。ペギー葉山さんの中島版です。
坂本冬美
とても綺麗な方で、何度も中島に来て頂いています。
「プロポーズその日に帰って断りたい」中年の悲哀が滲み
出ている川柳を思わず思い出すようなクラクラ美人です。
ただし、ここだけの話ですが、みかんの産地中島の名誉
島民のご出身はライバルの和歌山という予期せぬ皮肉は
ありました。
中島遠景2
中島の玄関、大浦港です。タバコ屋経営のスーパー、
ホームセンターは港を上がってすぐのところにあります。
後方小高い山は泰ノ山(タイノヤマ)です。
大浦湾遠景3
その泰ノ山、山頂付近から集落方向を撮った写真です。
見晴らしの良い場所は重要な軍事拠点でもある訳で、
遠く鎌倉、南北朝時代に活躍した忽那(クツナ)水軍の根
拠地があった島であり、その監視所の一つである山城跡
から撮影しています。遠くに見えるのは松山方面です。
清盛
突然ですが、TV放映中の平清盛に出てくる当時のバトル
シップ(軍船)です。大和とは比べるべくもないですが、
この船で運搬から戦闘までいろいろこなしたのでしょう。
しかし現代から比べればのどかなものです。
広島方面の読者の方ならすぐにおわかりでしょうが、呉の
向かいの音戸に出来た平清盛ドラマ館に陳列されていま
した。
尚、見学しているのは中島の方達で農業者の研修旅行
が呉方面であり、その途中立ち寄ったものです。私もいっ
しょでした。
平清盛2
そのドラマ館のとなりにある清盛塚です。ご存知のように
音戸の瀬戸を開削したのは平清盛ですが十ヶ月を要す
る難工事の末、最後の一日で日が暮れようとするのを
現地で激励していた清盛が扇で夕日を招き日没を遅らせ
工事を完成させたという日招き伝説がありますよね。
清盛
その平清盛ですが、日宋貿易で蓄えた莫大な財力を背
景に、日本の迎賓館として宮島の厳島神社の造営を行
ったりして武将でありながら有能な商社マンでもあった
訳です。宋に対し、今で言うトップセールスをやったんだ
と思います。(個人的には関東の新興地主の単なる代弁
者であった頼朝よりも、チャレンジングな実業家としての
清盛のほうが好きです)
忽那義範
またもや突然ですが、時代は下り、鎌倉時代の後、室町
時代に至る間で、後醍醐天皇と足利尊氏が対立した南
北朝の動乱期、中島では前出の忽那水軍が活躍した時
代でした。
その中で中島の主家である忽那義範という武将が南朝
方につき大暴れしました。当時は既存の勢力が北朝方に
付き、地方の新興勢力や商人が南朝方につくという構図
でした。
一時は讃岐小豆島方面から、瀬戸内沿岸部、西瀬戸の
島嶼部を勢力下におく広域戦闘集団を形成し、瀬戸内
海の制海権を握っていた時期がありました。
南朝方が劣勢になって来て巻き返しのため後醍醐天皇
の皇子、懐良(かねなが)親王を九州に征西派遣する際、
いきなり下向するのは危険なので忽那義範が3年間中島
に匿い、機を見て九州に送り届けると共に自らも同伴遠
征し、北朝方相手に大暴れしたという武勇の持ち主です
が、残念なことに九州遠征以後の記録がぷっつり途絶え
ており、推測ながらおそらく九州で戦死したのではないか
と思われます。精強を誇った忽那水軍も主を失って以降
は徐々に衰えていくことになります。
写真は義範公の南朝方に対する忠義を称えた顕彰碑
です。さしずめ南朝の英雄、楠木正成の中島版です。

恥ずかしながらタバコ屋は知りませんでしたが忽那義範
という武将は、中央公論社発刊の日本の歴史にも出て
くる有名人らしいです。
いよかん
中島特産いよかんの写真です。戦後の中島経済を支え
ました。(手前味噌ながらタバコ屋が作っている無農薬の
いよかんです)

島のタバコ屋はずっと疑問を抱えていました。中島の歴
史で過去2回、大繁栄した時があり一つは戦後のみかん
バブルの時代、瀬戸内海一帯がみかんで大いに栄え
新築ラッシュが起こり、隣のクルマが小さく見えま~す、
なんてことがあった時代と、もう一つはこの忽那義範公が
活躍した南北朝の時代です。
疑問と言うのは、忽那水軍が相当数の武装兵力を構え
広域に活動するためにはかなりの財力が必要で、その
財源は何だったのか・・・ということです。

先日、おでんのおいしい売店がある中島フェリーの中で、
役場職員で中島歴史研究会のメンバーでもあるN君に
会い、その疑問をぶつけてみました。さすがN君でした。

答えは明快でした。財源は、農業で儲けた金ではありま
せんでした。義範は貿易をやっていたのです。ミニ清盛
です。武装商社です。
貿易といっても清盛ほどのスケールではなく、当時衰え
ていた中国の元から九州大宰府あたりに入ってきた輸
入品を仕入れ瀬戸内一帯から京都に至るまで売り捌い
ていたようなのです。当然、京都の方からは貴重な繊維
製品や刀剣類、或いは中国人の好んだ砂金なども手に
入れ、大宰府経由で中国へ流していたと考えられます。
(貿易内容はタバコ屋の想像で、検証はしていません)

それと西瀬戸を通行する船から通行税を徴収したり、果
ては当時盛んだった倭寇(海賊)にもからんでいた節も
あり海賊行為(略奪)も時には行っていたのではないかと
思われます。ただしこれはタバコ屋の私見です。

水軍=武装戦闘集団+税関+貿易商社+海賊
水軍とは言うものの、いつもいくさがある訳ではなく、それ
による収入は不安定で武器の調達コストや戦死等の犠牲
も大きかったと思います。
また地元特産品とかも当時はろくになかったようで、要す
るに交易による収入が主な安定財源だったようです。
ちなみに当時日本の信用通貨はないに等しく、中国の貨
幣で交易決済していたようです。(今で言うドル決済)

しかし中央での権力争いによる対立構造が消滅し強力
な中央権力(織田、豊臣)が確立するに及び請合いの
戦闘集団のニーズもなくなり、やがて時代に適応出来な
くなった忽那水軍は秀吉により滅ぼされてしまいました。
フェリー中島
フェリーの中でN君に中島が今後栄える方策はあるのだ
ろうかという素朴な疑問を投げかけましたが、N君曰く、
独自性のある特産品を開発しあるいは加工し全国に売っ
ていくしか方法はないでしょう、しかもそのためには大き
な組織に合併するのは得策でなく、高知県の馬路村の
ように市町村合併もJAの広域合併も拒否し、小さいなが
らも独自性を保つ必要があるとのご意見でした。
我が意を得たりの心境で、その日のおでんの味は格別
なものがありました。
音戸
蛇足ながら先程の平清盛ドラマ館のある音戸の町の端
っこの方から撮った写真です。彼方にドラマ館と音戸大
橋が見えます。
実はこの日、昔日に先代の親友で江田島の山口屋さん
というお店の音戸支店があったはずだと思い、迷いなが
らも訪ねました。何とその場所は更地の草むらになって
いました。
芭蕉の「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」の句が思い
起こされ愕然としました。小売業は時代適応業なのです。
ドラマ館でのバスの集合時間が迫っており、帰りは約1.5
kmを鉄腕ダッシュしました。もうへとへとでした。尚、同行
の仲間からは何でタクシー使わんの~と言われ、自分で
も冷静さを欠いていたと反省しています。
その後2日ほどはそのショックと筋肉痛で畑に行く気力も
なくなってしまったのは言うまでもありません。

今日は最近話題の鉄腕ダッシュにまつわるお話をさせて
頂きました。


ヤマトとラムネ

平成24年9月27日
【土佐紀行によせて】
高知の人にはごめんなさい。
はりまや橋は日本三大ガッカリ名所の一つらしいです。
せっかく見に行っても何の変哲もないので。
そこで地元の有志がはりまや橋の反対側の場所に
「南国土佐を後にして」の歌碑を建て、はりまや橋の汚
名を返上しようと企画し、それが実現するそうです。
その除幕式にはペギー葉山さんも出席するとか。
ペギー葉山2
南国土佐を後にしては、ペギー葉山が昭和34年にリリー
スし100万枚を超える大ヒットとなり国民的愛唱歌ともなっ
た歌ですがそのおかげでペギー葉山は一躍スターとな
るは高知県の名誉県民になるわで、ウフフだったのです
が、元はと言えば昔から伝わるよさこい節から始まり戦
時中は兵隊さんらが愛唱していた南国節などに変化し、
それを作曲家の武政英策が現代の作品にしたと言われ
ているようです。

尚、ペギー葉山といえば、お子様向け番組NHKみんなの
歌の歌のおばさんとしても有名で、レギュラー歌手の中で
は一番の古株らしいですが、持ち歌「ドレミの歌」は有名
ですよね。
ドはドーナツのド~、レはレモンのレ~と続く歌ですが、
この日本語歌詞はペギー葉山さん自身の作詞だそうです。

原曲は昭和40年リリースのアメリカ製ミュージカル映画
「サウンドオブミュージック」の中で主役のマリア役に抜
擢されたジュリー・アンドリュースが歌うドレミの歌から来
ています。
ついでながら、原曲の歌詞は日本語歌詞とは全く異なり、
ドウ(Doe:メス鹿)はディア(Deer:鹿)、フィーメイル(Fem
ale:メス)ディア(Deer:鹿)、つまりドウは鹿、メスの鹿・・・
と歌っていきます。
ジュリーアンドリュース3
ジュリーアンドリュースは澄んだ音声と4オクターブをこな
すといわれた驚異的な音域を持つ天才舞台俳優で、
本来はオードリーヘップバーンが出演するはずだった
らしいのですが多忙だったか何かでアンドリュースに役
が回ってきたそうです。
ジュリーアンドリュース2
映画「サウンドオブミュージック」は皆さんご存知だと思う
ので詳しい説明はしませんが、第二次世界大戦中にオー
ストリアであった実話をもとに映画化されたもので、オー
ストリア海軍の軍人であるトラップ大佐と7人の子供たち
のところへ、修道女のマリアが家庭教師として派遣され、
その後に起こる予期せぬ出来事に対し泣き笑いの物語
が進行しますが、マリアの快活な人柄がトラップ一家に慕
われ、やがて大佐と結婚することになります。また最後に
は、ナチスの強迫を逃れトラップ一家が山越えでスイスに
亡命脱出する場面で終わります。
ミュージカルですのでそれぞれの場面に劇中歌が挿入さ
れ、それらの曲はどれもすばらしい出来であったので大ヒ
ットしました。ドレミの歌はその中の一つという訳です。
サウンドオブミュージック1
このシーンは家庭教師マリアが子供たちをピクニックに連
れて行きドレミの歌を教えているところですが、手前には
ジュースとか手作りパン、フルーツが置いてあると思うの
ですが当時高校1年生だったタバコ屋はこのシーンが忘れ
られず後日、タバコ屋改め島のジュース屋としてジュース、
ジャムの自家製造に乗り出すことになります。カルチャー
ショックというのは一人の人生を変えてしまうほど世にも
恐ろしい事なのです。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

ついでながら島のタバコ屋のお気に入りのミュージカル
曲は「My Favorite Tings」ずばり「私のお気に入り」です。
シャレにもなりません。

そのはりまや橋から西へ約1時間走ると、窪川というとこ
ろがあります。現在は四万十町と呼ばれています。
そこにサンシャイン四万十というでかいスーパーを作った
り、桂浜に海辺のレストランを作り、ワラで焼いたかつお
のタタキを食べさせたりしている浜ちゃんと言う方がいま
す。須崎出身でタバコ屋とは同い年です。

島のタバコ屋も随分昔に島でスーパーをオープンしました
が、その時親子で応援、お手伝いに来て頂いて以来の親
友です。かつてスーパーのニチイがマイカルと呼ばれてい
た頃、二人ともそのマイカルグループの一員として活動し
たこともあります。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

今回、その浜ちゃんが四万十町で町おこしに取り組まれ
ていると聞き、いろいろ見聞したくて久しぶりの訪問とな
りました。
ところで皆さん外出の時、何を着て行こうかと迷いません
か。タバコ屋は着るものはともかくオクルマで迷いました。
と申しますのが、先般の記事でご紹介した5年がかりで
復刻、修復(レストア)中のフェアレディZを実走テストして
みたかったのです。
フェアレディZ
写真はその赤いお嬢ちゃんフェアレディZです。このクルマ、
かなりおてんばなんです。オクルマ好きの方のためにスペ
ックをご紹介しておきます。
製造年     昭和48年製、国内仕様
エンジン     3リットル(改造前は2.8L、標準は2L)
吸気システム SOLEX-44φ3連装(標準はSU2基)
点火システム 接点式ポイントは標準のまま
          (電圧増幅装置ムサシ装着)
排気システム 各気筒独立排気式(タコ足とも言います)
(標準は集合式)
サイレンサー  Z432用縦デュアル(標準はシングル)
足回り     4輪マクファーソンストラット(標準)
タイヤ     205/60/R15 ファルケンジークス
(標準は14インチ径でクロスプライ)
ホイール    ワタナベ8本スポークアルミホイール
(標準はスチール)
バンパー    フロントのみ輸出用240Z仕様
(標準は縦のオーバーライダー無し)
ミラー     ドアミラーに変更(トヨタMRS用)
(標準は砲弾型フェンダーミラー)

さて今回はペギー葉山さんとは何の関係もありませんが、
最近司馬遼太郎さんの「龍馬がゆく」で龍馬脱藩の道とし
て人気の梼原(ゆすはら)、葉山ルートですがすがしい山
間のワインディングロードを駆け抜けようと思いましたが、
そうはいきませんでした。
キャブの調子が悪いんです。本来は俊足のアスリートで
あるべきですが、喘息持ちになっていました。
(後日、エアに対しガソリンの吸い込みが足りないことが
判明)
Zエンジン
ちなみに復刻作業は当初全国的に有名な埼玉の通称R
Jさんのところに送ってやってもらいましたが、お金が途
方もなくかかりそうだったのと、近くで進行を見れないの
であきらめ、松山の空港そばのTY自動車でやってもらう
ことにしました。大型トラックの整備が主体の会社ですが
小型車もやっていて、難しい旧車を特別に預かってくれ
ました。担当メカはU君です。若いですが一生懸命やって
くれるので有難いです。

今回のテストでは坂道で10トントラックの後を喘ぎながら
登りました。横からレクサスのオールバックのお兄さんが
スッと抜いていきました。車内で今に見てろ~と叫びまし
たが聞こえるはずもありません。それ以外の一般道では
どういう訳か道を譲ってくれるのです。バックミラーにかわ
いそうと映ったのかそれとも外車みたいな怪しげな車やし
、日の丸書いていて右翼の車やないがかや~(土佐弁)
と思い、とりあえず避けようと思ったのかそれは謎です。
ハマヤ2
辿り着いた四万十町のショッピングプラザ四万十です。
ハマヤ3
食品の生鮮品売り場です。とにかくでかいです。
ハマヤ4
衣料品と雑貨もあって、その他テナントも数店あり、要す
るに四万十町のデパートです。売り場は1フロアーですが
千坪以上は優にあるんではないでしょうか。
かっぱ弁当1
突然ですが、かっぱ弁当のPOPです。近くに観光施設
かっぱ館なるものが出来て、それにちなんで浜ちゃんが
作ったオリジナル弁当です。かっぱのキャラが微笑まし
いです。
かっぱ弁当2
買って食べましたがボリュームがありしかもかっぱをモチ
ーフに中味もデザインしてあるので、しばし子供の頃の
遠足気分に浸れました。かっぱ館でも売っているそうな
ので、これから高速道路が完成して、客が押しかけた時
はヒット間違いないと思います。
かっぱん
かっぱの顔をモチーフにしたその名もかっぱんというふか
しパンです。食べてはみませんでしたが、人を食ったよう
なそのネーミングがまた面白く、これもかっぱ館で売れる
でしょうね。
それ以外にもイギリスのおやつパン(スコーン)に似たも
のでかっぱの足跡をモチーフにしたミニパンとかドーナツ
とか、いろいろ試作中のようでした。今回訪問した目的は
ある意味これらを見せてもらうためでした。

ここだけの話ですがこの一連のオリジナル商品をデザイ
ン、プロデュースしつつあるのは、広島のふるさと発掘師
O氏なんです。ユニークというかノスタルジックというか、
微笑ましいセンスだと思います。
大和3
またもや突然ですが、皆さんよく御存じの戦艦大和です。
(奇しくも竣工時に土佐沖で試運転の為、全力走行中の
写真です)
当時日本の技術の粋を結集して作られた世界最大最強
の戦艦でした。絶対にやってはならなかった太平洋戦争
のうねりの中で、完成した時からすでに時代遅れとなった
悲劇の戦艦・・・大和。
(ヒコーキとレーダーが時代の主役になりつつありました)
今回は大和を語ることがテーマではないのですが、大和
から教わることがいくつかあるので登場願いました。
皆さん大和にラムネ工場があったの、ご存知でしたか。
何せ乗員が3,000人以上もいたのですから中島の人口よ
り多いくらいなのです。艦内の工場で作ったラムネを兵隊
さんたちに飲ませたのです。自家製造ですよね。
尚、大和には武装もさることながら、最新鋭の空調設備
がされていて、乗員はヤマトHOTELと呼んでいたそうです。

話は飛躍しますが、お店というものは本来製造小売業だっ
たのです。古くはインドの紅茶をいち早くイギリスまで運ん
だ帆船(ティークリッパー)の話がありますが、運んだのも
商人、その後パッケージしてちゃんと飲めるように製品化
したのも商人でした。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)

豆腐屋、醤油屋、村の鍛冶屋、ほとんどが自分で製造して、
自分が売りました。近年になり欧米も日本も、分業が進み
製販が分かれてしまい、店は人の作ったものを仕入れて
売るのが仕事みたいなイメージが出来てしまいましたが、
本来、小売業というのは製造小売業だったのです。
こじつけながら、大和のラムネ工場はそれを実践してい
ました。
いかりスーパー
関西方面の読者にはおわかりかと思いますが、タバコ屋
がみかんとか、自家製ジュースを買って頂いている、古く
からの取引先である、いかりスーパー芦屋店です。
映画のロケにも使われたかなり有名店です。止まってい
るのは芦屋界隈では珍しくもないミニクーパーSです。

蛇足ながらここのお客様は外車がやたらと多く、駐車場
はレインジローバーとかポルシェとかでもうあきれました。
いかりスーパー2
店内です。グレードは百貨店よりも高いものもかなりあり
ます。
問題は品揃えです。何と驚くことに商品の70%が自社製
造品なのです。今風に言えばプライベートブランド(PB)
です。すごいと思いませんか。

今回、浜ちゃんのところに訪問して、それが徐々に実行さ
れつつあるのを見て嬉しく思いました。それもティッシュの
PBでなく、地域の特色を生かしたオリジナル商品でした。

もう一つ、大和から教わったのは、いくら技術の粋を結集
してもそれが時代遅れとかニーズに合わないピント外れ
のものだった場合は意味がないということです。
大和は可愛そうに3,000人近い尊い命を道連れに5年足ら
ずの短い一生を終えてしまいました。活躍する場を与えら
れないまま・・・。

その意味で、小売業というのは一種の時代適応業とも言
え、サンシャイン四万十がその町のニーズに応え又魅力
的なPBを開発販売出来たら、どんな強敵が来ようとも真
似の出来ない店として永く町の人に愛されることでしょう。
里山
そのような話をした農家民宿「里山」です。その日は浜ちゃ
んと広島のO氏が泊まる予定でしたが浜ちゃんの従兄弟
も加わり計4人で船中ならぬ山中八策を話しました。
里山3
民宿の入口近くにありました。最初町長さんあそぼと見え
ましたが?、よく見るとちょうちょさんでした。
里山2
早朝の写真ですが、中島ではまだ夏から秋の掛かりなの
に此処では窓ガラスに霜が降りており、気候差はかなり
のものです。
ちなみに四万十川沿いの農家民宿は今ブームのようで、
この宿は元役場の職員さんが退職して去年から始めた
そうですが、そのご主人というのが昔TOYOTAのレビンに
乗っていたエンスーで、こちらがいきなり赤いお嬢さんで
乗り付けたもので、ビックリ仰天し、その夜は村おこしやら
レビンやらZやらの話で遅くまで話題が尽きませんでした。


荒ぶる心vol4:栄光のルマン

平成24年9月22日
MAZDA執念の逆転劇
スティーブマックイーンは言いました。
俺、この映画作って破産しちゃったよ、でもどうしても
やりたかったんだ。悔いはないよ。
何のことでしょうか、そうです映画「栄光のルマン」にまつ
わる、悲しい裏話なのです。光には影が伴いますよね。
マックイーン2
「栄光のルマン」は昭和46年にリリースされたアメリカ映
画で、カーレース映画では最高傑作と言われました。
では何故彼は破産したのでしょうか?、答えはマニアック
すぎたのです。観衆はそこまでのリアルなレースシーンと
かは要求してなかったのです。それよりもヘップバーンと
かが出てきて、レーサーとの切ないラブロマンスとかが
あれば大成功でした。
タグホイヤー
どうでもいいことですが、マックイーンのレーシングスーツ
の右肩に貼ってあるワッペンはスイスの時計メーカー、
ホイヤー社のものでF1を始めとする大きなレースの公式
計時を担当していました。途中からはサウジの大金持の
資金援助を得て、名前がタグ・ホイヤーとなりましたが
現在もエンスー御用達の時計で、マクラーレンHONDAが
F1を席巻していた時代にはそのスポンサーにもなり、
それに乗っていたアイルトン・セナもタグ・ホイヤーのマー
クが貼られたレーシングスーツを着用していました。
写真はFormula 1という現在のモデルです。世界のセイコ
ーも歴史と伝統には勝てません。
マックイーン1
ご存知のように、マックイーンは泣く子も黙るカーマニア
で硬派で通っていました。写真は別稿の「予期せぬ出来
事」と同じ昭和38年にリリースされ、世界的大ヒットとなっ
た「大脱走」の一シーンです。マックイーンはドイツ軍から
奪ったバイクで捕虜収容所のまわりの高い鉄条網を飛び
越え、脱走は成功したかに見えたのですが・・・・。

たぶんバイクはBMW製だと思いますが、タバコ屋は詳しく
ないです。尚、この映画の主題歌大脱走のマーチはムー
ンリバー同様、世界的ヒットとなりました。当然のことなが
ら島のタバコ屋は当時中学生で、こんな面白い映画があ
ったことなど知りません。すべてはTV様のおかげです。

栄光のルマンの話です。当時はやたら栄光ばやりで、
裕ちゃんのサファリラリー物語も「栄光への5000キロ」で
したし。
マックイーンには気の毒でしたが、破産するほどマニアッ
クなこの映画のツボは当時最強だったポルシェとフェラー
リの一騎打ちでした。
ポルシェ917-2
具体的にはポルシェ917とフェラーリP512というレース専
用車(この手のクルマは専門語でプロトタイプと言います)
のバトルです。写真はポルシェ917です。映画での息詰ま
るような展開には手に汗握りました。
フェラーリP512
写真はフェラーリP512Sです。実際のルマンでは、燃費の
悪さでポルシェに負けました。何せ壊れるほどエンジン回
したままで24時間ぶっ通しで走るのですから燃費は大変
重要です。
それにしても映画の撮影では高価なレーシングカーを20
台以上も持ち込み、実際のレースにも出場した訳で、興行
がふるわなければ、破産も当然だったかも知れません。
何のショウバイでもマニア向けというのは成功しないとい
う一例だと思います。

MAZDAのことです。昭和36年にドイツのNSU社から当時
夢のエンジンといわれたロータリーエンジンの特許をボッ
タクリのような不利な条件で買い取ったMAZDAは、実際
サンプルを受け取ってみると、まったく使い物にならず
まさに詐欺と居直り強盗の両方に遭ったようなものでした
が後に社長となる山本健一氏を中心とする開発スタッフ
の血の滲むような研究、努力により世界で初のREエンジ
ン量産化に成功したのです。
マツダコスモ
昭和42年そのREエンジンを搭載した初の国産スポーツカ
ー、コスモスポーツです。デザイナーは小林平治氏で社長
から何をやってもいいと言われており、当時としては度肝
を抜く斬新なデザインで、UFO的でした。
エンジンはもちろんRE2ローターで、電気モーターのように
スムーズに回るというキャッチフレーズが使われたように
記憶しています。MAZDAのシンボルとして衝撃のデビュ
ーを果たしたコスモスポーツでしたが、オイルショック等も
あり6年後に惜しまれつつ生産を終了しました。

ここだけの話ですが、ちょくちょく本稿に登場頂いている
広島のふるさと発掘師O氏のお父さんは元海軍の潜水艦
乗りで、終戦後MAZDAに入社され、REエンジン開発部で
長年研究に携わられたとか、ということはコスモのエンジ
ンも当然さわっておられるはずですよね。すごいと思いま
せんか・・・。
MAZDATK
いきなりの写真ですが、MAZDAの三輪トラックです。
島のヂャイアント号とも親戚のような気がして、何故か微
笑ましい気がします。それにしてもよく短期間でこのような
素朴な乗り物から最先端のコスモまで突っ走れたものと
思います。それこそ不眠不休のガンバリの賜物でしょう。
小川ローザ
またもや突然ですが、当時トヨタのワークスドライバーだ
った川合稔氏の彼女だった、小川ローザです。お~モウ
レツとか何とか言ってテレビCMやってましたよね。
元祖もみじ饅頭と言えば宮島に決まっているのですが、
元祖パ・ン・チ・ラは彼女だと思います。
小川ローザ2
品のない話ですみません。チャーミングな彼女でしたが
その後川合稔氏の事故死により彼女も姿を消してしまい
可哀想なことをしました。今はもうおばさんでしょうけど。

REの話です。その後実用車サバンナに搭載されたREは
燃費はともかく、抜群の動力性能にて、当然レースにも
ということになりました。
GTRレーサー
当時ダントツの強さと人気だったスカイライン2000GTR
です。それを阻止するため投入されたのがサバンナGT
でした。
サバンナGT
GTRが勝ち続けて50勝までいったのですがREサバンナ
GTに敗れてしまったのです。それ以降GTRが勝利するこ
とはありませんでした。盛者必衰の理(ことわり)をあらわ
す、平家物語冒頭の言葉どおりとなりました。
ドライバーは名手、片山、従野兄弟でその後もREレーシ
ングエンジン開発に長く関わることになります。
RE
REエンジンの心臓部です。燃焼室が繭型になっており、
バルブとかないので、非常にシンプルなのが特徴です。

REの驚くべきポテンシャル(専門語で能力、性能)を発見
したMAZDAは最終目標をルマンとしました。それも当初
は優勝とかでなく完走、あわよくば入賞くらいを考えてい
たのです。昭和50年頃よりワークスチーム(メーカー直属)
でなくプライベートチームがREを搭載した車でルマンに挑
戦し完走を果たしたりして、地道な足跡を残していました。
排ガス規制とかいろいろ難しい問題もあり、しばらく本格
的な活動が出来ませんでしたが、10年余りのブランクの
後、MAZDAはワークスとして直接ルマンに挑戦すること
となりました。1年目は当然のことながらなかなか勝てませ
んでした。国内では無敵でも世界の壁は厚かったのです。
2年目のルマンではエンジンを改良、熟成が進みました。
4つのローター(燃焼回転部)を持ち、700馬力という途方
もない馬力を生み出すエンジンでした。馬700頭分のパワ
ーです。実際は800馬力くらい出ましたが長丁場の安全を
考えて抑えたのです。平成3年のことです。
RE
余談ながら、台風19号が中島を直撃しみかんが壊滅的
被害を被った年です。広島方面も大打撃を受けた後日本
海に抜け北上、弘前のりんごも同時にやられた年でした。
MAZDA787B
万全の体制で臨んだMAZDAは素晴らしいペースで走行
を重ね、気がつくと2位に躍り出ていました。ガチンコ勝負
の相手はトップ走行中の何とメルセデスベンツC11でした。
メルセデスC11
残り数時間となり、MAZDAは考えました。ここでペース
アップしたら相手はあわててペースを無理に上げ故障す
るかも知れないと・・・、その通りになりました。結局メル
セデスは無理がたたって故障し、リタイヤしてしまったの
です。
MAZDA悲願の、というより予期せぬ優勝の瞬間でした。
MAZDA787B-2
優勝したMAZDA787Bです。後にも先にも日本チームが
しかもREエンジンで優勝というのはありませんでした。
MAZDAの執念が遂に実った大逆転劇でした。
尚、翌年からはやっかみでREが禁止となったので、出場
することが出来ず、MAZDAにとってこれが最初で最後の
勝利の美酒となったのです。
蛇足ながら、アパレルメーカーのRENOWNは当時まだ元
気でMAZDA787Bのメインスポンサーになっていました。
そういえば同志社大学自動車部の同期でSN君という控え
めな男がいて途中で退部してしまいましたが、卒業後は
RENOWNに入社しました。今頃元気でやっているんだろう
か・・・。
ついでの話ですが、島のタバコ屋が今出川に住んでいた
頃RENOWNはアーノルドパーマーのワンポイントシャツで
大儲けをしていましたが、それのパクリでニワトリ風のマー
クを付けたポロシャツを売り出したメーカーがありました。
私らはそれをコッコパーマ?と言っていました。ペンギンも
ありましたよね。
MAZDA787B-5
後日談になりますが、昨年ルマン主催者はMAZDAの偉
業を称えるため、ルマンレースの開催時に787Bを招待し
たのです。
20年ぶりに走らせるためにはレストア(復刻)に莫大な費
用がかかるのですが、MAZDAはあえてそれを受け入れ
現地のソルトサーキットでデモ走行を行いました。その時
の写真です。
尚、ドライブしたのはこの車の開発にずっと関わり、日本
人REドライバーの第一人者寺田陽次郎氏、他一名でした。

また優勝時のドライバー、ジョニーハーバートはゴール時
に疲労困憊し、表彰台に上がれなかったのを、主催者の
粋なはからいで再度表彰式を再現してくれたのです。
一番嬉しかったのは当のジョニーハーバートではないで
しょうか。

人生の大半をREの開発にかけた多くのスタッフたちにとっ
て自分達の神はこのマシンに宿っていることでしょう。
MAZDAの社旗と日本国旗が誇らしげです。

RE開発の第一人者で社長でもあった山本健一氏が後日
MAZDAを去るにあたり、苦闘の歴史とその栄光を記念し
て広島県三次にあるMAZDAのテストコースには山本氏
直筆の「飽くなき挑戦」と彫られた石碑が残されました。
Dエンジン
REでのレース活動は終止符が打たれたもののそのDNA
は着実に残され、来年度からはREでなく今ヨーロッパで
主流になりつつあるディーゼルを採用したMAZDAの新技
術、SKYACTIV-D というエンジンをルマン出場のチーム
に提供し、飽くなき挑戦を再開しようとしています。
MAZDA-R
MAZDAと以前からご縁のあるデンプシーレーシングとい
うチームに最新のディーゼルターボエンジンを搭載し、
来年のルマンを戦います。

今日は何やらプロジェクトX風の解説話になってしまい
ました。我々世代はプロジェクトXは大好き番組だったと
思うのですが、多分。

(尚、写真の一部はファンサイトのMAZDAFANから流用
 させて頂きました。)


予期せぬ出来事

平成24年9月20日
【猪ウオーズ】
「予期せぬ出来事」と言えば昭和38年封切りのイギリス
映画で、よほど映画好きの方でないと憶えていないような
映画ですよね。主演は絶世の美女といわれたエリザベス
テイラーで、共演は、「クレオパトラ」でも共演し、その後
結婚することになるリチャードバートン、脇役にはロッド・
テイラーとかも出ていました。
エリザベステイラー
ストーリーはロンドン空港のVIP待合室でそれぞれ事情の
ある男女が繰り広げるかなり緊迫した人生模様で、霧で
飛行機の出発が大幅に遅れたために起こる数々の予期
せぬ出来事がドラマの中心になっています。

タバコ屋は当時まだ中学生でこの映画のことは知る由も
なかったのですが、後日のテレビ放映とかで知りました。
ストーリーはどうということもないのですが、そのタイトル
「予期せぬ出来事」が私のその後の人生によく起こったの
で印象深いのです。しかし写真のあの眼差しで見られたら、
ハイライト吸わなくても相当クラクラが来ると思うのは、
私だけでしょうか。

ついでながらその2年前、昭和36年にはオードリーヘップ
バーン主演の「ティファニーで朝食を」が封切られました。
共演はジョージ・ペパードで、この映画のストーリーはあま
りにも有名なので説明の必要はないと思いますが、貧しい
オードリーが成功物語を夢見て、一度は玉の輿になりか
けるのですが、間一髪どんでん返しとなり、お隣に住んで
いた、これもマルビの小説家ジョージ・ペパードと結ばれる
というおとぎ話ですよね。
オードリーが窓辺でギター片手に歌った主題歌ムーンリバ
ーは大ヒットとなり、映画と一緒くらい有名になりました。
ヘプバーン
島のタバコ屋はまだ歯が生え揃ったくらいの小学5年生で
この映画も知る由もなく、すべては後日のテレビのおかげ
です。愛くるしいオードリーですが、やはりこの眼差しで見
られるとタバコ屋もハイライトどころかゴールデンバット吸
った時のように、倒れ込むかも知れません。
しかしタバコ屋も大学生当時、よく学食で100円でおつりが
来る朝食を食べましたが、宝石店の前で朝飯のドーナツを
カジるというアイデアは思いつきませんでした。
Jペパード
尚、島の呉服屋が少し映画でのコスチュームの説明をしま
すと共演のジョージ・ペパードが着用していたお衣装は
トラッドと言いまして、当時のアメリカの東部(特にアイビー
リーグ大学学生)ではやっていたファッションで、この映画
以降、日本にもそれをまねたミユキ族とかハマトラファッ
ションとかが出てきて、後日、VANヂャケット、レーシング
メイト等、一連の熱病のようなうねりを起こすもとになった
ものです。
どうでもいいことながらディテールの説明をしますと、ジャ
ケットは3つボタン中一つ掛けでシャツは綿素材のボタン
ダウンシャツ、ネクタイはニットの無地か斜めストライプの
縞柄(レジメンタルストライプ)、とかいったお決まりルール
があり、ペパードはそれをスマートに着こなしています。
日本人が同じものを着ると何かヘンになるのですが多分、
洋服文化の歴史の差と体型によるものだと思います。
サブリナ2
余談ながら、昭和29年公開と気が遠くなるような昔の映画
若き日のオードリー主演の「麗しのサブリナ」で彼女が着
用した7分丈のパンツは、とても魅力的だったのでこれも
当時の女性のあこがれの的となり後日サブリナパンツと
いう名称で日本でも大流行となりました。尚、この映画で
衣装デザインを担当したのはジヴァンシィでした。ティファ
ニーよりもかなり前のお話です。

尚、蛇足ながら、今や世界の大衆カジュアル衣料品店とな
りつつあるユニクロの柳井社長の頭の中には、同時代を
過ごしてきた世代として上記の一連のファッションのカケラ
がモチーフとしてあると思います。

話が脱線してしまいました。「予期せぬ出来事」について
です。実はこの数年来、島にかつて生息していなかった
猪が他の場所から泳ぎ着いてきて(多分安芸呉方面)、
異常繁殖するようになりました。瀬戸内海周辺の島嶼部
は軒並みだそうです。
島の農作物(特に柑橘、根菜類)を荒らしまくり、その上
畑の石垣等をめちゃめちゃに壊し今深刻な事態なのです。
まったく予期せぬ出来事でした。

実は今日、京都大学出身の愛媛大学女性教授が中島で
猪の生態調査をしており、その研究結果の発表ということ
で、島の文化センターが超満員になるくらいの人が集まり
発表を聞きました。彼女はサブリナパンツは履いていませ
んでしたが自衛隊員が履くようなカーキ色のズボンを履い
ていました。(山歩き用だそうです)
島の農家さん達は必死なので、猛烈な質問攻めとなり、
教授もたじたじでしたが結論として
さすが京都大学出身の先生で、生態をよく研究されており
データに基づいたお話でしたが、結論は猪を全滅させる
ような手立てはなく、地道な撃退努力しか方法はないです。
ということでした。実際の防衛具体策としては
(攻撃面)
1.箱ワナは餌付けのもとになるだけであまり効果なし
  くくりワナを沢山設置すること(足をはさむワナ)
2.猟友会にお願いして、猟犬を山に入れると効果的であ
  るがいつも実施出来ないのであてにならない。
3.畑の草刈や、手入れを頻繁に行い、とにかく人間がい
  つも畑周辺にいることが猪への威嚇圧力になる。
(防御面)
1.忌避剤はまったく効果がないので無駄。
 (事例として木搾液とか果てはクレゾール液まで披露)
2.猪が恐れるのは変化でいつもと違う状態の場合すごく
  警戒する。
3.現状では電気柵かワイヤメッシュの鉄格子柵、トタン
  板柵、丈夫なネット柵、等による囲い込みが有効。
4.山水の出る泥濘地が好きで泥浴びとかするので、山
  水の排水路等を整備し、畑まわりに水気のないように
  する。
つまり地道な園地の環境整備しか方法はないのです。
島のタバコ屋もこの3ヶ月、ずっと草刈をやってきました。
富永園地
大分園地がきれいになりましたが、心のほうが折れそう
です。雑草と猪の繁殖力というのは想像を絶するものが
あります。
生姜畑4
それでも、希望はあるものでショウガは元気に育ってい
ます。また、いよかんとかレモン、ショウガといった芳香系
または香辛系の作物はほとんど手をつけないようなので、
タバコ屋的発想としては、今後中島はレモン、だいだい、
ライム等の芳香系柑橘や、ショウガ、山椒といった香辛系
の作物を推進すべきだと思うのです。
(意外でしょうが、山椒は柑橘の一種で、レモンとか芳香
系や香辛系のものはほとんどがインドのアッサム地方
原産です)

今日の研究報告会でやや残念だったのが、猪を駆除すべ
き害獣としか見ていないことです。もう全滅させるのが無
理だとわかったのだから、開き直って資源として徹底的に
活用する発想が出ないのだろうかと思いました。もう食う
か食われるかの状態まで来ているのです。京都大学出身
のチャーミングな女性教授は今、中島の山間部は猪に実
効支配されていると思いますと、流行り言葉でおもしろい
言い方をされていました。実効支配を人間に取り戻さない
といけません。

実は他地区、特に中島の猪のルーツと思われる、安芸
倉橋地区で猪の肉をブランド化し、普及推進した結果、
猪も減少し始め非常に良い結果を生みつつあるという話
を聞きました。
つまり食うか食われるかの結果、一石二鳥の策となりつ
つあると。それをお話されたのは、このブログに度々ご登
場頂いているふるさと発掘師O氏で、ここだけの話ですが、
そのブランド開発をやったのはほかならぬO氏でした。

ちなみに猪の肉のことを英語では表現しづらいと思いま
すし、日本ではなじみもありません。O氏は考えました。
ここはビーフでいこうと・・・。結果ブランド名は倉橋ビーフ
となりました。独創的ですよね。
中島も猪の予期せぬ出現と大繁殖は産地存亡の危機と
も言え、まさしく猪ウオーズですがここは頭を柔らかくして
ピンチをチャンスに変えたいものです。
かつてアバンギャルドだった島のタバコ屋が再び島のお
役に立てるとしたら、皆が困ってどうしようもないような事を
ユニークな方法で解決して差し上げることかも知れません。


お尻だって洗ってほしい

平成24年9月18日
【心の安らぎについて】
「お尻だって洗ってほしい」というのは、昭和57年、京都
出身のコピーライター仲畑貴志さんが発明した大ヒット
コピーですよね。
このコピーによりT社のウォシュレット付きトイレは空前の
売れ行きをみせただけでなく流行語にもなったほどでした。
それまでは、一部の病院とかで使われていた極めて高価
で贅沢なシカケでした。(それもアメリカでの話です。大体
すごいシカケのほとんどはアメリカ生まれと考えて下さい)
T社はそれにお尻を暖っためる装置までつけて、もうバカ
当たりでした。(こういう改良は日本が上手です)
日本人はこの癒し装置によってお尻の安らぎを得ました。

さて心の安らぎのことです。
私は空海上人(お大師さん)のことはほとんど知りません
が、仏教の真言宗等ではよく地獄と極楽浄土の概念が
あり、子供の頃真言宗の寺に行くと、おどろおどろしい
地獄絵図が飾ってあって、それなりに恐怖心を煽られた
記憶があります。
人は亡くなると冥土というところを49日をかけて旅をし、
途中三途の河と呼ばれるところを有料で渡りそれから
閻魔様が検問して・・云々。
また戒律を守ったり、修行を重ねることで、人は成仏出
来、お浄土へ行けるんだというような教え。
科学的な思考などなかった、いにしえならともかく今日で
はこういうこと(頭で考えた想像物:形而上のもの)を本気
で信じる人はまれだと思うのです。

はるか昔とはいえ、すでに鎌倉時代になると、国営大学
とも言うべき比叡山(延暦寺は修行というより研究機関で
した)で、仏教をいくら勉強してもわからなくてついにキレ
てしまって下山(退学)し、挙句の果ては法然さんという
アバンギャルドのお坊さんに弟子入りしてしまった親鸞と
いうヘンな人が現れたりします。

尚、鎌倉時代というのは関東武士が起こし、でたらめだっ
た平安時代に比べ主に土地の所有権に関してシャキンと
した時代で、仏教界もそれまでの堕落した御用仏教から
脱皮したベンチャー仏教が沢山輩出したのです。
以後今日に至るまでこれほどの革新、言い換えれば仏教
のイノベーションは起こっていません。

ちなみに当時の仏教と言うのは国家護持が目的で、個人
の心の問題などは主要テーマではありませんでした。
ベンチャー達はそれに疑問を持ち、個人の仏教のあり方
を主張しました。
法然、親鸞、の師弟チームは、じたばたせんでも阿弥陀
如来という救い主(神)が、善人だろうが悪人だろうが死
ねばお浄土へ差別なく導いてくれるんだから、修行とか
いくらしたって無駄というもので、それよりも見えざる如来
(にょらい)=み仏のご慈悲に対し、感謝の言葉(南無阿
弥陀仏)を唱えようよと主張し、一般庶民の信徒には大歓
迎されましたが、当時の権力者からは世を惑わすものとし
て嫌悪され、法然は島流し、親鸞は遠国追放の流罪にな
ってしまいした。

その後、かなり時代が下って戦国時代には民衆の支持を
得て力を付けてきた仏教集団(一向宗徒等)は織田信長
などの戦国大名との大バトルを得て、豊臣、徳川時代に
は政治目的で逆に懐柔、保護されたりもしました。
その結果、いろいろな宗派で多くの信者を得ることになっ
たのですが今流で考えるとそれぞれの教義も頭で考えた
想像物(フィクション)であったと言えます。

仏教の創始者であるブッダ(お釈迦様)の思想、即ち修
行をして自ら悟りを開き自分が救われるという考えは他
の人を救うという思想ではありませんでした(小乗)。
その思想はやがて西域や中国を経て、かなりいろんなも
のがごちゃ混ぜになりミックスされて日本に来た訳で、
見えざる手=如来が皆(衆生)を救うという概念(キリスト
教でいう神=GOD)が付け加えられました(大乗)。
日本でもそれがまた拡大解釈されたりして、日本の仏教
はインド製のオリジナル仏教とはかなり異質のものとなり
ました。

たとえば仏滅なんていうのは中国の土着信仰道教から
来たものですし、お位牌などは儒教から来ていて、もう寄
せ鍋状態です。本来の仏教というのはもっとシンプルな
ものでした。
ただ日々の暮らしの心の持ち方や行動規範については
多分に得るところがあったり、家の祀りごとや権力者の
民衆管理には便利なシカケだったろうと思うのです。
また日本人が本来持っている、ご先祖を大切に祀りたい
という素朴な心情も仏教とうまくマッチしたのかも知れま
せん。それと日本には古来よりの原始宗教とも言うべき
やおよろず神の信仰があり、それが神道へとつながり、
徳川時代に至っては神道と仏教がチャンポン鍋になり、
神田明神とか大権現とかいう名前で神社とお寺が合体
していた時もありました。

突然ながら私の実母はクリスチャン(プロテスタント)でし
た。田舎の島でキリスト教を信仰したり、布教したりという
のはかなり勇気のいることです。
母にとっては仏教というのが、訳のわからないお経を唱
えたり迷信じみたことを真顔で説教したりするお寺が葬
儀屋、集金屋に見え、心の安らぎにつながるようなこと
が見出せなかったのだと思います。
それと母はモダン好みでキリスト教は何やら西洋の香り
がしてしかもその教えはわかりやすいコトバだったので
その辺も魅力だったのではないかと思います。
賛美歌にしても一日の終わりの疲れた体には心癒される
ものがあったのでしょう。
♪慈しみ深き、友なるイエスは~罪、とが、憂いを取り去
り給う~心の嘆きを、包まず述べて~などかは下ろさぬ
負える重荷を~♪
信徒ならずとも心休まる気がします。
子供の頃には国際キリスト教大学の学生さんが夏休み
に島に長期滞在し、近所の子供らにいろいろ教えてくれ
たり遊んでもらった記憶があります。
また、自由学園の創始者で日本初の女性ジャーナリスト
でもあり雑誌「婦人の友」を発刊して女性の生き方を説い
た羽仁もと子さんの著作をよく読んでいたようで、女性の
自立とか、平等で開かれた社会などといった考えは羽仁
さんから影響を受けていたはずです。ちなみに映画監督
の羽仁進さんはお孫さんです。

したがって、新島襄、アーモスト大学というような名前は
母にとっては心地良いものだったと思います。
話は飛びますが私が同志社大学在学中、学生のざれ
歌に以下のようなものがありました。
京大府大はやぼったい、立命館はガラ悪い、大谷、竜谷
線香臭い、いきでシックな同志社の学生さん、
自分の意思を通した母は、島に小さな教会(集会所)を
形見として残し4年前、天に召されました。

キリスト教の日本での歴史は書けば長くなるので、はしょ
って言いますと、まずF・ザビエル等により日本に伝わり、
最初は好意的に受け入れられたものの、(細川ガラシャ
夫人とかが有名)統治者にとってはその平等思想が邪魔
なものとなり逆に弾圧されるようになりました。
その最たるものが島原の乱ですが、これは宗教戦争では
なく、当時の統治者であった悪劣大名の松倉親子による
暴政、搾取にたまりかねた農民、浪人の一揆だったのを、
幕府がキリシタンの反乱というふうに事実を曲げて後世に
伝えました。
天草四郎をリーダーとする一揆軍は原城に立てこもり絶
望的な戦いの後、3万数千人が玉砕しましたが、その後
島原、天草地方は住民がもぬけの殻となり農地も荒れ果
ててしまいました。
実際それまではキリシタンの摘発は非常にユルいもので
したが松倉親子がとりかえしのつかない暴政をやった結果
の一揆でした。後日苦々しく思った幕府は異例の事ながら
松倉親子を斬首し(切腹ではなく極刑として)お家取り潰し
としました。

その後、カトリックは衰退しますが、明治後おもにアメリカ
の熱心な信徒(ピューリタン)によって新教(プロテスタント
)が布教がされ、また信徒の莫大な寄付金を日本に惜し
げもなく投入しました。(主に大学設立等による教育を最
重視)それでも日本人特有の宗教観(曖昧で何でもあり)
によりその努力は十分に報われていないのが現状です。

ブッダ、モハメット、イエスとも最初の教えは素朴でシンプ
ルなものだったと思うのです。(たとえそれがフィクション
だとしても)しかし後から人の手によりそれが随分装飾さ
れ、フィクションがフィクションでなくなり唯一絶対のもの
となると、それをめぐって争いが起こり出しました。
(正しいものは世界で唯一つという間違った思い込み)
悲しいことです。フィクションによって争うことは馬鹿げた
ことです。アインシュタインの理論でさえ間違いだったと
いう時代が来ようとしているご時勢です。
その意味では、日本の曖昧何でもありの宗教観というの
はこれから世界をリードするトレンドかも知れません。
(でたらめというのでなく寛容的、包容的という意味です。
東洋的とも言えるでしょう。島の言葉でそれをヨモダと言っ
たりもしますが、微妙なニュアンスを理解される読者は
数少ないと思います。)

話はうんと飛びますが、以前別稿にてツタンカーメンの墓
の発掘の話をしましが、その裏話があるのです。近年の
精密調査の結果、ツタンカーメンのお父さんはアメンホテ
ップ4世であることが判明したのですが、彼は祀り事など
での従来の多神教を一神教に改めたのです。宗教改革
です。画期的でしたが、その理由と言うのは日本の桓武
天皇が奈良仏教勢力の専横に嫌気がさして都を長岡京
に移したように、多神教の神官勢力を排除するため敢え
て一神教とし、都もテーベからアケトアテンと呼ばれる地
に遷都したのです。彼の死後、ツタンカーメン王は神官達
の抵抗圧力により再び元の多神教へとリバウンドしてしま
ったのですが、逆に一神教の信者たちは迫害され、エジ
プト人であったモーゼとユダヤ人信徒達は難を逃れるた
め出エジプト記に至り、そのことがやがてその後のユダヤ
教、キリスト教へと繋がっていくという嘘のような話です。

紀元前1300年とかいう気の遠くなるような昔の時代の事で
史実として実証はされておりません。ちなみに別稿で出て
きたイーリアス、オデッセイアで書かれたトロイア戦争が
あったであろうという時代よりもまだ古い時代の話なので
す。(クレオパトラなどはまだずっと1000年以上も後の時代
の人です)

話はまたもやうんと飛びますが、私が同志社大学自動車
部の合宿に参加していた頃、同期にE君というのがいて、
彼は創価学会の青年部長とかで毎晩消灯後にタコ部屋
のカビ臭い布団の中で学会の素晴らしさ、I会長の偉さと
か、しゃべりまくるのです。やがて閉口した部員たちは彼
にナンミョウというあだ名をつけ、なるべく就寝時は近寄
らないようにしました。もちろんあだ名をつけたのは、あだ
名の天才S君でした。残念なことに、彼は勧誘しても見込
みがないと思ったのか、部活に失望したのか途中で退部
してしまいました。あとの部員がヤレヤレと思ったのは言
うまでもないことです。卒業後は三陽コートというアパレル
会社に就職しました。(確かバーバリーのトレンチコートを
作っているメーカーです)風の便りではヤリ手だとか聞き
ました。老婆心ながら、バーバリーのコートの裏地に南無
妙とか入ってなければいいのですが。

話はまた飛びます。親子孫三代にわたって日本のため、
同志社のために尽くされたオーテス家のオーテス・ケーリ
先生は著書の中で、日本は縦糸(社会、会社、家、などの
秩序)はしっかりしているのに横糸(個人の思想、価値判
断基準、心の拠り所など)はまだ未熟のように感じると述
べられていますがかなり的を得ているように思います。
多分、ケーリ先生の頭の中には、ご自分の理想的なライ
フスタイルと当時の日本人たちとの間にはかなりの温度
差があり、愛する日本に対し、争いのない知的で個人の
良心といったものが生かされる近代社会を夢見ておられ
たのではないでしょうか。

さて、団塊の世代及び準団塊の世代にとっては、今まで
ずっと突っ走ってきた結果、人生の一定の区切りを終え
るか、または終えようとしています。
今後ネクストライフの過ごし方は大変重要になると思うの
です。仕事の継続もよし、後半生を社会奉仕に捧げるも
よし、今まで出来なかった趣味の完成を目指すもよし、
土と親しむのもまた良しで、人それぞれでしょう。

そんな時、やりきれないもやもやをウォシュレットのように
洗い流してくれる心のシカケ(拠り所)のようなものがあっ
たら、さぞかし心強いと思うのです。
宗教への帰依もあるでしょう。自分の揺るぎない体験もあ
るでしょう。仲間との交流もあると思います。赤提灯はちょ
っと安易すぎるかも知れません。果たして皆さんはどのよ
うなシカケで心のスキマを埋めているんでしょうか。
私は青き時代を振り返りそれをもう一度心の箪笥に整理し
直すこともスキマを埋める一手段かなと思ったりします。

お尻だって洗ってほしいというコピーは一見おふざけの様
な印象ながら、お尻だけでなく、心まで癒されるようなユー
モアと優しい思いやりを含んでいると思います。癒しの真
理は案外このあたりにも隠されているかも知れません。

(尚、仏教史、キリスト教史の記述の一部は 司馬遼太郎
 街道をゆく、他の著書を参考にさせて頂きました)


トライアスロンと月光仮面

平成24年9月17日
今年も暑い夏が終わりました。
しかしまだまだ残暑は厳しいです。
北極の氷が解けるはずです。ホーキング博士は言いま
した。近い将来人類は自ら滅びると。それも過去数万年
の人類の営みを今後たった100年程度のスパンで台無し
にした後に。
本当なんでしょうか、私ら素人にはわかりませんが・・・。
さる8月26日第27回トライアスロン中島大会が行われまし
た。27回とは大変な長寿イベントです。
TS1
大会の会場となった姫が浜ビーチです。昭和30年代は
白き砂浜、青き松原の自然をとどめた砂浜でした。瀬戸
内海各地に残る義経伝説はここ中島にもあり、この砂浜
の松原の一角に鎧掛けの松というのがありました。源平
合戦の時に立ち寄った義経がこの松に鎧を掛けて休ん
だというもので、子供の頃そこに行ってよく遊びましたが、
今は枯れてなくなりました。
TS3
前夜祭の様子です。参加者は全国からいらっしゃるので、
この時ばかりは島の人口が倍くらいになります。
TS4
いよいよです。まず水泳からですが、別名鉄人レースとも
言われ元はアメリカ海兵隊の元気自慢たちの余興だった
ものが今日のようにオリンピックに取り上げられる程にな
りました。鉄の女たちとでも言うべきでしょうか。確かサッ
チャー女史もそう呼ばれていたはずなんですが。
TS6
競技は水泳、バイク(自転車)、ランと3種目連続で行わ
れ島の2/3を使用しての大掛かりなものです。
TS8
水泳が終わり、次のバイクへいざ出陣です。空気抵抗を
減らす特殊なヘルメットを被ります。
TS9
きれいな海岸沿いのバイクコースを3往復です。キツイ。
TS12
別の海岸コースを今度は10km程走ることになります。
8月末でしたがこの日は特別暑い日でした。
TS10
総合優勝した鈴鹿将樹さんです。40代ですが毎回入賞の
ベテランで、悲願の初優勝目前の力走です。
TS11
手前に写っている鈴鹿さんが次々ゴールする選手たちを
迎えています。最高齢は70代の方で、人間というのは物
好きなことをする動物です。俊足のチーターなどはほとん
ど寝ていますが、人間は無駄なことに随分エネルギーを
使います。このイベントで中島の暑い夏は終わりました。
TS13
余談ながら、レースの先導車はTOYATAプリウスHVでし
た。また男子の先頭は男性の白バイ、女子の先頭は女性
の白バイがそれぞれ先導していました。写真右最新鋭の
白バイのデザインをよく見ておいて下さい。
TS14
突然の写真ですが、3億円事件とは関係ないです。
♪どこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている~
そうです昭和33年よりテレビ放映された月光仮面のおじ
さんです。乗っているのは誰でしょう。誰もがみんな知っ
てはいない、若かりし頃のタバコ屋です。

月光仮面の白黒TV番組が放映された昭和30年代は家
にテレビなどなく、梅ちゃん先生といっしょで、タバコ屋の
場合は隣のタイガー食堂に行ってはおばさんに叱られな
がら月光仮面を見たものです。
ちなみにタイガー食堂とはタイガー劇場がやっていた大
衆食堂で、その食堂はおトラ婆さんという人がやっていて、
劇場の開店時に店名をおトラならタイガーがよかろうと命
名しました。
その命名をしたのは別稿で出てきた京都長岡京市に住ん
でいた私の叔父でした。外国航路の航海士でしたが、
終戦時に結核を煩い、戦後しばらくふるさと中島に住んで
いました。回復後は上阪し当時問題となりつつあった阪神
工業地帯の汚水を浄化するプラントを製造する会社に勤
めました。長年水の浄化に携わり、水のプロフェッショナル
でしたが、退職後残念ながら先年、泉下の人となりました。

月光仮面の写真に戻ります。上の写真と比べて見て下さ
い。時代を感じさせると思うのですが、実は中島トライアス
ロン大会の初期には交通安全協会がコース管理をお手
伝いしていたのです。
乗っているのは月光仮面気取りの交通安全協会のお兄さ
んです。当時最新鋭のHONDAバイク、CB750-FOURを
白バイ用に改造してあり、レスポンスは鋭く、ドリューという
ドスの効いたエキゾーストでそれなりに他を圧する迫力が
ありました。特にサイレンとともに前部の赤色燈を回しな
がら近寄られ、かなりビビッた人も何人かいらっしゃるので
は。20数年前の夏の日の思い出です。


今出川でのことvol.2

平成24年9月11日
【上立売界隈の出来事】
私は学生時代、前稿で書いたオーテス・ケーリ先生がお
住まいだったアーモスト館からは烏丸通りを隔てたすぐ
近く、新町上立売(しんまちかみだちうり)上ル、小森酒店
の2階に住んでいました。そこはキャンパスからすぐ近い
し、またクラブの通りを隔てたすぐ隣だったので、トテモ便
利がよく、代々、同志社大学自動車部御用達の下宿だっ
たのです。
実は京都近くの長岡京市に叔父叔母が住んでいました。
子供の頃、夏休みを一緒に島で過ごした従兄弟のN君、
M子ちゃんもいて、入学より2年程はそこに下宿という形
で随分お世話になったのです。

余談ながら長岡京市は桂離宮で有名な桂の南方にある
歴史のある町で、その当時は乙訓郡長岡町でした。阪急
沿線です。近くの大山崎にはサントリー大山崎醸造所が
あります。
ご存知のように、8世紀桓武天皇の世、奈良では東大寺
を始めとする奈良仏教勢力が都を牛耳ってしまい、朝廷
の権威は薄れそれに嫌気がさしたのと、奈良はもし攻め
られた時、地理的に防御しにくい地形だったこともあり、
遷都を決断し側近の藤原種継の助言で、山城の国(今の
京都周辺)の長岡に新しい都を造営し掛かったのです。
同時に、朝廷は既存の奈良仏教勢力も排除しようとしま
した。しかし、反対勢力の逆襲にあい、側近の藤原種継
の暗殺事件が起こり、再び嫌気がさし、わずか10年ほど
で廃都として再度、今の京都に平安京を造営し直したと
いう訳です。
長岡京
発掘調査をもとに復元した当時の長岡京中心部大極殿
の模型です。後日談としては、新たに側近となった和気
清麻呂らの尽力によって今の京都の地に平安京が開か
れました。
ついでながら、平安京の守護寺の位置づけであった、
比叡山延暦寺を起こした最澄は当時としては国立大学
のエリート研究員みたいな立場で、朝廷から重んじられ、
遣唐使として中国の天台で最新の仏教(天台宗)を学ぶ
とともに膨大な仏教経典を持ち帰りました。その後、延暦
寺を建立しますが、朝廷の目的は最澄に奈良仏教をやっ
つけてほしかったのです。
そのことはある程度達成されたのですが、遣唐使の一行
には別にもう一人の天才、空海が乗っていたのです。
空海は中国から密教を持ち帰り独自の宗派である真言宗
を打ち立てました。
やがてこの二人の天才は後日大バトルを繰り広げるので
すが、今回のテーマではないので、ここまでとします。

小森酒店のことです。当時4回生だったO先輩が卒業を
控え、誰かここに入らへんか~ということになり、和室が
2部屋あったこともあり、私と同期のS君が跡継ぎ入居と
なったのです。
ちなみにS君は小野田の出身で、神田正輝をかなり変形
した?ような男前でした。彼のお父さんは国鉄マンで家族
は運賃がタダだったようで、帰省がうらやましかったのを
覚えています。彼は同じ商学部でしたが、人にあだ名を
付ける天才で、彼の被害にあった男は相当数に上ります。

話は飛びますが、同志社大学体育会自動車部に入部し
た最初の集合時50人くらいもいたのにはびっくりしました。
北は北海道から南は九州の鹿児島まで、お国コトバの
るつぼでした。よかごじょ(いい女)がとか言われてもわか
りませんでした。やがてその大軍団は地獄の合宿で激減
することとなるのですがそれはまた別稿にて・・・。

あだ名の天才S君の被害者として忘れられないのは広島
出身のY君です。彼は茫洋とした性格で、人はいいのです
が、ぶつぶつ独り言をいう癖があり、また何をやらせても
やや気の抜けたサイダーのようなところがあったので、
S君は彼のことを実名芳樹君でなく、ダルキ君と命名しま
した。(我々の間では、ささっと出来ないことをダルイという
言葉で表現してました)
彼は高野というところに下宿してましたが、仲がよかった
のでよく遊びに行っていました。私はそれまで喫煙の習慣
はなかったですが彼が吸っていたのがハイライトでした。
ハイライト
おいしそうだったので私も恐る恐る吸いましたが、とにかく
その時はアタマ、クラクラだったのを覚えています。
島のタバコ屋はそれ以来、ハイライト御用達となりました。
セブンスター
もっとも、その年昭和44年セブンスターが発売され、やや
軽いこともあって、そちらに鞍替え致しました。
パッケージデザインも垢抜けており今でも島のタバコ屋
の御愛用です。

突然ながら、当時クラブでバイトを請け負っていた室町の
T織物の社長のお抱え運転手をしていた時のことです。
取引先のお客様を京都駅に迎えに行く途中、社長がたば
こを買ってくるように言われたのですが、ハイライトとエコ
ーなのです。社長はいつもハイライトなのにおかしいなと
思って聞きますと、ハイライトはお客様にお勧めしてくれ、
私が横で同じものを吸っては失礼なのでエコーなのだと。
エコー
当時私はアメリカのドラッカー教授が主張し始めた、商売
のイノベーションとかに傾倒していましたが、これを聞いて
室町商法と言うか、とても日本的で異質なものを学びまし
た。儒教で言う礼とか、日本流の奥ゆかしさと言ったもの
が実業の世界にもあると言うことを。

タバコ屋とは仲の良かった通称ダルキ君もいじめにあった
とは思いませんが残念ながら途中で退部してしまいました。
ダルキ君、今頃どうしているだろうか。
S君の犠牲者は、他にも同期生の神戸出身のM君=ギー
ちゃん、(ギーちゃんは例のバイト先の社長のお孫さんの
愛称で容貌がやや似ていたのかどうか)
京都の酒屋の跡取りM君=陛下(容貌が似ているので)、
大阪出身のN君=ガキ(・・・ガキという苗字だったので)
最大の犠牲者は私で、S君と屋台を食べに行き中国粥
が好き(通称チャンがゆ)だったことと、マージャンでよく
チャンタをしたこと等で、チャンタと言うあまり有難くない
あだ名を頂戴しました。
尚、もっとかわいそうなのが1期先輩のSさんで、ヤヤコ
というあだ名でした(言動が幼稚だったので)しかしこれ
はS君でなく上級生が付けたものでした。

そのS君との共同生活です。四畳半二間、神田川です。
銭湯はすぐ近くにあり、よく行きました。野郎2人でよくも
飽きなかったものです。部員が2名も下宿するということ
はそこは部の夜のたまり場になるということで、大家さん
はいい人でしたが時々はハメを外してしまい怒鳴り込ま
れたこともありました。
とにかく、今のプライバシー云々とかいうのがこの年に
なっても理解出来ないほど、悲しいことにそういうものは
全くなかったように思います。
尚、翌年には同郷(北条)の元松山北高校応援団出身、
A君も同居することとなり、男らしいいいやつでしたが、
クラブより体育会の本部へ役員出向となり、普段の部活
動がいっしょに出来なくなり、やや気の毒でした。しかし
本部役員ということもあり、卒業後はミツビシ製鋼という
大きな会社に就職しました。
ちなみにS君は卒業後、一時レンズメーカーのH社に就職
しましたが、その後下関のある篤農家に逆玉輿でお輿入
れとなり?、下関商工会議所の事務局長として長らくお勤
めをされました。今は嘱託として勤める一方、休日は家業
のお百姓に精を出されているようです。

ついでの話ですがあの頃は何を食べていたんでしょうか。
すぐ近くに学生会館があり、当時素うどんが30円とかじゃ
なかったかな~。きつねうどんでも60円とかで100円もしな
かったような記憶がありますが。
学生会館
現在の学生会館です。当時はもっとショボイ建物でした。
この雰囲気ではちょっと素うどんが食べにくいかも。
クラブでのバイト代は部活動資金に吸い上げられてしま
うので仕送りでの生活ですが、月末はかなり惨めなもの
があったように記憶しています。素うどんライス七味仕立
てとか・・・。
学生会館の近く、烏丸通りに面したところには大衆食堂
「京楽」というのがありました。夜はもっぱら京楽通いだっ
たように思います。和食と中華のメニューがありました。
そこの親子丼とザルそばは絶品でよくセットで食べました。
もっとも今食べるとそれほどでもないかも知れません。
またザルそばと焼きめしという取り合わせもおつなもので、
時々それも食べました。夏には冷麺もよく食べたな~、
卵とハムと胡瓜の細切りが乗ってて、ギザギザの切り込
みの入ったガラスの器に盛ったのを。
3回生以降は幹部となり、部活が忙しくなってきて仕送りが
増えた訳でもないのに、部室に京楽のおっちゃんの出前
をよく頼んだりしました。
随分後日の話ですが、私が所用で新大阪の新幹線乗り
場で乗車しようとしたところ、その京楽のおかみさんが、
足早に改札口の方へ向かっていました。声をかける間も
なかったですが、今はどうされているんだろう。
新幹線
4回生の頃、部室の近くにキャンバスと名のいわゆる学生
街の喫茶店がオープンしました。私は忘れていましたが、
しかし神戸のギーちゃんはよく覚えていてそこの開店祝い
でもらった陶器製の舞妓さん人形?今でも神戸の自宅の
机の引き出しにしまっているそうです。脱帽・・・。

そういえば上立売通りには京菓子で有名な俵屋吉冨さん
の会社もあったな~。代表的なものはあの愛媛の一六
タルトの京都版みたような形で、ややこげ茶っぽい薄甘
仕立ての「雲龍」という和菓子です。
雲龍
夏になると地蔵盆というのがありました。近所のお地蔵さ
んのところへ浴衣を着た子供らが集まって何やらおまじな
いやらお供えやらしていたような記憶がありますが、愛媛
の方ではこの習慣はなかったので珍しく眺めていました。
上立売での出来事です。
地蔵盆1
地蔵盆2
オーテス・ケーリ先生はアーモスト館の館長で一部の学生
と寮生活をともにされたのですが、ご自身の強烈な思い出
はむしろハワイとかの捕虜収容所でいっしょに過ごした日
本人捕虜との数年間だったようで、その後もパリパリ会と
いう集まりを作り、その元捕虜たちとあだ名で呼び合い、
占領軍と捕虜というよりまるで苦楽をともにした仲間のよう
な対等なおつきあいをされてきたようです。日本の天皇制
をどうするか、軍国の亡霊を消し去り民主化をどう進める
かというような枠組みを考える立場だった多忙なケーリ先
生によく自動車部の部長をして頂けたものだと思います。
(実際は顧問というほうが適切だったようです)
ケーリ先生と日本人捕虜だった方々との強い絆やその後
の交流の経緯は察するべくもありませんが、私が今出川
や上立売界隈で過ごした、仲間たちとのかけがえのない
4年間は、ややそれに近い気分ではなかったかと思います。


荒ぶる心vol.3:チェリーX-1

平成24年9月9日
【チェリーX-1の思い出】
いきなりですがチェリーといえばどういう訳かチェリッシュ
のことが思い出されます。あのちょっと鼻声の。
昭和45年に、「なのにあなたは京都へゆくの」でデビュー
しました。私の回答は大学へ行くためです、と言いたかっ
たですが・・。続いて昭和47年にはてんとう虫のサンバが
大ヒットし、息の長いデュオとして今もご健在です。

ご存知のように、NISSANはやや固い保守的な会社でし
たが、プリンスは先進的な技術屋集団でした。
昭和41年、両社は合併する訳ですが、当時のプリンスの
エンジニアの関心はFF方式(前輪駆動)のオクルマでした。

HONDAは軽のN360を皮切りにFF方式の車を次々に開発
しようとしていました。一方SUBARUはてんとう虫と言われ
た国産初の軽自動車R360を発売し当時の国民車として
親しまれていました。
スバルR3601
駆動方式は専門語でRR(リアエンジン・リアドライブ)で、
VWのビートルが採用していたメカです。もっともビートル
はてんとう虫ではなくかぶと虫でしたが。
ついでながら、当時若者の間ではフォークソングとともに
ビートルズの人気も絶頂だったような気がします。VWとは
全く関係がありませんけど。
スバルR3602
R360御用達の写真です。後ろの看板から推察して横綱
吉葉山関ではないかと思われます。R360はヘビーデュー
ティ仕様ではなかったと思うのですが、よく乗れたもので
す。吉葉山関も当時1BOXカーとかあれば、このように体
をねじ曲げてまで無理しなくても良かったのにと思います。

そのSUBARUも日産とプリンスが合併したその年には
SUBARU-1000というFF方式の極めて斬新なオクルマを
発売します。
スバル1000
今見るとかなりショボイ感じもしますが、よく見ると、外観は
個性的かつモダーンなグッドデザインでした。その設計思
想は斬新で、ボクサー(水平対向)エンジンを前に縦置き、
しかも前輪駆動(FF)、足回りは4輪独立懸架で、キャビン
もヨーロッパ車を思わせるようにスッキリとモダーンでした。
ここだけの話ですが、欧米に追いつけ追い越せと必死だっ
た国産車の中で、このオクルマはよほど設計が斬新だっ
たのかヨーロッパでその後発売された、たとえばアルファ
ロメオのセダン(アルファ・スッド)などには逆にこのアイデ
アをかなりパクられたそうです。
スバル1000室内
ちなみにこのデザイン、特にコクピット回りのデザインは
BMWが始めたもので、運転席に棚を置き計器類i一式の
BOXを上に乗っけた感じで、シンプルでした。
やがてHONDAもシビック、アコードでそのやり方を真似る
ことになりますが自身ではそうは言わないでしょう。

さてチェーリーX-1のことです。
合併はしたものの、各社がFF車の開発をしているのを
横目で見ながら、プリンスの技術者はうずうずしていま
した。自分たちでもやってやろうと・・・。
事実合併前から密かに開発は進められていたのですが
時は熟し、そして生まれたのがチェリーです。その若者
向けのバージョンがチェリーX-1でした。昭和45年のこと
です。
チェリーX1
お固い会社に似合わず、かわいいネーミングの車でした
が、FF前輪駆動、横置きエンジン、並列ギヤボックス、
4輪独立懸架というスペックはミニのコンセプトと全く同じ
でした。

余談ですがこのオクルマはタバコ屋の島のヂャイアント
号とも若干関係があるのです。ヂャイアント号生みの親
愛知機械(コニー)はNISSANに吸収後も自社の販売網
でコニーの軽自動車を販売していましたが、コニーブラン
ドを廃止するに当たりその販売ディーラーの多くが日産
チェリーの販売店に鞍替えをしたのです。つまりヂャイア
ント号とチェリーは遠い親戚になると思うのですが。こじ
つけでしょうか。
A12型エンジン
エンジンはサニーに搭載されたA型1000ccで、写真はサニ
ー1200GXのもので縦置きですが、要するにこれを横向き
に置き換えた訳です。エンジン形式は当時はやりだした
OHCに対しOHV、即ちカムシャフトがエンジン側部にある
方式で、またクロスフローに対し旧式のターンフロー形式
でした。しかし軽くてよく回り、スカGとはまた違った小気味
よいフィーリングでした。後年にはこの旧式エンジンもその
高性能ぶりで名機として歴史に名を残しました。

ただチェリーのギヤボックスはまだ技術が熟成されてなく、
グキッと言う操作感で、同じエンジンのサニーと比べると
いまいちだった記憶があります。カローラはその点、カチ
ッカチッとした感じで節度がありました。ともあれチェリー
X-1はスポーティなSUツインキャブを装着し、足回りも
やや補強して、当時としては高性能車の一つでした。

チェリーX-1の思い出です。
ある日、京都大学の自動車部のキャプテンが子分を連
れて、わが同志社大学自動車部の部室に怒鳴り込んで
きたのです。
一瞬殴り合いになるかと思いましたが、よく話を聞いて
みると、貴様らのクラブに入った新車のチェリーX-1は
大阪日産チェリーからタダで貰ったという話ではないか。
けしからん何故、K大学におさそいがないのかと・・・・。

当時主将を拝命していたタバコ屋にすれば、京大の自動
車部なんか、同志社から見れば取るに足らない弱小クラ
ブにて、取り合う必要もないと判断し、「文句あったら大坂
日産へ言ったらどうや」と突き離し、何とかお引取り頂い
たのですが、これには少し裏話があります。
当時はまだのどかな時代で、日産とすれば、チェリーを発
売するにあたり、若者の車でもあり、モニターという名目
で関西六大学の自動車部にばら撒けば、宣伝効果が上
がるのではなかろうかということで実施されたと思います。
ただ、何故国立大学には配布なかったのかについては、
わかりませんが当時国立大学は部活にあまり熱心では
なく、各種競技においても目立った戦績を収めていなかっ
たせいだと思います。
学生ラリー
当時の大学対抗ラリーのスタート風景だと思うのですが、
場所は今出川キャンパスのどこかだったのか、あるいは
他の大学だったのかよく覚えていません。ちょうど同志社
大学チームが出走するにあたり、応援団も来てエール切
っているところじゃないかと思います。しかし今から思うと
滑稽ながら当時は大真面目でした。

ちなみに競技車はお尻のデザインが不評だったNISSAN
BP410ブルーバードSSSでした。(前出の松尾良彦氏によ
りマイナーチェンジされた後期型)
ボンネットは当時のはやりで黒のつや消し塗装をしていま
す。同志社大学は当時オクルマは大したことなかったで
すがクルーが優秀だったのでトップクラスの実力でした。

また、自動車部本来の伝統的な競技としては、フィギュア
競技というのがあり、具体的には運転免許のコースを数
倍難しくしたようなところを、いかに短時間で正確な操作
で、しかも障害物を避けて回ってこれるかというもので、
これにはかなり体力も要し、体育会のゆえんとなってい
た競技ですが、いやがらせの障害物とか何度切り返して
もとても曲がれないようなコーナーが待ち構えている難
コースでした。
フィギュア競技
当時のフィギュア競技大型車部門の競技風景です。多分
全日本学生選手権の時で、場所は小金井ではなかったで
しょうか。?
競技者は若かりし頃のタバコ屋で、たいした成績ではなか
ったような記憶があります。総合では5位だったかと思い
ますが、後輩のほうが上手な選手が沢山いたと思います。

蛇足ながら当時のクルマはすべてノンパワーステアリング
だったので、据え切りとかはかなりの腕力がいりました。
それらの競技でも国営大学の連中はからきし弱かったの
です。それにしてもあの時のK大学キャプテンの剣幕は只
ごとではなかったので、チェリーX-1を貰えなかったことが
よっぽど悔しかったのではないかと思います。

そのような経緯でお輿入れとなったチェリーX-1はよく働い
てくれました。旗艦のスカイライン2000GTに比べてお気軽
なクルマだったので、上級生下級生を問わず、部員の多く
が遠慮なく使い廻しをしました。カローラをラリー仕様に改
造し当時盛んだったナイトラリーを荒らしまくっていた同期
のH君らが、ラリーの試走に使ったり、我が部から出場する
ラリー車として酷使したり、またHONDA-1300を多分親に
ねだって買った同期のM君らの高速ドライビングの洗礼に
よりチェリーX-1は満身創痍となり、かなり修理費用がかさ
んだような記憶があります。
信じられないかも知れませんが、大学の自動車部がラリー
を主催したりもしたのです。同志社大学自動車部主催の
同志社ラリーも5回くらいまで続き、その後は交通事情が
難しくなって警察が許可せず、開催出来なくなりました。

何でも主催というのは大変で、コース設定からマップ作り、
スポンサー集めから、はてはOBを動員してのスタッフ集め
まで、現在の広告代理店がやっているようなイベント開催
と似たようなことをやりました。お蔭で学生としては警察や
企業に出入りしたせいで、他の学生よりは大人っぽくなっ
たような気がします。その時には前述の同期のH君たちが
大活躍しました。好きこそものの上手なれという格言は
本当です。

もっともH君は卒業後、鷲のマークで有名な某大手製薬
会社を経て、京都の小学校の先生になり、やがて校長先
生にまで上り詰めたのですが、ヤンチャな彼が、どんな
顔して教えたのか笑ってしまいそうな気もします。
北陸遠征
突然ですが、同志社大学自動車部のおそらく北陸遠征の
写真です。恥じらいもなく同志社大学遠征隊とかの横断
幕がMAZDAのマイクロバスの横に見えます。いじらしくも
黄色のチェーリーX-1が他の部車に混じり休憩中です。
リアには大げさなマッドフラップが付いているのでおそらく
ラリー仕様に改良されていたと思われます。
下はクラウン、上はたれ尻ブルで結局ブルは2台あったの
です。

余談ですが、部にはアルバイト先においても乗るクルマに
応じて階級があり、部車にもそのグレードに応じて階級が
ありました。
スカイラインGTなどはもう幹部ご専用車という感じでしたが
その点、チェリーX-1はあまり階級なく乗れたような記憶が
あります。
私はチェリーX-1にはあまり乗ったほうではありませんが
当時、大阪日産チェリーへ経過報告か何かで出張した時
にチェリーX・1を使ったように思います。その時、何人かで
行ったと思うのですが、その中に一期後輩で、京都のK子
ちゃんも乗っていて、私はその彼女に遠征中、女性に対す
る無知からあるひどいことを強制してしまい、後日心のトラ
ウマとなってしまったのです。そのひどいこととは月の物の
日に、強制ランニングを命じてしまったことでした。

尚、大阪往復ツーリングの時は何事もなく楽しい時間でし
たが、カーナビなどは当時、想像外のものでもっぱら人間
ナビでした。

尚、記述の出典の一部、写真の一部については雑誌昭和
の名車、ノスタルジックヒーロー等を引用させて頂きました。


荒ぶる心 vol.2:スカイライン2000GT

平成24年9月5日
【スカイライン2000GT誕生物語】
言い古されたコトバですが、タバコ屋が若かりし頃、
羊の皮をかぶった狼」というのがはやりましたよね。
それに対し「名ばかりのGTは道をあける」というのもあり
まして、そうなるとやや他の車へのあてつけっぽく感じた
りもしました。スカイラインのことです。

ご存知のように、戦後の高度成長期の中で、百花繚乱、
多くの自動車メーカーが我こそはと、しのぎを削り個性的
な車を次々と発売しました。しかし消費には限度があり、
作りすぎて共倒れの危険性が出てきました。
また欧米の先進メーカーに対抗して今後競い合っていく
ためにもメーカーの再編成が必要でした。そこで当時の
通産省が官主導で、多すぎるメーカーの再編統合に乗り
出したのです。
HONDAなどは無謀にもF1に参戦したり高価な工作機械
を買いすぎたりして潰れそうだったんですが、鼻っ柱の強
い宗一郎社長は通産省の指導をはねのけ、あの大ヒット
作N360(通称Nコロ)を発売して気を吐いていました。
ホンダN360
バイクそのもののエンジンは空冷2気筒OHC354ccで
よく回り当時斬新なFF方式(前輪を駆動する方式)を採用
、キャビン(室内)も軽としては広かったように思います。
ただ、これはオースチンミニのパクリだとか、やっかみ半分
でいろいろ言われました。

ついでながら、天才デザイナー、アレック・イシゴニスの
設計によるミニは最小限のボディに最大限のキャビンを
生み出すというのが設計コンセプトでした。彼のアイデア
は後からコロンブスの卵的に考えると、何でもないようで
すが、2BOXスタイル、横置きエンジン、並列ギヤボックス
配置、前輪駆動、どれを取っても当時はとてつもなくアバ
ンギャルドでしたが、後のコンパクトカーの定石になって
しまった程のすごい発明でした。その意味から言えば
Nコロはもろパクリでしょう。
話はそれますが、最近H社は低迷していたこのクラスに
Nシリーズを投入し急激にシェアを伸ばしているようで、
秋にはこのNコロの復刻イメージの2BOXも発売とか。
プロトタイプは漫画おそ松君に出てくる警察官の顔みたい
で漫画っぽく、もう少しどうとかならないものかと思います。

元に戻ると、宗一郎社長はそれだけでは飽き足らずその
後、F1エンジンを市販車に積んだようなHONDA-1300と
いう超マニアックな車を発売します。
ホンダ1300
このオクルマはやはりFF方式でしたが、かなりクセがあり
マニアには好まれたものの商業的には成功しませんでし
た。その理由は足回りの熟成が出来てなかったので前輪
にかなり無理な力が加わり、タイヤの磨耗がひどかったの
と、エンジンが2重空冷方式という凝りに凝ったメカにもか
かわらず、ヒーターの効きが悪かったのです。
もっとも、HONDAはバイクという儲けの種があったので
それが失敗しても乗り切れたといういじわるを言う人も
います。
ヂャイアント号
唐突ながら、島のタバコ屋が昭和28年から33年にかけて
運営した島の民間バス第1号に採用したヂャイアント号で
す。新進の愛知機械というメーカーの製品でした。(マニア
はコニーというそうで、前述の広島のふるさと発掘師Oさん
から教わりました)

三輪バス、今では笑ってしまいそうですが、島の狭い道を
走るにはとても都合がよかったのです。写真では大きく
見えますが、たぶん今で言えばホンダステップワゴンくら
いだったと記憶しています。
排気ガスは今のレベルではとても劣悪なものだったでしょ
うが、子供心には文明の香りがして、ガレージをうろちょろ
していました。愛着のあったこのメーカーも業界再編の波
の中でやがてNISSANに吸収されます。

その頃、プリンスというマニアックな車作りをするメーカー
がありました。突然ですがプリンスとSUBARUはもともと
同根だったってこと、ご存知でしたか。
そのSUBARUもめちゃマニアックなメーカーで、よそが
ほとんどやらないボクサー(水平対向)エンジンを作って
いるメーカーです。(PORSCHEもボクサーエンジンです)

ついでながら、私の所属した同志社大学体育会自動車
部の一年後輩のI君は20台も愛車遍歴をした猛者ですが
このボクサーエンジン付きレガシーB4RSにどっぷりはま
り込んでいるようです。
あのドスの効いたドリューというエキゾーストノートはいか
にも精密なキカイが回っているという感じでいいですよね。
たぶんI君もそれが気に入っているのだと思います。

話は戦前にさかのぼりますが、プリンスのルーツは2つあ
り、一つは戦闘機隼とか作っていた中島飛行機で、戦時
中はミツビシの設計したゼロ戦の生産が間に合わず、
その2/3は、中島飛行機が作っていたそうです。
当時はミツビシ、中島飛行機といえばBMW、ロールスロ
イス、などにひけをとらない世界有数のヒコーキメーカー
でした。特に国産ヒコーキのエンジンの大半は中島製で
した
その中島飛行機も終戦後はGHQにより財閥解体となり
たくさんの破片に分解されてしまいました。
そのカケラのひとつが富士精密工業でエンジン研究の
専門会社でした。
もう一つが立川飛行機で中島飛行機とは提携関係にあ
りましたが、戦後民間の仕事しか出来なくなった中で
たま自動車という名前で電気自動車の製造を始めまし
た。(多摩に工場があったので、たま自動車となりました)
今EVだ、PHVだと、騒がしいですが、戦後既にEVは作られ
ていました。ただ時代が早すぎたのです。
時代の流れはガソリンエンジンに向かったので急遽、
富士精密工業にエンジン製作を依頼し、その後両社の関
係は深いものとなり、ほどなく合併しその結果、プリンスと
いう自動車メーカーが誕生しました。
尚、プリンスとは別に多くのカケラとなった中島飛行機
のいくつかが合併し合って出来たのがSUBARUです。

ほんとややこしいですが、要するに戦後の自動車屋の
多くは元ヒコーキ屋さんが作ったということです。
余談ながらプリンスのオーナーはブリヂストンの石橋さん
だったことご存知でしたか。またプリンスの社名と車名の
由来は皇太子殿下御用達のオクルマとなったのでそれに
ちなんで石橋オーナーが名付けたそうです。私は知りませ
んでした。

スカイラインとは山の峰々と空の間の稜線のことを言うそ
うですが、プリンスが作ったセダン第一号はプリンスセダ
ンと呼ばれ、皇太子御用達のオクルマでしたが、その後
継機種とも言うべきものがスカイラインでした。只我々世
代にはほとんど馴染みがありません。
初代スカイライン2
初代スカイラインです。何とも形状しがたい作品で、当時
のアメリカ車のトレンドずばりです。好きな人にはたまらな
いんでしょうがタバコ屋にはコメントする勇気がありません。
2代目スカイライン
スカイラインも2代目になると、現代に近づいたデザインと
なりマニアにはよだれの出るクルマらしいのですが、この
車さえも我々世代には薄っすらと記憶がある程度です。

プリンスという会社は徒弟制度的なものがあり、スカイラ
インは初代より桜井真一郎という棟梁が仕切っていまし
た。彼はただの棟梁ではなく、スカイラインの開発と、
レースで勝つことに全ての人生を捧げた人でした。
実用車ではスカイライン、レースではR380を皮切りに
R381、R382、また一連のレース用スカイラインGTR、等
を手掛けました。
スカイライン2000GT
彼の渾身の作品、3代目スカイライン2000GTです。
NISSANと合併後、初の作品として昭和43年10月、満を持
して発売されました。当時としては、他を圧する先進的な
メカと品質感で当時の若者の憧れをあおりまくった確信犯
です。尚、通称スカGは国内販売専用車として、またちょう
ど1年後に発売されたフェアレディZは、主に欧米輸出用の
切り札として、当時のNISSANは2大看板スターを手に入れ
ました。
GTRフロントビュー
圧巻はマルビ学生などには縁のなかった2000GTRで、
レーシングカーR380のエンジンをデチューンした別物
エンジンを搭載していました。(デチューンとは専門語で
高性能なものを実用向けに性能を落とすことです。)
前出の羊の皮をかぶった狼という意味はこのことを言っ
ています。

写真は、3代目スカイラインGTRです。正確に言いますと
3代目の後期型デザインです。上の2000GTとの外観上
の大きな違いは、リアのホイールハウスが大きくえぐられ
オーバーフェンダーがついていることと、タイヤサイズが
違うくらいでしょうか。フロントグリルのGTRのエンブレム
が凄みを利かせているのは言うまでもありません。
リアウイングとホイールは正規のものではありません。
S20エンジン
ちなみにエンジンの形式名はS20で、クロスフロー形式
DOHC-4バルブ、ソレックスキャブ3連装、排気は独立式
(タコ足)の準レーシングエンジンでした。
ただ残念なことに、2000GTのほうは、NISSANの横ヤリが
入り、量産効果の出るL型エンジンを使うよう強制され、
棟梁桜井氏は泣く泣く搭載したとか。
棟梁としてはL型を搭載しなくてもプリンス自製のもっと
高性能なエンジンを持っていたのですから。
北海道遠征
突然ですが、前項でお話した同志社大学自動車部の
恒例である、北海道遠征に旗艦として参加した2000GT
です。このオクルマは私らが部内のバイトでお金をため、
ようやく手に入れた念願の車でした。

ついでながら、バイトといえば当時、複数請合っていて
出町柳のゼニモ(銭茂金物店)、室町の白生地問屋T織物、
東映太秦撮影所などがありました。ゼニモ、なつかしい言
葉ですが、配達が主な仕事でした。タバコ屋もずっと後年
手掛けることになるホームセンターが出来てからは、金物
屋というのは絶滅業種となりました。
ゼニモは軽トラックでの配達だったので、少々傷つけても
叱られなかったので、もっぱら1、2回生の運転練習を兼ね
たオシゴトでした。
T織物は社長の公用車クラウンのお抱え運転手です。
当時、社長の孫でギゾウ(義三)君というのがいてその子
が私の同期生、神戸のM君によくなついていたのでその
M君のニックネームはギーちゃんになってしまったという
エピソードもあります。ギーちゃんは卒業後兵庫県警とい
うコワーイところに奉職されました。
東映太秦撮影所では水戸黄門などのロケに現地までマイ
クロバスで俳優さんを運ぶ仕事でした。有名俳優さんもよく
見かけましたが、はしたないのでサインをもらうのは控えま
した。

余談になりますが、スカイライン2000GTといえば、私が
4回生の時だったでしょうか、1年後輩のT嬢と一緒にその
父君の購入された新車パリパリのスカイライン2000GTで、
二人してドライブに出かけたことがあります。
その日の朝です。キーを託された私は、不覚にもスタート
をメスリました。(関西語で失敗した意)。エンストしたので
す。もう顔から火が出るくらい恥ずかしくまたお父様の車を
もし傷付けでもしたら、取り返しがつかなくなるので、二人
のドライブを楽しむどころではなくその日は、周山街道だっ
たのか、北山のお寺さん(円通寺)だったのか、はたまた
比叡山ドライブウエイだったのか、どこを走ったのか覚えて
ないくらいでした。円通寺のお庭を二人で見たことはぼんや
り覚えているので、多分北山界隈だったのでしょうが、食事
もしたのかしなかったのか、スッポリ記憶が抜けています。
蒼き時代の思い出です。

40年前のことにて、今では甘酸っぱいカルピスの味がしま
す。梅ちゃん先生見ると、何故か思い出したりもします。
スカイライン2000GTはその後、ラリーよりは主にレースで
大活躍することになりますが、そのことはまた別稿にて。

フェアレディZは坂の上の雲のように遠い存在であり、
それなりに冷静に記事が書けましたが、スカイライン2000
GTは若かりし頃の身近な存在だったので、それなりのドラ
マもあり、かなり感情の入った記事となってしまいました。

(なお記述の出典の一部、写真の一部は雑誌ノスタルジッ
クヒーロー、その他を引用させて頂きました)


荒ぶる心vol.1:フェアレディZ

平成24年9月2日
【フェアレディZ誕生物語】
暑かった夏も終わろうとしています。
トワエモアのデュエットが聞こえてきそうです。
今はもう秋、誰もいない海~
あまり強烈なインパクトはなかった記憶があるものの、
私の若かりし頃、つまり昭和46年にリリースされたヒット
曲です。トワエモアの曲としてはそれよりも最近、いきも
のがかりが歌ったロンドン五輪テーマソング「風が吹いて
いる」の札幌オリンピック版、昭和47年の「虹と雪のバラ
ードの方が有名ですよね。
余談ですが、このトワエモアは平成20年、わが松山の
ご当地ソング「この街で」を歌っているので、何故か他人
のような気がしないでもありません。ちなみに、この街で
の歌詞は
この街で生まれ この街で育ち
この街で出会いました あなたと この街で
この街で恋し この街で結ばれ
この街でお母さんになりました・・・・
と続く、ちょっとジーンとくる歌詞です。

島のタバコ屋は何をお話しようとしているんでしょうか。
そうです、甘いムードが漂うトワエモアのお話ではありま
せん。硬派の、荒ぶる心のお話です。
フェアレディZとスカイラインCTのお話です。それもかなり
独断と偏見に満ちた切り口で。
私の若かりし頃(主に大学時代)の日本はどうだったので
しょうか。いわゆるモータリゼーションまっしぐらの時代で
した。
かつてタバコ屋が所属していた同志社大学自動車部の部
長をされていた故オーテス・ケーリ先生が終戦直後愛用さ
れていたJEEPから見るとおもちゃのようだった国産車は、
真似だろうがパクリだろうがとにかく欧米水準に必死で追
いつこうと死にもの狂いの努力を重ねました。
東京オリンピック、大阪万博はその流れに拍車をかけるも
のでした。そのかいあって、昭和40年頃からは急速にその
実力を付けていったのです。国産車のビッグバンです。
フェアレディ2000
突然ですがそのビッグバンの前兆と言いますか、呼び水
となったのが写真のフェアレディ2000です。
今日はこのフェアレディにまつわるお話を致します。
このオクルマはいわゆるマニア用の車で、屋根はないは
(専門語でロードスター、コンバーチブルなどと言います)
乗り心地は戸板に車輪を取り付けたごとくガチガチで、
(固定車軸方式:リジッドアクスルと言います)チューニン
グされた4気筒エンジンはラフでうるさく、普通の善男善女
の乗るオクルマではありませんでした。
余談ながら、フェアレディの車名の由来は、当時社長を
していた川俣克二氏がアメリカ視察の際ミュージカルの
マイフェアレディを見て痛く感動し、それにあやかり名付
けたと言われています。

当時アメリカNISSANの社長をしていた片山豊氏は、これ
に代わるもっと洗練されたスポーティな車を作ればドイツ
野郎に負けずに売れるのに、と思っていました。
彼は社長になる前、日産本社の宣伝部で活躍し、オース
トラリア遠征ラリーではクラス優勝したりして当時の話題
となっており、ご自身もかなりのマニアでした。
言い忘れましたが片山氏は第1回の東京モーターショー
のプロデュースも手掛けた敏腕です。

その頃日産本社に神戸出身の変わり者のデザイナーが
入社していて、発売されたばかりのブルーバードBP410
(イタリアのピニンファリーナ社にデザインを依頼し鳴り物
入りで発売した車)が売れないのはそのダルい(私ら世代
用語で物足りない、どんくさいの意)デザインのせいだと
批判し社内で問題児となっていました。松尾良彦氏です。
ブルーバードBP410
そのダルいブルーバードのリアビューです。売れなかった
のは性能がどうのこうのではなく、この垂れたお尻のデザ
インのせいでした。事実、それじゃ自分でデザイン改良し
てみろと上司に言われて、松尾氏が手掛けたのがSSSで
それは当時の若者に受けるデザインでした。彼は自分自
身も相当のエンスー(マニア)で、要するに自分が買いた
い車をデザインしたかったのです。

後日談ですが、松尾氏の考案したスポーティなSSSという
アイデアは大ヒットとなったのでシリーズ化され、後継機種
のP510(サファリラリー総合優勝車)では不動の人気車種
となりました。松尾氏を叱った当時の上司も後日にはバツ
が悪かったのではないでしょうか。

この二人の変わり者エンスーは後日、運命的な出会いを
することとなります。片山氏はポルシェ、VW、ジャガー等
がよく売れるのに我慢がならず、おまえらやる気あんの
か~とは言わなかったでしょうが、とにかくたまらず本社
に怒鳴り込んだところデザイナー松尾氏は秘かに、ある
先進的なスポーツカーをデザインしつつありました。
それは屋根があり(専門語でクローズドボディと言います)
サイドビューは八頭身で、(いわゆるロングノーズショート
デッキ)、足回りは4輪独立懸架(4輪が別々に作動する
メカで具体的にはコンパクトなストラットコイルを採用)
とし、乗り心地がしなやかでエンジンは最新のL型OHC-
6気筒2000ccを搭載する計画でした。
L型エンジン
そのL型エンジンです。これはセドリックやスカイラインGT
にも搭載された最新型の量産エンジンでした。
余談ながらこのエンジンは丈夫で故障が少なくまた、排気
量アップ等のキャパシティが大きかったため長く使用され
後年は名機と呼ばれたりしましたが、当時はベンツのパク
リエンジンなどと陰口叩かれたりしました。
また、頑丈なだけにチューニングしないと回転が重々しく
別名お眠りエンジンとも言われました(私の命名)
L型チューンドエンジン3
チューンを施したL型OHCエンジンです。キャブレターは
SUからソレックスに換えられ、排気管も6気筒それぞれ
独立した形状(いわゆるタコ足)です。キャブレターの下
にステンレスのプレートがあるのは、排気の熱がキャブに
影響して燃料に気泡が入ったり具合が悪くなるのを防ぐ
遮熱板です。デスビとかコイルとか点火系統も交換され
ているはずです。

不思議なことに、回すのが嫌になるように重々しいこの
お眠りエンジンはこれらのチューニングによりヒュンヒュン
と回るようになるのです。その感覚は全く別物といってい
いと思います。
蛇足ながら、OHCと言うと当時何か先進メカのような印象
がありましたが、それはそれとしてカムの配置とは別問題
の吸排気の流れはインレット(吸気口)とアウトレット(排気
口)が同じ側にあり、(ターンフロー方式と言います)
その後主流となるクロスフロー方式(インとアウトを反対側
に配置)がはやる前のメカでした。

帰国時、Zの試作品を見た片山氏は即座に、「これ買った
とか、言ったらしいのですが定かではありません。
とにかく二人のエンスーはこの車は売れる、特にアメリカ
で、と確信を持ちその時片山氏が松尾氏に激励のため、
旧日本海軍の出陣の旗であるZ旗を贈ったゆえ、車名が
フェアレディZとなったとか、いや開発コードが究極を表す
Zであったとか諸説あるようですが今ではZの社名の由来
は伝説となりつつあります。
Zプロトタイプ1
新進気鋭デザイナー松尾氏の思いを刷り込んだZのプロ
トタイプです。開発中期頃の作品と思われますが、憶測な
がらこの二人の頭には当時最先端だったジャガーEタイプ
のハイセンスなイメージが色濃く焼きついていたと思われ
ます。
以前の稿でも申し上げたように、プロデュース、デザイン
が揃っても、具体的なエンジニアリング(設計とか製作)
がうまくいかなくては絵に描いた餅です。
デザインの松尾氏と設計部の植村氏との車高数ミリを巡
る大バトルは今も語り草となっているほどです。
Zプロトタイプ2
すったもんだの大喧嘩の末、出来上がったプロトタイプ
です。おそらく最終段階に近いと思われます。大分無駄
肉を削いでダイエットしたようで、ラインがシャープです。
最終的にはサイドウインドーがさらに絞り込まれたよう
です。
リアエンドは思い切りよくスパッと切り取ったたデザイン
(コーダトロンカと言います)でスポーツカーらしい軽快感
がありますよね。
それに比べ、今のZ、みなさんどう思いますか~。
ボリューム付けたかったんでしょうが超ヒマンタイです。
またヘッドライトとかボディ各部もチンケなデザインです。
個人的には今のNISSANデザインは好きになれません。
恐らく松尾氏もそう思っているはずです。
フェアレディアメリカ試走
アメリカ最北部での試走の様子です。走行中振動がひど
く、設計変更を余儀なくされたりしました。後輪車軸部に
問題があったのです。後方に見えるDATSUNのブランド
ロゴが島のタバコ屋にはとてもなつかしいです。
どうでもいいことですが、テンガロンハットを手に持ってい
るおじさんは多分、設計主任の植村氏と思われます。
フェアレディZ1
品のいいネーミングとは裏腹に、当時のNISSANの荒ぶる
心は形となって結実し、ついに昭和44年10月満を持して
発売となりました。奇しくもタバコ屋が同志社大学に入学し
体育会自動車部の合宿でしごかれていた頃のことです。
このオクルマのことは雑誌等でよく知っていましたが所詮
貧乏学生には夢のまた夢のしろものでした。

少しマニアックなスペックの説明をさせて頂くと、この写真
のボディは国内用で輸出用は前後のバンパーに縦方向
のオーバーライダーが2個ついています。写真では見え
づらいですがフロントグリルの部分は国内用はハニカム
状メッシュ、輸出用は横方向のスリットバーが付いていま
した。またヘッドライトカバーはオプションで、どちらかとい
うと欧米の寒冷地で雪の防止用じゃないかと?。国内で
は不要でしたが、当時はそのカバーが随分格好良く見え
ました。またホイールはZ432というマニア向け仕様に付い
ていた神戸製鋼製のマグネシウムホイールですので、
ひょっとするとこの車はZ432かも知れません。そうなると
エンジンもS20というDOHC-2000ccのエンジンとなります。
ついでながら、国内用は2000ccでしたがアメリカ向けは
とてつもなく広い国土に合わせ2400ccでした。
このアメリカ仕様は通称240Zと呼ばれ、やがて世界中の
ラリー、また国内のレースを席巻することになりますが、
詳しいお話は、また次回にさせて頂きます。

(尚、写真の一部及び出典の一部については雑誌ドライ
バー、ノスタルジックヒーロー等を引用させて頂きました。)


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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