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荒ぶる心 vol.5:ポルシェのこと

平成24年10月27日
昭和38年、学生服を着たままの格好で「高校三年生」を
歌い、衝撃のデビューを果たした舟木一夫。
【作詞】丘 灯至夫 【作曲】遠藤 実のこの曲はいきなり
100万枚を超える大ヒットとなりその年の日本レコード大
賞を受賞しました。
舟木1
一躍スター歌手となった彼は、やがて西郷輝彦、橋幸夫
とともに御三家と言われ後に学園シリーズとなった「修学
旅行」「学園広場」「仲間たち」等、数々のヒット曲を世に
出したことは団塊世代前後の方なら記憶に新しいと思い
ます。尚、タバコ屋はまだ歯が生え揃わない中学生でした。
舟木2
その彼がデビュー翌年リリースした「東京新宿恋の街」は
何故かハイカラな当時の夢の東京を歌っていてタバコ屋
の好きな曲でした。
1番は「♪口笛吹いたら振り返るスケート帰りの可愛い娘、
お茶を飲もうかドライブしよか、それともメトロの散歩道~
ごきげん、々、々、東京新宿恋の街~」
2番は「♪誰にも言えない約束は、デイトの新宿ターミナル、
並ぶデパート素敵な夢を、明るく彩るショッピング、
ごきげん、々、々、東京新宿恋の街~」
まさに当時の若者の夢を語っていると思うのです。

当時の若者のデートの定番といえば新宿丸善で待ち合わ
せ、中村屋でカレー食べて(あんパンの元祖ですがカレー
も美味しいので有名でした)、仕上げは新宿高野のフルー
ツパーラーでダベリング、または告白?、途中で映画に
行ったかも知れません。
当時封切りで石原裕ちゃんの「銀座の恋の物語」とか・・。
新宿ターミナル、丸善、中村屋、高野というのは当時の
様々な若者風俗の一つのキーワードでもありました。

余談になりますが、後年、島のタバコ屋はある人の紹介
で、フルーツに関しては日本の権威だった新宿高野の
社長室長、天野氏と親しくなり、随分啓蒙された思い出が
あります。
タバコ屋はみかんのお取引に関しては、日本橋三越等に
出店していたサン・フルーツさんや、京橋千疋屋さんと
すでに親しくしていたので、三足のワラジはまずいと思い、
結局新宿高野さんとはお取引には至らずじまいでした。
ちなみに天野氏の好物はアボガドのお茶漬け!でした。
新宿高野
新宿高野さんのジャム売場です。さすがと言うべきか当
然と言うべきか、当社の取引先である芦屋のいかりスー
パーさん同様、並べてある品のほぼ100%がプライベート
ブランドです。
専門店と言えども自社開発商品はリスクが伴い、なかな
かこうはいかないのが現実です。
三越恵比寿店
平成16年にオープンした三越恵比寿店です。恵比寿ビー
ルの跡地開発で出店した三越としては新しいタイプの郊
外店です。クラシック&モダンなたたずまいですよネ。
サンフルーツ
そこのフルーツ部門を担当しているサン・フルーツさんの
売場で今、希望の島から届いたばかりのグリーンレモン
を可愛いいお嬢さんが開封、店出しをしようとしているとこ
ろです。ダンボール箱には恥ずかしながら当社のロゴが
入っているのが見て取れます。
日本橋三越本店
日本橋三越本店のフルーツ売場です。メトロ三越前を降
りてすぐなので、いつ行っても大変な賑わいでした。
果物店なのに松茸を売っていてビックリしましたが、高価
でもありギフト主体なので、果物店でも扱われるのでしょ
う。単品よりも各種詰め合わのギフトがよく売れるのだと
店長さんがおっしゃってました。
千疋屋1
平成19年、東京駅の大丸に出店した千疋屋の新店舗で
す。店舗カラーは従来パステル調でしたが、一転ダーク
系の色調に統一しています。
千疋屋2
千疋屋のジュース売場です。上段右端のオレンジ色の
ジュースは当社が製造納品しているみかんジュースで、
「カラ・マンダリン」という希少な品種のため千疋屋に
採用されました。ちなみにこのコーナーは千疋屋の
プライベートブランド「究極の果汁」シリーズの棚です。
メーカーが販売先のブランドもしくは仕様書により別注で
委託生産するいわゆるOEMという手法です。

島のタバコ屋がなぜみかんのショウバイを始めたかにつ
いては、平成3年瀬戸内海西部を直撃し、日本海経由で
青森に再上陸みかんとりんごに大きな被害をもたらした
台風19号により、中島のみかんが壊滅的な打撃を被り、
同じ島に住む住民の一人として、何かお役に立つことは
ないだろうかと考えて、みかんを私なりのルート(人脈)
で販売することを始めたことがきっかけでした。
それがやがてジュース、ジャムの自家製造をするまでに
至るのですが・・・。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

余談ながら、島のタバコ屋がこれらのお店とおつきあい
してみてわかったことは最終的にはみかんとかジュース
とかを卸で納品するのでなくタバコ屋自身が自分の直営
店を持たねばだめだと言うことです。そうでないとタバコ
屋の自社プライベートブランドは永久に育ちません。

突然ですが、オクルマの話になります。
オクルマ業界のエンスー(マニア)がまっ先に思い出す
ブランドの一つがポルシェではないでしょうか。それが高
嶺の花だとしても・・・。
ポルシェ356
ポルシェは昭和5年に設立され、当初はメルセデスやアウ
ディのエンジン設計とか、外注請合いをしながら昭和28年、
自社設計生産のポルシェ356ロードスター(写真の車)を
皮切りに、スポーツカーやレーシングカー専門のメーカー
として歩み始めました。
ポルシェ550
写真はジェームズディーンの愛用したポルシェ550スパイ
ダーです。昭和30年以降、数年間「エデンの東」「理由な
き反抗」等の大ヒット映画に出演し、さあこれからという
時に映画撮影のため愛車で現地に向かう途中、横から
不用意に飛び出した車のせいで悲劇的な事故死を遂げ
ました。元気でいれば大スター間違いない俳優でしたが
あまりにも早すぎる死でした。
ポルシェ911
ポルシェがスポーツカーメーカーとして世界に確固たる地
位を築いたのは、昭和39年以降発売されるポルシェ911の
登場によってでした。356の後継機種である911は2人乗り
+αで、高性能スポーツカーというコンセプトで開発され、
当時としては斬新な水平対向6気筒2L-SOHCエンジンを
リアに搭載し、しかも後輪駆動というメカニズムでした。
VWビートル
ポルシェの創業者で911の設計者でもあるフェルディナン
ド・ポルシェ博士は第二次大戦中、ドイツ国民車構想を具
体化したVWビートルの設計者でもありました。
ビートルはご存知のように戦後、世界のベストセラーとして、
次世代のゴルフが登場するまで大衆車NO.1として君臨した
クルマですよね。
したがって911にはビートルのメカニズムが色濃く反映され
ており、リアエンジン、リアドライブ等基本のメカはいっしょ
で、言ってみれば911はビートルのスポーツカー版というこ
とです。

ポルシェ911を愛用した世界の著名人は多数いますが、
日本でということになると、戦前戦後を通じ政治経済分野
で日本史に残る活躍をされた、白洲次郎氏をおいてほか
にはないでしょう。
白洲次郎1
彼は芦屋生まれの伊丹育ちで、若い頃は手の付けられ
ない程の不良少年だったらしく、家が俗福だったため
長じてはイギリスのケンブリッジ大学に留学、その時の人
脈を生かし帰国後は、当時外務大臣だった吉田茂氏に
可愛がられ、懐刀として辣腕をふるうことになります。
やがて抜き差しならない時代へと向かいますが、彼は
イギリスでの人脈と情報により、戦争で勝ち目がないこ
とを早くから理解しており吉田茂氏とともに戦争には反
対の立場でした。しかしやむなく開戦、敗戦後は憲法改
正を主張するGHQとの折衝の最前線に立ち、生来の鼻っ
柱の強さから、アメリカも実施出来ないような憲法を何で
日本が受け入れる必要があるのか、とGHQと真っ向から
渡り合い「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた逸話
は有名ですよね。
ひょっとすると、当時GHQで天皇制存続問題に関わって
いたオーテス・ケーリ先生とも何らかの接触があったかも
知れません。もしそうだとするとケーリ氏にとってはトテモ
やりにくい相手だったに違いありません。
(関連記事:今出川でのこと VOL.1参照願います)
白洲次郎5
白洲次郎氏の愛車ポルシェ911です。彼はイギリス留学
中からオクルマ趣味に傾倒し、またイギリス流のダンディ
ズムを身に付けていました。所有車は911以外にもブガッ
ティやベントレー等、浮世離れした名車の数々をこよなく
愛したエンスーでした。
白洲次郎4
戦後の集大成であるサンフランシスコ講和条約調印にも
全権の吉田茂氏に同行し、宣言を読み上げる際、何で英
語を使う必要があるのかと反発、長大な長さの巻紙に日
本文でしたためた宣言文を部下に用意させたという逸話
も残っています。
私の高校の先輩でもある、元映画監督の伊丹十三氏も
白洲次郎氏と同様な感性を持っていたと思われ、彼もイギ
リスのダンディズムを愛し、愛車もベントレーで、その気骨
あふれる生き様は、白洲次郎氏と共通のものがあったと
思います。
(関連記事:ハローたんぽぽ vol.5(完結編)参照願い
ます)

戦後処理を終えた白洲次郎氏はその後通産省の初代長
官となり組織改革に辣腕を振るった後、実業界に転進、
東北電力会長、大沢商会、大洋漁業(マルハ)会長等の
要職を歴任しました。
ソアラ
晩年の逸話としてTOYOTAが全力で開発し昭和56年に
発売した高級GTカー初代ソアラの開発アドバイザーとし
て深く関与し、TOYOTA側は白洲次郎氏のポルシェ911を
実際に譲り受けて開発の参考にしたと伝えられています。
その甲斐あって、初代ソアラはその年の最も優れた車に
贈られる第2回日本カーオブザイヤーに選出されました。
ポルシェ917
ポルシェはショウバイの車以上にレース、ラリー等モータ
ースポーツに力を入れてきました。写真は史上最も美し
く最強と言われたレーシングカー、ポルシェ917Kです。
ポルシェ917は昭和44年リリースされ、その後ショートテ
ール仕様の917Kに進化、フォードGT40が大活躍した後の
ルマンを始めとする世界選手権レースでフェラーリP512
との死闘を制し世界チャンピオンとなりました。
その後数年間は向かうところ敵なしの歴史に残る名車で
した。写真のマシンは昭和45年ルマン優勝車で、翌46年
も連覇を果たしました。
ポルシェ917
スティーブマックイーンが映画「栄光のルマン」を制作した
のもその頃のことです。マックイーンがその劇中でレーサ
ーとして搭乗したのはもちろん917Kでした。
マックイーン
映画の中でいよいよマシンに乗り込もうとする彼の緊張
した様子です。マックイーンはプロのレーシングドライバー
としても通用する一流のテクニックを持っていましたが、
映画の製作に関しては全く逆で、この映画にお金を注ぎ
込みすぎ破産してしまいました。映画自体は傑作でしたが
マニアックすぎて、興行が今一つ振るわなかったのが
原因でした。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.4:栄光のルマン参照願います)
ポルシェ906
それよりさかのぼること数年、昭和41年にデビューした
ポルシェ906です。日本ではこちらの方が有名で、昭和
41年当時、プリンスが開発したR380と第3回日本GPで
一騎打ちを演じ、結果はプリンスR380が優勝、日本の歴
史に残るレースシーンとなりました。しかしR380は906の
模倣の域を出ておらず、世界的に見れば、906は各地の
レースで好成績を挙げ、事実翌年の第4回日本GPでは懐
生沢徹がポルシェ906を駆って優勝しました。
(アイビーファッションのヴァンジャケットがスポンサーに
なったりした懐かしい時代のお話です)
ポルシェはその後、F1にも進出し、あのHONDAと一騎打
ちとなるのですが、そのことはまたの機会にお話します。
R380
富士スピードウエイで行われた第3回日本GPでのプリンス
R380の力走です。たった一度にしろポルシェを打ち負かし
たNIPPONの車として、マニアにはたまらないものがある
でしょう。
その後間もなくニッサンとの合併を迎え、R380は当時の
速度国際記録を塗り替えたりした後、次世代のR381、
R382へとバトンタッチをすることになります。
ただR380の心臓部であるエンジンだけはその後デチュー
ンされ(性能を落とす意味)S20エンジンとしてスカイライン
2000GTRやフェアレディZ432に移植されることになります。
(関連記事:荒ぶる心vol.2:スカイライン2000GT参照願い
ます)

余談ですが、桜井眞一郎が設計開発したこのR380の開
発ストーリーは後年NHKのプロジェクトXにも取り上げられ
ました。
ポルシェモンテ2
一方ラリーにおいてもポルシェ911はその持てる力を遺
憾なく発揮し、オースチンミニクーパーが大活躍した後を
受けて昭和43年モンテカルロラリーでの初優勝を皮切り
にその後サファリラリーその他のレースにも積極的に参
戦、常勝の仲間入りをしていきます。
240Zサファリ1
そこに敢然と立ちはだかったのが我らがNISSANでした。
雪と氷のヨーロッパでの戦いでなくおもに悪路主体のサフ
ァリラリーに焦点を当てて参戦、昭和46年にはブルーバ
ードP510を擁しサファリラリー初優勝を成し遂げ、翌年に
は強豪ポルシェとの高速スピードバトルを想定し、最新の
フェアレディ240Zを投入、デビュー1年目にして初優勝と
いう偉業を達成しました。
ドライバーは皮肉にもドイツ人のエドガーハーマンでした。
240Zサファリ8
トップでゴールした240Zの痛々しい写真です。泥と埃と
ぬかるみの道なき道を平均時速100キロ以上で約6,000
キロを走破、いかに過酷なレースであったかが偲ばれま
す。終盤岩にヒットしてフロントを大破し、ドライバーの
ハーマンも右手に深手の傷を負い、横のナビゲーター、
シュラー選手にドライブを代わってもらうなど、悪戦苦闘
の末辿り着いた栄光のゴールでした。当時のNISSAN
監督、難波氏を始め関係者の美酒の味はいかほどであっ
たか想像出来るというものです。

裏話になりますが、競技中は敵と味方でも練習中は同じ
目的の仲間だったので、ある日240Zの最速ドライバーで
ある、名手アールトーネンがポルシェと競走したそうです。
確実に240Zが速かったと当時を回想して言っていたとか。
優勝はまぐれではなかったのです。
240Zモンテ4
さすがのフェアレディ240Zも雪と氷のヨーロッパでの戦い
は不向きで、その長いノーズに悩まされつつも天才ドライ
バー、ラウノ・アールトーネンの果敢なドライビングにより、
不可能と言われた雪のモンテカルロラリーで総合3位入賞
を果たしました。昭和48年の出来事でタバコ屋が4年間を
過ごした今出川を去る年でもありました。
(関連記事:今出川でのこと VOL.1参照願います)

ポルシェはレース、ラリーばかりでなくショウバイもやらな
くては食ってゆけません。もともと高価な車なので、240Z
がアメリカで華々しくデビューした頃からだんだん売れな
くなってきました。そこでポルシェとしては対抗馬として
初めてオーソドックスなフロントエンジン、リア駆動のポル
シェ924を売り出しましたが失敗に終わりました。やはり
ポルシェにはポルシェらしい車が必要だったのです。

現在のポルシェのことです。今世界中で売れているのは
SUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)と言われる車高
の高い、悪路も走れるようなスタイルのスポーティな車で
各社ともこれぞ本命として集中的に開発しているようです。
一時はやったRV(レクリエーショナル・ビークル )と似てい
ますが、RVがキャンプなどへの単なる移動手段的なイメー
ジなのに対し、SUVは悪路も走れるGTカー的なイメージ
です。
例えば、その最高峰はレインジローバーですが、この車は
本来貴族が狩りをする時の馬がわりの車(シューティング
ブレイク)として生まれました。わかりやすいものでは只今
大ヒット中のMAZDA RX-5とかNISSANエクストレイル、
また発売後時間がかなり経過していますが三菱パジェロ、
あるいはHONDA CRVとかいったオクルマです。
スバルXV
写真は最新鋭SUVであるSUBARU XVですが、SUVの
イメージがわかってもらえると思います。
それにしても悪路を走れるGTカーと言いながら、街で見か
けるSUVで泥だらけの車はほとんどいないというのは何
故でしょうか。皆さんやはりイメージを買うんでしょうね。
一種のはやりものとして。それと機能面から言えば、乗り
降りしやすいのは事実です。
ポルシェカイエン
ポルシェは911以外ほとんど成功しませんでしたが、SUV
のカイエンだけは例外的に売れており、お米の種になり
つつあります。ポルシェの売上げの半分近くはカイエン
なのです。時代は変わりつつあります。

ポルシェというのはいつになってもスポーツカーの最高峰
であることに変わりないのですが、タバコ屋はじめ、庶民
には高嶺の花にて写真を見て楽しむ程度のものでした。
しかし、世の中には執念深い御仁もいて若い時に夢だっ
たものをいつかきっと実現すると呪文のように唱え続ける
者もいるようです。
末永ポルシェ3
タバコ屋の同志社大学自動車部の同期で筑後市羽犬塚
出身のSU君は卒業後は家業の製麺業を継ぎ、堅実に
ショウバイをやってきました。

その彼が先日いきなり、「ポルシェ買うたバイ」と言うので
す。タバコ屋はビックリ仰天しました。彼にとって待ち遠し
かったと思われるポルシェ納車日の風景です。
隣は公認会計士をしている息子さんです。向い側は地元
の高校ですが、タバコ屋も2~3度お邪魔しているので、
懐かしいです。彼は地元で最大手の製麺所のオーナー
ですが写真の後ろ側に社屋と工場及び自宅があります。
PORSCHEマークの入った専用搬送車にて玉の輿での
お運びです。神様の乗ったお神輿でもこうはいきません。
さすがポルシェ、やることが違いますよね。
末永ポルシェ2
念ずればついに花開いた、念願のポルシェ911です。もう
スペックなんかどうでもいいのですが彼への仁義のため
書きますと、年式は平成22年モデルで911の中でもより
スポーティな(もともとスポーティですが)カレラ4Sという
四輪駆動タイプです。出力の大幅な向上に対し、その
パワーを効率よく伝えるためリアエンジン、後輪駆動と
いうポルシェの基本的な特徴をさらに進化させたもの
です。
エンジンは3.8L水平対向DOHC-6気筒で、400馬力近い
大出力をポルシェ独自のPDKというデュアルクラッチシス
テム(クラッチが2個)で受け止め、7速のATミッションを介
して変速されます。もちろんF1カーなどで採用されている
パドルシフトというステアリング脇に付いたレバーを操作
する方式です。フロアで通常のシフトをすることも出来る
のは言うまでもありません。あとの装備は至れり尽くせり
の何でもありのようなので、特別記述することもいらない
でしょう。
わかりやすく言えば、このオクルマは車の匠PORSCHEが
作った現代版市販スーパーカーなのです。
彼もこの4~5年は熱病にかかったように、寝ても覚めて
もポルシェのことが頭から離れなかったらしく、そういう時
は女神が微笑むんですよね。ある日彼の捜し求めていた
理想のポルシェ(青い鳥)がディーラーで偶然入庫してい
たらしいです。彼の熱意と執念の賜物でした!。
末永ポルシェ2
リアビューです。私は当初、リアに羽の生えた恐ろしい格
好だったら、彼のセンスを疑い落胆するところでしたが、
彼は奥ゆかしい選択をしたようで、高速になるとおもむろ
に羽(ウイング)がせり上がってくるタイプなので安心しま
した。
右手奥左側に奥様のオクルマが見えます。その右は彼
が長らく乗っていたNISSANセドリックだと思われます。
それにしてもヨーロッパのデザイナーは塊り感の表現が
非常に上手ですよね。PORSCHEのデザインにはどこに
も無駄や虚飾が感じられず、しかも迫力十分ですよね。
末永ポルシェ4
コクピット回りです。スポーツカーメーカーらしく、走行に
必要な計器が機能的に配置されています。それも妙に
デジタル化せずわざとアナログの計器を使っているのが
心憎い演出です。
実際はほとんどの作動が電子化されていますがそれを
表に出さない配慮がまたエンスーの気持ちをくすぐるの
でしょう。ただコンソール回りは写ってないですが、昔か
らそっけないデザインで物足りなさを覚えた方もいらっし
ゃるでしょうが、これがポルシェの流儀といえばそれまで
で、一種のポルシェらしさにも繋がっています。
モデルチェンジのたびにデザインやレイアウトをガラリと
変えてしまう日本のメーカーは見習うべき点が多々ある
と思いますが・・。
ステアリング中央には、菊の御紋ならぬポルシェのエン
ブレムが誇らしげに埋め込まれています。

話が長くなって恐縮ですが、実は私の先代が先の戦争
中、徴用で1~2年羽犬塚に来ていた事があるのです。
SU君にも当時の地元資料を調べてもらったのですが、
どうも近くの三池炭鉱へ石炭を掘りに行っていたようなの
です。羽犬塚は交通の要衝にあり便利なのでそこに兵隊
さん達の宿舎があったのではと思われます。松の根っこ
から作る松根油(しょうこんゆ)もさかんに作られ、航空燃
料の一部として使用を目論んでいたようですがあまりにも
非効率で自然に止まったようですが、石炭掘りの途中か
らは松根油の製造に従事していたようなのです。先代が
何故徴用だったかと言えば、子供の頃、牛の食べる草を
押し切りで切っている最中、誤って右手人差し指を切落と
し小銃の引き金が引けなかったので徴兵検査に合格しな
かったからだそうです。

今日はポルシェにまつわるお話を、独断と偏見で長々と
書かせて頂きました。

(本文中の写真の一部はウイキペディアより引用させて
頂きました)


今出川でのことvol.3:地獄の北海道遠征

平成24年10月22日
【東北・北海道縦断5,000km走破の記録】【修正加筆版】
今回は島のタバコ屋が若かりし頃、同志社大学自動車部
に在籍していた今から40年前の、カビがはえ消えかけた
記憶をもとに東北・北海道遠征を敢行した時のお話です。

当時、普段の部活動とは別に、毎年一回夏季には長距
離遠征を実施するのがならわしとなっており、四国一周
とか、北陸一周とかいった形で、10日以上の長期間、
部車を連ねて走行し、部員の運転技術の向上と連帯感の
共有、トラブルでの適切な対処、規律訓練、その他諸々
(遊山?)を兼ねて実行されていましたが、北海道とも
なると、距離も長く予期せぬ出来事も想定され、たかが
大学生の計画する事業としては大変なものがありました。

まず金がないので、基本的にはマルビ無銭旅行に近い
ものになるのが常で、宿泊は野宿や途中の学校に無銭
宿泊が大半だったように思います。また食料、ガソリン等
の基本資材は先輩のところへおねだりに行き、何とかや
りくりしていました。たとえばおかずは京佃煮の老舗N氏
のところや京味噌のM氏のところへ行き、ガソリンはS石
油のS氏のところでただのチケットを頂くという具合でもう
比叡山の雲水もビックリの托鉢行脚でした。今回の北海
道遠征では一期後輩で3回生のI君が企画を担当し、我
々4回生は何もせずに先輩面してくっついて行くのがクラ
ブの伝統でもあったので、そのようにしたのですが、I君
を始め、3回生の幹部連には遠征前の準備にに随分奔
走してもらったような記憶があります。
北海道地図1
本州部分の往路と復路です。青森から青函連絡船経由
で北海道へ渡ります。
北海道地図2
北海道部分の行程です。札幌から北上、宗谷岬から東
回りに走行し、延べ5,000キロ強の長距離遠征ですが、
これを20日間かけて回る強行軍です。
北海道1
準備万端整い、今出川キャンパス内で出発壮行会です。
当日は監督や部長のオーテス・ケーリ先生が見送りに来
られ、ケーリ先生から激励のオコトバを頂いているところ
です。おそらく先生が部員の歓送迎会とか以外で写真に
写っておられるのはほとんど皆無だと思うので、ある意味
貴重な写真です。

車両構成は旗艦スカイライン2000GT、補給艦いすずエル
フ2t、部員輸送艦MAZDAマイクロバス、巡洋艦トヨタクラ
ウン、駆逐艦ニッサンブルーバード410、計5台での艦隊
編成だったと思います。いすずエルフには5,000km走破
とか派手な文字が書き込まれていました。

ややお恥ずかしい話ですが、勇んで出発した早々補給艦
エルフが故障し応急処理では無理と判明しリタイアとなり
引き返したお粗末な一幕がありました。荷物は万全でした
が整備は万全ではなかったようで、急遽エルフの荷物を
他の車に積み替え、再出発となりました。
例えが適切でないかも知れませんが、何やら派手な見送
りを受けた神風特攻隊がエンジン故障で基地に引き返した
ようなバツの悪さがありました。
北海道38
遠征初日は、日頃親しくしている東京の明治大学体育会
自動車部合宿所で一宿一飯のお世話になることにしまし
たが、補給艦エルフを京都へ回送したりして手間取り、
夜遅くに到着しご迷惑を掛けてしまいました。人生よもや
まさか、何が起こるかわからないことを身をもって体験致
しました。

余談になりますが、同志社大学と明治大学の自動車部の
関係はと言えば、親友でもありライバルでもありました。
大学の系統から言いますと、同志社大学はプロテスタント
キリスト系なので法科専門学校が出自の明治大学よりも
上智か青学が近いと思うのですが、当時関西では同志社
大学が最強で関東では明治大学が最強だったので、親し
かったように思います。(欲目の私見です)
北海道3
いよいよ北海道を目指し、北上です。途中持参品の食料
だけでは栄養失調となるので、ドライブインとかへ立ち寄
りながら北上しました。ちなみに横で口を開けて私の食事
を横取りしようとしているのは同期のS君で以前の記事に
書いた、あだ名を付ける天才です。彼は山口県小野田の
出身で、同じ商学部、同じ小森酒店の下宿人として家族
のようにして今出川時代を過ごした人物です。
前にも書きましたがお父さんが国鉄マンでその家族の汽
車賃はタダだったので帰省時の負担がなく、タバコ屋は随
分うらやましかったのを覚えています。卒業後は一時レン
ズメーカーのH社に勤めた後、逆玉輿で下関に養子婿入り
となり、下関商工会議所に奉職、その後事務局長という
要職を数十年にわたり務めました。 婿入り先は彼のどこ
が魅力だったのか今でも謎です。

その奥はやはり同期のSU君で、やや2枚目の日活スター
っぽいですが、彼は筑後市出身で、羽犬塚という古くから
栄えた町の最大手SU製麺所が実家です。同じ商学部で
入学時から麺にはうるさく、そのウンチクを聞かされるの
で彼と一緒にラーメンを食べる時には閉口しました。
口癖は博多弁で「一口味見さしてみんね~」でこの写真
ではその行為を終えた後だと思います。
北海道5
仙台経由で北上し、岩手の八幡平までやって来ました。
異様な一枚と言ってもよく、いくら連帯感の共有と申しま
しても前列二人のポーズは何と表現すればよいのやら・・
絶句です。
左のあられもない姿の男は同期の大阪出身N君で優秀で
したが卒業後は音信不通になりました。親しくしていただ
けに残念です。彼は卒業後、産業機械を扱う椿本チェイン
という商社に入社しましたが、今頃どうしているだろうか。

前列右端の男が企画部長のI君で後列頭を掻いている男
が次期主将のO君です。地獄の旅に女性も多数・・・、
なかなか度胸いいです。
北海道11
いよいよ北海道を目前にして、青函連絡船の中でのひと
時です。しばし積み木遊びに興じています。
左正面で試験中のごとき真剣な顔をして積み木をいじっ
ているのは今回の企画部長一期後輩のI君で、遠慮のな
い間柄だったので今から思えば随分アゴでコキ使ったよ
うですが、タバコ屋はまったく覚えていません。ただ記憶
力抜群の彼がそう言っていました。
ヤリ手のモテモテ男だった彼は、泣かせた女性も随分い
たに違いないのですが、意外にも卒業後、教師の道へと
進みました。彼の熱血授業で多くの子供たちが社会に
巣立ったことでしょう。

津軽海峡と言えば、言わずと知れた石川さゆりさんの
「津軽海峡冬景色」で決まりですよね。
作詞:阿久悠、作曲:三木たかし、ですが昭和52年リリー
スされその年のレコード大賞を受賞したものの、この写真
の時代にはこの曲はまだ世に出ておらず、我々は乗船早
々積み木遊びが忙しくて、凍えそうなカモメも、竜飛岬も
見るヒマがなかったのでした。
北海道12
函館五稜郭上陸です。戊辰の戦いで本当に気骨があっ
たのは陸の松平容保(会津藩主)、海の榎本武揚であっ
たと言われていますよね。その榎本武揚が、新撰組の
土方歳三らと立てこもり、最後まで奮戦したものの力尽き
た場所が五稜郭でした。もっともそれ以前に江差(函館の
西日本海側)を攻略するため回航した旗艦開陽が、戦う
前に嵐のため江差沖で座礁沈没してしまい、海軍としての
榎本軍は致命的な打撃を被っていた訳で、不得手な陸戦
では敗北は時間の問題だったようです。

そのような思いにしばしふけっていたのかどうか、実際
は石柱の前でぼんやりしていただけだと思うのですが、
一期後輩のI君が何を思ったか右手をいきなり突き出し
ています。

また石柱右側のインテリ風の男は岡山始まって以来の神
童と騒がれ、事情あって同志社大学に入学した同期のM
君で卒業後、地元岡山のT百貨店に就職し辣腕をふるった
とか。後日外商部の個人販売トップになり、地元新聞に掲
載されたこともありました。あの学者肌の彼が販売トップと
は同志社大学始まって以来の珍事と言えましょう。
北海道9
函館で、さっそく地獄のトレーニング開始です。
正面は一期下の麻雀マニアU君、左は石油屋のK君、後ろ
は広島出身O君の力走ぶりです。後方はへばっています。
北海道8
かなり、みなバテ気味です。後を力走中は2期後輩のS君
で、F1ドライバーの鈴木亜久里に似たイケメン好青年でし
たが残念なことに卒業後?、早逝されました。人の世は
何故このようにはかないんでしょう、あんなに元気だった
S君が・・。
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、あの日のことも夢の
又夢」とは・・・。
北海道41
北海道二日目だったか、洞爺湖畔でのキャンプ風景です。
部員全員これから地獄が始まるとも知らずに元気一杯で
す。宿泊前後で近くの昭和新山に立ち寄った後、目指す
は札幌です。
北海道30
札幌では北海道クリスチャンセンターでお世話になりまし
た。ここは当時我が自動車部OBで牧師をされている矢島
信一先生(写真中央)が主事として運営されていたところで、
左端の青い目をした方々は当日お手伝い頂いた宣教師の
ご家族だと思いますが、矢島先生の奥様は別のお仕事だ
ったのでお会いすることが出来ませんでした。

大勢が押しかけ、ただみたいな宿泊費(数百円)だったに
もかかわらず、笑顔を絶やさず応対をして頂きました。
大部屋でのザコ寝だったのでしょうが今では感謝あるのみ
です。
(後日追記:矢島先生は昭和41年に着任され昭和60年ま
で運営に携わっておられたようです。温和で優しいお方だ
ったのを忘れることは出来ません。尚、右の木造校舎の
ような建物は取り壊され、現在では立派なビルに建て替え
られています。)

余談になりますが、明治期アメリカの新教徒(プロテスタ
ント)は信者からの莫大な寄付金を惜しげもなく新しい日
本に投入しましたが、(主に教育としての大学設立と教会
建設、布教が目的)中々思うような成果が上がらず今日
に至っています。日本人特有の宗教観(何でもあり)もあ
って難しいです。
(関連記事:お尻だって洗ってほしい参照願います)
今回の遠征にしても各地に教会があれば、安く泊まれる
とかいう次元でなくもっと違った形になっていたようにも思
います。

札幌ではサッポロビール園に寄ってジンギスカンを食べた
か、食べなかったのか、残念ながら思い出せません。その
記憶がすっぽり抜け落ちていますので行かなかったので
はないかと思います。
ジンギスカンと言えば、義経伝説が有名ですよね。
史実では兄、源頼朝に追われた義経は幼少期を過ごし
た平泉の藤原秀衡氏を頼ってかくまわれるのですが、
程なく秀衡は亡くなってしまい源頼の報復を恐れたその
子泰衡が義経を自刃させ、事は収まるかに見えたのです
が結局はその後、頼朝により攻め滅ぼされます。
しかし判官びいきの東北人たちは、それでは気が済まず
義経は逃げ延びて竜飛岬のあたりから北海道へ渡り、
長躯モンゴルに至り、やがてジンギスカンとなったという
荒唐無稽なお話を作り上げたのです。事実竜飛岬近くに
義経寺というのが建てられています。

ついでながら、オーテス・ケーリ先生の故郷は以前にも
書いたように、札幌の北西海岸にある小樽で、戦前お父
さんが小樽で牧師をしていた関係で小樽で生まれ、小学
校4年頃までは小樽で過ごし、その後お父さんの仕事の
関係でアメリカに帰られ、長じてはUSマリーンの情報将校
として戦中戦後を通して日本と深くかかわりました。
戦中は捕虜収容所で日本兵の面倒を見、戦後はGHQで
天皇制を残すか、なくすかといったことを検討する部署で
重要な仕事をし、退役後は新島襄先生と交友のあった
ケーリ先生のお爺さんの代からのご縁で再び同志社大
学と深く関わることになる訳です。
ケーリ先生は奥様と赤ちゃん同伴で昭和29年頃、劣悪な
道路事情の中、愛車のジープを駆り京都~小樽往復旅
行!を敢行しているのです。北海道遠征の先達とも言え
ます。
(関連記事:今出川でのことvol.1参照願います)

この時の遠征では日程の関係で小樽には立ち寄りませ
んでした。当時は企画委員長I君もケーリ先生の生い立ち
について知らなかったので小樽がコースから外されたの
ではないかと思います。
ブルーバードP510
突然ですが、小樽といえば今回の5,000km走破とは関係
ないものの、映画「栄光への5,000km」でNISSANブルーバ
ードのサファリラリー挑戦と栄光を描いた我らが裕ちゃん
ゆかりの街でケーリ先生同様裕ちゃんも幼少期を小樽で
過ごした関係上、その死後平成3年に石原裕次郎記念館
が作られました。
遠征当時、裕ちゃんは現役バリバリでしたから、このよう
なことになるとは夢にも思いませんでした。
(詳細は今出川でのことVOL.1参照願います)
メルセデス300SL
ちなみに裕ちゃんの愛車はメルセデス300SLガルウイン
グで(ガル=かもめ ウイング=羽ですからその形状が
かもめに似ていることから跳ね上げ式ドアのことをガル
ウイングと言い、スーパーカー級のオクルマにしばしば
採用される方式です)その実物は、「栄光への5,000km」
に使用されたNISSAN-P510ブルーバードワークス仕様
車とともに、記念館で大切に保存されています。
北海道10
旭川経由で稚内、最北端宗谷岬を目指しますが、
下級生ばかり走らせるのは卑怯というもので、タバコ屋は
元キャプテンとして自ら範を示すべくどこまでも続く原野
を只今疾走中(あえぎ走り)です。
尚、この訓練は少し変わっていて、ある場所から突然、
ランニングの指示を出し強制下車をさせ、走行距離は知
らせずに部車が見えるところがゴールで、当事者にとって
は何km走らされるのか不安でたまったものではなかった
ろうと思います。
北海道39
途中立ち寄ったサロベツ原野です。皆さん大らかな表情
としぐさですが、数十年後には難しい顔して腕組みし、
部下に嫌われる上司に変身してしまうのですから、人生
不思議です。
北海道29
日本最北端という文字が見えるので宗谷岬での一コマ
でしょう。
普通なら強行軍でトレーニングも兼ねているので疲労が
溜まってきた頃ですが、若いと言うことはいいことですね。
皆元気そうです。一度しかないことですが。
ただ日本最北端だけあって、皆寒かったにもかかわらず
正面の日活スターだけは半ズボンで平然としています。
北海道23
最北端の宗谷岬に別れを告げ東回りで南下していきます。
網走到着です。二期後輩の、Y君、K君、T君、M君、KO君、
他懐かしい顔ぶれです。京美人、その他の地方美人も勢
揃いです。右端、赤いお洋服の京美人は京都の老舗和紙
店のイトハン、F嬢でこの日はややご機嫌が悪かったので
しょうか。彼女は前向きでとても明るく笑顔の絶えないレデ
ィで、私が行った遠征には、すべて彼女も一緒だったように
記憶しています。 カメラを持って前を横切ろうとしているの
はタバコ屋と同郷の一期後輩A君で松山北高校応援団長
出身という異色のナイスガイでした。

正面のヤーさんぽい男の左は同期生で姫路出身のSY君
で、誠実で骨っぽい好漢でした。彼に卒業時、色紙に書い
てもらった寄せ書きのコトバが忘れられません。曰く「人生
打算は禁物」と、実際は打算と後悔とトラウマの40年でした。

このブログによく登場するギーちゃんは、思い詰めた様な
複雑な顔をして何を思ったか、OKサインとか出しています。
それにしても後年このメンバーからは後方レンガ造りの建
物にお世話になった方はいないようで、老婆心ながらトテ
モ嬉しいです。
北海道25
霧の摩周湖です。正面に日活スターSU君、左手には深い
霧のように思い詰めた表情のギーちゃん(当時から考え
込むクセがありました)明るいキャラクターに似ず時々
ロダンの代表的な彫刻のモデルにでもなれるような憂い
に満ちた表情をします。青森出身で早逝の作家、太宰治
もこのような顔をして小説を書いていたと思われます。
チラッと二人の京美人が写っています。F嬢とS嬢です。

摩周湖といえば昭和41年、作詞:水島哲、作曲:平尾昌
晃により布施明さんが歌い大ヒットした「霧の摩周湖」が
有名ですよね。あの歌のおかげで摩周湖へ行くと何か
ロマンチックなことが起こるのではという期待を皆に持た
せました。少なくとも私には何も起こりませんでしたが・・。
北海道26
摩周湖の西隣、屈斜路湖畔とおぼしき水辺で早めの夕
食でしょうか。摩周湖が布施明さんで有名になってしまっ
たので屈斜路湖はかなり大きい湖にもかかわらず、割を
食って可愛そうです。
同期のN君、普段は品がいいのですが、この時はかなり
お行儀悪いです。左は同期の明石出身M君で卒業後は
三菱電機姫路製作所に奉職しました。タバコ屋は多分沖
縄か台湾系ですが、彼は北方系で色が白かったです。
工学部出身で秀才でした。

M君の後ろで食い意地が張っているのは一期後輩で石
油屋の若大将K君で、若い頃の勝新太郎に似ていなくも
ないです。黙っていれば迫力あるのですが、喋り出すと
とたんにひょうきんなキャラが出てしまう、憎めない人柄
で40年後の今は、某老人施設の理事長さんですから大し
たものです。

尚、食事の前には一定の儀式があり、当番が「黙想」と
言います。しばし沈黙の後、頂きますで始まり、最後も
「黙想」の後、ご馳走様でしたで終わります。コトバがいか
にもクリスチャンぽいですよね。

蛇足ながら、あだ名命名の天才S君によって、私はチャン
タと言うあだ名(短縮してチャン)を拝命しています。実母
がクリスチャンでしたのでチャンタかなと思われる方もいる
かと思いますが実態は、麻雀でよくチャンタをやらかした
のと、中華粥(チャンガユ)が好物だったためと推察されま
す。後輩のI君によりますと、ケーリ先生も家庭ではチャン
と呼ばれていたそうで、恐れ多くも奇遇な話ではあります。

ついでながら、専門用語として先輩に対し、有難うござい
ましたと言う時、省略して「アシタ」と言うのです。部外の方
にしてみればこの連中やたらアシタ、アシタと言うけど、
どないなってんのやろ~と思われるに違いありません。
北海道32
遠征はつらいことばかりではなく、しばしキャンプファイア
ーを囲んで楽しいひと時を過ごしました。阿寒湖畔だった
かどうかとにかく北海道は湖だらけで、覚え切れません。
この日は地元の子供たちか、キャンプ中の子だったのか
が遊びに来てくれました。確か別の場所から湖畔沿いを
オリンピック風に聖火を運んできておもむろに点火してい
るシーンだったと思います。

後方に写っているのは東広島出身(旧西条、酒所)で一
期後輩のO君で頑健な肉体と優秀な頭脳を持ち、持ち前
の体力でフィギュア競技等活躍し、キャプテンを務めた後
卒業後はその体力?を買われて故郷の東広島市に奉職
幹部職員として地域に尽くしました。昨年は元気すぎた
反動で大病を患い、九死に一生を得ています。無茶した
らいかんぞな、モシ。
隣にそっと寄り添っているのは何と後日奥様となる京美人
のS嬢ではないですか。あとで気付きました。
左隣のI君は若き日の自民党幹事長、石原伸晃氏に似て
いなくもないですが、その横の老舗和紙店のイトハンF嬢
と楽しくやっているようです。
北海道13
果てしなく続く道を釧路へとひた走ります。襟裳岬を経由
して日高でOBのMさんのご親戚が経営している牧場を目
指します。
トランクの中には、出発時リタイアした補給艦エルフから
急遽積み替えたプロパンガスとか所帯道具満載でしたが
そのようなそぶりも見せず、整然とした艦隊走行ぶりです。
北海道21
トラブル発生です。ポンコツ車を連ねての旅ゆえ、パンク、
オーバーヒートは日常茶飯事で、その処置の訓練が連日
出来るものですから、遠征最後頃には、皆プロ顔負けの
腕前になります。
北海道31
襟裳岬に到着しました。無邪気なのはいいのですが、寄っ
てたかって襟裳岬の石碑にへばり付いているのは、石碑
がかわいそうというものです。正面右に写っている白いポ
ロシャツを着た、チャーミングなお嬢さんは京都洛北出身
の京美人Sさんでつらい遠征にもよく耐え、笑顔を絶やさ
ない頑張り屋でした。

余談ですが、遠征後の昭和49年、作詞:岡本おさみ 作曲:
吉田拓郎 歌手:森進一のコンビで「襟裳の春」がリリース
され演歌歌手が歌うフォークということで大ヒット、その年
のレコード大賞を受賞しました。歌詞には襟裳の春は何も
ない春ですという風に歌われているようですが、我々が行
った時は曲が発売される以前ではあったものの、そこそこ
何でもあったように思います?。
北海道27
野営の風景です。北海道はオートキャンプ場とか、かなり
整備されつつあり、道端で野宿というケースはあるにはあ
りましたが少なかった?と思います。こういう時は、先輩か
ら頂いた佃煮がいつも出て来たりして閉口しました。
OBにカレーメーカーの社長でもいてくれたらと思ったりしま
した。
それにしても野郎はどうにでもなるにしても、うら若きお嬢
さんたちは、お風呂とかその他デリケートな事柄をどのよう
に乗り切ったんでしょうかね。根性あります。
北海道19
いよいよ日高の牧場到着です。同期の明石出身M君と同
じ名前の牧場で、異国情緒溢れるたたずまいでした。
北海道20
競走用のサラブレッドです。タバコ屋の島には馬はいませ
んので、松山の動物園で子供の頃見て以来の出来事でし
た。 ちなみに馬は人なつこく、鼻がマシュマロみたいに柔
らかくて可愛いのですが油断大敵すぐに噛み付くのです。
それがまた半端でなく痛いです。
北海道33
北海道も残すところわずかとなってきました。室蘭近くの
登別温泉です。20日間の長期にわたる北海道遠征は
ある意味地獄でしたが、ここの温泉地獄はそこまでには
感じませんでした。
北海道34
旗艦スカイライン2000GTは5,000kmに及ぶ遠征での酷使
によく耐え、ほとんどノントラブルで走破しました。
同志社大学体育会自動車部の文字とクラブコードの205
が誇らしげに写っています。
やがて北海道に別れを告げ、裏日本をひた走り一路京都
を目指します。
北海道6
直江津に近い長浜というところの廃校になった小学校を
お借りすることが出来、寝ぐらが確保出来たので、さっそく
トレーニングです。確か腕立て50回、そのあと腹筋100回と
かやらせたような。
北海道7
まったくけしからん写真で、地元の教育委員会さんに見つ
かったら即刻、宿泊許可を取り消されそうなシーンです。
金次郎さんすみません、タバコ屋も共犯です。
北海道6-1
出発前のミーティングでしょうか。私は時計を見ながら何
か指示をしているようです。旗艦のスカイライン2000GT、
ウォーミングアップ完了、スタンバイです。
北海道4
親不知(おやしらず)での写真です。前列右のアンチャン
ぽい男は、このブログでたびたびご登場頂くギーちゃん
です。彼は神戸っ子で、法学部出身だったのですが、何
を思ったか兵庫県警の警察官に奉職されました。

毎度のことながら、最上段で両手を広げている不届き者
は、ギーちゃんの命名者S君です。正面、岡山の元神童
M君は直立不動で妙にかしこまってます。

余談になりますが、ここ親不知が代表的な風景の一つで
ある日本海と言えば、暗く裏寂しいような印象を与えます
が、明治の時代になるまでは阪神~函館間のメイン航路
として栄え、千石船が頻繁に行き来していました。
東日本よりも、裏日本のほうが南北流通経済の中心だっ
た訳です。司馬遼太郎さんの小説「菜の花の沖」は高田
屋嘉兵衛という一人の冒険商人の人生を描くことでその
華やかな歴史的事実を語っています。

大阪からは瀬戸内海、日本海経由で、諸製品(味噌、醤
油、日本酒はもちろん木蝋や菰(コモ)といった生活資材
や古着、食器といった身の回り品に至るまでが、港々で
取引されつつ函館に至り、北海道からはニシンが大阪に
運ばれ、それが綿栽培、菜種栽培の金肥として使用され、
木綿、菜種油の普及に繋がってゆくという壮大なドラマが
展開されたのです。

その立役者であった高田屋嘉兵衛が絶頂期の頃、当時
シベリアから南下し北海道近辺まで出没していたロシア
海軍の一部の狼藉に対し、幕府はゴローニンという船長
を拉致監禁するのですが、その報復として丁度択捉あた
りを航行していた嘉兵衛の船がロシア海軍よって不当拿
捕されカムチャツカに連行されます。
その後の数奇な運命については小説をお読み頂くにして
も、函館を拠点にした彼の活躍によりニシンの商品化を
始めとする蝦夷地の海産物開発が飛躍的に成し遂げら
れた訳です。江戸時代後期、やがて尊王攘夷のキナ臭
い時代が始まる少し前のお話です。

現在函館には彼の銅像が建てられていますが、遠征当
時はそのことを知る由も無く、立ち寄りませんでした。
北海道37
うしろに天嶮茶屋みやげ品とか書いた看板があるので、
おそらく親不知(日本屈指の険しい場所で天嶮とも呼ば
れています)のドライブインで出発前「残りも少ないんや
から、油断せんと気合入れて行け、とかなんとかクドクド
言っているシーンです。お嬢さん達は、はよして~な、
おしっこ行きたいのに、といった風情で腰が引けてます。
北海道2
北陸から、美濃路に入り、飛騨市の流葉でドライブインを
経営されているOBのMさんご夫妻(部内結婚)のところへ
立ち寄った時の写真です。バックにドライブイン流葉の文
字が見えます。こちらでは随分ご馳走になったような記憶
があります。いくら可愛い後輩達が訪問したとは言え、
かなりなご迷惑をかけてしまった記憶があります。
北海道36
最後は記録によると飛騨流葉(ながれは)で泊まったよう
なのですが、多分その時の一コマです。ここまで無事に
帰って来れた満足感に浸っているのか、単に疲れただけ
なのか、タフなS君やギーちゃんも心なしかお疲れモード
です。
翌日、長かった遠征も終わりを告げ、数々の思い出ととも
に無事、ゴールの京都に帰り着きました。

今回の遠征記は手元に残っている古ぼけた写真を頼り
に断片的な記憶を繋ぎ合わせたものなので、遠征の行
程を正確にトレース出来てはないことをご了解頂きたい
と思います。
また、初回掲載時には行程等の記憶違いが多々あり、
同期のS君やM君、ギーちゃん、後輩のO君、I君らから
いろいろ当時の情報を頂き修正加筆となりました。
有難うございました。
尚、ギーちゃんはクラブの残務処理かなにかで参加が遅
れ、日本海フェリーで舞鶴から小樽へ直行、途中からの
遠征参加だったということを後で思い出しましたが、余計
な費用を使わせ申し訳ないことをしたと思っています。

(後記)
出発早々、補給艦エルフが栗東で立ち往生するなど重大
な車両トラブルがあったものの、それも北海道での故障で
あれば大変な事態になっていたところでしたが、不幸中の
幸いでした。
それ以外では大きな事故もなく20日間に及ぶ長期の東北
・北海道遠征を完遂出来たのは、参加部員全員が心を一
つにして助け合った賜物と思います。また京都や各地在
住のOBの方々のバックアップもありました。
更に言うならばこのような長期遠征への参加を許して下さ
った部員のご家族の理解も大きかったと思います。
40年後の今でも皆さんに感謝あるのみです。

(尚、余談の記述の一部は司馬遼太郎さんの「街道をゆく
 :北のまほろば」その他著書を参考にさせて頂きました)

神様とリムジーン

平成24年10月15日
島の秋祭りも7日に終わりました。
祭りというのは祀りとも書き、祀りごとは神道の大切な行
事でもあります。秋の祭りはおもに豊穣な収穫を祈念し
たり、またその収穫に感謝するものですが、それにつき
ものといえばお神輿(みこし)ですよね。
神輿
神輿の起源は諸説あるようですが、わかりやすいのは
奈良時代、聖武天皇が東大寺を建立した時、九州大分の
宇佐八幡神が屋根に金色の鳳凰が輝く輿に乗って奈良
まで応援に駆けつけたという伝説話でしょうか。
つまり神輿というのは神もしくはそれに最も近い御霊、
ご神体、天皇?が乗る専用ノリモノということです。
秋祭りには欠かせない神輿ですが、では何故村町を練り
歩くのでしょうか、それは地元の宮司さん(忽那島八幡宮)
にお聞きすると、秋祭りの際には普段引きこもり気味の神
様(御霊、みたま、ご神体)を引っ張り出し、神輿に乗せて
家々を家庭訪問(行幸)し、氏子さんと親しく交流するのが
目的だそうです。
もっとも目的をややゆがめて、村同士のケンカ競技として
壊れるまでぶつけ合ったり(鉢合わせ)、川や海へ投げ込
んだりして荒ぶる神を鎮めるというヘンな解釈がされ、
それが見る方は面白いのでイベント化され、近年は観光
行事の目玉になったりしています。
鉢合わせ
それと言うのも神輿のかき手(輿守)は神聖な酔っ払いで、
その日は無礼講みたいな伝統もあり、それがエスカレート
していったのかも知れません。村の若い衆のエネルギー
の吐け場ということもあったでしょう。もっとも島は輿守さえ
もいなくなりつつありますが。

高貴なお方が乗るノリモノといえば、タバコ屋のイメージと
してはリムジーンが思い浮かびます。それも天皇が記念
式典等に参列される時に使用されるお召車(ロイヤル
リムジーン)です。近年は結婚式やお葬式でもよく使われ
るようですが、目的からしてあまり感心する使い方ではな
いと思います。

リムジーンの定義は運転席と客室が仕切られていて、運
転はお抱え運転手(専門語でショーファーと言います)が
するような高級なオクルマということですが、それにロイ
ヤルが付くとそれ以上に高級で格式のあるものとなる訳
です。

ロイヤルリムジーンの本場と言えば何と言っても歴史と
伝統のある英国の、しかもロールスロイスでしょう。
ロールスロイスの創業は、気が遠くなるほど古く、明治の
終わり頃、1906年に販売の上手なロールスと製造の得意
なロイスが一緒になり、ロールスロイス社としてスタートし
ました。
高級高品質な車を作りつつ、やがて日本の中島飛行機の
ように航空機エンジンの製造も手がけるようになり、英国
を代表する高級車及び航空機エンジンメーカーとなりまし
た。
その間、シルヴァーゴーストやファントムといった高級車
を作りつつ、昭和6年にはスポーツカーメーカーのベント
レーを吸収し、フォーマルカーはロールス、スポーティー
カーはベントレーのブランドで販売しました。

余談ながら、私の高校の先輩で俳優、エッセイスト、監督
と多才だった伊達者(イギリス語でダンディとも言います)
の伊丹十三さんはブリティッシュグリーンのベントレー・
カブリオレ(幌付きオープンカー)を愛用していました。
尚、実物をご覧になりたい方は松山市の伊丹十三記念
館に保存されていますのでどうぞ。

第二次大戦中は航空機エンジンが主力でスピットファイ
アやアメリカのP51ムスタングに搭載されその優秀性を
世界に証明し、ロールスロイスの名声は不動のものとな
りました。
戦後は一転、他のイギリスメーカー同様、技術革新に乗
り遅れ、苦戦をしいられ、程なくして経営破綻した後、
国有化されたり紆余曲折の後、平成15年以降、ロールス
ロイスはBMWが、ベントレーはVWが買い取り、製造販売
を継続することになりました。言い換えればイギリスの名
門がドイツに乗っ取られた訳ですが、実態はドイツに救済
してもらったというほうが正確です。
シルバーシャドウ
タバコ屋世代が知っているロールスロイスといえば、昭和
40年にリリースされたシルバーシャドウです。V8-6.3Lエン
ジン、四輪独立懸架、四輪ディスクブレーキ等のメカを始
め、ボディも従来の古式ゆかしいイメージから一転、革新
的でモダンなデザインを採用し、当時のロールスロイスの
代表車種となりました。
ブリティッシュの品の良さが香り立つようなこの車はそれ
なりの成功を収め、世界の皇室や富裕層に愛用されまし
た。ホワイトリボンタイヤ、メッキのバンパー、二つのオー
バーライダーなどが何か懐かしいですよね。
ドイツメーカーに吸収されるよりもずっと以前、ロールス
がまだ元気だった頃のお話です。
ロールス6
BMW社が開発を手がけ、平成21年にリリースされた新世
代のロールスロイスの主力車種であるゴーストです。
これにより、現代流のモダンなデザインと高品質を手に入
れました。ただ、ロールスのDNA(モチーフ)は上手に残さ
れているものの従来持っていたイギリス車独特の繊細な
香りは失われてしまい、ワールドスタンダードないわゆる
現代的高級車デザインとなりました。

チーフデザイナーはイアン・キャメロンで、一つの鉄の塊
を一定のテーマで形に造形するというセンス(塊感の表
現)においては彫刻民族の伝統を持つだけあって、線と
面の伝統しか持たない日本人にはなかなか真似の出来
ないカタチです。
タバコ屋はこのオクルマを購入出来るような身分ではあり
ませんが、デザインに限って言えば大変お気に入りです。

スペックは伝統的にあまり公表しない主義のようですが、
全長5.4mの堂々たるボディに、V12-6.6L!のエンジンを
載せ、十分な性能と乗り心地を保証していると言うに留め
ておきましょう。
ベントレー2
一方、VW社の手がけたベントレーコンチネンタルGTです。
これも排気量6000ccのお化け車にて、タバコ屋を含む一
般庶民には縁のないものです。株で一儲けした人が乗る
と似合いそうなアクの強いオクルマですよね。こういう車
が後に迫ったらサッと避けるのが得策です。伊丹さんが
乗っていた頃のベントレーとは随分違うものになりました
が、時代の要請をカタチにしたらこうなったのでしょうから
仕方がないことです。
ミニといい、ロールスといい落日の英国がドイツによって
蘇生される現実を見るにつけ、第二次大戦の勝敗とは逆
現象となりつつあるのは皮肉な結果です。
ロールスロイスファンタムⅥ
日本のことです。皇室はお召車(ロイヤルリムジーン)と
して長い馬車の時代の後、戦前戦後にかけてデイムラー
、メルセデス、キャデラック、ロールスロイス等を使用して
来ましたが、それら一連のお召車の中で戦後のロールス
ロイス・ファントムVがそれらしくもあり、わかりやすい車だ
と思います。
写真はロールスのフラッグシップであったファントムⅥ
(Vの改良型)で、このような格調に満ちたオクルマが似
合うのは、皇室のやんごとなきお方か葉巻をくゆらせた
宰相吉田茂氏みたいな人でないと役負けしますよね。
吉田茂ロールス
ズバリ吉田茂元首相が戦前に乗られていたロールスロイ
スです。日本でもっとも有名で、ロールスらしい一台かも
知れません。
この押し出しの強いパルテノン神殿のようなお顔がある
意味ロールスロイスのトレードマークで、この高貴なモチ
ーフはBMW製となってからもデフォルメして継承されてい
ます。
ロールスマスコット
モチーフと言えば、ロールス・ロイスのラジエーター頂点
に立つ羽根を広げた女性像は、「スピリット・オブ・エクス
タシー」(Spirit of ecstasy) という名の精霊だそうで、ロー
ルスの広告イラストを手がけた画家チャールズ・サイクス
によってデザインされたものです。この辺が日本車では
真似の出来ない何かがあるのです。
ロールスエンブレム
またロールスロイスのブランドロゴはRを二つずらせて重
ね合わせたものでシンプルかつ個性的なGOODデザイン
だと思います。ロールス君とロイス君の仲良し会社という
イメージでしょうか。

ついでながら、このようなオクルマには、本物のウッドと
レザーがよく似合う訳で、ヨーロッパでは長い歴史と伝統
により高級車に上手に取り入れられて来ました。
車内に入ると、木の香り、皮の香りに包まれ、否が応でも
高級な気分に浸るという寸法です。残念ながらNIPPONは
絹や漆の文化だったので、ジドウシャというものには中々
NIPPON文化の注入が出来ませんでした。
しかし、精巧なコピーを作るのはお家芸であったので、
ウッドそっくり、レザーそっくり、メタルそっくりという技術を
磨きに磨き、今では逆にその技術を世界が真似るという
逆転現象が起きました。でもホンモノはいつになっても良
いものですよね。
キャデラックエルドラド
ついでの余談ながら、タバコ屋が同志社大学自動車部に
在籍中、大坂ミナミで手広くPACHINKO業とかやっていた
OBのN先輩が、トワエモアのようにある日突然、黒塗りの
キャデラックで(多分写真のエルドラドだったと思います)、
今出川北の当部ガレージに乗りつけ、これからミナミまで
運転していく奴、いてへんか~。(まるでヤ~さんでしょう)
ミナミ来たらスキヤキおごったるで~。タバコ屋は当時飢
えていましたので、皆がヤバイと尻込みする中、とっさに
手を上げてしまいました。授業予定をほったらかしてです。
当然道などわかりません。若気の至りでしたが、その当時、
京都市内はまだ路面電車が走っていて、走行時その停留
所にぶつかるんじゃないかと思ったくらいキャディーの車
幅は広かったと記憶しています。
もし男女が2人で乗った場合は、お話以外のことでも十二
分に出来る広さでした。当時は食い気一方でしたのでその
日の夜のすきやきライフを堪能したのは言うまでもありま
せん。ミナミの赤いネオンが寝苦しくはありましたが・・・。

蛇足ながら今はキャデラックとかパッとしませんが、当時
は先進メーカーで現在では当たり前となった自動車技術
例えば、ATミッション、独立懸架サス、エアコン、パワステ、
セルモーターなどの技術は全てキャデラックが開発したも
のなんですヨ。

もっとも、今こんな車に乗っていたら、精神状態を疑われ
るかも知れません。キャデラックもガソリン垂れ流しのデ
カい車を作りすぎた反省があって最近は随分ダイエット
したフツーサイズの高級車を作るようになりました。
トヨタ2000GT
ちなみにそのN先輩というのは上記ウッドとレザーの本物
を国産車で初めてまともに使用したTOYOTA2000GTとい
うスーパーカーをお持ちでした。スキヤキの翌朝、家を辞
する時、近くで眺めてその白いボディをソッと撫でただけ
でしたが。
先輩はラリーにも熱心でサファリ優勝のブルP510を改造
して盛んに競技に出ていました。残念なことにその後競技
中か何かの不慮の事故でお亡くなりになったと聞いてい
ます。TOYOTA2000GTについては、またいつかの機会に
書いてみたいと思います。

話をロイヤルリムジーンに戻します。
しばらくはそのような時代が続いた後、自動車産業の急
成長を受け、国産のお召車を開発しようという機運が高
まり、宮内庁で検討の結果、当時の皇太子明仁様が長
年プリンス車を愛好されていた関係上、プリンスに開発
が指示され、日産との合併直後、日産プリンスロイヤル
として納車されました。
ロイヤル
仕様は非市販車で別注品とは言え、桁外れのもので、
排気量6400cc、全長は6m以上、車重は防弾対処などに
より3.4トンもありV8-OHVエンジンによりスピードよりも
パレード走行等、長時間の連続低速運転に耐えられる
ように工夫されました。
車体の特徴はシックスライトと言ってサイドガラスが左右
で6面(片側3面ずつ)あることで、高級車を設計する場合
のお決まり作法でした。また後ドアは侍従とかが開け閉
めする時便利なように観音開きとなっており、写真では
見当たりませんが本来は左右後ドアとリアボンネットに
菊の御紋章が付きますが、これは恐らく納車前の写真で
あろうと思われます。
7台作られただけなので、価格は公表されていませんが、
恐らく今のお金で1台数億円のしろものだろうと想像され
ます。フ~。
センチュリーロイヤル
日産プリンスロイヤルは長年愛用されましたが、老朽化
が進み、平成18年からは初めてトヨタ車の採用となり、
センチュリーロイヤルが4台納品されました。全長6.1m、
車重3トンとややコンパクトとなりV12エンジンを採用して
より静粛でスムーズな走行が出来るよう工夫されました。
外観のしつらえは日産プリンスロイヤルと同等の作法が
採用されています。
何はともあれタバコ屋にはまったくご縁のない坂の上の
雲の、そのまた上のことがらです。

秋祭りの話に戻ります。
今年、島のタバコ屋は頭取という役が当たり、神輿に同
行して氏子の家々で神饌(しんせん=神様へのチップ)
を頂く集金係となりました。
祭り10
拝殿にて、神輿のそろい踏みです。輿守さんもまだ元気
一杯です。実際は子供神輿もありますが入りきれないの
で外で待機です。
祭り2
宮出し前に宮司さんよりお払いを受けているところです。
お払いの後、御霊(みたま)を神輿の中へ入れる神事が
あります。
祭り3
いよいよ宮出しです。手前の注連縄(しめなわ)はいわゆ
るスターティングゲートにあたり、勢い良く切って下さいと
宮司さんに言われました。
祭り4
途中お旅所(おたびしょ)に寄って、巫女さんの舞や玉串
奉奠等の神事があり、神輿の無事帰還を祈ります。
祭り5
見物ギャラリーへのサービスでお餅投げもあります。
タバコ屋が子供の頃から最も好きな行事の一つです。
もっとも拾うよりも投げるのが好きでしたが。
祭り6
いよいよ家々をまわり、ご当主、家族に神輿の下を潜っ
てもらい、無病息災をご祈念します。(日本人の宗教の
面白いところで神道だろうが仏教だろうがその場に合わ
せて何でもありです)
祭り8
家の中にまで神輿を入れて、大サービスです。畳を破っ
てしまわないかと頭取は生きた心地がしませんでした。
お仏壇の右に祭壇のしつらえがありますが、これはお伊
勢信仰のならわしで、毎年違う家にお伊勢宿というのを
引き受けて頂き、近所の皆さんがお参りするというもので、
言ってみれば伊勢神宮中島出張所ということなのです。
しかし受けた家は忙しく、毎朝海岸に行き新しい海水を
汲んできて神前にお供えしなくてはなりません。

タバコ屋も5年ほど前にお引き受けしたものの慣れぬ事で、
かなり戸惑った記憶があります。写真は地元中島汽船の
船長を長くされていたご当主の河野さんと奥さんです。
祭り7
数十軒回ると大分へばってきて、本来神輿は担ぐもので
すが、台車にのせてダンジリのように綱で引っ張ってい
ます。これから坂道で、女性の輿守も頑張っています。
祭り8
完全にバテバテ状態です。約300m先に目指す家があり
ますが、見事辿り着けますかどうか。
祭り7
お子様といっしょに神輿の下を潜っているのは、今年か
ら中島に住まれることになった、女医師の梅ちゃん先生
ことTさんです。広島のふるさと発掘師O氏が名づけた
元町医者先生の洋館建て、通称ホワイトハウスを買い取
り、来年から開業されるそうですが、この過疎の島におい
て、その使命感といいますかタバコ屋も完全脱帽です。

蛇足ながら彼女は私の有機農業の師匠で、しょうがおじ
さんことI氏のご親戚のお嬢さんだとか。
中島の梅ちゃん先生頑張れ!!。
祭り9
これ以降も神輿の巡幸は延々と続き、目指すはこのゲー
トでこれをくぐり、山上の拝殿まで行って神輿を収めれば
ゴールです。
祭り9
当日、宮入りは明るいうちにという建前でしたが、実際は
真っ暗になってしまい、フラフラ状態でのゴールでした。
頭取は、空きっ腹にて神の飲み物である米のエキスを各
家々でよばれたものですから吉田拓郎の「旅の宿」状態
となり、酩酊状態での宮入りとなりました。
慣れぬこととはいえやや苦い結末となりましたが、何とか
辿り着けたことを良しとすべきでしょうか。


復刻と改造

平成24年10月4日
TV番組の「大改造!!劇的ビフォーアフター」は、朝日
放送が、平成14年から開始し、所ジョージを司会者に起
用、大ヒットした番組で、いったん終了したものの根強い
人気で現在再びカムバックして放映中ですよね。
この番組、島のタバコ屋のお気に入りTVでもありました。
最近はあまり見ないですが・・・。
ビフォーアフター
当時、この番組はとても斬新だったと思います。古くなっ
てどうにも住みづらくなった家、狭くてどうにもならない
家をと呼ばれる建築士がリフォームを実施するという
のが主な内容ですが、タバコ屋は斬新な企画が面白くて
毎回見ていたような記憶があります。

斬新さの第一はまず現状の家の模型を用意し、いろいろ
改造内容を予想しながら話が進行するという点です。
非常にわかりやすいですよね。
実際大手のハウスメーカーは別として何千万円もかけて
家を新築する場合でも図面だけの説明で立体的な構成
がわかりづらく、出来た後で想像と違っていたというよう
な経験をお持ちではないですか。私はあります。

第二は予算がきちんと守られるという点です。実際の場
合はなかなかそうはいきませんよね。こちらの希望を通
したらかなりの増額になったとかいうケースが多いので
はないでしょうか。

第三は進行やナレーションがすばらしく江口さんはもとよ
り、声だけの加藤みどりさん(TV漫画サザエさんのサザエ
の声役)の「何ということでしょう~」というフレーズは「何
ともいえない?」新鮮な驚きを表現していました。

ちなみにビフォーアフターという言葉は社会現象ともなり、
平成15年の流行語大賞の中にも選ばれました。
それ以来、古民家の再生とかアンティークな機械とかの
修復ブームが起き、また直接関係はないでしょうが、
別のTV局の人気番組「開運!なんでも鑑定団」とかでも、
古いものに込められた物語性やその秘められた価値が
見直されている今日です。

さてオクルマのことです。
欧米ではジドウシャ文明に突入してからの歴史が長いの
で、自分の車を改造したり、古いクルマ(旧車と言います)
を復刻、修復したりすることが趣味として根付いています。
またそのマニア(業界語でエンスーとも言います)ごとの
集まりがあったりして、一種の同好サロンの様相をなして
います。要するにビフォーアフターのオクルマ版としての
世界があるのです。タバコ屋の分類では
1.チューニング派・・・ひたすら性能向上を追い求めるヒト
2.ドレスアップ派・・・内外装の個性化と美化をめざすヒト
3.レストア派・・・・・オリジナルの原型復元にこだわるヒト
(リフォームに対しレストアとは専門語で復刻、修復の意
味)分類が簡単でないのは、その3つがからみあう場合も
あることです。
オースチン7
それでは実例を、ご覧頂きましょう。(加藤さん風です)
このオクルマは大正時代から昭和の初期にイギリスで
生産されたオースチン7(セブン)で、いってみれば日本の
初代TOYOTAカローラのような大衆車で、アメリカの大量
生産車第一号T型フォードほどではありませんでしたが、
イギリスで最初に大量生産に成功した車種でした。
水冷4気筒747ccのかわいいエンジンを搭載して、当時の
イギリスを席巻した記念すべき車でもあります。
この写真はフルレストア(完全復刻)されたオースチン7
です。大正、昭和初期の車の復刻など、交換のための
パーツがある訳でもなく、気の遠くなるような話ですが、
イギリスなど欧米ではそれをコツコツ自前で修復し自走
出来る状態に復元する文化があります。

それを日本に紹介し、また自分でもレストアを実践したの
が、タバコ屋をはじめ団塊の世代のエンスーが愛読した
専門雑誌カーグラフィック(CG)の元編集長小林彰太郎
氏でした。物好きというか、エンスーの元祖です。
また彼は日本初の本格的カージャーナリストでもあり、
その後姉妹誌NAVIも発刊し、ハードの記事はCG、ソフト
っぽい記事はNAVIが担当しました。

ついでの話ですが、このブログでたびたび登場する広島
出身のイラストレーター渡辺和博さんは、NAVIに漫画や
エッセイを連載していて、島のタバコ屋はそこで知り、
世の中にはおもしろい方がいらっしゃるもんだと思って
いました。
私が同志社大学自動車部で1回生の時、仲良しだった
広島出身のY君(通称ダルキ君)とよく似た体温で、それ
は伊予言葉で言う「よもだ」感覚の持ち主だと感じました。
彼が発明したマルビ、エンスーなどというコトバはあまり
にも有名ですよね。
残念なことに彼は平成19年、悪性の病気のため亡くなら
れました。もっとも、マルビという言葉はいまの若い世代
には通じなくて彼らはマルビのことをボンビー?と言うそ
うです。

人気雑誌だったそのNAVIはやがて廃刊となり本家CGも
若者のオクルマ離れにより従来の様には売れなくなり、
たそがれを迎えているようです。時代は変わりつつある
のです。
ミニ1
セブンで大成功を収めたオースチン社は、その後順調に
発展し、やがて天才設計者であるアレック・イシゴニスに
よるオースチン・ミニが誕生、その革新的な設計により
世界中の自動車メーカーをアッと言わせました。メカは
最小、乗員スペースは最大というコンセプトは、日本の
HONDA-N360をはじめNISSANチェリー等に多大な影
響を与えました。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.2:スカイライン2000GT参照
願います)

ミニクーパーS
モンテミニ
尚、ミニの高性能版ミニ・クーパーSはラリーでも大活躍
し、雪と氷のモンテカルロラリーで昭和39年、40年、42年
と3度の優勝を果たしました。そのうち42年のドライバー
はその後NISSANのワークスドライバーとしてフェアレディ
240Zを駆り、後輪駆動車では不可能と言われた奇跡の3
位入賞を果たした天才ドライバー、ラウノ・アールトーネン
でした。
モンテZ2
彼の操る240Zです。彼は当時コーナーの魔術師と呼ばれ
きついコーナーをスピンターン(サイドブレーキターン)と
呼ばれる高度なテクニックを駆使して、スライドしながら
最短距離で抜けていきました。

余談になりますが、大きくなりすぎたオースチン社は他の
イギリス自動車メーカー同様戦後の日本、ドイツメーカー
の技術革新について行けず、昭和50年代後半からは
ローバーとの合併やオーナー変更等を繰り返し、日本の
HONDAが初代レジェンドを開発する時にはそのパートナ
ーとして、技術提携していた時期もありました。
レジェンド
HONDA渾身の作、初代レジェンドです。島のタバコ屋は
アコードハッチバックに乗ったあと、無理してこのクルマを
購入しました。
各部のデザイン、ドライビングフィールは当時の日本車
離れしたヨーロッパの香りがしました。オースチンローバ
ーとの提携で出来上がった車だったので、なるほどという
気はしました。
レジェンド
その後タバコ屋は二代目のレジェンドにも乗りましたが、
これは主な売り先がアメリカだったのでアメリカ人好みに
振られていて、初代から比べると全体にやや大味な感じ
になりましたが、塊感のあるシンプルなデザインがお気に
入りで結局20年も乗るはめになりました。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)
ミニ
オースチンローバー社は最終的に立ち行かなくなり消滅
することになるのですが、ミニのブランドのみはBMWに買
い取られ、やがて現代のミニとして復活し再び大人気と
なりました。テイストはミニそのもので、メカは信頼性のあ
るBMW製ということで、ある意味このミニも壮大な現代版
復刻(レストア)物語と言えるのではないでしょうか。
フェアレディZ2
話は飛びますが、フェアレディZのことです。初代Zは世界
中で(おもにアメリカですが)爆発的な支持を受け、日本
車の評価を飛躍的に高める原動力となったわけですが、
その理由はロングノーズ、ショートデッキのいわゆるカッ
コいいスタイル及び思い切り良くスパッと切り落とした
リアエンド(コーダトロンカと言います)の処理、また贅肉
を落としシェイプアップされたボディの斬新なデザイン
が受けたのです。
またPORSCHEに対抗し得るパワフルなエンジンやしな
やかな足回りを備え、しかもポルシェの半額で買えると
いう魅力的な価格によるものでした。
しかしその後、徐々に市場のニーズに合わせるという名
目でヒマンタイ化していき、最後は豪華なお座敷GTカー
となりました。その間Zが失ってしまった安くてカッコ良く
高性能というニーズを満たす車として、MAZDAミアータ
(日本名ロードスター)やRX7等が躍進し、最終的にZは
生産休止となりました。
フェアレディZ
近年、その初代フェアレディZのコンセプトを生かした現代
のZをということで新しいフェアレディZがリリースされまし
たが、タバコ屋の期待を大いに裏切るものでした。
多分初代Zの開発に深くかかわった、片山、松尾、両氏も
同じ思いでしょう。
(関連記事:荒ぶる心 VOL..2:フェアレディZ参照願い
ます)

要するにデザインがダルくて重いのです。復刻を謳うので
あれば、初代のように簡潔で自己主張があり、もっと軽快
なデザインにしてほしかったのです。
スポーツカーにとって最も大切なことは、性能云々はとも
かくデザインが躍動的で美しいということだと思うのです。
復刻版のZは存在感がありこそすれ美しいとは言えませ
ん。タバコ屋が購入を断念した理由もそこにありました。
Zデザイン3
Zデザイン2
ご参考までに、開発途中でのデザイン案の一つです。
最終製品よりこちらの方がよっぽど躍動感がありバラン
スも良いと思いますが、皆さんはどう思われますか。
欲を言えば、これでもう少しお尻回りをダイエットした形
で発売されたら、タバコ屋も購入を真剣に悩んだかも知
れません。

オースチン・ミニの現代復刻版の成功を見るに付け、Zの
現状が残念でなりません。現在NISSANのチーフデザイナ
ーは、いすずから移籍した中村史郎氏だと思うのですが、
その方にも責任を取ってもらいたいほど、タバコ屋の無念
さをお察し頂きたいと思います。

タバコ屋の独断と偏見では、世界のデザイナーでまとも
なのはジウジアーロ氏と松尾良彦氏のみであとは「私の
お気に入り」ではありません。
半ばボヤキになりますが、日本人がデザインするとどうし
てこうもヤボッたくなるのでしょうか。ヨーロッパとの歴史
の差と言えばそれまでですが。復刻は成功するとは限ら
ないのです。NISSANのゴーンさんには申し訳ないですが
事実です。
平尾ギャラン
ラリーと言えば、同志社大学自動車部でタバコ屋と同期
だったH君は学生時代3度のメシよりラリーが好きだった
ラリーオタクで、最初マルビの頃は初代カローラを皮切り
に、その頃から力を付けつつあったミツビシ車に傾倒して
いき、ラリー用に改造したギャランを駆ってあちこちの競
技会に出場し腕を磨きました。
彼は分類で言うと多分1のチューニング派で外観より何よ
り性能アップを目指していました。写真は彼が他大学主
催のナイトラリーに出場し初優勝した時の写真で、外観
はフツーですが、エンジン、足回りはかなり本格的に手が
入っていました。
ギャラン
写真は当時のギャラン1600GSです。エンジンは1600cc
DOHC4気筒で足回りは4輪独立懸架でした。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.2:チェリーX1参照願います)

蛇足ながらギャランのデザインは当時としてはモダンで、
基本デザインはいすず117クーペをデザインしたジウジア
ーロ氏の作品でした。
ギャランラリー車
昭和47年オーストラリアのサザンクロスラリーで優勝した
ミツビシ・ワークスギャランです。ドライバーはアンドリュー
コーワンでした。丁度同じ年、NISSANはフェアレディ240Z
でサファリラリーに優勝、日本車が世界に向けて最も輝き
始めた時代でした。
ランサーWRC
その後ずいぶん後になりますが、ミツビシはランサー
エボリューションで本格的に世界ラリー選手権(WRC)に
参戦し平成10年には悲願の世界チャンピオンとなります。
その基礎がギャランの時代に出来つつあったということ
です。
パジェロ4
余談ですが、ミツビシのラリーイメージとしては、WRCより
もパジェロでのパリ・ダカールラリーへの挑戦だと思いま
す。昭和60年以降10数回に及ぶ優勝、また日本人ドライ
バー篠塚、増岡選手たちの活躍は記憶に新しい所です。

ミツビシのエース篠塚健次郎選手は挑戦12回目にして
平成9年初優勝しました。写真は平成15年2年連続優勝
を遂げた増岡選手の力走です。

どうでもいいことですが、篠塚選手と三浦友和さん(山口
百恵さんの旦那)は従兄弟で近い親戚です。
SUBARUB4
続いてこのオクルマは日本が誇るクルマテクノロジーの
粋の一つであるSUBARUレガシィB4-RS30です。
オーナーは同じ同志社大学自動車部の一期後輩で北海
道遠征のプランナーI君です。同級生からは何故かヘー
タ君と呼ばれているらしいです。
彼は分類でいうとチューニングとドレスアップ両方派だと
思うのですが、その愛車のスペックをご紹介致しましょう。
ベースは平成10年頃?のRS30で、エンジンは水冷水平
対向(BOXER)3L-DOHC6気筒、駆動方式は4輪駆動で
足回りはストラットコイルとマルチリンクを前後組み合わ
せたマニアックな仕様です。
最大の特徴はエンジンで、ボロボロ~と言うアイドリング
音と加速時の回転のスムーズさにあります。それと高級
な足回り等との組み合わせでいわゆる高質セダンの代
表的存在です。

彼のクルマはそれにトミーカイラというチューニングメーカ
ーの特別装置をくっつけたものとなっています。具体的に
は専用バンパーとドライビングランプ、リアウイング、ホイ
ール、サイドアンダーモール等のようですが、エンジンは
排気管の交換等、軽度の改良を行っているようです。
WRCスバル
スバルはミツビシ同様、ラリーにも進出しインプレッサを
擁してWRCにおいて良きライバルとして健闘、平成7年以
降数度にわたり世界チャンピオンとなっています。
写真はフィンランドラリーのものでアップダウンの激しい
雪道を果敢にジャンプしながらの力走です。

老婆心ながら、車はヒコーキではないので飛ぶというの
は着地のダメージが大きく、してはならないのですが、
早く走る競技なので仕方ありません。皆さんは絶対やら
ないように。ちなみに、写真のクルマの下腹部に板状の
ものを貼っているのが見えると思いますが、あれは着地
してもエンジンを痛めないように保護するアンダーガード
です。普通の車でこういう芸当をしてはいけない理由が
おわかりかと思います。しかし日本の技術の粋がこうい
うところで平和裏に生かされるのは嬉しいですよね。

今日はオクルマづくしで紙数が尽きてしまいました。
本当はタバコ屋の赤いお嬢さんのことも少し書こうと思っ
たのですが、これ以上は読者にご迷惑にて、またいつか
お話し致します。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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