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鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期

平成24年11月26日
【HONDAの挫折と苦悩】
ジョンサーティースによりF1-GP2勝目を挙げたHONDA
は翌昭和43年、新たにローラ社とシャシーを共同開発し
たRA301を投入しました。当時HONDA-F1マシンの最高
傑作と言われましたが、やはり車重が重く世界の強豪
揃いの実戦ではなかなか十分な成果が得られません
でした。一旦車重は軽くなったのに、何故再び重くした
のか分かりませんが、パワーへの過信があったのでは
ないでしょうか。
HONDARA301-2
車重のハンデはあったものの、基本的には非常にまとま
りの良いマシンで中村監督とサーティースの必死の努力
により、優勝を狙えるイイ線まで熟成が進められていまし
た。歴史にイフはないものの、多分このまま改良を重ねて
いれば確実に世界チャンピオンを獲得出来たマシンであ
ったと思います。

しかし2輪のGPで圧倒的な実績を持つ宗一郎氏は、F1
でのもたつきに苛立ちがあったと思います。またエンジン
以外をほとんどイギリスで別個に改良していた中村良夫
監督と意見が合っていなかったのかも知れませんが、
HONDAは宗一郎氏の肝いりで、これとは全く別に100%
本社製のRA302というマシンを開発しつつありました。
HONDARA302
とにかく重くてどうしても勝てないという呪縛から逃れる
ために、HONDAは思い切った手段を取りました。
V12エンジンはV8に、冷却は水冷をやめ自然空冷としま
した。ポルシェがファンを使った強制空冷方式を採用して
いましたが、自然空冷というのは前代未聞でした。また
シャシーは思い切って小さくした結果、劇的なダイエット
に成功しました。
かえって軽く小さくなりすぎて可愛く感じるほどでしたが、
実際は大きな問題を抱えており、自然空冷で冷却がうま
くいくのかと言うことと、前端部のラジエターがなくなった
ことでシャシーがコンパクトになった反面、ドライバーの
位置が極端に前寄りとなり運転しずらかったこと、また
それによりマシンの前後重量バランスが崩れたことによ
る挙動の不安定さが挙げられます。
素人考えでも、あのコクピット位置で外気にさらされなが
ら時速300km近くで走るなど、恐ろしい世界ですが、いく
らプロでも、いやサーティースのような一流のプロだから
こそ、ヤバイと思ったんではないでしょうか。

現場の中村監督とサーティースはRA302をいきなり投入
することには大反対でしたが、宗一郎氏の苛立ちもあっ
たのか、強行出場させることに決まりました。中村監督
の立場とすれば戦闘力がなく危険なマシンを出走させる
ことは出来ず本社の意向を拒否、その結果急遽別個の
二つのチームがGPを戦うという変則的な事態となり、
中村氏と宗一郎氏の確執が深まるとともに現場の空気
も気まずいものとなりチームの士気にも大きく影響しま
した。
HONDARA302-2
そのエンジン部分の写真です。自然空冷ということで、各
部に冷却のためのダクトやフィンが設けられ、苦心の跡
が見られます。
ここだけの話ですが、設計者の若き久米是志は自然空冷
方式には技術的に絶望していたものの、宗一郎おやじの
かたくなな主張により、抜本的な方式変更は認められず、
半ばやけくそ状態になっていたと伝えられています。

今思うに、コンパクトになったV8の冷却を水冷方式とし、
また前寄り過ぎるドライバーズシートをやや後ろにずらし
てやるか、シャシー前部をやや延ばすかするだけで、
それこそRA301が一年間存分に戦った後の後継マシン
としてF1チャンピオンを狙える革新的マシンに成り得た
であろうに、またそれなら中村監督とサーティースも大
賛成で協力してくれたであろうに、宗一郎氏のそのせっ
かちさが、タバコ屋には残念でなりません。
HONDARA302-3
その間、鈴鹿サーキットに初めてサーティースを招いて
実際にテスト走行を重ねましたが、その結果オーバーヒ
ートはどんなに工夫しても解決出来ないないことが判明
しました。
サーティースはプロのレーシングドライバーの立場から、
このマシンを実戦に投入すべきではないことを再度伝え
たようです。恐らく鈴鹿サーキットで日本最初のレーシン
グスクールを開講したポールフレール氏も、もしテスト走
行に立ち会っていれば同様の意見を述べたと思います。
それでも実戦で改良するという考えだったのか冷却問題
が未解決のままF1-GP出場となりました。
(関連記事:鈴鹿サーキット vol.2:発展期参照願います)
HONDARA302-3
写真はデビュー戦のフランスGPでのRA302で、右に写っ
ているのがドライバーのジョー・シュレッサーです。マシン
の出来は別にして非常にコンパクトであるのがよくわか
ると思います。
宗一郎氏と中村監督との確執の結果としてドライバーも
正規の契約ドライバーでなくF1未経験のシュレッサーが
急遽出場となりかなりの不安を抱えての決勝スタートで
した。
しかしやがて悲劇が起こりました。スタート間もなくRA302
はコントロールを失い土手に激突、シュレッサーが事故死
するという事件が起きたのです。事故の真相は明らかに
されていませんが、HONDAがあせってテストもろくに出来
ていないマシンを実戦に投入したことが一因であることは
間違いのないところです。
逆にサーティースのRA301は同じGPで2位に入賞したた
め、RA302を投入する必要はなかったという見方もありま
す。しかし宗一郎氏の技術者魂がそれを待てなかったの
でしょう。

それにしても2輪GPの栄光とは裏腹にHONDAは予期せ
ぬフランスGPでの大事故で大きな挫折を味わいました。
RA302は宗一郎氏自身が設計した訳ではありませんが、
その思想や意思はマシンの設計に生かされている訳で、
懲りすぎて失敗することや、せっかち過ぎて失敗する
いう宗一郎氏の一大特徴パターンが悪い面に出てしまっ
たのでした。
この事件をきっかけに、また当時社会問題化しつつあっ
た排気ガスの浄化問題の集中的な研究のためもあり、
昭和43年をもって、5年間に及んだHONDA-F1活動は
撤退休止となりました。宗一郎氏の無念はさぞかしであ
ったと思われますが、それが当時のHONDAの限界でも
ありました。
ホンダ1300-2
余談になりますが、HONDAがRA302のGP出場をあせっ
たもう一つの理由は、昭和43年当時、HONDAが初めて
開発する乗用車として間もなく発売予定だったHONDA-
1300のF1との宣伝相乗効果を狙っていたためでした。
優れた技術はシンプルでなくてはならないという宗一郎
氏の技術者としての信念から「空冷化」「前輪駆動化」が
推進されており、1300はそれを形にしたものでした。
ホンダ1300-3
エンジンはRA302とよく似た強制2重空冷方式という独
創的なもので、SOHCながらCVキャブを4連装し、横置き
前輪駆動方式を採用、当時のセダンとしては前代未聞
の凝りに凝ったメカニズムでした。
しかしエンジンが重かったため、操縦性にクセがあり一
部の熱狂的なホンダファンは別として一般には評判が悪
く、結果的には偉大なる失敗作!となりました。
経営理念の「顧客の要求に応える」というよりは、顧客の
要求を超えた懲りすぎの作品により失敗した事例であっ
たと言えます。

宗一郎氏はその信念から、空冷、前輪駆動を推進して
いましたが、確かにエンジンの露出しているバイクや熱
量の小さい小排気量の車では冷却があまり問題になら
ず、部品点数の少ない空冷や前輪駆動にした方が合理
的でメリットがあると思います。
しかしRA302のようなレーシングカーや3リッターとかの大
排気量車では熱量がハンパではなく安定して冷却出来る
水冷方式が望ましく、また大型乗用車では前後の重量配
分や操縦性の面から後輪駆動の方が優れているようです。

余談ながら、今から思うと私の愛車であったレジェンドも
V6エンジンは大満足であったにも関わらず、駆動方式は
後輪駆動にすべきであったと思います。

このHONDA1300を開発した頃から宗一郎氏の技術理念
と若手エンジニアの実務感覚にズレが生じてきており、
やがて大きな確執となり、1300の開発を最後にその後
宗一郎氏は藤澤副社長とともに電撃的引退を果たすこと
となります。
ホンダN360-2
話は前後しますが、HONDAが初めてのセダン1300を投
入する2年前、昭和42年には初めて本格的に4輪車に進
出するため比較的参入しやすかった軽のN360を発売し
ました。
もうあまりにも有名で別稿にも詳しく書いているのでここ
では詳細は省略しますが、当時の国産車としては画期的
で、スポーティで軽快な走りとオースチンミニ同様のコンセ
プトによる軽らしからぬ広いキャビン、また32万円という安
さにより当時の若者から圧倒的な支持を受け、一躍ベスト
セラーとなったのです。
ホンダN360-3
メカは横置き前輪駆動を採用、空冷2気筒SOHCエンジン
に常時噛合い式ドグミッションを組み合わせたものでバイ
クのノウハウをそのまま軽自動車に応用したものでした。
シフトもセミフロアシフトを採用しスポーティなムードを持っ
ていました。
(関連記事:荒ぶる心 vol.2:スカイライン2000GT及び
鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期参照願います)

これは想像ですが、このN360の爆発的ヒットにより自信
を深めた宗一郎氏は空冷、前輪駆動への信念を一層深
めていき、F1にまでそれを応用しようとしたところに無理
があったと思います。何とかマシンを軽くしたい、現場で
はそのことで苦しんでいる、よしこれだと思ったのですが、
現実は甘くなかったのです。

HONDAの躍進を支えたN360ではありましたが、数年後
アメリカの消費者運動家ラルフネーダー氏を中心とする
グループにN360の事故の多さから欠陥車であると訴えら
れ、長い裁判となりました。
結果的には因果関係が明白でなく疑いは晴れたのですが、
その間、N360の売れ行きは低迷し、またもやここで別の
意味での挫折を味わうこととなりました。
ホンダライフ
これらの汚名挽回のためと、マスキー法の制定による大
気汚染防止に関する法的な規制のため、HONDAは従来
のパワー主義やロマン主義から一転して現実主義へと方
向転換せざるを得なくなりました。
その第一弾として、昭和46年に発売されたのが写真の
ライフで、空冷から水冷へ、またパワーから実用性重視へ
と大きく変化したクルマでした。またこれをベースにシビッ
クが開発されることになります。
ステップバン
その間、ライフをベースに今でもユニークさを感じるステ
ップバンも発売されました。今では機能性よりも愛嬌の方
を感じます。
ホンダシビック
昭和47年、ライフを基に新しい時代のしかも世界に通用
する本格的大衆車を模索して開発されたのがシビック
でした。
当時世界の主流になりつつあった2BOXスタイルを軽以
外では国産車で初めて採用しパワーではなく機能性や
使い勝手、デザインを重視したものとなり、またもや別の
意味で世界に衝撃を与えた車でした。
以後画期的なCVCCクリーンエンジンとともにHONDAの
躍進の原動力となって行きます。
ホンダシビック2
シビック発売の前年発表翌年発売されたCVCCエンジン
です。1.5L-4気筒SOHCシングルキャブレター仕様ながら、
最大の特徴は燃焼室の横に副燃焼室を設け、薄い燃料
を効率よく燃やす仕組みを開発したことで世界一厳しかっ
たアメリカのマスキー法を自動車メーカーで初めてクリア、
一躍話題となりそのことがアメリカにおけるシビックの成
功へと繋がっていきました。

ちなみにマスキー法が制定された当時、アメリカのビッグ
3はそんな厳しい排ガス規制値は達成不可能としてその
緩和を政府に働きかけたりして大騒ぎになった時期でした。
HONDAの成功はF1での悔しさをCVCCにぶつけた執念
の結果でもありました。
ホンダシビックRS
また若者向けにはCVCCでなく生の1.2LエンジンにCV
キャブレターを2連装したスポーツタイプも用意され、
HONDAらしいスポーティな性格は受け継がれました。
同志社大学自動車部でタバコ屋の2期後輩のU君も若か
りし頃、ご愛用されていたと聞きました。多感なお年頃で
もあり、さぞかし爽快なドライビングを満喫されたと想像
致します。もっとも現在は多忙な公認会計士さんとして
日々ご活躍と伝え聞いております。
またこのブログによく登場する同期で元兵庫県警のギー
ちゃんも大学卒業後、多分初めてのお給料で買ったと
思われる、おろしたてのシビックで私のいる某所まで遊び
に来てくれた記憶があります。その心遣いが嬉しく、今で
もよく憶えています。
ホンダCB750フォア
突然ですが、皆さんよくご存知のHONDA-CB750フォア
です。
タバコ屋は4輪派だったので、恥ずかしながらスペックは
あまり知りませんが、エンジンは排気量736cc-4サイクル
SOHC並列空冷4気筒で独立した4本独立マフラーを装備
し、ディスクブレーキはあり~の、最新のダブルクレードル
をおごり~ので、当時2輪のスーパーカーであったのを憶
えています。確かその気になれば時速200kmも可能だった
夢のバイクで、おもにアメリカで爆発的なヒットとなり、それ
こそドルの雨をHONDAにもたらした立役者であったと聞い
ています。

奇しくも、CB750フォアの発売は昭和44年でHONDA-1300
の発売と同年であり、RA302で苦しんだF1を撤退した翌年
のことでした。HONDAにとっては苦しくも激動の数年間で
ありました。

4輪においては市販車でもF1でも随分失敗を重ねた宗一
郎氏でしたが元祖2輪においては宗一郎氏の技術理念
と持ち前のええカッコ好きが見事に実を結びました。

私見ながら、このシビックとCB750フォアが挫折と混迷の
中、苦しかったHONDAを立ち直らせ、次の発展の礎石と
なったと思います。皆さんのご意見はどうでしょうか・・・。

ついでの話ながら、タバコ屋はCB750フォアの白バイに
乗ったことがあるのです。元兵庫県警のギーちゃんには
叱られそうな話ですが、うそのようなホントのお話です。
(関連記事:トライアスロンと月光仮面参照願います)
本田宗一郎
将来社長となる久米氏や川本氏等、若手エンジニアの
台頭と現実的な技術提案に当初は反発し、若手との間で
深刻な確執を起こした宗一郎氏でしたが、藤澤氏の進言
もあり、やがて新しい時代の到来を悟ったのでしょう。
HONDAライフの発表、続いてシビックの発表、CVCCエン
ジンの快挙を見届けた後の昭和48年盟友だった藤澤氏
(当時副社長)とともに揃っての電撃引退となりました。
その鮮やかな引き際はなかなか出来ないことであり、
タバコ屋もその時強い衝撃を受けた記憶が今でも鮮明
に残っています。

今回も前回に引き続き鈴鹿サーキットのことよりも
HONDAのF1と四輪での苦闘記録のようになってしまいま
した。次回はいよいよ鈴鹿サーキットでの予期せぬ出来
事についてのお話が出来ると思います。お楽しみに・・・。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
単行本ワールドカーガイド29:HONDAより引用させて
頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.2:発展期

平成24年11月23日
【HONDAの飛躍】
迫り来る総ての可能性を予知して自己のテクニックの
限界を作るな
」?????一体何のことでしょうか。
この言葉は世界で最も信頼され愛されたモータージャー
ナリスト故ポール・フレール氏が残した言葉なのです。
ベルギー生まれの彼は、若いときはベルギーのバイクチャ
ンピオンを皮切りに、四輪に転じ、F1での入賞、F2での優
勝を始めフェラーリのワークスドライバーとしてルマンに優
勝するなど、目覚しい活躍をし、一流のレーシングドライバ
ーでありながら、その後はモータージャーナリストとして活
動するかたわら、世界中の自動車メーカーに的確な助言
をし、今日の自動車産業発展に貢献した類まれな人物で
ありました。
特に日本との関係が深くとりわけHONDAとは深い親交を
持ち、当時の主だった市販車には彼のアドバイスが生かさ
れたとともに、その後MAZDAにも関わり多大な影響を与え
たことはあまり知られていません。
ポールフレール1
冒頭の言葉ですが、危険と隣あわせのレーシング走行、
もしくは一般の高速走行において、周りのことを注意深く判
断して、自分のドライビングテクニックの限界以上で走行し
てはいけません。と言っているのです。
ポールフレール2
この写真は昭和44年、彼が始めて日本に招かれ鈴鹿サー
キットで開催された「ポール・フレール・レーシング・スク
ール」においてレース・ドライビングテクニックについて
日本で初めて数式を交えた理論的な解説による実戦講
義を行っているところです。
(黒板の上にスローガンのように貼ってあるのが冒頭の
言葉です)
ポールフレール3
彼がスクールで教習車として使用したのがHONDA-S800
でした。ドアパネルにはポール・フレールと大きく書かれて
います。
このクルマを使用してレーシング走行の真髄を100人の
受講生にマンツーマンで指導したと言われています。
(こんな神様に教われるんだったら島のタバコ屋も受講し
てみたかったです。ちなみにその年はタバコ屋が同志社
大学に入学した年でした)
PF4
鈴鹿のSベンドにて。ポール・フレール講師がこれから
S800で模範走行するところです。ポール・フレール氏は
サスペンションを固め、レーシングタイヤをはいただけの
S800で、このSベンドを110km/hオーバーで走り抜けた
そうです。彼の卓越した技術があったからこその模範走
行だったのでしょう。多分受講生はまずP・F先生の横に
乗せてもらい、その後自分で走行する手順だと思われま
すが、緊張した面持ちで立っていますよね。
PF5
ところでこの講習会はHONDAが企画したものではなく、
数年前から親交のあった自動車雑誌カーグラフィックの
初代編集長、小林彰太郎氏がP・F氏に依頼したところ
快く引き受けて頂いて実現したものです。
写真は初来日の際、鎌倉に立ち寄った時のものと思われ
ます。左がポ-ルフレール(P・F)氏、真ん中はスザンヌ
夫人、右が小林彰太郎氏です。
カーグラフィック(通称CG)は鈴鹿サーキットが完成した
昭和37年に創刊された日本で始めての本格的な自動車
雑誌で、それこそHONDA同様世界的視野に立った記事
内容でした。
(ただし、ヨーロッパ車ばかり褒めるので、日本やアメリカ
の自動車メーカーは気に入らなかったようです)
彼は小林エディターとは親交があり、そのCGにFROM
EUROPEと言うコラムを連載し当時のヨーロッパの最先端
情報を日本の読者に伝えていた経緯がありました。

余談ですが、タバコ屋が同志社大学に入学したその年は、
学園紛争が最も激しかった年で授業もままならない状況
でしたが、その授業の退屈さには失望してしまいました。
(2年間の一般教養課程のことです)
老教授がカビの生えたようなノート片手に経済原論など
という感動も発見もない机上の遊びごとのような内容を
惰性的に講義していました。
マルクス理論を教えていた教授もいましたが、マルクス
主義自体が破綻した今日の状況をどう説明出来ると言う
のでしょうか。ここだけの話ですが、彼らは明らかに月給
泥棒だったと思います。これが大学かと。これは教授だけ
でなく大学側にも何を教えるかについての重大な誤りが
あったように思います。

タバコ屋は5才の時から実戦の商いは体で経験しており、
大学まで来て学びたかったのはそれを体系、理論づける
生きた講義でした。その願いは3回生以降の専門ゼミに
入ってからも満たされず、子供の頃からショウバイの実
務を経験しているタバコ屋にとっては、幼稚で物足りない
ものに思えました。同志社にドラッカー教授でもいてくれ
たらタバコ屋も最前列でノートを取るところでした。

それに引き換え、CGはジャンルは異なるものでしたが、
オクルマそのものや業界のこと世界の現状などが満載で、
発刊が待ち遠しいほどでした。但し、親からの仕送りに
頼っていたタバコ屋は高価なCGを買うことにかなりの
ためらいはありました。そのしわ寄せは学食で100円の
うどんをすするということになりましたが。
小林彰太郎1
小林彰太郎氏ですが、P・F氏を日本に招き、また彼を
本田宗一郎氏に紹介しP・F氏とHONDAとの深い親交の
きっかけを作っただけでなく、彼自身もHONDA-S600で
ヨーロッパ横断旅行を試み、当時HONDAが参戦していた
F1など当時のヨーロッパオクルマ事情をつぶさに見て回り、
それがご縁で、その後本田宗一郎氏とも親密な関係を持
つようになりました。

裏話ですが、彰太郎氏がそのS600のことでHONDA本社
にケチをつけに行った時、宗一郎氏自身が出て来られ、
丁寧に謝罪したあと、そのケチの原因と解決法を詳しく
説明されたことから、二人の親密な関係が始まったと言
われています。
ホンダS600
彰太郎氏がヨーロッパ視察に使用したS600(通称エスロ
ク)は、HONDAが2輪車事業の成功と確立の後、更に4輪
車事業に進出を図った際の初めての記念すべきクルマ
で、鈴鹿サーキットが完成した2年後の昭和39年に発売
されました。
初めて発売したクルマがスポーツカーというのもシャレ
者の宗一郎氏、ひいてはHONDAらしいやり方ですよね。
ホンダT360
実際は軽トラックT360も発売しましたが地味なカテゴリ
ーの車だったであまり目立ちませんでした。
裏話として宗一郎氏はカッコイイ車以外関心がなかった
のですが、藤澤専務がそれではお米の種にならないの
で、同時に実用的な軽トラックの発売を主張しました。
エンジンは排気量は違うものの基本設計をSシリーズと
共通にしたので、トラックとしては前代未聞のDOHCエン
ジンとなりました。(やりすぎ!)
ホンダS800-9
センセーションを巻き起こしたS600の評判に気を良くし
たHONDAは続いて昭和41年にS800(通称エスハチ)を
発売しました。P・F先生が鈴鹿を駆け抜けたあのクルマ
です。
スペックはS600とほぼ同じで、ボアアップされた排気量は
791cc、HONDA定番の京浜精機製4連CVキャブレターと、
等長エキゾーストマニホールドを装備し縦置きされた水冷
直列4気筒DOHCエンジンをフロントに搭載、足回りは前輪
がダブルウィッシュボーン、後輪はデフから先の動力伝達
に2本のローラーチェーンを用い、それをケースごとトレーリ
ングアームに使うというユニークなものでしたが、HONDAは
バイクメーカーだったのでバイクの後輪駆動システムでは
一般的な形式をそのまま4輪に応用したものでした。

ともかく当時の国産車では例を見ない凝りに凝ったメカニ
ズムでしたが実際にはその後輪駆動方式はかなり無理
があり、評判が悪かったので、後期型では一般的なデフ
と固定車軸を4リンクで支える常識的なリジッドアクスル
に改良されました。
懲りすぎて失敗する!というパターンは以後、宗一郎氏が
現役の間特に4輪においてHONDAについて回った一大特
徴となりました。
ホンダS800-4
HONDA-S800のエンジンルームです。一つ一つのパーツ
がまるで精密機械のように研ぎ澄まされ、芸術的とさえ
言える機能美を持っていました。
ついでながらこのSシリーズエンジンを設計したのは後に
社長となる若き日の久米是志氏で、当時HONDAが参戦
していたF1のエンジン設計者でもあったため、S600、800
のエンジンはHONDA-F1と同じコンセプトで作られたとい
う訳です。
ちなみに最高出力は8000回転で70馬力を発生するという
レーシングエンジン並みの桁外れの高回転型で、F1のデ
チューン版と言われるゆえんもそこにあります。

そのF1ですが、宗一郎氏は2輪でのGPで世界チャンピオ
ンとなった後、昭和39年には、無謀と言うか壮挙というか、
果敢にもF1に参戦することとなりました。
鈴鹿サーキットを作った理由の一つは、公表されていない
ものの、2輪のGPマシンと新たに参戦するF1マシンをテス
トするため、自前のサーキットを作ることが宗一郎氏の夢
であったようです。
もっとも藤澤専務はそれだけでは経済的に破綻してしまう
ので、鈴鹿サーキットを遊園地化してソロバンも合うように
仕向けたとか。
夢だけでも食えず、ソロバンだけでも感動はなく
人生とはかくも難しいものなり。
」タバコ屋の独り言です

F1に戻ります。HONDAがF1に参戦するのは昭和39年の
ことですが、実はその3年前昭和36年には2輪の世界GP
を制し、宗一郎氏の次の目標はF1でした。いくらレース好
きとはいえ夢のスケールが違いますよね。
当初はF1を研究する目的でクーパーT53を購入し、それ
をもとにHONDAオリジナルのRA270を開発しました。
ホンダRA270
本田宗一郎氏と一緒に写ったHONDA-RA270です。
プロトタイプなので実戦に投入されることはありませんで
した。
ところで、HONDAは何の技術の裏付けもなくF1に参戦した
ように見られていますが、実は戦後当時日本最大であっ
た航空機メーカーの中島飛行機がGHQにより解体され、
航空機の製造が禁止されたため、世界でもトップクラス
だった優秀なエンジニアの仕事がなくなりました。HONDA
はいずれ航空機を作るんじゃなかろうかというほのかな
期待と当面の食いブチを得るために中島飛行機の技術
者が大量にHONDAに入社していたのです。
またHONDAにしてみれば4輪車への進出を図るに当たっ
て、宗一郎おやじ一人が吼えまくっているだけでノウハウ
はゼロに等しく開発は中島飛行機の技術者に頼らざるを
得ませんでした。
航空機のエンジニアにとってはF1の開発は未知との遭遇
ではあったものの、技術的には不可能なものではありま
せんでした。
ちなみに初代HONDA-F1チームの監督となった中村良夫
氏も元中島飛行機の設計技術者でありました。その中村
氏がS600、800の開発設計に深く関わっていたことは、
あまり知られていないエピソードです。
ホンダRA271
HONDAが始めてF1に参戦した時のマシンRA271です。
当初ロータスにエンジンのみ供給する計画でしたがロー
タス側のドタキャンにより、急遽シャシーもすべてHONDA
製となりました。今改めて見ると相当時代の落差を感じ
るマシーンですが昭和39年当時は最先端でした。

しかし新参者の悲しさ、勝利とは縁のないほろ苦いデビ
ューでした。
エンジンは1.5L-V12気筒DOHCを横置きに搭載し、エンジ
ンの真ん中から駆動力をギヤボックスに導くという独創
的なもので、すべてはバイクのノウハウから応用した技
術でした。(バイクではすでに採用されていました)
ホンダRA272 F1メキシコGP
実戦によるフィードバックにより改良されたRA272です。
このマシンは参戦2年目の昭和40年1.5Lの排気量規定
最後の年、しかも最終戦のメキシコGPにおいてアメリカ
人ドライバー、リッチーギンサーにより劇的な初優勝を
遂げました。
中村監督とともにその喜びはひとしおであったことでしょ
う。傍らのレースクイーンのお衣装と髪型が当時の時代
を感じさせます。
HONDAF1RA273
翌年からは名手ジョン・サーティースと契約し、排気量規
定も3Lとなったため、マシンを新たに設計しRA273を投入
しました。エンジンは3L-V12気筒DOHC、燃料はインジェ
クションによる供給でレイアウトは常識的な縦置きとなり
ました。ボディはグッドデザインでしたが各部が凝った
メカのため何分重すぎてその実力を十分発揮出来ませ
んでした。
HONDARA300 F1イタリアGP
HONDA自製のシャシーでは勝てないと判断したサーティ
ースはHONDAにローラ社を紹介し、急遽軽量マシンを
製作、エンジンはそのままでシャシーをサーティースの
考えにそって軽量化、そのかいあってテストする時間も
ないままぶっつけ本番のデビュー戦イタリアGPにおいて
もはや伝説となった最終ラップまでもつれた末の劇的な
勝利を収めることになります。
左サーティースと右ジャックブラバムの激闘は、僅差で
サーティースの勝利となりました。彼の軽量化戦略が見
事実を結んだ瞬間です。
2輪では圧倒的なパワーを見せたHONDAといえどもF1で
の勝利はこの2回のみで、やがて排気ガス等の環境問題
が起こり、その方面に研究を集中するため5年間に及んだ
第一期のF1活動から撤退することになりました。

鈴鹿サーキットのことを書くつもりが、何やらHONDAの社
史のようになってしまいました。紙数が尽きてしまいました
のでこの続きはまた近いうちに・・・・。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
雑誌ノスタルジックヒーローより引用させて頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期

平成24年11月18日
【HONDAの歩み】
わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、
性能の優れた、廉価な製品を生産する

これはご存知の方も多いと思いますが昭和36年HONDA
の社報に掲載された経営理念です。創業者本田宗一郎
の純粋で無垢な志が表現された極めて格調の高い文章
であると思います。
一見淡々と述べられているその内容は実現の困難なこと
ばかりで、掘っ立て小屋の町工場のおやじが発するよう
なものではなく、当時の大企業でもそのような崇高な経営
理念を掲げていたところはほとんど皆無で、宗一郎氏の
スケールの大きさを思わせます。
社員や社外に対するものというよりは、その理想と意志を
彼自身に言い聞かせ鼓舞するためのものだったのでは
ないでしょうか。
社内外で公表する、しないは別にして一つの事業を創業
継続するに当たり、経営者が経営理念を持ちそれを文章
に表現することは、ある意味実務以上に大変重要なこと
であると思います。

余談になりますが私が卒業した京都の同志社大学創立
者、新島襄先生も教え子に対し「良心之全身ニ充満シタ
ル丈夫(マスラオ)ノ起リ来ラン事ヲ
」と有名な檄文を贈り、
現在では「良心の碑」として校門前に残されていますが、
心の叫びを簡潔な文章に表すことは極めて難しいことで
もあります。
(関連記事:今出川でのことVOL.1参照願います)
本田宗一郎1
写真は昭和32年発売のドリーム号(C70)にまたがり、
得意満面の本田宗一郎氏です。彼は学歴もなく裸一貫
で成功した戦後の日本を代表する立志伝中の経営者の
一人として、知らない人もないくらいの方ですが、一人の
情熱的な技術者として常々「技術の競争は技術をもって
すべきである」また「良品に国境はない」と言い続けた方
でもありました。
彼は、当時の世界と日本の技術力の圧倒的な差を痛切
に感じており、その世界レベルに追いつき追い越したい
という負けず嫌いな彼の一途な思いが体からほとばしり
出たのが冒頭の経営理念だったと言えましょう。

恥ずかしながら、やや唐突に以下をご紹介致します。
栄えよ我がふるさと、美しき中島、
・小さな島に大きな希望

これは島のタバコ屋が島のみかん農業への危機感から
平成16年より始めた島のジュース・ジャム工場を立ち上げ
るに当たり、自己流で定めた我が社の経営理念です。

本田宗一郎氏の熱き思いとスケールとは宇宙的隔たりが
ありますが、数年間真剣に考え一途な思いを文章にした
点では若干の共通点があるかも知れません。
もっともタバコ屋は世界的視野に立ってはおらず、島の過
激な親父のレベルですのでその活動内容もたかが知れて
はいますが、発起の原点は本田宗一郎氏の生き様にあっ
たのかも知れません。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

ホンダN360-2
余談ながらタバコ屋が同志社大学自動車部の現役時代
に最初の自己所有車となったのはHONDAが実用的な乗
用車として初めて発売した軽四輪のN360でした。
先輩O氏からかなりくたびれた中古の車両を2万円で譲り
受け同期のS君と共同所有し、クルマの楽しさを教えてく
れた思い出深いオクルマでした。尚、伝統に従って?
卒業時はクラブに寄付致しました。

ところで、このN360ですが、当時の血気にはやる、若き
宗一郎氏のお気に入りはオースチンミニでした。
タバコ屋の想像ながらこのN360は本田宗一郎氏が作っ
た日本版ミニともいえ、各部のメカニズムや基本レイア
ウトはミニの丸ごとコピーとも言えるものでしたが、空冷
2気筒OHCエンジンだけはHONDA独創の、高回転まで
よく回るバイクのように気持ちの良いエンジンでした。
宗一郎氏のオースチン社に対する憧れは後の技術提携
へと繋がり、その提携の結果として生まれたのが他なら
ぬ初代レジェンドだったという訳です。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.2:スカイライン2000GT参照
願います)
アコードハッチバック
卒業後数年は食べるのがやっとでクルマどころではあり
ませんでしたが、昭和52年頃だったでしょうか、自分のお
給料で買った最初のクルマがアコードハッチバックでした。
黄色のそのクルマは当時とても日本車離れしていてハイ
カラだった記憶があります。

ついでながら島のタバコ屋はこの2ドアハッチバックとい
うスタイルが痛く気に入ったようで、後日還暦が来て購
入することになった赤いお嬢さんこと、フェアレディ240Z
もカテゴリーは違え、同じ2ドアハッチバックであったこと
は偶然とは言えないでしょう。
レジェンド
アコードに7~8年乗ったでしょうか、次はかなり無理をし
てHONDAがイギリスのローバー社(宗一郎氏の大好きな
オースチン社はすでにローバーに吸収されていました)
と提携し共同で作った初めての大型セダン、レジェンドを
購入しました。
パワフルなHONDAのイメージに対して大人っぽいクルマ
と言うんでしょうか、V6のパワーはあまり感じませんでし
たがHONDAらしく非常に吹けあがりが滑らかで気持ちよ
く、またボディデザインやインテリア、ダッシュ等にヨーロ
ッパのセンスが光っていました。
当時国産車にはヨーロッパ車のセンスが感じられるよう
なクルマは皆無でしたので、レジェンドに乗ることは何か
知的な満足感がくすぐられるように感じました。
レジェンド2
初代レジェンドに6~7年乗ったでしょうか、平成3年には
2代目レジェンドが発売され、かなり大きすぎるボディサ
イズではあったものの、パワフルになったのとその塊感
のあるデザインが気に入り、平成4年に購入し、その後
何と20年!も乗るハメになりました。
タバコ屋もやや凝り性なところがあり、標準ではなかった
2トーンカラーに塗ってもらったり、クーペ用のアルミホイ
ールを特別に装着してもらったりして、ディーラーの店長
を困らせてしまいました。
レジェンド4
その間、故障らしい故障もなくよきパートナーとして働い
てくれ、国産車の品質向上は40年前とは隔世の感があ
りますが、近年は乗ることも少なくなり、また時代もこの
バブリーな大型車を所有する意味がなくなりつつあると
判断し、先般残念ながら手放すことになりました。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)

延べ40年間に及び、HONDA一色の愛車人生でした。
そのHONDAとのご縁で、後日鈴鹿サーキットを舞台に
様々な予期せぬ事件が起ころうとは・・・。
詳細はvol.4にてお話致します。
カブF号2
今ではHONDAは経営理念のとおり世界的な自動車メー
カーとなりましたが、創業当時は様々な苦難のドラマが
ありました。
創業後、写真のカブF号(通称バタバタ)やバイクのドリー
ム号、またその後ベンリィ号を次々開発し、国内ではトッ
プの2輪メーカーに成長しつつありました。
ベンリィJ号
昭和30年発売のベンリィJ号です。自転車やバタバタより
も便利だろうというので宗一郎氏がベンリィとネーミング
したと言われています。まあ当時からネーミングの由来と
いうのは意外性があり、また一面的を得ていて面白いの
ですが昨今ではムシコナーズとか言いたい放題のネーミ
ングが散見されます。
月光仮面のTV放映が始まったのが昭和33年ですから、
月光仮面のおじさんが乗っていたバイクはベンリィ号かも
知れません。(確認してないので不確かです)
それと前後してスクーターのジュノー号を発売したりもし
ましたが、スクーターの開発は不慣れだったため欠陥商
品にて売れず、また同時期にバイクの不具合によるクレ
ームも多発し返品の山となり、窮地に陥った時期があり
ました。
本田宗一郎6
本田宗一郎氏と意気投合し宗一郎氏の片腕というより
共同経営者として有名な藤澤武夫氏はすでに当時専務
として販売を一手に受け持っていましたが、クレーム処
理に追われ、技術的な問題は解決したものの(ちなみに
バイクはキャブの欠陥でした)その苦い経験から、販売
ルートを当時考えられなかった自転車販売店に求め、
巧みなDM作戦で一気に劣勢を巻き返した凄腕の経営者
でもありました。
創業当時のないないずくしの中で二人が技術と販売に
それこそ命がけで知恵を絞りに絞った結果、苦境を切り
抜けたのです。
この二人のどちらが欠けても今日のHONDAはなく、
人の出会いというものがいかに大切かということを物語
っています。
スーパーカブ号1
そのようなHONDAが昭和33年、起死回生の新製品を発
売することになります。
「オートバイでもない、スクーターでもない乗物」その名は
スーパーカブ号でした。開発に2年近くを掛け、ヨーロッパ
などの先進国の類似品を徹底的に研究し、万を持しての
発売でした。
それはわずか50ccながら音の静かな4サイクルOHV機構
を持つエンジンを積んだ可愛らしいミニバイク?でしたが、
当時まだ市販化されてなかったプラスチック樹脂をカウリ
ングに採用、また足で操作出来るクラッチ、ブレーキ等々
HONDAのアイデアと技術の粋を結集したものでした。
スーパーカブ号3
結果は空前の大ヒット、一躍HONDAのドル箱になるととも
に今日まで改良を重ねて生産累計が6,000万台以上と言
う天文学的数字となり(平成20年時点)今現在でも世界中
のHONDA工場で生産されており、世界でも類を見ない
不朽のロングセラーノリモノとなりました。またその結果
このような形状のバイクを皆がカブと呼ぶようになり、
一種の国民語として定着していきました。

余談ながら、バイクは後からまたぐものという常識を覆
し、前から足をかわして女性でも難なく乗れるというユー
ザー目線のデザインを主張したのは宗一郎氏自身で、
えぐりの部分は彼のこだわりが相当入り、徹底的に
えぐったのでガソリンタンクを置く場所がなくなってしまい
エンジニアを困らせたというエピソードが残っています。

また販売側から(ということは藤澤専務から)の要求で、
販売価格は5万5千円にすることが決まりました。
現状では採算割れとなり、それには月間3万台の生産
販売が必要で、既存の工場の能力では不可能に近いこ
とがわかり、後述の最新鋭鈴鹿製作所を建設し月3万台
の大量生産を目指すことに賭けた理由はここから来てい
ます。
マーケティング理論でよく言われるプライシング(価格設
定)の重要さをHONDAの藤澤専務は身をもって理解して
いたのです。
スーパーカブ号4

開発コンセプトの一つが「蕎麦屋が片手で運転出来る
便利な乗り物
」でしたが、それを忠実に実現したことによ
り事実蕎麦屋さんからの注文が激増したと伝えられてい
ます。
スーパーカブ号の成功は、HONDAが掲げるもう一つの
モットー「三つの喜び」即ち、作る喜び、売る喜び、買った
人の喜びをまさに事実で証明することにもなりました。

写真は当時の宣伝チラシですが、タイトルの「ソバも元気
だおっかさん」そして「きょうも話題はカブがさらった」
まさにそのとおりの結果となりました。
タバコ屋の先代が購入したSUBARUラビットスクーター
とはまた違った意味で当時のハイカラ乗り物でした。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
ホンダ1300クーペ

ホンダ1300エンジン
本田宗一郎氏はエンジンとデザインにはめっぽううるさか
ったそうで、そういえば、彼の最後の作品とも言える1300
クーペは、前輪駆動横置きSOHC2重空冷、4キャブレター
という前代未聞の凝りに凝ったメカもさることながらデザ
インも当時の国産車離れした超カッコいいクルマでした
よね。スーパーカブ発売よりずっと後の昭和46年頃のお
話です。
鈴鹿製作所1
上記の理由によりさあ大変です、売れるのはいいのです
が、それに合わせて大量生産をする近代的工場が必要
になりました。全国各地の候補地の中から、熟慮の結果、
鈴鹿が選ばれ数十万坪の敷地を確保、昭和35年、当時
としては画期的だった、窓なしの完全空調設備を備えた
超近代工場が竣工したのです。
またその数年前には当時のお金で4億数千万円(現在で
80億円?)もの工作機械を欧米各国から買い集めており、
資金の調達とそれの活用が重大問題でした。
鈴鹿製作所2
それもさることながら当時で45億円(現在で800億円?)
を投資するスーパーカブ号生産のための鈴鹿工場は
HONDAの社運を賭けた巨大プロジェクトでもあったの
です。
ちなみにその時の工場コンセプトも国内目線ではなく、
スケール、ポテンシャル、クオリティ、どれをとっても世界
的視野に立ったものでした。

創業者本田宗一郎は困ったことに三度のメシよりレース
がお好きだったので、その趣味が高じて当時浅間山麓で
行われていた国内バイクレースには果敢に参加していま
したが、なかなか勝てませんでした。
その鈴鹿工場が立ち上がるよりかなり前には、無謀にも
当時バイクレースでは世界最高峰だったイギリスのマン
島TTレースに出場すると、大風呂敷宣言を出したのです。
マン島TTレース
事実その後昭和34年には後の社長となる河島喜好氏が
監督を務めレース初出場を果たし、2年後の昭和36年に
は念願の初優勝を遂げました。
その後の2輪世界GPでの大活躍に繋がっていきます。
ホンダ2輪レーサー
マン島TTレースの優勝を始め、世界GPで優勝を重ねた
栄光のGPマシンHONDA-RC143(125cc)です。宗一郎は
負けず嫌いではありましたが、勝利よりもレースを「走る
実験室」としてとらえ、その技術を市販車にフィードバック
していくという手法をとり、それは後のF1-GP参戦におい
ても伝統として受け継がれました。

話は飛びますが、鈴鹿サーキットのことです。
開設は昭和37年ですが、前述の鈴鹿製作所の用地購入、
建設と並行して同じ鈴鹿の山間部で数十万坪に及ぶ
サーキット用地が確保されました。
鈴鹿サーキット1
それ以前、ヨーロッパ各地を視察して回った宗一郎氏は、
世界の先進地にはサーキットがあり、そこで技術を磨く
ことが出来るのに、日本には本格的なサーキットが皆無
であったことと、自社でも2輪の世界GPに進出しつつあり、
近い将来、日本でもサーキットで一流のチームが競い合
う時代がやがて来ることを予感しており、誰もやらないの
ならHONDAがやろうと決心したようです。
鈴鹿サーキット4
工作機械の桁外れの購入、鈴鹿製作所の建設、それと
並行しての鈴鹿サーキットの建設と続き、宗一郎氏自身
は常々、倒産は覚悟の上で、もしそうなっても世界一の
キカイや設備が残るんだからそれは日本にとって宝だろ。
と言ってケロッとしていたとか。
同じ決心でも度肝を抜くスケールだと思いませんか。
鈴鹿サーキット6
鈴鹿サーキット開設後、夏の恒例となった鈴鹿8時間耐久
レース(通称8耐)のスタートシーンです。
街でやんちゃなお兄さんがストレートマフラーで騒音を撒
き散らし、皆のひんしゅくを買ったりしていますが、本当の
GPレースでのサウンドというものはそんなチャチな音とは
桁違いのスケールで、耳をつんざき、体が揺すられるよう
な凄さで、街のチンケなお兄さんも、やりたいのだったら、
鈴鹿でその度胸を試してもらいたいものです。

鈴鹿サーキットは今年で開設50年を迎えます。上の一連
の写真は数度にわたり改良工事を行い、ずいぶん綺麗
に充実した後のもので、開設時とはまるで別物のように
なりました。
鈴鹿サーキット9
島のタバコ屋が若い頃は、ご覧の写真のごとく、グランド
スタンドとピット、パドック以外はほとんど未整備状態で、
北野元、高橋国光といった懐かしいドライバーがHONDA
で、またその後NISSANで活躍していた頃はそれこそ一般
観客席はぺんぺん草に土留めの杭が打ってあるだけの
お粗末なものであったのを覚えています。
サーキットラリー1
突然ですがタバコ屋が同志社大学自動車部に在籍中、
4回生の頃でしょうか、一般道路を使用してのラリーが
警察の方針で出来なくなりつつあり、鈴鹿サーキットを
使用して行う変則的なラリー、即ちサーキットラリーなる
ものが始まりました。サーキットを指定された速度で正確
に周回することを競う競技で、一般の方から見ればかな
り違和感があるでしょうが、お金のない大学生のやるスピ
ード競技と言えばこのような形にならざるを得なかったの
でしょう。
タバコ屋は当時ある事情(痔の手術)で一時部活動から
離れていたのですが、確か女子が目覚しい活躍にて、
優勝したことを聞きました。その時のドライビングクルー
で、一期後輩のT嬢とS嬢です。
慣れない競技で、よく頑張ったと思います。競技車両は
別記事にてご紹介した北海道遠征時の旗艦スカイライン
2000GTです。
競技とはいえあのエレガントな容姿がサーキット走行用
に改良(破壊?)されていて、この車両を購入時の当事
者としては、複雑な心境でした。
サーキットラリー2
鈴鹿サーキットのグランドスタンド前を疾駆する同志社
大学自動車部・女子チームのスカイライン2000GTです。
一般の方には公開してない競技なので当然ながらスタ
ンドには人影はあまり見受けられません。
タバコ屋は卒業を控え部室に顔出しすることもほとんど
無くなってしまいましたが、その後スカイライン2000GTは
どうなったんだろうか。やや気になることではありますが、
聞かないほうが良い場合もあるでしょう。

いずれにしても鈴鹿サーキットは当時まだ草創期にあり、
日本の自動車産業、高速道路等の急速な発展、レース
に対する一般の関心の高まりとともにその姿を変えてい
くことになります。
鈴鹿サーキットが草創期に果たした役割は数えきれない
ほどありますが、一例として当時日本の高速道路の舗装
技術は確立されておらず鈴鹿サーキットの舗装が基準に
なったと言われています。

余談ですが、鈴鹿の代表的イベントとなったバイクの8時
間耐久、また後年開催されることとなるF-1によりその集
客数は飛躍的に増え、鈴鹿サーキット詣ではある意味
現代のお伊勢参りとも言えるのではないでしょうか。

紙数が尽きたようなので今回はこの辺で終わりにします。
次回は鈴鹿サーキットにまつわる意外なお話などを書い
てみたいと思います。

(尚、HONDAの社史に関わる記述の一部、写真等は
HONDA技研ホームページより引用させて頂きました。)

203高地

平成24年11月10日
良家のボンボンであったにもかかわらず、台風での大水
害がもとでお父さんの営む材木事業が破綻、マルビの
どん底に落ちてしまった長崎出身のフォーク歌手といえ
ば、ご存知さだまさしさんですよね。バイオリニストを目
指していた彼が上京後一転してフォーク歌手になったの
は当時人気絶頂の加山雄三やサイモンとガーファンクル
の強い影響を受けたと言われています。
さだまさし
昭和47年にバンド「グレープ」を結成し、精霊流しや関白
宣言等次々発表し大ヒットしたのは懐かしい記憶です。
その彼が昭和55年に発表した、防人の詩(うた)は映画
「二百三高地」にも採用され彼の曲の中で印象深いもの
の一つとなっています。
夏目雅子2 夏目雅子1
写真は和製オードリーとも言われ、その二百三高地に
あおい輝彦さんと共演した夏目雅子です。やはりこの眼
差しで見られると、さしものタバコ屋もオードリーの時と
同様、ゴールデンバット吸った時みたように、倒れ込む
かも知れませんが、そのような現象はタバコ屋だけでしょ
うか。しかしまあ、彼女の育ちの良さがにじみ出ているよ
うな品性に満ちた笑顔ですよね。
(関連記事:予期せぬ出来事参照願います)

余談ですが、タバコ屋は島で化粧品店もやっていて、彼女
は一時期カネボウ化粧品のキャンペーンガールでした。
ポスター取って置けばよかったのですが(水着の)。
その後、その時のカネボウ化粧品のCMを担当したディ
レクターでありまた直木賞作家でもあった伊集院静さん
とご結婚、アチャー。
しかし天は二物を与えないのでしょうか、彼女は急性
骨髄性白血病を患い、若干27歳の若さで風のごとくこの
世を去りました。永遠の若さを残して・・・。
203高地
映画「二百三高地」は日露戦争の旅順港包囲作戦にお
ける重要戦略拠点であった遼東半島の203高地をめぐる
日露両軍の悲惨な攻防戦を描いた作品で、見るも涙、
聞くも涙のその内容はタバコ屋も映画を見た当時、強い
衝撃を受けた記憶が残っています。
♪この世に生きとし生けるものの
すべての生命に~限りがあるのならば
海は死にますか、山は死にますか
風はどうですか、空もそうですか
教えてください~
さだまさしが熱唱する哀感ただよう歌詞もあいまって
ストーリーもさることながら、雅子様ファンになってしまっ
た次第です。
もっともさだまさしさんはその悲しい歌の歌い手とは正反
対の明るいキャラクターなのは皆さんご存じでしたか。

尚、日露戦争については司馬遼太郎さんが小説「坂の上
の雲」で、史実にもとづき詳細に描写しており秋山兄弟の
活躍した奉天の戦いや日本海海戦とともに203高地の攻
防も詳しく描かれています。
司馬さんは日露戦争を祖国防衛戦争としてやむにやまれ
ぬものだったと位置づけて、いたわりと同情をもった記述
をされていますが、203高地攻防戦については数万人の
犠牲者を出した乃木将軍の指揮について極めて批判的
な見方をしているように思います。
203高地
事実硬直した局面を打開したのは、親友児玉源太郎の
苦渋の決断により肉弾戦から大規模砲撃戦へと戦略転
換を強行したおかげだったのです。
元々海軍から旅順港に逃げ込んでいるロシア旅順艦隊
をたたくため、203高地占領を要請されての陸軍作戦だっ
たのですが、占領後旅順艦隊の実態を調べてみると、
203高地占領以前の砲撃によりあらかた壊滅しており、
いったいあれだけの犠牲者を出してまで203高地を奪取
する必要があったのかという、重大な疑問が残ったよう
です。
もっともそのようなことは、当時の熱病にうなされたような
戦勝ムードの中では発表しようもなかったでしょうが。

司馬さんはその後の軍部の暴走による第二次大戦開戦、
終結に至る数十年間の日本の取った行動はまったく無謀
であったと全否定しています。祖国防衛は大切であるが
戦争を遂行出来る見通しもないまま、関係のない他国を
侵略してまで防衛を図る必要はないと・・・。
「坂の上の雲」がらみのことについては、タバコ屋のご当
地話題でもありますのでまた別の機会に書いてみたいと
思います。

何はともあれ、203高地占領作戦というのは実現不可能
とも思われた至難の戦いであったことは確かです。
タケミツ1
突然ですが、タバコ屋が勝手に203高地と名付けている
みかん園地です。結構傾斜があります。最近ある事情か
らやむなくタバオ屋の本業ではないみかん農業に取り組
むはめになりました。
(関連記事:苦渋の選択参照願います)

この自称203高地を含む数箇所で1町余り(4,000坪)あり
ます。プロの農家は2町くらい作っている方もザラです。
お米の場合平坦地が多いのでもっと5町歩とかやって
機械化している方も多いのですが、山間の傾斜地では
4,000坪というのは、相当厳しい面積です。
タケミツ2
その203高地で上から見下ろした写真です。はるか正面に
タバコ屋直営のみかん出荷場と最新のジュース・ジャム
工場が見えます。(ブルーの屋根の建物とその左の黒い
建物です)下界は何だかんだといっても山上から見れば
別天地です。

数年間片手間にやってみて、これは土日農業なんかで
うまくいくものではないことが良くわかりました。もともと
有機農業に興味があって、みかんのショウバイとかも始
めたいきさつがあり、当初は目くら蛇に怖じずで何も知ら
ずに、適当に草刈とかして、園地を程々の状態にしてお
けばみかんがたわわに実るものと思っていました。
甘かったです。1~2年はそれで大丈夫なのですが、徐々
に樹が弱り始め、害虫、ビールス、カンバツ、天災、など
によりろくな果実がならなくなり、やがてその後、樹が枯れ
てしまうのです。
ヤシキ1
別の園地の写真ですがご覧の通り雑草の生命力は想像
を絶するもので、刈っても刈ってもジャンジャン生えてきて、
炎天下でのその作業は一種シベリアの抑留兵がやらされ
た丸太を右から左へ移しそれが終わると左から右へ移す
意味のない作業を延々とやらされたことにつながるような
気がします。(西洋ではジジフォスの伝説と言うのがある
そうですが、まさしくそれです)

その雑草はちょっと油断すると樹に巻き付いたり覆ったり
するため、そのせいでもみかんの樹は枯れていきます。
とにかく、「人間が植えたものVS雑草の闘い」は放ってお
くと必ず雑草が勝利します。敵ながら実にあっぱれです。
また、水やり、施肥とかもおこたると樹が弱り、貧相な果
実や形のよくない果実が出来てしまいます。
みかんの樹よ南極の昭和基地で生き延びたタロジロほど
逞しくとは言わないが、せめて雑草だけには負けないで
おくれ・・と言ってもそれはむなしい願いなのです。

島のタバコ屋がみかん農業でチャレンジしたこと、それは
まるで「坂の上の雲」での203高地でした。うまくいく確証
も知識もないのに肉弾戦で挑んだのです。夏場の消耗戦
を戦い抜いた結果、さすがの元ガクラン体育会もほとほと
弱り果てました。
やはり一人農業、おまけに小銃(草刈機)一丁ではイクサ
にならないのです。となりの園地のおじさん連中は、慣れ
んことで無理して寝込まんようにせにゃ~と忠告してくれ
ました。元ガクランゆえ寝込みはしませんでしたが、自分
がアホみたいに見えてきて、情けなくなりました。
そんな時、夏目雅子ちゃんの笑顔が励みになったかどう
かは読者の想像にお任せ致します。
タケミツ3
ご近所のおじさん連中が見かねてアドバイスして頂き、
使うまいと思っていた除草剤(サンフーロンという有害
性の少ない薬液)を散布することにしました。
するとどうでしょう、2~3日であれほど強敵だったロシア
兵(雑草)がばたばたと枯れていくではありませんか。
何でもっと早くやらなかったのだろうと後悔もしましたが、
それにより、施肥とか剪定とか他の作業が出来るのです。
タバコ屋は腹を決めました。有機農業を無理にやろうと
せずに最小限の除草剤や殺菌剤は使っていこう、でない
と樹が枯れてしまっては元も子もありません。

何か胸のつかえ(有機農業のトラウマのようなもの)が
とれて、今では身も心も折れかかった農作業への意欲
(希望)がやや回復しようとしています。
とは言え、まだまだ病気の処置、剪定の方法などの技術
知識は素人レベルなので習得して行かねばなりません。
タケミツ4
しかしつらいことばかり多かったこの半年間でしたが、
楽しいこともなかった訳ではありません。写真はその203
高地の畑にみかんの新しい苗(温州みかん)を植えた場
面です。まだ育児方法もマスターしてないので珍しい新品
種などよりも病気等にも強い温州みかんを選びました。
これから近所のおじさん連中に色々教わりながら希望を
持って育児をやっていこうと思います。

前回のこまどり姉妹の記事でも書きましたが、今が最高
に幸せと思えるタフな心でこの困難を乗り切りたいと思い
ます。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
フェアレディZ2
全く突然の写真で恐縮ですが、島のタバコ屋がみかん畑
の203高地同様に5年間苦しんできたもう一つの203高地、
只今レストア中の「赤いお嬢さん」 こと、フェアレディZです。

元はと言えばゴテゴテのカフェレーサー風でくず鉄同然
だった可愛そうなお嬢さん、しかも40年も前のお嬢さん!
を引き取り(購入し)無謀にも、その当時のオカラダに戻す
ことを試みようとしました。
途中レストアの困難さに気持ちが折れかけ、もうやめよう、
売り払ってスッキリしようと思ったことは2度や3度ではあり
ませんでした。でも何とか踏ん張り、やっとここまで漕ぎ
着けました。
自分のイメージするサファリ、モンテを颯爽と駆け抜けた
あの240Zの雄姿にあともう少しで辿り着けるかも知れま
せん。
フェアレディZ2
以前、土佐紀行の記事の中で、ソレックスキャブの調子
が悪く、思うように走らないとぼやきましたが、辛抱した
甲斐があり、先日再整備されて帰って来ました。
まるで別の車のように元気よく走り出しました。サファリ、
モンテの走りとまではいきませんがケイサツのお世話に
ならない程度の走りは取り戻せました。またZ432用の縦
デュアルマフラーからは、迫力あるエキゾーストサウンド
の響きが聞けるようになりました。SOLEX独特の吸入音
とともに私にとってのサウンド・オブ・ミュージックです。
(関連記事:ヤマトとラムネ参照願います)
フェアレディZ1
アルトのおばちゃんには宮島バイパスでスッと抜かれ、
高知行きのR33号ではレクサスのオールバックのお兄さ
んに軽く抜かれ、私の大切なZはバカにされっぱなしだっ
たのです。
しかしもう大丈夫、強いお嬢ちゃんに変身したのは間違
いありません。タバコ屋がF1華やかなりし頃、毎年通い
詰めた鈴鹿サーキットまで持ち込んで走ろうとは思いま
せんがせめて一周30kmの中島サーキットは存分に走行
してみたいと思うのです。(ただし深夜ですヨ)
昼間うかつに乗ると地元の新聞に書かれてしまう恐れが
ありますので。

今回は皆さんにあまりご縁のないであろう農業について
長々と書くことになりました。
余談ながら、数年前松山市役所で農業者の新規登録と
いうのを済ませたのですが、審査の地元農業委員さん
曰く、地元の皆さんは農業をやめようかと言っているのに
まあ何と物好きな・・・・と仰いました。
タバコ屋の秘かな志はわかってもらえませんでした。
物好きで始めたんではないっちゅうに。

(尚、203高地の特別な記述の一部、写真等はウイキペ
ディアより引用させて頂きました。)


こまどり姉妹

平成24年11月5日
幸せって何だろう
幸せについて考える時、どう言う訳か、島のタバコ屋は
一番にこまどり姉妹の名前が思い浮かんで来るのです。
彼女らが、ある意味不幸の百貨店みたいな人生を歩んで
来たせいかも知れません。
「こまどり(駒鳥)」何と言う日本的なやさしい響きのコトバ
でしょうか。すずめの仲間らしいですが、西洋ではロビン
と言って、日本ではSUBARUの汎用機械用(農機具など)
ロビンエンジンのブランド名として長く親しまれて来ました。
余談ながらロビンエンジンはSUBARUの意欲作だったラビ
ットスクーターのエンジンを汎用にしたもので他社の製品
にも流用され100万台以上の生産実績を持つ隠れヒット
商品なのです。
戦前には日本を代表する航空機メーカーだった中島飛行
機出身にしてはSUBARUはセンスも地味でお堅いイメージ
でしたが、ロビンのネーミングはいかにも軽やかでおしゃれ
ですよね。
ヂャイアント号3
突然ですが、タバコ屋が昭和30年過ぎに島のバス会社を
やっていた頃、ご一党さんで島内の城(シロ)と言われる所
へ遊びに出かけた時の懐かしい写真です。後に写っている
のがヂャイアント号ですが一番左端に写っているスクーター
ラビット号なのです。
先代は、キカイ好きだったので、当時スクーターを持ってい
たのは島でも何軒もなかったように思います。写真ではよく
見えませんが、スクーターのフード前面両サイドには当時
衣料品部門で販売していたトンボ学生服のロゴが縦に書か
れていて、今から思うと先代も結構、広告宣伝ということに
関心があったようでした。
写真でおわかりのようにまだ高度成長に突入する前で、
貧しいながらもゆったりと時間が流れておりそれなりに懐
かしく楽しかった一シーンです。
ヴェスパが活躍したローマの休日ならぬラビット号がお出
ましの休日でした。ホンダスーパーカブ号が発売される
数年前のお話です。
こまどり姉妹1
こまどり姉妹(本名長内栄子、敏子)はタバコ屋が同志社
大学在学中の北海道遠征時に立ち寄った釧路の東方に
ある厚岸(あっけし)町生まれの樺太育ちで、極貧の中、
北海道各地を転々とし、ろくに学校にも行けずに長じては
門付け(かどづけ・・・三味線片手に門前で歌ってお金を
もらう仕事)をやってやっと飢えをしのぐような生活をして
いました。やがてお父さんと一緒に上京、浅草の夜の街
を流しで徘徊しているうちにスカウトされ、昭和34年には
浅草姉妹改めこまどり姉妹としてデビュー、昭和36年に
は紅白歌合戦にも出場し、その後7年連続で出場する等、
一躍スター歌手となりました。
こまどり姉妹2
こまどり姉妹の曲で思い出されるのがというよりタバコ屋
が好きなのはソーラン渡り鳥です。
「♪津軽の海を越えてきた~寝ぐら持たないみなしご
つばめ~江差恋しやニシン場恋し~三味を弾く手に想い
を込めてヤ~レンソ~ランソ~ランソ~ラン、歌うソ~ラン
あ~あ~渡り鳥~」
何とも言えない哀愁感を漂わせながら薄幸の双子歌手が
熱唱する場面は、演歌ファンならずとも記憶されている方
が多いのではないでしょうか。
ザピーナッツ2
もっとも、双子歌手ではそれより少し前にザピーナッツ
(本名伊藤エミ、ユミ)が「可愛い花」でデビュー、その後
「情熱の花」「恋のバカンス」等ヒット曲を連発、レコードの
累計売上げは1,000万枚以上という驚異的な記録で、団
塊世代の心に残るスター歌手でした。
ハナ肇と共演したTVのシャボン玉ホリデーは昭和36年
から昭和47年まで10年も続く長寿番組でした。
また意外なことですが映画「モスラ」の主題歌も歌ったりし
ました。ただ今回はこまどり姉妹がテーマなのでそれ以上
はまたの機会に致します。

こまどり姉妹は昭和40年頃に絶頂期を迎えますが、公演
中に狂信的なファンの思い入れにより(姉の栄子に結婚を
迫って果たせず)それも間違えて妹の敏子が刺され生死
をさまよう重傷を負いました。またそれ以降、父母の死、
妹のガン発病、姉の交通事故での怪我、スタッフの使い
込みによる多額の借金等、不幸の百貨店と言われるゆえ
んの出来事が次々に起こり、引退を余儀なくされたのです。

普通はそこで自暴自棄となりみじめな後半生を送るところ
ですがこまどり姉妹が偉いな~と思われるのは、それに
めげずにひたすら前向きに生きたことです。妹のガンとの
闘いに際しては姉の献身的な看護により奇跡的に回復し、
地道な地方公演等で莫大な借金も徐々に返済し、昭和
50年以降正式にカムバックを果たし現在に至っています。
こまどり姉妹3
最近徹子の部屋に出演した時の写真です。こまどり姉妹
のトレードマークは何と言っても三味線と振袖ですが、
このお年で振袖を召されると普通はお化けですがこまどり
姉妹は何故か様になっています。けなげでひたむきな姿
勢が感じられます。

三味線といえば、瞽女(ごぜ)のことが思い起こされます。
ごぜとは盲目の女性達が三味線を片手に各地を巡り、
その土地の風俗や説話などを弾き語りしたり、独特の節
回しを持つ「瞽女唄(ごぜうた)」にして唄い語るもので、
まだテレビやラジオが普及していなかった時代、新潟県
や東北地方など主に豪雪地帯の村落などで娯楽の一端
を担っていた伝統芸能の一つでありました。
また広島を中心とする瀬戸内海沿岸の各地では視聴覚
障害者が生活するための有力手段としてお金を出して
奨励した時期もあったと言われています。
斉藤真一2
ごぜをテーマにした画家に斎藤真一さんがいますよね。
「人間は、哀しみを抱えて生きている。
素朴にものを見つめると、この世に存在するということ
すら涙するほど愛しいものです。
花は傷つき散って行くが故に美しいのだと想います。
私は絵かきだが、表面だけの奇麗事より、生命の哀しさ
と喜びそして、尊さを一歩でも掘り下げて内なるものを
見たいと何時も思っています。」・・・彼の人生観です。
佐藤真一2
仲間を亡くしたごぜの悲しみを絵にした一枚です。描く
対象を極端にデフォルメし、悲しみを激しく独創的に表現
しています。
日本のモジリアーニとも言えるほどの創造力だと思います
が日本のオクルマの世界にもこのような独創的デザイン
が生まれないものでしようかね。どれもこれも同じトレンド
追っかけて。
今はアウディのヘッドライト回りのキラキラアイシャドウ
が流行りものトレンドで皆がマネしてますよね。
佐藤真一3
ごぜの一行が旅をし、夜道を次の村へ辿り着こうとして
いる絵です。思うにこまどり姉妹も五体満足ではありまし
たが、門付けの流しとしてこのように放浪した時期もあり、
ある意味現代版ごぜとも言えるのではないでしょうか。
こまどり姉妹5
こまどり姉妹はそれこそハツラツとした笑顔と愛らしさで、
その薄幸な前半生を断ち切り、またその後の予期せぬ数
々の不幸を不屈の闘志で乗り切りました。
ごぜのごとく門付けの苦しい時代をしのいできたからこそ
それが出来たとも言えますが、二人の明るく前向きな性格
がそうさせたとも言えます。

浄土真宗の創始者、親鸞聖人の残された言葉、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は有名で
すが、ここで言う善人とは自分で悟りが開けるような天才
のたぐいで悪人とは煩悩が断ち切れない我々庶民一般
のことを言っています。犯罪人という意味ではありません。

親鸞聖人が言われるのは悲しみを悩んでいてもくよくよ
しても始まらないのだから、自分は阿弥陀如来(見えざる
御仏の慈悲)によって救われることをひたすら信じなさい。
それが真実かどうかなんて問題ではなく、実は私にもわ
からないんだよ、先輩でもあり師匠でもある法然聖人が
そう言っているので、煩悩を自分で解決出来ない私は
ただそれを信じるだけなんだよ。
そして心の安らぎを得たならば、そのお礼感謝の気持ち
として南無阿弥陀仏のコトバを唱えようよと言っています。

教祖らしからぬ素直で人間臭い言葉ですよね。
つまりサンキューみ仏様と言うことです。
一般にはわかりづらいでしょうが、浄土真宗の教えの根
本は見えざる御仏の慈悲と慈愛、それに対する感謝が
すべてなのです。

プロテスタントのキリスト教においても賛美歌の中で、
慈しみ深き友なるイエスは~罪、とが、憂いを取り去り給
う~、心の嘆きを包まず述べて などかは下ろさぬ 負え
る重荷を~
つまり閉じこもってないで悩み悲しみを打ち明けなさいよ、
絶対神であるゴッドがこの世に使わしたイエスキリストに
よりその悩み悲しみを一手に引き受けて皆を救ってくれる
でしょう、
と言っているのです。もっともキリスト教の場合は最後の
感謝の言葉はアーメンですが・・・。

よく似ていますよね。ただし前提となるのはフィクションで
あるかどうかでなくそのことを信じるかどうかなのです。
結果としてあるのは、やさしい母親の胸に抱かれるように
安心と信念をもって悲しみ、悩みに対処出来るということ
でしょうか。
(関連記事:お尻だって洗ってほしい参照願います)
こまどり姉妹4
こまどり姉妹が真宗門徒であったともクリスチャンであっ
たとも聞いたことはありませんが、二人の姉妹がもし信じ
ていた神があったとしたらそれは「明日への希望」だった
のではないでしょうか。そうでなければ絶望の中から奇跡
の復活を遂げた理由が見つからないのです。

こまどり姉妹の持ち歌の中に「幸せになりたい」というの
がありますが、歌詞をご紹介しておきます。
「この世に生きる喜びなんか、誰も教えてくれはせぬ
意地を張っても心じゃ泣ける、自分にうそはつけないさ
幸せに~、幸せに~なりたいの」
姉妹自身の人生にもオーバーラップするものがあったの
ではないでしょうか。

松本清張氏の「砂の器」でもないでしょうが、せっかく築き
上げたと思ったらよもやまさかでもろくも崩れ去るこの儚い
人生、ささいなことで仲良くしていた人とも一夜にして台無
しになる現実、争いや怒り、かけがえのない人との別離や
死別、お金の破綻、病気の苦しみ、もう煩悩はめくるめく
際限がないと思います。

こまどり姉妹がたどった不幸の百貨店の境遇を皆さんす
べてが経験されてはないでしょうが(ない事を願います)
その事から逃げずに前向きに取り組むことが大切だし、
幸せになりたいと思うことから一歩踏み出し、「今が最高
の幸せと思う心
」がより大切なように思います。
その言葉の裏には我欲を程々にセーブし、回りの人への
感謝、思いやりの心が秘められていますよね。
神を信じている方達はそれからもう一歩進んで、自分が
生かされているこの世界で、見えざる神(み仏やゴッド)
への帰依と感謝に至っている訳です。
フィクションかどうかは問題でなく、一つの神(絶対不変)
を信じることにより、自分が変わり、まわりの見方も変わり、
行動も変わってくるということではないでしょうか。
やや難しい内容となってしまいましたが。実践は難しいも
のです。

余談ながら、あのサクセスストーリーを地で行き、自分の
欲しいものはすべて手に入れた豊臣秀吉ですら、最晩年
は心の安らぎというものはなかったように思われます。
辞世の句として、以下の短歌を残しています。
「露と落ち露と消えにし我が身かな、
 難波のことも夢のまた夢」
稀な成功者の彼もまた煩悩多き人生だったのでしょう。

話はずいぶん飛びますが皆さん重い記事を読んでおな
かが空きませんか。こまどりではないものの、タバコ屋が
高校時代から通ってきた松山のことり食堂さんをご紹介
します。
ことり4 ことり1
45年間ほとんど変わらない店頭と店内です。松山銀天街
の裏通りにありますが、表通りのお店はほとんど入れ替
わってしまったのに生き残っているのは奇跡というか不思
議と言うか・・。
ことり7
しかもその隣はアサヒ食堂でその二軒とも唯一のメニュー
は「鍋焼きうどんとお稲荷さん」なんです。欲張らないの
です。
鍋焼きうどん460円、お稲荷さん2個240円というのも、
私が高校生だった頃から世間相場に比べて少ししか上
がっていないように思われます。タバコ屋はショーバイ人
のプロとして考えさせられるものがあります。
ことり1 ことり3
その鍋焼きうどんですが、私らの子供時代からアルマイト
の鍋とレンゲを使用しています。お味はいりこのだしが効
いた甘口で、お客さんはおもにおばちゃんと高校生です。
タバコ屋は高校時代、松山で三年間生活しましたので、
試験が終わるとまず友達と「ことり」で鍋焼きとお稲荷さん
を食べ、それから近くの「銀映」という映画館で封切り映
画を見るというのが定番でした。
当時の封切り洋画ではイーストウッドの「夕日のガンマン」
とか、マカロニウエスタンが大流行りでしたが、今となって
は懐かしい思い出です。
蛇足ながら、ことりついでに言いますとその昔、広島三原
方面にはことりのおじさんという予言者のような方がいて、
煩悩で悩める人たちを随分幸せに導いてあげたとか。
その恩恵を受けられた広島のO氏が何かの折に言われて
ました。

幸せって何でしょうね。
私は一介の凡人にて、皆さんに幸福とは何か、語る資格
も経験もありませんが、今回こまどり姉妹のことを書かせ
て頂いて、自分自身のヒントになるようなものがぼんやり
と浮かんで来たように思います。
どうも成功や名声やお金ではないことは確かなようです。
それらがまったくないというのも寂しい話ですが・・・。

(特別な記述や写真の一部についてはウィキペディアより
引用させて頂きました。)


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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