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GTのお話 vol.2

平成24年12月24日
今年もあとわずか残すのみとなりました。その間いろい
ろなことがありました。2月には最愛の母を見送りました。
父を見送った時もものすごく悲しかったですが、母の時
は理屈抜きで最後の火葬の時は不覚にも涙を流しました。
一番可愛がってくれた母だけに、それこそ、先の悲しい戦
争時、若き特攻兵士が最期の時に、天皇陛下でなくお母
さんと言って散っていった気持ちがわかるような気がしま
す。同じ子供でも特に男性は多かれ少なかれそういうと
ころがあるような気がします。

母はいつも言っていました、人間には4種類あると。
賢こ賢こ、賢こアホウ、アホウ賢こ、アホアホ、
母はそれこそ尋常小学校しか出ていない大正時代人間
で、教育もろくに受けず、教養もありませんでしたが、
健次よ(タバコ屋の実名)出来ればアホウ賢この人間に
おなり、と言っていました。それと勉強はあまりしたらいけ
んよとも言っていました。
母は生粋の商家(呉服屋のイトハン)だったので、なまじ
教養がつくと商売に差し障ると考えたのでしょう。
でも小さい頃は勉強のことは結構きびしく強制されたの
ですがそれは躾という意味が大きかったのでしょう。

そのせいで、夏休みはいつも田舎に帰って存分に遊びた
かった京都の従兄弟は遊び仲間のあてがはずれて悔しい
思いをしたのではないかと思うと、申し分けないことをした
と今でも思っています。でもそれも夏休みの午前中だけの
お話ですが、小さい子供にとっては待ちきれない時間だっ
たのではないかと思います。
特に朝早くから近くの森でクマゼミやアブラゼミの大合唱
が始まると、従兄弟にとってはセミ採りに行きたくて行きた
くて、居ても立ってもいられなかったのだと思います。
ただし午後にはすぐそこの浜での海水浴と、その後では
井戸で冷やしたスイカが待っていました。
その時、従兄弟といっしょに一生分のスイカを食べたの
で、今ではあまりスイカを食べる気がしなくなりました。

私は、可愛がってくれた母を喜ばすためには、学業で良
い成績を取ることだと思っていたのですが、どうもそうで
はなかったようで中学とかになり年を経るごとに、なるべ
く勉強をしないでくれと言われるようになりました。
タバコ屋もやや肩すかしの感があり、京都の八つ橋から
七つ引いた名前の大学を目指しかけたこともありました
が、あほらしく思いやめてしまいました。母は自分が一生
を捧げた家業を継いでほしかっただけなのです。そのこ
とは後になりよくわかりました。アホウ賢こ、なかなか意
味の深い言葉だと最近思います。

正岡子規の親友で、明治を代表する小説家、夏目漱石も、
小説草枕で「智に働けば角が立つ 情に棹せば流される
意地を通せば窮屈だ」という言葉を残していますが、母は
無教養ながらショウバイを通じて人生の機微を察しアホウ
賢こが良い生き方だと信じるようになったんだと思います。

ちなみに母はどのような理由があろうとも争いごとを極端
に嫌っていました。尚、母は実母ではなく伯母であり義母
でしたが、実の子以上に可愛がってくれたご恩は忘れが
たく、タバコ屋が最も畏敬する人の一人です。今は一人
ぼっちのタバコ屋となりました。

前話が長くなってしまいました。
今回は先日のGTのお話の続きがテーマなのに、出だし
からあらぬ方向に行ってしまいました。
さて先日は浮世離れしたGTのお話でしたが、今回は我々
庶民のレベルで、ともかく昭和40年代前半に限定してGT
オブザイヤーをご紹介したいと思います。ただし一般認
識とはやや異なるかも知れませんがお許し頂きたいと思
います。

西のGT代表はアルファロメオ1300GTジュニア、または
VWシロッコでしょうか。
東のGT代表はいすず117クーペ、またはHONDA-1300
クーペでしょうか。
アルファロメオ1300GT-6
いかにも時代を感じさせる写真ですが、アルファロメオ
1300GTジュニアです。昭和38年発売のアルファロメオ
ジュリア・スプリントGTがオリジナルモデルですが何分
高価で、昭和40年代になりさらなる性能の向上と、もっ
と大衆にも買いやすい価格の要請が高まりジュリア・
スプリントGTが上級車種に移行したのを機会に昭和42
年(1967年)その派生車種として誕生しました。
アルファロメオ1300GT-10
元祖アルファロメオ・ジュリアスプリントGTです。舌を噛
みそうな長たらしい名前ですね。1300GTジュニアとボデ
ィは一緒なので見分けがつきませんが、しいていえば
フロントグリルに横一線のバーがついているのが1300
GTジュニアです。
当時としては高性能な直4-DOHC1600ccエンジン、5速
トランスミッション、4輪ディスクブレーキなどの最先端技
術が採用されていました。
高性能なGTであることはもちろんですが、このモデルの
最大の特徴はベルトーネ・デザインのボディにありました。
ベルトーネの若きチーフデザイナー、ジョルジェット・ジウ
ジアーロがその才能を遺憾なく発揮したスタイルは、4座
席の快適なGTカーとしての機能を備え、そのボディは
清楚でエレガントであるだけでなく、GTカーの力強い塊
感を表現した、ジウジアーロの傑作の一つとして歴史に
残るデザインでした。
事実この1300GTジュニアはアルファロメオのドル箱車種
としてその後の躍進とイメージアップに随分貢献しました。
結局アルファロメオにとってロングセラーとなり、昭和52
年頃まで延べ10年間にわたり生産されました。
アルファロメオ1300GT-11
1300GTジュニアをややマニアックに改造した写真です。
フェンダー横の四ツ葉のクローバーは当時のアルファロ
メオのレーシングカーによく描かれていたイニシャルマー
クです。日本ではレーシングメイトのマークもこれによく
似たものでした。
1300GTジュニアのデザインの特徴としてボンネット前部
分に段差がついていることでアルファだけの独特なデザ
インです。
アルファロメオ1300GTエンジン-5
そのエンジンルームです。4気筒DOHC-1600ccですが
現代のDOHCエンジンに比べ2本のカムシャフトの間隔が
広くやや間伸びしたような感じを受けます。
当時の最先端ではあるものの、随分シンプルなメカで
現代基準では物足りないほどです。カムカバーの端には
誇らしげにalfa romeoのロゴが刻印されています。
アルファロメオ1300GTコクピット-1
1300GTジュニアのコクピットです。ふつうのオクルマと違
い、ドライバーズシートに座っただけで、ある種の緊張感を
伴う独特の雰囲気が漂っています。これはただものでは
ないぞという・・・。
アルファロメオ1300GTエンブレム-2
フロントマスクについているアルファロメオのエンブレム
です。左が十字架で右が蛇をデフォルメしたいわば紋章
の類です。
またアルファロメオはどの車種もフロントグリルにこの逆
三角の盾をモチーフにした飾りを付けるのがならわしで、
それがまたアルファロメオであることの証となっています。

ヨーロッパ車はどのメーカーもこのブランド・アイデンティ
ティを死ぬほど大切にしますが日本車はデザインを一夜
にしてそっくり変えてしまうのがお家芸となっており、民族
性や歴史の違いと言ってしまえばそれまでですが、この
辺りはヨーロッパ車を見習いたいところです。
(関連記事:GTのお話 vol.1参照願います)
アルファロメオ1300GT-7
当時のツーリングカーやGTのレースでも大活躍しました。
レースの世界もフェラーリやポルシェばかりでなく、一般人
に手の届くクルマでレースを競うことも大切なことで、その
格好の素材として1300GTジュニアは大人気だったのです。
性能はともかく、工業製品ながら何とも愛らしい表情だと
思いませんか。
カルマンギヤ
突然の写真で恐縮ながらVWのカルマンギアです。
基本的にはVWビートルをベースにしたおしゃれなGTで、
性能はごくおとなしい淑女でしたが、ドイツ車らしからぬ
その優美なデザインで人気を博しました。同じGTといっ
てもイタリアの熱き血を体現したアルファロメオの荒ぶる
イメージと違いクールな優雅さといったイメージを持って
いました。
しかし時代は大きく変わろうとしていました。もう優美さだ
けでは売れなくなったのです。その原因の一端として日
本車の大躍進がありました。大爆発にも近いものでした。
主力のアメリカ市場において、当時VWはビートルを擁し
て輸入車NO.1の地位にありましたが、日本車の急激な
追い上げによりその地位は脅かされやがて奪われること
になるのです。NISSANのブルーバード、フェアレディZの
成功がその最たるもので、同じドイツのポルシェも同様に
苦しい状況に追い込まれていました。
(関連記事:荒ぶる心 vol.5:ポルシェのこと参照願います)
初代ゴルフ2
日本車の急激な追い上げに対し、このままではやばいと
思ったかどうか、VWは長らく主力車種であったビートルの
後継として全く新しい大衆車を開発することとなり、昭和49
年(1974年)初代ゴルフを発売しました。ゴルフについては
皆さんよくご存知なので申し上げるほどのことはありませ
んが、当時新しいトレンドとなりつつあった前輪駆動、横置
きエンジン、2BOXスタイル(トランク部なし)を採用した新し
い時代を告げる進歩的なオクルマでした。

さてVWシロッコのことです。
上記のカルマンギアはビートルがベースだったので、
ゴルフをベースにした新しいGTの後継機種が必要とな
りました。
そこで開発されたのが、ゴルフの上級機種としてのシロ
ッコでした。VWは一連の車種に風の名前を付けるのが
お得意で、ゴルフ(ガルフ)、パサート、ボーラ、等すべて
その流れであり、ちなみにシロッコとは北アフリカの砂漠
地帯から地中海地方に吹き込む熱風の名前です。
シロッコ3
初代VWシロッコです。メカニズムはほとんどゴルフといっ
しょですが、2ドアハッチバックというタバコ屋の大好きな
レイアウトを持つ近代的なボディをまとって登場しました。
エンジンは水冷直列4気筒SOHC-1500ccが主力でしたが
高性能版1600cc燃料噴射仕様のGTIも用意されました。
これが何故GTなのか疑問を持たれる方も多いと思います
が、アルファロメオ等の熱きイタリア車と違い、ドイツ車、
特にVWは非常に表現が地味というか性能表示はたいした
ことないのですが、いざ乗ってみると非常にキビキビとよく
走り、エンジン音も魅力的で、地味ながらもGTと呼ぶに
ふさわしいクルマでした。
そのスポーツカー的な走りのもう一つの理由はその軽さ
にもありました。現代では1トン以上が常識ですが、シロッ
コはわずか800kgあまりでいわゆる絶対性能より相対性
能、(業界用語ではパワーウエイトレシオ)が優れていた
のです。そのような訳で今回シロッコGTIを西のGT代表
に挙げました。
シロッココクピット1
シロッコのコクピットです。イタリア車と違い熱いものは
あまり感じられず、機能的ではあるもののドイツ車特有の
素っ気ないデザインです。シートの風呂敷のような柄には
笑ってしまいそうですがご愛嬌でしょうか。この頃より信
頼性の高さからドイツ車が選ばれ欧州車といえば地味で
シンプルなドイツ車が主流になっていきます。

こうしてみると、何やらラテン代表とゲルマン代表の一騎
打ちのようですが、シロッコはアルファロメオ1300GTに比
べ、設計やデザインに7年の開きがあり、同一に優劣を比
較するのは無理な話ですが、それぞれの良さがあり、
甲乙付け難く2車の選定となりました。
ついでながら、初代ゴルフ、シロッコをデザインしたのは
誰あろう、あのジョルジェット・ジウジアーロで、アルファロ
メオ1300GTの曲線的デザインから一転、非常にシャープ
で直線的デザインを取り入れました。新しい時代のトレン
ドがうまく表現されています。
偶然にも2車種とも同じデザイナーの作品となってしまい
ましたが、これもタバコ屋の好みが反映されたせいなの
かも知れません。つまりジウジアーロの作品がお気に入
りということです。
アコードハッチバック
話は飛びますが、シロッコよりやや遅れて2年後の昭和
51年(1976年)に発売されたHONDAアコードハッチバック
はタバコ屋が自分のお給料で買った初めてのクルマでも
あるのですが、シロッコとデザインがよく似ていると思い
ませんか。
パクリとは言いませんけど、HONDAはアメリカに売り込む
ため当時の競争相手だったVWの研究は相当していたは
ずです。想像ながらデザインコンセプトはまったく一緒だと
思うのですが、HONDAはパクリを否定するでしょうから
おそらく偶然の一致だったのでしょう。
いすず117クーペ8
さて東の代表はまず、いすゞ117クーペです。このGTカー
は昭和43年(1968年)に発売されました。トヨタ2000Gtが
発売された翌年ということになります。メカニズムは後輪
駆動で、エンジンは水冷直列4気筒の1600ccDOHCで、
サスペンションは何とセダンのフローリアンと共有で、
前輪ダブルウィッシュボーン、後輪リーフスプリングリジッ
ドのやや保守的な構成でした。

最大の特徴はそのボディスタイリングにあり、流麗な4座
クーペボディは、当時イタリアのギア社に在籍していた
ジウジアーロのデザインで、国際デザインコンクールで
大賞を受賞した作品でもありました。その惚れ惚れする
ようなラインは当時の国産技術ではプレス加工での再現
が難しく半ばハンドメイドでの生産でやっと発売にこぎ着
けた経緯があります。
いすず117クーペエンジン4
当時の高性能GTの文法どおりのエンジンです。際立って
高性能という印象はありませんでしたが、流麗なクーペ
ボディを190km程度まで引っ張れるパワーを持っていまし
た。また後期型では、日本で初めての燃料噴射装置
(フューエル・インジェクション)を採用しました。
いすず117クーペコクピット1
117クーペのコクピットです。GTカーの室内はかくあるべ
しとジウジアーロが言ったかどうかはわかりませんが、
そのメッセージは込められていると思うのです。シンプル
なレイアウトの中にもGTとしての気構えがあり、ウッドを
多用するなど、豪華なツアラーとしての配慮もされていま
す。タバコ屋が過去、現在のオクルマの中で最もお気に
入りのコクピットで、何日でも座っていたい気がします。

ただ笑ってしまいそうなほど時代を感じさせるのは、助手
席のダッシュ下に取り付けてある吊り下げ式のクーラー
で、今では軽自動車でも標準のエアコンなるものは発明
されておらず、もっぱら冷やすだけの装置でした。それも
煙状の霧が出てきたりして車の性能に対しお粗末なもの
でした。
車載オーディオも8トラからやっとコンパクトなカセットテー
プに変わった頃ではなかったでしょうか。CDなどは夢の
また夢の時代でした。

余談ながら117クーペはある種の日本記録を持っていて
未だ破られていないそうです。その記録とは発売以来
10年以上も廃車届けが一台も出なかったそうで、それだ
け大切に乗られてきた、日本でもまれなGTカーであった
訳です。
ホンダ1300クーペ1
東の代表GTのもう一台はHONDA-1300クーペです。
発売は昭和44年(1969年)で、当時四輪車市場へ軽の
N360で衝撃的なデビューを果たし、いきなりトップシェア
を獲得して勢い付いていた頃で、HONDAとしては普通車
の市場へも本格的に参入を図るべく鋭意開発されたのが
HONDA-1300シリーズでした。
当時はまだ創業者の宗一郎氏が現場で陣頭指揮を取っ
ており、彼が主導した最後の作品と言ってもいいクルマ
でした。
凝り性の宗一郎氏が指揮を取ったクルマだけあってその
メカニズムは独創的かつ画期的なものでした。主なスペッ
クはエンジンが前代未聞の2重空冷式SOHC-4気筒横置
き1300ccで、前輪を駆動し、サスペンションは前輪マクファ
ーソンストラット後輪クロスビーム式の4輪独立懸架でした。
ホンダ1300エンジン-2
その最大の特徴であるエンジンです。SOHCながらキャブ
レターはケイヒン製CVキャブを4連装し、115馬力を発生し
ました。他のGTカーなどと比較してもその排気量当たり
の出力は抜群で、総合性能うんぬんよりもその強力な
エンジンで車体を引っ張るというイメージがありました。
当時HONDAはF1に参戦しておりその切り札として空冷
V8エンジンを搭載したRA302を投入しようとしている最中
で、この1300クーペとそのイメージをダブらせ、ショウバイ
との相乗効果を狙ったものと思われます。
しかしRA302の悲惨な事故によりその目論見は崩れてし
まいました。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期参照願い
ます)

しかし、1300クーペ自体は空冷特有の騒音も2重空冷方
式という凝ったメカニズムにより低く抑えられ、また同じ
シリーズのセダンでは凝った重いエンジンの負担による
クセのある操縦性もクーペでは随分改善され乗りやすい
ものとなっていました。
その結果、抜群のパワーと流麗なクーペデザインにより
非常に洗練されたGTカーとして一時代を画するものとな
りました。当時としては随分日本車離れしたオクルマだっ
たと思います。また当時は若かったタバコ屋のあこがれ
のクルマでもありました。

ついでながら、凝り性でもありハイカラでおしゃれ好きで
もあった宗一郎氏はデザインにもうるさく、アメリカへの
売り込みを意識していたこともあり、ハデでかっこいい
クルマにデザインせよといちゃもんを何度もつけ、デザイ
ナーを困らせたという話です。
出来上がったデザインはセダンとは正反対の完全にアメ
リカンテイストのアグレッシブなものとなりました。
尚、1300クーペはHONDA自前のデザインでした。
ホンダ1300クーペコクピット
非常にスポーティでイタリア車ともドイツ車とも違い、当然
国産車とも一線を画したマニアックなしつらえでした。
やはり当時F1に参戦していたこともあり、マニアを痺れさ
せる一種の演出というのは上手だったように思います。
いくら凝り性の宗一郎氏でもエアコンの発明までは手が
回らなかったようで117クーペ同様、グローブボックス下に
はいわゆるクーラーがぶら下がっています。
ホンダ1300クーペ6
色鮮やかな黄色の1300クーペ登場です。
タバコ屋が同志社大学自動車部に在籍中の2回生頃だっ
たでしょうか、2年先輩のということは4回生のS主将(キャ
プテン)がある日このまっ黄色のおろしたて1300クーペで
ガレージに乗り付けたのです。
誰か横に乗りたいもんおったら、奈良の家までいっしょに
来てもかまへんで~、と言われるので、タバコ屋はまたも
後先考えずに同乗させて頂きました。以前にも同様のこと
がありましたが・・。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
緊張でどこをどう走ったか忘れましたが、途中ガソリンス
タンドに寄り、給油時にメーターをチラッと見るとほとんど
空でしたが、先輩はガソリン20Lと言われるので、一瞬不
思議に思いました。ああそうか給油は別に満タンにする
必要はないんやと妙に感心した記憶があります。
あこがれのクルマに初めて同乗した嬉しさで、先輩の家
に泊めてもらったのやら、その日に電車で帰ったのやら
さっぱり記憶にないのですが、加速が素晴らしかったこと、
音が静かだったこと、コクピットが異国風のものに見えた
ことなどは今でも鮮明に憶えています。それとおろしたて
の新車の匂いも・・・。

今回2回に分けて昭和40年代東西GTカーのご紹介を致
しました。何分タバコ屋が見聞した範囲と自分の好みで
選定したもので偏ったものであることは承知ですが、
読み物と割り切って頂けると有難いです。

それにしてもあの時代、日本車は怒涛のごとく実用車か
らGTに至るまで開発し世界で売りまくって今日に至りま
した。GTの定番であるスカイライン2000GTやフェアレデ
ィZ、トヨタレビン、また意外なところで三菱ギャランGS等、
魅力的なGTカーが次々に生まれた時代でした。
ちなみに、三菱ギャランGSのデザインは、あのジウジア
ーロのオリジナルデザインをもとに三菱社内でまとめた
ものでした。
40年代というのはそれこそきら星のごとく魅力的なGT
カーが生まれた時代で、まだまだご紹介したかったクルマ
は多くありますが、紙数も限られるためこのあたりで昭和
40年代、東西GTカー対決については、ひとまず終わりと
させて頂きます。

(尚、特殊な記述や写真の一部はウィキペディア及び雑
誌ノスタルジックヒーローより引用させて頂きました)


GTのお話 vol.1

平成24年12月21日
GTと言えばオクルマの世界ではグランドツーリングカ
ーのことでグランドツアラーまたイタリア語ではグラン
ツーリスモとも呼ばれます。その意味は読んで字のごと
く、グランドツーリング(大旅行)つまり長距離をこなす
スポーツカー並みの高速走行性能と一般乗用車の快
適な居住性を兼ね備えたスポーティな乗用車のことを
指します。
タバコ屋のGTの定義には上記プラス、ハイカラが加わり
ます。

現代では多くのメーカーから選択に困るほど、魅力的な
GTカーが発売されていますが、タバコ屋の青春時代即ち
昭和40年代はそうではありませんでした。欧米はかなり
成熟した技術やデザインセンスを持っていましたが、日本
メーカーはまだ発展期であり、欧米に追いつき追い越せ
が合言葉の時代でした。

そのような熱き昭和40年代に限定して、GTオブザイヤー
でもないですが、タバコ屋が選んだ代表的なGTカーを
ご紹介しましょう。まず我々とは縁もゆかりもない、浮世
離れしたGTカーの東西横綱をあげますと、西の横綱は
アストンマーティンDB5、東の横綱はトヨタ2000GT
でしょうか。
アストンマーチンDB5-20
そのアストンマーティンDB5です。発売は昭和38年で
改良型のDB6を含めて昭和45年まで製造されました。
アストンマーチンDB6-1
アストンマーチンDB6です。基本構成はいっしょですが、
外観の一部、たとえばバンパーが2分割になるなど若干
の変更がされています。当時のタバコ屋にとっては最新
鋭のオクルマでしたが、今となってはクラシックカーと呼
べるカテゴリーでしょうか。
アストンマーチンDB9-4
蛇足ながらフロントグリルの形状が独特のデザインで、
そのモチーフは現代のDB9にも忠実に生かされています。
一つのモチーフを継続し、ブランドアイデンティティを構
築していくというやり方は欧米ではよく見られますが、
こういうところは国産車も見習うべきではないでしょうか。
アストンマーチンDB5-エンジン3
エンジンンのスペックは3995cc水冷直列6気筒軽合金製
DOHCエンジンを搭載。3基のSUキャブレターから280馬
力を発生しました。今では古式ゆかしいメカニズムですが
当時は眩しいほどの最新鋭メカでした。
アストンマーチンDB5-BOND1
いきなりの写真で恐縮ですが、皆さんよくご存知の映画
007シリーズの主役ショーンコネリーとDB5です。
コネリー演じるイギリス秘密諜報部員ジェームズ・ボンド
の乗るオクルマとして、ゴールドフィンガーで初登場し、
その後何作にもわたってボンドカーとしてこのDBシリー
ズが採用されました。イギリスを象徴する香りのようなも
のがあったのでしょうか。
アストンマーチンDB5-BOND3
いわゆるボンドカーです。フロントにはマシンガンがあり
~の、リアホイールからはのこぎりがせり出し~の(これ
は完璧にベンハーの戦車競走のシーンのパクリだと思
うのですが)
(関連記事:鈴鹿サーキットのことVOL4:絶頂期参照願い
ます)
その他、煙幕やオイル撒き散らし装置やら無線連絡装置
やら荒唐無稽なものばかりでしたが、今日唯一実用化さ
れたものとしてカーナビが装着されていました。それと車
載電話も。
アストンマーチンDB5-コクピット2
DB5のコクピットです。若い頃のタバコ屋はこのメカメカ
したコクピットがとてもお気に入りで、当時の国産車の
おもちゃみたいな計器類と比べ、ため息をついたもの
でした。
ただステアリングの径は時代を反映して極端に大きい
です。このコクピットのイメージはやがてHONDA-S600
へとコピーされることになります。(HONDAは否定するで
しょうが、それは当時のトレンドだったのだと思います)
ホンダS800-7
ちなみにHONDA-S800のコクピットです。全体の雰囲気
がよく似ていると思いませんか。同時代であったせいも
ありますが。

さて東の横綱ということになるとトヨタ2000GTでしょう。
トヨタ2000GT-3
トヨタ2000GTは昭和42年から45年までの4年間製造
された走る芸術品とも言えるGTカーで、当時の日本の
自動車技術の粋を結集して作られました。わずか4年間
の製造でしたが、発売2年後には外観をやや変更した
後期型に移行しました。
トヨタ2000GT-4
トヨタ2000GT後期型です。基本は変わりませんが外観
ではフロントのライト周りがリファインされています。
トヨタ2000GT-11
トヨタ2000GTのリヤビューですが、ある意味デザインが
最も美しく見える角度だと思います。
トヨタ2000GTエンジン-1
そのエンジンです。ボディーが芸術品なら、エンジンも
惚れ惚れするような機能美を備えており、スペックなど
どうでもいいようなものですが一応説明しますと1988cc、
DOHC直列6気筒、最高出力150馬力で、今では何の
変哲もない数値ですが当時としては大変な高性能でし
た。尚、キャブレターはレーシングカーに使用されてい
たソレックス製で排気管は各々独立したタイプでした。
また足回りは前後ダブルウィッシュボーンという贅沢な
メカを採用していました。

このクルマが世に出た裏話については、オクルマ好きの
方にはよく知られていることながら、もともとトヨタが開発
したものではなく、当時ヤマハが日産と共同で開発を進
めていたスポーツカーの企画がご破算となり、ヤマハと
してはあきらめきれず、その企画をトヨタに持ち込んだと
いう訳です。
トヨタも実用車の開発でスポーツカーどころではなかった
ものの旗艦となるようなクルマはほしかったようで、その
企画を採用し、共同開発の形でトヨタの設計技師等を
ヤマハに派遣、完成に漕ぎ着けました。しかし実質的な
開発、製造はヤマハが担当しトヨタブランドでの発売とな
りました。ただしエンジンのみはトヨタクラウン用M型エン
ジンをベースにヤマハがDOHCに改造しチューニングを
施したものを使用しました。
トヨタ2000GTエンブレム
トヨタ2000GTのエンブレムですが、どこにもヤマハの名は
出ていません。当然と言えば当然ですが、実質はメイド
バイ・ヤマハだったのです。

後日談ですが、ヤマハの企画を断ったニッサンはその後、
自社開発にてあのフェアレディZを生み出すことになります。
時代はスポーツカーの分野においても従来のスパルタン
なオープン2座ロードスターの形態から、長距離もこなせ
快適装備を備えたGTへと移行しつつある過渡期でした。
トヨタ2000GTはハンドメイドの逸品物、一方フェアレディZ
はアメリカ向けの量産スポーツカーという違いはあったも
のの偶然にも高性能GTカーというそのコンセプトは似通
っており、双方の開発の原点にはヤマハの企画があった
ことは、歴史の皮肉としか言いようがありません。
トヨタ2000GTコクピット-5
トヨタ2000GTのコクピットです。 開発の主体がヤマハだっ
たため、ピアノの木工技術が存分に生かされ、これまた
惚れ惚れするようなまるで工芸品のような仕上がりとなり
ました。値段に糸目をつけず何もかも超一級品で仕上げ
たため、お値段の方も当時としてはべらぼうな238万円で、
トヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車の
カローラが6台買える程に高価でした。当時の大卒の初
任給がおおむね2万~2.5万円前後でしたので、今で言え
ば1,500万円から2,000万円に相当する価格で、我々庶民
にとっては想像を絶する超高額車でありました。
それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わな
い価格設定であり、全生産期間を通じて常に赤字での販
売だったそうで、トヨタにとっては高い宣伝費となりました。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
007トヨタ2000GT-1
突然の写真で恐縮ですが、これはアストンマーティンDB5
同様、映画「007は二度死ぬ」で使用されたボンドカーです。
正確にはジェームズボンドのクルマではなく丹波哲郎扮
する日本の公安ボスのクルマという設定だったのですが、
トヨタはこの映画に使用するために突貫工事で屋根を切り
取り、オープンカーに作り直したとか。写真に写っている
のは映画に出演した若林映子さんで、運転免許がなかっ
たというオチがあり、走行シーンは代役それも男性がカツ
ラを被って撮影したそうです。
ワイヤメッシュのホイールが時代を感じさせます。
007-1.jpg
007は二度死ぬのポスターです。この映画は昭和42年
封切りで、当時タバコ屋は高校生でしたから、多分試験
が終わった帰りに友達と銀天街の裏通りの、ことり食堂
で鍋焼きうどんを食べた後、スバル座(松山の映画館)
に見に行ったのだと思います。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
ストーリーは例によって荒唐無稽なもので、毎回ボンドの
敵役であるスペクターの首領ブロフェルドが今度は日本
で有毒植物を植え、蛇やサソリ・毒蜘蛛・ピラニアなどを
放し飼いにしたため、全国から自殺志願者が殺到し、
犠牲者が500人以上にもなり、公安当局も手を焼く中、
我らがボンドが乗り込むという馬鹿げた筋書きです。
浜 美枝3
突然ですが浜美枝さんです。タバコ屋より年上なので
今ではおばさんですが当時は初々しいお嬢さんでした。
その日本人離れしたオカラダでボンドの相手役に抜擢
されました。
浜 美枝6
美枝さんは海女でボンドと偽装結婚しブロフェルドのアジ
トに潜入するという相当無理な設定でした。ただし美枝さ
んは泳げず潜れずで、代役は何とショーン・コネリーの本
当の奥さんが同伴で来ていて、急遽その役を買って出た
とか!?。
浜 美枝4
偽装結婚した二人がスペクターのアジトを突き止める工
作を始めるのですが・・・。撮影は瀬戸内海のタバコ屋の
島、中島でと言いたいのですが、残念ながら鹿児島県の
坊ノ津で行われました。     

最後は例によって、ボンドがスペクターをやっつけ、ブロ
フェルドが憶えてろよとか何とか言ってペットのペルシャ
猫を抱きかかえて逃げるというバカなお話です。
この作品が印象的なのは撮影がすべて日本で行われた
ことと、今回のテーマであるトヨタ2000GTがボンドカーと
して使われたということで記念すべき作品でした。
ナンシーシナトラ4
唐突ながら、ナンシー・シナトラ嬢です。ご存知フランク・
シナトラのお嬢さんで、あの当時のポップス歌手の代表
的存在でした。
007は二度死ぬのテーマ曲はYOU ONLY LIVE TWICEで
ハスキーでけだるい感じの彼女の声と曲がよくマッチし、
かなりヒットした曲だったと記憶しています。
本当はもっときつい顔なのですが、優しい表情のおカオが
見つかったので掲載致しました。
ナンシーシナトラ3
GTカーについて書くつもりが、何やら007特集のようにな
ってしまいました。そういえば意識した訳ではないのです
が、今回の昭和40年代GT東西両横綱は、奇しくも双方
ボンドカーだったということで意外な結果となりました。

ここだけの話ですが、ボンド役のショーン・コネリーはこの
頃から頭髪が希薄になる現象に悩まされ撮影時は人工
のカツラを装着していたらしく、写真では若々しく写って
いますよね。(タバコ屋も同じ悩みで困っています。あき
らめましたが・・・)

紙数も尽きたようですので、今日はこの辺で一旦終わり
にし、VOL.2にて続編を書きたいと思います。お楽しみに。

(尚、特殊な記述や写真の一部はウィキペディア及び雑誌
ノスタルジックヒーローより引用させて頂きました)


鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期

平成24年12月10日
【HONDA美酒に酔う】 【加筆版】
今はもう遠い過去のように思われるバブル景気の時代、
懐かしいコトバになりつつありますが、昭和61年(1985年)
頃から平成4年(1992年)頃にかけて、土地の投機に伴う
架空の資産上昇により発生した8年余りの異常な好景気
の時期を指します。
停滞していた日本の景気はこのバブルにより一気に活
況を呈しました。ほとんどすべての産業分野で前向きの
明るい話題が聞かれるようになり、ジャパンアズ・ナンバ
ーワンなどともてはやされ、その象徴的な出来事として、
三菱地所によるニューヨークのロックフェラーセンター
買収劇などがありました。日本中が戦後の高度成長期の
再来として、再び熱にうなされたように突き進みました。
fukatu-juliana1[1]
バブル末期にはディスコクラブ、ジュリアナ東京が出現し、
妙齢のお嬢さん方がお立ち台なるものに駆け上がり、
あられもない姿で集団乱舞するといった世紀末的ハシャギ
現象も起きたりしました。
fukatu-juliana2[1]
ボディコン、パラパラ、ジュリ扇などというキーワードが
もてはやされ言ってみれば、盆踊り現代版の年中興行
みたいなものでした。

当然オクルマ業界にもその流れは色濃く反映され、大排
気量車やスペシャリティーカーを競って発売するようにな
りました。
ニッサンシーマ
写真は初代ニッサンシーマで、成金主義的なものがもて
はやされる風潮からシーマ現象というコトバが生まれま
した。
ホンダプレリュード3
三代目プレリュードです。当時のホンダのドル箱車種とし
て、機能や性能よりもムードを重視したスペシャリティー
カーですが、別名デートカーとも言われ、当時の若者に
支持されました。
フェラーリテスタロッサ カウンタック
また我々一般庶民とは縁のないものであった、スーパー
カーがもてはやされ、各種のイベントの目玉になったり、
マンガなどにも連載されスーパーカーブームというのが
起きました。
写真はフェラーリ・テスタロッサとランボルギーニ・カウン
タックです。浮世離れしたしろものですが、当時は何故か
大人気でした。
今回はそのことがテーマではないのですが、時代背景
として、山本リンダさんの歌の如く、もうどうにも止まらな
という一つの大きなうねりのようなものがありました。
山本リンダ
山本リンダさんです。比較的優しいお顔のものを掲載し
ました。タバコ屋の同級生でもあり、けばいメイクのもの
は載せたくなかったのです。同級生といってもクラスメイト
でもないのに何故か親しみがあって、夏目雅子ちゃんに
見つめられた程はクラッと来ませんが、なるべく自然に
近いものを選びました。

それはさておき、HONDA-F1のお話です。
バブル時代より少し前の昭和57年(1982年)頃HONDA
は密かにF1復帰を目論みつつありました。F1エンジン
の規格が1.5Lターボとなったため、その頃ターボの研究
を進めていたHONDAは今が復帰のチャンスと判断しま
した。
昭和58年になり、まずスピリットチームにエンジンを提供
しF1復帰、様子を見た後、まもなくウイリアムズチームに
本格供給を開始し、翌59年にはアメリカGPで復帰後初の
優勝を飾りました。快進撃が始まったのは翌昭和60年
(1985年)からで、F1のプロ、ウイリアムズチームと本格
的に組むことでHONDAエンジンはその実力を発揮出来
るようになりました。
F1ウイリアムズホンダFW11-2
いきなりの写真ですが、HONDA快進撃の元になったF1
マシン、ウイリアムズFW11です。プロが作ったマシンだ
けあって、非常に軽量で、当時研究が進みつつあった
高速走行中の空気抵抗を利用してボディを地面に押し
付け(ダウンフォース)安定を良くするデザインがされて
おり、外観はずんぐりしていますが速さはトップクラスの
実力を持っていました。
事実このマシンによりHONDAがF1に復帰して4年目の
昭和61年、待望のコンストラクターズ(車体メーカー)
チャンピオンを獲得することが出来ました。
結局ウイリアムズFW11は、翌年の昭和62年(1987年)
鈴鹿F1-GPが開催された年にも鈴鹿ではフェラーリに
優勝をさらわれたものの、年間チャンピオンとなり、
HONDAにとっても鈴鹿への誇らしい凱旋となりました。

余談ながら、タバコ屋はこのややイルカにも似た丸っこい
デザインが歴代のHONDA-F1マシンの中で一番好きでし
た。冷徹なF1の世界にあって、何か愛嬌があるというか
ぬくもりを感じませんか。
HONDARA166(V6)-1.jpg
それに搭載されたエンジンはHONDA-RA166で、仕様は
1.5L-V6DOHCターボチャージャー付きでした。ターボチャ
ージャーとはわかりやすく言えば、排気ガスの圧力を利用
して強制的に燃料を送り込み、性能を向上させる装置で、
写真右下のカタツムリのような格好をしたものです。
それに対し、スーパーチャージャーという装置もありこれ
は排気ガスでなくクランクシャフトの動力を利用してター
ボチャージャーと同様の効果を狙うものです。いずれも
元を正せば航空機のエンジン技術から来ています。
尚、写真右方向が車体前方になります。

ターボチャージャーがどのくらいの効果があるかというと
通常1.5L-V6エンジンですと、良くて150馬力程度なので
すが、それが800馬力くらいまでアップするのです。
最終的には1,000馬力前後まで改良されたという話です。
馬1,000頭分とは恐ろしいほどのパワーですよね。
F1Dナイジェルマンセル F1Dネルソンピケ
その暴れ馬を乗りこなしたのはナイジェル・マンセルと
ネルソン・ピケでした。彼らは期待に応え、車体メーカー
(コンストラクターズ)チャンピオンとドライバーズチャンピ
オンの両方を獲得しました。
速いのはマンセルでしたが、彼は瞬間湯沸し器のあだ名
があり、ムラがあるので、冷静なピケの方がチャンピオン
となりました。

昭和62年(1987年)になると、日本のフジテレビがレース
の中継放送を開始、そしていよいよ鈴鹿サーキットに於
いて初めてのF1レースが開催されることとなったのです。
鈴鹿サーキット全体図
広大な鈴鹿サーキットの全体写真です。中央横方向が
メインストレートで、メインスタンド前を左へスタートし、
第一コーナー、S字、デグナー、ヘアピン、スプーン、
西ストレート、130R、シケインと続きメインストレートに
戻ってきます。コース全長5km余りで、世界のサーキッ
トの中でも有数のハイスピード・テクニカルコースとして
F1ドライバーからも高い評価を得ています。
ついでながら、HONDA鈴鹿製作所は写真左手山側を
もう少し行ったところにあります。
アコード・レジェンド
突然の写真で恐縮すがこれはタバコ屋のかつての愛車
アコード・ハッチバックと初代レジェンドが仲良く写ってい
るところです。納車時に写したものと思われます。
その当時、HONDAにはよく出入りしていました。ある日の
ことです。HONDAディーラーの店長殿が、一枚のチケット
を見せて、今度、鈴鹿で始めてF1レースがあるのでご招
待致しますが、お時間あれば行ってみませんか・・・・。
元同志社大学自動車部としては、据え膳食わぬは・・・で
断る手はありません。さっそく承諾し、思わぬ形での鈴鹿
詣でとなりました。
S63第2回F1日本GP3 S63第2回F1日本GP4
久しぶりの鈴鹿は懐かしいやら、人が多いやら、やかま
しいやら(その爆音はサーキットの数キロ先からもろに
響き、現地では耳をつんざくようなサウンドでその迫力
に正直ビビリました)
タバコ屋が学生時代の頃から比べると大分整備されて
きていましたが、まだ当時は急ごしらえの感じで、トイレ
というトイレはある種の黄色い物体がてんこ盛りといった
加減で、大混乱でした。
1日に10万人も押し寄せたらそりゃ~仕方のないことか
も知れません。仕事の出張の帰りに立ち寄ったので、
勝手がわからずうろうろしているうちにあっというまに終
わってしまった印象があります。何しろ見る場所を変えよ
うと移動するだけでも数十分はかかってしまうのです。
来年からは泊りがけで2日は滞在しないとろくに観戦出
来ないことがわかりました。
尚、瞬間湯沸し器のあだ名を持つマンセルは、予想通り
というかオーバースピードでスプーンカーブに突っ込み
コースアウトしてタイヤバリアーへクラッシュ、その後
ヘリで病院に緊急搬送されるという一幕もありました。
凱旋レースのはずだったHONDAにしては残念ながら、
優勝はフェラーリのベルガーだったと記憶しています。
S63第2回F1日本GP1
翌年の鈴鹿スプーンカーブ付近です。実はこの年から
ガラリと体制が変わり、ウイリアムズとの契約を解消し、
新たにマクラーレンと契約、また前年からロータスとも
契約していたので、HONDAは新たにマクラーレンとロー
タスの2チームにエンジン供給をすることになりました。
F1マクラーレンホンダMP4・4-1
マクラーレンMP4/4です。エンジンはウイリアムズ時代
と同じHONDA-RA166(1.5L-DOHC・V6ターボ)でしたが、
シャシー性能及びバランスがウイリアムズに比べて一段
と優れ、何と全16戦中15戦優勝という驚異的なパワーを
見せつけ、この頃からHONDA以外のエンジンではF1で
勝てないと言われるまでになりました。
空前絶後、HONDA-F1が絶頂期を極めたマシンです。
F1マクラーレンホンダMP4・4-3
このマクラーレンMP4/4は、HONDAのF1参戦史上最も
勝利に貢献したマシンとして長く歴史に名を留めることと
なりましたが、ドライバーはロータスから移籍した若き
ブラジルのエース、アイルトン・セナと世界チャンピオン
のアラン・プロストで2人の天才ドライバーは天才なるが
ゆえにその後レースごとに激しい確執を起こすことにな
ります。
F1ロータスホンダ99T-4
ロータス99Tです。エンジンはマクラーレンと同じHONDA
-1.5LV6ターボで、ウイリアムズに次ぐ速さを見せ、2回
の優勝と多くの入賞を果たしました。左右ラジエターの
上にある突起がターボエンジンンの空気取入れ口です。
F1D中島悟1 F1D中島悟2
話題は何と言っても日本人初のF1ドライバー中嶋悟を
起用したことで、もう一人は当初アイルトン・セナでした
が、ロータス2回の優勝はセナによってもたらされたもの
でした。しかしセナがマクラーレンへ移籍したため
ネルソン・ピケが中嶋のパートナーとなりました。
当時雨の中嶋と言われて雨天のレースでは抜群の速さ
だったのを憶えています。
F1マクラーレンホンダMP4・5B-2
F1の主催者側としてはマクラーレン・ホンダの一人勝ち
を阻止するためエンジン規定を変更、ターボを禁止し
自然吸気3.5Lエンジンとしました。それに合わせて開発
されたのがマクラーレンMP4/5で、依然としてトップの
競争力を持っていました。マクラーレンというF1のプロは
手堅いメーカーで、いきなりメカをがらりと変えたりせず、
良いところは残し、最低限の変更に留めました。
その結果、実戦向きの競争力あるマシンとなるのですが、
かつてHONDAが空冷のRA302を開発した時とは正反対
の手堅い手法でした。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと VOL.3:混迷期参照
願います)

セナ、プロストという天才ドライバーに恵まれたせいもあ
るでしょうが、主催者の意図に反して前年ほどではない
にしろ、またしても勝ち続けるという結果になりました。

後日談ですが、HONDAは結局その後ずっとマクラーレン
と組み通算69勝というF1史上空前の成績を残すことに
なります。
またHONDAはウイリアムズ及びマクラーレンとペアを組
んで以来、6年間ものあいだ、(ウイリアムズで2年、マク
ラーレンで4年)F1チャンピオンとして君臨しました。
F1のエンジン規定でターボが禁止となり自然吸気の3.5L
になった主な原因はHONDAが勝ちすぎたせいでしたが、
規定を変えてもHONDAの快進撃は留まる所を知らない
かのようでした。
HONDARA109(V10)-2.jpg
マクラーレンMP4/5に搭載されたHONDA-RA109エンジン
です。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V10でターボよりも
馬力は劣るものの使いやすい実戦向きエンジンでした。
HONDAの特徴は他のメーカーに先駆けて燃焼をコンピュ
ータ制御する技術が優れていたことで、プログラム数値を
変えるだけですぐに仕様変更が出来、このことが常勝の
一因であったと言われています。つまり現場のメカニック
はキカイ屋さんでなくコンピュータ屋さんが巾をきかせて
いたという訳です。

余談ですが、奇遇ながらタバコ屋の親戚の子がHONDA
-F1チームに入っていて、そのコンピュータ制御をやって
いました。今から思えばセナのサインでも貰っておけば
良かったと後悔しきりです。
F1マクラーレンホンダMP4・5-1
マクラーレンMP4/5で力走中のアイルトン・セナです。
やがてセナとプロストの確執は決定的となり、プロスト
はフェラーリに移籍、新たにセナとベルガーのコンビで
戦うことになりました。
F1Dアイルトンセナ-1 F1Dゲルハルトベルガー-1
言わずと知れたセナとベルガーです。その後このコンビ
はHONDAが撤退するまで仲良く続くことになります。
ちなみに2人の胸のワッペンはスポンサーロゴでマルボ
ロはタバコ、シェルは石油でおわかりかと思いますが、
BOSSというのはドイツのメンズファッションメーカーの
ロゴでこの頃から日本でもレイトンハウスとか、バブル
時代に流行ったアパレルメーカーがスポンサーになり
つつありました。
HONDAF1チームロゴ
ちなみに当時のHONDA-F1チームのロゴマークですが
時代を感じさせます。
F1マクラーレンホンダMP4・6-1
そのうち他のチームもHONDAのコンピュータシステムを
真似る等必死の努力で力を付けつつあり、以前のように
圧倒的なパワーの差がなくなり、簡単には勝てなくなって
きていました。
そこで新たに投入されたのがマクラーレンMP4/6で、ボデ
ィはともかくエンジンの主な改良点はそれまでのV10から
V12へと変更され、パワーアップを狙ったものでした。
HONDARA121(V12)-1.jpg
更なるパワーアップのため開発されたHONDA-RA121
エンジンです。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V12で
ぜい肉を落とし性能のみを追及したそのエンジンは本
物の持つ機能美を感じますが、事実過去のHONDA-F1
自然吸気エンジンの中で最も美しくパワフルなもので、
世界一の実力を如何なく発揮しました。
F1マクラーレンホンダMP4・7-1
その後、おもにボディーの空力面に改良が重ねられ
マクラーレンMP4/7となります。ノーズの形状がやや盛
り上がったようになっているのがおわかりでしょうか。
しかし他チームの力が接近してきたこともあってアイル
トン・セナの卓越したドライビングをもってしても期待した
ほどの成績を挙げることが出来なくなってきました。
HONDARA121(V12)-2.jpg
もちろん原因は他にもいろいろあったでしょうが、美しい
ながらも見るからに重くなったエンジンの重量増が負担
になったことは想像され、以前も重量というトラウマで
苦労したHONDAでしたが、またもや同様の苦しみを味
わうこととなりました。
(後日調べ:V10よりV12のほうが重くなったというのは
タバコ屋の勘違いで実際は5kgも軽量化し馬力は数十
馬力アップさせていました。常勝が難しくなったのは他
のチームがエンジンでは勝てないのでボディの空力等
を改善し速くなり、片やマクラーレンはHONDAの強力な
エンジンに頼ってボディの改善があまり出来てなかった
と言うのが真相のようです。)

結局HONDAはそれ以降勝つことが難しくなり、当初の
参戦目的は達したことと、またバブルの崩壊に伴う本体
の業績悪化等もあって、その年、平成4年(1992年)を
もってF1から撤退することになりました。
ちなみに最終年度は旧知のウイリアムズ・ルノーが
チャンピオンとなりマクラーレンHONDAは2位に終わり
ました。
HONDAマクラーレンスタッフ写真
HONDAとマクラーレンのチームスタッフです。ラリーも
そうですが、F1も動くシカケ付き総合格闘技みたいなも
ので、その陰では大変な人数の人達が影で支えている
のです。
前に座っているのは左から、アイルトン・セナ、マクラー
レン総帥ロン・デニス、ゲルハルト・ベルガーです。

余談ですが、当時セナ個人のスポンサーにはブラジル
の国営銀行がついていました。日本銀行がスポンサー
になるようなもので、すごいと思いませんか。タバコ屋
なんか銀行からスポンサー料貰うどころか、返すべき
お金が沢山あるのですからえらい違いです。
ついでながら中嶋悟はHONDAがメインスポンサーでした。
これもすごいことです。同じナカジマでも中島のタバコ屋
なんかHONDAから鈴鹿F1-GPの招待チケット1回もらっ
たきりですから。
鈴鹿F1GP
鈴鹿サーキットに話を戻します。
多分平成3年の鈴鹿F1-GPスタートシーンです。先頭
2台がマクラーレンHONDA、右後ろ2台がウイリアムズ
・ルノー、左後ろ2台がフェラーリで、当時の力関係を
端的に表しています。
鈴鹿はスタートから第一コーナーまでやや下り坂になっ
ていて各車フル加速で雪崩れ込むのですが、たいてい
は行き場を失う車が出てきて第一コーナーでクラッシュ、
リタイアするケースが毎回ありました。
そんなに焦らなくてもと思いますが、彼らも10万人以上
が見ている中ですので、目一杯やるのでしょう。
ベンハー1
いきなりの写真で恐縮です。これはタバコ屋がまだ小学
生の頃、昭和34年封切り映画「ベンハー」のスチール写
真です。
6年半の製作期間と54億円の巨費を投じて描いた一大
スペクタクル映画で、世界的大ヒットとなった作品です。
アカデミー賞史上最多の11部門受賞し主演のチャール
トン・ヘストンは一躍トップスターとなりました。

あら筋をかいつまんで言いますと、時はローマ時代、
キリストが誕生した頃のエルサレムを舞台に迫害され
つつあったユダヤの豪族の息子ベン・ハーの数奇な運
命を通してローマの圧政とキリストの最期を描いた長
編ですが、鈴鹿F1-GPのスタートシーンを見るにつけ、
映画の中で出てくるあまりにも有名な戦車競技のシーン
が何故か思い出されます。
ベンハー2
ベンハーと旧友で宿敵のメッサラの一騎打ちのシーン
です。メッサラは車輪にのこぎり付けたりして悪どいやり
方で勝とうとするのですが、最後は競り負け自滅して
クラッシュという結果だったように憶えています。
当時はロールバーもエアバッグもありませんからメッサラ
はそれで命を落とすことになるのですが・・・。

はるかローマ時代から人間は競争しなければ気が済ま
ない生き物だったのでしょう。またスチール写真にもあり
ますが、それを熱狂したローマ市民達が鈴なりで観戦す
るという図式も何やら鈴鹿F1-GPと重なるものがあるよう
に思います。
H1第3回F1日本GP2
その第一コーナーです。先頭を行くマクラーレンHONDA
の2台に続き後続の各車が殺到しています。もつれあっ
てマシンを破損するか、右手のエスケープゾーンにはじ
き出されてリタイアする等、スタート早々、このコーナー
が修羅場に成り果てるという場面です。

多分ここでは目一杯ブレーキングするのでカーボン製の
ディスクブレーキが焼けた匂いだと思うのですが強烈な
カーバイドのような匂いがあたりに充満していたのを覚え
ています。これがF1の匂いだと思いました。
H2第4回F1日本GP2
只今、アイルトンセナがHONDAと日本の期待を一身に
背負ってトップを力走中ですが、注目頂きたいのは観客
席の人の多さです。10万人を超える観客が一ヶ所に集ま
って暴動が起きないのは日本だけだそうで、世界一マナ
ーの良い国でもあります。
場内のスピーカーからは、今ではTV報道ステーションの
キャスターとなった古館伊知郎さんが独特のプロレス実
況風のしゃべり方で興奮を煽っていたのが懐かしいです。
鈴鹿サーキットTV
一般の観客席でレースが見えずらい場所には数ヶ所、
巨大なTVスクリーンが設置されていました。見えにくいと
思いますがセナが鈴鹿で初めて優勝しトロフィーを掲げ
ているシーンです。
H4第6回F1日本GP3
平成4年HONDAがV12エンジンで挑んだ最後の年の写
真です。旗には「吼えろホンダV12、必ず帰ってこい」と
書かれていますが、それにはまた10年近く待たねばなり
ませんでした。
本田宗一郎とセナ
多分セナを招いての歓迎パーティか何かの席だと思うの
ですが、F1で絶頂を極めることは、宗一郎氏にとっても
セナにとっても夢だったと思うのです。至福の時を迎えた
2人のツーショットです。この日のシャンパンの味は格別
だったに違いありません。

話はうんと飛びます。
当時タバコ屋は島の特産品であるみかんを販売する事業
を始めていました。元がショウバイ人なので、F1を見に行く
だけでは面白くない、3日間にわたり1日10万以上の人が
押し寄せる場所で、みかんを売ることが出来ないものかと
考えていました。F1観戦に懲りもせず7年程通った後の
ある日のこと、行きつけのHONDAディーラー店長殿に
そのことを相談すると、それは島のためにも絶好の宣伝
機会だから応援したいと言うことで、さっそく鈴鹿サーキッ
トの施設購買課に掛け合ってくれました。
結果は面談したいのでサーキットまでお越し下さいという
ことでした。
H6鈴鹿サーキットホテル
喜び勇んだタバコ屋が愛車2代目レジェンドで鈴鹿サー
キットホテルに出向いた時の写真です。ここは現地を
知る意味でも一泊してから面談に臨むためでした。
生まれて初めてプレゼンなるものをやった訳ですが、
結果は大成功、GPの3日間、サーキット内の特設テント
でみかんの販売をさせてもらうことになりました。

どうでもよいことですが、敏感な読者は私の愛車レジェ
ンドの色が、他の記事でご紹介したものと違っているの
に気付かれたと思います。当初はガンメタとシルバー
グレイのツートンカラーでした。後年その上部のみを
シルバーに塗り替えたのです。尚、ホイールは店長殿
のご好意で特別にクーペ用を装着しています。
H7第9回F1日本GP3
念願かなった鈴鹿サーキットでのショウバイ、その場内
の賑わいです。
この頃になるとトイレも整備され、異様な物体のてんこ
盛りもかなり解消されてきていました。
ちなみに3日間で全国から延べ40万人近くの若者が(一
部高齢者も)この人里離れた鈴鹿に集まるという異常な
現象は当時の社会評論家も首をかしげる程で、一種の
現代版お伊勢参りとも言えるものでした。また見方を変
えると行政や公共輸送機関、地域の各種サービス業も
巻き込んだ巨大な村おこしでもありました。
H7第9回F1日本GP7
右手正面ゲートからサーキットに至る通路です。左側の
ストライプ柄テントがタバコ屋の陣取った特設売り場です。
サーキット側も遠方から売りに来たということで気を使い、
人通りの最も多い場所に設置してくれました。
今でも思い出すと有難いです。
H6第8回F1日本GP4
丁度11月の初めだったので早生みかんを販売しました。
業者さんも、ものすごい数で負けないように声を涸らして
の販売です。
H6第8回F1日本GP3
サーキット側が地元女子学生のアルバイトさんを用意
してくれて試食販売と相成りました。皆さん一般席の席
取りに必死で、みかんどころではないといった表情です。
自分も経験しているのでそのことはよくわかりました。
あの時のバイトのお嬢さんたち、今はもういい年のはず
ですがどうしているんだろう。
H7第9回F1日本GP1
翌年も販売を許可して頂き同じ場所に出店しました。
お買い上げ第一号となった、京都から来られた仲良しお
嬢さんです。エ~鈴鹿の社員さんか思ったけど愛媛から
来はったん、おいしそうやから一袋買わしてもらいますわ、
ということで記念すべき2ショットとなりました。
H7第9回F1日本GP6
この年はサーキットの売店前にも置かせて頂き、販売増
加を図りました。左手の飛ぶように売れているお弁当の
横に置いて、関連販売を図ろうというものです。スーパー
ではよくやる手法です。一緒に観戦に行った、タバコ屋の
友人で、松山の某会計事務所にお勤めのU氏がボランテ
ィアでお手伝い頂きました。
彼は到着した時から3日間、宿泊は業者さん用の無料簡
易宿泊所に同宿し3度の食事も一緒で、まるで大学時代
の合宿を再現したようなものでした。
ちなみにU氏はザウバーメルセデスチームの帽子がほし
くて、サーキット内あちこちのF1ショップを探しまくりやっと
見つけて購入、得意げに被っている一コマです。
蛇足ながらこの年はHONDAがすでに撤退しており宗一郎
氏の息子さんである博俊さん率いる無限が後を引き受け
引き続き参戦し、優秀な成績を挙げつつありました。
H7第9回F1日本GP4
忙中閑ありの1シーンです。タバコ屋もフードキャップ着用
にて戦闘態勢です。後ろ正面は上の写真のU氏、右は同
じく友人で取引先のA氏です。2人ともボランティアでよく
お手伝い頂きました。今でも感謝で一杯です。

総括と言いますか、この大遠征は、鈴鹿サーキットのご
好意で一定の成果を収めたのでしたが、ショックだったの
は隣に出店していたグレープフルーツの手絞りジュース
をカップで販売していた店でした。当方は声を涸らして
販売を試みたのに対し、そのジュース屋さんは長い行列
が出来ていたのです。お客さんに聞きました。そしたら
みかんは皮を剥かんならんし邪魔くさいけどジュースや
ったら簡単に飲めますやんか~。
カルチャーショックでした。そうかそれで長い行列が・・・。

タバコ屋が自前のジュース工場を作ろうと思ったのはこの
時かも知れません。事業の動機って案外そんなものじゃ
ないでしょうか。

ちなみに鈴鹿サーキットでお祭り期間中に何が売れたか
というと、タバコ屋の勝手な推測によれば以下のような
ものです。
1.F1グッズ・・・HONDAを中心にF1チームのキャップ、
キーホルダー、ワッペン、ブルゾン、その他諸々
2.F1公式プログラムブック・・・F1各チームの紹介や
鈴鹿サーキットの案内、各種読み物満載のガイドブック。
(有料で、確か2,000円でした。メチャ高か~)
3.お弁当、お菓子、飲み物類
(希望の島みかんも若干の売り上げには貢献しました)
4.レストラン、ファーストフード(洋風屋台)関係
5.おみやげ類(売れ筋ランキング)
 1.鈴鹿サーキットサブレ・・何の変哲もないしろもの
   でしたが、名前入りだったのでそれこそ飛ぶように
   売れていました。まあ羽田空港の東京バナナ程で
   はないでしょうが面白いほど売れるというのはあの
   ことでしょう。
  2.赤福餅・・伊勢市の老舗赤福が作っているお餅を
   あんこでくるんだもので本来はお伊勢参りのお土
   産なのでしょうが現代版お伊勢神社でも大人気で
   した。もっともずっと後になって消費期限の不正表
   示等で大問題を起こしてしまった会社ですが、何で
   も売れないのも困りますが、売れすぎるのもよくな
   いのです。

島のタバコ屋はこういう時に何が売れて皆がどのような
買い方をするのかについて、またどういうサービス体制
をとるべきか等々、大学の眠い講義でなく、緊張した実
戦の中で多くのものを学ばせて頂きました。
鈴鹿サーキットの施設購買課さんには感謝あるのみです。
それとHONDAディーラーの店長殿にも。
H7第9回F1日本GP8
突然ですがF1マシンを展示した1枚の写真です。マシン
は第一回目の鈴鹿F1-GPにおいてゲルハルト・ベルガー
のドライブにより優勝したフェラーリF187です。

注目して頂きたいのは左正面に写っている白い箱です。
見にくいですが、箱には希望の島と書かれています。
そうなんです、当時タバコ屋が特産みかんの販売を始め
るにあたってネーミングしたブランド名なのです。何故ここ
にあるのでしょうか。種明かしは実のところキャンペーン
ガールさんに持ってもらって撮影しようとセコい考えで行っ
たところすごい人だかりで断念し、売り場に帰ろうとしたと
ころ、このブースが目に留まりガードマンさんがよそ見を
している数秒間に貴重な秘密撮影をしたと言う訳です。

この写真はタバコ屋の宣伝に使った訳でもなく、単なる
思い出として撮ったものなので、時効でもありフェラーリ
さんも許してくれると思ったので掲載致しました。ガード
マンさんすみません。しかしよくそんな悪さをするヒマが
あったものです。
鈴鹿キャンペーンガール
タバコ屋の目的を達せなかったそのキャンペーンガール
嬢です。同行した友人のAさんは人だかりを巧みに切り抜
けうまいこと撮影に成功しました。それにしてもお嬢さん
のお衣装の切込みが半端でないのは時代のせいだった
のでしょうか。
老婆心ながらかなり寒い時期だったので仕事とはいえ
忍耐が必要だったと思います。

こうして苦しくも楽しい2年間の鈴鹿サーキットみかん販
売は無事終了しました。3年目はどうだったのか・・・。
同じことはなかなか続かないものです。その頃HONDAは
栃木県に新しいツインリンクもてぎを建設していました。
これはF1とは異なるアメリカのインディカーシリーズに対
応出来るサーキットでした。またそこに鈴鹿コレクション
ホールと施設購買課が移転集約されることになったの
です。従って商談は栃木県まで行かねばならずタバコ屋
もこれには尻込みしてしまい、それ頃となりました。
継続出来ていれば、品揃えの改善や自家製のジュース
等も持ち込めたのにと思い、残念でしたが程なくバブルも
終焉しF1もそれにつれて一時のような勢いは失われてい
きました。一つの時代が終わったと言うことでした。

このF1ブームとも言える過去の出来事は、HONDAがわざ
とやったことではなく、夢中でF1に挑戦し、鈴鹿サーキット
という巨大な舞台装置を準備したことで、時代の風潮が
それに乗っかった訳で、現代版お伊勢参り、ひいては
日本一の村おこしが実現したということでしょう。

まったくの余談ですが、その頃流通業界では総合スーパ
ーが全国へ出店競争を繰り広げ、ダイエー、ヨーカドー、
ジャスコ、ユニー、ニチイ(マイカル)、セイユー等が主に
新しい業態開発をすることで優位に立とうとしていました。

当時タバコ屋はニチイの主導するボランタリーチェーンに
加盟していたのですが、ニチイはマイカルと社名を変え、
サティ、ビブレ等の業態開発を進め、横浜本牧で巨大複
合タウン開発を行う等その投資は当時の日産自動車に
匹敵する規模で、タバコ屋レベルで見ると恐ろしいような
やり方でした。しかしそれはやはりバブルだったのです。
やがてマイカルは破綻し、イオンに吸収され、タバコ屋は
新しい道を模索することとなりました。

当時話題になりつつあったのがホームセンターで全国は
もとより愛媛県でもダイキさんがディックという店名で展
開を始めつつありました。そこでタバコ屋は紆余曲折の
末、島で初めてのホームセンターを開設したのですが、
奇しくもそれはバブル経済が破綻しHONDAがF1を撤退
した翌年の平成5年(1993年)の出来事でした。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

今回は鈴鹿サーキットにまつわるさまざまな思い出を書
き綴るうちに相当長いものになってしまいました。
最後までお読み頂き感謝致します。まだ書き足したいこ
ともありますがまたいつかの機会とし、鈴鹿サーキット
シリーズ4部作はとりあえず完結とさせて頂きます。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
鈴鹿サーキット発行の各年度F1-GP公式プログラムブッ
クより引用 させて頂きました)


★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
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