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好みの基準 vol.3:レストアの時代

平成25年3月30日
愛車変歴付録
先日の「紅茶とハイブリッド」の記事で時代は確実にハイ
ブリッドが主流になることを書きました。昨今のプリウス
の繁殖ぶりはハンパではありません。かつてT型フォード
が全米を席巻し街じゅうがT型フォードで埋め尽くされた
時代がありました。
XVハイブリッド-2
この度、トヨタと親戚になったSUBARUが発表したXVの
ハイブリッド版です。中味はよくわかりませんが何でもか
なり凝ったメカらしくハイブリッドながらスポーティな走行
が可能で、SUBARUブランドの期待を裏切らないものだ
そうです。
多分トヨタからはハイブリッドに関する技術情報はふんだ
んにもらえる立場でしょうから、それを改良してよりマニア
ックなものに仕上げていると思います。
HONDAも負けてはならじと次期アコードですごいのを出
すそうですので、かつて排気ガス浄化競争で各社がしの
ぎを削ったごとく今度はハイブリッドシステムでの燃費や
快適性の競争になりつつあるように思います。
タバコ屋の予想ではトヨタは別格として、今後SUBARUと
HONDAが激しい技術競争を繰り広げるような気がします。
最先端ではSUBARUがWRCに復帰、HONDAはF1に復帰
とそれぞれ得意なジャンルで活躍することでしょう。
その格闘コンペティションから生み出される次世代技術、
どのようなものが出てくるか楽しみです。
インプレッサWRX-8
最近発表されたSUBARUインプレッサWRXのコンセプト
モデルですが恐らくこれに近い形で発売されると思い
ます。
ところで、今までのSUBARUデザインはもう一つ垢抜け
しませんでしたが、トヨタと親戚になって以降、デザイン
がとても良くなりつつあると思うのです。いびつな造形
や無駄なラインが消え、意味のないモールなども減って
タバコ屋の好きな塊感の表現が上手になってきつつある
と思います。
インプレッサWRX-3
ここだけの話ですがXVにしろ、WRXにしろタバコ屋はかな
りムラムラ来ており、ああもう10年若ければ、とため息を
つく昨今です。少しSUBARUさんを褒めすぎかもわかりま
せんが、WRXは現代の240Zと言っても過言でないほど
コンセプトとデザインが洗練されてきたとタバコ屋は思い
ます。残念ながら本家ニッサンの現代版Zはダルいデザ
インで到底240Zの後継車とは認め難いです。
年甲斐もなく恥ずかしいとは思いつつも、最新のオクル
マに目がいってしまい、煩悩はなかなか消え去りません。
懐かしの風景1
また一方、誰にでも一度はあった青春時代、あるいは
懐かしの少年時代に戻って、諦めかけた当時の夢や
思い出をもう一度探してみるのも意味のあることかも知
れません。
ただしその場合は復元(レストア)という困難な作業が
待ち構えていることを覚悟しなければなりません。
懐かしの風景2
これから少子高齢化社会が加速するに当たり、タバコ
屋の若かりし時代に起きたあの爆発的な高度成長を
再現することは不可能に近いでしょう。しかし落胆する
ことはないのです。
その間に培った、または醸成した文化というものがあり
ます。それは高度成長時代にはまだありませんでした。
かつて七つの海を制した大英帝国も今ではかつての覇
気も実力もありませんが、ホンモノを大切にし、修復しな
がら長く使うと言う文化は残りました。我が日本もそのよ
うな時代にさしかかろうとしているのだと思います。
オースチン7
写真のクルマは大正時代から昭和の初期にイギリスで
生産されたオースチン7という車で、いってみれば日本の
初代トヨタカローラのような大衆車です。アメリカの大量
生産車第一号T型フォードほどではありませんでしたが、
イギリスで最初に大量生産に成功した車種でした。
水冷4気筒747ccのかわいいエンジンを搭載して、当時の
イギリスを席巻した記念すべき車でもありました。
(関連記事:復刻と改造参照願います)

問題はこのようなシーラカンスのようなオクルマが愛好家
の手で元通り修復され、新車の状態で動態保存されてい
るという事実です。たそがれの大英帝国にはこのような
文化が根付いているのです。相当な忍耐と執念に近い熱
意が必要で、また折れそうになる気持ちを励ましあう仲間
(CLUB)も大切でしょう。

レストアと改造は似て非なるもので、湾岸ミッドナイト仕様
などと言った、タバコ屋の最もきらいな改造でなく、設計者
の思いを尊重しなるべくオリジナルの状態に復元すること
がレストアの本来の意義だと思います。このことについて
はまたいつかの機会に、タバコ屋の赤いお嬢さんのレスト
ア特集記事にて詳しくお話しすることにしましょう。
ポルテ5
最新のハイテク高性能車を所有することや、古いクルマ
のレストアに熱中するものまたいいものですが、かなり
非日常性的なものがあり、それに乗るためには一定の
儀式や準備が必要で、かえって苦痛を感じることさえある
ので、普段のゲタ代わりという訳にはいきません。
普段の足には、手頃なハイブリッドもよし、EVもよし、ディ
ーゼルも選択肢の一つでしょう。また移動ツールとしての
機能性から言えば写真のトヨタポルテなんかもタバコ屋
お気に入りのクルマなんですけど皆さんどう思われます
か。トヨタさんは勝手にプチバンなどとやや安っぽいサブ
ネームを付けているようですが・・・。
ここだけの話ながら、このオクルマは開発と製造はトヨタ
車体が担当しているはずで、それにトヨタのマークを付け
ただけの丸投げ商品であるかもわかりません。
古くはトヨタ2000GTをヤマハに丸投げした前科もあるので、
さもありなんでしょう。
ポルテ10
わかりづらいかも知れませんがボディ右側が2枚ドアで、
反対側がスライドドアになっていて乗降がしやすくなって
います。またデザインもトヨタでは珍しく無駄なラインを排し、
機能本位のシンプルな箱型です。また全長は軽四規格の
4m未満で取り回しが良く、縦横バランスも昨今の軽四
ハイトワゴンのようにいびつで醜悪でないのがタバコ屋の
お気に入りのもう一つの理由です。
ポルテ7
運転席周りですが、これもタバコ屋の好きな棚がしつらえ
られていて、とても機能的なデザインです。ただいかにも
子供っぽく、どうせこの手のユーザーは運転席とか関心な
いんやから、この程度でよかろうという見切りが感じられ
ます。同じやっつけ仕事にしても、もう少しセンスとかエス
プリが感じられるものにしてほしいところです。この辺は
タバコ屋お気に入りのジウジアーロ氏のセンスを見習っ
て貰いたいと思います。

タバコ屋はすでに両親を見送りましたが、高齢のご両親と
同居されて面倒を見ているといったケースの多い我々団塊
の世代前後には極めて気になる移動ツールではないでしょ
うか。もっとも、介護とかいうレベルのお話だと、ポルテでは
役不足で、車椅子を積載可能なトヨタラウムなんかも機能
に徹した福祉車両といった趣でとても良かった印象があり
ますが、残念ながら今は生産終了となってしまったようです。
iROAD-1.jpg
また突然ではありますが、家族やご両親とは別に、個人
用のゲタもしくはスニーカーが必要な場合は、近々トヨタか
らこのような近未来的なノリモノが発売されるかもわかりま
せん。これは三輪車になっていて、前輪がスライドしサスペ
ンションの役割をするとともに、ステアリングは後輪と連動し
ているようです。
iROAD-2.jpg
スターウォーズの地上から浮いて走るノリモノとまではい
かなくても、何やら近未来を予感させるようなデザインで
すよね。どうも2人乗りのようで、街中のちょっとしたお出か
けにはわざわざ大きな4輪車を使う必要はなく、とても合理
的かつおしゃれだとタバコ屋は思いますが皆さんはどのよ
うに感じられますか。
iROAD-3-2.jpg
コクピットデザインもラ・フェラーリとの近似性を感じるほど
に洗練されており、このデザイナー氏にはアッパレ賞を差
し上げたい程です。
ハイブリッドやレストアの話がとうとう普段のゲタの話にな
ってしまいましたが今回は愛車変歴の記事の付録として
書いたつもりです。次回からは再び農業のことをお話した
いと思います。

例によってメーカーの方向性や思惑についての記述は
タバコ屋の個人的な見解であることをご了解願います。


好みの基準 vol.2:愛車変歴

平成25年3月23日
先日の記事、「好みの基準 vol.1」でタバコ屋のオクル
マの好みの一端をご紹介した訳ですが、今回は愛車
変歴?の一部をご紹介することでよりいっそうタバコ
屋の変わった好みを理解して頂けるような気がするの
です。
次回からはまた農業のシリーズを再開しようと思いま
すので、やや力が入ると思います。その前にもう少し
休憩のつもりでタバコ屋が過去に購入したクルマ、また
は憧れだけで夢と終わってしまったクルマや思い出に
残っているクルマ等を取り混ぜてご紹介することにしま
しょう。

【昭和40年代】(1970年頃)
日本の高度成長期真っ只中、モータリゼーション華や
かなりし時で、同志社大学自動車部に在籍していた頃
の思い出になります。
地方から出て来たマルビ学生の身、オクルマなぞ買え
る身分ではありません。年代モノの部車を競技や一般
走行、あるいは遠征等で乗り回し、それなりの経験と
知識は身につけていきました。
ホンダN360-2
捨てる神あれば拾う神あり、果報は寝て待てと言いま
すか、4回生になる頃、卒業するO先輩が愛用していた
Nコロを2万円で譲って頂ける事になりました。それでも
大金なので同じ下宿の同期生S君と半分づつ出し合っ
て共同所有することになりました。
写真のNコロとよく似たカラーリングで淡いブルーに屋
根が白のツートンカラーでした。多分O先輩はオースチ
ンミニを気取ってそういうカラーリングにしたのだと思い
ます。Nコロはそれなりによく走り、バイクエンジンのよう
に軽快な吹け上りで、どうしても回し過ぎる傾向があり、
その排気音がまた魅力的でした。標準のバックランプ
はしょぼくて使い物にならず、中古のトラック用バック
ライトをリアのトランク辺りに取り付けていました。
1年乗ったあと、クラブに寄贈して卒業した記憶があり
ます。その後1度だけ香里園の同志社体育会合宿所で
見た記憶があるのですがあれからどうなったのだろう。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期参照願
います)

【昭和50年代】(1980年頃)
世は右肩上がりで、いけいけどんどんの時代ではあっ
たものの、その結果工場やクルマの排気ガスが社会
問題化し法律で規制されるという事態になり、メーカー
各社もその解決を図るためモータースポーツ等の余
分な活動はすべて取りやめ、全力で研究開発を進め
ることとなりました。アメリカのビッグ3などはそんなこ
と無理とか言って政府にダダをこねる始末でしたが、
混沌の中でHONDAは世界に先駆け低公害CVCC
エンジン
の開発に成功したのです。
アコードハッチバック3
タバコ屋が自分のお給料で買った初めてのオクルマ
が昭和51年に発売されたアコードハッチバックでした。
色は黄色で、デザインが当時の国産車とは一線を画
したハイカラなイメージだったのと、誰も出来なかった
技術的困難を克服したイメージが重なり、発売後すぐ
に購入したような記憶があります。
アコードという名前のごとくHONDAの先進性とか合理
性がぎゅっと詰まったパッケージングで、スポーティと
いうよりはハイカラ&モダンというイメージでした。
世界に一石を投じたHONDAのチャレンジング精神
とても誇らしく、まぶしく思えたものです。
アコードハッチバック7
そのコクピットも合理的と言いますか上部が棚状に
なっていて非常にハイカラなイメージでした。当時ロー
ヴァーがこのスタイルをとっていたのでその影響を受
けたのは間違いないと思います。
あれ以降、トラックやバンのアクティにその便利棚コン
セプトは残りましたが、それ以外の車種では跡形もなく
消えてしまったのはどういうことなんだろう。今にも通じ
る合理的かつシンプルデザインだと思うのですが。
写真ではAT仕様ですが、購入したのは5速マニュアル
ミッションでした。
シロッコ3
アコードの発売より少し前に発表された、タバコ屋の
お気に入り、ジウジアーロデザインのVWシロッコとは
コンセプトもデザインもかなり似たところがあり当時HO
NDAは世界に通用する新しいデザインを模索中であり、
相当気負っていたはずで、シロッコもかなり研究したに
違いありません。
(タバコ屋の言うデザインというのはボディの造形だけ
でなく、駆動方式や足回り、ボディの基本レイアウトを
含む総合的なパッケージングのことです)
タバコ屋もシロッコのことは気になっていましたが、何し
ろ高価な舶来品にて、その時は高値の花として購入は
叶いませんでした。
ただアコードハッチバックの方が先進性では勝っていた
と思います。
(関連記事:GTのお話 vol.2参照願います)

【昭和60年代】(1985年頃)
排気ガスの大幅削減という困難なテーマも昼夜を徹し
た研究努力のかいあって一段落し、この頃からどの
産業分野にも先行きの期待感が出てくるようになり、
土地の値段や高額嗜好品の価格が上り始め、いわゆ
バブル時代に突入することとなりました。
ジャパンアズナンバーワンなどと、もてはやされディス
コクラブのジュリアナ東京などという年中お嬢さん盆踊
り会場のようなものが出現しました。スーパーカーブー
ムが起こったのもこの時期です。
レジェンド
タバコ屋には分不相応でしたが、かなりムリをして買っ
たのが初代HONDAレジェンドです。当時HONDAは
イギリスのローヴァー社と提携し、上級セダンの研究
開発を進めていました。

その共同開発第一号がレジェンドだった訳で、それこそ
素人のHONDAがローヴァーからすべてを教わって作っ
た作品だけにイギリスの香りがプンプンするオクルマで
した。当時の国産車はお座敷サルーンのコンセプトで
したから、もうカルチャーショックといいますか、日本も
こんなハイカラな車が作れるんや~という驚きと感動で、
アコードを乗り換えるつもりでディーラーに行ったタバコ
屋は衝動的にレジェンドの購入用紙にサインしてしまっ
たのでした。
アコードハッチバック8
待ち遠しかった納車日にアコードハッチバックと仲良
く写った写真です。とてもお気に入りでしたが、新開発
のSOHC-V6エンジンはHONDAらしく高回転までスム
ーズに回ったものの、如何せんトルクがなく、乗り慣れ
てくるにつれやや不満は残りました。
(関連記事:復刻と改造参照願います)
デルタインテグラーレ4
この頃、気になっていたのがランチアデルタ・HFインテ
グラーレという舌を噛みそうな名前のオクルマです。
初代は昭和50年代に発売されていましたが、改良を重
ねて平成の初期まで生き延びた長命車種でした。
タバコ屋お気に入りのジウジアーロ氏がデザインした
このオクルマはレジェンドとはコンセプトも車格も全く異
なるものでしたが、同じくジウジアーロ氏のデザインした
初代ゴルフにも共通する直線を基調とした四角いハコ
型でした。何故かタバコ屋はそれがすごく気に入ってい
ました。
デルタインテグラーレ9
フェンダーの膨らまし方についてレジェンドと比較して
ほしいのですが同じデザイン手法で、ブリスターフェン
ダーと言います。当時この2車しかこのやり方を採用し
ていなかったように思うのですが、記憶が不確かです。
皆さん多分信じないでしょうが、この存在感のあるボデ
ィーは実際はとてもコンパクトで全長4m弱!と日本の
軽四規格とほぼ同じでした。ただ幅はかなり広いです。
デルタインテグラーレ・WRC4
このランチアデルタ・HFインテグラーレを一躍有名にし
たのがWRC(国際ラリー選手権)での目覚しい活躍で
した。何と昭和61年(1986年)にデビュー以来それまで
の王者アウディクアトロやプジョー205を蹴散らし破竹
の6連覇という前人未踏の偉業を達成したのです。
メカは2リットルDOHCターボで4WDでした。
デルタインテグラーレコクピット2
このクルマをチューニングしたのは写真のステアリン
グ中央部にあるサソリのマークで有名なアバルト社
でした。
このオクルマの前身はデルタS4と言って競技専用に
特別製作されたものでしたが余りにも高性能だった
ため、事故が多発し車両ルール変更の原因にもなっ
た結果、その後は市販車をベースにした規定に改め
られました。それに合わせて開発されたのがランチア
デルタ・HFインテグラーレでした。
しかし我々シロウトはそれとは関係なくやたらインテグ
ラーレに憧れたりするものですからメーカーはしてやっ
たりとなる訳で、こういうのをイメージ戦略と言います。

しかしその栄光もやがて登場する我らがトヨタセリカ
GT-FOURによって打ち砕かれることとなりました。
いずれにせよこのランチアデルタ・HFインテグラーレも
舶来品でありイタリア人の嫁ハンもらうような感じもあり
で、タバコ屋の単なる憧れだけに終わってしまったので
した。

【平成初期から10年頃にかけて】(1990年~1995年頃)
依然としてバブルは続いたもののやや陰りが出始めた
時期です。かつての島のみかんバブルはとっくに終わ
っていましたが、またいいことが起こるのではなかろう
かと皆がほのかな期待を持っていた頃です。
タバコ屋の子育ても3人が小学校、中学校へと進み、
やや一段落といった時期でした。
2代目レジェンド1
当時HONDAはアメリカに進出し成功を収めつつあり
ました。そこで次にはアキュラという耳慣れない新しい
ブランドを作り、アメリカの高級車市場に参入しようとし
ていました。トヨタもレクサスというブランドで同様のこ
とを模索していた時期で、どちらも仮想ライバルはメル
セデスベンツ、BMW、キャデラックでした。
アキュラブランドで投入する第一号が2代目レジェンド
だったのです。その意味では歴史的なクルマですが、
何せアメリカ市場用に開発されたクルマだったので図
体がデカく国内専用のクラウンよりも一回り大きいもの
でした。デザインはかなりドイツ車を意識したもので、
特に当時アメリカのヤッピーと呼ばれる若い知識層に
人気のあったBMWを徹底的に意識したものでした。
NSX3.jpg
またHONDAは当時F1で大成功を収めその絶頂期に
あり、かなりバブリーとも言える2代目レジェンドの発売
に至りましたがアキュラチャンネルを構築するにあたり
そのイメージリーダーとなるフラッグシップが必要で、
HONDA初の2座席ミッドシップスポーツカーNSXの登
場となるのですが、単体ではそろばんが合わないの
でエンジンその他の部品をレジェンドから流用すると
いう方法で、一石二鳥を狙った面もありました。
(関連記事:八重のこと vol.2参照願います)
2代目レジェンド4
2代目レジェンドに戻ります。
タバコ屋は特に買い換える必要もなかったのですが、
世はバブル末期、HONDAがF1で煽り立てるものです
から、またもや衝動的に2代目レジェンドの購入用紙
にサインをするはめになりました。
それはそれとして、レジェンドのデザインがお気に入り
だった面もあります。3.2リットルSOHC-V6エンジンは
非常になめらかで、メカといい、内外装といい、とても
高級感があり、乗った感じもやや硬めでしっかり感が
あって、まるで和製BMWといった風情がありました。
またフロントフェイスも今のようにごてごてしてなく、控え
めでBMW同様、とても知的なイメージを持っていました。

写真は購入して間もない頃、宮崎のシーガイアで開催
された、タバコ屋が所属していた経営者研究セミナー
に参加するべく、遠路はせ参じた時のものです。
レジェンドはともかくシーガイアのスケールにも度胆を
抜かれたタバコ屋ではありましたが、ご存知のごとく
シーガイアはやりすぎで後日破綻してしまいましたよ
ね。ハウステンボスもそうですがリゾートやレジャー施
設の経営は難しいです。その点、鈴鹿サーキットは
同じ巨額投資ではあるものの、マニア向けのレジャー
であるレースとファミリー向けの遊園地を上手に組み
合わせ運営していて初期には恐らくHONDAが相当な
不足資金を補填したと思いますが、近年は多分黒字
経営であり、大したものだと思います。
2代目レジェンド3
以前の記事にも書きましたが、タバコ屋が島のみかん
をF1-GP時に販売するためその商談で鈴鹿サーキット
ホテルへ宿泊した時もレジェンドで行きました。ちなみに
購入時のカラーはボディ上部がガンメタで下部がダー
クシルバーのツートンカラーでした。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願
います)
HONDAレジェンド1
タバコ屋はこのクルマのデザインがとてもお気に入り
だったので手放す気にならず、5、6年たってからボディ
に細かいキズが目立ってきたのと気分転換のためも
あって、買い換えるよりは安上がりな色を塗り替える
という方法をとりました。ガンメタをライトシルバーに塗
り替えましたが見違えるようになりました。
ホイールは購入時、親切なG店長さんに無理を言って、
本当は無理な注文だったクーペ用のものに取り替えて
もらっていました。
HONDAレジェンド4
これはお遊びですが、またもやG店長さんに無理を言
って、本来トランクの左サイドに横一列であったレジェ
ンドのロゴマークを中央上部に楕円形に貼り直してもら
いました。尚ここだけの話ですが、バンパー下左右に
見える補助バックライトは法令違反なので、さすがの
親切なG店長さんも応じてくれず、泣く泣く自分で取り
付けました。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)
BMW5-4.jpg
2代目レジェンド購入時に悩んだのがドイツ製BMW5
でした。レジェンドがアメリカ市場で直接対決すること
になったライバル車ですが、どちらを購入するか、かな
り迷った挙句、やはり日本男児である以上メイドイン・
ジャパンに乗るべきであるという妙な理屈をつけ自分
を納得させました。
もう一つにはやはり舶来品であり高価だったので、自分
には贅沢な気もしたのです。
また自称HONDA-PTA会長がドイツ野郎のクルマに
乗るとは何ごとかという後ろめたさもあったのは事実
です。結局BMW5の購入は、はかない夢と消えてしま
いました。

余談ですがBMWの特徴であるフロントグリルの2分割
デザインはキドニーグリルと呼ばれていて腎臓という
意味です。そういえば腎臓は左右一対になっていて
目立たないけれど重要な臓器ですよね。創業者が、腎
臓のごとく控えめながら存在感のあるクルマであって
ほしいとの願いからかどうか、創業当時から採用して
いるいわばBMWの自己証明書(アイデンティティ)でも
ある訳です。間違ってもブタの鼻などと、失礼な想像は
しないように・・。
日本メーカーに足りないものがあるとしたら、メカの良
し悪しとかではなくて、このアイデンティティでしょうか。
(関連記事:アイデンティティ及び紅茶とハイブリッド
参照願います)

ついでながら皆さん意外に思われるかも知れませんが
BMW5をデザインしたのは日本人デザイナー永島譲二
氏でBMW在籍中に3シリーズ、5シリーズ及びZ3ロード
スターのデザインを手掛けたことで有名です。
裏返せばアイデンティティの表現は、日本人が不得手
なのではなく日本メーカーが無神経もしくはへたくそ
だと言うことでしょうか。
尚、歴代のBMWでこの時期、永島譲二氏によってデザ
インされた一連のシリーズが最も知的で美しかったと
思います。HONDAも同様でこの時期のレジェンドを始
めアコードやシビック等どれもタバコ屋の好きな無駄な
ラインを省いた塊感があり、シンプルかつ知的なイメー
ジを醸し出していました。今のガンダムデザインを見る
に付け、あの頃のHONDAはどこへ行ってしまったのだ
ろうと思うのはタバコ屋だけではないと思います。
ブルーバードU12-5
先日の記事でもご紹介したニッサンブルーバードU12
SSS-Rです。2代目レジェンドより少し前に発売されま
したが、タバコ屋はとても気になっていました。
悲劇のファイターとでも言いましょうか、性能もデザイ
ンも申し分なかったですが世に出る時期が悪かったと
思います。当時ニッサンは国際ラリーからは撤退して
いましたので、その持てる才能を発揮する場がなく、
従って国際舞台での華々しい活躍といったイメージ戦
略を生み出すに至りませんでした。
ランチアデルタ・HFインテグラーレのようにはいかなか
ったのです。大変残念でしたが、あえてこれを購入し
島のしょぼい道路を土煙立てながら走ってもあまり満
たされるものもないことに気付き、このオクルマもタバ
コ屋の秘めたる憧れに終わりました。
(関連記事:幸せの青い鳥参照願います)
HONDAレジェンド2
結局あれやこれやの事情や、タバコ屋の変わった好み
で購入に至る車が現れず、お気に入りの2代目レジェ
ンドに20年も乗ることになりました。10年一昔と言いま
すが20年と言うと、さすが伴侶というにふさわしい愛着
がありました。

【平成15年以降】(2005年頃)
子供が大学生や社会人となり子育ても一段落し、仕事
もやりたいことは概ねやってきたのですが、今までの
人生を振り返り、タバコ屋は以降このまま朽ち果てる
のかと思うと一抹の寂しさもあり、せめて死に土産
青春時代憧れだったクルマに一度は乗ってみたいと
思うようになりました。「♪夢中で~頑張る君に~エー
ルを~」というCMをどこかの不動産屋さんがやってい
たようですが「夢中で頑張った君にご褒美を~」と誰か
に言ってもらいたいものの誰も言ってくれないので、
仕方なく密かに自分で実行に移すことにしたのです。
フェアレディZ2
10年前頃でしょうか、そういうムラムラを見透かしたか
のように「ノスタルジックヒーロー」という団塊世代向け
の旧車専門雑誌が目に留まりました。あるわあるわ、
ボクらの青春時代のオクルマの数々が・・・。
いろいろありましたがタバコ屋のお目当ては当時買い
たくても手も足も出なかったフェアレディS30Zあるいは
国際ラリーで大活躍した240Zでした。

スカイラインGTRは知人の所有車を借りて乗ったこと
もあるのですが、タバコ屋にとってあまり好きな感触で
はなく、一方フェアレディZだけはどういうわけか大学
自動車部時代からご縁がなく、さわったこともなかった
のです。当時の日本の状況では、モータリゼーション
華やかなりしと言えども、やはりフェアレディZは浮世
離れした特殊なオクルマだったのだと思います。
(関連記事:荒ぶる心 vol.1:フェアレディZ参照願います)
フェアレディ240Zモンテカルロラリー出場車4
ご存知のように、フェアレディS30Zは今から40年以上
も前に生産されていた今ではさしずめヒストリックカー
と呼べるものですが、発売されるやいなやその先進的
なデザインと高性能、またポルシェの半額という価格
で世界をアッと言わせ、たちまち世界一のベストセラー
スポーツカーとなりました。
240Zサファリ1-2
そのZの中でも、当時世界一過酷と言われたサファリ
ラリーをいきなり制覇し、また雪のモンテカルロラリー
でも奇跡的な3位入賞を果たすなど、世界を席巻した
DATSUN240Zがタバコ屋にとっては大のお気に入りで
した。
(関連記事:今出川でのこと vol.1参照願います)
240Zモンテ4-1
そこで一大決心をしどうせ現在ではクズ鉄同然でロク
なものはないでしょうから、ベースの車を購入し40年
前の姿に復刻(レストア)しようと思い立ちました。
しかしそこには地獄が待っていようとは知る由もありま
せんでした。
フェアレディZ3
6年ほど前のことでしょうか、松山市内で知人の紹介
で偶然レストアのベースとなるS30Zが見つかりました。
値段は程度の割にはやや高いようにも思いましたが、
なかなか車両そのものが入手出来なくなりつつあった
ので思い切って購入することにしました。
ベース車両と割り切っていたとはいえ、購入後詳しく
調べると一時流行っていた湾岸ミッドナイト仕様という、
ええかっこし~のあんちゃんが街乗りレーサーみたい
に改造したアレでした。
フェアレディZ5 フェアレディZ6
エンジンは改造の定番方程式であるソレックス、タコ足
エキゾースト、カムシャフト及びピストンの組替えがされ
ており、シートはレーシングバケットで、また車高を落と
すためスプリングをカットしており街乗りとは名ばかりで
とても乗れたしろものではありませんでした。
またよくよく調べると一度事故で当たっておりボディが
微妙に歪んでいるのです。
これをレストアするとなるとすべてバラして骨だけにし、
ボディの歪み修正から始め、再塗装、エンジン・ミッショ
ン・その他のパーツや足回り、ダッシュボード、シート、
内張り等の室内仕上げをしなければならず、またエン
ジン、ミッション、足回り等はいろいろ問題を抱えており
結局オーバーホールまたは新品部品に交換が必要で
した。S30ZはGTRとともに旧車の人気車種なので比較
的交換部品は入手しやすいものの欠品が多く入手困
難なものが多くありました。
フェアレディZ8
以前からGTRやZのレストアでかなり名の知れた埼玉
のRJさんというレストアショップには何度か訪れ、顔見
知りだったので、そこに依頼することにしました。しかし
実際作業にかかって頂き、いざ見積りという段になって
あちこち直さないといけないので、いくらかかるかわか
らないなどとタバコ屋の心臓にとても悪いことを言われ、
また遠方なので途中状況を見に行くことも出来ず、不安
だったので、松山のタバコ屋行きつけのTY自動車さん
に腕のいい整備士さんが入社したのをきっかけに依頼
することになりました。しかしそこはレストア専門店では
なく本業の片手間にやってもらうということだったので、
それから足掛け3年もかかることになりました。

写真は骨組みだけにしボディの歪み修正を行なった後
再塗装の準備で既存の塗料を剥ぎ取っているところで
す。この時塗装に隠れて見えなかったサビとかパテ埋
めでごまかしていた腐食穴等を徹底的に補修します。
補修だけでなくボディをオリジナルの仕様に戻すのが
大変で、例えばフロント下部のアゴの部分ですがベース
車には改造の定番であるチンスポイラーが取り付けら
れていました。人気のあったいわゆるGノーズと呼ばれ
るフルフェイスのパーツなら入手可能でしたが、オリジ
ナルのショートノーズに戻そうと思えばそのアゴの部品
がないのです。結局中古部品をレストア専門ショップか
らやっと分けてもらって修復にこぎ着けました。

3年間の泣き笑いレストア記を書くと長くなりますので、
いつか特集記事としてご紹介することにし、今回は結
果のみのご紹介に致します。詳細なスペックもその時
のお楽しみと致しましょう。
(但しこっそり見たい方は、関連記事:ヤマトとラムネ
参照願います)
Zレストア納車時1
いつまで待っても仕上がらないので、しびれを切らし
度々催促して昨年春、やっと納車にこぎ着けました。
これとて完全に仕上がった訳ではなく内外装を整え
一応走れる状態にしただけでソレックス、足回り、ミッ
ション等課題は山積です。
しかしここまでたどり着くのにもう何回投げ出そうとした
ことでしょう。結局5年の歳月と最新のアウディ6ターボ
を新車で買うほどの費用を投じての執念のレストアで
した。今から思うと埼玉のレストアショップRJさんが言っ
た、「いくらかかるかわかりません」という言葉が現実味
を帯びて重く重く感じられるタバコ屋ではありました。
Z&レジェンド
せっかくだったので永年連れ添ったレジェンドと仲良く
記念撮影です。別れ辛かったですがレジェンドはこの
後手放すことにしました。今回5年掛かりでフルレストア
に挑戦したのですが、意外にもオリジナルの状態に戻
すのが一番難しく、改造パーツは沢山販売されている
中で、オリジナルパーツはほとんど皆無でした。
新旧Z
赤いお嬢さんの処女航海を実施するに当たり松山郊外
の風和里(ふわり)という道の駅に行った時のことです。
最新型Zの一つ前の代のZがいきなり横にやってきて、
いろいろ話しかけられました。某タクシー会社の社長
さんでしたがその方もS30Zがほしくて仕方がないとか。
処女航海記念に仲良く2台で記念撮影をしました。

死に土産とは言うものの、めくら蛇に怖じずとはこのこ
とで、古いクルマのレストアが如何に困難であるか、
思い知らされた5年間でした。しかし快適なアウディ6
ターボをすんなり購入することよりは、青春時代憧れ
だったオクルマを入手し、往年の姿に復刻することに
若干の意義はあったと思いたいタバコ屋です。
でも一体こんな風変わりなカラーリングのオクルマで
どこを走るというんだろう。

以上、長々と書き連ねましたが、タバコ屋の愛車変歴
を通して、変わった好みの一端を理解して頂けたでしょ
うか。
尚、記事中の時代背景説明やメーカーの思惑等につ
いては、あくまでもタバコ屋の個人的見解であることを
ご了解願います。

(一部の特殊な記述や写真等はウィキペディアその他
より引用させて頂きました。)


紅茶とハイブリッド

平成25年3月17日
今回札幌3部作とその続編みたいな幸せの青い鳥の
記事を書いてやや疲れました。ここで少しティータイム
にしませんか。同じティータイムながらTV「相棒」の杉
下右京警部のようにかっこよく紅茶を入れることは出
来ないにしても、せめて自販機で某メーカーの午後の
紅茶を買って来るのが関の山ではありますが、とにか
くちょっと一休みです。
紅茶1
紅茶と言えば以前の記事にも書きましたが、かつて世
界の七つの海を制した大英帝国が発明?もしくは特に
好んだお飲み物で、お国自慢の料理があまりない大英
帝国にあって、ウイスキーと並び世界に誇れる食文化
の一つと言えるのではないでしょうか。

ちなみに、以前の記事に書いたことをおさらいしておき
ますと、お茶はもともと中国の専売特許でしたが、緑茶
が主体でした。日本にも最初は薬として伝わりやがて
戦国時代になるとそれを粉末にしたお抹茶文化が生ま
れ戦国武将も茶の湯というたしなみを一種のステイタス
として競うように取り入れました。
その後中国で烏龍茶のような(半分程度発酵した)褐色
茶が発明されましたが時を経て、18世紀になるとイギリ
スの植民地となったインドでもお茶が生産されるように
なり、ヨーロッパ人(とりわけイギリス人)の食生活習慣
により良く合うよう、完全発酵した緑茶即ち紅茶(BLACK
TEA
)が発明されました。ブラックというのは葉っぱの色
から来たものと思われます。ですから、紅茶というのは
元々は緑茶なのです。
カティサーク号2-1
乾燥させた発酵食品とはいえ、紅茶は香りを楽しむ生
鮮食品であったのでインドから紅茶をいかに早くイギリ
ス本国に運ぶかということが最重要のテーマとなりまし
た。そこで登場するのが「ティークリッパー」と呼ばれる
紅茶専用高速運搬船でした。
民間の船会社が3本マストの高速帆船を作り、インド、
イギリス間の最短運搬レースを競ったのです。その時
の最速船の一つがカティーサーク号でした。先行者利
益というのは恐ろしく、イギリス一番乗りの船は紅茶の
運搬代金でもう一隻買えるくらい儲かったらしく、それ
こそ紀伊国屋文左衛門のイギリス版のような命知らず
の冒険商人が活躍した時代がありました。時代の要請
でもあったのでしょうが、こういう時こそ技術革新(イノ
ベーション
)が起こる訳です。
カティサーク号4
アフリカ回りの困難な航路を何とかしたいという思いは、
イギリスの開発主導によりやがてスエズ運河の開通を
果たし、永年の夢であった地中海経由でイギリスへ紅
茶を運ぶことが出来るようになりました。しかしスエズは
風がないので帆船は使い物にならずやがて産業革命の
波とともに帆船は蒸気船に取って代わられ、カティーサ
ーク号のような高速帆船が活躍する場はなくなりました
が、ほとんどの船が壊されるか朽ち果てた中で、歴史の
証人カティーサーク号だけは奇跡的に生き残り、現在は
ロンドンで大切に保存されています。
カティサーク号10
ついでの話ながらカティーサークとはスコットランドに伝
わる民話(詩?)に出てくる言葉で、短い=カティ、シミー
ズ=サークを着た色っぽい魔女に由来するという説が
有力で、船首にはなるほどその魔女をモチーフにした
プリプリボイン丸出しの悩ましい彫刻が張り付いてい
ます。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)
カティサークウイスキー7
スコットランドといえばスコッチウイスキーの故郷です
が、実は20世紀になって、1923年頃、その高速ティー
クリッパーの活躍にちなみ、あるウイスキーメーカー
がカティーサークというブランドのウイスキーを発売し
ました。飲み口が軽く人気を博して今では世界中の
人に親しまれるブランドになっていますが、ビンのラベ
ルに例の3本マストの帆船が描かれているアレです。
カティサークウイスキー9
このことは示唆に富んだ話ではあります。カティーサ
ークは、スコッチウイスキーとしてジョニーウオーカー
等とともに成功したブランドですが、それにはティー
クリッパーとしての活躍物語があり、タバコ屋などは
さしずめDATSUNウイスキーが発売されたらすぐに予
約購入を申し込むと思うのです。つまりブランドには
物語(アイデンティティ)が必要であると・・。

蛇足ながらウイスキーを発明したのはイギリスのスコ
ットランドだと思われていますが、実はグレートブリテ
ン島の西隣、長きにわたりイギリスの支配下に置かれ
て辛酸を舐めたアイルランドが発祥です。アイリッシュ
ウイスキーと言います。イギリスに長いこといじめられ
て強い酒でも飲まなきゃやってられるかと思って発明し
たのかどうかはわかりませんが・・・。
ちなみにアイルランドは超親日国家で、日露戦争でロ
シアをやっつけた時も大喜びしてくれ、第二次大戦時も
日本をかばってくれました。イギリス連邦の一員であり
ながら、隣のイギリスは仇なのです。いじめられっ子は
何故か判官びいきになるようです。
紅茶5
紅茶の話に戻ります。写真は典型的なブリティッシュ
ティースタイルで、紅茶を中心にミルク、バター、ジャ
ム、スコーンが並んでいます。
恥ずかしながらタバコ屋はバッテーラのことは詳しい
のですが、イギリスのお茶スタイルはまったく知らず、
紅茶にはなくてはならない「スコーン」という一口パン
みたいなしろものも40才頃まで知りませんでした。
タバコ屋の取引先で東京の三越フルーツ売場を担当
されているサン・フルーツさんが、上京時に紅茶と一緒
にご馳走してくれて、その時初めて知りました。世界は
広いです。
カップ&ソーサーとか器の話もしたいのですが、長くな
るのでまたいつかの機会にお話したいと思います。
紅茶とスコーンでくつろいで頂いたところで、よもやま
話として最新のオクルマ事情などお話してみたいと思
います。
ラ・フェラーリF150-21
突然ですが、つい最近発表されたフェラーリの最新鋭
旗艦であるラ・フェラーリです。(英語読みではザ・フェ
ラーリ/究極の意味)
ラ・フェラーリF150-29
まるでF1マシンに饅頭の皮をかぶせたようないでたち
にて、浮世離れしたそのスタイルで一体どこを走るのだ
ろうと思うのですが、世界限定500台の生産予定に対し、
すでに予約が1,000人以上殺到しているとか。
性能は走るヒコーキとでも言いましょうか非現実的で申
し上げる気にもなりませんが、ここで言いたいのはこの
オクルマの駆動システムがハイブリッドであることです。
ラ・フェラーリF150-26
コクピットも外観に劣らず非現実的でまるでF1マシンの
変形版のようでもあり、先ほどのスコーンをかじりながら
ドライブするというような雰囲気ではなく何やら戦に赴く
戦士のノリモノのようです。
マクラーレンP1-6
片や、これもつい最近発表されたマクラーレンの旗艦
P1です。ご存知の方もあると思うのですが、マクラーレ
ンは本来F1専門のレース会社ですが唯一MP4-12C
というスーパースポーツカーを製造しておりP1はその
また上を行くオバケクルマという位置付けです。
我らが裕ちゃんの愛車メルセデス300SL同様、ガルウ
イングドアを採用していて、このメルセデスが発明した
方式は今やこの種のオクルマの定番となっています。
マクラーレンP1-4
なまこみたいな格好のリアビューですが、高速時はリ
アのウイングがせり上がるシカケです。これもフェラー
リ同様、浮世離れしたスタイルとヒコーキ並みの性能
ですが、この2社がこっそり相談したのかどうか、この
P1も駆動システムにハイブリッドを採用しています。
マクラーレンP1-24
P1のコクピットですが、フェラーリ同様ものものしくて、
とてもバッテーラを一口つまむような雰囲気ではありま
せん。尚最近の高性能車のステアリングは下の部分
をカットするのが流行りです。
MP4・12C-15
P1の原型であるMP4-12Cです。これとても我々庶民
には何のご縁もないオクルマですが、それをまた数段
神のレベルに近づけたのがP1ということです。
P1もラ・フェラーリ同様、限定500台程度の生産予定で、
作る前から完売のようです。これをショウバイとして見
るならば究極のブランド戦略で、売れなくて在庫の山を
抱える事例も多々ある中で、最も賢いやり方とも言えま
す。そのためにはカティーサーク同様、ストーリーが必
要なことは言うまでもありませんが・・・。
手前味噌ながらタバコ屋が取り組んでいるハンドメイド
のジュースもすべて作る前から予約で一杯というやり
方を見習う必要があるかも知れません。
ちなみに後方に見えるのはイギリスにあるマクラーレン
の本社でこの社屋内には我らがマクラーレンHONDA
-MP4/4を始めHONDAが絶頂を極めたF1マシンの数
々が展示されています。

余談ですが、マクラーレンのオーナーであるロン・デニ
ス氏は変態に近いきれい好きで、もうどこもかしこも
ピカピカ状態にしないと気が済まず、製造現場も病院
の手術室を思わせる清潔さです。
F1のピットも同様で、HONDA-F1の絶頂期に鈴鹿へよ
く通った頃、このブログにもご投稿頂く松山のソロバン
氏と深夜お燗ワンカップを片手に震えながらマクラーレ
ンのピット見学をしましたが、ビス1本落ちてなく、油の
シミ一つない現場でピットクルーが手際よく作業してい
たのが忘れられません。あれはアングロサクソンの特
質なのかそれともロンデニス氏が変態だったのか、
誰かに聞いてみたいところです。

この2社はF1でもライバルですが、今回ご紹介した最
新鋭の市販車ラ・フェラーリとP1がどちらも駆動方式に
ハイブリッドシステムを採用している点に注目してほし
いのです。
プリウス3
皆さんご存知のようにオクルマでいうハイブリッドシス
テムとはガソリンエンジンと電気モーターを組み合わ
せて、その分エンジン排気量を小さくし、排出ガスを
減らしつつ必要性能を維持するという優れもので、時
代の要請である、環境にこれ以上負荷をかけないか
又は環境を改善するシカケとして、世界中のメーカー
が適応システムを試行錯誤する中、トヨタはその答え
はハイブリッドシステムであるという結論に達し、他社
に先駆け推進して来ました。
その成果は写真のプリウスの爆発的なヒットとして結
実し今や、世界で最も先進的なハイブリドシステムメ
ーカーとして一目も二目も置かれる存在となりました。
インサイト8
トヨタと同様にハイブリッドシステムを推進したのがHO
NDAで、多少の違いはあるものの基本コンセプトは一
緒でした。
写真のインサイトは大トヨタの販売力に押されてやや
影は薄いものの時代の最先端を行っていることには
違いありません。今はなき本田宗一郎氏が存命なら、
何だ、トヨタのまねなんかしやがってやめちまえと怒鳴
ったでしょうが、時代の要請はハイブリッドだと思うので
ので物真似ではないと思うのです。
とにかく宗一郎氏は「優れたメカはシンプルでなくては
ならない」という宗教に近い考えを持っていたので、二
つの駆動方式をくっつけ、やや複雑なメカであるハイブ
リッドシステムなど一笑に付していたかも知れません。

それはともかく、今回世界の頂点に立つ二つのクルマ
が奇しくもハイブリッドシステムを採用したという点は
重要です。ただこの2車のメインエンジンはフェラーリ
が従来型の6リットルV12なのに対し、マクラーレンは
3.8リットルV8ターボで、マクラーレンの方が排出ガス
量が数段低く、環境に配慮した設計となっており、エン
ジンのダウンサイジングという時代のトレンドにはより
適合していると思います。
性能は両車ほぼ互角(900馬力以上!)で、両方が我
こそ世界一であると言い張っているようですが、タバコ
屋にとってはそんなものどちらでもよく仲良く喧嘩して
ほしいです。

かつて、環境に配慮した次世代のオクルマのあり方を
巡ってトヨタ、HONDAはハイブリッドを選択し、ゴーンさ
んのニッサンはEV(電気自動車)を選択、VW、アウディ
BMW等ヨ-ロッパの強豪はディーゼルを選択しました。
アメリカは遅れてしまって、私は何をしたらいいんでしょ
う状態でした。
今や、そのテーマの結論は今回の2車の衝撃デビュー
によってハイブリッドシステムであることが明らかになり
ました。
NSXⅡ-31
まだデビューした訳ではありませんが、近いうちにデビ
ュー予定の次期HONDA-NSXです。デザインはともかく、
次期NSXもその駆動方式はハイブリッドシステムとなる
のが確実なようです。

ここだけの話ですが、次期NSXのことを一番気にしてい
るのはフェラーリで、初代NSXが衝撃のデビューをした
時、最高速度以外のすべてにわたり同等か、NSXの
ほうがむしろ勝っており、しかもお値段は半額だった訳
ですから、フェラーリが気にならないはずがありません。
噂ではHONDAは近々F1にも復帰するようですから、
なおさらフェラーリは気になって夜も眠れないのです。

ただフェラーリの発するフェロモンと言いますか、オー
ラと言いますか、これだけは数式化出来ないので
なかなか追いつくことが出来ず、やはり時間を掛けて
独自のアイデンティティ即ちHONDA物語を作っていく
しか方法はないと思います。

今回はティータイムということで、とりとめもない紙芝
居のようなお話をしてしまいましたが、それもイギリス
のリプトン社から届いたファインティーを飲みながらの
浮世離れしたざれ話としてお読み頂けたら幸いです。
それと日々現実の生活でお疲れの皆さんへの癒しの
お飲み物(お読み物)としても・・・。

(尚、一部の特殊な記述や写真等はウィキペディア
その他より引用させて頂きました。自動車システムの
方向性やメーカーの思惑等の記述はあくまでもタバコ
屋の個人的な見解であることをご了解願います。)


幸せの青い鳥

平成25年3月12日
「青い鳥」と言えば100年以上も前にベルギー出身の
劇作家、モーリス・メーテルリンクによって書かれた
世界的な名作童話「青い鳥」が思い出されますよね。
メーテルリンク2
メーテルリンクはノーベル文学賞受賞の作家でもあり
ましたが、当時のベルギーはスペイン、ポルトガル没
落後に強国となったオランダやイギリスに伍して小国
ながらも織物や鉄鋼産業で栄え、文化、文明レベルは
ヨーロッパでもトップクラスであり、彼のような逸材を輩
出する素地がありました。
青い鳥6
童話「青い鳥」は何度も映画化されましたが、近年では
昭和51年封切りのものが団塊前後世代の記憶に新し
いと思います。これはその時の映画ポスターで後方に
写っているのが若き日のエリザベス・テイラーです。
この映画ではチルチルとミチルのお母さん役及び夢の
中で出てくる光の妖精役でした。
青い鳥4
その妖艶な美貌ゆえ、タバコ屋などはこの目で見つめ
られるとハイライト10本まとめて吸ったほどクラクラが
来てしまいますが、特にご尊顔を拝したあと、どうして
もお顔のやや下のほうに目が行き、なおクラクラしてし
まうのはタバコ屋だけでしょうか。
この写真はまだ体の局部的な場所を除き、スリムだっ
た頃のリズですが、この映画撮影の時分にはややふく
よかに変身しつつあったと思います。それにしてもリズ
に童話の母親役というのはややミスキャストのような
気がしないでもないですが・・・。やはりクレオパトラの
ような大物の役がよく似合うと思います。
(関連記事:予期せぬ出来事参照願います)

「青い鳥」のストーリーは皆さんご存知だと思うので
簡単にご説明しますが、幼い兄妹チルチルとミチルが
夢の中で見知らぬ老婆が訪ねてきて、病気の娘のため
に青い鳥を探してきてほしいと頼み込み、ダイヤのつい
た魔法の帽子をチルチルに手渡しますがそのダイヤを
回すと、今まで見えなかったものがすべて見えるという
のでそのようにすると光の精(E・テーラー)が現われ、犬
のチロや猫のチレットを人間のお供に変身させ光の妖
精を案内役に、青い鳥を探して旅に出ることになったの
ですが・・・・。
結局苦心惨憺して青い鳥を探し回ったものの見つける
ことが出来ずに帰ってきたところで夢から覚め、そうする
と家の鳥かごに飼っていたキジバトが青い鳥に変身して
いて、喜んだチルチルは病気の少女のところに届けに
行ったのですが渡そうとしたすきに、キジバトはするりと
逃げてしまいました。チルチルは少女をなぐさめつつ
「どなたか、青い鳥を見つけた方は返して下さい。必要
なんです」と叫ぶシーンで終わるという、奇想天外なファ
ンタジーです。
青い鳥に象徴される幸せは遠くにあるように見えるけれ
ど、実際は案外身近なところにありますよという比喩を
暗示させる、意味深なストーリーですよね。
桜田淳子1
日本ではこの映画が封切られる少し前、昭和48年即ち
タバコ屋が同志社大学を卒業した年に桜田淳子ちゃん
が「わたしの青い鳥」を歌い、日本レコード大賞最優秀
新人賞を受賞しそれ以後、森昌子ちゃん、山口百恵ちゃ
んとともに花の中三トリオとして大活躍しました。
その歌でも青い鳥の鳴き声はクッククックだったのでや
はり青い鳥というのはハトのイメージがあるのでしょうか。

話はうんと飛びます。
昭和30年代初期、日本は高度成長期に突入し本格的
なモータリゼーションを迎えつつあったのですが、それ
を支えた(煽った)のはわかりやく言うと、カローラVS
サニー、コロナVSブルーバードの開発競争によってで
した。
今回は「青い鳥」がテーマですので、そのうちNISSAN
ブルーバードについてのお話をしてみたいと思います。
ブルーバード310-1
戦後イギリスのオースチン社と提携しそのノウハウで
生産していたダットサンセダン210を改良し新時代の主
力車種として世に出すにあたり、当時日産の社長であ
った川又克二氏は世の中に幸せを運び、ひいては日産
に繁栄を運んでくれる「青い鳥」になってくれることを願
い、メーテルリンクの「青い鳥」にちなんで、このクルマ
をブルーバードと名付けました。当時はオーナーが車名
をネーミングすることが多く、ホンダベンリイ号なども本
田宗一郎氏が名付けたものでした。もっとも今までより
も数段便利な2輪車ですよ、というダジャレのようなネー
ミングでしたが。
川又社長はそれ以外にも、2座席の本格的オープンスポ
ーツカーとして開発されその後屋根付きのハッチバック
クーペとして世界に衝撃的なデビューを果たすことになっ
たフェアレディZについても最初のフェアレディの車名は
彼が付けたものです。
その時はアメリカ視察時に見たミュージカル「マイフェア
レディ」に感動して付けたものだとか。川又社長は見か
けは結構無粋なお顔をされていましたが、内実は案外
ロマンチストであったようです。
(関連記事:荒ぶる心 vol.1:フェアレディZ参照願います)

上の写真は昭和34年発売の初代ニッサンブルーバード
310です。社内デザイナーだった佐藤章蔵氏を中心に
デザインされたそうですが、そのプリンシプル(根っこの
部分)は今でも通用するグッドデザインだと思います。
ブルーバード410-1
続いて昭和38年、2代目として発表されたのが写真の
B410です。当時泣く子も黙る世界的カーデザイナー
会社だったピニンファリーナ社がそのデザインを手掛
けましたが、お尻の垂れたデザインだったため不評で、
この時にライバルコロナに販売台数を追い抜かれてし
まいました。

後日談ですが、その不評を挽回するため手直しをする
にあたり、その時抜擢されたのが、神戸出身の新進若
手デザイナー松尾良彦氏でした。彼は相手が高名な
ピニンファリーナだろうが歯に衣を着せずに酷評し、
垂れたお尻をヒップアップしプチ整形を施したに留まら
ずスポーティなSSS(スリーエス)シリーズを企画発案し、
大ヒットさせました。
フェアレディZ2
その実績を買われてかどうか、初代フェアレディZのコン
セプト及びデザインは彼が手掛けることとなり、発表す
るやいなや、何とそれが世界的な大ヒットとなり、ポル
シェ等世界的に有名なスポーツカーを差し置いて世界
NO.1のベストセラースポーツカーとなりました。
過去から現在に至るまで高性能な量産スポーツカーで
商業的に成功した唯一のクルマとして歴史に名を刻む
ことになりました。ただ残念なことに、この才気あふれる
松尾良彦氏は組織の中では折り合いが悪く、程なくニッ
サンを退社してしまうことになります。夏目漱石の草枕
ではないですが「智に働いて角が立った」のかも知れま
せん。センスが良すぎたのです。
(関連記事:荒ぶる心 vol.1:フェアレディZ参照願います)
学生ラリー
突然ですが、その改良版ブルーバードB410-SSSの
勇姿です。実はタバコ屋が在籍した同志社大学自動
車部が所有していた競技用車両で、昭和44年当時、
学生ラリーが盛んに行われ大学対抗選手権大会か
何かでスタートにあたりエールを切って応援している
ところです。今から見れば笑ってしまいそうなオクルマ
ですが当時はトテモかっこよく映ったものです。

ちなみにタバコ屋の一期後輩で東広島出身の元キャ
プテンO氏は入学時のオリエンテーション時、このクル
マがキャンパスにさりげなく又はこれ見よがしに飾って
あり、夏の蛾が灯に吸い寄せられるごとくついフラフラ
と入部してしまい、あとで生き地獄を経験されたそうで、
飛んで灯に入る夏の虫を地で行ったことは、つい最近
聞かされました。つでながらタバコ屋も似たような動機
だったので人様のことは言える義理ではありません。
「気をつけよう、暗い夜道と入部勧誘」
ブルーバード3
そしていよいよ真打登場です。コロナに比べ劣勢を余
儀なくされていたニッサンは起死回生の手段としてメカ
もデザインも一新した三代目のP510を発売しました。
もちろん松尾良彦氏発案のスポーツバージョンSSSシリ
ーズを前面に打ち出したもので、それが最大の売り物
でもありました。
正確な数字ではないですがおそらく歴代ブルーバード
で最も成功した車種ではないかと思います。タバコ屋
の青春時代と重なっているせいで余計そう思えるのか
も知れません。
ちなみにデザインはスーパーソニックラインと呼ばれる
無駄のない直線的なラインでまとめられ、メカも1600cc
OHC-4気筒、前足マクファーソンストラット、後足セミト
レーリングアームの四輪独立懸架方式で、世界的に
見ても先進のメカを採用したものでした。ここだけの話
ですがニッサンは曲線的デザインの時はことごとく失敗
作で、直線的デザインの時は大成功というジンクスが
あるらしく、その先例を作った第一号でもありました。

そうは言ってもマルビ学生には買えるようなしろもので
はなく、遠目に見て楽しむだけでしたが、我々自動車部
の中でも一部幸運にも入手された方もおり、ある女性部
員などは、それを部室に乗ってきたまではよかったもの
の、他の先輩部員に無断乗車していたぶられ、つらく歯
がゆい思いをされたとか。
つい最近お聞きした歴史秘話です。ロックしておけば良
かったのでしょうが、彼女にしてみれば安心し切ってい
たのでしょう。
「気をつけよう、暗い夜道と無断乗車」
P510-2.jpg
この写真は東京銀座にお取引先をお持ちのさる京都
のご婦人が撮影されたもので、銀座のニッサンギャラ
リーに展示されていたのですが、上京時偶然遭遇し
撮影に成功しました。
そうです、紛れもないゼッケン4番、昭和45年サファリ
ラリーにおいてエドガー・ハーマン(ヘルマン)のドライ
ブによりニッサン待望の総合初優勝を飾ったDATSUN
ブルーバードP510ワークス仕様車です。1600ccOHC
エンジンをソレックスキャブで130馬力にチューンアップ
しただけのやや非力なマシンでしたが、足回りが四輪
独立懸架で車高を極端に高くしたので腹打ちによる破
損が防げたのと、ボディが頑丈であったこと、また車重
が960キロ余りで軽く、車体にあまり負担がかからない
利点を持っていました。他のライバルが想像を絶する
悪路で次々にリタイアする中、ねばり勝ちという手法で
優勝をもぎ取りました。文字通り幸せの青い鳥は赤い
鳥となって鬼神の働きをしてくれました。
裕次郎記念館P510-4
余談ながら前回の記事でも取り上げた裕ちゃんの
ことです。実際の優勝の前年、昭和44年に「栄光への
5000キロ」の撮影がされました。その時は、このP510
と同等のワークス仕様車を走らせたことは既に述べ
ましたが、何とその撮影車が実際のラリーでも総合5位
に入賞してしまったのです。ビックリ仰天したニッサンの
スタッフはそのドライバーがハーマンとシュラーのコンビ
チームであったことに気をよくし翌年にはその2人を正
式にワークス車に乗せ、見事優勝してしまったという訳
です。
(関連記事:札幌紀行 vol.2:小樽へ参照願います)
240Zサファリ1-1
それがまぐれでない証拠に、翌年今度は最新鋭フェア
レディ240Zで挑戦し、やはりこの2人のチームが連続
優勝を遂げました。以前にも240Zのことはかなり書い
ているので今回はハショリます。
(関連記事:今出川でのこと vol.1及び
荒ぶる心 vol.5:ポルシェのこと参照願います)
ブルーバード910-4
それ以降先ほど述べたニッサンのジンクスは続きま
す。失敗と成功を繰り返しましたが、昭和54年に発売
された6代目の910シリーズは再び直線基調のシンプ
ルなデザインを採用し大成功しました。先の510ととも
にブルーバードで最も成功した車種として歴史に名を
留めました。ただ残念ながらもうコロナを抜き返すほど
のパワーはありませんでした。
(写真引用:http://minkara.carview.co.jp/userid/
401798/car/312427/profile.aspx)
ブルーバードU12-3
その後、我がブルーバードは再び低迷することになり
ますが、その後10年近く経った昭和62年、ニッサン初
の四輪駆動システム、アテーサを搭載した8代目U12
シリーズが発売されました。いつまでも懲りずに曲線と
直線のデザインを繰り返し失敗を重ねたブルーバード
も今回はメカといい直線基調のデザインといい、魅力的
なモデルでした。事実このシリーズは久々のヒット作と
なったのです。
ブルーバードU12-5
特にタバコ屋にとっては、SSS-Rというラリーバージョン
がお気に入りで、当時国際ラリーからは撤退していた
ニッサンにとっては国内ラリーしか活躍の場はなく、欲
求不満の腹いせのごとく見事国内ラリーチャンピオン
を獲得したのでした。
メカは1800ccツインカム・ターボとアテーサシステムを
基本としており、エアインテークが設けられた専用エン
ジンフード及びバンパーに半分埋め込まれたフォグ、
ドライビング用補助ライトが外観上の特徴でした。
それこそ久しぶりにとても精悍でカッコいいなと思わ
せるデザインだったと思います。
事実当時のタバコ屋はこのSS-Rの購入を真剣に考え
たこともありましたが、自称HONDA-PTA会長であるこ
とと、子育て、ショウバイ等がいそがしく、それどころで
はなかったような記憶があります。かくて所有は、はか
ない夢に終わりました。

歴史にIFはないでしょうが、もしU12ブルーバードにサフ
ァリで活躍させてやったら大活躍していただろうにと思
います。しかし世界の潮流はよりコンパクトでパワフル
なオクルマに移行しつつあり、例えばトヨタセリカGT4や
三菱ランサー・エボリューション、スバルインプレッサ等
の台頭とWRCでの大活躍は記憶に新しいところです。
たとえU12が復帰していたとしても最後の活躍となるか
あるいは時代の変わり目を経験するほろ苦い結果が
待っていたかも知れません。

川又社長がかつて願いを込めて命名したブルーバー
ドも、その名のごとく幸せの青い鳥として十分な活躍
をしてきましたが、その後は残念なことにシルフィなど
と意味不明なネーミングに取って代わられ、今日に至
っています。タバコ屋の青春時代に一世を風靡した
あのDATSUNブルーバードという名前、特にP510とい
う記号は永久に還らないものかも知れません。
ブルーバードのアイデンティティは多分そのあたりにあ
ると思います。

(尚、文中の青い鳥の記述の一部や写真等はウイキ
ペディアより引用させて頂きました)


札幌紀行 vol.3:再訪

平成25年3月4日
北海道クリスチャンセンターのこと】
ダバコ屋が同志社大学自動車部在籍中の4回生の時、
昭和47年のことですが、地獄の北海道遠征を敢行した
ことは以前の記事でお話しました。その時、札幌で一夜
の宿をお世話になったのが北海道クリスチャンセンター
でした。この施設は本来、北海道内に在住するキリスト者
の研修、奉仕、交流の場として、昭和26年、現在の地に
北海道基督教会館を建設したのが発祥で爾来、日本基督
教団北海教区の方々が運営に当たって来られたようです。
北海道遠征30
この写真はその遠征時、つまり昭和47年夏にお世話にな
った時のもので、中央の力道山みたいな方(失礼)が昭和
31年卒の自動車部OBで当センターの主事をされていた
矢島信一先生で、(左端の青い目の方々は当日お手伝い
頂いた宣教師のご家族と思われます)とご一緒に、総勢
20人以上もの部員が押しかけた時の記念写真です。
後でお聞きしたお話しでは、先生の奥様は別のお仕事だ
ったのでお会い出来ませんでした。

タバコ屋の同期で、前列右から2人目の元兵庫県警の
コワイ方、通称ギーちゃんは当時から考え込むクセが
あり写真でもやはり何か考え込んでいるようです。
男子部員はもとより女子部員のお嬢さん方の何と初々
しいことか。
この遠征の企画は一期後輩のI君やO君がやってくれた
ので詳細を覚えていませんが、I君の後日談によると、
何でも矢島先生のご好意で、一人数百円で泊めて頂い
たとか!。後方の校舎みたいな建物が研修所兼宿舎だっ
たと思うのですが、おそらくザコ寝に近いものだったので
しょう。

矢島先生はクリスチャンセンターの沿革によると、昭和
41年に主事として着任され、昭和60年まで勤務されてい
るようなので、我々がお邪魔した時は着任されて最初の
時期だったのでしょうが、後輩とはいえ、我々マルビ学生
相手に笑顔で歓迎して頂き、ご親切にして頂いた事、
その後も忘れる事は出来ませんでした。
今回の札幌行きで2ヶ所訪れたい場所の一つが実はこの
北海道クリスチャンセンターだったのです。
(関連記事:今出川でのこと vol.3:地獄の北海道遠征参照
願います)
北海道クリスチャンセンター2
40年前の記憶では、草木が生い茂った静かな場所のよう
に思いましたが、浦島チャン太郎が訪れた場所は全く別
のイメージに大変身していました。
余談ですがタバコ屋の大学時代のあだ名がチャンタ(通
称チャン)で、これはある理由から同期の命名の天才S君
から勝手に拝命させられたものですが、前回の記事での
オーテス・ケーリ先生もご家庭ではあだ名が「チャン」だっ
たらしく、奇しくも同じあだ名で、嬉しいような恐れ多いよう
な複雑な心境です。

それにしてもすごい雪で、一体どこから入ればいいんだ
ろう?。
北海道クリスチャンセンター3
建物こそ様変わりでしたが、その正面に刻まれた北海道
クリスチャンセンターの文字は紛れもなくタバコ屋の目的
地であることを示しています。懐かしさで一瞬足がすくみ
ました。
北海道クリスチャンセンター4
正面玄関横には札幌YWCAの看板が掛けられていました。
よくわからなかったので後日調べると、明治時代にイギリ
スで設立された歴史のある奉仕団体で、おもにクリスチャ
ンの女性の自立や働く女性への精神的な援助、平和運動
の推進等をする世界的な組織のようです。
実はタバコ屋の実母も熱心なプロテスタント信者で、日本
初の女性ジャーナリストで女性の啓蒙活動を行った羽仁
もと子さんの著書を聖書とともによく読んでいました。
(関連記事:お尻だって洗ってほしい参照願います)

YMCAも良く似た奉仕団体組織だと思うのですが、同じ
キリスト教プロテスタントの活動組織でもやや異なるよう
です。
北海道クリスチャンセンター6
恐る恐る中に入ると現在の館長、雨貝行麿先生が出迎
えてくれました。ひと時、40年前の話や矢島先生のご近
況等、時間を忘れてお話させて頂きました。残念なことに
矢島先生は体調を崩されて入院されているようで、札幌
での滞在時間も限られ、お見舞いにお伺いすることも出
来ず、よろしくお伝え頂くことに留めました。
左端が雨貝先生、真ん中は事務局の方、右は応対に出
て頂いた物静かな女性職員の方で、皆さんとても家庭的
な雰囲気で応対して頂き、今浦島はひと時、心が癒され
る心境でした。

現在はクリスチャンのための研修、宿泊施設として近代
的なホテル形式になってはいるものの、一般の方にも
開放されているようで、次回札幌に来ることがあるよう
なら宿泊してみたいと思いました。
北海道クリスチャンセンター1
今回はJR札幌駅のすぐ北西方向、北大のすぐ南の好立
地にあるとは言え、大雪をかき分けて再訪を果たしました
が夏の写真がHPにありましたので掲載させて頂きました。
北海道クリスチャンセンター7
もっとお話したいこともありましたが、お仕事の邪魔になっ
てはまずいので、雨貝先生を真ん中に一緒に写真を撮っ
てお別れしました。タバコ屋は梅ちゃん先生のTV見て泣
くくらいですからこの時はもうその寸前でしたが、後ろ髪を
引かれつつ思い出のクリスチャンセンターを後にしました。

今回札幌での出来事を3回に分けてご紹介しましたが、
いかがだったでしょうか。もし再訪することがあるとしたら、
今度は夏にタバコ屋の愛車240Zで40年前の遠征コース
を40年前に製造されたオクルマでトレースしてみたいと
思うのです。
そうすると40年前のことがすべて蘇り、失われた頭髪も
明日への希望も取り戻せるのではないかと思ったり・・・。
しかしこれも今浦島の夢のまた夢かも知れません。


札幌紀行 vol.2:小樽へ

平成25年3月3日
【二つの訳】
多難な幕開けとなった札幌東急での「松山の物産と観光
展」、後ろ髪を引かれつつも倅2人がやってくれているの
で後を託すこととし、タバコ屋は一度行って見たかった
小樽へと向かうことになりました。
オーティスケリー先生2
突然の写真ですが、タバコ屋が同志社大学自動車部在
籍中の前後、長きに亘りクラブの部長先生(実際は顧問
でしょうか)を務めて頂いた、オーテス・ケーリ先生です。
(タバコ屋の現役時代はケリー先生と呼んでいました。
作家の司馬遼太郎さんもケーリ先生とは交流があり、
随筆の中にそのエピソードが出てくるのですがそこでは
ケリー先生と呼んでいたような記憶が)
(最新の表記ではオーテス・ケーリ先生に統一されまし
た)とても怖そうな顔をしていますが実際は心優しいお
方でした。
オーティスケリー先生3
この写真は丁度タバコ屋が大学を卒業した年の昭和48年
に写されたものですが、クラブの一期後輩のI君がふとし
たきっかけでケーリ先生のお嬢さんであるベスさんとご縁
になり、そのベスさんから頂いた「追悼、オーテス・ケーリ
という本からから抜粋させて頂いたものです。
ケーリ先生と奥様のアリス夫人が仲睦まじくお話している
場面で、多分大学構内にあるアーモスト館の庭だと思い
ます。
アーモスト館
アーモスト館は同志社大学の学生用寄宿舎とケーリ先生
の住居に使用されていたと思うのですが、創始者新島襄
がアメリカで学んだアーモスト大学からの寄付金で建てら
れた由緒ある建物です。

ケーリ先生は大の日本通であるドナルド・キーン氏と、US
海軍情報部の同期で、戦時中は日本軍捕虜収容所でキー
ン氏とともに活躍し、終戦後はGHQで戦後日本の骨組み
(天皇制の存続問題)等について審議する部署で重要な
仕事をされた後、同志社大学教授として永年務められま
した。そのケーリ先生の生まれ育った町が小樽なのです。
タバコ屋は一度その小樽へ行ってみたかったのですが、
それがやっと実現しそうです。
(ケーリ先生が何故小樽で生まれ育ったかについては、
話せば長くなるので、別記事をご覧く下さい。
(関連記事:今出川でのことvol.1参照願います)
裕次郎記念館42
またもや突然ですが、言わずと知れた我らが裕ちゃん
です。当時裕ちゃん刈りが流行り、タバコ屋はまだ子供
でしたが散髪屋へ行って裕ちゃん風にカットしてもらい悦
に入っていた遠い昔の記憶があります。
「タフガイ裕ちゃん」子供心に、超カッコ良かったですが、
ここだけの話、実際は相当な不良でお兄さんの石原慎
太郎氏も困っていたとか。
狂った果実2
そこで慎太郎氏は一計を案じ、小説のデビュー作「太陽
の季節」を映画化するにあたり、弟を出演させることを条
件にしたところこれが予想外の大ヒットとなりました。続い
ての「狂った果実」では後に夫人となる北原三枝さんと
共演しまたまた大ヒット、その後は日活の看板スターとな
り、また歌の分野でも「二人の世界」「赤いハンカチ」等、
数々のヒット曲を生み出し、日本のトップスターに上り詰
めました。ついでながら津川雅彦さんもこの時に裕ちゃん
と一緒にデビューしました。
浅丘ルリ子1
ここだけの話ですが、裕ちゃんは浅丘ルリ子さんと数多
くの作品に出演し当時はラブラブで、本当はルリ子さん
と結婚するのではと言われていました。実際は三枝さん
と結婚した訳で、判官びいきのタバコ屋とすればルリ子
ちゃんが可愛そうでした。
名前は言いませんが同志社大学自動車部の一期後輩
にも可愛い後輩女子を袖にして泣かせた不届きな男が
いました。

ついでながら、ポスターの下面に映っているダンディ、
二谷英明さんは同志社大学出身でしかも学生寮である
アーモスト館の寮生だったったので、スターになった後も
終生、館長のケーリ先生とは親交がありました。

その裕ちゃんはお父さんの仕事(汽船会社社員)の関係
で幼少時を小樽で過ごしました。裕ちゃんは若い時の荒っ
ぽい生活がたたったのか、52歳という若さで早逝してしま
いましたが、その第二のふるさととも言える小樽に「石原
裕次郎記念館」が建てられました。ほとんどの皆さんは
すでにそこへ行かれていると思いますが、悲しいことに
タバコ屋は行った事がなかったのです。

余談ですが、裕ちゃんのお父さんは愛媛県の八幡浜出
身、お母さんは広島の宮島出身だったこと皆さんご存知
でしたか。タバコ屋はつい最近まで知りませんでした。
何やらグッと身近になったような気がします。

以上二つの理由で、今回の小樽行きとなりました。
裕次郎記念館3
午前中降っていた雪もやみ、つかの間の晴れ間の中、
札幌の郊外を一路小樽へと向かいます。ケーリ先生に
ついては小樽で特別見ておきたい場所というのも思い
当たらないので今回は裕ちゃん記念館のある小樽築港
へ行くことにしました。
裕次郎記念館1
裕ちゃん記念館にやってきました。大雪の中を築港から
タクシーで行けばいいものを雪まみれになりながら歩い
て行きました。バカですね~。ふと三味線かかえて旅ゆ
く、盲目の「ごぜ」さんの姿を思い出しました。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
裕次郎記念館4
正面ゲートにある裕ちゃんのトレードマークでもあった
ヨットのセールをモチーフにしたモニュメントみたいなもの
の所に辿り着きました。もうすぐそこです。
裕次郎記念館5
奇跡的にこの時数分間だけ雪がやみ、晴れ間が出まし
た。いよいよ到着です。
裕次郎記念館44
裕ちゃんは湘南育ちでヨットマニアでもあったので愛用の
ヨットが正面玄関左に飾ってありました。
裕次郎記念館14
かわいいお嬢さん二人がお出迎えです。驚いたことに当
日は大雪だったせいか、入館者がタバコ屋一人で、一時
間半程度の滞在でしたが貸切でした。そのせいかどうか
人間雪だるまみたいなオヤジが入ってきたのを不憫に思
い、「赤いハンカチ」ならぬ「白いタオル」を貸してくれまし
た。受付嬢のご親切に感謝。
裕次郎記念館41
裕ちゃん記念館で見たかったのは、裕ちゃんが愛用して
いた靴でもネクタイでもなく、タバコ屋が同志社大学に入
学した昭和44年(1969年)に封切られた裕ちゃん主演の
栄光への5000キロ」撮影時に使用された、ホンモノの
DATSUNブルーバードP510サファリラリー仕様車を見た
かったのです。
裕次郎記念館36
ありました、ありました。今となっては相当時代を感じさ
せますが撮影用とはいえ実際サファリラリーに参加して
実走行しながら撮ったそうですから、仕様はほぼワークス
といっしょで随所にラリー車ならではの特別なシカケが見
られます。
収穫だったのはリアタイアハウス内に取り付けられてい
るマッドフラップ(泥除け)の装着方法がわかったことです。
中に頭を突っ込んで確認しましたので間違いないです。
実際はエキゾーストの途中留め金にステーを溶接して伸
ばし程よい位置でそのステーに固定バー付きのフラップ
をぶら下げるという寸法です。これはタバコ屋の愛車240Z
にも応用出来るので近いうちにやってみようと思います。
裕次郎記念館40
これは別の場所で写したものですが、全く同じ車です。
車高が極端に高く、フロントがややウイリー気味に感じ
るほど持ち上がっています。これなら少々のことでは腹
打ちしません。
ちなみに裕ちゃんの撮影車はゼッケンNO.90でNISSAN
のロゴと日の丸が気負いと誇りを感じさせます。
カラーは真紅だと思っていたのですが意外にも海老茶っ
ぽい赤でした。
栄光への5000キロ1
「栄光への5000キロ」の1シーンですが、ここでも我らが
ルリ子ちゃんがけなげに出演していて、裕ちゃんを支えた
と思うのです。いじらしいと思うのはタバコ屋だけでしょう
か・・。

ちなみに実話では撮影の翌年、DATSUNブルーバード
P510はエドガーハーマンのドライブにより初の総合優勝
を果たします。
NISSANのラリーでの輝かしい栄光はここから始まること
になります。
(関連記事:今出川でのことvol.1参照願います)
裕次郎記念館34
裕ちゃん愛用のメルセデスベンツ300SLです。このオクル
マは世界に6台しかない車らしく裕ちゃんが年俸をすべて
注ぎ込んだと言いますから、フェラーリ、アストンマーティ
ン、はてはマクラーレン等よりも高価で今のお金で1億円
以上したと思われます。(タバコ屋の推測です)
メルセデスベンツ300SL
特徴は浮世離れしたダントツの性能はともかくドアが上
に跳ね上げるタイプでガルウイングドアと言います。
ガルはカモメですからカモメの翼ということになり、そう言
えば開けた形状がカモメに似ていませんか。
ついでながらこの方式を発明したのはメルセデスベンツ
で、300SLに初めて採用され、以降スーパーカーがこぞっ
て採用することとなりました。
裕次郎記念館30
続いて裕ちゃん御用達のオクルマは意外でしたがロール
スロイス・シルバーシャドウです。黄昏の大英帝国にあっ
て唯一気を吐いていたのがロールスで航空機用ジェット
エンジン製造を始めオクルマでは旧態化しつつあった
既存のシリーズをタバコ屋が大学入学の数年前、昭和
42年に一新し、ロールスにとってはモダンなデザインの
シルバーシャドウを発売しました。
ハイソ階級の専用ノリモノで、裕ちゃんも実際乗ることは
少なかったでしょうが、カーマニアでもあった彼が夢の実
現の一つとして買ったのだと思います。
蛇足ながらウィキペディアには裕ちゃんの愛車、ロールス
ロイス・シルバースピリットとして紹介されていますが、
正確には間違いでスピリットはシャドウの後継タイプであり
当然デザインも異なり裕ちゃんのはシャドウだと思います。
ゴースト1
余談ですがこの写真は、ロールスロイス・シルバーシャ
ドウの最新版で、ゴーストという名前に変わっています。
裕ちゃんが無茶な生活をせず長生きしてくれていたらきっ
と購入したと思います。
全く独断ながら、実はタバコ屋お気に入りのデザインだか
らです。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
裕次郎記念館32
裕ちゃんらしい愛車がこのキャデラック・フリートウッドで
しょう。
キャデラックは今でこそガソリンの大食いクルマで悪者扱
いされていますが当時は世界最高峰の高級車で、アメリ
カ大統領は元よりマリリンモンローと結婚した野球のヒー
ロー、ジョー・ディマジオはじめプレスリー等、名だたる
有名人御用達のオクルマでした。
ちなみにエアサスペンション、パワーステアリング、オー
トマ、エアコン、等々快適装備のほとんどはキャデラック
が発明もしくは初めて採用したメカで当時の国産車など
足元にも及ばない程の先進メーカーでした。また裕ちゃ
んがフリートウッドを買った頃がキャデラックにとっても
その絶頂期でした。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
裕次郎記念館33
裕ちゃんはこのオクルマをハワイの別荘での専用車と
して使っていたらしく、ナンバープレートでそのことが分
かります。説明書きを見ると、ハワイでは自分の名前と
かをプレートに自由に登録出来るらしく、自由の国アメ
リカの一部とはいえ粋なはからいだと思います。

あと西部ケイサツ関係のド派手なスカイラインやZがずら
りと並んでいたのですが、タバコ屋はあまり趣味が合わ
ないので素通りし、この記事でも取り上げませんが我儘
をお許し頂きたいと思います。
裕次郎記念館9
熱心に見て回ったのでやや疲れました。ここは裕ちゃん
喫茶
で一休みすることにします。と言っても広い館内は
タバコ屋一人なので職員さんに悪いような、ややニンマリ
のような複雑な心境でコーヒーを注文しました。
裕次郎記念館11
メニューにはなかったのですが特別にコーヒーと裕ちゃ
んパン
(大きいほうではなくあんこ入りの一口パンの方)
を注文しました。全館独り占めとはいえ職員さんもヒマだっ
たので我儘を聞いてくれたのではないかと思います。
裕次郎記念館12 裕次郎記念館13
裕ちゃんパンはつぶあん入りでとてもおいしく、おみやげ
にしたかったですが、遠方にて持ち帰りは断られました。
残念。
右は裕ちゃんブランドのカップ&ソーサーです。ハイセン
スという訳ではないですが、ヨットが好きだった裕ちゃん
らしいアイデンティティが感じられました。
京都イノダのコーヒーも好きですが裕ちゃんコーヒーも
おいしく頂きました。ただアンパンとコーヒーはミスマッチ
なので皆さんにはお勧め出来ません・・・。
裕次郎記念館15
もう当分、裕ちゃんにお会いすることもないので名残惜し
い気もしましたが全館貸切の訪問を終えることにしました。

尚、行かれた方はご存知でしょうが、館内はエントランス
ホールと裕ちゃん喫茶以外は撮影禁止だったので、まじ
めなタバコ屋は撮影を控えました。友人に元兵庫県警の
エライさんギーちゃんもいるので、何となく後ろめたい気
がしたのです。仕方なくオクルマの写真はウィキペディア
等から流用させて頂きました。
裕次郎記念館7
裕ちゃん記念館から見た小樽築港方面で巨大なショッピ
ングモール「ウイングベイ小樽」が長々と続いています。
手前の高いビルはホテルだと思います。
かつてバブル華やかなりし頃、タバコ屋はニチイ(マイカ
ル)グループで活動したことがあると以前申し上げました。
当時ウォーターフロント開発というのがトレンドとなってい
て、マイカルも造船所の跡地や製油所跡などを再開発し
て巨大なショッピングモールにする計画を推進していまし
た。現実的には数万坪の用地が必要で、適地がなかなか
なく、それでもマイカルは横浜の本牧や室蘭、四国では
宇多津等にマイカルタウンを建設し、ショッピング(サティ、
ビブレ等)、映画等のアメニティ施設、ホテル、マンション、
病院等まで備えた複合施設を作りました。
結果は年間に当時の大手自動車メーカーと同等の巨大
投資が必要となり、結局はうまくいかず破綻してしまいま
した。

そこまでの規模ではないですが、かなり大きなショッピン
グモールだったので当時を懐かしく思い出しながら、帰路
はモール見学を兼ねて再びごぜさんのように三味線がわ
りにこうもり傘を抱えて歩くことにしました。
裕次郎記念館21
小樽の場合は核テナントにホームセンターのビバと生活
総合のイオンが入り、その間を多くの専門店が埋めると
いう構成でした。
天井は青磁色、床はウッディ調のベージュでまとめられ
ていて広い店内を落ち着いた雰囲気に仕上げています。
設計者のセンスの良さが偲ばれました。
裕次郎記念館20
モールの特徴の一つは通路が非常に広くゆったり取られ
ていることで、相当お客が入っていてもそのように感じま
せん。
裕次郎記念館18
二層になっていて、一階はビバとイオン及び軽飲食スペ
ースが大半を占め、二階はおもに専門店や飲食店で占
められています。
裕次郎記念館19
いわゆるアウトレットではないのですが、そのような類の
店舗ゾーンもありました。
裕次郎記念館22
裕ちゃんとは関係ないことに脱線してしまいましたが、
モールをウロウロしながら歩くうちに小樽築港に到着しま
した。これからもう一つの目的地の、ある場所をめざすた
め、再び札幌を目指します。
裕次郎記念館23
小樽築港駅で見慣れないモノを見ました。何と除雪列車
です。南の島からやってきたタバコ屋にとって、このような
ものはもう見ることもないでしょうが、北海道を始め北国
にとってはなくてはならないものでしょう。

余分なことを沢山書いたので、紙数も尽きたようです。
今日はこのくらいにして札幌に帰っての出来事は次回お
話しすることに致します。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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