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島のスイーツ開発 vol.7:クグロフ発進

平成26年1月30日
君の名は」現象にて、数寄屋橋のたもとならぬ島の波打ち際
で待てども来ぬ相手を待ちに待った甲斐がありました。
島のスイーツの切り札として秘かに開発していたクグロフが
今回やっと完成致しました。実際はじっと待っていた訳ではなく
試作プロトタイプの修正、パッケージデザイン確定、容器の選定、
食品衛生法やJAS法その他法規面の検証、賞味期限の確定等
やることが山ほどあり、オクルマの新車開発に比べれば「ややこ
の遊びですがそれでもタバコ屋レベルですと骨の折れる仕事です。
IMG_3982-1.jpg
かつて18世紀、フランスのマリー・アントワネット王妃がこよなく
愛したクグロフの形状が中島をイメージさせることからネーミングは
中島いよかんクグロフ「希望の島」としました。

しっとり感のあるスポンジの生地には中島特産のイヨカンピールを
練り込み、てっぺんには砂糖を溶かしたフォンダンを流しその上に
いよかんピールをあしらっています。写真ではいよかんピールの
トッピングがやや不十分でもう少しボリュームを持たせるようにした
いと思います。

今回のテーマはマリー王妃のクグロフと瀬戸内海の中島との世にも
不思議な合体にあったと申せましょう。
(関連記事:マリー・アントワネットのこと参照願います)
クグロフPOP3(保存用)
タバコ屋お気に入りのパッケージロゴデザインです。以前にもお話し
したように広島のデザイン会社G社のOプロデューサーに手掛けて
頂いた入魂の作です。尚、O氏の持ち味はタバコ屋の好きな渡辺
和博氏と合い通じるところがあり、わざとへたうまタッチにして温かみ
と優しさを表現するという手法で、ヘンですけど我がふるさと中島を
表現するには最高のものであると信じています。鰯の頭も信心から
と言うではないですか。いくら好きでも中島いよかんクグロフの
トータルデザインをジウジアーロ氏に依頼する訳にはいきません。
何故なら彼はイタリアーノで専門はオクルマだからです。
ちなみに山下清画伯のような個性的な作風が特徴のO氏のお名前
もキヨシさんと言いましてマツモトキヨシとは何の関係も無いながら
タバコ屋はキヨッチャンと呼ばせて頂くこともあります。
クグロフ帯デザイン4個用(保存用)
化粧箱に巻く包装用の帯デザインです。うまく表現出来ませんが
いよかんと中島とマリー王妃のヴェルサイユのイメージがうまく
表現されていると思いませんか。タバコ屋のお気に入りにて手前
味噌になってしまいますのでこれ以上の説明は控えましょう。
尚、一連のデザイン制作にはO氏のスタッフの一人、別のO氏が
深く関わっていることを申し添えておきます。
IMG_3976.jpg
中島いよかんクグロフの4個入りパケージです。商品、包装袋、
化粧箱、包装帯がブラウン、オレンジで統一されていてほんわか
タッチの中にも高級感を醸し出すよう配慮されています。食べる
BMWミニクーパーと言ってしまえば誇大表示で摘発されるかも
知れません。
クグロフしおり中面(保存用)
しおりに使用されるイラストデザインです。帯のデザインから一歩
進めて、今度はよりリアルに怪しげに表現されています。ちなみに
このイラストを描いたのはO氏のスタッフの一人でみずきさんと言う
お嬢さんです。皆さんに笑われるかも知れませんが、子供の頃に
見たモスラの島のイメージがふと思い出されたのですが、考えすぎ
でしょうか。
(関連記事:島のスイーツ開発 vol.6:舶来レトロ参照願います)
モスラ6
怪獣映画モスラは昭和36年封切られ大ヒットしましたが、娯楽の
少なかった当時のタバコ屋を含む子供達には強烈な印象が残っている
映画だと思います。荒唐無稽なストーリーはゴジラと同様なもので
水爆汚染されたとある島に住んでいた双子の小妖精が連れ去られ
それに怒った島の主、モスラが2人を取り戻すために東京に現れ
大暴れして取り戻すという内容です。
モスラ4
その双子の妖精役がザ・ピーナツだった訳で、2人の歌う呪文の
ような歌につられてモスラが現れるのでしたが、その劇中歌だった
モスラーやモスラー~~のメロディーは今でもはっきりと記憶に
残っています。当時のザ・ピーナツの何と初々しいことか。
モスラ3
そのモスラの島インファント島の写真です。実際はどこかへロケに
行って撮影したものでしょうが、形状が似ているというよりは怪しげ
なムードという意味でふとこの島が思い出されました。
中島-城
クグロフに戻ります。その形状が中島をイメージさせると申しました
が、実際は中島にある「城」と呼ばれる小さな小島がそのモチーフ
でした。ズバリこの島のイメージが今回の中島いよかんクグロフの
開発の原点となりました。タバコ屋の子供達が小さい頃よくお弁当
を持って遊びに連れて行った思い出の詰まったこの小島、タバコ屋
なりのニックネームは「おにぎり山」でした。当時としてはクグロフ
などというお菓子のことは知る由もありませんでした。
(関連記事:マリー・アントワネットとフェアレディZの謎参照願います)
クグロフPOP1(保存用)
ヴェルサイユとは行かないまでも何やらエキゾチックなイメージが
漂うこのイラストロゴですが、さて皆さんはどのようなイメージを
持たれることでしょうか。
クグロフPOP4
それはともかく、タバコ屋流の舶来レトロスイーツが完成しました。
果たして夢をのせて、希望をのせて、皆さんに召し上がって頂ける
かどうか、お口に広がる瀬戸内海とはどのようなものなのか、
この場でご試食頂けないのが残念ですが、皆さんのご意見を是非
お聞きしたいところです。
君の名は」と訪ねし人あれば「中島いよかんクグロフ 希望の島」と
お応えすることにして完成のご報告と致します。


荒ぶる心 vol.6:マクラーレン物語

平成26年1月12日
皆さん新年明けましておめでとうございます。昨年の正月には
自分とは何か、その自己証明たるアイデンティティとは何かに
ついて梅ちゃん先生のお話しにからめてお話し致しました。
(関連記事:アイデンティティ参照願います)
自分という個人には生きてきた歴史がありそこにささやかなり
とも物語があるのですが、それはその人自身のものであり誰も
真似が出来ない訳でそれが自分を証明する唯一の証でもあり、
そのことを西洋コトバでアイデンティティと言ったりしますが
企業も一緒で、それをコーポレートアイデンティティと言ったり
しますよね。具体的に文字や言葉や形で表す場合もあります。

お正月早々あまり堅苦しい話もいやでしょうからお雑煮がわりに
今日は今月の気になる写真でも取り上げたマクラーレンの物語
(即ちアイデンティティ)をお話ししてみたいと思います。
B・マクラーレン3
マクラーレン」、島のタバコ屋にとっては特別な響きを持つ名前です。
プロのレース屋であり最近ではスーパースポーツカーの生産も手掛
けるプレミアムな自動車メーカーでもあるのですが、マクラーレンの
ことをお話しするにはその創始者であるブルース・マクラーレンのこと
から始めなければなりません。
B・マクラーレン4
ニュージーランド出身の彼は長じてはイギリスに渡りレース界で腕を
磨いた後、昭和34年にはF1ドライバーとしてクーパーからデビュー
しました。ちなみに写真のクーパーT53はその後HONDAがF1に
参戦するにあたりそのマシンを購入して徹底研究し主にエンジン以外
のシャシー構造をかなり真似たといういわく付きのマシンですが最初
は誰でも皆もの真似なんです。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.2:発展期参照願います)
クーパーF1-T51-2
余談ながらクーパーF1が優れていた理由はエンジンをミッドシップ
レイアウトにしたことで、その軽快な運動性能により馬力の大きい
他のマシンより優れた総合性能を発揮しF1に革命をもたらしました。
(他のチームはすべてエンジンをフロントに搭載していたのです。)
モンテ・ミニクーパー1
またカテゴリーは異なるものの当時のBMCミニに対しチューニング
の提案をしたことでレースはもとよりモンテカルロラリーでは驚異の
3連覇を果たす等大成功を収め、今や伝説ともなったミニ・クーパー
というブランドが誕生することにもなりました。
(関連記事:復刻と改造参照願います)
マクラーレンF1カー1
彼は若干22歳でF1初優勝を飾り最年少記録を塗り替えつい最近
フェルディナンド・アロンソに破られるまでは43年間その記録保持
者でした。若くしていかに才能溢れたドライバーであったか窺い知る
ことが出来ます。やがて昭和41年には自らF1マシンを製造する
コンストラクターとなり新たな活動を始めたのですがなかなかうまく
いきませんでした。
B・マクラーレンCANAM2
それよりも当時北米で創設されたCAN-AM(カナディアン-アメリカン
チャレンジカップ)に並行して挑戦し、大成功を収めたのでした。
車輛規定は排気量無制限の2座席オープンタイプレーシングカーで
制約があまりないのと大迫力のためアメリカではF1よりも断然人気
のあるカテゴリーでした。
B・マクラーレンCANAM5
参戦に当たっては親友のデニス・フルムを迎え入れマシンにも改良が
重ねられた結果昭和44年、即ちタバコ屋がD大学自動車部1回生の
時には2人で11戦全勝という離れ業をやってのけ「ブルース・アンド
デニー・ショー」と呼ばれたほど完璧な勝利を収めました。
ニッサンR382-4
その流行はすぐさま日本にも感染し国産勢のトヨタ、ニッサンも
同様のプロトタイプレーシングカー(グループ7カーとも言います)
を開発し、しのぎを削ることになりました。写真はニッサンR382
奇しくもマクラーレンがCAN-AMで完全優勝した同じ年、昭和44
年の日本GPレースにおいてタバコ屋お気に入りの名車ポルシェ
917やトヨタ7を相手に1・2フィニッシュの完全勝利を収めた栄光
の名車なのです。スペックは重量800kg弱に対しニッサン製、6L
DOHCエンジンは600馬力以上を発生し今でもオバケですが当時
は怪物もしくは怪鳥と呼ばれたことは懐かしい記憶です。
(正確に言えば怪鳥とはウイング付きのR381のことです)
ニッサンR382-5
タバコ屋の青春時代そんなに眩しいほど輝いた時代のあるニッサン
ゆえに今のゴーンさんのニッサンに幻滅の悲哀を感じるのは無理
からぬことかも知れません。
B・マクラーレンCANAM6
話をマクラーレンに戻します。ここでとんでもない事件が起りました。
新型のM8Dをテストしていたブルース・マクラーレンはテスト走行
中の事故(リアカウルとウイングの脱落)で死亡してしまったのです。
マクラーレンM23-2
彼の死亡後は紆余曲折があったもののテディ・メイヤーが引き継ぎ
4年後の昭和49年には名手エマーソン・フィッティパルディの手
により見事F1のチャンピオンに輝きました。その後は他チームの
追い上げが激しくしばらく低迷することとなり、タバコ屋も大学を
卒業していたので、仕事で忙しくなりあまり記憶にありません。
ここまでがマクラーレンの歴史の前期とも言える時期でタバコ屋に
とっても鮮明な記憶があるのは、やはりCAN-AMで輝かしい活躍
をした当時のマクラーレンでしょうか。
ロン・デニス1
その後約6年が経過し、マクラーレンの後期とも言える物語が始まり
ます。昭和55年には当時メインスポンサーであったマールボロの
主導でマクラーレンと写真のロン・デニス率いるプロジェクト4が
合併することになりました。ロン・デニスは銀行員から元クーパーの
メカニックに転出した変り種で最底辺から身を起こし、地味な性格な
がらも次第に頭角を表しつつあり合併以後はチーム名マクラーレンを
継続しロンデニスが率いることとなりました。
また新たに開発するマシンにはマールボロのMとプロジェクト4のP4
を取ってMP4と呼ばれることになりましたが、後年マールボロとの
関係が一旦解消されてからはマクラーレンのMとP4を取って同じく
MP4というコードネームが今日まで長く使用されています。
マクラーレンMP4・2-4
ポルシェとの蜜月
昭和59年には写真のMP4/2を駆る名手ニキ・ラウダにより待望の
F1チャンピオンを獲得することになりました。エンジンはポルシェの
1.5LV6DOHCターボでこのことも勝利に随分貢献しました。
数年はラウダ、プロストの最強コンビで勝利を重ねたのですがそこへ
台頭してきたのがマクラーレン同様老舗のウイリアムズチームでした。
ウイリアムズFW11-1
そのマシンFW11に搭載されていたのは我がHONDAの1.5L
V6DOHCターボエンジンでした。HONDAも数年前からF1に
復帰し、持ち前のパワーで他を圧倒しつつあったのです。
マクラーレンのロン・デニスはその状況を見てかなりあせりました。
マクラーレンMP4にもパワフルなHONDAエンジンを載せたいと
思うようになりました。しかし先客がいてそれは叶いませんでした。
タバコ屋流に言うと「君の名は現象」です。春樹と真知子がお互い
来もしない相手をあの橋のたもとで待ち焦がれるというじれったい
話でした。しかし待ったかいはありました。HONDAがウイリアムズ
との契約を解消して、マクラーレンとロータスにエンジン供給をする
ことを決めたのでした。昭和63年のことです。
マクラーレンMP4・4-1
HONDAとの出会い
念願かなったロン・デニスは新設計のマクラーレンMP4/4に
極めてパワフルなHONDA1.5LV6DOHCターボエンジンを
搭載し(わずか1.5Lエンジンから1,000馬力近くを絞り出すと
言う手品のようなことをHONDAは実現していました)そのマシン
に成長著しかった若き天才F1ドライバー、アイルトン・セナと世界
チャンピオンのアラン・プロストを招聘し、デビューした昭和63年
いきなり全16戦中15勝という夢のような完全勝利を収めました。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願います)
ロンデニス6
ロン・デニス及び左プロスト、右セナが写っている珍しい写真で
すが3人とも勝利を確信してとても和やかで楽しそうな表情で
第一皆若くハツラツとしていますよね。
宗一郎とセナ1-1
嬉しかったのはロン・デニスだけでなく我がHONDAも同様で、
特に本田宗一郎氏は以前の空冷F1-RA302の苦い経験が
あるだけにその圧倒的勝利の喜びはひとしおだったようです。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期参照願います)
マクラーレンMP4・5-2
F1の主催者側としてはマクラーレンホンダの一人勝ちを阻止する
ためエンジン規定を変更、ターボを禁止し自然吸気3.5リットル
としました。それに合わせて開発されたのがマクラーレンMP4/5
で、依然としてトップの競争力を持っていました。HONDA3.5L
V10エンジンはまたしても破竹の連勝記録を重ね、HONDA以外
のエンジンでは勝てないという時代が続きました。もちろん優秀で
手堅いマクラーレンのシャシーと天才ドライバー、アイルトン・セナ
のドライビングに拠る所が大きかったことは言うまでもないことです。
マクラーレンMP4・6-1
そのうちフェラーリやウイリアムズの巻き返し及び新興勢力ベネトン
の台頭等があり以前のように簡単には勝てなくなってきていました。
そこで新たに投入されたのがマクラーレンMP4/6で、主な改良点
は、それまでのV10からV12へと変更されパワーアップを狙った
ものでした。確かにHONDA-V12は究極のパワフルなエンジン
で、その年はセナにより前年度に続いての連続チャンピオンを獲得
し、マクラーレンにとっては4連覇、HONDAにとっては6連覇と
いう絶頂の時代を極めました。
HONDAマクラーレンスタッフ写真
しかしV12はパワフルながら重量が重く、総合力では他チームに
劣るようになりました。翌年は改良版のMP4/7を投入したりしまし
たがチャンピオンを勝ち取ることが出来ず2位に終わりHONDAも
マクラーレンも栄光の夢はここまででした。
平成4年バブルの終焉とともにHONDAは初期の目的を達したと
してF1からの撤退を決めたのです。

(後日調べ:V10よりV12のほうが重くなったというのは
タバコ屋の勘違いで実際は5kgも軽量化し馬力は数十
馬力アップさせていました。常勝が難しくなったのは他
のチームがエンジンでは勝てないのでボディの空力等
を改善し速くなり、片やマクラーレンはHONDAの強力な
エンジンに頼ってボディの改善があまり出来てなかった
と言うのが真相のようです。)
アイルトン・セナ2
その後のアイルトン・セナ
HONDAがF1から撤退しあおりを食らったのはマクラーレンだけ
でなくアイルトン・セナも同様でした。セナはマクラーレン移籍後
その天賦の才能を存分に発揮し昭和63年と平成2年及び3年に
3度に亘りワールドチャンピオンとなり通算優勝回数41勝、予選
での速さで決まる決勝での先頭位置、ポールポジション(PP)は
65回という偉業を成し遂げたのですが、F1業界では速いながら
も接触事故等のトラブルが多く危険なドライバーとされたりその強
気な発言で誤解を招いたりしましたが、観戦の側からすると世界的
に「史上最速、最高のF1ドライバー」という評価が確立されており
特に日本ではHONDAとの密接な関係から熱狂的な支持を受け
音速の貴公子」と呼ばれたりしました。
ウイリアムズFW16-4
HONDAが去って失意のセナは実はその前年すでにウイリアムズ
チームに移籍する決心をしていたのですがHONDA側の強い慰留
でマクラーレンとの契約を1年延長していた経緯がありました。
しかしもうこれで未練なくウイリアムズに移籍することが出来、事実
1年後そのようにしました。
史上最強のドライバーセナを待っていたのはウイリアムズの最新鋭
マシンFW16でしたが、当時最速のマシンではあったものの非常
にデリケートな性質を持ち、セナは周りの親しい人たちに乗りにく
いマシンであることを漏らしていたそうです。
ウイリアムズFW16-6
これはタバコ屋の持論ですが、あれほどの天才が乗りにくいという
くらいですから、それはバランスに欠陥があるはずで設計者のE・
ニューウエイはやり手かどうか知りませんがこれは欠陥車であった
と断言します。誤解を恐れずそのことを推測しますとニューマシンは
リアサスペンションをカバーですっぽり覆うことで空力特性を向上
させるため、上部サスペンションアームの位置を下げた結果、上下
ストロークが短くなりしなやかさが失われ、ポンポン跳ねる乗心地
になったようで、当然速くはなっても操縦性は悪くなるという訳です。
アイルトン・セナ4-1
そのような状況の中、平成6年超高速サーキットで有名なイタリア
サンマリノで行われたF1第3戦において、先頭を走っていたセナ
は高速コーナーにおいて曲がらず直進してしまいコンクリート壁に
激突、世界中のファンの願いもむなしく死亡してしまいました。
享年34歳、天才と呼ばれたセナのあまりにも早過ぎる死でした。

事故の原因はそのサスペンションではなく、どうもセナが乗り難い
のでステアリングシャフトの長さを変えるよう要求しそれを処置
したメカニックの溶接が不完全で、高速走行中に折れて操縦不能
になったことが真相らしいですが、そのような事例は過去一度も
なく、タバコ屋はサスペンションの欠陥という遠因によってその
ような事態が引き起こされたと信じています。可哀想なセナ・・・。
アイルトン・セナ5-1
歴史にIFはありませんが、ウイリアムズなんかに移籍しなければ
良かったのにと思います。マクラーレンも以前ほど勝てなくなった
とはいえ、依然としてトップグループにいた訳ですから。しかし
天才ドライバー、アイルトン・セナのプライドがそこに留まることを
許さなかったのだろうとタバコ屋は思います。
タグホイヤーセナモデル2
蛇足ながら、セナが腕にはめている時計は当時セナのスポンサー
だったスイスの時計メーカー、タグ・ホイヤー社の「セナ・モデル」
と言われるものでタバコ屋も秘かに愛用している逸品です。

マクラーレンに戻ります。HONDAが去り、セナがいなくなって
しまったF1はタバコ屋はじめ日本のファンの多くはもうどうでも
よくなってしまって、バブルもはじけてしまいその後は日本のF1
人気も随分衰えてしまいました。ただしタバコ屋は鈴鹿サーキット
のF1GPで島のミカンを販売することになったためその後数年間
はよく鈴鹿に通いました。
(関連記事:鈴鹿の風 vol.1参照願います)
マクラーレンMP4・12-2
マクラーレンもその後7年程はいいとこなしで低迷しましたが、
平成10年にはメルセデス・ベンツと契約した3LV10-DOHCの
新エンジンを搭載しメインスポンサーも23年間にわたってお世話
になったマールボロからドイツのタバコブランドウエストに変更、
ドライバーはフィンランドの新星ミカ・ハッキネンを抜擢したことで、
新開発のMP4-13はその年のワールドチャンピオンを奪回しま
した。しかしフェラーリ&シューマッハやルノー&アロンソのコンビ
に押しまくられ再び低迷することとなりました。
マクラーレンMP4・27-3
それ以降、同じフィンランド出身のF1ドライバー、キミ・ライコネン
の活躍や、黒人混血ドライバーのL・ハミルトンの活躍等があり、
その後ルノーで名を上げたF・アロンソやHONDAとご縁の深い
J・バトンの加入による盛り返しがあったりして今日に至っていま
すが、往時のような際立った実績が上げられずタバコ屋もここへ
来て、解説する気力を失ったようですので、マクラーレンのF1に
関するお話しはここまでと致します。
マクラーレンF1-1
マクラーレン≒ロン・デニスの野望
実はマクラーレンとHONDAにとってのF1絶頂期の頃、平成3年に
ロン・デニスはあるリスキーな挑戦を試みました。それはフェラーリ
やポルシェと同様に、プレミアムスポーツカーの開発と販売を行い
そのメーカーとなることでした。これは単なるプロのレース屋とは
また別のビジネスセンスが必要であり、元銀行マンであった実業家
ロン・デニスの雄大な野望でもありました。彼は当時圧倒的な強さ
を発揮した名車マクラーレンHONDA-MP4/4を設計した鬼才
ゴードン・マーレイにスーパースポーツカーの設計を依頼し見事に
完成させ販売にこぎ着けました。その名もマクラーレンF1でした。
マクラーレンF1-5
F1マシンが専門であるマーレイが設計したこのクルマは限りなく
レーシングカーに近く、そのスペックはカーボン製モノコックボディ
にBMW製の6.1LV12DOHCエンジンを搭載し6速MT!
ミッションを介して途方もない性能を発揮するモンスターでした。
尚エンジンは当初マーレイがHONDAにV10エンジンの提供を
要請したものの断られたためやむなくBMWにしたという裏話が
あります。マーレイはすでに発売されていたHONDA-NSX
がいたくお気に入りでその快適コンセプトをマクラーレンF1にも
随分取り入れたそうです。何やら嬉しい話じゃないですか。

しかしメカに懲りすぎたため価格が1億円という途方もない金額と
なり販売面においてはロン・デニスの楽観的な目論見に反して
市場ではフェラーリ、ポルシェほどの知名度がないこともあって
ほとんど売れずショウバイはそんなに甘くないことを身をもって
思い知らされたロン・デニスではありました。それが証拠に我が
HONDA-NSXでさえマクラーレンの十分の一の1,000万円
で売られたと記憶していますが、なかなか思うようには売れず万年
赤字だったと伝え聞いています。
(関連記事:東京モーターショー異聞 vol.2:百花繚乱参照願います)
マクラーレンF1-4
読者の皆さんもお気付きのように、ロン・デニスはここに来てF1
レースだけでは飽き足らず、プレミアムなスポーツカーメーカーを
夢見るようになっていたのです。このリスキーな挑戦は苦しみつつ
も徐々に一定の成果を収め、その絶大なF1レースでのブランド力
により極めて短時間でプレミアムスポーツカーメーカーの仲間入り
を果たしつつありました。
NSX3.jpg
奇しくもマクラーレンのパートナーであるHONDAも同時期の平成
2年に、世界中をアッと言わせた楽チン快適スーパーカー、NSXを
発売し、名だたるスーパーカーメーカー特にフェラーリを慌てさせ、
当時の虎の子だったフェラーリ348を至急快適仕様に改造せざる
を得ない状況に追い込んだ事実は痛快な出来事としてタバコ屋も
鮮明に記憶しています。

フェラーリをビビらせたのは楽チン快適仕様だけでなくハンドリング
やエンジンレスポンス等総合的なものでした。このNSXの開発に
当たっては当時HONDAと密接な関係にあった天才F1ドライバー
アイルトン・セナが深く関わっていました。彼のセンスがそのマシン
に生かされた訳ですから、フェラーリがその出来ばえに脱帽したの
もうなずけるというものです。余談ながらセナはNSX発売後、その
初期のオーナーにもなっています。
(関連記事:ブランドに秘められたもの vol.2:外国車参照願います)
NSX5-1.jpg
新参者のNSXはいきなりスーパーカーの優等生となりオール5の
評価を受けたのですが、只一点ミスを犯しました。それはレジェンド
と共用のV6エンジンを搭載したことです。世界の頂点で競り合う
ためにはF1で開発したV10エンジンを積む必要がありました。
それは単なるV10エンジンではなく世界最高峰のF1で頂点を
極めた栄光のエンジンであったからなのです。プレミアムブランド
の世界でこれ以上のものは必要なくまたこれ以下ではだめでした。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願います)
HONDARA109(V10)-2.jpg
それがオーラというもので、そうすれば当時のNSXのブランド価値
は数段上ったことは間違いないとタバコ屋は断言します。レジェンド
のエンジンはどうするのかですって?。レジェンドもV10にすれば
良かったのです。その一点のミスがHONDAの限界とも言えるもの
でした。何故そうなったかというとHONDAはオクルマの総合百貨店
になっていたので、単なる一車種に対しそこまでやるかという腰の
引けがあったことは間違いなく、他のプレミアムメーカーと並び得な
かった真の原因はそこにあります。タバコ屋は今でもそのことが残念
でなりません。当時の開発責任者出て来いと言いたい心境です。
(関連記事:好みの基準 vol.2:愛車変歴参照願います)
メルセデスベンツSLRマクラーレン1
また平成9年よりパートナーとなったメルセデスですが、F1だけに
留まらず、スーパーカーの分野でも共同制作を試み、メルセデス・
ベンツSLRマクラーレンを世に出しました。これはかつての名車
300SLRをモチーフにしており跳ね上げ式のガルウイングドアや
F1マシンをイメージさせるフロントノーズデザインを採用しており
メルセデス及びマクラーレンのイメージリーダー的な役割を担って
いました。スペックはスーパーチャージャー付きの5.4L-V8
SOHC!エンジンで駆動方式はFR、5速ATを採用し、この世
のものとは思えない性能、つまり走るヒコーキでアラブの王族が
何もない砂漠の一本道で乗る以外走る場所がないという浮世離れ
したオクルマでした。
メルセデスベンツSLRマクラーレン3
尚製造はマクラーレンがハンドメイドで作りメルセデスが自社の販売
チャンネルで売るという分業体制でした。見方を変えればメルセデス
ベンツブランドのクルマをマクラーレンが委託生産(OEM)すると
いう今流行りの方式でしたが何しろ価格が6,000万という気が遠く
なるような金額でやはりこれはアラブの偉い王様が砂漠で使用する
特殊なノリモノだとタバコ屋は思います。
意外なことに、当のロン・デニスはF1で儲けたのかこのSLRを
愛用し、通勤用!に使っているとか。どうも走るのはアラブの砂漠
だけではなかったようです。尚、このプロジェクトは平成21年を
もって打ち切られ、両社ともスーパーカー分野ではそれぞれ別の道
を歩むことになりました。
メルセデス嫌いのタバコ屋としてはSLRについてはこれくらいの
説明に留めさせて頂きたいと思います。
ロンデニス8
再び時は流れ、ロン・デニスは平成21年まるでそのことに飽きた
かのように、長年心血を注いできたF1部門をM・ウイットマーシュ
に委ね自らはマクラーレンのもう一つの有力で有望な事業となっ
たスポーツカーメーカーの経営に専念することになったのです。
MP4・12C-15-2
写真は英国にある通称パラゴンと呼ばれる本社ビルで完璧主義
で有名なロン・デニスらしいクリーンな建物です。人口池の手前に
佇むのはマクラーレンF1の後継車種でつい最近の平成24年に
発売され早くも成功を収めつつあるマクラーレンMP4-12Cです。
ロン・デニスも最初のマクラーレンF1での苦い経験に懲りて今度は
たとえスーパーカーといえども現実的で乗りやすく快適なコンセプト
を採用しています。ちなみにコードネームのMP4-12Cとは先程
ご説明したF1での呼称マクラーレン・プロジェクト4を略したもので
後ろの12Cは12気筒エンジン並みの性能を持つカーボンで出来
たオクルマという意味です。どうせ買えもしないし、走る場所もない
しろものなのでどうでもいいことながら、つい・・・。(やや投げやり)
MP4・12C-9
そのスペックはカーボン製モノコックボディに半ば自家製の3.8L
V8DOHCツインターボエンジンを載せ、600馬力の大出力に対応
するため今流行りのデュアルクラッチ7速ATを採用しています。
生産方法も当初からは随分進化しており製造にかかる時間を大幅
に短縮した結果、価格も2,500万前後と依然天文学的な数字ながら
マクラーレンF1の1億円と比べたら性能は似たようなもので価格は
4分の一と随分コストダウンを果たしています。現在のスーパーカー
の現実的な相場というのは大体このあたりではないのでしょうか。
願わくばというか、恐らく我がHONDAの次期NSXはそのまた
半額近くの1,500万円以下の価格を打ち出すとは思いますが・・。
(関連記事:紅茶とハイブリッド参照願います)
マクラーレン本社ビル3-1
これはその本社ビル内部ですが、ロン・デニスの完璧主義、清潔
好きが端的に表現されています。回廊式に歴代のF1マシンや
レーシングスポーツカーが陳列されておりそれこそピカピカの
環境の中で見学を楽しむことが出来るよう配慮されています。
マクラーレンF1-2013-4-1
F1カーの新モデル発表のイベント等にも多目的に使用される
この本社ビルに中東の王族御一行様が来られたらさぞかしこの
度胆を抜く環境の中で3,000万程もする浮世離れしたスーパー
カーを「これ買った!」とか言って満足して帰られる事と思います。

余談ですが、売りたい品でかなり高価な商品があったとすると
その横にもっとブッ高い商品を並べておけば良いのです。その
ブッ高い商品とは売り物ではないでしょうがF1マシンです。
F1マシンに比べればスーパーカーなどおもちゃみたいなもん
ですから、すんなり売れるという寸法です。憎いですよね。
マクラーレン本社ビル1
ちなみにタバコ屋は昔々、鈴鹿F1GP観戦時、このブログによく
ご登場頂くペンネームそろばん氏と徹夜で作業中のマクラーレン
のピットを震えながら見学した記憶がありますが、そのピットの
清潔さと言ったら、シミ一つ油汚れ一つなくメカニックの作業衣
はまっさらでどこもかしこも病院の手術室以上にピカピカだった
のを鮮烈な印象として記憶しています。伝え聞くところによると
事実ロン・デニスは異常なほどの清潔好きで例えばF1のピット
の床が汚れていたりするとわざわざ自前でタイルを持参し貼り
替える程徹底していたとか。そういうピカピカ戦略も超高級品を
販売するビジネスにおいては極めて有効なイメージ戦略になると
タバコ屋は思います。(身につまされますホント)
ドバイ警察パトカー4-1
スーパーカー、マクラーレンMP4-12Cの性能もさることながら
そのイメージ戦略のかいもあり早速ドバイ警察のパトカーに採用
されたり昨今の話題には事欠きません。中東一のお金持ちである
ドバイのやることは粋で心憎いばかりです。
次期NSX-1
くやしまぎれに申し上げておきますと前回のマクラーレンF1の
発売及びHONDA-NSXの発売時と同様今回もマクラーレンに
負けじと思ったかどうか我がHONDAも遂に次期NSXの発売
に踏み切るようです。願わくばニッポンケイサツのパトカーには
次期NSXを採用せよとタバコ屋は言いたいです。
このオクルマに捕まるのなら、タバコ屋のD大学自動車部の同期
で現代のゼロ戦、ランサーエボリューションⅩにご搭乗の元校長
H氏やポルシェ997カレラ4Sをご愛用の九州のラーメン王S氏も
納得というか捕まるのが嬉しくなるのではないでしょうか。
(すみません悪い冗談でした)
F1-4期復帰発表6
最後に明るい話題を一つ。以前の記事でもご紹介しましたが
来年の平成27年からはかつてF1界を席捲したマクラーレンと
HONDAの黄金コンビが復活することになったのです。
エンジン規定はダウンサイジングという時代の流れを反映して
1.6LV6ターボエンジンになるそうで、そうなるとあの絶頂期
に1,000馬力にも達しようとした1.5LV6DOHCターボ
エンジンの再現ということになりマクラーレンもそれなりの洗練
されたシャシーを開発するでしょうから今からとても楽しみです。
(関連記事:燃えよ剣参照願います)
鈴鹿F1GP-2
日本での鈴鹿F1GPもバブル期の時ほどまでではないにしても
再びブームが復活すると思います。アベノミクスではないですが
これも巨大な村おこしとして日本経済浮上に大いに役立つことと
信じて長々の筆を置く事に致します。長時間のご精読、有難う
ございました。タバコ屋もやや疲れました。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
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