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アウディな人 vol.1:高砂での出来事

平成26年5月27日
アウディ(Audi)、言わずと知れた今を時めくドイツ野郎
のオクルマメーカーですよね。タバコ屋が若かりし頃の
アウディのイメージと言えば以前にも申し上げましたが、
堅牢性には定評があったもののデザインも性能も非常
に上品かつ控えめで、ユーザーと言えばお医者さんの
奥さんとか、ええとこのお嬢さんがおとなしく乗っている
イメージでした。
(関連記事:当世オクルマ寸評(復刻版)参照願います)
アウディ80-3
ところが経営者変われば品変わるという訳で昭和47年
(1972年)タバコ屋が同志社大学自動車部4回生の時、
ドイツ自動車業界の織田信長もしくは異端児と呼ばれる
フェルディナンド・ピエヒがアウディに開発担当重役とし
て入社してからと言うもの、それまでおしとやかだった
アウディ社は俄然ワイルドに変身を始めたのです。彼
がやろうとした事は、アウディ社をスポーツマインドな
プレミアムメーカーに変身させ、VWグループの中でも
際立った個性を持つメーカーに育てることでした。
フェルディナンド・ピエヒ1
元々彼はポルシェの創業者であり、VWビートルの設計
者でもあるフェルディナンド・ポルシェ博士の娘、ルイー
ズ・ピエヒを母に持ち、父はポルシェ博士のビジネス・
パートナーだった弁護士のアントン・ピエヒという血統書
付きの出自であり、ポルシェ博士の甥である彼が革新
を起こすには十二分な背景を持っていました。
(関連記事:ブランドに秘められたもの vol.2:外国車
参照願います)
アウディ80クワトロラリー3
彼はドイツ野郎らしい冷徹な構想と見通しにより、アウ
ディ社の開発担当者として2つの革新的メカニズムを持
ち込みました。一つは4WDシステムであり、もう一つは
常識外れの直列5気筒エンジンでした。
4WDシステムは軍用車等では当たり前でしたが、市販
のセダンもしくはスポーツカーにそのシステムを採用す
るのは意表を突くというか革新的でした。そら、後輪駆
動も前輪駆動も2つの車輪で地面を蹴る訳で、それを
4つの車輪で蹴ったほうが効率が良いことはコロンブス
に聞くまでもないことでした。
彼はそのシステムをクワトロ(quattro)と名付けたので
すが、何もイタリア語で4を意味するコトバをわざわざ付
けなくても良かろうにと思うのは素人の浅知恵かも知れ
ません。

また直列5気筒エンジンというのはバランスが悪く振動
等で問題ありと常識的には考えられていましたが、4気
筒エンジンのパワー不足を補えるのと、6気筒エンジン
より省スペース、軽量化を図れるメリットがありました。
彼はこの2つの武器を携え、昭和56年(1981年)頃より
WRCに殴り込みを掛けたのです。
旧ミニ・モンテ-11
かつてはBMCミニ・クーパーが席巻し、またその後は我
がDATSUN-240Zが果敢に挑戦したモンテカルロ、それ
以降ポルシェ911、ルノーアルピーヌ、ランチアストラトス
等、名だたる強豪がモンテカルロを頂点とするWRCに挑
みそれぞれ成功を収めました。
240Zモンテ5-1
名手R・アールトーネンの華麗なドライビングテクニック
(サイドブレーキターンまたはスピンターンと呼ばれる回
頭テクニック)によりFR車としては奇跡的な3位入賞とい
う偉業を成し遂げた我がDATSUN-240Zでしたが、直列
6気筒エンジン搭載のオハナの長いマシンでは到底勝ち
目はありませんでした。無論、コースの狭いモンテでの
お話であって見渡す限りの広大な原野を走り回るサファ
リにおいては別で、パワフルな240Zは初参戦にも拘わ
らず、PORSCHE等並み居る強豪を蹴散らし、見事総合
優勝を勝ち取りました。アウディがWRCに参戦したのは
それから約10年後のことでした。
アウディ80クワトロラリー2
最初はなかなか勝てなかったアウディ80クワトロでした
が、徐々に改良を重ね、またモンテの帝王ウオルター・
ロールをエースドライバーに抜擢したことにより昭和59
年(1984年)念願のモンテ初優勝を飾りました。
デルタインテグラーレ・WRC4
その後モンテはプジョーが台頭する中、ランチアがスー
パーマシン、デルタS4を投入したものの高性能すぎて
事故が多発し、その結果車両規定が変更され、より市
販車に近いものとなりました。ランチアはデルタHFイン
テグラーレを開発、投入した結果、何と破竹の6連覇と
いう偉業を成し遂げたのでした。
やがてその後はいよいよ我らがトヨタセリカGT-4の時
代へと移って行きます。昭和60年代前半のお話です。

ちなみにランチアデルタHFインテグラーレのメカは2L・
4気筒DOHCターボで4WDでしたがボディは偶然にも
アウディ80クワトロとよく似たデザインで一回りコンパク
トなしつらえでした。両車ともデザイナーがジウジアーロ
氏だったのでよく似るはずですよね。チューニングを担
当したのは毒さそりマークで有名なアバルト社でした。
(関連記事:好みの基準 vol.2:愛車変歴参照願います)
DSCF4730.jpg
いきなりの写真で恐縮です。アウディとは何の関係もな
いのですがタバコ屋の一期後輩で高砂市にお住まいの
井村氏(愛称ヘータ君)のかつての愛車、SUBARUレガ
シイB4-RS30トミーカイラ仕様のフロントフェイスです。
どうも購入して間がない時期の写真のようで、ほとんど
改造の痕跡がありません。
IMG_2993.jpg
ところが、実は昨年の同志社大学自動車部80周年大会
記念イベントの「愛車ミーティング」にご出品の時には、
このようなお顔に変身されていました。彼もかつて高砂
市の神童と呼ばれた俊英にて、人並みのルックスでは
気に入らず、足回りの改造に始まってお顔の整形手術
まで敢行されたようです。もともとB4は高性能な上に、
トミーカイラというマニアックなチューナーの手に掛かっ
たものですが、かつて零戦を製造した日本最大の航空
機メーカー中島飛行機の末裔たるSUBARUのマシンを
戦闘機に仕上げた彼はさぞ満足だったに違いありませ
ん。ただ彼のオシゴトは教師なので、このオクルマを通
勤に使うとしたらかなり勇気がいるのではないかと推察
致します。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照
願います)
DSCF4923.jpg
またもや突然の写真で恐縮です。時は移り・・・と申しま
してもあれから半年も経たないうちに彼はその愛車レガ
シイB4-RS30を手放す決心をしたようです。どうも内部
情報ではかねてよりドイツ物に乗りたくてBMWとアウデ
ィどちらにしようかと随分迷われたようです。
結局迷った末アウディに決めたようで、わざわざ神戸ま
で行って購入引取りした新しい愛車アウディのお写真を
頂きました。彼がご購入されたのは、アウディA4アバン
トだと思うのですがどうなんでしょう。
アウディ80-6
フェルディナンド・ピエヒ博士に戻ります。4WDシステム
と直列5気筒エンジンという革新的なメカを引っさげて殴
り込みをかけてきた博士ですが、メカ以外でも特筆すべ
きものがありました。それはボディデザインで、当時は
やたらメッキしたパーツでライト回りをトリミングしたり
兎に角ゴテゴテしたデザインが主流でした。アウディは
フラッシュサーフェスという新しい手法で従来のデザイン
とは一線を画すクリーンなボディを表現したのです。
タバコ屋はアウディ100から始まったこのトレンドの中で、
アウディ80が出た時はジウジアーロの初代ゴルフ以来
の衝撃を受けたものです。特にこのリアビューは印象的
でメッキパーツを排した清潔なサーフェス(表面)には惚
れ惚れしたものです。パクリは世の常とは言うものの、
このトレンドはやがて我が日本の各メーカーも競って採
り入れる結果となりました。

余談ながら、このオクルマのサイドウインドウは左右合
計6枚あるのにお気付きでしょうか。この形状はシックス
ライトと言って主に高級車に使われる手法なんですが、
ピエヒ博士はアウディをプレミアムメーカーに育てるため、
ミドルレンジのアウディ80にあえてこのデザインを採用
し、高級感を演出したと言う訳で、後方視界も極めて良
さそうです。
アウディ80-7
フラッシュサーフェス、好みは人それぞれで、味気ない
という方もいらっしゃるでしょうが、以前から申し上げて
いるようにタバコ屋はこういう塊感の表現が大変お気に
入りでそれを阻害する一切の付属物は排除したいと言
うのが本音です。その意味で井村氏がアウディをご選
定されたことは喜ばしい限りです。
DSCF4925.jpg
英語表現ではステーションワゴン(即ち走れ幌馬車の世
界)と言われるこの形状はドイツではアバントと言われる
らしくまた日本では味気ない表現にてバンとか言われて
いるようですが、タバコ屋的表現ではマルチ・パーパス・
ヴィークル即ちMPVと呼ぶべきではないかと思うのです
が、皆さんはどう思われますか・・・。
アウディA3-1
それにしてもこの時期までのアウディはまだ初期の恥じ
らいと控えめな品性を保っていました。問題はBMWです。
その頃よりかなりエグイ路線を打ち出しつつあったBMW
は影響力が大きく寝た子を起こすような事になった結果、
アウディもそのエグイ路線に追随し今日のお口パックリ
お目々キラキラのかなり品性を欠いたものになりました。
BMWには責任を取ってもらいたいものです。
レクサスRC-2
悲しいことに後日その悪性ビールスはトヨタにも飛び火
し、レクサスシリーズではご覧のごとくプレデター顔と
なりつつあるのはアイデンティティの確立として喜ぶべ
きことなのかどうかですがタバコ屋はかなり否定的です。
(関連記事:好みの基準 vol.4:品性とダイナミズム
参照願います)

何はともあれ、井村青年は念願のアウディを手に入れ
ご満足だと思うのですが、今までNIPPON戦闘機ノリモ
ノに馴染んできたせいかアウディのソフトな乗り心地が
お気に召さないらしく、またまた病気が再発して年甲斐
もなくタイヤ&ホイールの交換や足回りの強化を目論ん
でいるらしく、前回のSUBARUレガシイB4-RS30同様、
次回拝見する時は別のオクルマに生まれ変わっている
やも知れません。
アウディA3-8
余談ながら、タバコ屋が親しくさせて頂いているペンネー
ムそろばんさんも昨年アウディA3スポーツバック?をご
購入されました。先般同乗させて頂きましたが、やはり
ドイツ物のソリッドな高質感というのは際立っており、
コクピットからシートからすべて国産車とは違う何かを
感じました。あえて国産車でこのテイストを持つメーカー
を挙げるとすれば、それは唯一SUBARUと言う事になる
でしょうか。
IMG_0831-1.jpg
ついでの話として、当時世界を席巻したとは言うものの、
タバコ屋の赤いお嬢さんフェアレディS30Zなんか、今と
なってはショボイ作りで40年の歳月をしみじみ感じさせ
られました。だって当時はエアコン、カーナビなどという
ものは夢のまた夢の時代でしたから。
IMG_3227-1.jpg
ただZのデザイナー松尾良彦氏の名誉のために申し添
えるとすれば若き頃日産ブルーバードB410のデザイン
を巡って世界の巨匠ピニンファリーナをぼろくそにけなし
た反骨精神は、彼の集大成とも言えるフェアレディZの
デザインに凝縮されており、ボディデザインと言い、コク
ピットデザインと言い、世界に通用するその熱きスポー
ツマインドは40年後の今となっても決して色褪せるもの
ではないとタバコ屋は思います。
オクルマとは関係ないですが、後方に写っているのは
呉港を出港したヘリコプター搭載護衛艦(実際はミニ航
空母艦)「いせ」だと思われます。多分2万トン近くあり
島ほどもある巨体で中島沖を悠々と航行していました。

先日、井村氏から頂いた写真をもとにアウディやらのお
話をさせて頂きましたが、ピエヒ博士がアウディ社に根
付かせたスポーツマインドはこれだけでは留まらず、
その後彼がアウディ社を去り親会社であるVWに移籍し
た後もそのチャレンジ精神は色濃く残りました。WRCで
頂点を極めた後、今度はルマン国際レースに挑戦する
ことになったのです。次回はそのあたりをもう少しお話し
たいのですが、今日のところはこの辺で終わりにしたい
と思います。

校長先生の青春 vol.2:されどもラリー

平成26年5月17日
ラリー病という不治の病にかかってしまった平尾青年はD大学
自動車部ご卒部後、玉の輿で「ファイト・一発!」で有名な鷲の
マークの某有名製薬メーカーへ入社されたのでしたが、何が
気に入らなかったのか1年も経たずにさっさと退社してしまい
ました。お父様が校長先生をされていたので、ご自分もその後
を継ぎ教育界に身を投じようとしたのかも知れませんがタバコ屋
にとっても他の同期生にとってもミステリアスな出来事でした。
リポビタンD-2
いきなり無職浪人となった平尾青年でしたが、ご自身期するところが
あったのでしょう。一念発起京都市内でオクルマ用品(主にバッテリー
関係)の卸業をやっていた同期のIN君(本名は井上、愛称はター坊)
に頼み込み、店の配達やら雑用やらのアルバイトをしながら、「ファイト
一発
」教師の免許を取り直し念願の教員生活に入ることとなりました。
もともとアタマの出来が良い彼のことですから、教師免許の取得は
あまり困難なことではなかったと推察されます。
12 A73
その間、ラリー病は治癒どころかますます進行し当時三菱がサザン
クロスやサファリ等、世界的なラリーにワークス参戦していたマシン、
ランサー1600GSRを購入しました。当時は厳しい環境だったはず
で、多分ご両親に無理を言ったのか、あるいは井上商店でためた
バイト代で購入されたのかはたまた教師となった初めてのお給料で
買われたのかどうか、まあ余計な詮索と言うものでしょう。

当然ながら彼が三菱ギャランで蓄えたノウハウはこのランサーにも
反映されており、外観は凄みのあるシビエのスポット、フォグランプ
以外、極めてノーマルですが足回りはラリー用に固められ、アンダー
ガードやラリー用タイヤはもちろん、ギャランではそこまでのハイチュー
ンはされてなかったエンジンもSOLEXキャブレターが組み込まれる
等、本格的な戦闘機仕様にしつらえられています。エンジンフードに
ダクトが2個付いているのは伊達ではなく、ハイパワーによって発生
した熱を逃がすためのもので高性能車によく見られる定番装置です。

タバコ屋も卒業後、広島方面へ転出したので、その後の状況がよく
わかっていませんが、彼はこの最新マシンを手に入れたものの、
国内ではラリーの開催が難しくなっていた時期であり、また自身も
職業の構造改革?というファイト一発の大勝負をやっていたせいで
ラリーどころではなかったと推察されます。尚、ここだけの話ですが
その当時ランサー1600GSRはラリーオタクの間では一つのトレンド
と言うか、あこがれになっており、自動車部同期の数名も卒業後時を
同じくしてランサー1600GSR購入に至ったと記憶しています。
ワークスランサー1600GSR1
ランサー」日本語では槍騎兵と訳されているようですが、軽快な
騎兵隊のイメージがありますよね。当時の平尾青年始め、オクルマ
大好き人間がハマッていたランサーはそれなりの理由がありました。
240Zサファリ1-1
WRC(世界ラリー選手権)で最も過酷なコースとして知られるサファリ
ラリーにNISSANはブルーバードB410、P510で挑戦、P510で
見事初優勝を飾った後は満を持してフェアレディ240Zを投入、連続
優勝を飾り、極東の小国NIPPONの名を世界に知らしめたことは
以前の記事で何度もお話したとおりです。
(関連記事:好みの基準 vol.2:愛車変歴及び零戦の末裔参照願い
ます)
ギャランサザンクロス
当時、三菱はNISSANとはやや異なるアプローチをしていました。
タバコ屋の専門分野のマーケティング理論から言えば、最高峰たる
サファリラリーとかはいきなり狙わず、ニッチ(隙間)であるローカルの
オーストラリア・サザンクロスラリーで実績を付け、それからサファリ
を狙うという戦略でした。写真は昭和47年オーストラリアのサザン
クロスラリーで初優勝したミツビシワークスギャランです。ドライバー
は名手アンドリュー・コーワンでした。奇しくも丁度同じ年、NISSAN
はフェアレディ240Zでサファリラリー総合優勝、日本が最も輝き始め
た時代でした。
(関連記事:復刻と改造参照願います)
ランサー1600GSR-3
昭和48年、即ち平尾青年やタバコ屋が卒業したその年にデビューし
たランサー1600GSRはスペックこそ前マクファーソンストラット、後
リーフスプリングの足回りにSOHC1600CCエンジンを搭載した
やや平凡なオクルマながら、高性能なSOLEXキャブレターを装備し
また車重が800kg余りと軽く、コンパクトでバランスのよいボディと
相まって高いポテンシャルを備えており、第8回サザンクロスラリーで
1~4位独占という驚異的な成績を挙げたのです。総合優勝は前述の
アンドリュー・コーワンで、長年にわたるランサー栄光のストーリーの
第一歩が記されました。
ランサー1600GSR-5
意を強くした三菱は、次の段階として世界で最も過酷なラリーとして
知られるサファリラリーに挑戦、翌昭和49年のサファリラリーデビュ
ー戦で、ケニアのラリー王ジョギンダ・シンの手によりいきなり初優勝、
わずか1600CCのマシンがポルシェ911をはじめ、並み居る強豪に
競り勝った歴史的な瞬間でした。
ランサー1600GSR-9
サファリラリーの覇者フェアレディ240Zとランサー1600GSRが
仲良く写っている貴重な写真です。メーカーこそ違えこのNIPPON
を代表する二車が当時の世界ラリー界を席捲した訳で、タバコ屋
のみならず、オクルマ大好き青年にとってはたまらなく誇らしい事
だったと思うのです。多分平尾青年はそのような時代背景のもと、
再就職に必死でオクルマどころではなかったにも拘わらず、ラリー
病という難病のせいでうなされるようにディーラーに行きランサーを
見るなり、「これ下さい!」と叫んだのだと思います。他の同期生も
同様の理由だったに違いありません。
ランサー1600GSR-7
その後もランサーはサザンクロスラリー等で勝利し続け、やがて篠塚
建次郎
という世界に通用する日本人ラリーストをも生み出しました。
その無敵ぶりでアフリカでは「キング・オブ・カー」と呼ばれるようになり
ましたがやがてマスキー法の実施による極端な排気ガス規制により
ラリーどころではなくなり、3年後の昭和52年には撤退を余儀なくされ
たのでした。しかしその血統は後のランサーエボリューションシリーズ
に受け継がれていったと思います。
IMG_4407.jpg
突然の写真で恐縮ですが、阿闍梨(あじゃり)のごとくラリーに青春を
捧げた平尾先生に、ご縁あって現在の奥様とご結婚の華燭と相成り、
同期が押しかけた時のものです。何とまあ恥ずかしいほど若々しい
面々のお姿ではないですか。今ではたそがれのおっさんにもこんな
時があったんです。平尾青年の満面の笑顔がなんとも微笑ましい
限りです。恥ずかしながら左端からタバコ屋、ター坊こと井上、佐々木
平尾青年を挟んで右が陛下こと南野ですが、彼は陛下と呼ばれるだ
けあって品性があり、もの静かな好青年でした。ずっと後、タバコ屋が
京都大丸でみかんの販売会催事をやった時、差し入れにご夫婦で来
て頂いてからは会っていません。元気でやっているんだろうか。
ちなみに彼は京都鞍馬口で酒店とコンビニやってるはずですが・・・。
14 健次郎記念写真
前述の世界的な日本人ラリードライバー篠塚建次郎氏と平尾青年
親子が恐らくパリダカールラリー出場の三菱ワークスパジェロの前で
記念撮影したものと思われますが、この時代は同期もオシゴト、結婚
子育てと各地で忙しくしていた頃で、なかなか普段の交流は出来ま
せんでした。
IMG_4406.jpg
それから10数年経った頃でしょうか、あの懐かしい新町ガレージが
京田辺の新キャンパス内に移転するということで、OB会か何かの
折に、同期の皆で新しいガレージを訪問した時の写真です。愛着
はあったものの、オンボロガレージからピカピカの新ガレージに変身
したのを目の当たりにし、皆でしばし感慨に耽っている所でしょうか。
15 800pajero11
三菱は一定期間のワークス活動休止の後、ラリー活動再開後は
活躍の場をパリダカールラリーに移し、マシンもSUVのパジェロを
投入して総合優勝10回以上、クラス優勝は数知れずという圧倒的
な勝利を収め、パジェロ(山猫)ならぬ砂漠のライオンとして世界の
頂点に君臨しました。
(関連記事:東京モーターショー異聞 vol.3参照願います)
46.jpg
平尾青年もオクスリ屋さんから一転、お子達相手にあれこれ教える
という教師のオシゴトに変わったもののラリーへの思いは断ちがたく
三菱が再びパリダカで大活躍するのを見るにつけ、居ても立っても
おれず再びディーラーに赴き「これ下さい!」と叫んだのが写真の
三菱パジェロ、4ドアロングボディ版でオーバーフェンダーやフロント
のプロテクターを始めシビエのでかい補助ランプ等が現代の戦車で
あることを物語っており、ちょっと近寄りがたい威容です。彼は以来
この戦車を大切に乗り続け数十年後の今でも手放す気持ちはまっ
たくないようです。
IMG_3310.jpg
ちなみにこの写真は昨年10月京都リーガロイヤルホテルで行われた
D大学自動車部80周年大会時に平尾氏のパジェロとタバコ屋の赤い
お嬢さんフェアレディZが仲良く記念撮影した時のものですが、もうZ嬢
なんか今にも踏み潰されそうな感じです。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照願います)
16.jpg
お子達相手に熱血先生であった平尾青年は時を経て校長先生まで
上り詰め、相応の年恰好になってきました。今ではさらに京都市教育
委員会に招かれ、京都発もの作りの精神と技術を次世代のお子達に
伝えるための啓蒙活動拠点「京都まなびの街 生き方探究館」(HPに
リンク)という所で日々精力的に活動されています。しかし一方ラリー
への思いは依然として冷めやらず、パリダカ仕様パジェロエボリュー
ションの前で三菱の幹部の方と記念撮影を敢行しているところです。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.1:中島編参照願います)
54.jpg
また直近では三菱ワークスラリードライバーでパリダカールラリーでも
何度も優勝しているスゴ腕の増岡選手と交流があり、恐らく京都に来
られた時に記念撮影されたものと思われます。左は平尾氏より7期後
輩の横井氏で増岡選手から頂いた色紙を持たれています。
パジェロパリダカ4
その増岡選手が本番のパリダカールラリーにおいて道なき砂漠を
力走中のシーンです。マシンもさることながら知力、体力、判断力
等すべてがうまくシンクロしなければ優勝などという大それたこと
は成し得ません。彼はそれを何度もやって見せたのです。
パジェロパリダカ1
ちなみに増岡選手は平尾氏のお世話で、昨年のD大学自動車部80
周年大会の時特別講師としてお招きし、世界の最新情報を拝聴した
ことは記憶に新しい出来事です。
(関連記事:終わりなき旅 vol.3:宴のあとさき参照願います)
MiEV Evolution II-4
皆さんにはそのサワリをご披露しますが、今世界は高性能な電池
及び電気モーターの開発に躍起となっており、ミツビシはそれを最も
過酷な環境でテストするためにパイクスピーク・ヒルクライムレースに
参戦しているそうです。もちろんエースドライバーは増岡選手です。
45.jpg
型破りの元校長先生の現在の愛車ランサーエボリューションXです。
このオクルマについては度々ご紹介しているのでもうご説明の必要
はないと思いますが、ヤング・アット・ハート の元校長先生は年齢不
相応であろうがどうであろうが、現代のゼロ戦を駆り白昼堂々と京都
中心部にあるご自身の職場に乗り付けるのですから大した度胸です。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照願います)
3006 2 中書島~淀
前回の記事で平尾青年(少年?)は動くものなら何でも好きと申し
上げましたが、電車も大好きでこの写真は京阪の特急電車だと
思われます。京阪と言えば、自動車部時代合宿所が京阪沿いの
香里園にあったので合宿の度にこの電車を使っていたのを思い出
します。(当時の合宿所、今はどうなったのだろうか?)
1904.jpg
また旅先でも電車が気になって仕方がないようで、これは広島市内
でのワンショットですが、左は現代のモダンな市電で、右は京都市電
が廃止される時譲り受けた京都ゆかりの市電なんです。しかし今時
広島でタバコ屋が大学生当時京都市内を走っていた市電が走って
いるなど考えられないことですが、合成写真ではなく実写真です。
DSC_0136.jpg
これは電車に張られていたプレートで「昭和53年 広電移籍」となって
います。左上の京都市交通局の局章が何やら懐かしい気がします。
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平尾青年は以前は京都の南、醍醐にお住まいで一度ご自宅を訪ね
たような記憶もあるのですが、最近は宇治市内に移られています。
写真は世界遺産に登録されている国宝の宇治平等院鳳凰堂で、
タバコ屋が中学生の修学旅行の時、立ち寄り見学したぼんやりした
記憶があるのですが、もうほとんど忘れてしまっています。
平等院鳳凰堂2-1
数年前から大規模なレストア(修復作業)が行われ、往時の姿を
取り戻した鳳凰堂です。恐らく数百億円を投じての大事業だったの
ではないかと思われますが、国宝だけに施工された方々も神経を
磨り減らしたことでしょう。タバコ屋も平尾氏よりお誘いを受けている
以上、百聞は一見に如かずで、一度行って見たいと考えています。

余談ながら、この平等院鳳凰堂、見事なシンメトリーの美しさですよ
ね。タバコ屋は何故かこのシンメトリーがお好みで案外几帳面な性
格なのかも知れません。ちなみにシンメトリー(左右対称)という美術
用語を教わったのはタバコ屋が中学生の時の美術の先生でした。
平尾熱血先生も多くの教え子に型破りな彼の生き様の片鱗を伝えた
はずで、それがどのようなオコトバや行動であったのか、またお子達
がどのように受け止めその後の彼らの人生に影響を与えたのか大変
興味のあることです。
鳳凰堂屋根
ついでながら鳳凰堂の由来は、この屋根に燦然と輝く金色鳳凰の
飾り物から来ていると思うのですが間違っていればお許し願います。
DSC_0028.jpg
その平等院鳳凰堂の池に咲いた蓮の花です。いにしえの平安期、
藤原氏がお浄土をイメージして造営したと言われているそうです。
確かにこのきれいな蓮の花を見ているとまさしくこの地がお浄土で
あるような気分になりますよね。長年ラリー病という不治の病に悩
まされてきた平尾先生もこの蓮の花の癒し効果でやや快方に向か
いつつあるのかも知れません。人生も後半に差し掛かり、今までと
は違う世界を発見するという意味で・・・。
稲房安兼 稲房安兼2
花より団子とはよく言ったもので、平等院の参道には京菓子の老舗
「稲房安兼」さんというお店があり宇治茶を使った茶団子で有名だそ
うで、「能登掾(のとのじょう)」というニックネーム?で、かつては
御室(おむろ)御所、御用達の菓子司であった頃の名残と言われて
います。タバコ屋お気に入りの「満月」さんとも通じるトラディショナル・
スイーツ・ストア
です。今度訪問する時は是非立ち寄りたいものです。

余談になりますが、仏教の創始者ブッダ(釈迦)はお浄土をイメージ
していた訳ではなくただ自身の修行による自己の悟りを目的とした
ものでしたが、仏教がシルクロードを経て東方、中国に至る過程で
そのコンセプトはかなりアレンジされ、自己の悟りよりもその教えに
より衆生を救済するという教義に変化しました。
平山郁夫:流砂浄土変1
これは日本を代表する日本画家のお一人、平山郁夫画伯が描いた
「流砂浄土変」ですが、雲間に白っぽく見えているのが平山画伯が
表現した「お浄土」かと思われ、実際の絵にはブッダなのか阿弥陀
如来なのか優しいお姿の像や天女が線描で描かれています。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.3:しまなみ編参照願います)

ともあれシルクロード経由でアレンジされた当時ではハイカラな宗教
はやがて終着点の日本に伝わりました。「仏教に帰依すれば死後は
西方のはるか彼方にあるお浄土なるユートピアに行けるんですよ」と
いうのがそのキモなんですが、そのような最新の概念は当時の上流
階級(ハイソサエティ)にしか伝わらなかった訳で、飛鳥から平安に
かけて、ハイカラな仏教を採り入れる事は貴族階級での一種のステ
イタスにもなったのでした。
それにしても人間のイマジネーションというのはすごいものですね。
それはフィクションと言う名の虚構だとしても、昔も今もそれを信じさせ
る何かがあると言うのが宗教の摩訶不思議なところです。それは
キリストにしてもマホメットにしても同様にて、すべて形而上(ア・タ・マ
で考えたこと)のイマジネーションの産物なのですから。
(注:この項はタバコ屋の個人的な見解にて広く一般に認識されて
いるものではありません。)
常照寺
お寺ついでに話は飛びますが、先日の「校長先生西瀬戸を行く」の
記事で、元校長先生ご夫妻が松山の坂村真民記念館を訪問した
ことはお話しましたが、その時真民さんが残した「念ずれば花ひらく
という有名な詩の石碑が世界中に建立されており、その第1号碑が
奇しくも京都西北の常照寺さんにあることが偶然わかったのでした。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.2:松山編参照願います)
念ずれば花ひらく2 念ずれば花ひらく1
何事もすぐにやらねば気が済まない(IRASUKEの)平尾先生は
さっそくその常照寺さんへ愛車ランサーエボリューションXを駆って
馳せ参じたようです。ありました、ありました。別人かと思われる
ようにスリムに変身中の平尾センセが指差しているのがそれです。
読みにくいですが「念ずれば花ひらく」と彫られています。

研究熱心な平尾先生は、何故京都常照寺さんに第1号の石碑が
建てられたのか、まるでツタンカーメンの王墓を発掘したハワード
カーター博士のごとく、調べ上げたようです。そしてその謎がわか
りました。帯の老舗「じゅらく」の伊豆蔵(いずくら)社長は境内に
供養塔を立てる際、何か中心になるものをと考えて交流のあった
山科の有名な「一燈園」を訪ねたところ真民さんの本が目に留ま
り琴線に触れるものがあったため、さっそく真民さんの了解を得て
石碑を建てたということのようです。
石碑の脇に
その石碑の脇につつましく咲いていたのがこのタンポポだったそう
で、坂村真民さんがこよなく愛したのがこのタンポポであったことや
松山でそのあと訪問した伊丹十三記念館でも映画タンポポ絡みで
タンポポの花がモチーフになっていたこと等、何やらタンポポづくし
の感がありますが、平尾元校長先生も粋な計らいならぬ粋な撮影
をされるものです。気のせいかも知れませんがNIKONの画像は
とてもキレイです。
(関連記事:ハローたんぽぽ vol.1参照願います)
禅定寺1-3 禅定寺2-1
出会いは出会いを呼ぶものらしく、平尾先生が最近偶然に訪れた
宇治市内の禅定寺さんには何と真民さんの石碑が2基も建ってい
たそうで、阿闍梨(あじゃり)のごとく一途な人生を歩んで来られた
平尾青年改め元校長先生はご縁の不思議に感慨深いものがあっ
たに違いありません。
うさぎ(マー君)
かくして、激動の青年時代を過ごし、子育ても終え、校長先生だっ
たお父様も既に泉下の方となられ、残されたお母様のお世話が
忙しい毎日と推察されるのですが、そんな彼にも優しい側面があり
突然生き物を飼ってみたくなったようでつい最近うさぎを買ってきた
ようです。ここだけの話ですが、名前は「マー君」と言うそうで、タバ
コ屋の倅もマー君なので何やら複雑な心境がしています。
もっとも彼にしてみれば、教師時代学校でのうさぎ飼育とかよくある
のでラリー同様、昔取った杵柄かも知れません。マー君頑張れ!。

平尾青年の大学卒業その後をサラッとお話するつもりでしたが、
長々と後半生にまで突入してしまいました。平尾氏より懐かしい
ものから最新のものまで、貴重な写真を頂いたものですからつい
調子に乗って想像を交えてお話致しました。不適切な表現があれ
ばご指摘頂きたいと思います。タバコ屋もやや疲れました。
(尚、記事中の写真は平尾氏から頂いたもの+タバコ屋保存の
写真+ウイキ等の写真を組合わせて掲載させて頂きました)


校長先生の青春 vol.1:ラリーへの熱き思い

平成26年5月4日
校長先生の西瀬戸紀行3部作、いかがでしたでしょうか。人生
ですべての人に時間は平等に与えられていますが、その使い方
は様々で、有意義に成功の人生を歩まれた方もいらっしゃるで
しょうし、タバコ屋のように苦いレンコン汁がぶ飲みで成功とは
程遠い人生を歩んだ方もいらっしゃるでしょう。ただ60年以上
生きてきてここらで自分の人生を振り返り、過ぎ去りし青春時代
を懐かしみつつ今後の「クオリティ・オブ・ライフ」をどう過ごすかを
考えてみるのも意味のあることではないでしょうか。
20140328080308761s[1]
実はその元校長先生より彼の青春時代から現在に至る貴重な写
真の一部を頂いたので、彼即ち平尾氏の了解を得た上で多分再び
暴露記事になるとは思いますが、その青春時代を振り返ってみた
いと思います。もちろんタバコ屋も彼と同じクラブで4年間を過ごした
同釜ですので、似たような体験を共有していることは申すまでも
ありません。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.1:中島編参照願います)
3 近大ラリー
お子達と一緒に写っている元校長先生の20才のお姿とは信じられ
ないような一枚の写真です。彼、平尾氏は名は隆史と言いますが
ご幼少のみぎりはいざ知らず、長じては名門京都同志社岩倉高校
から同志社大学に入学された俊英にて、名も無き島より、のこのこと
出て来た島のタバコ屋とは自動車部での出会いがきっかけで今日に
至る長きご縁のプロローグとなりました。写真は彼が2回生の時、
愛車カローラSLを駆って近大ラリー(近畿大学自動車部主催)に
出場した時のものと思われます。

「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり」という島崎藤村の詩が思い浮かぶような瑞々しく
も初々しい平尾氏の若干20才のお姿ではないでしょうか。
2 花脊峠-1
我々万博世代にとって青春時代は高度成長まっ盛り、それこそ国を
挙げてモータリゼーションを推進していた時代でした。オクルマ産業
というのはとても裾野が広く国の基幹産業になり得るもので、内需と
輸出がうまくいけば国民はお金持ちになれるという訳で各メーカーは
昼夜を徹して開発競争に明け暮れた時代でもありました。

そのような時代背景のもと若者がオクルマに関心を持つのは当然
のことでしたが、平尾氏は動くものなら何でも好きというご性格の
上に当時盛んになりつつあったラリー競技にはまってしまい、以後
寝てもさめてもラリーというストイックな青春時代を過ごす事となり
ました。写真は多分ご両親に無理を言って買ってもらった最新の
カローラSLで真冬の京都北部「花背峠」付近を練習走行中の場面
だと思われます。人通わぬ道を白装束ならぬ黒装束で黙々と修行に
励むお姿は現代版千日回峰「阿闍梨(あじゃり)」と言えばやや偏見
に過ぎるでしょうか。
(関連記事:島のスイーツ開発 vol.2:タバコ屋のお気に入り 及び
終わりなき旅 vol.1:いざ京都へ参照願います)

蛇足ながらラリー競技は夜間の山間部をスピード走行することが多い
ので、標準のライトでは暗く補助ランプが必要でした。彼の愛車の
フロントグリルに装着されているのは当時流行だったマーシャルもしく
はシビエのフォグ及びスポットランプだと思うのですが・・・。
240Zモンテ14-1
ついでの無駄話を致しますと、タバコ屋が7年前から取り組んだフェア
レディ240Zのレストアに際し、シビエの補助ランプ装着を試みました
が今時そのようなビンテージ物は入手出来ず諦めた経緯があります。
ただ当時のDATSUNは国産車の優秀性をラリーによって世界に知ら
しめるという使命を負っており、補助ランプも小糸製作所とか国産品を
特別スペックで使用していたと思いますが検証した訳ではありません。
初代カローラ6
余談になりますが大衆車レンジのカローラとサニーの開発競争は
激烈でサニーが1000ccで発売されるのがわかるとカローラは急
遽1100ccに排気量を上げる等、あらゆる努力がなされました。
結果は上質感と豊富なバリエーションを持つカローラに軍配が上が
り、以後その順位が替わることはありませんでした。平尾氏の愛車
は多分1200ccのSLでもしそうであればツインキャブ仕様で足回り
はフロントがマクファーソンストラット、リアは半楕円リーフながらコイ
ルやダンパーをラリー用にチューンしていたように記憶しています。
近畿工大ラリー
写真は彼が大阪工大自動車部主催の山岳スポーツラリーに勇躍
出場し、今まさにスタートしようとしている場面です。何やら看板も
学園祭に毛の生えた程度のほほえましいもので、またギャラリーの
服装を見ても、随分時代を感じさせるものです。
チェリーX1-35-1
突然の写真で恐縮です。以前の記事でもお話したように平尾氏
とタバコ屋が3回生の時にニッサンからチェリーX1の1年間貸与
というご馳走話がありました。悪童どもがわが意を得たりとラリー
競技車として、また当時盛んだった大学自動車部主催ラリーの
試走車(同志社ラリー)として酷使し、満身創痍となりながらも
大活躍しました。また、この貸与をめぐってその選にもれた京大
自動車部のキャプテン御一行が我々のガレージに怒鳴り込んで
来てあわや大喧嘩になる寸前だったことも以前お話しましたよね。
世に言う逆恨みというやつですが、これで命を落とすこともある
ので皆さんも十分気を付けて下さい。当時タバコ屋もキャプテンを
拝命していましたが、もし逆の立場ならこのような品性に欠ける
行動は断じて取らなかったと思います。
(関連記事:クグロフとミニ・クーパーの謎参照願います)
S575-1.jpg
この写真は平尾氏と庄坪氏が同志社ラリーを主催するにあたりコース
を設定するため、長躯三重県の青山高原まで足を伸ばした時のもの
と思われます。今から思えばコンパクトかつ高性能なチェリーX1は
ハードな仕事をよくこなしてくれコースも出来上がり、同志社ラリー
を成功へと導いてくれました。蛇足ながら2人の左胸に描かれた三つ
葉のクローバー、即ち同志社のロゴが誇らしげです。どうでもいいこと
ながらTシャツの色はダークグリーン(格好つけて言えばブリティッシュ
レーシンググリーン)でした。それにしてもお二人とも若いですよね。
(関連記事:好みの基準 vol.5:懐かしのチェリーX1参照願います)
6 毎日ラリー優勝
そのチェリーX1をめぐって一つのエポックメイキングな出来事が起こり
ました。個人でも愛車カローラSLを駆って腕を磨いていた平尾氏です
が、3回生だった昭和46年、毎日新聞社主催の第14回毎日ラリーに
同志社大学自動車部から部車チェリーX1で出場し、学生の部で見事
優勝を果たしたのです。彼の満面の笑みからその喜びが伝わります。
尚彼の後ろに写っているのはチェリーX1ではなく同じ部車のニッサン
2代目ブルーバード410-SSSですが、これについては後ほどご説明
致します。
S46418.jpg
その優勝時の新聞記事と出場したメンバーの名前です。すべて同期
の懐かしい面々ですがもう40年以上前の出来事にて記事の色もそれ
なりに色褪せ、当時を物語る貴重な資料となっています。
5 1971 毎日ラリー
さてチェリーX1を駆って毎日ラリー学生の部で見事初優勝した
翌年第15回毎日ラリーに出場時の記念写真だと思われます。
個人情報もへったくれもなく実名をばらしますと左から庄坪、平尾
佐々木、増本の面々で皆とても若く、はつらつとしています。
ちなみに競技車チェリーX1は貸与車ゆえ返却したので、今度は別
の部車の日産ブルーバード410-SSSでの出場でした。かなり
くたびれたシロモノでしたがあまり調子の良くなかったSUツイン
キャブレターをなだめなだめ走ったことと推察されます。ボディ横に
貼ってあるゼッケンNO.1は恐らく前年度優勝しているためその
招待NO.ではなかったかと思います。
蛇足ながら彼は前年度優勝により今回は選手宣誓の栄誉を賜り、
また競技成績も第5位入賞と立派な成績だったと記憶しています。

もう涙が出るほど懐かしい貴重な写真ですが、我々が4年間過ご
したこの思い出の自動車部新町ガレージはその後京田辺の新キャン
パスに移転し、その跡地はD大学学生さんの駐輪場と化してしまい
ました。
(関連記事:京都・静岡巡礼 vol.1:今出川慕情参照願います)
学生ラリー1
当時トヨタコロナと日産ブルーバードの開発販売競争は熾烈を極め
ていましたが、ブルーバードのデザインをピニンファリーナに託した
結果、たれ尻のデザインが不評でコロナの後塵を拝することとなり
ました。その窮地を救ったのが当時新進気鋭のデザイナーで後年
フェアレディZをデザインすることになる松尾良彦氏でした。彼はまず
巨匠ピニンファリーナをぼろくそにけなしたあと、たれ尻のデザイン
を修正し、また当時の若者のハートを掴むスポーティ仕様を設定
しました。それが後の名車P510に繋がるSSSバージョンでした。
(関連記事:荒ぶる心 vol.1:フェアレディZ参照願います)
240Zモンテ6-2
彼はP510のデザインには関わりませんでしたがその才能は当時
アメリカ日産の社長だった片山豊氏に認められ、アメリカで売れる
日産のスポーツカーがほしかった片山氏をして松尾氏デザインの
プロトタイプZを見るなり「これ買った」と言わしめた裏話があります。
その後は日本にとっても日産にとっても夢のようなZの快進撃が始
まりました。世界的なラリーやレースでの活躍も相まって認知度が
高まりポルシェ、ジャガー等当時の一流メーカーを蹴散らし世界で
最も売れたスポーツカーとなったことは我々高度成長世代にとって
は、忘れられない出来事です。
(関連記事:零戦の末裔参照願います)
S4794.jpg
さてラリー病という不治の病にかかってしまった平尾青年ですが、
思い高じて愛用のラリーマシンもカローラSLから最新鋭の三菱
ギャラン1600GSに乗り換えることになりました。おそらくこの
写真も新町ガレージの前でのものだと思うのですが、左から一期
後輩の上田、当の平尾、同期の佐々木、三宅、井上の面々です。
リアフェンダーに貼ってある「チーム・サンダース」のステッカーは
当時先輩OBの西山氏が活躍していたラリーチーム名だったと記
憶していますが・・・はて。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
平尾ギャラン2
その最新鋭戦闘機ギャラン1600GSを駆って京都産業大学
自動車部主催のナイトラリーに出場、個人としての初優勝を飾っ
た時の写真だと思われます。蒼き時代の平尾青年ですがそれ
なりに真剣な表情が見て取れます。カローラ1200SLで積み重
ねた2年の経験は伊達ではなく新しい愛車ギャラン1600GSの
各所にそのノウハウが生かされていて外観は決して派手ではあり
ませんが、夜間の山間部高速走行に耐え得るチューニングがなさ
れています。
(関連記事:復刻と改造参照願います)
8 KIU RALLY
その懐かしの新町ガレージで優勝トロフィーを前にしての凱旋
写真です。ドライバーは平尾で、ナビゲーター(通称ナビ)は当時
名コンビだった同期の増本だったのでしょう。右側で賞状を手に
にこやかな表情です。彼は秀才らしくいつも物静かで笑顔を絶や
さない好青年でした。この頃から同志社大学に平尾ありと言われ
るようになったかどうか、それは皆さんの想像にお任せします。

皆さんラリーと言うと何やら特別な装備をしたマシンで限界まで
走り回るというイメージをお持ちかも知れませんが、実際は頭脳
ゲームの面が強く機敏で的確な判断力が必要で、マシンの性能
は良いに越したことはありませんが、要するに最後の決め手は
A・T・A・M・Aなんです。
IMG_3557-1.jpg
余談になりますが、彼も初優勝した昭和46年即ち1971年のこと
が余程思い出に残っているらしく、後の愛車三菱ランサーエボリュ
ーションXのプレートナンバーは1971となっていますよね・・・。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照願います)
S4791-1.jpg
やがて彼が4回生を迎える頃には一般道を使用したラリーが危険
だとして警察の許可が下りなくなりつつありました。学生自動車
連盟も危機感を抱き、それに代わる競技としてサーキットラリー
なるものを発明しました。クローズドのサーキットなら一般車両や
道路沿いの住民の方にも迷惑を掛けることがないからです。
鈴鹿サーキット全体図
舞台は主に鈴鹿サーキットでしたが、貧乏学生にとって鈴鹿を走
ることなど夢のまた夢であっただけにそれがレーシングスピードで
はなくても胸ときめかせて参戦という事態になりました。それ以前
に幸い部員が皆でアルバイトしたお金で買った中古のスカイライン
2000GTを部車として取得していたので、それを若干改造して
試合に臨むことが出来ました。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期参照願います)
10 スズカサキットラリー2-1
その時の記念写真なのですが、主に同期と一期後輩の懐かしい面々
です。名前は公表しませんがひょうきん者のI氏や神戸のギーちゃん
がいつものおどけたポーズで写っていますよね。ミス同志社のK嬢の
可憐なお姿も・・・。その真後ろには後の夫君となるキャプテンのO氏
が。ただ不思議なことにタバコ屋は鈴鹿サーキットラリーの記憶が
ないのです。卒論が忙しくて行けなかったのかそれとも雑務が忙しか
ったのか覚えてないのですが今となってはミステリーです。ひょっと
したら恥ずかしながら痔を患って島の病院で手術し、しばらく入院
していた時期があるのでその間の出来事だったのかも知れません。
そう言えば牢名主のごとく真ん中に陣取っている平尾青年も工学部
だったので、卒論用の実験とかで鈴鹿どころではなかったはずなの
ですが、やはりラリー病という不治の病のため自制の処方薬がなか
ったのかも知れません。またその右側の九州のラーメン王こと末永
氏は優秀であったため卒論は早々に書き上げて試合に臨んだのでは
ないかと推察します。
IMG_1933-1.jpg
以前の記事でご紹介した「地獄の北海道遠征」の出発壮行会の
模様です。自動車部恒例の遠征はタバコ屋4回生の時は北海道
一周という壮大なものでした。今出川キャンパスでオーテス・ケーリ
部長先生のお見送りを受けさっそうと出発したまでは良かったの
ですが名神栗東あたりで部車のいすずエルフがエンジンブローし
立ち往生というとんでもない事態となりました。
9 明治大学
恥ずかしながら、従来から4回生はお旦那気分での遠征参加という
のが慣習となっており、その時は一期後輩の3回生、I君(井村氏)
を中心に企画立案・実行が行われていました。突然のアクシデント
に際し、勇んで国を出たものの、手柄立てずに帰ることになり、
急遽荷物を積み替え、エルフは京都にUターンしリタイヤと相成り
ました。その日の宿泊予定の東京・明治大学自動車部合宿所に
は深夜の到着となり明治大学の連中には随分迷惑をかけた記憶が
あります。

一度あることは二度あるもので、話はそれより一年前に遡ります。
タバコ屋が3回生の時の夏季遠征は、信州、北陸方面でしたが
その時は部車ニッサンキャブオールが同じく東名でエンジンブローし
何とか辿り着いた宿泊先の東京・明治大学自動車部ガレージで急遽
エンジン交換をさせてもらうこととなり、遠征には授業の実験等で
参加出来なかった平尾青年以下留守部隊にも出動要請があり、明治
大学自動車部に急行、遠征組と一緒に徹夜でエンジン交換をやって
のけたというサファリやモンテカルロのワークスサービスクルー並みの
離れ業をやってのけ、無事遠征隊が再出発出来たという、懐かしくも
ほろ苦い一幕がありました。平尾緊急メンテナンス隊長殿には感謝
あるのみです。
北海道遠征38
同志社大学自動車部は建学の精神から言えばクリスト系の上智、
青山あたりの自動車部と親しくするところなのでしょうが、どう言う
訳か伝統的に明治大学と親友関係のお付き合いが続いていて
今回の遠征では我々はともかく明治大学自動車部にとってはよも
やまさかのご迷惑事件で、事実写真のごとく大勢の貧乏学生が
いきなり合宿所に雪崩れ込んだ訳で、若気の至りというのはこの
ことを言うのだと思います。タバコ屋はこの期に及んでも気丈に
バットを持って右隅の方に鎮座していますが、内心は波乱の遠征
の前途に気が気ではなかったのは言うまでもありません。
その後は大した事故もなく無事長躯の遠征を終え京都に帰還した
ことを申し添えておきます。
(関連記事:今出川でのこと vol.3;地獄の北海道遠征参照下さい)
S477.jpg
九重佑三子の彼氏だった田辺靖雄氏だと思ったら、平尾青年
でした。(ラリー界の佐藤浩市という陰の声もあるようですが・・・)
ドライバーは一期後輩で勝新似だった河合氏のようでピースサイン
をしています。この写真は全日本学生整備大会が名古屋で開催さ
れた折、パレードで平尾青年が同志社チーム代表として出場した
時のものと思われます。彼も卒論の実験を大分手抜きしていたと
思うので、就職は大変厳しいものがあったと思いきや、ご卒業後は
某大手製薬メーカーへすんなりご内定となりスカイライン2000GT
の三角窓付き!!の車窓からにこやかに手を振られているのも
納得がいくと言うものです。
九重佑三子1
とんでもない余談になりますが、タバコ屋より5つ年上だった彼女、
新宿中村屋のアンパンに目鼻を付けたような変な顔でしたが(失礼)
タバコ屋は結構ハマッていました。田辺氏とともにNHK「夢で逢
いましょう」の常連メンバーであり、ジェリー藤尾、坂本九ちゃん
などと共演していましたよね。タバコ屋にとっては先日のブログ
記事「ハローたんぽぽ」でお話した、ジェリー藤尾さんや伊丹十三
さんに繋がるセピア色の思い出の中に佑三子ちゃんも色濃く残って
います。
九重佑三子4
コメットさんなどのお子様向けキャラクターで人気を得たものの
田辺さんと結婚し歌手としての大したヒットもなしに引退しました
が、得意なジャンルはアメリカン・オールディーズだったと思うの
ですが勘違いかも?。ハスキーな声が今でも印象に残っています。
引退してなければ後はペギー葉山さんのような歌手になっていた
と思いますが、あくまでもタバコ屋の想像です。

オールディーズと申しましても関心のない方もいらっしゃるでしょう
が、要するに昭和30年から40年代にかけて流行ったアメリカン
ポップスのことでコニー・フランシスや弘田三枝子、伊東ゆかりと
いった懐かしい歌手の名前を申し上げたほうがわかりやすいかも
知れません。ここだけの話ですが、松山にオールディーズ専門の
ライブハウス「KENTOS」が出来た昭和60年代タバコ屋は結構
足繁く通ったものでした。
D:今出川キャンパス2
平尾青年の過ごした今出川での青春時代は学園紛争による大学
封鎖により一部大学の受験中止や授業の停止等、いまわしい事件
が起こりました。同志社も例外ではありませんでしたが、タバコ屋は
今でもチンケなイデオロギーを振りかざしていた連中を人間として
信用出来ません。(事実東大受験を目指し、試験中止によりその志
は適わず、同志社自動車部にご縁のあった高砂市のある神童のお
話も聞いています!?。)
240Zモンテ13-1
それはともかく現実の日本は高度成長時代真っ盛り、すべてが
右肩上がりの前向きベクトルで、自動車メーカーも欧米の先進
技術を吸収しつつ自前の製造技術を確立し、販路を世界に拡げ
て行った時代であり当然メーカー自身が世界的なラリーやレース
に参戦し自社の優秀性や認知度を高めようと涙ぐましい努力を
した時代でもありました。従って大学の自動車部を巡る環境も
そのような時代の流れに沿い、最高に輝いた時代だったと思う
のです。マスキー法という悪魔のような排気ガス規制法により、
世界の自動車産業が一気に氷河期に突入する直前のお話です。
(関連記事:オハイオの夢参照願います)
DUAC80thロゴマーク
お金が掛からず地味な競技なので今回ご紹介はしませんでしたが、
運転免許試験を数倍難しくしたようなコースをいかに短時間で正確
に周回するかを競うフィギュア競技をはじめラリー、ダートトライアル、
サーキットラリーと今では考えられないほど多様なメニューでの部
活動が行われました。おまけに自動車部ゆえ整備大会等整備力
の優劣を競う競技までありました。
ただ輪廻転生、何の世界にでも絶頂期というものはあるもので、
今から思えば平尾青年やタバコ屋はその真っ只中で青春時代を
過ごしたことになります。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願います)
昭和48年春卒・送別会1
かくして元校長先生が過ごした同志社大学自動車部でのあっと
いう間の4年間は過ぎ、弁慶楼での歓送式を最後に同釜の昭和
44年組はそれぞれ人生の新しいステージを目指して全国に散っ
たのでした。創始者の新島襄先生が唱えた「良心の全身に充満
したる丈夫(マスラオ)の起こり来たらんことを
」という理念は果たし
てその後各人においてどのように実践されたことでしょうか。

ちなみに前列中央は顧問の松山先生、右は同志社の良心と言う
べき部長のオーテス・ケーリ先生、同右はOB会長の難波三菱
社長、島治三郎氏、平尾青年は前列右から2人目です。
(ケーリ先生関連記事:今出川でのこと vol.1参照願います)

校長先生の青春は同志社大学自動車部の卒部により一つの区切り
を迎えることになりました。お話もやや長くなりましたので今回は
これで終わることにし、彼のその後のことについてはVOL.2にて
お話したいと思います。お楽しみに・・・。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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