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あこがれの宮島 vol.3:表参道

平成26年6月25日
今回2度目の宮島訪問を果たしたタバコ屋は清盛神社に参拝した
後、すぐ近くの宮島水族館が気にはなりましたが、次回のお楽し
みということにして、再び元来た道を引き返しました。
生憎の小雨模様だったのでなるべく短時間で回れる場所を選んだ
ため名所の一部しか訪問出来ませんでしたが、タバコ屋にとって
はもう十分な内容でした。あまり欲張らないほうがいいのです。
宮島18
タバコ屋にとっては一番気になっている表参道商店街を今度は逆
方向から散策することになりました。丁度商店街の出口のところに
ある昔ながらのお土産屋さんです。店内にはもうキーホルダーから
ぬいぐるみから、もみじ饅頭から、これでもかというくらい飾り立てて
いましたが、どこの観光地にもこういうスタイルのお店はあるものの
だんだん時代には合わなくなっているような気がします。
宮島19
「だいだい醤油」を売っている醤油屋さんがありました。「だいだい」、
タバコ屋の島では「カブス」と言います。九州大分ではやや小振りな
品種「カボス」を栽培し特産品となっていますが、だいだいは日本で
も最も古い柑橘の一種で、その果実が回生することから古来、代々
子孫が繁栄することになぞらえ縁起の良い柑橘として珍重されてき
ました。
しめ飾り1
お正月に玄関に飾るしめ飾りとしてタバコ屋は子供の頃から馴染ん
で来ましたが、関西の習慣かも知れず関東方面の方はどうなんで
しょうか。真ん中の朱赤の柑橘がだいだいで食用でなく高貴な飾り
用に使われるとは、だいだい君も大したもんです。

余談ですが、タバコ屋はマーケティングが専門にてついショウバイの
ことを考えてしまうのですが、みかん農家にとって無理に食べる柑橘
を栽培しなくてもこのように高貴なお飾りとして使用するものや、香り
を楽しむ柑橘を栽培すれば多分オネダンも高いでしょうし、やりがいの
ある農業経営が出来ると思うのですが、皆さんはどう思われますか。
だいだい2
インドのアッサム地方原産のこの芳香系柑橘はレモンと同様シルク
ロードを経て地中海沿岸に伝わりビターオレンジという呼び名で知ら
れています。片や中国経由で極東の島国日本に伝わったこの柑橘
は香りが日本人の感性にマッチしたようで、爾来だいだいは和食の
引き立て役としてなくてはならないものとなり酢の物、鍋物、ポン酢
等に重用されて今日に至っています。牡蠣の本場、広島ではこの
だいだいはとても大切な名脇役ではないかと思います。その理由
は米酢とか他のお酢と違い、味がまろやかで香りが良いからです。

ここだけの内緒話ですが、実はタバコ屋もこの「だいだい」を生かした
万能調味料を開発したいと思っています。醤油、ソースのごとく何に
でも手軽に使用出来、また素材を引き立てる香りの良さを併せ持っ
たドレッシングでもない醤油でもないソースでもない調味料です。
歯がゆいことながらそれは高知の馬も通わない人口1,000人の村
[馬路村」でゆずをベースにした「ゆずの村」という万能ポン酢によって
既に実現されているのです。タバコ屋よ、中島よ、何してんねん・・・。
(関連記事:農業とレストア vol.6参照願います)
宮島21
広島と言えば牡蠣ですが、表参道のここそこに焼き牡蠣のお店が
ありました。タバコ屋は恥ずかしながら島育ちと言えども元ゴフク屋
にて牡蠣のことには疎く、このお店の前も匂いを嗅ぐだけで素通りと
なりました。正直なところタバコ屋の好きなアイテムではありません。
タバコ屋が好きなのは生牡蠣でも焼き牡蠣でもなく牡蠣フライなの
です。これならそれこそゲップが出るほど頂いてもOKなのですが
何せ牡蠣フライは高級品ゆえ豪快に食べた記憶はありません。
宮島59
尤も、今でこそ我々庶民がゲップが出るほどふんだんに食べること
が出来るようになったこの牡蠣も昔は洋の東西を問わず、貴重な
グルメだった訳で、ちなみにはるか2,000年前の紀元前後、栄華を
極めたローマ時代に夜ごと繰り広げられた貴族のパーティにおいて、
牡蠣は孔雀の肉やチョウザメの卵(キャビア)、などと並び珍重され、
食べてはわざと吐き吐いては食べ、また飲み、という狂乱が繰り広
げられました。
宮島57
笑ってしまいそうですが、当時のローマでのディナースタイルは寝
そべって食べるのが正しいマナーだったとか。所変われば品変わ
るということでしょうか。嘔吐を促しそれを始末する専門の給仕も
いたと言いますから、奥ゆかしい我が日本民族ではとても考えら
れない仰天のライフスタイルです。

そんなことやってるうちにかつてシーザーが征服したガリア(今の
フランス)や、北方から南下してきたゲルマン系の野蛮とされてき
た民族から大逆襲を受けることになり「ローマは一日にしてならず
と言われていた空前絶後の大帝国もやがて滅び去る日がやって
来るのでした。(正確に言えば紀元5世紀頃滅びたのはローマが
中心の西ローマ帝国で、分裂した東ローマ帝国はその後も15世
紀頃!まで生き長らえました)
宮島20
読んで字のごとく、文字どおり「杓字(しゃもじ)の家」です。正確に
は杓文字だと思うのですが、この宮島が杓字のルーツらしく琵琶の
形をモチーフにしたご飯をよそおうキッチンツールとして江戸時代に
ここ宮島で考案されたものだとか。
宮島56
すぐ近くにはその杓字の展示場があり全長7m以上はあろうかと
いうその展示品はそれなりに見ごたえがありましたが、島おこしに
杓字が一役買うとはその考案者である神泉寺の僧・誓真も夢にも
思わなかったに違いありません。
宮島4
変わったところでは、写真のようにお地蔵さんをストアコンセプトにした
ユニークなお店もありました。お地蔵さんにちなんだいろいろな雑貨
を売ろうという目論見のようです。前回の記事でご紹介したお好み
焼き屋「くらわんか」のご主人によると、年間数百万人が訪れる宮島
に於いても、うまくいっているのは食べ物屋、菓子屋、旅館で、民芸
品等を売る店や何屋かわからないような種々雑多な品揃えの店は
あまり流行ってないそうです。その点このようにコンセプトのはっきり
している店は食べ物屋でなくても結構いけるのではないでしょうか。
宮島37
まだまだお店は沢山ありましたが、タバコ屋一行は表参道より一筋
奥側の町屋通りを散策することにしました。意外でしたがもみじ饅頭
の老舗「藤い屋」さんの本社工場がありました。このように町屋の中
にFACTORYがあるという風情はかつてタバコ屋がD大学在学中の
頃、京都今出川界隈の西陣と呼ばれるところで下宿生活をしていた
ので帯屋さんとか老舗の京菓子屋さんの工房があり、懐かしい思い
がしました。
宮島60
日本に観光土産は数々あれど、もみじ饅頭は全国一の知名度だ
そうで、広島といえばお好み焼きかもみじ饅頭のイメージが浮か
ぶと思います。

ついでながらもみじ饅頭は明治の後期に、宮島の土産品として発
案されたようで、それには当時、宮島がお気に入りだった宰相伊藤
博文が度々来訪し投宿した旅館「岩惣」の給仕娘の手を見て、何
とかわいいもみじのような手じゃ、焼いて食べたらさぞおいしかろう
と軽口を言ったのを女将が聞きとめ、これをヒントに出入りの菓子職
人、高津常助なるものに依頼して製品化したと言われています。
つまり、もみじ饅頭のルーツは「岩惣」だったということになります。
宮島38
前回広島のO氏といっしょに町屋通りを歩いた時、普通の町屋造り
ながらとても垢抜けた旅館へ案内されO氏とは顔なじみのご主人
とお話をさせて頂きました。そこである謎が解けたのですが、宮島
の町並みが今日のようにすべて清楚で和風レトロな雰囲気になる
よう仕掛けたのはどうもこの「菊がわ」という旅館のご主人だそうで
町の皆に呼びかけ統一イメージを作り上げていったそうです。

宮島の町並みは何故このように和風レトロに統一されているのか
というタバコ屋が不思議に思っていた謎は一気に解けた訳ですが
その町並みデザインコンセプトにはO氏が深く関わっていることは
申し上げるまでもありません。
宮島51
その「菊がわ」の館内ロビーですが、シックで落ち着いた雰囲気で
前回訪問時、O氏と一緒に美味しいコーヒーを頂きながらしばし楽し
いお話を聞かせて頂きました。外国の観光客の方も泊まられていて
結構繁盛されているご様子でした。今回はやや遠慮があり外観を
拝見するだけに留めました。
旧新島邸1
ふと思い出したのですが、かつて新島襄と八重が新婚時ともに暮ら
した「新島旧邸」の応接室がやや似た雰囲気で、和風モダンな外観
も同様のテイストが感じられ明治時代を彷彿とさせる趣がありました。
(関連記事:八重のこと(付録)参照願います)
宮島40
さて町屋通りも尽きたところで表参道に下り、丁度入り口付近にある
もみじ饅頭の老舗「やまだ屋」さんに立ち寄りました。ここでは無料で
冷茶サービスや休憩スペースが設けられており、見学で疲れた体を
ここで休めつつお土産をどっさり買って頂くというお店の目論見にまん
まと乗せられた格好となりました。しばしの休憩の後、皆さんの買い
っぷりが良かったのは言うまでもありません。同行の一人でもみじを
10個以上買った人もいて、タバコ屋はややビビりました。
もみじ饅頭1
もみじ饅頭のルーツは「岩惣」だと申し上げましたが、実際にショウバ
イとして製造・販売を始めたのは「やまだ屋」「藤い屋」といった今では
老舗の和菓子屋ですが60~80年前の創業時は今で言うベンチャー
だった訳で、どの業界でも革新(イノベーション)が大切であることは
タバコ屋が崇拝する現代経営学の父と呼ばれるドラッカー教授の言、
事業の本質とは新しい顧客を生み出すことである」というオコトバを
持ち出すまでもなく、「やまだ屋」「藤い屋」さんはそれを実際やって
のけた訳です。いくら目もくらむような神社仏閣や絶景があろうとも
もみじ饅頭がなければ宮島は何と寂しい島になっていたことでしょう。
(関連記事:人生いろどり参照願います)
宮島62
もみじ饅頭のトラディショナルなイメージとは裏腹に、「やまだ屋」の
FACTORYは対岸の沖塩屋という所にあり超モダンな建物です。
タバコ屋はあまり好きなセンスではありませんが、中では最新の
衛生的な設備で日々もみじ饅頭が製造されています。

TOTOの名キャッチコピーに「お尻だって洗ってほしい」というのがあ
り、一世を風靡しましたが「タバコ屋だってこれくらいのことはやって
みたい」と秘かに思ったりして来ました。
オハイオメアリーズビル工場6
かつてタバコ屋が若かりし頃夢見たHONDAオハイオのファクトリー
やマクラーレンの工場とはいかないまでも、せめてささやかなハンド
メイドの食品工場くらいは作れるのではなかろうか、そう思って15年
間やってきました。地獄もありました、よもやまさかも沢山ありました。
でも今はやや薄っすらと一筋の光が見えてきたような気がします。
オハイオ・メアリーズビル工場2
アメリカのベストセラーカーとなったアコードを中心に生産してきた
オハイオ・メアリーズビル工場は新しい時代を迎えつつあり、今後は
次期NSXの生産も行うようでその看板が誇らしげに立っています。
(関連記事:オハイオの夢及び「希望の島物語」1参照願います)
マクラーレン本社ビル1
写真はマクラーレンの本社兼工場ですが、異常なほど清潔好きで
有名なロンデニスの作ったファクトリーだけあってどこもかしこもピカ
ピカです。また建物のデザインも斬新でとても工場とは思えません。
斬新とはいってもチンケでないのがタバコ屋のお気に入りの点でも
あるのです。
MP4・12C-15-2
この工場からはマクラーレンの意欲作MP4-12Cが生み出されてい
ます。尤も随分浮世離れしたオクルマと工場なので皆さんにご紹介
すること自体、ご迷惑な話かも知れません。

蛇足ながら、奇しくもこの2社は来年からF1で再びタッグを組み無敵
のマクラーレンHONDA-F1という往年の夢を再現しようとしています。
(関連記事:荒ぶる心 vol.6:マクラーレン物語参照願います)
宮島44
いきなりの写真で恐縮です。かくして2度目の宮島訪問は無事終わ
ったのですが、やや時間もあったので仲間の一人、船のオーナー
さんのご提案で帰路、呉に立ち寄りヤマトミュージアムの近くにある
クレイトン・ベイ・ホテルで歩き疲れた奥様連にティータイムのご奉仕
をすることになりました。このホテルは店名のごとく船で横付けして
そのまま利用出来るのがミソで、すでに泊まっていたYAMAHAの高
級クルーザーほどではありませんでしたが、ややリッチな気分を味わ
うことになりました。それにしても写真の海のGTは多分ロールスロイ
ス・ゴースト1台分のお値段かと思われます。具体的には2千万以
上だと思いますが、オフネのことは疎いので値段については当てず
っぽうです。タバコ屋にとってはこの浮世離れしたしろものは目の毒
というもので見てみぬふりをして上陸しました。。
(関連記事:ハローたんぽぽ vol.5(完結編)参照願います)
宮島43
終日小雨模様だった梅雨空も帰るころにはすっかり回復し、西に傾き
かけた午後の日差しを感じながら、また今日一日の楽しかった宮島
訪問を語りながらホテルオリジナルのケーキに舌鼓を打つ奥様連で
した。
宮島63
尤もタバコ屋はスイーツよりも泡の出る別の飲み物の方がご所望で
海軍さんの町呉らしく「海軍さんの麦酒下さい、あの日本風のやつ
とか言ってしまいました。日本風と言うのはピルスナーのことで洗練
の民、日本人が西洋人の飲み物であるビールをまたしても日本風に
改良したものです。
宮島45
ほろ酔い気分となったタバコ屋は広島出身でタバコ屋世代のビッグ
スターであった吉田拓郎の「旅の宿」でも歌いたい気分でしたが、
時間も迫ってきたのでお開きとし、一路中島を目指すことになりまし
た。帰路もやはり「翔ぶが如く」の勇ましいクルージングになったこと
は言うまでもありません。

今日一日を振り返り、以前の記事でも書かせて頂いた「今が最高の
幸せと思う心
」が大切だと帰りの船中でふと思いました。宮島への
最短コースの旅を実施して頂いた船長さんには感謝あるのみです。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)


あこがれの宮島 vol.2:再訪

平成26年6月24日
以前の記事で、恥ずかしながらタバコ屋は還暦を過ぎるまで宮島
を訪問したことがなかったことをお話しました。それは一昨年やっと
実現したのですが、今回ひょんなきっかけで再び宮島を訪問する
運びとなりました。ひょんなきっかけとは島で親しくしている方が
船を持っていて、仲間で一緒に宮島へ行こうや~という話になった
のです。もちろん一番行きたかった一人はこのタバコ屋ですが。
IMG_3183-1.jpg
一昨年初めて宮島へ行ったときはタバコ屋の愛車の初遠出も兼ね
て呉、広島経由で陸路訪問し、途中わがままな愛車赤いお嬢さん
ことフェアレディZ嬢にはシートベルトがいきなりロックしたり、宮島
バイパスではアルトのおばちゃんにス~ッと抜かれる等(SOLEX
どないなってますんや)等、プライドがズタズタに傷つくような散々
な目に逢ったのでしたが、今回はそんなまどろっこしいことはせず
海上ルートにて中島から宮島まで一気に直線コースを走ることに
なりました。
(関連記事:あこがれの宮島参照願います)
宮島3
突然の写真で恐縮ながら、そのオフネとはレジャーボートでもクルー
ザーでもありませんが、船主のご本人が普段釣りに使ったり、松山
への移動に使ったりしている実用船です。外観はややミニ・イージス
艦を思わせるような作りですが、中古の船を買ってキャビンは自分が
手作りで作ったそうで大したもんだと思います。エンジンがなかなか
凝っていて、何でもヤンマーかボルボかの大型ターボディーゼルを
組み込んでいて、30ノット(時速約60km)以上出るそうで、陸上の
感覚では80km以上で走っているように感じます。
宮島1
さていよいよ出発です。案の定島の外海に出るや否やその30ノット
で走り出したので、船尾の航跡は司馬さんの小説でもないですが
翔ぶが如く」の大変勇ましい景色となりました。この日はちょうど
梅雨の前線が通過中で生憎の天気でしたが強行出陣となりました。
宮島2
あっと言う間にとはこのことでしょうか。通常タバコ屋の島から宮島に
行くには一旦松山に行きフェリーまたはスーパージェットにて広島へ
さらに電車で宮島口まで行き、再びフェリーで宮島へ渡る訳ですが
今回は中島から一直線で宮島まで突っ走りました。距離にして90
km程度でしょうが約1時間30分で宮島桟橋に到着と相成りました。
宮島41
いよいよ2度目の上陸です。意外な事ながらタバコ屋の奥様も実は
宮島へ行ったことがないそうで今回初訪問を果たしました。港正面
の石柱モニュメントが歓迎してくれました。
宮島8
まずは順路として、海岸から一筋奥の表参道商店街(通称清盛通り)
を通って、遠いところから訪ねようということで大聖院(だいしょういん)
を目指したのですが、商店街には楽しいお店が沢山ありタバコ屋の
専門分野であるマーケティングの立場からはここに留まってゆっくり
見学したいところでしたが、仲間の方がいるので素通りし、厳島神社
等も後から参拝することにして小雨の中、大聖院を目指しました。
宮島5
ただ素通りと申し上げましても、時間が午前11時を回っており、お腹
がかなり空いてきた状態にて、「揚げもみじ」の店の前では誘惑に抗
し切れず、思わず「揚げもみじ5個下さい」と言ってしまいました。
若干お行儀は悪いと感じましたが、その揚げたてのもみじ饅頭を頬ば
りながら歩きました。それにしても「揚げもみじ」を発想したお方は中々
アイデアマンだと思います。昨今TV-CMで「揚げずに唐揚げ」という
のが流行っているようですが「揚げるもみじ」なかなかグッドアイデア
だと思いませんか。ま、タバコ屋が好きな揚げパンのもみじ版という
ことではありますが。
宮島9
和風でレトロな感じのムードに統一されていると感じる道筋で「岩惣
さんの案内看板がありました。皆さんご存知のごとく創業160年の
老舗旅館にて宮島を代表する宿ですが、タバコ屋はまだ宿泊した
ことがありません。また明治の世には時の宰相伊藤博文がお気に
入りの宿として度々投宿しその折に「もみじ饅頭」が誕生したという
逸話は有名ですよね。今回は「岩惣」さんがテーマではないので次
の機会にお話することもあるかと思います。
(関連記事:島のスイーツ開発 vol.2:タバコ屋のお気に入り
参照願います)
宮島10
15分ほどで「大聖院」さんの山門にたどり着きました。両脇には仁
王が仁王立ちに立っており真言の古いお寺であることを感じさせま
したが事実、宮島で最古の寺院だそうです。
かつて仏教も日本に渡来した遥かいにしえ飛鳥の時代にはモダン
な宗教として時の貴族が競って採り入れたものでしたが、時を経て
今ではクラシックで保守的な宗教となってしまいました。
(関連記事:校長先生の青春 vol.2後半部分参照願います)
宮島11
長い石段には手すり部分にこのような遊び心のあるしかけがありま
した。ローラーのようなものには一つ一つご寄進者の名前が刻まれ
ていて「揚げもみじ」とはまた違ったグッドアイデアが感じられました。
宮島12
境内到着です。中に入ると左手にお札の販売所と休憩所があり、
お札類にはあまり興味のないタバコ屋はもっぱら休憩所でお茶を
頂くことに関心がありました。何故かと申しますと、前回O氏のご
案内でここを訪れた時、お茶を飲みながらいろいろ語り合った楽し
い思い出があるからなのです。
宮島13
本堂右手の観音堂では般若心経のお勤めがされていましたが、
いろいろお祀りされている仏像を拝見すると中国の鍾馗(しょうき)
とか道教の影響を受けたと思われるものが多数あり、インドで生ま
れた仏教も、シルクロードを経てやがて中国に根付いたことにより
大幅にアレンジされ、オリジナル仏教とは似ても似つかぬものに
なったと想像されます。そもそも釈迦の起こした仏教は自己の悟り
を求めるもので、仏像を拝んだり、現世のご利益を願うようなもの
ではなかったのです。そのアレンジされたものが行き着く先として
極東の果て日本に伝わったということでしょうか。遠く平安時代に
はそのモダンな宗教を求めて命がけで唐に渡り日本に持ち帰ろう
とした学僧が多数いてその中でも天才、秀才と言われた「最澄」
「空海」がそれぞれ帰朝後、「天台宗」「真言宗」を起こしたことは
皆さんよくご存知の歴史です。尤も両雄並び立たずで二人は仲が
悪かったそうです。

幸せって何だろう」これはタバコ屋にとって人生最大のテーマでも
あるのですが皆それぞれの人生を生きて行くにつれて反目、争い
裏切り、いじめ、経済的破綻、病気、肉親の死、男女のもつれ等、
よもやまさかのつらい目に遭って来たはずです。遭わなかった方は
本当に幸せな方だと本心から思います。そのような時人間てホント
弱い動物で、自暴自棄になるかあるいは神、仏にすがりたくなるの
は自然の成り行きだと思います。その意味では仏陀=釈迦なんか
は稀な天才と言いますか、それを自力で解決し悟りの境地に達した
のですから大したもんです。普通凡人はそうはいきませんので、叶
わぬ時の神頼みという図式になります。当時の秀才、最澄と空海は
その絶えざる煩悩に一つの解答を与えたかったのかも知れません。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)

余談ですがタバコ屋は実母がクリスチャンであり、また多感な時期
を建学精神がプロテスタント・キリスト教の同志社大学で過ごしたた
め、仏教の救いよりもイエス・キリストによる慈悲の救いのようなもの、
賛美歌に歌われる「慈しみ深き友なるイエスは罪、とが、憂いを取り
去り給う、心の嘆きを包まず述べてなどかは下ろさぬ負える重荷を」
の世界だったので若干のアプローチの違いと言いますか感性のずれ
は感じます。この感性のずれと言うのは意外と大きなものです。
(関連記事:お尻だって洗ってほしい参照願います)
宮島17
元来た坂道をだらだら下り、厳島神社を目指そうとしたのですが
何分昼時にてお腹がすいてきたので安芸の宮島を代表する厳島
神社の大鳥居を横目で見ながらお目当てのお店を目指しました。
宮島22
そのお店は表参道商店街の入り口近くにあり結局商店街を再度
素通りすることになったものの無事到着致しました。「くらわんか」と
言う広島風お好み焼きのお店で、前回このお店のデザインを手掛け
た広島のO氏に連れて来て頂いた好印象があったので今回もここで
お好み焼きを頂くことにしました。
宮島マップ1
突然ですが、この詳細な宮島の観光マップはO氏が10年の歳月を
掛け宮島をくまなく歩き完成させた労作で、一軒ごとの家並みはす
べて手描きであり、全体は鳥瞰図のように立体的な構成となってい
ます。今回もこのマップをたよりに歩きましたが港に置いてあるので
皆さんも一度は利用されたことがあると思います。
O氏はこのマップ制作だけでなく宮島数ヶ所のお店のプロデュース
やデザインを手掛けており、宮島では皆顔見知りの有名人でした。
またご本業は主に広島を中心とした町村やメーカーの地域情報誌
制作、デザインでタバコ屋はひょんなご縁からお付き合いをさせて
頂くようになりました。
giant-cover2.jpg
手前味噌で恐縮ですが、タバコ屋は数年前この多忙なO氏にお願
いし、島の情報誌「中島ヂャイアント」という小冊子を作って頂いた
のですが、とても気に入っておりいずれ第二号を発刊したいと思っ
ています。尚情報誌のコンセプトは「思い出の島からこんにちは
というもので何故かほのぼのと懐かしい記事で埋められています。
(関連記事:札幌紀行 vol.1:お仕事参照願います)
giant-P03-04.jpg
宮島の面積はタバコ屋の島、中島の1.5倍程度だと思うのですが
その知名度、歴史、観光資源、訪問者の数は比較にならず数百倍
もの開きがありますが、宮島の観光マップになぞらえて中島の歩き
マップを作成して頂きました。写真がそのマップでそれなりに楽しく
デザインされていてO氏より「思ひ出はちまん通り」という命名まで
して頂きました。この場合もO氏が当地を実際に歩いて制作したも
のにて、いわゆるプロのオシゴトです。
宮島49
「くらわんか」に戻ります。広島と言えば牡蠣にお好み、もみじと相
場は決まっていますが、その牡蠣入りお好み焼きを注文しました。
てんこ盛りのお好みにプリプリの牡蠣が付いていて生のジョッキ片
手に頂くと食べ切れないほどのボリュームでした。
宮島48
5人でお邪魔しましたが、6mはあろうかという特注の鉄板カウンタ
ーに陣取り、普段関西風お好みに慣れている我々にとっては奇妙
な焼き方をする広島風が珍しく、出来上がるまで興味深く見学させ
て頂きました。元JRマンだった実直なご主人とベッピンさんの奥さ
ん相手にいろいろお話をし、O氏のことなどもお話したせいだと思う
のですが、差し入れにホタテの鉄板焼きを頂きました。この場をお
借りしてご夫妻に感謝です。ジョッキがもう一杯進んだのは言うま
でもありません。
宮島25
腹ごしらえも出来たところで、今度は厳島神社手前の「千畳閣」を
目指しますが、隣接の五重塔が目印です。皆さんご存知のごとく
千畳閣とは秀吉が晩年、いくさで亡くなった多くの兵士の霊を弔う
ため建立を命じた大経堂ですが、秀吉が完成を待たずに亡くなっ
たため工事は中止されたままになりました。当初は寺院だったも
のが明治の神仏分離政策により今度は神社に模様替えとなり
正式には豊国神社(とよくにじんじゃ)として今日に至っています。
神社に五重の塔があるのも変な話ですが、こと宗教に関しては
大らかと言いますか何でもありの日本らしいですよね。
宮島26
タバコ屋の奥様たちがご見学中ですがとにかく木造でこれだけの
ものを作るとなるとその基本設計はもとより柱や梁の調達だけでも
5年やそこらは優にかかったものと推察されます。
宮島24
中は千畳閣というだけあってだだっ広く何もない感じでしたが、梁
には数々の絵馬や文字額が飾ってあり、その中では比較的最近
奉納されたと思しき「全世界ヨ一(いつ)ニ帰レ」という立派な額が
印象的でした。不毛のレバノン、イラク方面では中々わかってもら
えないオコトバでしょうが・・・。
宮島27
千畳閣を下ればすぐそこが世界遺産登録「厳島神社」のエントランス
ゲートとなります。タバコ屋はいつも思うのですが、日本の民はとに
かく何もかも洗練、アレンジしなければ気が済まない民族らしく、もと
はと言えば、中国、朝鮮から伝わった仏閣建築も日本に来て随分
シンプルになったと言うか、洗練されたものになりました。兎に角
中国の仏閣建築と言ったらこってりモツ鍋みたようなもので、タバコ
屋などは思わず顔を背けたくなるようなしろものですから(失礼)。
いよいよメイン訪問先である、清盛ゆかりの「厳島神社」を参拝する
ことにしましょう。
宮島28
タバコ屋が若かりし頃、元気の良かったRENOWNのブランドでもな
いでしょうが、シンプルライフという言葉が思わず出てきそうな回廊の
佇まいです。洗練の民、NIPPONの面目躍如たるものではないでし
ょうか。
宮島29
うーん、イキでシックというのはこのことでしょうか。かつて平安の世
時、権力を一手に握った平清盛は宋との貿易で莫大な利益を上げ
その体制を磐石とするため、安芸の宮島に国家護持、平家一族の
安寧を願い「厳島神社」という荘厳な社殿を造営しました。日宋貿易
に当たり当時清盛は神戸の福原に本拠地を構え、瀬戸内海がその
貿易ルートの幹線でしたので、その中間地点である宮島に神社とも
迎賓館とも呼べるような厳島神社を造営することは意味のあること
でした。それは寝殿造りと呼ばれる、当時貴族が好んで用いた建築
様式を社殿に応用したもので、非常にスマートでイキな日本風パレス
とも言うべき建物で、世界遺産に登録されるのも納得がいきます。

蛇足ながら一つだけ言えることは、平清盛というのは権力者としての
評価は別にして、非常にハイカラで垢抜けたセンスの持ち主であった
と言うことです。彼は自分のイメージしたユートピアをこの宮島の地で
「厳島神社」というモニュメントによって彼なりに表現したかったのかも
知れません。

蛇足の付け足しながら、昔々タバコ屋がD大学自動車部在籍時代
コンパでいつも歌っていたざれ歌の歌詞は「大谷、龍谷センコ臭い
立命館はガラ悪い、京大府大はやぼったい、イキでシックな同志社
の学生さん
」と言うものでした。清盛公存命中はD大学などなかった
のですが、何かその心意気が通じ合うような気がします。
(関連記事:鉄腕ダッシュと水軍参照願います)
宮島31
当日は丁度神前結婚式が行われており、しばし見学させて頂きまし
た。タバコ屋の同行仲間にもご祈念希望の方がいてそれを待つ間
他の場所も見て回ることにしました。神事をサポートする巫女さん一
つをとっても日本はシンプルかつ清楚で中国のように刺繍だらけの
ギトギト衣装をまとったその類の方とはまったく趣を異にします。
日本の巫女さんの白地に朱の衣装を見ていると自然に「白地に赤く
日の丸染めてああ美しい日本の旗よ」という歌の台詞が浮かびます。

尚、新郎新婦さんに聞いたわけではありませんが、この後の披露宴
は例の「岩惣」さんあたりでやられるのではないかと推察致しました。
宮島32
海側から正面拝殿を眺めたところですが、雅楽、神楽用のステージ
があり、宋の使者や要職の一行をもてなす迎賓館としての性格が
よく出ていると思うのですがタバコ屋の私見にて、間違っている場合
はお許し願います。
宮島33
圧巻はこのアングルからの眺めで、時代は違え時の権力者平清盛
の「厳島神社」と豊臣秀吉の「千畳閣」が同時に見える好位置です。
「盛者必衰の理(ことわり)あり」とか「難波のことも夢のまた夢」とか
いう言葉が知らぬ間に出てきそうな気がします。
宮島35
せっかくなので、近くにある清盛神社を訪ねました。偉大なる平清盛
を祀る神社としてはあまりにも清楚というかショボいのでやや拍子抜
けしましたが、タバコ屋ご一行は皆で厳かに拝礼をして参拝を済ませ
ました。

さて今回2度目の宮島詣で、概ね見学したいところは回れたのであと
はタバコ屋お気に入りの表参道商店街散策を残すのみとなりましたが
紙数も尽きたようですのでその様子はVOL.2にて詳しくお話致します。
お楽しみに・・・。


アウディの挑戦:栄光のルマン

平成26年6月7日
ルマン」我々タバコ屋世代のオクルマ好きにとっては特別の響き
を持つコトバですよね。ルマン24時間レースはフランスのサルテ
サーキットにおいて年に一度開催され、市販車にしろプロトタイプに
しろ24時間を走り抜く耐久力だけでなく、並み居る世界の強豪を
抜き去るスピード(トップクラスは350km/h以上というタバコ屋な
どは失神してしまうような速度)が要求される訳で、F1などの純粋
なレーシングカーを除き、文字通り世界最高峰のスポーツカーレー
スとなっています。
ルマン2
タバコ屋世代にとって、ルマンと言えばすぐに思い浮かぶのが4つ
のキーワードですよね。何やらクイズのようですが正解はポルシェ、
フェラーリ、スティーブ・マックイーンそれにMAZDAです。
ポルシェ917-1

フェラーリP512-2 マックイーン2
何故かと申しますとポルシェ、フェラーリはタバコ屋がD大学自動車
部在籍中の昭和40年代、ルマンの覇権を巡って死闘を繰り広げた
ライバルで、マックイーンはそれを題材にした映画「栄光のルマン」
を製作し、また自らが主演しました。
MAZDA787B-3
一方MAZDAはそれから随分後の平成3年世界唯一のロータリー
エンジンを搭載した787Bをエントリーし車両規則が翌年から変わ
りロータリーが禁止になるという最後の年のラストチャンスでメルセ
デス・ベンツを始め並み居る強豪を蹴散らしNIPPON車初の奇跡
的な総合優勝を勝ち取ったからなのです。

ルマンの歴史は古くタバコ屋の店即ち富永呉服店が創業した大正
6年から6年後の大正12年に初めて開催され、90年以上の歴史
を持つ世界最高峰の耐久レースで、F1のモナコGPとアメリカの
インディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれているようです。
ブガッティタイプ35-3
その間、数々のドラマがあった訳ですが、メーカーにも時代に沿った
勢いというものがあり、一度勝つと数年間は勝ち続けるという傾向
があります。その草創期からわかりやすく覇権を握ったメーカー名
を挙げますと、戦前ではベントレー、アルファロメオ、ブガッティとい
った懐かしいブランドが活躍しました。尤も当時はレースなどという
浮世離れしたものは庶民のものではなく、あくまでも貴族や上流階
級の贅沢な趣味、娯楽といったものでした。写真はブガッティ・タイ
プ35ですが、ドライバーも今では笑ってしまいそうなコスチューム
です。
ジャガーDタイプ3
戦後は一大モータリゼーションの中、ジャガー、フェラーリが活躍し
ますがそこへ大資本のフォードが圧倒的物量で立ちはだかりまし
た。グラマンにしてやられた日本の零戦といっしょで、いくらヨーロ
ッパのスペシャリストが頑張ってもフォードの総合力には勝てませ
んでした。
フォードGT40-6
フォードの目論見というのはややセコイもので、当初ルマンに打っ
て出て優勝し大いに宣伝に利用しようと考えました。そこで一番手
っ取り早い方法として当時最強だったフェラーリを丸ごと買収しよ
うとしたのですが、この目論見は見事に失敗し、やむなく自分で開
発せざるを得なくなりました。
フォードGT40-7
それがかえって幸いしたのかどうか、当初かなり苦労したようです
がV8・OHV7L!というアメリカン流のマッスルなお化けエンジンを
搭載してからは、そこどけそこどけFORDが通るという状態となり
4連勝を果たしました。ちなみに初優勝時のドライバーの一人は以
前別記事でご紹介したマクラーレンの創始者ブルース・マクラーレ
ンでした。昭和41年から44年にかけての出来事です。
ポルシェ917-3-1
フォードが撤退した後、即ちタバコ屋がD大学自動車部在籍時代
はそれに代わってポルシェが圧倒的な強さを見せ、ルマンはポル
シェ以外は勝てない時代が長く続きました。史上最も美しいレーシ
ングカーだとタバコ屋が思っているポルシェ917がそのマシンでし
た。
ポルシェ917K-8
美しいクーペボディに空冷!4.5L水平対向12気筒エンジンを搭
載し、500馬力以上を発生するものでした。タバコ屋がハタチ頃
のお話だけに余計思い入れがあるのかも知れません。
栄光のルマン9
写真はショートテールタイプの917Kで、ロングテールとか数種類
のタイプの中でこの917Kが一番バランスの取れたプロポーション
をしています。ダウンフォースとかいう言葉がようやく話題にされ始
めた頃のお話で、リアフェンダーの形状にその工夫が見られます。

ここだけの話ですが、ポルシェ917Kに比べれば今時のプロタイプ
スポーツカーなんか速いかどうか知りませんがタバコ屋にとっては
お化けです。
ポルシェ956-1-1
それから10年後、ポルシェは917に負けず劣らず高性能で美しい
ポルシェ956を投入し、再び連勝街道を邁進しました。このマシン
で特筆されるのはエンジンで2.7L水平対向6気筒・ツインターボ
エンジンから600馬力を搾り出すというものでした。この辺、書き
出すとアウディ特集がポルシェ特集になりますので、また別の機
会と致します。
尚、昭和57年頃の当時、ポルシェはタバコ屋のロスマンズをスポ
ンサーにしていて、白地に紺の清潔なカラーリングは強く印象に
残っています。品性が感じられました。
シルクカットジャガー1
戦後の一時期世界のスポーツカーを席巻したジャガーは長く沈黙
を守っていましたが、再びルマンに復帰し昭和63年にはXJR9で
王座に返り咲くとともに改良型のXJR12を投入する等、数年間は
ジャガーの時代が続きました。
蛇足ながら、タバコ屋感覚ではXJRという呼び名はなじまずシルク
カット・ジャガーと呼んでいたような記憶があります。尚シルクカット
とは、島のタバコ屋ならぬイギリスのタバコ屋のブランド名です。
ロータスのコーリンチャップマンがF1でタバコ屋をスポンサーにし
て以来レーシングカーというのはある意味走る広告塔となりました。
MAZDA787B-7
平成3年、長年参戦はしていたもののずっと勝てずまるで「おしん
のように辛抱を重ねてきた我が日本のMAZDA・787Bの1度だ
けの奇跡の優勝がありました。メインスポンサーは当時元気の良
かった、アパレルメーカーのレナウンで、どうせ勝てないんだったら
ド派手なカラーリングで目立ってやれということで、靴下などでおな
じみのアーガイル柄をモチーフにしたデザインを施しました。結果
は意に反して優勝したので、レナウンは嬉しいやら恥ずかしいやら
複雑な心境ではなかったでしょうか。
2013ルマン1-2
その後プジョーが活躍しますが平成12年からは新参者のアウディ
が断トツの強さを発揮し、フェラーリ、ポルシェが撤退していた隙間
ということもあるにはせよ、それ以降今日までルマンの王者に君臨
しています。
ルマン3
ま今年は久しぶりにポルシェが復帰し、アウディと兄弟喧嘩を始め
るのと、我が日本からはトヨタ、ニッサン、マツダ(エンジンのみ)が
挑戦します。下馬評ではアウディとトヨタの一騎打ちとなりそうで、
トヨタ悲願の初優勝なるかといったところですが、今年のルマン24
時間レースは、間もなく6月14~15日に行われるのでその結果が
注目されます。これでフェラーリも復帰してくれればもう言うことはな
いのですが・・・。面白くないF1などさっさとやめてルマンに復帰しな
さいっちゅうの。ただし、HONDAが来年からF1に復帰するとなると
フェラーリには残ってもらいたい気もします。何故かと言いますと、
どうせマクラーレンHONDAが圧勝しますので、枯木の賑わいとして
と言う意味です??。

さて、話を平成10年頃に戻します。WRC(世界ラリー選手権)で
念願のチャンピオンを獲得したアウディですが、それから10年後
には次の目標としてルマンに挑戦することになりました。
R8-1-1.jpg
用意されたマシンはピエヒ博士在籍中のアウディ80クワトロのよ
うに革新的なものではなく、常識的なものでカーボンファイバーと
アルミのボディに3.6Lの水冷V型8気筒ツインターボエンジンを
搭載したものでした。ただ画期的だったのは長丁場のレースでは
メカの破損が多発しその修理に多くの時間を要するため、ユニット
交換(丸ごと交換)という手法を導入したことでした。ドイツ野郎の
やることは何事も論理的で周到であったため、アウディR8は常識
的なマシンだったものの参戦の翌年、平成12年には初優勝を飾
りそれ以降かつてポルシェがやったように破竹の連勝街道を突き
進むことになりました。(後日、アウディがあまりにも強いのでユニ
ット交換は禁止されました)
R10-1.jpg
慎重だったアウディも2代目のアウディR10ではディーゼルエンジ
ンの採用という常識では考えられない革新的なメカを持ち込みまし
た。当時、世界中で環境性能(燃費や排ガスの浄化)を一段と競う
時代となりつつありましたがヨーロッパのメーカーはその解決策を
ディーゼルエンジンに求めようとしました。ただレーシングカーに
それを採用するという発想はアウディが初めてでした。
R10-2-1.jpg
そのメカとはTDI(ターボチャージド・ダイレクト・インジェクション)と
呼ばれるもので、5.5Lの水冷V型12気筒ツインターボ・ディーゼ
ルをコンピュータ制御し700馬力!を発生、ディーゼルの長所で
ある低回転・高トルクという特性をうまく利用し、R8を引き継いで
再び勝利を重ねることとなりました。タバコ屋と同級生の山本リンダ
さんではないでしょうが「もうどうにも止まらない」状態でした。平成
18年頃のお話です。
アウディR10-2
余談ながら、F1に比べれば開発・運営費用は少なくて済むものの、
それでもアウディとしてはプロジェクトには20億円もの費用を掛け
たそうで、並行してショウバイの方もうまくいかなくては立ち行きま
せん。尤も、親会社VWには過激派のピエヒ会長が長らく在籍し、
当時はすでに会長職を退いていたものの、R8の開発当時はまだ
現役であり、その過激思想は浸透していたはずで、多分後年の
R10プロジェクトにも間接的にはピエヒ博士の息がかかっている
ように思います。それが証拠にVWは早くからディーゼルエンジン
の研究と推進をしていましたしTDIシステムはVWが開発したもの
でした。
尚、R8及びR10とピエヒ博士との関わりについてはあくまでもタバ
コ屋の推察で検証した訳ではありません。
アウディR10-3
技術肌のピエヒ博士はタバコ屋にとって崇拝に近いものがあります
が、アウディ時代はその革新的な技術が成功したもののVWに移籍
し会長になると矢継ぎ早にベントレー、ランボルギーニ、ブガッティと
いった高級スポーツカーメーカーを買収し、またVW自身も高級化
路線を推し進めたため、顧客とのギャップが生じ、業績を悪化させ
たので、経営者としてはあまり良い評価をされていません。
ただピエヒ博士は大衆車メーカーVWの立ち位置に我慢がならなか
ったのと、彼のプライドがそのままでいることを許さなかったのかも
知れません。
R15-1-1.jpg
3代目のR15はR10の改良版で同じディーゼル・TDIシステムなが
らエンジン形式をV12からV10に変更しました。これはかつてF1で
HONDAがやったことの逆でHONDAはパワーアップのためV10
をV12にした訳ですが、重量が重くなり苦戦しました。
アウディは逆にV12をV10にすることで軽くコンパクトにすること
が狙いでした。アウディにしてみればお家芸の5気筒エンジンを
2個くっつければよいので他社に比べ容易なことだったのではない
でしょうか。
HONDARA109(V10)-2.jpg
写真はマクラーレンHONDA-MP4/5に搭載され無敵の連勝街
道驀進に一役買ったHONDA-RA109エンジンですが、スペック
は3.5LDOHC自然吸気V10型で、700馬力!近くを発生したと
言います。何を隠そうタバコ屋にとっては空前絶後過去最高のレー
シングエンジンだと思います。(ターボ等余分なデバイスを付けず
エンジン本体のみの実力で勝負したという点で)

そのアウディR15-V10ですが実戦投入した平成21年のルマンで
は当時プジョーが台頭して来ており、勝てませんでしたが翌年には
雪辱を果たしました。結局R15が活躍したのはこの2年間だけで、
やや短命に終わりました。
R18-1.jpg
翌年平成23年からは車両規則が大幅に変わったためR18を投入
することとなりました。エンジンは5.5L V10ツインターボディーゼ
ルから3.7LV6シングルターボディーゼルへとスケールダウンされ
たので、パワーは低下したのですが、従来のオープンボディをクロー
ズドボディにすることにより空力面での飛躍的な向上が計られた
結果、R15よりも総合バランスに優れ性能向上を果たしました。
HONDARA302-4
かつて第一期のHONDA・F1においてひたすらパワーアップを主
張した本田宗一郎に対し中村良夫監督はマシンの軽量化を含む
総合バランスを主張し、またエンジンの冷却方法を巡って空冷か
水冷かでも対立したため、うまくいきませんでした。

アウディは総合バランスの向上を目指し、ルマンの実戦での結果
は大成功にてその年のウイナーとなりました。
ついでながら、R18はLEDヘッドランプをレーシングカーとしては
初めて採用しました。
TS030HV-3.jpg
いよいよ生々しい、昨今のお話です。環境性能を競う時代となって
ヨーロッパ勢はディーゼルを選択し、トヨタはハイブリッドを選択し
た訳ですが、今や世界の主流はハイブリッドになりつつあります。
トヨタはその優位性を実証すべく平成24年、ハイブリッドシステム
搭載のTS030でルマンに殴り込みを掛けてきたのです。
R18クワトロ-1-1
アウディも負けじとR18を改良したR18 e-tronクワトロを投入して
きました。エンジンは3.7Lから4Lに拡大されリアを駆動、フロント
は2個の電気モーターで駆動する4WDハイブリッドシステムを採
用しました。ここにきてピエヒ博士のクワトロは最先端の場面で生
かされることになったのです。ハイブリッド4WDとなったR18は
またもやルマンで強さを発揮しトヨタTS030の追撃を退け2年連続
で勝利を重ねました。
TS040HV-1.jpg
さてもう間もなく開催される平成26年今年のルマンですが、トヨタも
黙ってはおらず、当初2WDハイブリッドだったものを4WDに改良し
たTS040を投入してきました。この最新鋭TS040ハイブリッドは
フロントを電気モーターで駆動、リアは電気モーターとガソリンV8-
3.7Lエンジンを併用したもので、アウディR18とはやや異なるシス
テムながら、トータル1000馬力!に達する強力なマシンに仕上が
っておりいよいよ雌雄を決することになる今年のルマンでトヨタ悲願
の初優勝を目指しています。

ぼやきとも嘆きとも言えますが、アウディもトヨタもいくらトレンドとは
言え、よくもまあこんな不細工なデザインをするものだと思います。
昨今のF1にしてもしかりで、「速いものは美しい」というタバコ屋の
思い込みはそろそろ撤回しなくてはいけないようです。
もうやけくその言い方をしますと、今後ルマンカーのデザインは
懐中電灯のデザイナーにまかせなさいっちゅうの。
2013ルマン3
アウディのルマンへの挑戦と栄光を長々と書きましたが、タバコ屋
の本音ではアウディさんもう10年以上も勝ったんだから、今年は
トヨタさんに勝たせてあげて下さいよと言いたいです。またアウディ
の兄弟ポルシェに対してはどうぞトヨタの邪魔はしないで頂きたい
と願うのみです。


アウディな人 vol.2:ピエヒの野望

平成26年6月4日
前回の記事でおとなしい控えめなオクルマメーカーがいかに劇的
に強烈な個性を放つメーカーに変身していったか、その一端をご紹
介しましたが、それはあのポルシェ博士の甥っ子であるピエヒ博士
が仕掛けた一つの野望でした。しかり「アウディ社をVWグループの
中で個性的なスポーツマインドプレミアムメーカーに育て上げること、
またVWグループのトレンドセンターとして高い技術力、デザイン力
を保有すること」というものでした。タバコ屋がピエヒ博士に取材した
訳ではないのでこれはあくまでもタバコ屋がピエヒ自身であったら
こうするであろうという想像なんですが・・・。
アウディ2
アウディ、何やらオリンピックのマークのようなブランドロゴですが、
タバコ屋はアウディ社に対し、あまり良いイメージを持っている訳で
はありません。元々アウディ社はメルセデスベンツの工場長だった
アウグスト・ホルヒがアウディ社を創業、当時としては高性能・高品
質のオクルマを送り出し名声を得ることとなりました。
富岡製糸場2
日本では明治34年頃のお話で日露戦争に向け緊張が高まりつつ
ある頃でしたが、その頃の日本の最先端産業と言えば富岡の製糸
工場に象徴される生糸産業でしたから、ことオクルマに関して言え
ば、その萌芽さえなく、徳川の鎖国政策の後遺症のお陰で欧米に
比べ推定約30年も遅れていた訳です。それを取り戻そうと阿修羅
のごとく突進したその後の日本の歴史については皆さんよくご存知
のとおりです。
D:クラーク記念館2-1
ちなみに手前味噌のお話ながら、我が母校同志社大学設立に向け
奔走した新島襄でしたが、志半ばにして急逝したのが明治23年で
すから、アウディが創業したのはその10年後ということになりますよ
ね。尤もオクルマと申しましても馬車に毛の生えたようなものでした
から、今のイメージとは随分違うことを申し添えておきます。
(関連記事:八重のこと vol.1参照願います)
八幡製鉄所5
ただ極東の小国NIPPONはまだしも幸せでした。欧米に対する遅
れに早く気づき国の体制を素早く修正し、富国強兵策を採ることで
間一髪、欧米列強の侵略を免れることが出来ました。写真は「鉄は
国家なり」というスローガンのもと八幡製鉄所の高炉完成間近に時
の総理伊藤博文が視察した時のもので、アウディ創業の約1年前、
明治33年のお話です。明治の日本は国家予算の大半を基幹産業
への投資と軍備の増強に当てたのでした。
(関連記事:博多・熊本巡礼 vol.3:蒙古襲来参照願います)
アヘン戦争1
一方儒教という悪魔のようなイデオロギーに縛られ旧態然たる体制
を変えず、維新後も頑なに鎖国政策を続けた中国、朝鮮は武力では
欧米に比し、お話にならないほど稚拙でやがて欧米列強のえじき
(植民地)となっていきました。何度も言いますが、イデオロギーなど
と言うものにロクなものはありません。それが証拠に明治維新前夜、
あれほど多くの無駄な血を流した「尊皇攘夷」などというチンケな思
想(朱子学)は維新後、跡形もなく忘れられ文明開化の大合唱にな
ったではありませんか。また近年ではタバコ屋世代が苦々しくも経
験した学園闘争において声高に叫ばれたイデオロギーらしきものは
一体何だったと言うのでしょうか。
(関連記事:八重のこと vol.1ハローたんぽぽ vol.2参照願います)
アウディ4
アウディに戻ります。その後紆余曲折を経てアウトウニオン社が設立
され、その時にアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラー4社が合併した
のにちなんで4つの輪「フォーシルバーリングス」がロゴマークになり
ました。ただ間もなくあの不幸な第二次世界大戦に突入しその結果
ドイツは完膚なきまでに叩きのめされ、VWや他の自動車メーカー
同様、踏んだり蹴ったりのアウトウニオンでした。日本も同様でした
が、ただ日本は自動車産業がまだ育っておらず、壊滅的だったの
は当時世界トップクラスだった航空機産業の方でした。
(関連記事:究極のレストア参照願います)
RO-80-5.jpg
その悲惨な状況から立ち直り、徐々に力を回復しつつあったアウト
ウニオンはさらに戦後初のロータリーエンジンの開発で特許を取っ
ヴァンケル博士を擁するNSUを買収しその技術をものにしようと
試みましたが、途中で断念せざるを得ませんでした。発想は素晴ら
しかったにもかかわらずロータリーエンジンの実用化はあまりにも
難しすぎたのです。写真のNSU RO-80はロータリーエンジン搭載
の第1号車として、ボディデザインを始めメカの数々に画期的な工
夫が施され、10年進んだクルマとして世界から注目を浴びました。
しかし現実は、ロータリーエンジン特有の異常磨耗によりクレーム
が続出、ついに生産中止に追い込まれた悲劇のヒーローでした。
何やかやでNSUは出費も重なりとうとうVWグループに入ることに
なり、その後アウトウニオンに吸収されそのアウトウニオンも後年に
は社名が再びアウディに戻ることになったのです。
奇しくもタバコ屋がD大学自動車部2回生の頃のお話ですが、かの
ピエヒ博士は数年後、そのような混沌のアウディに乗り込んで来た
訳です。蛇足ながらNSUはエヌエスウーと読みます。変ですよね。
ロータリーエンジン1
ロータリーエンジン、別名ヴァンケルエンジンとも呼ばれるこの画期
的エンジンは従来のピストン運動をするレシプロエンジンに対し、
回転運動をじかに駆動力に結び付けられることと、給排気バルブ等
の部品が不要で非常にコンパクトに作ることが出来、また無駄な
動きがないので回転がスムーズかつ高回転まで上げることが出来
るという良い事ずくめでしたが、実際はハウジングと呼ばれる外枠
とピストンに相当するローターとの僅かな隙間を埋める数種類の
シール(レシプロのピストンリングに相当)がとても重要で、高速
回転のためシールが異常磨耗したり、逆にハウジングに傷が付い
て駄目になったりで、その難問題が解決出来ずNSUは半ばお手
上げ状態でした。
ロータリーエンジン5
「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざは本当だと思います。
その困り果てていたNSUに対し、我がNIPPONのMAZDAが
ヴァンケルエンジンの特許をもとにした技術提携をしたいと言って
きたのです。NSUにしてみれば地獄に仏、渡りに舟ですぐに了解
したのは言うまでもありません。ただし・・・・・、
タバコ屋がNSU(後のアウディ社)に対し、あまり良いイメージを持
っている訳ではないと申し上げたのはその提携内容でした。
ロータリーエンジン4
その内容は10年契約にて今のお金で数十億円もの大金を支払っ
た上、MAZDAが今後取得する特許はすべてNSUにただで提供、
挙句の果てはMAZDAが販売するロータリー搭載のオクルマ1台
ごとにテラ銭(ロイヤリティ)を支払うこと、という一方的なものでした。
それにしてもNSUのやり方はえげつなく、ものになりもしない特許
を超高値で売りつける等、ロクな奴らではありません。
ロータリーエンジン9
可愛そうなと言うか、けなげなのはわがMAZDAでしたがその当時
通産省の主導で業界再編成が図られようとしていた時ゆえに後発
メーカーのMAZDAとしては、乾坤一擲、ロータリーエンジンの将来
に賭けた訳です。
ロータリーエンジン9
聞くも涙、語るも涙のMAZDA苦闘のロータリー開発秘話がそこか
ら始まるのですが、それはかつてNHKプロジェクトXでも取り上げら
れたのでタバコ屋世代ならほとんどの方がご覧になっていると思い
ます。苦節6年、昭和42年に本家がサジを投げたロータリーエンジン
をMAZDAはついに完成させたのです。その苦闘の歴史を記念する
ものとして広島県三次にあるMAZDAのテストコースに石碑が建てら
れていますが、それにはロータリーの開発責任者で後の社長となる
山本健一氏の直筆による「飽くなき挑戦」の文字が記されています。

余談ながら、タバコ屋はみかんの島で全くの異業種であったにも拘
わらず誰もやろうとしなかったジュース、ジャムの製造事業に挑み、
製造法、販路等、未知の分野にてずいぶん苦い汁を飲んできた
自身の体験と重ね合わせ、MAZDAとはレベルもラベルも違うもの
の、非常に感慨深いものがあります。
コスモ9
写真はそのロータリーエンジン搭載の第一号車コスモ・スポーツで、
スポーツカーとは言え超前衛的なデザインと相まって一躍脚光を浴び
MAZDAの存在感を世界に示す記念すべき車となりました。
(関連記事:荒ぶる心 vol.4:栄光のルマン参照願います)
サバンナGT2
その後の、ロータリーエンジンの躍進、特にレースでの圧倒的なパワ
ーによる常勝スカイライン2000GT-Rとの一騎打ちとその後の勝利は
タバコ屋が青春真っ盛りの時代の思い出として鮮明に覚えています。
このことに関しましては書くとまた長い物語となりますので、別の機会
にお話したいと思います。
フェルディナンド・ピエヒ6
ピエヒ博士に戻ります。彼は若い時から研究していた4WDシステム
(クワトロ)と直列5気筒エンジンの成功、特にラリーの最高峰である
WRC(世界ラリー選手権)でのチャンピオン獲得はアウディの優秀
性を世界に証明した訳で、それにより彼の野望は果たされました。
やがて彼はその手腕を買われ、親会社であるVWに移籍し後には
会長に就任するのですが、その間アウディは次の目標であるルマン
24時間レースに挑戦すべく準備を始めていました。
本当はそのことを書きたかったのですが、ロータリーエンジンのことを
多く書いてしまい紙数も尽きたので今日はこの辺で終わりにします。
次回はアウディのルマン挑戦のことやらをお話したいと思います。
お楽しみに・・・。


★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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