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今出川慕情 vol.4:上山青年のこと

平成29年2月19日
パンタロンな人
古今東西、おしゃれと言えば女性の専売特許で、お猿
さんから分岐した人類創生の原始の時代はさておき、
アダムとイヴがオカラダのある部分を意識的に隠すよう
になって以来、女性は男性に対しより良い自分を見せる
ためにOSHAREをするようになりました。そうでないと
世界の絶対真理としてより優秀な男性はゲット出来ませ
んよね。
ジュリアナ東京2
余談ながら、鳥さんの世界ではそれが逆のようで、オス
がかつてのバブル時代、ジュリアナ東京のお嬢さん方
の如く極彩色の衣装で踊り狂い、メスの気を引くという
珍なる現象が特に熱帯地方のジャングルでは日々延々
と繰り広げられていますよね。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願
います)
戦後復興3
さて、NIPPONです。太平洋戦争の敗北によりアメリカ及
びその連合国によって完膚なきまでに叩きのめされ滅
亡寸前にまで追い込まれた我が祖国NIPPONですが、
幸いなことに占領国が自由の国Americaであったため、
奴隷国に成り下がることなく、かろうじて国体が保たれ
戦後の復興期を経てやがて奇跡の高度成長期を経験
し、今日のNIPPONがあることは皆さん良くご存知の現
代史です。
(関連記事:今出川慕情 vol.2:野尻青年上洛す参照願
います)

戦後の復興期には今までの衣食住をすべて失った国民
はまずどうやって食べるか、どうやって夜露をしのぐかと
いうことが最大テーマでありオシャレなどというコトバ自
体が存在しませんでした。しかしその混沌もやや落ち着
きを取り戻してくると、世の女性は少しずつオシャレに目
覚めるようになりました。
暮しの手帖1
そのような時に、昨年NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデ
ルとなった大橋鎭子とそのパートナーだった花森安治さ
んが創刊した「暮しの手帖」は、戦後の荒廃した日本の
日常生活を憂い、衣食住にわたりその生活文化の改善
及び啓蒙を試み、女性の洋服の直線裁ち等、オカネを
掛けずに女性のおしゃれが楽しめる方法を提案したり
また当時普及しつつあった家電製品を中心とした生活
用品のテストを実施して、読者に公平な評価を伝えたり
して多大な貢献を果たしました。
(関連記事:時事雑感 vol.8:とと姉ちゃんのこと参照願
います)
君の名は4
一方娯楽面においては戦後間もない昭和22年(1947年)
君の名は」がラジオドラマ化され、その放送時間帯は
銭湯の女湯が空っぽになるほどの人気で、やがて昭和
28年(1953年)には映画化され後宮春樹役の佐田啓二
と氏家真知子役の岸恵子がじれったい恋の道行きを演
じました。
君の名は8
ヒット映画にはつきものの副産物として、主演の岸恵子
さんが着用していたショールの巻き方が「真知子巻き」
として当時大流行したことなんか、タバコ屋を含め、皆さ
んもご存知ない遠い昔の出来事だと思います。
(関連記事:島のスイーツ開発 vol.6:舶来レトロ参照
願います)

さてそのようなことで、女性は徐々におしゃれに目覚め
て行くのですが男性はおしゃれとは無縁で、依然として
国民服に毛の生えたイメージのままでした。
VAN-1.jpg
タバコ屋の偏見ながら男性特に若者のおしゃれと言える
ものが芽生えるには昭和40年(1965年)頃まで待たねば
なりませんでした。その火付け役であり推進役だったの
は服飾デザイナーだった石津謙介氏が大阪で創業した
VANヂャケット」でした。
IVY-1.jpg
コンセプトはアメリカ東部のアイビーリーグと呼ばれる
名門大学校の男子生徒が着用し、社会人になってから
も愛用していた一連のトラディショナル(保守的)な上流
階級のステイタスファッションでした。時代を見抜く感性
を持っていた石津氏は、推測ながら渡米時にアイビー
リーグファッションを一目見るなり「これ、パクッた!」と
言ったかどうかは知りませんが、当時ファッションなど無
きに等しかったNIPPONで売ったらメチャ売れるんと違う
やろかと思った筈なんです。
フェアレディZ5
カテゴリーは異なるものの、当時北米NISSANの社長だ
った片山豊氏が初代フェアレディZ開発時に神戸の異端
児でありアバンギャルドであった松尾良彦氏が中心とな
ってデザインしつつあったZのプロトタイプを一目見るな
り「これ買った!」と叫んだのは有名な逸話ながら、石津
謙介氏も同様のヒラメキがあったんではないでしょうか。
ファミリア4
現在NHKの朝ドラで放映中の「べっぴんさん」に於いて
メインテーマであるベビーファッションの「ファミリア」創業
に関わる物語と並行して「VANヂャケット」の創業当時と
思われるストーリーが度々出て来ますよね。その両社
にからむ源流にあるのは意外にも近江商人の出自であ
る佐々木商会(後のレナウン)であったとは驚きです。
みゆき族1
「VANヂャケット」の出現により、また東京銀座のみゆき
通りにVANの店舗を出店したことにより、その追っかけ
ファンがVANの紙袋をもってみゆき通りを徘徊した事が
一つの社会現象となり「みゆき族」なるものが生まれた
りもしました。
平凡パンチ1
それに便乗したと言うか、同様のコンセプトで当時の若
者に圧倒的支持を受けたのが週刊誌の「平凡パンチ」
でアイビーファッションを大々的に取り上げることで当時
ファッションに飢えていた若者はグラビアの悩ましいセミ
ヌード写真等にも煽られて先を争って買い求めたもので
した。
(関連記事:混沌と秩序 vol.3:流通編(後編)参照願い
ます)
生沢徹1
余談ながら、当時ファッションと並行して若者に関心の
あったことと言えばオクルマで特にモーターレーシング
は若者の憧れであり、生沢徹、福沢幸雄(福沢諭吉の
ひ孫)、浮谷東次郎、本田博俊(宗一郎氏のご長男)、
杉江博愛(ひろよし、後年のペンネーム徳大寺有恒)、
等々錚々たる顔ぶれが活躍していました。
VANヂャケットはモーターレーシングにも密接に関わり、
生沢徹(いくざわ てつ)などはそのスポンサーになって
もらっていました。蛇足ながら写真のオクルマは滝レー
シング所属のPORSCHE-910で、当時国内レースで
ワークス相手に生沢徹を擁して大暴れしたマシンです。
201702202.jpg
(後日追加写真)
野尻君よりご提供があり、当時自動車部のバイトで鈴鹿
サーキットへ行った時に幸運にも生沢徹選手からクラブ
ジャンパーの背中にサインを頂き、今でも大切に保存して
いるそうです。タバコ屋が現役時代はベージュのよれよれ
のジャンパーでそれに比べると随分立派なジャンパーに
なっており羨ましい限りです。右胸のホイヤーのロゴワッ
ペンは多分野尻君が個人的に貼り付けたものだと思わ
れます。お宝鑑定団に出品した場合はさていくらのオネ
ダンが付きますことやら。
レーシングメイト2
また、杉江 博愛氏はレーサー引退後、時代のトレンドに
乗っかったカー用品ファッションブランドの「レーシング
メイト」を創業しましたが、経営には素人であったため程
なく破綻してしまい、やがて得意分野のジドウシャ評論
家として再出発し、「間違いだらけのクルマ選び」がベス
トセラーとなり一世を風靡したことで、想像ながらかつて
の「レーシングメイト」時代のトラウマは相殺されたものと
思われます。

そのような時代の真っ最中にタバコ屋は大学生活を送っ
た訳ですが、所詮はボンビー学生ゆえ、体育会の制服と
も言えるガ・ク・ラ・ンをもっぱら愛用し、最先端のファッシ
ョンなどとは無縁の生活を送りました。
JUNロゴ1
一方、世の中は一筋縄では行かないのが常で、アメリカ
上流階級のトラディショナルファッションであるアイビー
がお好きでない方もいらっしゃる訳で、その対抗勢力と
して「JUN」が台頭しました。コンセプトはアンチVANで
ヨーロピアンスタイルのコンチネンタルファッションを基
本とし、アイビーとは全く異なったディテールを売り物に
していました。例えればパンツはアイビーがストレートで
あるのに対しコンチネンタルは裾広がりのパンタロンな
んです。またシャツの襟はアイビーがボタンダウンの立
ち襟なのに対し、コンチネンタルはボタンなどない広襟
といった具合でした。

タバコ屋はこのパンタロンというコトバを導くために随分
長い前置きを書いてしまいました。そのパンタロンです
が、具体的なイメージとしては「太陽にほえろ」のGパン
刑事と言ったところでしょうか。

実は今回のテーマである「パンタロンな人」それはタバコ
屋がかつて過ごした同志社大学自動車部の後輩の中に
も実在しました。「君の名は」と尋ねし時、その人の名は
何を隠そう上山和彦青年その人でありました。
上山君6
同郷で1期後輩の野尻君が撮影して残してくれた若き日
の上山青年です。雪深い福井の今庄から上洛した彼で
すが、まだ恥じらいを残した初々しいオカオです。事実
タバコ屋が4回生の時に1回生だった訳で大きな声で騒
いだりすることのない物静かな好青年であった印象が
強く残っています。この写真は彼が2~3回生の時だった
のかどうか、まだ本格的パンタロンな人と言うよりはその
予備軍といった感じでしょうか。写真提供者の野尻君の
回想によるとこれは鈴鹿で行われたサーキットラリー時
のもので、野尻君は男女5~6名の選抜ドライバーの一
人だったそうです

余談ながら、ご本人の話によると1回生の時、タバコ屋
と同期で九州のラーメン王こと末永氏にガレージのコン
クリート上に正座させられるという手荒い指導を賜わっ
たそうですが当の末永氏はまったく記憶にないそうです。
上山君5
う~ん、中々精悍な面構えになってきました。私服姿な
ので遠征時ではないかと思われますが、右には同期の
細川君、下村君が写っています。下村君はフィギュア競
技で大型貨物車専攻であったためタバコ屋の直接後輩
にあたり、卒部後、彼がおもちゃのキディランドにご奉職
された後、梅田の店へ激励訪問したことがあるのを覚え
ています。
(後日訂正:野尻君よりご指摘がありこの写真は遠征時
ではなく滋賀県で行われたジムカーナ大会時のものだ
そうです)
上山君4
北海道遠征時、青函連絡フェリーの船中ではないかと
思われますが、ヘアスタイルと言い、パンタロンのジーン
ズと言い、だんだんファッションが決まりつつあります。
ちなみに彼は米どころ福井でうまい米を食って育ったせ
いかスクスク成長され180cmはあろうかという長身にて
やはりアイビーよりはパンタロンが似合うと思います。
蛇足の手前味噌ながら、彼の着用しているネイビーの
クラブトレーナーのD.U.A.Cのロゴマークは、タバコ屋が
現役の時にデザインしたものです。こほん。
(追加説明:野尻君よりの指摘で、正確には北海道遠征
の帰路、函館から舞鶴に帰る途中のものだそうです)
上山君1
その後、精悍さはさらに増し「パンタロンな人」の究極の
お姿です。ヘアスタイル、ジャケット、シャツ、パンタロン
とすべてがビシッと決まっていてもう文句の付けようが
ありません。また後ろにドドーンと写っているのが彼の
愛車でSUBARU-1300G・SPORTSです。写真がモノ
クロなので色がわかりませんが実車は黄色だったそう
です。
当時からメカマニアだった彼のお好みらしく誰も買おうと
しなかったSUBARU-BOXERを購入されたことは彼の
偏った趣味を反映していて面白いと思います。多分ヘッ
ドライトはCIBIEに交換されておりタイヤはラリー用の悪
路走行タイプに交換されています。よくもまあこのタイヤ
で日常の走行をしたもので、乗り心地は最悪だったと推
察されます。その後ろには言わばヒッチコック監督のノリ
で下村君と思しき顔がちょこんと写っていますよね。
また右のオクルマは同期の山田君のブルP510-SSS
2ドアクーペで、上山君同様ラリーマスターと思しきごっ
ついタイヤを履いています。
ホンダシビック3
ついでながら、上山青年のその後の愛車遍歴ですが、
卒部後はまずグリーンのHONDA-CIVIC・1200RSを
購入。5速マニュアル、ケイヒンのCVツインキャブ仕様
でHONDAらしくよく回ったそうでそのエンジンは排ガス
対策を施した1.5LのCVCCエンジンとは別物だったの
ではないでしょうか。
うさぎ(マー君)
余談ながら、タバコ屋は彼の卒業後はてっきり婦人服
のアパレルメーカーにご奉職されたものと思っていまし
た。何故かと申しますとタバコ屋の同期はレナウンとか
山陽商会等に就職した者が何人かいたので、そのよう
に思い込んでいたのです。ところが事実は異なり、彼は
当時急成長中だった玉屋とか婦人服の小売りチェーン
の一つである「うさぎ屋」という婦人服チェーン店に就職
されたそうですが、推測ながら誇り高き彼のこと故、数
年でいやになり一念発起退職し、何と公認会計士を目
指し見事合格、今日に至っていると思われます。
HONDA-CIVIC・1200RSはその当時に乗っていたオ
クルマだった訳です。蛇足ながらステアリングは同志社
大学自動車部御用達であった京都・八幡のスクラップ
屋に足を運んで中古のウッドに替えていたそうです。

尚、写真のうさぎさんは上山青年とは直接関係はござい
ませんが、間接的には同釜で3期先輩の平尾センセが
お飼いになっている「マー君」で、まんざら関係がないと
も言えません。平尾センセがマー君を飼い始めた理由と
言うのはタバコ屋も同様ながら、子育ても終わりご夫婦
二人で寂しくなったのでつい近所のペットショップ(デカイ)
で買ってしまったそうです。ちなみにタバコ屋の倅もマー
君なので、やや複雑な心境です。失礼ながらそう言えば
野尻君もマー君でしたよね。
(関連記事:校長先生の青春 vol.2:されどもラリー参照
願います)
グランドワゴン1
その後は再びビョーキがぶり返しSUBARUへと回帰して
行ったようです。車名をご紹介しますと、
まずレオーネツーリングワ ゴン1700cc・ターボ・4WDに
始まりレガシイツーリングワゴン・2000GT(新車)へとご
出世、しかしSUBARU病は収まる気配を見せず、懲りも
せずにレガシイグランドワゴン・ランカスターリミテッド・
2500ccへと発展、これは現在のアウトバックの祖先だ
そうで上山青年が一番のお気に入りのオクルマだった
そうです。
しかしさすがのビョーキもやや変化が見え始め、次には
VWパサートワゴンV6・2800 cc、続いてAUDI-A4アバ
ント・クアトロ・V6・2400ccと遍歴を重ねました。
XC70-1.jpg
人生の表裏を十分経験された後現在はVOLVO・XC70
・5気筒・2500ccをご愛用で、メカマニアの彼らしくブレー
キはブレンボに換装・スタビライザー強化・ブッシュ強化・
マフラーはRモデルのものに換装、交換部品はすべて
アメリカから輸入し、車屋に持ち込んで取り付けてもらっ
ているそうですから、車屋泣かせのOSSANですよね。
その点タバコ屋は丸投げ主義でビス1本自分で触った
ことがないのが秘かな自慢です?。だってクライアント
が自社で決算書まで作られてしまったら公認会計士の
上山センセはオシゴトがなくなってしまうじゃないですか。
旧XC70-3
(後日訂正:上山青年より指摘があり、彼のオクルマは
写真のXC70ではなく一つ前の世代のモデルだそうです。
彼にとっては重大問題なのかも知れませんが、タバコ屋
にとってはどちらでも良いのです。そもそも「ボルボな人」
のイメージとしては知的レベルが高くて、しかも目立ちた
がりではない地味な方で、オクルマに動力性能よりも堅
牢性を望むような人が購入されるイメージがあります。
さて、上山青年にはどの程度そのイメージが当てはまる
ことでしょうか。さらに詳細を知りたい方はみんカラの彼
のスペシャルコーナーである「duac51」をご覧下さい。

ちなみにツタンカーメン発掘のカーター博士でもないで
しょうが、その名前の意味を推察すると、DOSHISHA
UNIV AUTOMOBILE CLUB 昭和51年卒上山です、
と読み取れるんですけど、どうなんでしょう)
マカン13
上山センセお気に入りのVOLVOも最近は飽きてきたら
しく、近いうちに買い替えを予定されているようです。
タバコ屋は先般老婆心ながら、上山青年の次期主力戦
闘機としてSUVのPORSHEマカンをお勧めしましたが・・。
彼のお話によるとマカンは購入時にマカンないので気に
入らないとか?。
(関連記事:終わりなき旅 vol.7:同窓会余話2参照願い
ます)
DSCN7237.jpg
突然の写真で恐縮ながら、これは一昨年の12月、大阪
モーターショーを4人で見学に行った時のものです。その
4人とは、タバコ屋及び同釜同期の平尾センセ、元兵庫
県警のギーちゃんこと森本氏、そして上山青年です。
今では同志社大学自動車部OB会の「ユル・ブリンナー
と言われている彼ですが、今回ご紹介した若かりし頃の
上山青年と現在の彼・・・、このギャップはどうご説明して
良いのやらタバコ屋は言葉を知りません。

その反面、お顔立ちは、蓮如上人を彷彿とさせるような
品格と威厳が出てきたようにように思われるのはタバコ
屋の一人合点なんでしょうか。
DSCN7249.jpg
これは推測ながら、彼がVOLVOのブースでマニアック
な質問をして担当者を困らせているところだと思うので
すが、担当者もわきまえたものでろくに上山青年の質問
には応えてないように思われます。ちょっと~、話し聞い
てんの?。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.1参照願います)

いくら同釜と申しましても、親しき仲にも礼儀ありで、彼
のプライベートについてはあまり立ち入るべきではない
ものの、聞くところによるとチョンガーらしく、今後老後
の茶飲み友達がご所望ではなかろうかと思うんです。
その意味でも、婚活用のオクルマが必要で、前回の記
事で野尻君にも忠告申し上げましたが、ラリーマスター
を履いたオクルマなどは論外でキャデラックかポルシェ
あたりがお勧めですけどダメでしょうか。

今回は野尻君が送ってくれた貴重な写真をもとに同釜
の上山君の青春をお送りしました。いかがだったでしょ
うか。次回は懐かしい香里体育ハウスのことを書いてみ
たいと思います。お楽しみに。

追記:だらだらと書き連ねるうちに、はや4部まで来てしま
いました。実は数日後には松山市主催の「松山の物産と
観光展」が札幌東急で開催され、一週間ほど出張します
ので、記事が書けません。続編は帰ってからということに
なりますので、ご了解願います。

今出川慕情 vol.3:野尻君の青春1

平成29年2月12日
世紀の大発見
これはタバコ屋の偏った歴史観ながら、19世紀末から20
世紀初頭に掛けて、歴史上の2大発見と言えばトロイヤ
の遺跡とツタンカーメンの王墓だと思うんです。
トロイア戦争1
皆さんご存知の如くトロイヤの遺跡はかつて紀元前8世
紀(西洋暦の紀元より800年前)頃に吟遊詩人ホメロス
によって伝えられたと言われる、トロイの木馬で有名な
トロイヤ戦争の前後を描いた神話絡みの叙事詩「イーリ
アス・オデッセイア」の舞台ですよね。
シュリーマン3
当初はあまりにも荒唐無稽な物語であったため単なる
神話と思われていたのですがハインリッヒ・シュリーマン
少年は母親からその物語を聞かされて育ち、これは史
実に違いないと確信するようになり、長じてショーバイに
よる莫大な利益を得た後、発掘に乗り出し、明治6年
(1873年)ギリシャの対岸トルコの南端部にあるヒッサリ
クの丘でついにトロイヤと思われる遺跡を発見したので
した。
トロイア遺跡1
しかし彼はショーバイ人上がりの俄か考古学者であった
ことや、功名心を焦ったため乱掘や発掘品の私物化が
甚だしく、その後ひんしゅくを買い晩節を汚しました。
しかしホメロスの描いたトロイヤの都市が現実にあった
ことを証明したシュリーマンは大したものだとタバコ屋は
思います。尚、シュリーマンはそれ以前に世界旅行の途
中、幕末の動乱期に来日しています。
HONDAオデッセイ2
ちなみに現代のNIPPONにおいて平成6年(1994年)当
時、オクルマの主流がそれまでのセダンや2BOXカーか
らミニバンに移行しつつあった頃、その波に乗り遅れた
我がHONDAは起死回生の策として「オデッセイ」を送り
出しました。想定外の大ヒットとなりその後のHONDAの
屋台骨を支えたのですが、オデッセイという車名はこの
「オデッセイア」から取ったネーミングであったことは皆さ
んご存知でしたか。
ツタンカーメン2-1
一方、ハワード・カーター博士が大正11年(1922年)に
エジプトの王家の谷で発掘したツタンカーメンの王墓は
紀元前14世紀という気が遠くなるような昔に栄えた古代
エジプト時代のもので、若くして亡くなった少年王ツタン
カーメンを葬った墓です。それまでエジプトの王墓はこと
ごとく盗掘されてしまい、完全な状態で保存されている
ものはありませんでしたが、この一大発見により当時の
エジプトの王家の暮らしぶりがどのようなものであった
のかが次第に解明されることになりました。現在では世
界各地で「ツタンカーメン展」が開催されており、皆さん
もご覧になったことがあるのではないでしょうか。

さて野尻君のことです。シュリーマンやカーター博士が
これらの遺跡を発見した時、「これは世紀の大発見だ」
と言ったかどうかわかりませんが、野尻君から最初メー
ルを頂いた後、かつて野尻君が今出川で過ごした青春
時代の貴重な写真が大量に送られて来たのです。
タバコ屋はその大量の写真を拝見して、独り言ながら、
これは世紀の大発見だ!と叫びたい心境でした。

何故かと申しますと、タバコ屋が現役当時カメラというも
のはまだ高級品でボンビー学生が気軽に所持出来るも
のではなく、当時の記録は遠征時とかごく限られた僅か
なものしか残っていないのです。しかし野尻君はお父様
がレントゲン技師だったそうで、撮影技術に長けており、
おまけに自宅には現像用の暗室設備があったと言いま
すからもうプロ並みですよね。そのご子息である野尻君
は自然カメラオタクになったという訳で、その彼のお陰で
タバコ屋の現役時代とも重なる同志社大学自動車部の
数々の懐かしい記録が蘇ることになりました。

長い前置きとなりましたがそれでは断片的ながら野尻
君が4年間を過ごした今出川での青春時代をご紹介さ
せて頂くことにしましょう。
(関連記事:混沌と秩序 vol.2:流通編(前編)参照願い
ます)
duac-03-1.jpg
いきなりの写真で恐縮ながら、これは同志社大学自動
車部の部誌であるDER-WINKERですが、昭和40年代
初期から昭和50年の野尻君の幹部時代までの6冊が
写っています。左下がタバコ屋の期のもので、編集長
は元兵庫県警のコワ~イおじさんで、現役時代のあだ
名はギーちゃんこと神戸っ子の森本氏でした。
7月21日 (1)-1
野尻君の期の第18号ですが、そこに残っている彼の紹
介文によると、カメラ、オクルマ大好き青年だった野尻君
は入部当初、家から持ち出したいすゞベレットに乗って
いたようです。その後ご両親におねだりをして、旧車ファ
ンなら誰でも知っているあの懐かしいTOYOTA-S800を
手に入れることになりました。
7月22日7
これは野尻君が購入当時、ドライブに行った時と思われ
る貴重な写真で、極めて斬新だったタルガトップのS800
(通称ヨタハチ)が写っています。このオクルマは当時の
若者のエントリースポーツカーとして、HONDA-S800と
ともに憧れの的でしたよね。石柱には法然院と彫られて
いますので、京都北西部の鹿ヶ谷にある浄土宗の寺院
の山門付近だと思われます。

ちなみに浄土宗の開祖、法然は鎌倉時代、比叡山での
難しい仏教の修行に嫌気がさし、「こんなもんやってられ
ますかいな」と言ったかどうかは知りませんが、それを
放棄し「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるだけで、衆生
は幸せになりお浄土へ行けるんです、という当時として
は革新的な教えを広めました。同様に比叡山で悩んで
いたのが親鸞で、法然同様「こんなチンケな教え、人間
否定もええとこやんか!」と言ったかどうかは知りませ
んが、親鸞はこの法然の教えに共鳴し弟子となりその
後、浄土真宗を興しました。しかし世の中を乱すものと
して迫害され雪深い越後へ流されましたよね。
その間北陸一帯で布教し、一向衆の勢力が生まれるこ
とになり、やがて織田信長と対立したため長い抗争に
明け暮れた時代がありました。前の記事でお話した柴
田勝家などもその最前線にいた訳ですが、野尻君の住
む北ノ庄、福井の地も禅宗の一大修行寺院である永平
寺(曹洞宗)を擁しているものの、一般庶民にはこの一
向宗が広まったのではないでしょうか。

ついでながら、タバコ屋の家の宗派は浄土真宗です。
タバコ屋の一期後輩の和君こと奥村氏も安芸門徒で
有名な広島の地にお住まいなので、ご実家の宗旨は
浄土真宗の筈です。また同期の平尾センセの宇治の
ご実家の宗派は浄土宗だとお聞きしています。しかし
プロテスタント・キリスト教の流れを汲む同志社大学に
学び、家においては仏教でまつりごとをし、またお祝い
事は神道で行うというこのNIPPON人のチャランポラン
さはいかがなものかと思うと同時に、それはイデオロギ
ーに寛容な民族であるとも言え、争いを避ける知恵で
あるのかも知れません。
1607129.jpg
多分同じ場所で写したと思われる野尻君のS800です。
フロントには第4回と第5回の同志社ラリーの記念カー
バッジが誇らしげに装着されているのが見て取れます。
これはタバコ屋が現役の時、平尾センセ等熱心な部員
を中心に欲張って年に2回開催した時のもので、その後
社会情勢が事故の多発により公道でのラリー開催に否
定的な状況となり程なく警察から開催許可が降りなくな
ったのでその後は同志社ラリーも廃止されました。その
間、タバコ屋にとっては幹部としてリーダーとして、筆舌
に尽くし難い苦くも辛いトラウマもありましたが、もう言い
ますまい。
S800-1.jpg
実はタバコ屋の一期後輩の小西君もこのヨタハチをご
愛用でした。控えめな性格で皆から愛された小西君で
すが残念なことに創部80周年を迎えた頃難しい病気に
なり、その後若くして天国に召されてしまいました。
彼は元気な頃はポルシェを愛し、また晩年にはかつて
WRCを制した往年の名車TOYOTAセリカGT-FOURを
愛用するというカーマニアでした。
1607128.jpg
さてここに一枚の瑞々しい写真があります。この青年が
何を隠そう若かりし頃の野尻君なんですが、白のツナギ
に赤いヘルメットの出で立ちでなかなか決まっています。
野尻君がさりげなく腰掛けているオクルマがまた別格物
で、昭和44年(1969年)タバコ屋が同志社大学に入学し
自動車部に入部した年に発売されたNISSANフェアレディ
S30Zではないですか。当時タバコ屋世代にとってはまる
で「坂の上の雲」のオクルマであり、憧れを通り越して諦
めの存在であったと記憶しています。やや大げさな言い
方をすれば日本版のPORSHE911だった訳で、当時は
京都市内でも滅多に遭遇することはありませんでした。
従いましてボンビー学生がそのオクルマを拝見するのは
今出川キャンパス向かいの書店のおっちゃんのハタキ
を気にしながらカーグラフィックやオートスポーツを立ち
読みするしか方法がなかったんです。

このS30Zは野尻君の説明によると、クラブの先輩のオ
クルマだったようでもあり、正確には記憶不確かだそう
ですが(え~、タバコ屋世代前後の同志社OBでS30Zの
オーナーは聞いたことがなかったけどな~)
それはともかく、フロントバンパーはワークスタイプの一
段下がったものを装着し、シビエと思しき特大のスポット
もしくはドライビングランプがZのあご一杯に埋められて
いますよね。結局これが寝た子を起こす誘発剤となった
のかどうか、その後、野尻君の頭脳に化学反応が起こっ
てしまい、彼が3回生の時憧れのS30Zを入手することに
なるのでした。
サファリP510
余談ながら当時NISSANは世界に打って出ようと目論ん
でいる最中であり、世界に認めてもらう手っ取り早い方
法として、世界ラリー選手権に果敢に挑戦しつつありま
した。我らが裕ちゃんこと石原裕次郎が映画化した「栄
光への5,000キロ」で一躍有名になったDATSUNブルー
バードP510-SSSを擁し、エドガー・ハーマンのドライブに
より、昭和45年(1970年)悲願のサファリラリー総合優勝
を遂げることになりました。
240Zサファリ1-2
続く翌年、昭和46年(1971年)はポルシェ、フォード等他
のワークスチームが打倒DATSUNと言うことでパワーア
ップを果たし、優勝を狙っていました。NISSANはP510-
SSSではパワー競争に勝てないと判断し、発売されたば
かりのフェアレディ240Zを投入したのです。E・ハーマン
H・シュラーの前年同様のコンビは見事な走りでポルシェ
等他のワークスチームを蹴散らし、2年連続での総合優
勝を飾りました。
240Zモンテ6-2
続く翌昭和47年(1972年)雪のモンテカルロラリーで奇
跡の総合3位入賞を果たしたもう一方のヒーローである
ワークスドライバーの名手R・アールトーネン(サイドブレ
ーキターンで有名)の話しによればDATSUN-240Zは直
線では明らかにポルシェ911より速かったそうで、当時
の我等がNIPPON若者としては神様、仏様、240Z様の
心境でした。

このような快挙が、血気盛んなオクルマ好きの若者の心
を捉えない筈はなく、タバコ屋などは当時2回生だったと
思うのですが、カーグラフィックの速報記事を読んで、手
に汗握ったものでした。
(関連記事:今出川でのこと vol.1及び零戦の末裔参照
願います)
7月22日9-1
初志貫徹、遂に野尻君はフェアレディS30Zを手に入れ
たのでしたが、彼の説明によれば 立っちゃん(立命館)
の自動車部先輩からこのオクルマを譲り受けたそうで、
先ほどの白いS30Z同様、当時のZのラリー仕様ファッシ
ョンの定番だったモンテカルロタイプの段差バンパーに
シビエと思しき特大補助ランプを装着していますよね。
野尻君の得意満面な気分が伝わって来ます。
S30Z-3-3.jpg
う~ん、懐かしい新町キャンパスガレージです。タバコ屋
が現役時代はもっとみすぼらしかったと思うのですが、
お色直しがされているようで、庇の壁面には誇らしげに
D.U.A.Cの文字が描かれています。我々の時代までは
エルフの停まっている壁面には窓があったように思うの
ですがなくなっているようです。ガレージを拡幅したのか
も知れません。
(後日訂正:野尻君よりご指摘で、部室はそのままあり、
懐かしい鉄サッシの窓は残っていたそうです)

停まっているオクルマがまた錚々たるもので、正面には
野尻君のモンテ仕様風S30Zがドドーンと鎮座しており、
その横には同じくNISSANのもう一つの憧れのオクルマ
だった後期型スカイライン2000GTが停まっています。奥
のガレージにはミツビシランサーと思われるオクルマが
ジャッキアップされているようです。推測ながら1~2回生
の時は個人車を堂々と部のガレージに停めるなんてこと
は許されないことだったので、恐らくすべて幹部諸兄のも
のと思われます。
(後日訂正:野尻君よりご指摘で、スカイラインは1800GX
だったそうで、オーナーは衛藤君、またランサーGSRは
森君のかつての愛車だそうです)
16071220.jpg
これは推測ながら野尻君が福井のご実家へ里帰りした
時のものではないかと思うのですが、S30Zが一番美しく
見えるアングルから撮影されています。デザイナーはご
存知神戸出身の異端児だった松尾良彦氏で、当時新進
気鋭の若手デザイナーとしてNISSANに在籍し、不評だ
ったピニンファリーナデザインのブル410を改良したば
かりか、新たにSSSシリーズを発案し大ヒットしました。
その実績を買われたせいかどうか、秘かに開発されて
いた次期フェアレディであるS30Zのデザインをまかされ
たという訳です。しかし実際は松尾氏一人がデザインし
たものではなく、数人のチームであれこれアイデアを持
ち寄って最終デザインを決めたようです。ただモチーフ
としてあったのはジャガーEタイプ等の流麗なロングノー
ズショートデッキのファストバッククーペデザインだったと
思われます。
(後日訂正:野尻君よりご指摘で、この家は福井のご実家
ではなく、京都の下宿先の「忠兵衛」だそうで、主将の二
村君や樋口君も住んでいたらしく、タバコ屋世代で言えば
ガレージ向かいの小森酒店のようなもので、溜まり場だっ
たことでしょう。そこに同期の佐々木君と住んでいたタバコ
屋は同期後輩に関わらず、しょっちゅう誰かが出入りをし、
またマージャンなどという亡国の遊びを覚え、挙句の果て
は同期のあだ名付けの帝王佐々木から「チャンタ」などと
言う有難くもないあだ名を拝命してしまいました。お陰で
OB会では現在でも先輩から富永と呼ばれたことはなく、
ええ年こいだOSSANがいつまでもチャンタなんです。
ここだけの話しながら、今となっては出入りした連中に
俺の青春を返せ!と言いたい)
フェアレディアメリカ試走
余談ながら、初代フェアレディZは後年NHKのプロジェク
トXに取り上げられ、また専門誌がさかんに開発秘話を
掲載したためZに関心のあるお方はよくご存知だと思い
ますが、巷間言われているイメージは当時北米NISSAN
の社長だった片山豊氏が松尾良彦氏のZデザインに惚
れ込み、「これ買った!」という鶴の一声でZが出来上が
ったように思われていますが、事実はそうではなく車両
設計部の植村斎(ひとし)氏を中心とする設計陣により
コンセプトから始まり車両レイアウト、車両設計、量産シ
ステム、北米での実走テストに至るまで実施された後に
満を持して発売されたと言うのが真実です。尚、写真の
テンガロンハットを手に持っていらっしゃるのが植村氏
その人です。
フェアレディZ2
結果として世界一売れた!スポーツカーが我がNIPPON
から生まれた訳で、タバコ屋は一NIPPON人としてその事
を今でも誇りに思っています。ただその後のZについては
タバコ屋の期待をことごとく裏切り続け現在のチンケなZ
(オーナーには失礼)に至っているのですが、老いてます
ます盛んな松尾良彦氏も多分現在のZを嘆いていること
だと推察致します。タバコ屋と松尾氏がイメージするZとは
最新のテクノロジーで武装した、軽快かつ颯爽としたスポ
ーツカーですから。
(関連記事:東京大紀行 vol.3:上板橋にて参照願います)
16071221.jpg
野尻君のS30Zに戻ります。もうラリー好きの若者の好き
そうな基本アイテムはすべて揃っていて、フロントのモン
テ風ワークスタイプバンパーはもとより、フェンダーに貼
られているDUNLOPのステッカーが示すように、タイヤは
悪路走行用のラリータイヤに交換されています。
またホイールは当時珍しかった(ということは高価だった)
アルミホイールを履いています。車高は標準よりやや上
がった感じにてなかなか精悍です。多分ダンパーは固い
はずです。マッドフラップもセンス良く装着されていて、
当時の野尻君にしてみれば「どっからでも掛かって来い」
のご心境だったのではないでしょうか。

ただしタバコ屋の老婆心ながら里のご両親にしてみれば、
倅の雅人はこげな妙なクルマを乗り回していて、京都で
何か悪いものでも食べたのではなかろうかとご心配され
ていたことと推察致します。
大統領専用キャデラック3
事実、野尻君が帰郷後ご縁があってご結婚されたフィア
ンセは「このクルマ何だか変!」と言われたのかどうか
知りませんが、「こんな固いのいやや」とブーイングに逢
い、野尻君は涙ながらに愛車Zを手放したとお聞きして
います。野尻君に忠告しておきます。女性を乗せる場合
はキャデラックが一番なんです。このオクルマなら誰だっ
て気に入って頂けます。オードリーだってジャクリーン妃
だってはたまたトランプ夫人だって、キャデラックがお気
に入りなんです。蛇足ながら、写真のキャデラックはアメ
リカ大統領専用車なので、対テロ用にドアが金庫のよう
に分厚いですが、普通のキャデラックはこんなに大げさ
なものではありませんので念のため。こんなぶっといドア
レディではご自分で開けられないっちゅうの。

ただしタバコ屋の場合は、西山先輩がミナミですき焼き
おごったるわと言う甘言に惑わされて先輩のキャデラッ
ク・エルドラドを大阪まで走らせたという単純な理由に
過ぎませんが・・・。バカですよね。
(関連記事:今出川慕情 vol.2:野尻青年上洛す参照願
います)
240Zモンテ4
タバコ屋にとって初代フェアレディZのことを書き出すと
同級生の山本リンダ嬢でもないでしょうが「もうどうにも
止まらない」と言うことになり、卒業論文2個分くらいに
なってしまいますので、野尻君はもとより、読者の方々
にご迷惑を掛けてしまいます。本日は紙数も尽きたよう
なのでこれくらいにして、次回以降また野尻君の青春を
ご紹介したいと思います。ついでながら、次回は野尻君
にとってもタバコ屋にとっても少なからぬご縁があり、同
志社大学自動車部の同釜である上山青年のことを少し
お話ししてみたいと思っています。お楽しみに。

今出川慕情 vol.2:野尻青年上洛す

平成29年2月7日
やや古いお話しになりますが、今から150年も前、それ
まで250年余りも続いた江戸徳川幕府は明治維新とい
う革命ないしはクーデターにより薩摩、長州、土佐、肥
前いわゆる薩長土肥の新勢力に取って代わられました。
八重の桜3
その間「勝てば官軍」の諺通り旧幕府勢力は賊軍とし
て追われ特に会津藩の如きは腰抜け徳川家の言わば
身代わりとして壮絶な戦いをしたものの、最後は悲惨な
結末を迎えたことはNHK大河ドラマ「八重の桜」で放映
され、またそのストーリーが同志社大学のルーツに関わ
る歴史ドラマでもあったので、皆さんよくご存知の事です
よね。
(関連記事:八重のこと vol.1 vol.2 vol.3及び(付録)
参照願います)
元寇11
尚、その時何故徳川が腰抜けだったのかという疑問を
皆さんお持ちだと思うのですが、そもそも尊王攘夷の思
想は遠く南宋時代、蒙古(夷)に追われた漢民族が南へ
逃れ、南宋を興したのですが、悔しくてたまらず、尊王
攘夷(宋の君主を敬い、夷(えびす=蒙古)を打ち払え
という思想)を書物に残したのです。それが日本に伝わ
り、よりによって徳川の親藩である水戸藩がその思想を
研究、奨励した(いわゆる朱子学)のですが、維新前夜
にはその水戸藩出身の徳川慶喜が江戸幕府の頂点に
立った訳です。
ペリー来航4
皮肉なことに当時幕府は長き鎖国時代を経て、西洋列
強国から開国を迫られており、力の差から言って攘夷
どころではない状況下にありましたが、倒幕勢力は水戸
藩自らが推進した尊王攘夷思想を突き付けて打開を迫
った訳で、徳川慶喜としてはその金科玉条に対してすで
に腰が引けており、当時圧倒的軍事力を有していたにも
拘わらず、大政奉還はもとより、鳥羽伏見の戦いに際し
ては一夜にして大阪から逃亡し江戸へ逃げ帰ったと言う
お粗末な歴史の一ページが生まれたという訳です。でも
その身代わりとなった会津藩はたまったものではないで
すよね。タバコ屋ならずとも「責任者出て来~い」と叫び
たくなります。
白虎隊3-1
私見ながら、徳川慶喜は維新後も生き長らえたようです
が、トップリーダーとしての資質において、たとえ有能だ
ったとしても会津藩をむざむざ維新の生贄にしたその生
き様は男の器量として許されるべきものではないとタバ
コ屋は今でも思っています。

さてその維新時に越前福井藩は徳川の親藩であったも
のの一転、官軍に味方したため維新後は波風立てずに
すんなり明治政府に溶け込めたのでした。その背景に
はタバコ屋の推測ながら、親藩であったにも拘わらず、
江戸時代後期には随分幕府からいじめに逢ったようで、
その恨みが反幕府へと動く遠因になったのかも知れま
せん。
日露戦争3
一方同じ親藩でも伊予松山藩は最後まで抵抗したため
一時は土佐藩に占領され惨めな思いをすることになる
のですが、旧松山藩の連中はろくな仕事にもありつけな
い中、今後は子弟の教育によって活路を開くしかないと
判断し力を注ぎました。その結果明治期を代表するよう
な3人、即ち近代俳句の祖、正岡子規、及び日露戦争を
勝利へと導いた秋山好古、真之兄弟を輩出することに
なりました。詳しいことは司馬遼太郎さんの小説「坂の
上の雲」に書かれていますのでお読み頂きたいと思い
ます。
(関連記事:博多・熊本巡礼 vol.3:蒙古襲来参照願い
ます)
鉄道馬車1
なぜ長々とこのようなお話をするかと申しますと、明治
維新当時、官軍側、賊軍側にしろ世の中がゴロッと変
わった訳ですから「文明開化」という新しい国づくりのた
めにそれこそ熱病にうなされた如く突っ走ったものと思
われます。ただ皮肉なことに維新のスローガンは尊王
攘夷(西洋を打ち払う)だったのに維新後は逆に西欧化
を推し進めたことですが、そうしなければNIPPONは中
国同様西欧列強の餌食となっていたでしょう。
戦後復興1
時を経て、あの悲惨な太平洋戦争の終結後、滅亡寸前
まで追い込まれたNIPPONは「戦後復興」という名のもと
明治維新の時と同様、再び熱病にうなされた如く突っ走
りやがて奇跡の高度成長期を迎えることになりました。
(関連記事:初夢、イノベーション・オブザイヤー vol.1
参照願います)
三波春夫1-1
我々万博世代(タバコ屋の造語です)は多感な時期に東
京オリンピック、新幹線、名神高速道路、大阪万博を経
験した訳で、高度成長期の申し子と言っても差し支えな
いと思うのです。しかしその熱病の歪は戦後の団塊世代
に表れ、安保闘争以降、全学連とか全共闘とか言った
過激な大学生を中心とする若者が社会の改革を訴え、
最後は実力行使にて東大を始め京大、同志社等全国の
主だった大学を占拠し機能マヒに陥らせたのでした。
東大安田講堂1-1
タバコ屋は運の悪いことに大学受験がちょうどその時期
昭和44年(1969年)に当たり、入学試験は何とかあった
ものの入学後は学内封鎖状態の中、期末試験はすべて
妨害されレポートで済ませるという異常事態が続きました。
今から思うと当時の過激な学生は思想はともかく、具体
的な要求と言えば学費値上げ反対とか次元の低いもの
が多かったような気がします。しかしやがてその騒動も
1~2年で治まり元の学生生活が送れるようになりました。

その間、一般教養課程の授業は行われていて、商学部
であったタバコ屋は平山玄センセの「経済原論」などとい
うカビ臭くアクビを連発しそうな講義に失望し、反面春の
入部勧誘時にはそれこそサギのような甘言でフラフラと
入部してしまった体育会自動車部というところに身を置
き、失望した講義内容への反動もあって以後4年間部活
動に邁進することになりました。タバコ屋は今でも商学部
及び自動車部の2つの学部を卒業したと思っています。
(関連記事:東京大紀行 vol.4:ウォーターフロント参照
願います)

それはさておき野尻君のことです。彼は4期後輩に当た
りますのでその激しかった大学紛争も沈静化した昭和
48年(1973年)、タバコ屋が卒業するのと入れ替わりに
雪深い北ノ庄(福井)から上洛し入学された訳ですが、
1期上には同郷の上山君がいて今出川キャンパスでの
入部勧誘時に声を掛けたのかどうか、ただ上山青年は
生まれてこの方「甘言」というコトバを知りませんので、
多分他の誰か「人たらし」部員に言いくるめられて入部
されたことと推察します。
(関連記事:異説:007私を愛したスパイ参照願います)
ホンダ・北アメリカ本社
恥ずかしながらタバコ屋は当時、明治期の正岡子規や
秋山兄弟がそうであったように、青雲の志とはいかない
までもHONDAオハイオで自分の能力を試してみたいと
言う儚い夢がありましたが、田舎で待つ養父母のことを
思うとそれも果たせず、先代の友人の広島江田島でご
商売をされている店へ丁稚見習いという形で出奔する
ことになり、自動車部とは一旦ご縁が遠くなってしまいま
した。そのような訳で入れ替わりに入部された野尻君と
は全く面識がなかったのです。
(関連記事:オハイオの夢参照願います)
8 KIU RALLY
その点、このブログの常連出演者で同期同釜の元校長
平尾センセは京都在住にて現役部員やOBの方々とも
途切れることなく交流していましたので、野尻君のこと
は知っていた筈です。また平尾センセはことラリーに関
しては「同志社に平尾あり」と言われた凄腕だったゆえ、
当時の野尻君もややビビリながら遠目で見ていたと推
察されます。
(関連記事:校長先生の青春 vol.1:ラリーへの熱き思い
参照願います)

かく言う我々48年組も大阪のパチンコ王であった故西山
先輩がガレージへSOLEXで武装したラリーチューンの
NISSAN510-SSSや、あるいは黒塗りのキャデラックで
乗り付けたりすると相当ビビッたものです。
キャデラックエルドラド
余談ながら、その西山先輩がガレージに来訪された時
「これから大阪へ帰るんやけど、誰か俺のキャデラック
運転してくれへんか」と仰いました。さっと手を上げた部
員がいて、「そしたらおまえ大阪まで頼むわ」と言われた
のは良かったものの良く考えたらその日の午後の授業
をすべてサボルことになったバカな部員がいました。
何を隠そう、「君の名は」と問うまでもなくその部員とは
「島のタバコ屋」でした。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)

野尻君が入部したのはタバコ屋が卒業して間もなくで
あったので、ガレージは新町キャンパス隅、小森酒店の
向かいにあり、また部車の構成内容も変わってなかった
と思われます。ただその後タバコ屋は他の同期生と同様、
実社会への適応に忙しく、自動車部とはかなり遠ざかっ
ていたためその後の経緯がほとんどわかりませんが、
新町ガレージは若干のお色直し?のあと岩倉に移転し
その後は新設なった広大な京田辺キャンパスの一角へ
移転しました。
(関連記事:京都・静岡巡礼 vol.1:今出川慕情参照願い
ます)
IMG_4406-1.jpg
今から30年以上も前になると思うのですが、同志社大学
自動車部創部50周年大会の時だったかどうか、同期が
誘い合ってその京田辺ガレージを見学に行った事があ
りました。それこそ出来立てのピカピカで、おまけに隣接
してメチャ広い舗装!の練習グラウンドを備えており、
我々が現役時代の狭く老朽化したガレージ、部室とは
雲泥の差にて、溜息混じりで羨ましく思った懐かしい記
憶があります。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.3参照願います)

例によって野尻君上洛までの前置きが随分長くなってし
まいました。野尻青年上洛後の今出川での出来事につ
いては次回の記事にて詳しくお話しすることに致します。
お楽しみに。

追記:ここだけの内緒話ながら、野尻君からは膨大な量
の写真、その他の資料をお預かりしていますが、一気に
ご紹介したいため今回は敢えて掲載しませんでした。
出し惜しみではございませんので念のため。

今出川慕情 vol.1:プロローグ

平成29年2月4日
それは昨年7月、島のタバコ屋手帳に、ある一通のメー
ルが送られてきたことに端を発します。そのメールとは
同志社大学自動車部時代の後輩である、福井在住の
野尻君からでした。彼は昭和52年(1977年)卒ですの
で、タバコ屋よりも4期後輩ということになります。
IMG_3663.jpg
タバコ屋のイメージとしては、NOJIRIと言う名前は我々
の神(GOD)であり、現在同志社大学体育会自動車部
といういかつい名前の組織のOB会副会長をされている
野尻先輩のビッグネームと言うことになるのですが、
そのようなことで最初野尻君からメールを頂いた時は
ややビビりました。ひょっとして野尻先輩の従兄弟か、
甥っ子ではないのかと。しかしそれは間もなく杞憂に終
わりました。
(関連記事:終わりなき旅 vol.3:宴のあとさき参照願い
ます)
DUAC80thロゴマーク
その彼のことです。現在は郷里の福井で家業のコンクリ
ート2次製品や生コン製造(要するにコンクリート製品の
デパート)会社の社長をされていて現役バリバリの実業
家であり、お話しによると息子さんも親子揃って同志社
MANだそうで、現在後継者としてご一緒に活躍されて
いる由、理想的なパターンですよね。多分彼は福井で
は名士と呼ばれるカテゴリーに属しているのではない
でしょうか。
浜矩子2
福井の地は同志社大学自動車部とはよっぽどご縁が
あるのかどうか、野尻君の1期上の先輩にはタバコ屋も
親しくさせて頂き、またタバコ屋のブログでも常任コメン
テーターとして鋭い舌鋒を振るわれている公認会計士
の上山氏がいます。彼はユニクロ亡国論で有名な同志
社大学大学院教授の浜矩子(のりこ)女史か、あるいは
憂国の政治評論家、桜井よし子女史に匹敵する論客に
て(タバコ屋の私見)、上山センセの論文によりNIPPON
の将来が大きく変わろうかという程の有能かつ過激なお
方です。ちなみに彼の論旨は「資本主義自己中論」です。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.1及びvol.2
参照願います)
柴田勝家2
さて皆さん意外に思われるかも知れませんが、福井と
タバコ屋の地元である松山とは深いご縁があるのをご
存知でしたか。古いお話しで恐縮ながら、今から400年
も前の戦国時代には越前の国、北ノ庄(福井)は朝倉
氏が治めていたものの全国制覇を目論む織田信長に
より滅ぼされ織田軍北陸方面総司令官だった柴田勝家
が北ノ庄を本拠地としました。
お市の方3
その後勝家は、朝倉氏攻略の際、朝倉氏に加担したた
めこれまた信長により滅ぼされた浅井氏のもとへ嫁い
でいた信長の妹で当代随一の美女と謳われた「お市の
方」と結婚した訳ですが、最後は秀吉との壮絶な権力闘
争の末、お市の方ともども滅び去ったという悲しい物語
があります。

どうでもよいことながら、「お市の方」という超ブランド品
を妻にめとった勝家は戦に明け暮れる荒武者だった故
に高貴な女性の扱いには慣れてなかったはずで、さぞ
かし気苦労が多かったものとタバコ屋は推察致します。
えてしてこの手の女性は扱いにくい一面があるもので
すが、同志社自動車部OBの中にもそういうご経験をさ
れた方がいらっしゃるかも知れません。
(関連記事:終わりなき旅 vol.4:姫路での再会参照
願います)
結城秀康2
時は移り江戸時代の初期、関ヶ原の戦いで武勲のあっ
た徳川家康の次男結城秀康が北ノ庄の地を治めること
になりました。秀康は家康の子供の中で最も優秀だった
と言われており、一旦は秀吉の養子となりその後結城
家の婿養子となった経緯がありますが、江戸幕府となり
北ノ庄に赴任した後は、姓を松平姓に改め越前松平家
を興しました。
IMG_4385.jpg
一方伊予の国松山は戦国時代、安芸の国(毛利氏及び
小早川氏)の勢力下にありましたが、関ヶ原の戦い後、
武功のあった加藤嘉明が治めることになりました。以降
紆余曲折があった後、桑名藩の当主であった松平定行
が松山藩を治めることになったのですが、松平定行は
父定勝が徳川家康の異父弟であったため家康の甥っ子
にあたり、福井藩の始祖である結城秀康(松平秀康)と
は従兄弟になる訳です。福井藩と松山藩には深いご縁
があると申し上げたのはそういう理由によるものです。

以後福井、松山両藩は明治維新まで続くのですが、双
方がどのような交流があり親戚付き合いをしていたのか
についてはタバコ屋は知る由もありません。
タルト3
余談ながら、伊予のお殿様松平定行公はなかなかアイ
デアマンであったらしく、長崎の警護を仰せつかった時
長崎の地で見かけた南蛮渡来のスイーツ「タルト」を松
山に持ち帰った後、元々パイのような形状であったタル
トをロール巻きにし中にあんこを入れるという斬新な改
良を施し、松山藩の銘菓として普及させたという逸話が
残っています。今ではその「タルト」が愛媛・松山を代表
するスイーツとなり、かつてはタバコ屋の高校時代の先
輩である伊丹十三氏がユニークな伊予弁でそのCMに
一役買った時代もありました。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.2:松山編及び
島のスイーツ開発 vol.3:続タバコ屋のお気に入り参照
願います)
マイカル宇多津2
また私事で恐縮ながら、前の記事でタバコ屋がかつて
ニチイ(マイカル)の主宰するボランタリーチェーンNAC
に加盟していたことは申し上げました。その間タバコ屋
が島興しのためもあって特産品のみかんを全国に販売
する事業を立ち上げるにあたり、チェーンの仲間の方々
にも買って頂く運びとなりました。その際当時福井県や
お隣の石川県でスーパーを展開されていた「だいとら」
さんその他のお店にみかんを買って頂いた懐かしい思
い出があります。今となっては20年以上も前のことであ
り記憶も薄らいでしまいましたが、訪問した時は南国の
中島とは異なり雪深い地であったような色褪せた記憶
があります。
(写真はマイカルの店舗で直接関係ありません)
(関連記事:東京大紀行 vol.4:ウォーターフロント参照
願います)

またお取引はなかったものの、経営者育成セミナーで
同期だった金沢の三崎君(三崎ストアー)等も懐かしい
かつての仲間でした。他の同期には帯広の「六花亭」
さんや静岡の「ちゃんこ江戸沢」さんなんかもいて、僅か
1年間のお付き合いでしたが島のタバコ屋にとっては貴
重な体験となっています。当時は若かった三崎君も今
ではいい年こいだOSSANになっていると思うんですが
今頃どうしているんだろう?。

長い前置きとなりました。そのご縁のある北ノ庄、福井
から、しかも同志社大学自動車部の後輩野尻君から届
いた一通のメールを巡ってその後驚愕の過去が次々に
明かされることになります。長たらしい記事になるといけ
ませんので本日はこの辺で失礼致しますが、詳しいお
話はVOL.2以降にさせて頂こうと思います。お楽しみに。

★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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