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福井巡礼 vol.5:ああ旧車よ(中編)

平成29年6月22日
今回いよいよ昭和40年代のオクルマ達を見て回ること
にします。タバコ屋達、巡礼団4人衆はやっとの思いで
大聖堂の奥に静かに佇む聖母マグダラのマリアならぬ
初代フェアレディZ432にご対面です。
マグダラのマリア1
一部ワタナベのホイールやシビエのヘッドライト以外は
ほぼ発売当時のオリジナルの状態が保たれていました。
ボディカラーはZ432純正色なのかどうか、朱赤のような
カラーでしたが、S30Zの純正色であるグランプリ・レッド
とはやや異なっているように見受けられました。
DSCN3547.jpg
マグダラのマリア様のおなかの中味を拝見することなど
罰当たりで恐れ多いことながら、多分エンジンルームは
このようになっていると推察されます。言わずと知れた
S20エンジンで、日産に合併する以前のプリンスが開発
したプロトタイプレーシングカーR380に搭載されたレース
用GR8型エンジンをデチューンしたものですよね。
S20エンジン1
スペックはZ432の由来でもある4バルブ、ソレックス3キャ
ブレター、ツインカム(DOHC)で160馬力を発生しました。
当時としては夢のようなエンジンでタバコ屋世代はただ
ただ「仰げば尊し」の存在でした。しかし実際は相当ナー
バスなエンジンで調整が難しく、またZに搭載した場合は
車体の剛性が低いため高速で振動が激しくなる欠点が
あり、レースでは実力を発揮出来ませんでした。つまり
(私見ながら)相性が悪かったということです。

Z432の名誉のために申し添えますとタバコ屋の所属す
るクラブS30のお仲間でANAの国際線パイロットである
某氏の愛車Z432は完璧なチューニングで素晴らしい状
態と性能を保たれています。稀なことでしょうけど。
DSCN3549.jpg
この博物館は粋な計らいがされていて、ナンバープレー
トに登録年月日が表記されているんです。即ちこのオク
ルマは日本製で昭和45年(1970年)に登録されたという
ことです。初代フェアレディZが発売されたのは昭和44年
(1969年)ですから、発売1年後のオクルマということでし
ょうか。

昭和45年と言いますとタバコ屋が同志社大学自動車部
2回生でしかもハタチの頃ということになり、今や当時の
思い出はセピア色に褪せてはしまったものの、人生で
最も多感な時期ではありました。
フェアレディZ5
当時は高度成長時代、モータリゼーションの真っ只中で
戦争で打ちのめされたヒコーキ産業にかわりNIPPONが
カデン産業と共に今後の国の夢を託したジドーシャ産業
が熱にうなされた如く開発に明け暮れた時代で、目まぐ
るしいくらいに次々と新しいオクルマが発売されましたが、
その中でも一際異彩を放ったのがフェアレディZでした。
フェアレディアメリカ試走-1
その開発背景として当時北米NISSAN社長だった片山
豊氏の国際的視野に立った新型スポーツカーの開発
要請に基づき、基本コンセプトの具体化及び車両設計
は東大卒の優秀な設計技師だった植村斎氏を中心と
するチームが、またデザインは神戸生まれの異端児、
松尾良彦氏を中心とするチームが担当し、何と、東洋
の小さな島国からやがて世界を席捲するスポーツカー
が生み出されたのでした。尚、写真中テンガロンハット
を持たれているのがZ開発の中心人物、植村氏です。
片山豊氏Z-2
ちなみに片山豊氏がZの開発を促すにあたり、そのイメ
ージとして伝えた言葉は「ジャガーEタイプみたいなスポ
ーツカー作ってよ」だったそうです。写真は後日片山氏が
アメリカでは発売しなかったロングノーズのZGを日本か
ら取り寄せご自分の愛車としてモディファイしたものです
がある意味ジャガーEタイプよりデザインも性能も洗練さ
れたものとなり、「Z生みの親」である片山豊氏ご自身は
面目躍如たるものがあったと思います。
フェアレディZ2
結果として販売開始直後からアメリカで大ヒット、1978年
までの10年間で世界総販売台数55万台(日本国内は8
万台)という空前の大記録を打ち立て、ジャガー、ポルシ
ェ等世界の強豪を押しのけて世界で最も売れたスポーツ
カーとなりました。当時ジャガーやポルシェは1万ドル以
上したのですが、初代フェアレディZは約3分の1の価格
3,600ドル前後と、当時世界一の文明国アメリカに於いて
は一般庶民でも無理をすれば手の届く価格だったことか
ら、プアマンズポルシェまたは秘書などを務めるやや上
級のオフィスレディがよく購入したことからセクレタリーズ
カーなどと陰口を叩かれたこともありました。
(しかしあの重いステアリングを秘書のお嬢ちゃんはど
うやって乗りこなしたんだろう?)
240Zサファリ1-2
またNISSANは満を持して発売したこのフェアレディZを
当時宣伝目的もあって積極的に参戦していた国際ラリー
に投入しました。特に世界で最も過酷なラリーと言われ
たサファリラリーにおいて初参戦の昭和46年(1971年)
E・ハーマン、H・シュラーのコンビは見事な走りでポルシ
ェ、フォード等他のワークスチームを蹴散らし、前年の
ブルーバードP510の優勝に続き2年連続での総合優勝
という快挙を成し遂げました。
240Zモンテ11
続く翌昭和47年(1972年)雪のモンテカルロラリーでは
名手R・アールトーネン(サイドブレーキターンで有名)は
狭く曲がりくねった道路でのハイスピード走行には不利
なロングノーズ、FR車のZを駆り天才的なドライビングに
より奇跡の総合3位入賞を果たしました。彼の話しによ
ればDATSUN240Zは直線では明らかにポルシェ911よ
り速かったそうで、当時の我等がNIPPON若者衆として
は神様、仏様、240Z様の心境でした。
240Zモンテ5-1
このような快挙が、血気盛んなオクルマ好きの若者の
心を捉えない筈はなく、タバコ屋などは当時大学2回生
だったと思うのですが、カーグラフィックの速報記事を読
んで、手に汗握ったものでした。
240Z-1.jpg
一方、国内では当初PRINCEの桜井真一郎氏を中心と
するワークスチームが開発したレーシングカーR380の
流れを汲むツインカムのS20エンジンを搭載したZ432を
国内レースに投入したものの振動が激しく思うような性
能が発揮出来ずその後NISSAN製のL型SOHC2.4Lエン
ジンに換装してからは目覚ましい活躍を見せ、当時の
NISSANワークスドライバー北野元選手(京都出身)が
昭和48年(1973年)全日本鈴鹿1000kmレースにおいて
総合優勝を飾ったことなど今となっては懐かしい思い出
です。
フェアレディZ9
ついでながら日本国内では2LのS30Zと高性能なツイン
カム仕様Z432の2タイプが売られたのですが広大なアメ
リカでは高速巡航性能重視のため排気量を2.4Lにアップ
した240Zが販売され「DATSUN・Z(ダッツン・ズィー)」また
は「Z・CAR(ズィー・カー)」の呼び名で親しまれました。
当時のアメリカでのNISSAN車はDATSUNブランドで売ら
れていたのです。
ダットサンエンブレム4
余計なことながら後日談として、NISSAN首脳はブランド
統一(CI再構築)のためDATSUNブランドを廃止しました
が、結果としては大失敗で販売ががた落ちとなりました。
タバコ屋に言わせれば机上またはコンサルが進言する
CIの統一などと言うものは吐き違いをしていてむやみに
ブランドを変更したりするものではないのです。何故かと
言えば、そのブランド醸成には長い年月が掛かっており
それ自身の自己証明書みたいなものだからです。
NISSANにとっては極めて恥ずかしいことに今ではブラ
ンド変更の失敗例として大学のセンセの講義材料にな
っているそうですから、悔しいですよね。

タバコ屋の独り言、「当時の日産の責任者、出て来い
と言いたい。「おまえら、何してんねん!」と言いたい。
4才から前垂れ掛けて道端の草にまで「こんにちは」と
言って来たタバコ屋にしてみれば、こんな商いの大切な
基本を無視するようなアホな決定を誰がしたんやと責め
たい気持ちになってしまいます。

前回の記事同様、再びクールダウンが必要ですが、それ
はもう言いますまい。さて上記の如くNIPPONの夢を託し、
アメリカで爆発的な人気を勝ち得たポクらの240Zでした
が、当時ボンビー学生だったボクら、即ちタバコ屋達は
国内仕様のS30Z、輸出仕様の240Zなんて和製スーパ
ーカーであり、まして購入なんて夢のまた夢で、言わば
「坂の上の雲」のオクルマでした。
フェアレディZコクピット1
ちなみに日本国内での販売価格が当時90万~100万程
度、アメリカでの価格が排気量が違うにしても130万程度
だった訳で、今の価格に換算すると550万~600万くらい
になるので、やはりボンビー学生などお側に寄れるオク
ルマではなく荒稼ぎして銀座、キタあたりで豪遊している
お兄さんか、もしくはえーとこのボンが親にねだってお乗
りになるシロモノでした。

たとえ買えはしなくても、当時のタバコ屋を始めボンビー
な若者の憧れとしてフェアレディZは存在していたように
思います。
DSCN3548.jpg
以上長たらしい解説はさておき、ヘッドライトはシビエ製
に換えられていました。実は当時の照明技術は今から
思えばショボイものでヘッドライトはもとよりコクピットの
各種計器類の照明もろくに役に立たないくらいのレベル
でした。このオーナーもたまりかねてシビエに換装され
たのだろうと思うのですが、確かにハロゲンランプでは
シビエと言うのは一流ブランドで、我らボンビー学生もか
つて憧れた一品でした。
シビエ1
余談ながら、先般元祖宇治のアオリイカ大魔王こと平尾
センセに、タバコ屋の赤いお嬢ちゃんのヘッドライトが暗
いとグチを漏らしたところ、さっそく煽り攻撃を受け、シビ
エのヘッドライトを買わされました。いつ装着するか迷っ
ているところです。また大阪豊中の別のアオリイカ青年
からは手持ちのシビエドライビングランプを親切にもご送
付頂いたのですが、サイズが巨大過ぎて装着を断念しま
した。
さてフェアレディZの評価です。その栄光の歴史と現車の
素晴らしい保存状態には「超アッパレ!」なんですが、
これほどの博物館にS30(2L版)もしくはHS30(240Z)が
無かったことには「喝!」でしょうか。

蛇足ながら、初代Zはその後アメリカの厳しい排ガス規
制の洗礼を受け、また徐々にゴージャスなGTの方向に
軌道修正された結果、片山氏、植村氏、松尾氏、ひいて
はタバコ屋達が夢見た颯爽としたライトウエイトGTカー
のコンセプトは壊れてしまい、現在のだるくて重々しい
Zに成り果ててしまいました。タバコ屋の激しい失望は
皆さんのご想像に任せることに致します。
DSCN3604.jpg
次に初代フェアレディZと共に、昭和40年代を代表する
オクルマ界の2大スターの一台である3代目スカイライン
2000GTのコーナーに行く前にそのお父さんである2代目
スカイライン2000GTを見ることに致しましょう。
写真はスカイライン2000GT-AかBか確認し忘れたので
すが、外観のイメージからは想像がつかないほど速い、
そうしたクルマのキャラクターを示すのに「羊の皮をかぶ
った狼」という言葉が初めて使われたと言われているの
が、昭和39年(1964年)に誕生したスカイライン 2000GT
-A/Bです。Aタイプはシングルキャブなのに対しBタイプ
はウェーバーキャブ3連装で武装した高性能版で、個人
的にはこのBタイプこそが「羊の皮をかぶった狼」に相応
しいと思います。
2代目スカイライン4-1
コクピットにしても、まるで零戦のそれを移設したような
ビジネスライクなもので、タコメーター、スピードメーター
を中心に、油圧、電流、水温、燃料の各種計器を配した
その出で立ちは、タバコ屋世代にとってはそのスパルタ
ンなムードと共に決して忘れられない室内風景です。
ステアリング中央には誇らしげにPRINCEのロゴが貼ら
れていて、まるでイタリアの毒サソリ、アバルトを彷彿と
させますよね。
第2回日本GP-3
余談ながら、そもそも2代目スカイラインは昭和30年代
後半から過熱しだした自動車メーカー(ワークス)同士の
戦い、即ちその集大成であり絶好の宣伝ともなった日本
GPに勝利を収めるべく各社しのぎを削る中で、プリンス
が第2回日本GP(昭和39年(1964年)開催)に於いてGT
-II(1001〜2000cc)のカテゴリーでクラス優勝を果たす
ために開発されたオクルマでもありました。1500ccクラス
のボディに2000ccのエンジンを無理やり押し込んだので
すから、当然高性能となり、実際のレースでは式場壮吉
氏のPORSCHE・904VS生沢徹氏のスカイライン2000GT
との一騎打ちとなりました。
第2回日本GP-2
理論的にも実際も式場壮吉氏のPORSCHE・904の圧勝
となったのですが、途中一瞬ながら生沢徹氏のスカイラ
イン2000GTがポルシェを抜いたラップがあり、そらもう当
時の観客は総立ちで、単純にもプリンスがPORSCHEに
勝ったなどと勘違いをしたのですがそもそもレース目的
に開発されたプロトタイプスポーツカーのPORSCHE904
にフツーのセダンであるプリンス2000GTがどんなに逆立
ちしようとも勝てるはずがなかったのです。
第2回日本GP-1
しかしイメージというのは恐ろしいもので、その第2回日
本GPにおいて一周なりともプリンスがPORSCHEを抜い
たという事実のみが誇張され、いわゆる「スカイラインは
我らの神なり
」という伝説が誕生することになりました。

タバコ屋はこれらの鮮烈な事実を体験したうえで、究極
の商いというのは「イメージの構築」だと思うようになり
ました。販促も安売りも要らないんです。企業イメージの
構築(アイデンティティの確立)こそ、各企業が目指すべ
きものなんです。

母校同志社において、かつては経済学部の平山センセ
が「経済原論」などと言ってカビの生えたような講義を懲
りもせずお話され、他の教授も五十歩百歩似たようなも
ので、ゼミに進級してからもそのクオリティの低さは覆い
がたく、最新の流通理論を学びたいという夢は果たせず
同志社大学そのものに対し多大な幻滅を感じたタバコ
屋でしたが、当時の過激派学生のように「授業料返せ」
とまでは言う勇気がありませんでした。と言うより、その
うちに自動車学部での幹部としてのオシゴトが山積し、
本来のオベンキョウは放ったらかし状態になりました。

その結果、タバコ屋は皮肉にも大学の講義ではなくオク
ルマの世界での見聞によって「商いの真髄」を知ること
となりました。その真髄とは「自分は何者かというアイデ
ンティティ(自己証明書、個性)の確立」と「良きイメージ
の構築」だと思います。
DSCN3603.jpg
そのような時代背景の下で昭和43年(1968年)日産との
合併を経てプリンス荻窪で開発された3代目スカイライン
2000GT(通称ハコスカ)がデビューしたのでした。展示車
両は後期型で、フロントグリルのデザインが初期型より
も洗練されたものになっています。それが証拠にナンバ
ープレートには発売4年後の昭和47年(1972年)製となっ
ていますよね。
スカイライン2000GTR-16
さてスカイライン2000GTことスカGですが、話せばブログ
記事3回分の長さになるくらいタバコ屋及びタバコ屋世代
にとっては思い出深いオクルマゆえにここは読者のご迷
惑を考えて簡潔にお話しする必要があります。
スカイライン2000GTR-7
まず、第2回日本GPにおいて「神」となったスカGは3代目
となってその集大成と言うべく、国内レースにおいて空前
の52勝という大記録を打ち立て、やがて神から一歩前進
し「不滅のスカイライン神話」となったのでした。

またフェアレディZが2シーターのスポーツカーであったの
に対し、スカGは2ドアハードトップ/4ドアセダンであり実
用的であったことと、当時のお値段がGTRの150万は例
外としても2000GTが80~90万だったことから、我々庶民
の中でも比較的オカネ持ちの家では無理をすれば買え
た価格でした。
スカイライン2000GT-2
スカイラインはGTRのレースでの活躍によってメチャ高性
能なオクルマという「イメージ!」が確立しそれによって大
ヒットした訳ですが、この「イメージ戦略」というのが商い
にとっては最も高級で重要なことであることがわかります
よね。ただ3代目スカイライン(通称ハコスカ)のキャッチ
フレーズは広告代理店の電通あたりが考えたものかも知
れませんが「愛のスカイライン」で「なんのこっちゃ」と思い
ますが、4代目が「ケンとメリーのスカイライン」ですから、
キャッチフレーズと言うのは荒唐無稽で非現実的なもの
が好まれるのかも知れません。
L型エンジン
ところで、フェアレディZ432とGTRにはプリンス製DOHC
4バルブのS20エンジンが搭載されたのですが、フェアレ
ディS30Zとスカイライン2000GTにはそれとは逆に日産
製のSOHCターンフロー(吸排気口が同じ側にあるもの)
式のL型エンジンが搭載されました。このエンジンはとに
かく丈夫に作られていたのですが、その結果重くて眠い
エンジンとなり、軽快な吹け上がりを期待して購入した
ユーザーをがっかりさせるものでした。
IMG_6034-1.jpg
それにまつわるお話として、タバコ屋が同志社大学自動
車部3回生の時、クラブ員の皆がアルバイトで稼いだお
金をもとに中古の3代目スカイライン2000GT4ドアセダン
を部車として購入したのでした。もうそれはそれは「神」
のごとく部車の旗艦としてまた幹部専用車として大切に
されましたが、「竜頭蛇尾」の言葉どおりレースでの輝か
しいイメージとは裏腹に重々しいフィーリングのオクルマ
で、タバコ屋は内心ああ、竜のアタマをイメージしていた
のに蛇のシッポだったのかと、やや失望した思い出が残
っています。
スカイライン2000GT-15
尚、L型エンジンの名誉のために申し添えますと、それ
だけチューニングのキャパシティが大きかった訳で、事
実L型2000ccエンジンはボアアップと高速走行用チュー
ニングを施した場合は、見違えるようにレスポンスが良
くなり、もともとトルクが大きく扱い易いエンジンであった
ため、スカGはもとより、フェアレディZとの相性も良く、中
でもワークス240Zは国際ラリーで驚異的な活躍を見せ、
また国内レースで240ZRはS20エンジン搭載のZ432を
凌ぐ大活躍を果たしたのでした。
鉄人28号3
さて桜井真一郎氏を中心とする旧プリンスチームの渾
身の作品であるスカイライン2000GTの評価ですが、極
めてNIPPON的な感性のGTとして、またレースでの輝か
しい実績に対して「アッパレ」を差し上げたいと思います。
しかしタバコ屋が抱いていた颯爽と軽やかに「ビューン
と飛んでく鉄人28号
」というイメージに対しては「喝」で
しょう。

今回は一気に40年代オクルマ見学を済まそうと思った
のですが意に反しフェアレディZとスカイライン2000GT
のことだけで紙数が尽きてしまいました。まだまだ書き
残したことは多いのですが、このあたりで終わりに致し
ます。次回は昭和40年代を彩ったその他のオクルマ達
を駆け足で一気に見て行く事に致します。お楽しみに。

福井巡礼 vol.4:ああ旧車よ(前編)

平成29年6月15日
前の記事で、タバコ屋は何故「ゆのくにの森」などという
名前を付けたのか意味がわからなかったのですが、ま
わりをよく見ると加賀温泉を始め山中温泉、その他温泉
だらけで後になってなるほどそうだったのかと思った次
第です。印象深いその「ゆのくにの森」を後にし、同釜4
人は自動車部OBとして是非とも訪問しておかねばなら
ない聖地「日本自動車博物館」を目指します。ここは我
々にとってはエルサレムよりも永平寺よりも本願寺より
も果てはガンジス川の畔よりも崇高な場所なのです。
モーゼ3
その聖地はあっけないほど近くにありました。「ゆのくに
の森」から北へ少し走って国道8号線に行き当たる少し
手前の閑静な場所にいきなり場違いとも思われる建物
が出現したのでした。ああモーゼよ、紅海が二つに割れ
ようが割れまいが、約束の地カナン改め小松の地に導
いて頂いた事に感謝致します。

これも後から知ったことですが、「ゆのくにの森」も「日本
自動車博物館」も加賀市ではなくお隣の小松市に所在
しており小松市としては加賀温泉に来られたお客をうま
く取り込むというなかなか賢いやり方です。
14737417385.jpg
建物の外観はまるでベルサイユ宮殿か赤坂の迎賓館か
と思わせる重厚なもので、やはり美術館とかコレクション
ホールと言われるものはまず入れ物からして「華」がなく
てはなりません。大英美術館にしてもルーブル美術館に
してもドロボーして自分のものにした世界の遺産を誇らし
げに見せびらかすその神経は厚顔無恥レベルではある
ものの、そのプレゼンテーション自体は洗練されたもの
ですよね。(但し、今からでも遅くないから返却しなさい)

英国よ、フランスよドイツよロシアよ、強欲、搾取、強奪、
あなた達は時代に沿ったとは言え何と破廉恥なことをし
て来たのでしょうか。大航海時代の前段で活躍したスペ
イン、ポルトガルに至っては言語道断で、強盗国家と断
定してもよく、当時のチンケな世界地図を前にして半分
っこしようやなどと笑止千万な目論見を企てたと言いま
すから呆れ果てます。
帆船9
勝てば官軍という言葉があるのはタバコ屋とて知らない
筈はありませんが、人類としてあまりにも品性に欠ける
行為をやり過ぎたと思わないのでしょうか。タバコ屋の
独り言、「おまえら毛唐連中、許さへんど

ま、今回のテーマとは関係ない事でカッカすることもない
ので、しばしクールダウンすることに致します。
DSC_3865-1.jpg
実は福井巡礼の少し前、スケジュールが決まった後、何
もかも皆さんにMARUNAGEでは申し訳ないと思い「日本
自動車博物館」にどのようなオクルマが保存展示されて
いるのか調べてみようと思い立ちました。博物館のHPを
拝見するとタバコ屋お目当てのフェアレディS30Zが展示
リストにないのです。え~日本屈指のコレクションを誇る
この博物館にS30Zがないなんて、嘘やろ~と思いました
がその代わり後ろに補助座席の付いたフェアレディZ2+2
とGTRと同じDOHCエンジンを搭載したフェアレディZ432
がリストアップされていました。ま、百聞は一見に如かず
でまずは見学あるのみです。
DSCN3535-1.jpg
建物に入る前からして、すでに他を圧する威容を漂わせ
つつ、かつての大英帝国のオクルマのシンボルである
ロールスロイス・シルバーシャドウのお出迎えです。我ら
同釜4人のうちアオリイカ3人衆がさっそく記念撮影です。
DSC_3866-1.jpg
余談ながら、シルバーシャドウが発売されたのは昭和40
年(1965年)で、タバコ屋がまだ中学生の頃でしたので
知る由もなかったのですが、後日今出川時代にオクル
マに興味を持って以降はプレステージサルーンとして
世界で最も気品と格調のあるデザインだと思うようにな
りました。
ゴースト12-1
ちなみにその後継車種であるゴーストはプレステージカ
ーのカテゴリーにおいてタバコ屋が世界で最もお気に入
りのデザインです。乗ることは一生ないでしょうけど・・・。
DSCN3537-1.jpg
気のはやる一行は横のリンカーンには目もくれず、正面
エントランスからそそくさと入館したのでしたが、さて膨大
なコレクションをどのように見学するか、修学旅行ではな
いので、別に打ち合わせた訳ではありませんがタバコ屋
なりに一定のテーマは携えて来ました。そのテーマとは
我ら同釜が今出川時代に親しんだオクルマ」を見学す
ることでした。

タバコ屋の定義によれば、戦前から敗戦直後(昭和30年
年代前半まで)のオクルマをクラシックカー(ビンテージカ
ー)と呼び、昭和30年代後半から40年代及び50年代にか
けてのオクルマをネオクラシックカー旧車)と呼びます。

今回、「今出川時代」と言うことはNIPPONのオクルマ産
業が最も輝き熱病にうなされた如く成長、発展した昭和
40年代のオクルマ達を見たいという下心がありました。
DSCN3559.jpg
博物館側では粋な計らいをしていて、昭和30年から40
年にかけて日本のライフスタイルをイメージする展示ブ
ースをしつらえていました。そうなんです、こういうイメー
ジのもとでボクらは育ったんです。
梅ちゃん先生16-1
つつましくも向上心に燃え、3種の神器(じんぎ)と言われ
た、白黒TV、冷蔵庫、洗濯機を購入するという夢に憧れ
た時代でした。昭和40年代になるとその夢は更にエスカ
レートし3C即ちカラーTV、クーラー、マイカーへと高度化
していきました。我々同釜4人はまさにそのうなぎ上りの
狂気の時代に青春時代を過ごした訳です。
B29空襲4-1
さて太平洋戦争の敗戦によりアメリカによって完膚なき
までに叩きのめされたNIPPONのヒコーキ産業ですが、
敗戦後行き場のなくなったそのヒコーキ産業の若きエン
ジニア達は活路をオクルマ産業に求めました。その萌
芽となったのは昭和20年代に試みられた数々の国産車
開発でした。お目当ての狂気の時代(昭和40年代)のオ
クルマを見る前に、それまでの時代のオクルマを見学す
ることに致します。
DSCN3569.jpg
まずは昭和30年(1955年)発売のフライングフェザー号
です。メーカーは何と現在ではカーペット製造の大手で
あるスミノエ織物の子会社であった住江製作所製で、
日産自動車出身の富谷専務が中心となって開発されま
した。当時の国産小型セダンと言えばダットサンでした
が、それよりも更に小型軽量のオクルマを企画開発し
発売したものの、前輪ブレーキを省略する等の超合理
化!や、簡素すぎる装備・デザインにより評判が悪く、
わずか50台足らずの生産で中止されたようです。

ただタバコ屋は世間の評判とは全く逆で、このオクルマ
を実用軽自動車としてではなくスポーツカーとして見た
場合、タイヤはまるでバイクのように超大径で、ボディは
超軽量(400kg!)、まるでイギリスのライトウエイトスポ
ーツカーの趣があり、前輪ブレーキがない等は論外と言
うか笑ってしまうものの、造形も斬新かつ個性的でむしろ
GOODデザインだと思うんです。
オースチン・ヒーレースプライト6
愛嬌のあるヘッドライトなんかオースチン・ヒーレー・スプ
ライトを彷彿とさせるじゃないですか。
DSCN3570.jpg
リアデザインにしても、初代フェアレディZで松尾良彦氏
が試みたコーダトロンカ(リアエンドをスパッと切ったデザ
イン)が採用されていて、なかなかモダンで渋いです。

本日の見学評価の目安としてフライング・フェザー号に
は「アッパレ!」印を差し上げたいと思います。以下、
関口宏さんのサンデーモーニングのパクリにて、タバコ
屋のお気に入りには「アッパレ!」、気に入らないものに
は「喝(かつ)!」を差し上げたいと思います。
DSCN3574.jpg
続いて、コニー・グッピーです。このオクルマはかつて存
在した愛知機械工業が、昭和36年(1961年)に発売した
軽商用自動車(ピックアップトラック)なんですが、今とな
っては笑ってしまうほどつつましいスペックで、排気量は
何と200ccの空冷エンジン、車両重量は290kgとメチャ軽
く、しかも4輪独立懸架を備えたユニークなものでした。

さてこのオクルマの評価ですが、商業的にはデザインが
ダサく、性能もメカがユニークな割にはパッとせず、失敗
作としてやがて生産中止となりました。したがって「喝!」
印を差し上げたいと思います。
ヂャイアント号1
実はこのオクルマにまつわるオハナシが2つ程あるんで
す。一つは昭和20年代の新興メーカーだった愛知機械
は「ヂャイアント号」というトラックを製造していて、島の
タバコ屋の先代はゴフク屋でありながら島で最初のバス
事業を試みるにあたり、その運行車両としてコンパクトな
「ヂャイアント号」をバスに改造し、ろくな道とてない島の
デコボコ道を果敢に走らせたのでした。
IMG_0048-1.jpg
しかし道路整備に金はかかるは、しょっちゅう故障で走る
よりピットに居座る時間の方が長いはではショウバイに
はならず、結果大赤字となり、悪戦苦闘した訳でしたが
昭和28年の開業5年後の昭和32年に旧中島町がバス
事業を丸ごと引き受け町営バスとなり、それにより先代
は危機を脱したのでした。

タバコ屋は当時4~5才だったのですが、ガソリンの懐か
しい匂いと、子供なりに大きなオクルマだったのを鮮明
に覚えていますが実際は現在のミニバン程度の大きさ
で乗車定員も10人程度だったのではないでしょうか。
ダットサンベビー1
もう一つのオハナシはその後、愛知機械工業はうまくい
かなくなり昭和40年(1965年)頃より日産自動車と業務
提携するに至ったのですが、昭和45年頃(1970年頃)
その日産が神奈川県の遊園地「こどもの国」の遊戯車
用にダットサン・ベビイという可愛いオクルマをコニー・
グッピーのパーツを使って開発し100台程製造したので
したが、何とそのデザインには初代フェアレディZの主な
デザインスタッフだった松尾良彦氏が入社前の職場体
験時に関わったそうで、知る人ぞ知る意外な裏話ですよ
ね。

愛知機械工業は結局、昭和45年(1970年)日産自動車
に吸収され日産の子会社となったのですが、生産面で
はエンジン、トランスミッション等一部の精密部品の製
造に特化しまた販売面では日産・コニーから日産・チェ
リーを経て現在のレッドステージ店系列に吸収されまし
た。

ビックリ・ポンながら、愛知機械工業の技術力は相当優
秀で、現行ZやGTRのトランスミッションを始めミツビシ・
ランエボⅧのマニュアルミッションは愛知機械製だと言い
ますから大したものだと思います。元「故障だらけのヂャ
イアント号」の末裔?として誇らしく思います。
コニーフランシス1-1
脱線ついでの余談ながら、コニーと言えば我ら団塊の
端っこの世代で思い出されるのは、コニー・フランシス
ですよね。戦後のオールディーズと呼ばれるアメリカン
ポップスの代表的な歌手としてその甘ったるくも伸びの
ある歌声で世界中を魅了しました。
コニーフランシス3
代表曲は「大人になりたい」「ボーイハント」「夢のデイト」
「ヴァケイション」など多く、日本では弘田美枝子や伊東
ゆかり等がその日本版を歌いこれまた大活躍しました。

コニー・フランシスはその歌もさることながら、イタリア系
のオカラダもよくご成長され、上半身のある部分などは
重いほどたわわに実っており、吸引?は望めないまでも
せめて両手で支えてあげたいほどです。
DSCN3585.jpg
さて続いてダイハツ・初代ミゼットです。昭和32年(1957
年)発売のこのオクルマは通称「バーハンドルミゼット」と
呼ばれます。特徴は単座(座席が一つ)でバーハンドル
という最低限の仕様で、屋根と背面は幌であり、ドアも付
いていませんでした。エンジンは空冷2ストローク単気筒
249 ccで最高出力は8馬力!、最高速度60 km/h、燃
費は驚異的で28km/L、最大積載量は300 kgで車両総
重量は306 kgという超軽量でした。

タバコ屋が7才の時に発売されたシロモノであり、奇しく
もヂャイアント号が中島町営バスに移管された年です。
映画3丁目の夕日を彷彿とさせるノスタルジックな造形
で、ほのぼのとしたジドーシャの黎明期を感じさせます
よね。
さてこのオクルマの評価ですが、プリミティブなメカと造
形ながらシンプルで無駄がなくまた可愛さを感じるデザ
インにて「アッパレ」印を差し上げたいと思います。
カラーリングなんか黄色とグリーンの2トーンカラーに塗
り分けられていてまるでロータスのようでもあり、なかな
かオシャレじゃないですか。
DSCN3583.jpg
初代ミゼットに続きわずか2年後の昭和34年(1959年)に
発売された2代目ミゼットは通称「丸ハンドルミゼット」と呼
ばれるものです。特徴は嘴の形状を連想させるノーズ部
分とジドーシャらしく一体化されたキャビンで、先代と異な
り随分スタイリッシュになりました。仕様はエンジンが空
冷2ストロークながら305ccにボアアップされ、扱いやすく
なり、また最大積載量は350 kgで車両総重量は重くはな
ったものの僅か415 kgでした。各部が随分リファイン近代
化されたこの2代目ミゼットは「NIPPONの元祖軽トラック」
と言えるのではないでしょうか。
評価としては初代からわずか2年で大進化を果たしたそ
の努力に対し「アッパレ」印を差し上げたいと思います。
DSCN9656.jpg
タバコ屋の島でも親戚のオクルマ好きのおじさんがいて
このライトグリーン?色のミゼットを買って農作業に使っ
ていました。そのおじさんには悪ガキの弟がいて中学生
のくせにその虎の子のオクルマを無免許で乗り回してい
ました。2人乗りでしたので小学生のタバコ屋はチャッカ
リ横に乗せて貰ったセピア色に褪せた楽しい思い出が
あります。これを学術用語で「小判ザメ商法」と申します。
紫電改引き上げ1
余談ながら、そのおじさんと言うのはキカイ好きが高じ
てお百姓をやめて民間ヒコーキのパイロットになりまし
た。しかし悲しいことに宇和島沖の海中で「紫電改」が
見つかりその引き上げ作業をセスナで取材中に墜落死
してしまったのです。
F1マクラーレンホンダMP4・4-16
時は過ぎ、その息子さんは最初上記のダイハツに入社
してエンジン研究室にいましたが一念発起、HONDAに
途中入社、HONDA-F1チームの一員として当時F1界を
席捲したアイルトン・セナのサポートをしていたそうです。
バブルの終焉と共に昭和の時代が終わりつつあった頃
の懐かしいお話ですが、彼は今頃どうしているんだろう。

さて昭和30年代はこのくらいにして早く昭和40年代のオ
クルマを見たいのですが、脱線しまくりで紙数が尽きて
しまったようです。今回はこのくらいで終わりとし、次回
また40年代のオクルマをご一緒に見ていくことに致しま
しょう。お楽しみに。
(尚、文中ダイハツ初代及び2代目ミゼットの解説につい
ては一部ウィキペディアより引用させて頂きました)

福井巡礼 vol.3:加賀へ

平成29年6月1日
さて、同釜4人打ち揃って今回の最初の目的地である
「ゆのくにの森」へ向かったのですが、タバコ屋は「ゆの
くにの森」が福井県ではなく石川県にあること自体知ら
なかったのです。そもそもタバコ屋は福井巡礼と言う崇
高な目的のために一念発起したのでしたが、いきなり
加賀の国(石川県)とはこれいかに。

福井県と石川県は隣接県ながら清張の「砂の器」でも
あるまいし、その相関関係はどないなってんねん!と
上山、野尻両氏に言いたいくらいでしたが、現実的には
修学旅行の生徒よろしく、素直に且つはしゃぎながら、
野尻君のメルセデスBENZ-E240ステーションワゴンの
後席に収まっているタバコ屋でした。
福井平野1
野尻君のメルセデスは北陸自動車道をまっしぐら、一路
加賀を目指します。途中広大な福井平野を臨み、坂井、
芦原なんて言う地名が出てくると、かつてタバコ屋の島
の特産品であるみかんを買って頂いた元マイカルグル
ープの「だいとら」さんがこの地域にお店を複数展開し
ていて、各店を表敬訪問したこと等が走馬灯の如く思い
出されるタバコ屋でした。

ただ残念な事に、その後マイカルグループは総帥である
小林社長(京都出身)が、ガンで急逝され、カリスマの求
心力を失ったマイカル(旧ニチイ)は急速に業績が悪化
し、あげくの果ては迷走の末破綻、ライバルであるイオン
が合併吸収してしまったことはタバコ屋にとって痛恨の
出来事ではありました。
マイカル茨木1
現代流通業界の悲劇とは言えこの物語はまるで豊臣
家の栄光と挫折、消滅の物語に似ていると思いません
か。ちなみに当時、全盛期のマイカルの年間設備投資
額はハンパではなく500億円という巨額で、世界を相手
に戦っていたトヨタ、日産の年間投資額と同等だったと
言いますから、小林社長率いるマイカルの事業展開と
言うのはいかにビッグスケールで鼻息荒いものだった
か、おわかり頂けるのではないでしょうか。
露と落ち、露と消えにし我が身かな、難波のことも
夢のまた夢


お話しを「ゆのくにの森」に戻します。野尻君はやがて
高速道を降り一般国道に入ったのですが、途中閑静な
場所を通過中に、見慣れない看板を見かけました。
それには大きく3年2組と書いてありました。田舎者の
タバコ屋はこんな所に学校か学習塾でもあるのかと思
い、地元の野尻君に聞いても顔を伏せて笑っているだ
けでまともに答えてくれません。挙句の果ては「僕は中
学の時3年3組でした」などとタバコ屋の質問とは関係な
いことを仰るので「そんなこと、聞いてないっちゅうの!」
と言いたかったのですが「こらアカンわ」と諦め、ここを
何度も通った筈の平尾センセにお聞きしても、「そうやそ
うやこの道や、この次のカーブがな~」とか、これまた要
領を得ません。
yjimage[1]
こうなったらタバコ屋は推測するしかないのですが、記憶
のカケラによれば「休憩の場合はいくらいくら」とか書いて
あったので、学習塾や学校なら「授業料いくら」のはずな
のに何で塾や学校で休憩するんやろと思いました。

ところでタバコ屋は福井ご出身で今をときめく防衛大臣
の稲田朋美女史がいたくお気に入りで、地元福井産品
の宣伝のため派手なメガネや網タイツをご着用なのは
ご愛嬌としても、知的で理路整然としたお話しぶりに惚
れ惚れしていましたが、昨今はやや狼狽、迷走気味で
従来のキレとツッパリがなくガッカリしています。
稲田朋美1
ところで朋美ちゃんは早稲田に進学する前の花も恥ら
う乙女の時代には、何とタバコ屋が大学自動車部時代
前半の2年間を過ごした叔母の家がある京都長岡京市
の府立乙訓(おとくに)高校へご通学されたそうで、同窓
ではないものの、他人とは思えずこんな閑静な学習塾
もしくは学校で朋美ちゃんと一緒に机を並べてオベンキ
ョウ出来たら楽しいやろなと空想を膨らませたのでした。

昼食時など隣で「ちょっと~何してんの、早よ食べよし」
等と言われるとわざとグズグズしたりして・・・。ま、本日
のドライバーを拝命している野尻君は合宿中そのような
実体験をされたようですが、多くは語りますまい。
香里体育ハウス3
蛇足ながら、かつて同志社大学に学び幾多の苦い体験
とそれによる貴重な学識を習得された、次期福井葵ライ
オンズクラブ会長で地元の名士たる野尻君のお話では、
朋美ちゃんは現在安倍内閣の重要スタッフであり、政務
多忙なれど、福井出身と言うだけであまり地元のお世話
が出来ていないらしく、評判は今一つとのことでしたが、
そんなことより何よりもタバコ屋は乙訓高校出身の朋美
ちゃんと一度でいいから、3年2組の教室でご一緒にオベ
ンキョウしたいと思いました。
鉄人28号1
タバコ屋より福井の方々へ:あまり朋美ちゃんをいじめな
いで下さい。彼女はヤリテながら何でも出来る鉄人28号
でも鉄腕アトムのウランちゃんでもないんです。風邪も引
くし鼻水も出る生のヒトなんです。

後でお聞きした話ではそこはお子達ではなく大の大人
がオベンキョウではなくご休憩をされる場所なんだそう
で、いずれにしても大爆笑の道中談となりました。

気配りのヒト、野尻君は後日そのガッコウの写真を決死
の思いで撮影しタバコ屋にお送り頂いたのですが、学校
関係者やPTAの方にご迷惑を掛けるといけませんので、
掲載は見合わせます。選抜白襷隊の野尻君・・・すまん。
DSCN3493.jpg
さていよいよ加賀伝統工芸村「ゆのくにの森」に到着です。
平尾センセがかつてお子達を修学旅行で何度も引率し
て連れて来られたゆかりの地です。平尾センセにとって
はエルサレムよりも永平寺よりも崇高なる巡礼の聖地で
ありましょう。
DSC_3864-1.jpg
それが証拠に、我々ご一行は正面からOKANEを払って
ではなく、横の事務所へ通されそこで平尾センセとは旧
知の福森支配人さんと面会、ひと時お二人の思い出話
に花が咲きました。ここだけの話しですが、その後入館
しようとすると、どうも平尾センセのお顔でフリーパスの
TADAで入れたのでした。何とも申し訳ないような気がし
たタバコ屋でしたが、お二人の長年の交友とご好意に
甘えることに致しました。
DSCN3494.jpg
森と言うだけあって広大な敷地は加賀の伝統工芸を紹介
するテーマ館(屋敷)がゆったりと配置され順路に沿って
見学出来るようになっていました。「彩り長屋」は九谷焼
の紹介と体験実習+お土産を売っている場所のようです。
DSCN3496.jpg
また「金箔の館」では加賀の誇る金箔技術の紹介実演
が行われているようでした。その他輪島塗りから加賀友
禅からガラス工芸から様々なテーマ館がありましたが、
一行は「通るだけ~」とし、次の場所を目指しました。
DSCN3506.jpg
一行の本日お目当ての場所は「和紙の館」及び併設の
「そば処白山」でその理由は、平尾センセがお子達を連
れて何度もここを訪れ、お子達の卒業証書を手漉き和紙
で実習製作するという、奇想天外なアイデアを発案実践
したなつかしの場所であるからなのです。
DSCN3512.jpg
その館のご主人と久しぶりの再会を果たした平尾センセ
ですが、タバコ屋の想像ながらその会話は「いや~ご主
人その節は子供らと何度もお邪魔してお世話になりまし
て。」「いえいえ、こちらこそ。先生の思い出のコーナーは
今でもちゃんと残してありますよ。」といった内容ではない
でしょうか。
DSC_3854-1.jpg
事実そのコーナーには平尾校長センセのお名前で手作
り和紙の卒業証書が飾ってありました。タバコ屋はこの
平尾センセの奇想天外なアイデアと過去の前例にこだ
わらない前向きで革新的な姿勢に感心致しました。
同釜を褒めても仕方ないのですが、京都屈指の優れた
教育者だと思います。
DSCN3521.jpg
せっかくですので同釜4名はその「平尾センセコーナー」
をバックに記念写真をパチリ。
DSCN3515.jpg
お昼になり腹ごしらえをという段になりましたが、ご主人
がなかなか粋な計らいをしていて、予約テーブルには
「京都市立石田小学校御一行様」と書かれていました。
同釜一行はそのウイットに思わず爆笑してしまいました
が、先程の「3年2組」同様ノスタルジー満載のオコトバ
ですよね。
DSCN3517.jpg
同釜一行にふさわしく、この日のスペシャルランチはダ
ジャレっぽい釜飯と手打ち蕎麦に天婦羅付きの豪華定
食でした。お味のほうはとても美味でしたがこの時も
センセの気遣いによるOGORIで皆でごっちゃんに預か
りました。
DSCN3531.jpg
腹ごしらえも出来たところで、施設内にある高名な書家
であり詩人である相田みつをさんの記念館へ立ち寄り
ました。栃木県足利市ご出身の相田みつをさんの記念
館が何故ここにあるのか理由は聞き忘れましたが、書
家である以上本当は字がお上手な筈なのにいわゆる
「へたうま」の技法で、一度見たら忘れらない印象的な
書体で数々の人間賛歌的な詩を残されました。
DSCN3529.jpg
オクルマ好きのタバコ屋としては多くの展示作品の中で
この詩が一番お気に入りでした。詩の中味はアホみたい
なものですが、ほのぼのとした人間味が感じられますよ
ね。残念なことに相田さんは平成3年(1991年)に亡くな
られていますがそのお年が現在のタバコ屋の年である
67才だったそうで、身につまされるものがありますよね。

つまらないギャグながら、タバコ屋が詩を作る場合は以
下のようになります。「あのねえ、自分にエンジン掛ける
のは自分なんやけど、回し過ぎると壊れるんだからね。」
坂村真民1
余談ながら、愛媛松山にも相田みつをさんと良く似た
タイプの書家、詩人がいらっしゃってその名は坂村真民
さん(故人)と言います。「念ずれば花ひらく」という祈り
のコトバが有名で世界中にその碑が建てられています。

お二人に共通するのは「へたうま」な書体で心に残る平
易で印象的な詩を書かれていることでしょうか。
IMG_4353-2.jpg
3年前平尾センセご夫妻が、中島、松山に行幸された時
松山の坂村真民記念館をご案内しました。そこで案内を
お聞きした時、全世界で600基以上の碑が建立されてい
るそうで、その第1号碑は奇しくも京都西北の常照寺さん
にあることが偶然わかったのでした。
念ずれば花ひらく2 念ずれば花ひらく1
平尾センセの地元、宇治の禅定寺(ぜんじょうじ)にもそ
の碑が建てられていることは後日センセが訪問して発見
されたようです。

余計なお話しながら、かつてタバコ屋が若かりし頃、VAN
ヂャケット等のファッション旋風が巻き起こったことがあり
ましたが、その頃時代の波に乗って「レーシングメイト」と
いうオクルマファッションブランドを立ち上げたのが元トヨ
タのワークスドライバーだった杉江博愛(ひろよし)さんで
すが、ブームが去るとその後破綻し、失意のどん底にあっ
たものの、やがてご自分の経験をもとに徳大寺有恒という
ペンネームで「間違いだらけのクルマ選び」を出版、絶大
な支持を受け、晩年は成功者としてカムバック出来たこと
は皆さんご存知のことだと思います。「つまづいたってい
いじゃないか、にんげんだもの」を地で行った人生だった
のではないでしょうか。残念ながら今では泉下の人となり
ました。

さて同釜4人のこれまでの人生は果たして「念ずれば花
開いた」のか、あるいは「つまづきっぱなしの人生」だった
のか分かりませんがでもタバコ屋はすべてを肯定したい
と思います。だって「間違いだらけの!にんげんだもの」。

蛇足ながらタバコ屋の同級生の和田アキ子調で言えば
「笑って許して」になるでしょうし、山本リンダ風に言えば
「もうどうにも止まらない」ということになるのでしょうか。
DSCN3532.jpg
印象深い「和紙の館」や「相田みつを記念館」を後にし、
出口近くのお土産ショップへと戻って来ました。タバコ屋
はTADAで入館させて頂いた以上、ここでどっさりお土産
を買うべきでしたがまだ旅の最初であるのと、次の目的
地である「日本自動車博物館」を早く見学したいため、
入館には感謝しつつ素通りしてしまったタバコ屋でした。

この後、本日の二大目的地である「日本自動車博物館」
へと移動しますがあれこれ余談が多く、紙数も尽きたよ
うですので、その模様は次回の記事でお話ししたいと
思います。お楽しみに。

★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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