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校長先生の青春 vol.1:ラリーへの熱き思い

平成26年5月4日
校長先生の西瀬戸紀行3部作、いかがでしたでしょうか。人生
ですべての人に時間は平等に与えられていますが、その使い方
は様々で、有意義に成功の人生を歩まれた方もいらっしゃるで
しょうし、タバコ屋のように苦いレンコン汁がぶ飲みで成功とは
程遠い人生を歩んだ方もいらっしゃるでしょう。ただ60年以上
生きてきてここらで自分の人生を振り返り、過ぎ去りし青春時代
を懐かしみつつ今後の「クオリティ・オブ・ライフ」をどう過ごすかを
考えてみるのも意味のあることではないでしょうか。
20140328080308761s[1]
実はその元校長先生より彼の青春時代から現在に至る貴重な写
真の一部を頂いたので、彼即ち平尾氏の了解を得た上で多分再び
暴露記事になるとは思いますが、その青春時代を振り返ってみた
いと思います。もちろんタバコ屋も彼と同じクラブで4年間を過ごした
同釜ですので、似たような体験を共有していることは申すまでも
ありません。
(関連記事:校長先生西瀬戸を行く vol.1:中島編参照願います)
3 近大ラリー
お子達と一緒に写っている元校長先生の20才のお姿とは信じられ
ないような一枚の写真です。彼、平尾氏は名は隆史と言いますが
ご幼少のみぎりはいざ知らず、長じては名門京都同志社岩倉高校
から同志社大学に入学された俊英にて、名も無き島より、のこのこと
出て来た島のタバコ屋とは自動車部での出会いがきっかけで今日に
至る長きご縁のプロローグとなりました。写真は彼が2回生の時、
愛車カローラSLを駆って近大ラリー(近畿大学自動車部主催)に
出場した時のものと思われます。

「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり」という島崎藤村の詩が思い浮かぶような瑞々しく
も初々しい平尾氏の若干20才のお姿ではないでしょうか。
2 花脊峠-1
我々万博世代にとって青春時代は高度成長まっ盛り、それこそ国を
挙げてモータリゼーションを推進していた時代でした。オクルマ産業
というのはとても裾野が広く国の基幹産業になり得るもので、内需と
輸出がうまくいけば国民はお金持ちになれるという訳で各メーカーは
昼夜を徹して開発競争に明け暮れた時代でもありました。

そのような時代背景のもと若者がオクルマに関心を持つのは当然
のことでしたが、平尾氏は動くものなら何でも好きというご性格の
上に当時盛んになりつつあったラリー競技にはまってしまい、以後
寝てもさめてもラリーというストイックな青春時代を過ごす事となり
ました。写真は多分ご両親に無理を言って買ってもらった最新の
カローラSLで真冬の京都北部「花背峠」付近を練習走行中の場面
だと思われます。人通わぬ道を白装束ならぬ黒装束で黙々と修行に
励むお姿は現代版千日回峰「阿闍梨(あじゃり)」と言えばやや偏見
に過ぎるでしょうか。
(関連記事:島のスイーツ開発 vol.2:タバコ屋のお気に入り 及び
終わりなき旅 vol.1:いざ京都へ参照願います)

蛇足ながらラリー競技は夜間の山間部をスピード走行することが多い
ので、標準のライトでは暗く補助ランプが必要でした。彼の愛車の
フロントグリルに装着されているのは当時流行だったマーシャルもしく
はシビエのフォグ及びスポットランプだと思うのですが・・・。
240Zモンテ14-1
ついでの無駄話を致しますと、タバコ屋が7年前から取り組んだフェア
レディ240Zのレストアに際し、シビエの補助ランプ装着を試みました
が今時そのようなビンテージ物は入手出来ず諦めた経緯があります。
ただ当時のDATSUNは国産車の優秀性をラリーによって世界に知ら
しめるという使命を負っており、補助ランプも小糸製作所とか国産品を
特別スペックで使用していたと思いますが検証した訳ではありません。
初代カローラ6
余談になりますが大衆車レンジのカローラとサニーの開発競争は
激烈でサニーが1000ccで発売されるのがわかるとカローラは急
遽1100ccに排気量を上げる等、あらゆる努力がなされました。
結果は上質感と豊富なバリエーションを持つカローラに軍配が上が
り、以後その順位が替わることはありませんでした。平尾氏の愛車
は多分1200ccのSLでもしそうであればツインキャブ仕様で足回り
はフロントがマクファーソンストラット、リアは半楕円リーフながらコイ
ルやダンパーをラリー用にチューンしていたように記憶しています。
近畿工大ラリー
写真は彼が大阪工大自動車部主催の山岳スポーツラリーに勇躍
出場し、今まさにスタートしようとしている場面です。何やら看板も
学園祭に毛の生えた程度のほほえましいもので、またギャラリーの
服装を見ても、随分時代を感じさせるものです。
チェリーX1-35-1
突然の写真で恐縮です。以前の記事でもお話したように平尾氏
とタバコ屋が3回生の時にニッサンからチェリーX1の1年間貸与
というご馳走話がありました。悪童どもがわが意を得たりとラリー
競技車として、また当時盛んだった大学自動車部主催ラリーの
試走車(同志社ラリー)として酷使し、満身創痍となりながらも
大活躍しました。また、この貸与をめぐってその選にもれた京大
自動車部のキャプテン御一行が我々のガレージに怒鳴り込んで
来てあわや大喧嘩になる寸前だったことも以前お話しましたよね。
世に言う逆恨みというやつですが、これで命を落とすこともある
ので皆さんも十分気を付けて下さい。当時タバコ屋もキャプテンを
拝命していましたが、もし逆の立場ならこのような品性に欠ける
行動は断じて取らなかったと思います。
(関連記事:クグロフとミニ・クーパーの謎参照願います)
S575-1.jpg
この写真は平尾氏と庄坪氏が同志社ラリーを主催するにあたりコース
を設定するため、長躯三重県の青山高原まで足を伸ばした時のもの
と思われます。今から思えばコンパクトかつ高性能なチェリーX1は
ハードな仕事をよくこなしてくれコースも出来上がり、同志社ラリー
を成功へと導いてくれました。蛇足ながら2人の左胸に描かれた三つ
葉のクローバー、即ち同志社のロゴが誇らしげです。どうでもいいこと
ながらTシャツの色はダークグリーン(格好つけて言えばブリティッシュ
レーシンググリーン)でした。それにしてもお二人とも若いですよね。
(関連記事:好みの基準 vol.5:懐かしのチェリーX1参照願います)
6 毎日ラリー優勝
そのチェリーX1をめぐって一つのエポックメイキングな出来事が起こり
ました。個人でも愛車カローラSLを駆って腕を磨いていた平尾氏です
が、3回生だった昭和46年、毎日新聞社主催の第14回毎日ラリーに
同志社大学自動車部から部車チェリーX1で出場し、学生の部で見事
優勝を果たしたのです。彼の満面の笑みからその喜びが伝わります。
尚彼の後ろに写っているのはチェリーX1ではなく同じ部車のニッサン
2代目ブルーバード410-SSSですが、これについては後ほどご説明
致します。
S46418.jpg
その優勝時の新聞記事と出場したメンバーの名前です。すべて同期
の懐かしい面々ですがもう40年以上前の出来事にて記事の色もそれ
なりに色褪せ、当時を物語る貴重な資料となっています。
5 1971 毎日ラリー
さてチェリーX1を駆って毎日ラリー学生の部で見事初優勝した
翌年第15回毎日ラリーに出場時の記念写真だと思われます。
個人情報もへったくれもなく実名をばらしますと左から庄坪、平尾
佐々木、増本の面々で皆とても若く、はつらつとしています。
ちなみに競技車チェリーX1は貸与車ゆえ返却したので、今度は別
の部車の日産ブルーバード410-SSSでの出場でした。かなり
くたびれたシロモノでしたがあまり調子の良くなかったSUツイン
キャブレターをなだめなだめ走ったことと推察されます。ボディ横に
貼ってあるゼッケンNO.1は恐らく前年度優勝しているためその
招待NO.ではなかったかと思います。
蛇足ながら彼は前年度優勝により今回は選手宣誓の栄誉を賜り、
また競技成績も第5位入賞と立派な成績だったと記憶しています。

もう涙が出るほど懐かしい貴重な写真ですが、我々が4年間過ご
したこの思い出の自動車部新町ガレージはその後京田辺の新キャン
パスに移転し、その跡地はD大学学生さんの駐輪場と化してしまい
ました。
(関連記事:京都・静岡巡礼 vol.1:今出川慕情参照願います)
学生ラリー1
当時トヨタコロナと日産ブルーバードの開発販売競争は熾烈を極め
ていましたが、ブルーバードのデザインをピニンファリーナに託した
結果、たれ尻のデザインが不評でコロナの後塵を拝することとなり
ました。その窮地を救ったのが当時新進気鋭のデザイナーで後年
フェアレディZをデザインすることになる松尾良彦氏でした。彼はまず
巨匠ピニンファリーナをぼろくそにけなしたあと、たれ尻のデザイン
を修正し、また当時の若者のハートを掴むスポーティ仕様を設定
しました。それが後の名車P510に繋がるSSSバージョンでした。
(関連記事:荒ぶる心 vol.1:フェアレディZ参照願います)
240Zモンテ6-2
彼はP510のデザインには関わりませんでしたがその才能は当時
アメリカ日産の社長だった片山豊氏に認められ、アメリカで売れる
日産のスポーツカーがほしかった片山氏をして松尾氏デザインの
プロトタイプZを見るなり「これ買った」と言わしめた裏話があります。
その後は日本にとっても日産にとっても夢のようなZの快進撃が始
まりました。世界的なラリーやレースでの活躍も相まって認知度が
高まりポルシェ、ジャガー等当時の一流メーカーを蹴散らし世界で
最も売れたスポーツカーとなったことは我々高度成長世代にとって
は、忘れられない出来事です。
(関連記事:零戦の末裔参照願います)
S4794.jpg
さてラリー病という不治の病にかかってしまった平尾青年ですが、
思い高じて愛用のラリーマシンもカローラSLから最新鋭の三菱
ギャラン1600GSに乗り換えることになりました。おそらくこの
写真も新町ガレージの前でのものだと思うのですが、左から一期
後輩の上田、当の平尾、同期の佐々木、三宅、井上の面々です。
リアフェンダーに貼ってある「チーム・サンダース」のステッカーは
当時先輩OBの西山氏が活躍していたラリーチーム名だったと記
憶していますが・・・はて。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
平尾ギャラン2
その最新鋭戦闘機ギャラン1600GSを駆って京都産業大学
自動車部主催のナイトラリーに出場、個人としての初優勝を飾っ
た時の写真だと思われます。蒼き時代の平尾青年ですがそれ
なりに真剣な表情が見て取れます。カローラ1200SLで積み重
ねた2年の経験は伊達ではなく新しい愛車ギャラン1600GSの
各所にそのノウハウが生かされていて外観は決して派手ではあり
ませんが、夜間の山間部高速走行に耐え得るチューニングがなさ
れています。
(関連記事:復刻と改造参照願います)
8 KIU RALLY
その懐かしの新町ガレージで優勝トロフィーを前にしての凱旋
写真です。ドライバーは平尾で、ナビゲーター(通称ナビ)は当時
名コンビだった同期の増本だったのでしょう。右側で賞状を手に
にこやかな表情です。彼は秀才らしくいつも物静かで笑顔を絶や
さない好青年でした。この頃から同志社大学に平尾ありと言われ
るようになったかどうか、それは皆さんの想像にお任せします。

皆さんラリーと言うと何やら特別な装備をしたマシンで限界まで
走り回るというイメージをお持ちかも知れませんが、実際は頭脳
ゲームの面が強く機敏で的確な判断力が必要で、マシンの性能
は良いに越したことはありませんが、要するに最後の決め手は
A・T・A・M・Aなんです。
IMG_3557-1.jpg
余談になりますが、彼も初優勝した昭和46年即ち1971年のこと
が余程思い出に残っているらしく、後の愛車三菱ランサーエボリュ
ーションXのプレートナンバーは1971となっていますよね・・・。
(関連記事:終わりなき旅 vol.2:愛車ミーティング参照願います)
S4791-1.jpg
やがて彼が4回生を迎える頃には一般道を使用したラリーが危険
だとして警察の許可が下りなくなりつつありました。学生自動車
連盟も危機感を抱き、それに代わる競技としてサーキットラリー
なるものを発明しました。クローズドのサーキットなら一般車両や
道路沿いの住民の方にも迷惑を掛けることがないからです。
鈴鹿サーキット全体図
舞台は主に鈴鹿サーキットでしたが、貧乏学生にとって鈴鹿を走
ることなど夢のまた夢であっただけにそれがレーシングスピードで
はなくても胸ときめかせて参戦という事態になりました。それ以前
に幸い部員が皆でアルバイトしたお金で買った中古のスカイライン
2000GTを部車として取得していたので、それを若干改造して
試合に臨むことが出来ました。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期参照願います)
10 スズカサキットラリー2-1
その時の記念写真なのですが、主に同期と一期後輩の懐かしい面々
です。名前は公表しませんがひょうきん者のI氏や神戸のギーちゃん
がいつものおどけたポーズで写っていますよね。ミス同志社のK嬢の
可憐なお姿も・・・。その真後ろには後の夫君となるキャプテンのO氏
が。ただ不思議なことにタバコ屋は鈴鹿サーキットラリーの記憶が
ないのです。卒論が忙しくて行けなかったのかそれとも雑務が忙しか
ったのか覚えてないのですが今となってはミステリーです。ひょっと
したら恥ずかしながら痔を患って島の病院で手術し、しばらく入院
していた時期があるのでその間の出来事だったのかも知れません。
そう言えば牢名主のごとく真ん中に陣取っている平尾青年も工学部
だったので、卒論用の実験とかで鈴鹿どころではなかったはずなの
ですが、やはりラリー病という不治の病のため自制の処方薬がなか
ったのかも知れません。またその右側の九州のラーメン王こと末永
氏は優秀であったため卒論は早々に書き上げて試合に臨んだのでは
ないかと推察します。
IMG_1933-1.jpg
以前の記事でご紹介した「地獄の北海道遠征」の出発壮行会の
模様です。自動車部恒例の遠征はタバコ屋4回生の時は北海道
一周という壮大なものでした。今出川キャンパスでオーテス・ケーリ
部長先生のお見送りを受けさっそうと出発したまでは良かったの
ですが名神栗東あたりで部車のいすずエルフがエンジンブローし
立ち往生というとんでもない事態となりました。
9 明治大学
恥ずかしながら、従来から4回生はお旦那気分での遠征参加という
のが慣習となっており、その時は一期後輩の3回生、I君(井村氏)
を中心に企画立案・実行が行われていました。突然のアクシデント
に際し、勇んで国を出たものの、手柄立てずに帰ることになり、
急遽荷物を積み替え、エルフは京都にUターンしリタイヤと相成り
ました。その日の宿泊予定の東京・明治大学自動車部合宿所に
は深夜の到着となり明治大学の連中には随分迷惑をかけた記憶が
あります。

一度あることは二度あるもので、話はそれより一年前に遡ります。
タバコ屋が3回生の時の夏季遠征は、信州、北陸方面でしたが
その時は部車ニッサンキャブオールが同じく東名でエンジンブローし
何とか辿り着いた宿泊先の東京・明治大学自動車部ガレージで急遽
エンジン交換をさせてもらうこととなり、遠征には授業の実験等で
参加出来なかった平尾青年以下留守部隊にも出動要請があり、明治
大学自動車部に急行、遠征組と一緒に徹夜でエンジン交換をやって
のけたというサファリやモンテカルロのワークスサービスクルー並みの
離れ業をやってのけ、無事遠征隊が再出発出来たという、懐かしくも
ほろ苦い一幕がありました。平尾緊急メンテナンス隊長殿には感謝
あるのみです。
北海道遠征38
同志社大学自動車部は建学の精神から言えばクリスト系の上智、
青山あたりの自動車部と親しくするところなのでしょうが、どう言う
訳か伝統的に明治大学と親友関係のお付き合いが続いていて
今回の遠征では我々はともかく明治大学自動車部にとってはよも
やまさかのご迷惑事件で、事実写真のごとく大勢の貧乏学生が
いきなり合宿所に雪崩れ込んだ訳で、若気の至りというのはこの
ことを言うのだと思います。タバコ屋はこの期に及んでも気丈に
バットを持って右隅の方に鎮座していますが、内心は波乱の遠征
の前途に気が気ではなかったのは言うまでもありません。
その後は大した事故もなく無事長躯の遠征を終え京都に帰還した
ことを申し添えておきます。
(関連記事:今出川でのこと vol.3;地獄の北海道遠征参照下さい)
S477.jpg
九重佑三子の彼氏だった田辺靖雄氏だと思ったら、平尾青年
でした。(ラリー界の佐藤浩市という陰の声もあるようですが・・・)
ドライバーは一期後輩で勝新似だった河合氏のようでピースサイン
をしています。この写真は全日本学生整備大会が名古屋で開催さ
れた折、パレードで平尾青年が同志社チーム代表として出場した
時のものと思われます。彼も卒論の実験を大分手抜きしていたと
思うので、就職は大変厳しいものがあったと思いきや、ご卒業後は
某大手製薬メーカーへすんなりご内定となりスカイライン2000GT
の三角窓付き!!の車窓からにこやかに手を振られているのも
納得がいくと言うものです。
九重佑三子1
とんでもない余談になりますが、タバコ屋より5つ年上だった彼女、
新宿中村屋のアンパンに目鼻を付けたような変な顔でしたが(失礼)
タバコ屋は結構ハマッていました。田辺氏とともにNHK「夢で逢
いましょう」の常連メンバーであり、ジェリー藤尾、坂本九ちゃん
などと共演していましたよね。タバコ屋にとっては先日のブログ
記事「ハローたんぽぽ」でお話した、ジェリー藤尾さんや伊丹十三
さんに繋がるセピア色の思い出の中に佑三子ちゃんも色濃く残って
います。
九重佑三子4
コメットさんなどのお子様向けキャラクターで人気を得たものの
田辺さんと結婚し歌手としての大したヒットもなしに引退しました
が、得意なジャンルはアメリカン・オールディーズだったと思うの
ですが勘違いかも?。ハスキーな声が今でも印象に残っています。
引退してなければ後はペギー葉山さんのような歌手になっていた
と思いますが、あくまでもタバコ屋の想像です。

オールディーズと申しましても関心のない方もいらっしゃるでしょう
が、要するに昭和30年から40年代にかけて流行ったアメリカン
ポップスのことでコニー・フランシスや弘田三枝子、伊東ゆかりと
いった懐かしい歌手の名前を申し上げたほうがわかりやすいかも
知れません。ここだけの話ですが、松山にオールディーズ専門の
ライブハウス「KENTOS」が出来た昭和60年代タバコ屋は結構
足繁く通ったものでした。
D:今出川キャンパス2
平尾青年の過ごした今出川での青春時代は学園紛争による大学
封鎖により一部大学の受験中止や授業の停止等、いまわしい事件
が起こりました。同志社も例外ではありませんでしたが、タバコ屋は
今でもチンケなイデオロギーを振りかざしていた連中を人間として
信用出来ません。(事実東大受験を目指し、試験中止によりその志
は適わず、同志社自動車部にご縁のあった高砂市のある神童のお
話も聞いています!?。)
240Zモンテ13-1
それはともかく現実の日本は高度成長時代真っ盛り、すべてが
右肩上がりの前向きベクトルで、自動車メーカーも欧米の先進
技術を吸収しつつ自前の製造技術を確立し、販路を世界に拡げ
て行った時代であり当然メーカー自身が世界的なラリーやレース
に参戦し自社の優秀性や認知度を高めようと涙ぐましい努力を
した時代でもありました。従って大学の自動車部を巡る環境も
そのような時代の流れに沿い、最高に輝いた時代だったと思う
のです。マスキー法という悪魔のような排気ガス規制法により、
世界の自動車産業が一気に氷河期に突入する直前のお話です。
(関連記事:オハイオの夢参照願います)
DUAC80thロゴマーク
お金が掛からず地味な競技なので今回ご紹介はしませんでしたが、
運転免許試験を数倍難しくしたようなコースをいかに短時間で正確
に周回するかを競うフィギュア競技をはじめラリー、ダートトライアル、
サーキットラリーと今では考えられないほど多様なメニューでの部
活動が行われました。おまけに自動車部ゆえ整備大会等整備力
の優劣を競う競技までありました。
ただ輪廻転生、何の世界にでも絶頂期というものはあるもので、
今から思えば平尾青年やタバコ屋はその真っ只中で青春時代を
過ごしたことになります。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期参照願います)
昭和48年春卒・送別会1
かくして元校長先生が過ごした同志社大学自動車部でのあっと
いう間の4年間は過ぎ、弁慶楼での歓送式を最後に同釜の昭和
44年組はそれぞれ人生の新しいステージを目指して全国に散っ
たのでした。創始者の新島襄先生が唱えた「良心の全身に充満
したる丈夫(マスラオ)の起こり来たらんことを
」という理念は果たし
てその後各人においてどのように実践されたことでしょうか。

ちなみに前列中央は顧問の松山先生、右は同志社の良心と言う
べき部長のオーテス・ケーリ先生、同右はOB会長の難波三菱
社長、島治三郎氏、平尾青年は前列右から2人目です。
(ケーリ先生関連記事:今出川でのこと vol.1参照願います)

校長先生の青春は同志社大学自動車部の卒部により一つの区切り
を迎えることになりました。お話もやや長くなりましたので今回は
これで終わることにし、彼のその後のことについてはVOL.2にて
お話したいと思います。お楽しみに・・・。


コメント

No title

ちわっす!
貴重な平尾さんの写真、懐かしい先輩諸氏も写っていて今は無き新町ガレージは郷愁を誘います。
平尾さんがカローラに乗っていたのは初めて知りました。私が入部した時はすでにギャランでしたね。 カローラの補助灯は、前の写真と形から私の推測では””マーシャル”だと思います。 ギャランの時は”シビエ”でしたが。
タイヤは ”DULOP SP44”でしょうか。
ちなみに 240Zの補助灯は私も小糸製作所の製品だと思います。 日本の保安基準?か何かでヨーソ球(ハロゲン球)は眩しすぎて対向ドライバーの運転の妨げになるとかいう理屈でフィラメント球しか認められていなかったので特別に作っていたであろうと思われます。 シビエのような芸術的なレンズカット技術を使えば何の問題もないのに、日本の公務員の悪い一面を見る気がします。 当時何でこんなに明るくて運転しやすいし、レンズカットで対向車のドライバーには光が漏れないようになっているのに、禁止する理由はないはずなのにと感じたことを思い出します。

花瀬峠のカローラ、イケてますね。 こんな雪道は最近はめったに遭遇できません。なにせ、ちょっと積もるとすぐに除雪されてアスファルトむき出しにしないと気が済まないらしく、全部削ってしまいます。 私は、少し残っているほうが走りやすいと思っているのでこんなに取らなくてもといつもぼやいています。
雪の花瀬峠、現在のスタッドレスで走れたとしたらどうなっていたでしょう。
雪道も良いけどサーキットもまた違う味があります。 やはり車好きは一度は走ってみたいものです。

それと私のオールディーズ、実は学園紛争のお蔭で卒業できたというええ加減な学生でした。

Re:青春の残影

拝復、ちわっすです。
そうでしたか、上山青年は当時の練習主任のSU氏にシゴかれながらも、細部にわたりよくいろいろなものを観察されていたんですね。上山青年の平尾マシンへのスペックのご推察、多分当たっているのではないでしょうか。花背峠、よくご存知でしたね。牛若丸もビビッたという鞍馬の奥の難所ですよね。タバコ屋が阿闍梨になぞらえたのもご理解頂けたでしょうか。上山青年は「学園紛争のお蔭で卒業出来たというええ加減な学生でした」などとご謙遜されていますが、福井出身の俊英だとタバコ屋は思っています。今回のコメント、欲を言えば貴殿も経験された鈴鹿サーキットラリーの思い出を聞かせてもらいたいところです。追加コメント歓迎です。

No title

再度のちわっ!です。
サーキットラリーについては実はなぜかあまり思い出すシーンがありません。 ドライバーという参加ではなくピットクルーでの参加だったというのが大きな要因でしょうか? 
以前のコメントにも書いていますが、私のサーキットラリーの記憶は、HONDA S600、ディストリビューターポイント、1号線沿いのホンダのディーラーくらいです。 
出走車は HONDA S600、ピット課題はディストリュビューターポイントの交換、そのS600用のディストリュビューターを調達したのがホンダのディーラー、そしてピット作業でそのディストリビューターがS600用のものと違っていて、何回も交換を試みるも駄目だったので元のディストリビューターを付けて課題クリアしたというものでした。 私はサーキットを走っていないのでサーキットに対する印象はほとんどありません。
サーキットホテルに泊まったような気もするのですが、記憶は曖昧です。
S600にはベニヤ板仕様のリアウィングを飾りで付けていたと思います。
スピードが出ればそれなりに面白い車だったのではと推測はされますが、ショックも交換していなかったでしょうし、エンジンの調律もどこまでできていたのやら(当然そんな知識も持ち合わせていませんでしたし)という状況でしたが、ドライブした本人たちは結構サーキットを満喫したのではないでしょうか。
スキーでたとえるなら、自分の技量はさておいて、前日からの新雪を朝一番乗りでてっぺんまでリフトで上がって、まだ誰も滑っていない新雪を滑ってくるみたいに自己満足に浸れたでしょうか。
他の大学の車が何だったかも覚えていなくて、私のサーキットラリーはポイント交換ができなくてピットで焦っていたという記憶がほとんどでした。
私を含め、サーキットを走れなかった部員全員が走ってみたかったと思っていたでしょう。

Re:苦いセピア色

拝復、ちわっすです。そうでしたか、以前頂いたコメントと同じく上山青年にとっては聖地鈴鹿サーキットの思い出は苦難のS600デスビ交換だけだったのですね。先日の記事にも書きましたが、タバコ屋も例のご病気療養中だったと思うのですが、サーキットラリーに参加した記憶がカケラもないのです。まあタバコ屋の場合はその後の濃厚なご縁があり、ブルーシートと寝袋での野宿は当然としても、鈴鹿サーキットHOTELにも宿泊しました。うまく言えませんが他のシティホテルとは異なり、英語での説明POPとかが多く何やらインターナショナルな雰囲気が漂っていたのを鮮明に覚えています。だって鈴鹿は国際レーシングコースですからね。

上山青年の「見果てぬ夢」、聖地鈴鹿で自分のオクルマでかつてマンセルがセナが所狭しと走り回ったコースを走ってみたいというオキモチ、痛いほどわかりますよ。ましてはサーキットラリーの時は黒子役に甘んじた訳ですから。歴史にIFはないでしょうが、もしDUAC-OB大会が鈴鹿で行われたら・・・、その時のために上山青年はスポーツ走行に耐え得るオクルマのご選定と整備を今から行っておく必要があると思いますがタバコ屋の老婆心でしょうか。老婆心ついでに言いますが、そのご苦労されたHONDA-S600もしくは800のレストアという選択肢もあるように思います。

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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