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夏の日の思い出 vol.1:プロローグ

平成26年8月21日
ブログ閲覧20,000人突破記念号2
はるかな尾瀬14
「夏が来れば思い出す・・・」はるかな尾瀬、遠い空と言い
たいところなのですが、タバコ屋は尾瀬に行った記憶がな
く、湿原と言えば母校同志社大学自動車部4回生の時
北海道遠征で宗谷岬へ向かう途中立ち寄ったサロベツ原
野(湿原)の思い出があるのみです。それは昭和47年夏の
出来事(つまり42年前)にて、もうとっくに賞味期限が切れ
てしまっているお話なんです!。
北海道遠征39
今ではセピア色となった懐かしい写真です。若気の至りと
言うのでしょうか、サロベツのカンバンを取り囲んで管理人
さんにしかられそうな、お行儀の悪いご一行ですが当時の
ボンビー学生は北海道に来れたことが嬉しくて仕方なかっ
たのです。尚、その後はエエトコの会社の偉いさんになっ
たり、また九州のラーメン王となった方もおり、様々な人生
を歩んだのですが、今やそれも終わりを告げつつあるたそ
がれ世代の懐かしい1ページです。
(関連記事:今出川でのこと vol.3:地獄の北海道遠征参照
願います)

タバコ屋は夏と言えば、尾瀬よりはコンチキチンの祇園祭
の方が思い出されるのですが、それは青春時代を京都で
過ごしたタバコ屋にとってはある意味仕方のないことかも
知れません。祇園祭のことについては、先般自動車部同
期で京都在住の元校長先生H氏より最新の写真を沢山
送って頂いたので、別記事(vol.2)にてご紹介致します。
日野てる子2
夏の日の思い出と言えば、タバコ屋が若かりし頃の若手
女性歌手、もう化石みたようなヒトなんですが、日野てる子
さんと言う美しい歌手がいて、当時ハワイアンがブームで
「夏の日の想い出」なんていう曲がはやりましたよね。
近藤圭子4
またタバコ屋世代なら誰もが知っているシロクロTVの人気
番組、「怪傑ハリマオ」の恋人令子役で出演していた近藤
圭子さんという綺麗なお姉さんも子供心にはっきりと覚えて
います。劇中で令子さんが歌う「南十字星の歌」というのが
あり、当時三橋美智也さんが歌った「怪傑ハリマオの歌」と
ともに意味もわからずよく口ずさんだものでした。
近藤圭子5-1
この近藤圭子お姉さんはタバコ屋より7歳年上ですから、
文字通りお姉さんな訳ですが、すらりとしたスタイルもさる
ことながら品性の漂うお顔でタバコ屋のお気に入りでした。
ただ現在はかなりお年を召しているはずで今のお姿は見
ないほうが思い出が壊れなくて良いかも知れません。
(関連記事:ハリマオ参照願います)
ラジオ体操1
話は飛びますが、タバコ屋が子供の頃の「夏の日の思い
出」と言えば、当時大阪に住んでいた「いとこ」が夏には
いつも1ヶ月近く実家の中島に帰ってきて兄弟のごとく一
緒に生活していました。正確には兄妹ですが兄のほうが
よく帰って来てくれました。

毎日の日課はと言えば、朝はラジオ体操で始まります。
出席カードにハンコをもらうため眠いのを我慢して毎日
母校の小学校グランドに通ったものです。この写真は当
時のものではありませんが、戦後のベビーブームで島に
もこれくらいの数の子供はざらにいました。
今はと言えば、1~6年の全生徒を合わせても数十人で
このまま行くと島は消滅するんじゃないかとタバコ屋は秘
かに心配しているのです。
IMG_1938-1.jpg
突然の写真で恐縮ですが、これは朝のラジオ体操ではあり
ません。前出の北海道遠征時、遠征企画委員長は一期後
輩のI氏だったのですが、帰路の途中、地元の教育委員会
にお願いして直江津近辺の小学校廃校へ泊めてもらったの
です。翌朝出発の前に早朝トレーニングと称して後輩に腕
立て伏せ50回、腹筋100回を課している場面だと思うので
すがもう記憶が薄れてしまっています。
尚、それを命令したタバコ屋は不謹慎にも二宮尊徳翁の
銅像の前に座っています。若気の至り第二弾と言ったとこ
ろでしょうか。
北海道遠征6-2
余談ながら、手前の白いオクルマは北海道遠征時の旗艦
スカイライン2000GTで部員がアルバイトして貯めたお金を
はたいて買った中古車でしたが、トラブルもなく5,000kmと
言う気の遠くなるような距離を走破して無事京都まで帰っ
てきました。さすがスカGです。
他にも駆逐艦から輸送艦から護衛艦まで3~4台連ねて行
ったのでしたがトラブル続出にて短時間で治さねばならず、
その意味では部員一同整備の実戦勉強にはなりました。
クルマを触っているのは神戸出身で元兵庫県警のギーちゃ
んことM氏でこのブログにも度々登場頂いています。その
憂いを含んだお顔は同志社の太宰治とも言われていますが
実際はとても茶目っ気のあるケイサツ官には似合わない明
るいお方です。
セミ2 セミ4
話を昭和30年代、「中島の夏」に戻します。
宿題は早々に済ませて(放ったらかしてと言うかせかされ
て)近くの森にいとこと二人で出かけ、セミ採りです。アブラ
ゼミから始まりミンミンゼミ、アオゼミ(クマゼミ)、ツクツクホ
ーシと夏の日が過ぎていくに従いセミの種類も微妙に変わ
っていきます。ヤブ蚊に全身噛まれながらも毎日飽きもせ
ず通い詰めました。
忽那島八幡宮
蛇足ながら近くの森というのはタバコ屋の地区(大浦)に
ある八幡さんの鎮守の森のことで、子供達にとっては夏休
みの絶好の遊び場でもありました。ちなみに島の鎮守は
忽那島(くつなじま)八幡宮」と言い900有余年!の歴史が
あります。この写真は秋祭りの時のもので、細い注連縄
(しめなわ)が張られており、宮出しの時に神輿がこの縄を
切ってから出て行きます。いわゆるスターティングゲート
です。
(関連記事:神様とリムジーン参照願います)
中島浜辺2
セミ採りの儀式が終わると午後からは海水浴です。タバコ
屋の家はそれこそ島の波打ち際のような場所にあるので、
海水パンツに履き替えたらすぐに砂浜まで行けるのです。
当時の中島はまだ青き松原、白き砂浜が残っており遠浅
の海に少し入ると、足でグリグリ砂を掘るだけで大きな巻
貝やハマグリ、マテ貝などが沢山採れました。その点アサリ
はやや汚れた砂のところに多くいたように思います。まあ採
る気もしませんでしたが・・・。

写真はタバコ屋の近くの浜辺のものではなく島の別の場所
のもので季節も若干異なるようですが、波止場があって遠
浅で細かい砂の浜辺があってという感じがよく似ています。
要するにこんな浜辺でした。
海開き1
突然の写真で恐縮ですが、これは10年ほど前、タバコ屋
の島の「姫ヶ浜」という海水浴場で海開きの神事が行われ
た時のものです。
神主さんは前出の忽那島八幡宮の宮司さんで、先代と親
しくさせて頂いた大宮宮司さんです。今は泉下の人となり
ましたが、とても立派な方でした。ご長男も神職をされてい
てかの有名な香取神宮の次期神主と目されていた俊英で
したが父君が亡くなられたのを機に、要職を投げ打ち島に
帰って後を継がれました。立派だと思います。
オハイオへの夢を断ち切って島に帰ったタバコ屋の心情と
もやや重なるものを感じています。
(関連記事1:伊勢巡礼 vol.1:神々の棲む郷
(関連記事2: オハイオの夢参照願います)

尚、このLADYの名が付いた美しい「姫ヶ浜」はタバコ屋の
住む地区とは若干離れた所にありますが、白い砂浜、青
き海は昭和30年代にタバコ屋と大阪のいとこが毎日海水
浴に行った家のすぐそばの浜と同じものです。
ついでながら正面の島は釣島(つるしま)で明治6年イギリ
ス人技師ブラントンが設計した灯台があり、松山市の文化
財ながら現役稼働中です。霞がかかっていますが、その向
こうはもう松山です。
IMG_2352.jpg
海での遊びと言えば、当時子供の間で「サンマイ」と言う
子供が一人乗るのが精一杯という小さな和船ボートが流
行り、何人かの仲間はそれを親に買ってもらって乗ってい
ました。(当時はみかんバブルで中島は俄かにお金持ちに
なっていたのです)。タバコ屋はもちろんそんな贅沢なもの
は買ってもらえず、時々仲間に借りて乗せてもらった程度
ですが、何故かそのことを鮮明に覚えています。

写真は島での伝統行事である虫祈祷(虫除け祈願)に使う
模型の舟ですが、サンマイ(板三枚?)とは要するにこれ
を数倍大きくしたものと思って頂ければわかりやすいでし
ょうか。
砂埋め1
子供の遊びは他愛ないもので、砂浜を掘り体を埋めて上
から砂を盛り上げ起きられなくする「砂埋め」という遊びを
随分したような記憶があります。
海水浴2
岩場の磯遊びと言うのもイメージされますが、タバコ屋の
家の目の前の砂浜は磯がなく、もっと端っこの遠い場所に
行かなくては遊べなかったため、磯で遊んだ記憶があまり
ありません。この写真はタバコ屋の地区ではありませんが
同じ中島の別の浜辺で、岩場が少ないことがわかって頂
けると思います。
海洋少年団
つい5年ほど前にはタバコ屋の地区の海岸、即ちいとこと
海水浴に毎日行った浜辺の沖で「海洋少年団」の全国大
会が開催され、全国から集まった少年少女がカッター競技
を行っているところです。
スイカ1
いとこと二人で思い切り遊んだ後、家に帰ると井戸にスイ
カが浸かっていて、ばあちゃんにそれを切ってもらって食
べるのが何よりの楽しみでした。タバコ屋は今ではスイカは
きらいな果物の一つとなってしまったのですが、当時は大
好物で、いとこと二人で飽きもせずかぶり付いたものでし
た。その頃食べ過ぎたせいで嫌いになったのかも知れま
せん。
虫カゴ
腹がふくれると当然眠くなるので、午後のお昼寝タイムと
なりますが、いとこもタバコ屋も割合じっとしているのが嫌
いなタイプなので、昼寝をタップリしたという記憶がありま
せん。何をしたかと言うと虫かごをお手製で作るのです。
竹のヒゴを使って作るのですが子供ゆえ何の知恵もなく、
うまくいきません。しまいには父親が見かねて作ってくれ
た思い出があります。写真はプロが作った売り物で実際
はもっとショボいものでしたが、とにかく虫を逃がさない程
度のものは出来ました。

当時はのどかなもので、島のタバコ屋はゴフク屋から当時
かなり珍しかったセルフサービス方式の総合衣料品店に
変身していましたがそれでも結構ヒマだったようで、父親
が虫カゴを作ってくれる時間と気分的な余裕があったんだ
と思います。三丁目の夕日中島版です。
クワガタ1
夕方にはその虫かごを持って、今度はクワガタ探しです。
クヌギの木があるところでないといないのと、夜行性なの
で夕方には殆ど見つからず、あまり良い戦果を挙げた記
憶がありません。悔しまぎれにオニヤンマはよく捕まえた
思い出があります。但しどういう訳か中島にはカブト虫は
あまりいなかったように思います。
当時、昆虫採集見本を作るのが流行っていておもちゃっ
ぽい標本作成キットを買ってもらい、クワガタならぬブイ
ブイやトンボのお尻にオチューシャをして菓子箱に並べ
セロハンを被せて悦に入っていたものでした。夏休みの
ガクシューとか言って、学期が終わるとそれを学校に証
拠品として持って行った覚えがあります。

今から思うと、当時の夏は集中豪雨とか台風とかややこ
しいものは全くなく、たまに夕立があるくらいで子供にとっ
ては存分に遊べる楽しい夏休みだったと思います。
しぎ焼き4
余談ながら、当時の食卓は随分質素だったのですが、
ばあちゃんの手作りの料理は忘れることが出来ません。
何故ばあちゃんかというとタバコ屋はゴフク屋でもあり、
母親はそこの女主人だったので接客とかお店の勘定と
かをしなくてはならず、裏方はばあちゃんが仕切ってい
たのです。

ばあちゃんの夏の飛び切りメニューは「しぎ焼き」でした。
しぎ焼きとは茄子の味噌田楽のことなんですが、当初茄子
に串を刺して焼いたものが鴫(しぎ)の頭に似ていたので
鴫焼きと呼ばれるようになったとか。

タバコ屋のばあちゃん流しぎ焼きは茄子を縦半分に切り、
さらにそれの真ん中に切り目を入れ、油で炒めたもので、
自家製の調理味噌をそれに載せて食べるのです。今から
思えば何の変哲もないものでしょうが、タバコ屋にとって
は忘れ得ぬばあちゃんの味として、夏が来ると必ず思い
出される料理です。ただし現在はカミサンにその懐かしい
料理の再現を幾ら懇願しても取り合ってもらえず、タバコ
屋は怒りとも諦めともつかぬ複雑な心境をかかえている
今日です。
くれない丸2
やがて楽しかった夏休みも終わりを告げ、大阪のいとこと
の別れの日がやって来ました。当時富永呉服店は、大阪
京都へは月1回くらいのペースで仕入れに行っていたので、
父親が仕入れのついでにいとこを大阪へ送り届けることに
なったのです。いとこは中々気かん坊でしたが極端に情に
もろいところがあり、別れの日は感極まり泣き出してしまい
タバコ屋としても1ヶ月共に暮らした仲であり、何とも辛い
別れだったのを忘れることが出来ません。当時の松山~
阪神間は関西汽船が運行していて写真の「くれない丸」は
「瀬戸内海の女王」と呼ばれ、子供心にとてもスマートな
客船だった思い出があります。

それもそのはずで、ミツビシ神戸造船所で造られた「くれな
い丸」の設計コンセプトは当時盛んだった九州別府への
新婚旅行を当て込んだミニクルーズ客船だったのです。
それだけではペイしないので一般客船として松山にも寄
港していたのだと思います。

余談ながら、当時昼と夜の2便があってほとんどの人は夜
の便を利用していました。その頃は松山~阪神間の交通
手段が余りなく夏ともなると大混雑で客室はすし詰め状態
となり食堂の床や外のデッキに毛布を敷いて寝たことも度
々ありました。(無茶ですよね)
くれない丸(ロイヤルウイング)
しかしその後、山陽新幹線の開通とともに「くれない丸」の
役割は終わりを告げます。さすがミツビシ製の堅牢なオフ
ネで50年後の今でも港ヨコハマにてレストランクルーズ船
としてレストアされ現役として余生を過ごしています。
ちなみに現在の船名はロイヤルウイングです。
クイーンエリザベス2-31
ついでの話として、くれない丸が日本の瀬戸内海の女王
なら「世界の海の女王」はタバコ屋の最も好きなオフネの
一つ「クイーンエリザベスⅡ」ということになります。過去の
船ではありますがこれほど品があり美しいプロポーション
のクルーズ客船は今に至るまで造られていません。
何故ならばこのようなデザインにすると客室があまり取
れず効率が悪くなるからです。では何故そのような効率
の悪いオフネを造ったのかと申しますとクイーンエリザベ
スⅡの設計コンセプトは当初クルージングシップではあり
ませんでした。起点のイギリスからいかに早くアメリカに
行けるか、しかも快適にというのが目的でした。故に客室
数とかは犠牲にしても高速で航海出来るスマートな船体
を設計したという訳です。いわば海のシンカンセンと言え
るのではないでしょうか。
クイーンエリザベス2-14
QE-2はくれない丸の時代から10年後の昭和40年代に大
活躍しました。つまり日本では高度成長期真っ盛りの頃
で家電はもちろんオクルマも同様にてより便利で高性能な
もの、豪華なものへの憧れが強まった時期でもありました。
(関連記事:高貴な色参照願います)

ちょうどその頃に青春時代を過ごしたタバコ屋世代にとっ
ては熱にうなされたごとく次々と新製品が発売され、また
右肩上がりの成長が永遠に続くかに思われた言わば奇跡
の時代
を経験したのでした。

とりとめもない思い出話ながら以上お話したことは昭和32
~35年頃にかけての中島の夏、タバコ屋と大阪のいとこ
が小学生の頃の小さな出来事だったのですが、夏が来れ
ば思い出すことの一つとしてその濃密な時間は忘れること
はありません。
大浦湾遠景5
写真はいとこと毎日海水浴をした砂浜そのものなんですが、
55年前の面影などどこにも見当たらず、白い砂、青き海な
どというノスタルジックな思い出はもうアルバムだけにしか
残されていないのです。

やがて二人とも小学校の高学年から中学になるに従い、
お互い忙しくなり島で1ヶ月も二人で遊び呆けるということ
が出来なくなりました。それ以来、この島での儀式は取り
やめとなった次第ですが、大阪のいとこはその後、京都の
長岡京市に移り今日に至っています。今は特許だらけの
某化学製品メーカーの偉いさんにて、日本から世界から
所狭しと走り回って(飛び回って)いるようです。

今回は昭和30年代の夏の日の思い出を書き綴りましたが、
ある意味タバコ屋がこのブログで最も書きたかった事かも
知れません。
次回は京都の夏の風物詩、祇園祭のことを書いてみたい
と思います。お楽しみに。

コメント

No title

タバコ屋 様 
ご無沙汰しております。
「夏のノスタルジック・三丁目の夕日版」ちょと懐かしい感じがして
ほのぼのしますね。
僕も堀江の浜の子ですから、夏休みのいえば毎日海で遊んでました。
昔は潮干狩りをしても あさりや、にな貝(しゃご)があんなに採れて
しかもすご~く美味しかったのに、不思議と今はどんな高級料理店であさりを食べても昔のような感動は無くなってしまいました。
大人になるのも寂しいものです。
先日久しぶりに会社の同僚らと海に行きマリンスポーツを1日楽しみました。今でも日焼けで真っ赤か!です。
でも改めて自然に戯れて遊ぶのは気持ちいいものだと思いましたよ。
もともと持っている幼少時代からの心でしょうか。
海には懐かしい中にも落ち着く安心感があります。
時代は変わっても不変な物だからですね。

タバコ屋さんもたまには泳いでみますか。?(笑)

ではまた。


Re:堀江少年の夏

拝復、コメント有難うございます。そう言えばそろばんさんも元はと言えば中島の対岸の堀江少年でしたよね。貝と言えばハマグリの大きいのが取れた時なんぞそれは嬉しかったものです。

マリンスポーツを楽しまれたとか。当然ながら愛車AUDIで颯爽と浜辺まで乗り付けたんでしょうね。タバコ屋は赤いお嬢さんを散歩に連れ出す場所と時間がなく、このままいけば恥ずかしながらバッテリー上がってしまいそうです。ただろくに走らないのでガソリンを使わない究極のエコカーと言えましょう。

たまに泳いではというご指摘ですが、懐かしの浜辺即ち現在のフェリー桟橋から飛び込む勇気もなくただあわただしい一日が過ぎていく毎日です。三丁目の夕日は思い出の中だけで終わりそうです。

No title

久しぶりの、ちわっす! です。
私は山奥の育ちなので同じ日本でも全然違うものだと感じさせられてしまいます。
海は近い(1時間かからない)ですが昔はゆとりもないのでめったに海には出かけていませんでしたので、夏は川が海代わりでした。
小学校も中学校もプールはなかったので、私は泳ぎは苦手です。 川には、鮎やナマズやウグイなどがいましたし、谷に入っていけば岩魚ややまめやアマゴなどがわんさかいたそうです。
小学校の下校時には野菜を少しいただくなど、自然満喫でした。
このころの野菜の味がいまでも私の野菜に対する味の基本です。 きゅうり、トマト、茄子、トウモロコシ、エンドウ豆など。スイカや瓜などはいつでも畑に行けばあるという時代でしたが、今は猿、猪、ハクビシン、カラスにほとんどが食べられてしまい、親も作らなくなってしまい、獣が食べない オクラ、ピーマン、ゴマ、が主流になっています。 キュウリや茄子は防御すれば何とか確保できますが、瓜やスイカなどは防御が大変です。
夏の食べ物で思い出すのは、雲丹の卵巣の塩漬けでしょうか。
海が割と近いので昔は浜のおばさんが行商に定期的に来ていて、夏には必ずこのウニの塩漬けがありました。子供の時はそれほどおいしいとも思ってませんでしたが、アルコールのつまみには最高ですが、現在は高すぎて手が出ません。
山の中なので朝晩は涼しく、昼間は当然それなりに暑いのですが我慢できないほどではないこともありエアコンは一度も取り付けたことはありませんし必要ない環境だと思ってます。(当然よその家はエアコンがついていないところはほとんどありません)
先日小学校の同窓会があって、一番奥の村にいた同級生の話ではツグミをとっていたそうで、それは表現できない美味しさだと語っていました。(当時でも捕獲禁止だったと思うのですが、自然の中で生活するとこんなものなのかもしれません)

Re:山の民、海の民

拝復、ちわっすです。最近辛口コメントが頂けてないので、その愛読者でもある奥村氏とのやり取りで上山に何かあったんではないかと心配していたところでした。そうでしたか、上山青年が松山藩とはご縁の福井藩のご出身であることは存じ上げておりましたが、バリバリの山の民であることは伝え聞いてはいたものの実感としてはよくわかっていませんでした。海には海の良さがあり、また山には山の良さがある訳で、上山青年も多感な少年期を水清き山里で過ごされたことがわかりました。長じては京都にて数奇なご縁となった訳ですが、我々高度成長世代も人生の後始末の時期に差し掛かっており、ウニの塩漬けやツグミの照り焼きはご用意出来ないかも知れませんが、一献傾けながら過ぎし日のノスタルジックメモリーに浸るのも、その時代を全力で駆け抜けてきた我々に許されるささやかなご褒美!ではないでしょうか。

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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