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混沌と秩序 vol.3:流通編(後編)

平成27年6月28日
古今東西、商い(ショーバイ)というものは有史以来延々と営
まれ、様々な形態を経て今日に至っていると思いますが、この
稿におきましてもタバコ屋流珍説流通論にお付き合い頂きた
いと思います。
カルタゴ5
ショーバイを場所に捉われず広域に行うものとして国同士の
貿易がありますが、古代ローマ時代には国レベルでの貿易
がさかんに行われ、商益(タバコ屋の造語)=国益であった
ためしばしば戦争になりました。ローマによって滅ぼされた
カルタゴなどはイタリア対岸の北アフリカに位置し、海洋
貿易のパイオニアとして随分栄えた訳で、ショーバイの原
点は双方にないものを補完しあう目的があり、そこに貿易と
いう業態が成り立ったと思うのです。それが国営だったのか
民営だったのかはよくわかりませんが、国を挙げての事業だっ
たことは間違いないところです。
カルタゴ2
ローマとしては地中海貿易を独占していたカルタゴが歯がゆく
てならず、その富を横取りするため戦争を仕掛け、ついには滅
ぼしてしまったという訳です。大きな見方として古代より貿易
は商い(ショーバイ)の原形であり今日もそのことは基本的に
変わりがないと思います。
平山郁夫:流砂浄土変1
また交易という言葉からはシルクロードが連想されますよね。
「♪月の砂漠をはるばると旅のラクダが行きました~」という
歌詞で始まる「月の砂漠」のイメージなんですが、中東ペル
シャから遥か東方の中国唐まで行商キャラバンがラクダを
連ねて気が遠くなるような長旅をし、ペルシャの品から文化
に至るまで運び、帰りは唐の産品や同じく文化を持ち帰ると
いうイメージです。国家レベルの貿易というものではなかった
でしょうが、当時世界を代表するこの二つの国際都市間交易
(バグダード~長安)がもたらした東西間の生活文化への影
響は大きいものがあったと思います。
ペルシャグラス1
西域からはブドー酒やパンやガラスが伝わり、唐からは中国
の三大発明とされる紙や火薬や羅針盤がペルシャに伝わる
といった具合でした。後日イスラムが航海術に長け、それが
やがて大航海時代に繋がるのは羅針盤のお蔭でした。
正倉院唐草文様2
この国際交易は極東の島国ジパングにも大きな影響を与え、
奈良の正倉院には中国の文化はもちろんのこと、ペルシャ
文様とか西域の文化が伝わっていますよね。当時の東西間
交易はタバコ屋にとっては貿易というより行商のイメージが
強く感じられます。
月の砂漠4
タバコ屋流珍説ではありますが、商い(ショーバイ)の原点は
まず貿易あるいは交易、それも行商にあると思います。
まるで乾いた砂に水を注ぐように、それを望んでいるところ
(需要)にそれを満たす品を運ぶ(提供)ことで、行商というの
は大切な営みであったと思います。購入する側にとっては個々
の品の相対的価値というのは中々わかりづらいものがあり、
行商の当事者にとって、商いによっては莫大な利益が得られる
という醍醐味があったことでしょう。そうでなければ、金銀の
元手を用意し、商品を仕入れ、ラクダを連ねて月の砂漠をはる
ばると命懸けで旅したりしませんよね。今流に言えばハイリス
ク・ハイリターンということでしょうか。

どうでも良いことながら、需要の中でもはっきりとわかっている
ものをニーズ(顕在需要)と言い、こんなものがあったらいいの
にというあいまいな願望をウォンツ(潜在需要)と言います。
市場3
次に古代より営まれたであろうと思われるものに市場がありま
す。西洋では市場のことを英語でマーケット、フランス語で
マルシェ、スペイン語でメルカドと言ったりしますが、貿易や
行商が広域で商いの場所を特定しないのに対し、市場はその
町だけの狭い地域に限定し場所も特定され、また多くの売り手
と買い手がそこに集まり、売ったり買ったりする訳で、そこに活
気が生まれました。当初は物々交換から始まったのでしょうが、
やがてオカネの出現により品物の相対的価値(値決め)という
のがますます重要になりました。
市場8
日本での市場と言えば戦国時代の末期、安土桃山時代と呼ば
れる時期に織田信長及びその後の豊臣秀吉が推奨したと言わ
れる楽市楽座がありますよね。これは従来一部の商工業者の
同業組織である座を廃止し新興城下町でいづれの商工業者も
非課税で自由に商い出来るようにしたもので、目的は城下町の
活性化にありました。信長以前にもその萌芽はあったようです
が、本格的に実施したのは信長であり、流通システムの一種
イノベーションだったと言えます。
大原女3-1
余談ながら、皆さんは商業者はモノを売る人、工業者はモノを
作る人というイメージを持たれていると思いますが、それは
間違いです。そうなったのはつい近年のことで、それまでは貿易
等の大規模な専門商人は別として、基本的にショーバイという
のはモノを作った人がじかに売るのが当たり前のことでした。

ちなみに英語で商人のことをマーチャント(merchant)と言い
ますが、売れる商品を企画し(または製造し)適切な価格で
適切な相手に適量を販売することをマーチャンダイジング
(merchandising)と言います。タバコ屋初公開の珍説ながら
マーチャンダイズする人のことをマーチャントと呼ぶように
なったのではないかと思うのです。
つまり、もともと商人はただ品物を右から左へ売るのではなく
モノ作りまたはその商品アイデアを発案し売れるまでの流れ
を作る人だったと思うのです。
IMG_3294.jpg
難しく考えなくてもたとえばお菓子屋さんなんか、代表的な製造
業兼販売業ですよね。ショーバイの原点でもある製造販売業
はやはり食べ物業が圧倒的に多いですが(例えばレストラン
とかうどん屋、そば屋、ラーメン屋、寿司屋等)全てそうです。
蛇足ながら写真はタバコ屋お気に入りの菓子司、京都満月
さんです。
(関連記事:終わりなき旅 vol.1:いざ京都へ参照願います)
パチンコパーラー1
ただしパーラーもそうではありますが、タバコ屋の恥ずかしい
思い出として、倅の大学が東広島にあった関係でそこに行って
昼時にパーラー大学と大きく書かれた看板のある店に飛び込
んだところ、そこはパチンコ屋だったと言う、笑えない実話が
ありました。
(関連記事:ハローたんぽぽ vol.5(完結編)参照願います)
東広島市3-1
同志社大学自動車部、元キャプテンのO氏が東広島在住で
当時東広島市役所のエライさんだったので一言聞いてから
行くべきでしたが市庁舎の威容に気後れがして聞きそびれ
たものの、すべてはあとの祭りでした。
また今では絶滅危惧種ながら洋服の仕立て屋さんなども戦前
にはパーラーならぬテーラーとか言って随分ハイカラなショー
バイでした。
IVY-1.jpg
話は飛びますが、タバコ屋が同志社大学自動車学部(そんな
学部はありませんが)に入学した頃、世は高度成長期真っ盛り
に突入する時代でした。学生の服装もガクラン一色のバンカラ
時代から一足飛びにアメリカンファッション全盛となりました。
アイビーファッション5
当時最新のトレンドとしてアメリカ東部の名門大学グループ
をアイビーリーグと言いますが、その学生やOB達が身に着
けていた一連の洋服アイテムをアイビーファッションと呼び
注目されつつありました。
VAN-5.jpg
仕立て屋でもありデザイナーでもあった若き日の石津謙介氏が
そのアイビーファッションをまるごと採り入れたファッション
ブランド「VANヂャケット」を創業し東京青山に本社を構え
銀座界隈のみゆき通りに店を出したところ、カジュアルという
コンセプトなどなかった当時、ファッションそのものに飢えて
いた若者は先を争って買い求め、そのVAN製品を着てVAN
の袋を持って歩くことが一種のステイタスとなりました。
みゆき族1
一時期「みゆき族」なる言葉が生まれるくらいの大流行現象
が起こりましたがこの現象はある意味ファッションの一大イノ
ベーションでもありました。若者向けの週刊誌平凡パンチが
大ヒットしたものこの頃です。
平凡パンチ1
念のためにそのアイビールックのスペック、及びディテール
を申し上げますと、シャツは基本的にボタンダウンで、ジャケ
ットは襟筋の縁にステッチの入った特徴的なもので、3つボタ
ン中一つ掛け、ズボンはスリムなストレートで、ネクタイは斜
めストライプ(レジメンタル柄)のもの等々一定の決まりごと
がありました。
アイビーファッション4
アメリカでは保守的な階層(ハイソサエティ)が愛用していた
伝統的(トラディショナル)なファッションだったものが、日本
では一転トレンディーな最新ファッションとなった訳でしたが、
当時の若者にとってはアメリカでは伝統的かどうかも知らず、
ただまばゆいばかりのアメリカン・ライフスタイルとして受け入
れたのでした。それ以来今日に至るまであの熱病のようなIVY
ブームに勝る流行というのを聞いたことがありません。
アイビーファッション3
写真はIVYファッションが最も似合うと思われるアメリカの
俳優ジョージ・ペパードで「ティファニーで朝食を」では若き
オードリー・ヘップバーンと共演し一躍世界的なスターとなり
ました。しかしこれもアメリカ人だから似合うのであってやや
サイズが控えめな一般の日本人には少し無理があったように
も思います。特にタバコ屋なんかは・・・。
(関連記事:4000坪のガーデニング vol.2:
ティファニーで朝食を
参照願います)

とにかく戦後の一時期、アメリカ文化が怒涛のように流れ込み、
それはかつての日本が、隋、唐の文化に憧れた時代や明治維
新の文明開化にも勝る強烈なインパクトを日本に与えました。

蛇足ながらおそらく100年後の歴史教科書にはこの時の時代
変化を称して、文明開化ならぬ文明爆発と表記されるのでは
ないでしょうか。寝ても覚めてもアメリカ、右も左もアメリカの
時代でした。
コニーフランシス1-1
尚、IVYファッションの流行に前後してアメリカン・ポップス
のオールディーズも大流行りしました。当時売れっ子歌手だっ
たコニー・フランシスが愛くるしい声で「ヴァケイション」とか
「可愛いベイビー」や「夢のデイト」等、青春ポップスを歌い
大ヒットしたのが懐かしいですよね。ま、我々団塊の前後世代
は愛しのコニーと歌が忘れられずオールディーズ専門のライブ
ハウスで各地にある「KENTOS」へ通ったりするそうです。
弘田三枝子1
ちなみに日本人歌手の弘田三枝子や中尾ミエ、伊東ゆかり
などがコニーフランシスのヒット曲を日本語で歌いこれまた
ヒット歌手に育っていきました。タバコ屋はその中でも弘田三枝
子嬢がお気に入りで、デビュー当時のただ若さでがなり立てる
ような歌よりも、その後やや成長してから後大ヒットした「人形
の家」に最もハマッておりその日本人離れしたボリュームの
ある声量とハスキーな音質は日本人女性歌手の中では過去
現在ともNO.1だと思います。ただ残念なことにその後はあま
りパッとせず、若い頃のあの顔が魅力的だったのにやたら整形
を繰り返し、オバケのようになってしまったのは残念です。
おまけに昨今はあの迫力ある声量も衰えてしまって余計に残念
です。親から頂いた大事なオカオをさわりなさんなっちゅうに。
オーティスケリー先生1-1
余談になりますが、タバコ屋が在籍当時同志社大学自動車部
の部長先生だったアメリカ人のオーテス・ケーリ先生は茶目っ
気はたっぷりながら質実なお人柄でした。身に着けていらっし
ゃったのは今から思い出すとトラディショナルながらもあまり
気取らない(地味な)アイビーファッションだったと思います。
ちなみに元USネイビー情報部将校だったケーリ先生の初期
の愛車はアメリカ軍御用達のトラディショナル乗り物「ジープ」
でした。先生は愛車にも我が子同様ニックネームを付けるのが
お好きで「sister kate=ケイト姉ちゃん」と付けられていまし
た。その意味については黒人の有名歌手アームストロング氏
との交流から生まれたのでしたが、話せば長くなるので省略さ
せて頂きます。
(関連記事:今出川でのこと vol.1参照願います)
マンシング1-1
ついでながら、当時のファッションとしてはブームとなりつつ
あったゴルフに乗じてゴルフウエア(おもにポロシャツ類)も
大流行となりペンギンのマークのマンシングウエア(デサント)
傘のマークのアーノルドパーマー(レナウン)、熊のマークの
ジャックニクラウス(コスギ)等、有名ゴルファーをブランド名
にしたカジュアルウエアが競って売られました。
ユニクロ1
後日談となりますが、今をときめくインターナショナル・ファ
ッション企業のユニクロの柳井社長はタバコ屋と同期かその
前後の世代で、実家は上記のVANヂャケットを扱うメンズ
ショップでした。
現在、シンプルな男女、親子、共有ファッションで世界を席巻
していますが、タバコ屋の私見ではユニクロの基本コンセプト
の部分は、このVANヂャケットが広めたアイビーファッション
が根強く反映されていると思うのです。何故ならタバコ屋や
ユニクロ創業者の柳井さんは青春時代をIVYで過ごしている
からです。その意味ではアイビーは時代を超えて現代のファッ
ションとして蘇っていると思います。
その柳井さんちのユニクロも衣料品の製造販売業ですよね。
つまりユニクロは商品企画から製造、販売に至るまで全部
自社でやっている訳で、タバコ屋理論でいきますと、柳井さん
は筋金入りのプロ商人ということになります。

どうでもよいことながら、ユニクロが現在使用しているロゴ
は一度マイナーチェンジされたものですが、写真のように
当初のロゴのほうが力強くインパクトがあり、タバコ屋はこの
方がお気に入りです。何故変えたんだろう?。

オクルマの世界でも、以前はメーカーが作り販売は代理店
等のエージェントが受け持っていましたが、最近では製造か
ら販売までメーカーが一貫してやる傾向になりつつあります。
街で見かけるディーラーのショールームは知らない間にメー
カー直営店になりつつあるのです。
市場9
イスタンブールくらい飛んでしまった話を市場に戻します。
古今東西、市場というのは世界共通のショーバイの形態だっ
たと思うのですが、市場には各地から様々な品が集まりそれを
求めて大勢の人が集うことで大変な活気が生まれました。
日本では楽市楽座の後、座という制度は崩壊しましたが、その
後問屋、仲買い、小売り、というような現代に繋がる業態が
徐々に生まれていきます。また販売する場所も独立した店舗
であったり同一業態同士でまとまったりしましたが何と言っても
「市場」というのは大勢の客が一度に集まる場所であり、タバコ
屋流に言いますと「トラディショナル・ショッピングセンター」
とも言うべきものです。
市場10
日本では京都の錦市場とか大阪の黒門市場等、その街を代表
する市場が各地に生まれ、その活況は今日に至っています。
只その伝統的ショッピングセンターは自然発生的に生まれた
ものだけに、また日々の食材の提供を中心にしたものだったの
で、片寄ったところもあり、衣食住にかかわる業種の総合的で
適切な配置という面には欠けていました。
ボンマルシェ2
そこで生まれたのが百貨店(デパートメントストア≒デパート)
でした。起源はヨーロッパで、世界初の百貨店はフランスの
ボン・マルシェ(おいしい市場?)だと言われています。
その後オ・プランタン等いわゆる富裕層を対象にした百貨店
が続々と生まれ、産業革命以来の大量生産に対応した総合
小売業という業態が確立して行きました。百貨店という新業態
は小売業のイノベーションでもありました。
越後屋1
日本での百貨店の草分けは何と言ってもミツコシですよね。
三越の創業は明治37年に三井呉服店によって設立された三越
呉服店に端を発しています。ちょうど日露戦争が始まった同じ
時期にミツコシは誕生しました。ルーツの三井呉服店は松坂
出身の三井高利が江戸時代初期(1673年、延宝元年)に江戸
本町一丁目で越後屋という小さな呉服店を開業したのが始まり
で店は小さいながらも営業方針が大変ユニークかつ革新的な
ものでした。
越後屋3
当時の呉服屋は大名や富裕商人層を相手に屋敷まで出向いて
行きいざ購入となると値決め交渉や掛け売り(後日集金)が常識
でしたが、それを廃止し大衆主義(富裕層でなく大衆相手に店舗
で販売)や現金正札主義(値札通りの価格で現金決済)及び
顧客主義(客の求めに応じて反物を必要なだけ切り売りする)
等今迄考えられなかった斬新な商法で当時の江戸っ子をアッと
言わせ大繁盛となりました。
銀座4三越2
極めて革新的な小売業のイノベーションが江戸時代に三井
高利によって成されましたが、この現金正札制(定価販売)は
世界初の画期的なものでした。
越後屋時代の看板には左右にげん銀、かけ値なしと書かれて
いるのが見て取れます。
(関連記事:千葉・東京巡礼 vol.2:銀座界隈参照願います)
越後屋4
尚、その後越後屋は両替商(銀行)も行い本業の呉服よりも
副業の方が大きくなって今日の三井住友銀行に発展するの
ですが、三越は三井家の三と越後屋呉服店の越を合わせた
店名(社名)にて百貨店事業に専念し今日に至っています。
三越本店3
三越は日本の百貨店(デパート)の歴史そのものと言ってよく、
店内に食堂を設けたり、美術の展覧会を開いたり、屋上に庭園
や遊技場を作ったり、日本で初めてのエスカレーター、エレベ
ーターを設置する等、何もかも初めて尽くしで「今日は帝劇、
明日は三越」の名コピーが生まれたくらい日本の消費文化を
牽引して来ました。
ただ皮肉なことに、三井高利の経営理念は大衆志向でしたが、
明治以降の三越百貨店は高級志向となり存在感とプレステー
ジは最高になったものの、庶民からすれば逆に高嶺の花と
なりました。
(関連記事:千葉・東京巡礼 vol.2:銀座界隈参照願います)
銀座4三越1
その後の百貨店は三越を頂点に大丸、高島屋、そごう、松坂屋
等の呉服屋系と阪急、阪神、近鉄、東急、西武といった電鉄系
に分かれて覇を競ってきましたが、かつてヨーロッパからやっ
て来たその革新的小売業態もやがて戦後アメリカから日本に
上陸する次の時代のイノベーターによって主役の座をおりる
時が来ました。
ダイエー1
それは何かですって?、皆さんもよく御存じのスーパーマーケ
ット
です。スーっと出てきてパーっと消えるのがスーパーだ、と
言った不届き者もいたようですが昭和30年代より当初は「主婦
の店
」といった名前で出現し越後屋の経営理念と同じ大衆主義、
現金正札主義を打ち出しました。さらに顧客主義としてセルフ
サービス方式を採用し、市場にしろ百貨店にしろ当時は対面
販売が常識だったものを客が自由に商品を手に取って吟味出
来、店員に気兼ねなく必要なだけ購入出来るようにしました。
(関連記事:人生いろどり参照願います)
ダイエー4
セルフ方式の導入にあたり、最後の精算をどこかでする必要が
あり、店の出口付近に勘定場(cashier's counter=レジ)を
設ける必要がありました。そこには当時見たこともない金銭登録
機(cash register=レジスター)が置かれましたが前回の記事
でご紹介したようにヨキミセサカエル等と8分類して部門ごと
に売上げや客数及び販売点数を記録出来るキカイでそれに
より客単価等も分析が可能になりました。要するにショーバイ
がより科学的に行えるようになったのです。
キングカレン2
小売業の革新的業態であるスーパーマーケットの発案者(発
明者)はアメリカのマイケル・カレンで何と昭和5年!という
早い時代にキング・カレンという店をオープンしたのが最初
でした。彼は低価格、現金払い、配送なし、大規模店舗、大
駐車場といった特徴を持つ新しいタイプの食料品店を考案し、
それを実現しようとしました。また運営にあたってはセルフサー
ビス形式を採用し、クルマ社会であるアメリカの実態に合わせ
自由に買い物をしてレジで勘定を済ませた後、商品を直接駐車
場に運べるようにショッピングカートを発案する等、大変なアイ
デアマンでした。また経営手法においては部門別管理という
コンセプトを発案し自ら実践しました。
(関連記事:農業とレストア vol.3参照願います)
キングカレン
この部門別管理というのは複式簿記とまではいきませんが、中々
画期的な発明で、分かりやすく申しますと、ある部門をずっと
原価で売り続けても(例えば卵とか)ほかの部門(たとえば惣
菜等)で利益を上げ、トータルで目標の利益が確保出来れば、
結果として安さの演出が出来るという非常に科学的、戦略的
手法で、タバコ屋流珍説によると、スーパーマーケットの発明
がハードウエアの大発明だとすれば部門別管理は複式簿記と
並ぶソフトウエアでの大発明だったと思います。
アメリカンドリーム2
余談になりますが、戦後怒涛のようにやってきたアメリカの様々
な技術、文化、(オクルマやIVYやアメリカンポップスを始め
家電製品やシステムキッチン等に及ぶまばゆいばかりのライフ
スタイル=いわゆるアメリカンドリーム)と共にアメリカでは
常識だったものの、当時の日本では見たこともない革新的な
業態であるスーパーマーケットが進歩的な知識人や書籍によっ
て紹介され、またアメリカのレジメーカーであるNCRが自社の
レジスターを日本へ売り込むため、スーパーマーケットの普及
を促進した一面はありましたが、戦後の闇市から始まった当時
のショーバイの無茶苦茶ぶりに絶望していた日本の若き商人
達によって熱病のごとく歓迎され、また言うなれば新興宗教の
バイブルとしてスーパーマーケット理論の学習と実践が開始さ
れたのでした。
その若き商人達と言うのは後のダイエーの中内氏、ジャスコ
の岡田氏、イトーヨーカ堂の伊藤氏、ニチイの西端氏、等錚々
たる顔ぶれでした。
ダイエー4
当初彼らは、まず主婦の店という名前のセルフサービス店
(はっきり言ってちょっと変わった八百屋の安売り店といった
イメージ)からスタートしましたが、徐々に力を付けアメリカの
模倣(パクリ)ながらも日本全国に本格的?(日本的な)スー
パーマーケットを展開するようになりました。日本的なと言う
のはアメリカと違って郊外ではなく駅前の立地に出店していっ
たことです。アメリカはすでにオクルマ社会だったので郊外
(サバーバン)の広い場所に出店出来たのですが日本はモー
タリゼーションの夜明け前のお話にて駅前(ダウンタウン)に
出店するのが当時としては妥当な選択でした。
スーパー2-1
これはオクルマ業界でも同様で、昭和30年当時は世界で最
も進んでいたのはアメリカでありキャデラックやシボレー等が
最先端の革新技術(オートマやエアコン等)を発明して世界を
席巻していました。片や日本は虎の子だった航空機産業を
完膚なきまでに叩きのめされ破壊されていたので、平和産業
としての自動車は零からの出発であり、まずアメリカの模倣か
ら始まった訳で、その意味で日本の戦後流通業は似たような
混沌(カオス)の状況にありました。
(関連記事:ブランドに秘められたもの vol.2:外国車
参照願います)
ウォルマート1-1
しかし超!先進国アメリカでは次の段階として既存のスーパー
マーケットを核にして衣食住製品を全部品揃えし大規模な売り
場と広い駐車場を備えたこれまた革新的な業態であるショッ
ピングセンター
が主流になりつつあり、日本でも前出の革新
的小売業者達がアメリカ視察等、研究を重ね開発に取り組む
ようになりました。言ってみれば、遣唐使や維新の西欧視察
同様これまた模倣(丸パクリ)から始まった訳です。
ダイエー5
タバコ屋が同志社大学自動車学部?に入学した頃が丁度その
時期で、忘れもしませんが当時香里園にあった同志社大学香里
体育ハウスでの強化合宿中、食事は自炊でしたが、自動車部
ゆえ買物はオクルマで移動し香里園駅の近くでその年の昭和
44年にオープンした日本初!の本格的ショッピングセンター
「香里ショッパーズプラザ」によく通いました。これは当時飛ぶ
鳥を落とす勢いだったダイエーが実験店として開発した意欲的
かつモダンな店舗でした。
ただし買い物内容はカレーかおでんの材料と相場は決まって
おりお粗末なものではありました。しかしタバコ屋にとっては、
百貨店とは全く違う、今迄見たこともないような店舗で一種の
カルチャーショックだったことを鮮明に覚えています。
(関連記事:夏の日の思い出 vol.4:トライアスロン大会
参照願います)
イオン6-2
その後の日本の流通革新は留まるところを知らず次々にアメ
リカ流の新しい業態を導入していきました。ドラッグストア、
ホームセンター、コンビニエンスストア、等々また最近では
メーカーが余った品をお化粧直し(ラベルを替えたり)して
安く販売するアウトレットなども出現し、また百円均一がウリ
のダイソーとか激安が謳い文句のドンキホーテとかも出て
来ました。おまけに家電量販店から中古のオクルマ量販店
等も大繁盛で、それがまたショッピングセンターの中で同居
したりしてもう百花繚乱の時代となりました。
ウォルマート4
それとアメリカ商業文化のもう一つの大きな特徴と言うか、
イノベーションとして、チェーンストア(連鎖店)があります。
アメリカはとにかく広い国土であり、都市や町もあちこち散ら
かっているので、デパートにしろスーパーにしろドラッグスト
アのような専門店(スペシャリティストアと言います)にしろ
多店舗化しないと多くの売り上げが望めないのです。
ウォルマート11
アメリカの代表的な総合小売業としてウォルマートがあります
が当然ながらチェーンストアでアメリカだけで5,000店舗以
上、国外にも1,000店舗以上をチェーン展開し、売り上げも
40兆円以上で、航空産業、石油、自動車等全産業の中でも
世界一位の売り上げ規模であり、もちろん小売業ではダントツ
トップで、チェーンストアの凄さがわかって頂けると思います。
ダイエー
日本にも支店経営はありましたが、アメリカのように本社また
は本部が集中的に仕入れや店舗管理をシステム的に行うやり方
はそれまでありませんでした。日本でスーパーやショッピング
センターの実現を夢見た若き商人達は同時にチェーンストアと
いうアメリカ流のやり方にビックリ仰天し、それは熱病となり、
スーパーを武器にして主だった街の駅前にことごとく出店する
という日本流チェーン展開を実践したのですが、地元の既存
商店街や市場は死活問題であり、摩擦衝突を起こし、行政も
放っておけずその調整に随分苦労した負の現代史もあります。
モール5
それまでタバコ屋世代以上の年代の価値観であった普段の
買い物は近くの市場や商店街や駅前のスーパーで、また贈り
物はミツコシでという秩序(オーダー)は今や大きく変化し、
日本のモータリゼーションも爛熟期を迎えた現在、行動範囲
が広がるとともにお買い物の選択肢が極端に増え、新たな
混沌(カオス)が生まれています。その間かつての革新勢力
だったダイエーやジャスコやニチイ、セイユー等は時代の
役割を終え、百貨店がかつてそうなったように破綻もしくは
大不振に陥っています。
モール3-1
今日最新のコンセプトは大規模なショッピングモールと言うの
が世界共通のトレンドであり、郊外型のものや大きな公共施設
に隣接したもの等様々です。単なるショッピングセンターでは
なくなり、レジャー施設、劇場等アミューズメント機能を備えた
巨大複合施設となりつつあり、施設というよりは一つの街といっ
たほうが良いかも知れません。
モール1
写真は世界一のショッピングモール、モールオブアメリカです
が、何十万坪という敷地にこういう人工的な街が出来ること等
アメリカならではのスケールですが、商業の革新は留まる所を
知りません。革新的商人であった三井高利がもしこのモールを
見たとしたら、よし日本でもこれをやろうじゃないかと言った
かも知れません。

思えば、日本は2,000有余年の歴史において、最初は中国、
朝鮮の先進文化を学びやがて近世ヨーロッパ文明を吸収し、
戦後はアメリカの技術、文化を学んできた訳で今や航空宇宙
分野を除き、世界のトップランナーの地位に近づきつつある
と思います。
ショーバイの世界においても情報が瞬時に世界中を駆け巡
る時代となり、インターネットを駆使した新しい業態が次々に
生まれようとしています。しかし時代は変わろうとも商いの基本
が変わる訳ではありません。店は店主、経営者のためではなく
お客のために存在するものである以上、自ら変化してその時代
に適応しない限り、新しい革新勢力によって淘汰されるのは
仕方がないと思います。つまり「店は客のためにある」というの
は永遠の真理なのです。
ドラッカー2
タバコ屋の敬愛する、アメリカの経営学者P・F・ドラッカー
博士は「事業とは新しい顧客を生み出すことである」と言われ
ました。タバコ屋程度の頭ではその深い意味を理解出来ませ
んが、それには常なるイノベーションが必須であることは若干
わかるような気がします。
(関連記事:
カーオブサイヤー異聞:間違いだらけの受賞車選び
参照願います)

また別の視点ながら、かつて中世には文明の後進国であった
ヨーロッパがルネサンス以降、短期間で世界の先進国にな
ったのは隣国同士がマネをし合ったからだと言う人もいます。
我がNIPPONはマネ専門の国のように思われていますが、
決してそうではありません。戦後日本のオクルマ、電機業界
がそうであったように、流通業界においても創意は尊びつつ
良いことはマネることが次の進歩に繋がるのだと思います。

何やら今回は日本とアメリカの流通史みたいなことになりまし
た。ただ神戸方面の読者から長すぎると大ブーイングが起き
そうなので、紙数も尽きたようにて今回はこれくらいで終わりに
致します。長たらしい記事ながら長時間のご精読有難うござい
ました。

尚、ショーバイのことについて書きたいことはまだ山ほどあり
ますので、ひょっとしたら、第四部まで行かねば終わらないかも
知れません。その節はお楽しみに・・・。

(尚、文中の歴史説明や一部写真はウィキペディア及びヤフー
ネット画像等引用させて頂きました。)

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
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