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異説:007私を愛したスパイ

平成28年1月12日
限定読者向け、新春ノスタルジック劇場
皆さん明けましておめでとうございます。あっという間に
平成27年も終わり、平成28年の幕が切って落とされまし
た。年頭にあたり、タバコ屋は楽しい話題で始めたいと
思ったのですが先日の記事でもお伝えしたように、同志
社大学自動車部のOBにとっては、あまり見たくない現実
も見せつけられ、嘆かわしいやら悲しいやら、また懐かし
いやら、諸々の感傷がよぎったことではありました。

ただ大学卒業後、就職、結婚、子育て、お仕事とこの40
年余りを慌ただしく過ごしてきた我々団塊の端の世代に
とってそれらのことが一段落した今、当時のことが無性
に懐かしくまた愛おしい気持ちになっているのはタバコ
屋だけなんでしょうか。その時の4年間というのはそれな
りに一生懸命だったと思うのですが、40数年を経てその
体験は一つのアイデンティティ(自己証明書)となりつつ
あるのだと思います。

さて、新春第一弾ですがこの際嫌なことはパロディで笑い
飛ばし新たな気持ちで臨みたいと思います。そこで一計を
案じ、タバコ屋が青春時代を過ごした自動車部時代の思
い出に絡めた泣き笑いの物語を皆さんにご披露すること
に致しましたのでご笑読頂ければ幸いです。

タイトル:「007 私を愛したスパイ」改め
      「205 タバコ屋が愛した部車
作者:  「イアン・フレミング」改め
      「いやん・ぶれミング
主演:  「ロジャー・ムーア」改め
      「同志社大学自動車部 有志
ボンドカー:「ロータス・エスプリ」改め
      「同志社大学自動車部 歴代部車

時代背景:昭和44年(1969年)~48年(1973年)日本の
高度成長期、モータリゼーション華やかなりし頃当時の若
者はオクルマが憧れであり、一種神の如くでもありました。

物語の舞台とストーリー:京都今出川の一隅で起こった
オクルマにまつわる様々なエピソードと、それに関わった
若者達の青春群像。尚、サブテーマはオクルマその後の
ミステリアスな消息??
私を愛したスパイ1
物語に入る前に実際の007「私を愛したスパイ」について
おさらいの意味でご説明しておきます。この作品は007
シリーズ10作目のもので、当時のお金で20億円もの巨費
を投じて製作され昭和52年(1977年)に公開されましたが
たちまち大ヒットとなり、007シリーズとしては過去最大の
成功作品となりました。
私を愛したスパイ2-1
娯楽作品ゆえストーリーは荒唐無稽なものですが、念の
ためにご説明しますと、核ミサイルを搭載した英潜水艦
「レンジャー」とソ連潜水艦「ポチョムキン」が突如消息を
絶った。調査を命ぜられたボンドはエジプト・カイロへ飛び、
そこで同じ目的でソ連が派遣した女スパイ、アニヤKGB少
佐と出会う。英ソの利害が一致したことからボンドとアニヤ
は共同で任務に当たるが、事件の直前、ボンドに差し向け
られ返り討ちにあったソ連の殺し屋は、彼女の恋人だった。
「この任務が終わったら、あなたを殺すわ」そう言われた
ボンドは彼女と共にアメリカ海軍の潜水艦リパラスに乗り
込み怪しいとにらんだストロンバーグ海運のタンカーに接
近する。ストロンバーグは米ソを核攻撃し世界を壊滅させ、
海の世界を作ろうとしていたのだったが、2人は勇敢にも
そのタンカーに乗り込み、勇猛果敢な活躍でストロンバー
グの野望を打ち砕く。その後2人はハッピーエンドとなった
のかどうか・・・。あとの結末はDVDにてお楽しみ頂きたい
と思います。
私を愛したスパイ15
007でいつも楽しみだったのは現実離れした数々の秘密
兵器とボンドカーでした。過去にはトヨタ2000GTも採用さ
れたことがあり、定番はアストンマーティンDBシリーズでし
たが、この作品では何とロータス・エスプリが採用されたの
です。エスプリはミッドシップエンジンのスーパースポーツ
カーで既に発売していた同じミッドシップカーのロータス・
ヨーロッパの上級版という位置付けでした。エンジンは2L
水冷DOHC4気筒で160馬力程度ながらボディは画期的な
FRP製で非常に軽く、当時としては極めて高性能でした。
(関連記事:GTのお話 vol.1参照願います)

また、ウエッジシェイプの最先端デザインは、タバコ屋の
お気に入りであるジウジアーロが手掛けたもので、今で
は丸みのある曲線デザインが主流となっていてこのよう
なパキパキした直線デザインは流行りませんが、当時は
極めて斬新なもので、タバコ屋流に言うならばチンケでは
なく、モダーンなデザインだったと思います。
私を愛したスパイ7
ただし、撮影に際しては所詮浮世離れしたオクルマである
ため乗降性が極端に悪く、またしょっちゅう故障したため、
一部のシーンでは実際に運転した主演のロジャー・ムーア
も閉口していたとか。何やこれ!とか関西弁では言わなか
ったでしょうが、オーマイ・ガッドとか言ったんではないでし
ょうか。それにしても愚痴ながら、人生一度だけでいいから
こんな美女に寄り添われてみたかったタバコ屋です。
私を愛したスパイ8
何と言っても圧巻だったのは、ボンドが追っかけられて、
手に汗握るカーアクションの後、こともあろうに車ごと海に
ダイビング、エスプリが潜水艇に早変わりしたことです。
エスプリは、もちろん実際には潜水は不可能で、そのシー
ン撮影のために数千万円もの費用が投じられ、模型も含
め7台の別注モデルが用意されたとか。そのうちの一台は
実際に水中潜行が可能なものを製作し、撮影に使用され
ました。映画の水中シーンで出てくるのはズバリその別注
品です。ただし実際は車内は水浸しでアクアラングを付け
たスタッフが操縦したそうです。
5 1971 毎日ラリー
さて今回の物語です。突然の写真で恐縮ながら、これは
物語の舞台となる45年前!の同志社大学自動車部新町
ガレージ前で、このブログには度々ご登場頂く元校長セン
セ平尾氏が現役時代、毎日新聞社主催の毎日ラリーに
当部を代表し同期生チームを結成して見事優勝した翌年、
招待チームとしてゼッケンNO.1を頂戴し、この年も5位入
賞を果たした時のものです。残念ながら今となっては当時
のガレージの写真がほとんどなく、このお写真を借用致し
ました。
ついでながら写真は左から同期の吉田(旧姓庄坪)、平尾、
小田(旧姓佐々木)、増本、の面々です。皆の若いこと!。
(関連記事:校長先生の青春 vol.1:ラリーへの熱き思い
参照願います)

タバコ屋は昭和44年(1969年)に入学しましたが、当時は
大学紛争のピークであり、京大、同志社は過激派の学生
により封鎖され、無残な状態でした。それでも入学時は
今出川キャンパスで各クラブが入部勧誘合戦を繰り広げ
ており、オクルマが大好きだったタバコ屋は特別な理由も
なく甘い言葉に乗せられてただフラフラッと入部してしまい
ました。
(後日談として、一期後輩の東広島出身の元キャプテン、
奥村氏もタバコ屋とほぼ同様に甘い言葉に騙されてうか
つにも入部してしまったそうです。)
その時甘い言葉を囁いたのは忘れもしません、広島出身
の和田先輩でしたが、その後地獄のクラブ生活が待ち構
えていようとは夢にも思いませんでした。
今から思えば「俺々サギ」なんて可愛いもんで、タバコ屋は
奥村氏同様「イケイケ詐欺」に会ったようなもんです。
今から思えば、同期の元兵庫県警のエライさん、ギーちゃ
んこと森本氏のスローガンでもないでしょうが「気をつけよ
う、暗い夜道と入部勧誘!

いすず6t-1
タバコ屋は内心入部を決めたものの、その前に自動車部
とはどういう所か確認してみたいと思い今出川キャンパス
の西筋にある新町キャンパスの北東隅にあったガレージ
を恐る恐る覗きに行ったのでした。
そこにあったのが写真のいすゞ6tボンネット型!トラック
でした。その時は、クラブで何か荷物でも運ぶのに使うの
だろうか、と単純に思っていましたが、入部後にわかった
ことながら、このいかついトラックはフィギュア競技に使う
オクルマだったのです。ここだけの話ながら、その時の何
やら逞しいお姿が入部の直接のきっかけとなりました。

フィギュア競技と言っても皆さんピンとこないと思いますの
で簡単にご説明しますと、運転免許試験場のコースを3倍
くらい難しくしたコースへ障害物や、車輪停止確認枠など
を設定しそこをスムーズに、かついかに速く帰ってこれるか
を競う競技で、オートマはもちろん、パワーステアリングも
シンクロメッシュも何も付いていなかった当時のオクルマで
思うように運転(操縦)しようと思えば停止寸前に力まかせ
にステアリングを据え切りしなければならず、かなりの腕力
と体力を要する競技で、自動車部が体育会に所属する理
由がそこにありました。
いすず6t-5
当時のいすゞ6tトラックのコクピットズバリではありません
がそれに近いと思われるイラストです。(多分前期モデル)
シンプルと言えば聞こえがいいものの、巨大なノンパワー
のステアリングにノンシンクロの5速ギヤミッション(回転を
うまく合わせないとガリガリ言ってギヤが入らないしろもの)
運転に必要なもの以外はまったく付いてないスパルタンな
コクピットでした。このオクルマを超スロースピードで複雑な
コースをうまく操縦しようと思えば、半据え切りもやむを得
ず、そらまあ腕力も、体力も要りますわ。
相国寺3-1
突然の写真で恐縮ながら、腕力と体力を鍛えるためにどう
したかと言いますと、合宿での地獄の特訓はさておき日々
のトレーニングはもっぱら今出川キャンパスの北隣にある
臨済宗(禅宗)の巨刹(きょさつ)である相国寺(しょうこくじ)
へランニングしていき、その境内でダッシュから、腕立て伏
せから、腹筋から、背筋から、思い付く筋肉強化法をすべ
てやり、その後またランニングで新町ガレージに帰って来
るという毎日でした。タバコ屋は4年間そのトレーニングを
馬鹿正直!にやりましたが、シルベスター・スタローンみた
いな体にはならなかったので、スタローンはもっと過激な
訓練をしたのだと思います。
IMG_2245.jpg
またしても突然の写真で恐縮ながら、その相国寺の烏丸
通りを挟んだ西隣りにある「京楽食堂」です。同志社大学
自動車部御用達の食堂で、タバコ屋は1~2回生の時は
学食で素うどんかきつねうどんが定番、3~4回生の時は
やや出世して(仕送りは変わりませんでしたが)京楽食堂
のざるそば&親子丼、夏は冷麺&焼き飯が定番でした。
IMG_2248.jpg
しかしこんなもので筋肉が付くと言うのでしょうか。スタロー
ンは多分、タバコ屋がこんなお食事をしている間にステー
キをたらふく食べて、キン肉マン養成プログラムに励んで
いたと思うんです、チクショー。
(関連記事:京都・静岡巡礼 vol.1:今出川慕情参照願い
ます)
P1040207-1.jpg
3度目の突然の写真ながら、左は一期後輩の通称ヘータ
こと井村氏ですが、一説によると高校時代は高砂の神童
と言われ、東大合格間違いナシ?だったそうなんですが、
その東大が学園紛争で受験中止となり泣くの涙で同志社
に入学したという逸材です。欠点のない彼ですが唯一女
に冷たいところがあり、名前は言いませんが後輩の可愛い
お嬢さんを泣かせたと聞いています。それは水に流すとし
て、右の白衣のお方はタバコ屋が4年間お世話になった
上記の「京楽」のおっちゃんです。井村氏は数年前、なつ
かしの相国寺を散策中、偶然出前を配達中のおっちゃん
に再会したそうでその時の貴重な写真をタバコ屋にお送
り頂いたものです。あの頃、飛ぶ鳥を落とす勢いだった
ダイエーは今はなく、今出川キャンパス界隈にあったお店
も今はほとんど入れ替わっている今日、京楽のおっちゃん
が現役で活躍しているということは神の技だと思います。
同志社2-1
ついでながら、井村氏が今出川キャンパス界隈を散策中
これまた偶然にもアーモスト館の前で、元アーモスト館の
館長であり、またタバコ屋が現役時代は自動車部の部長
先生をして頂いた、オーテス・ケーリ先生のお嬢さんであ
るベスさんとお会いし、それ以降ベスさん及びアーモスト
館の寄宿生のOB会である同志社アーモストクラブ(DAC)
の会報誌の編集長をされている吉﨑さんとの出会いがあ
りました。双方のクラブの80周年ということがきっかけでは
ありましたが、それ以来タバコ屋も交えて、ケーリ先生ゆか
りのアーモスト館と自動車部とのご縁の糸が繋がりつつあ
ります。その最大の功労者は井村氏ということになるので
はないでしょうか。
(関連記事:札幌紀行 vol.2:小樽へ参照願います)
相国寺4-1
余計なお話ですがプロテスタントクリスチャン系の同志社
大学の隣に臨済宗(禅宗)の有名なお寺があるのはどう
ゆうことやねん?と思われる読者も多いと思います。
相国寺は元々室町時代、時の将軍、足利義満が建立した
寺で、相国寺派の大本山でもある名刹にて、今では本山
よりもその分院?的な山外塔頭(たっちゅう)である金閣寺
銀閣寺のほうが有名ですが、時代が進んで幕末には本山
の南隣が元薩摩藩の京都藩邸だったものの、維新時の
紆余曲折により同志社校地となった訳で、そのいきさつは
別記事にてご説明していますが、いわば同志社は新参者
ゆえ相国寺に対し、デカい顔は出来ないのが筋と言うもの
でしょう。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.3参照願います)
IMG_1742.jpg
話が随分脱線してしまいました。フィギュア競技のお話に
戻ります。競技はクラス別に構成されておりトラック部門
が大型貨物、小型貨物の2クラス、セダン部門が普通乗
用と小型乗用の2クラスに別れ合計4つの部門でそれぞ
れ別のコース設定により競われました。
タバコ屋は、大きなオクルマに乗ってみたいあこがれの
様なものがあったので、競技に当たっては大型貨物車を
専攻することになりました。
試合は大学対抗の小規模なものから、全関西大会、全日
本大会の大きなものまであり、それに備えて合宿により
猛練習を行った訳です。
IMG_6032-1.jpg
タバコ屋が4回生の時、全関西学生自動車運転競技大会
(全関フィギュア)が大阪の門真市であり、大会委員長は
当部のOB会長である浪速三菱自動車社長の島治三郎
氏で、また僭越ながら選手宣誓をタバコ屋が拝命したこと
もあり負けられない試合でした。

さて試合です。タバコ屋の乗車する大型車のコースでいつ
もよりかなり難しいコース設定をされている個所が一つあり
ました。それは6個?の障害物(空き缶)を3個づつ並行に
2列並べ、バック走行にて内輪がその障害物に触れないよ
う走行すべし、というものでした。バック走行では車体が大
きいためその障害物が直前にはミラーで確認出来ないの
です。合宿練習中でもその箇所が非常に難しく、成功の確
率は大変低いものでした。試合においても他校の選手は
その箇所で障害物を踏んづけ大分減点を食らっていました。

次はタバコ屋の出番です。問題の難所に差し掛かりました
が、やることはやったため神にも祈る気持ちで慎重にバッ
ク走行をしたところ、何と障害物に当たらずに見事通過出
来たのです。タバコ屋はこの時点で優勝を意識しました。
あとは何の造作もない左廻りの直角クランクを通過すれ
ば栄光のゴールが待っているだけでした。窓から身を乗り
出せば境界ラインの確認も出来たのでしたが、早くゴール
に辿り着かねばと思ったのかどうか、確認せずに通過し、
結果はラインを踏んで減点されてしまいました。恐らく難
所を通過するのにやや時間がかかったせいでタイムロス
もあったのでしょう、結果は3位で優勝は広島大学でした。
F1イタリアGP
こじつけながら、カテゴリーは全く違うものの、F1レースで
トップを走っていたドライバーがゴール直前で、はやるあま
りスロットルを踏みすぎ、エンジンブローして優勝を逃すよ
うなシーンはよくあるのですが、それと似たようなケースだ
ったように思います。

ここで一つの問題が起こりました。優勝した広島大学が
難所を通過する際、奇想天外な方法をとったのです。
その方法とは無理にバック走行を試みず、いったん障害
物を確認しながら前進走行で易々通過し、そのままバック
走行で障害物をクリアするという方法でした。その方法だ
超短時間!で障害物を安全に通過出来るため、一見賢
いやり方だとは思いましたが、2度にわたり障害物を通過
するため、タバコ屋はインチキ走法だと感じていました。

タバコ屋から言い出したことではありませんが、頭の良い
同期の増本氏が問題にし「広島大学の走法は後進走行で
障害物を通過すべしという規定を無視した違法走行であり、
フェアプレイの精神に反するため失格にすべきである」と
本部に申し入れをしました。本部も初めてのことで検討して
いたようですが、事前に前進走行で障害物を通過しては
ならない、ということが明文化されてなかったので判定は
覆りませんでした。総合では団体戦2位という成績でした。

歴史にIFはありませんが、もし広島大学の大型車部門が
違法走行で失格処分を受けていたら、当然のことながら
同志社大学は優勝を勝ち取ることが出来ていました。
この大会に賭けていたタバコ屋は後味のスッキリしない
試合となり、それ以降トラウマとなって残りました。
ただ選手宣誓時に「正々堂々と戦うことを誓います」と
宣言したことは守ることが出来たと今でも思っています。

思わぬ伏兵のインチキに近い奇策により優勝を阻まれた
同志社でしたが、F1やWRC(世界ラリー選手権)のように
年間何戦も戦うのではなく年1回の一発勝負であり、全
関西の他校の手の内がほとんどわからず、ただがむし
ゃらに練習して試合に臨んだ結果でしたが、後になって
現実にはそれは不可能だったにしても、戦さの基本であ
る「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉が
身に染みたタバコ屋でした。だってここだけの話、広島
大学は当時のタバコ屋にとって全く眼中にない相手だっ
たのですから。
花の中三トリオ2
一方一期後輩の花の中三トリオ改め、F・T・S最強トリオ
の女子チームが頑張り、団体戦優勝!をしてくれたので
やや溜飲を下げることが出来ました。尚、実物の彼女達
はこの御三方よりも、よりチャーミングでパワフルであった
ことを申し添えておきます。

同志社はフィギュア競技で関西最強と言われていたものの
一期先輩の部員数がどういう訳か数人に激減していた事
情もあって、思うような試合結果が出せず、その後幹部を
拝命したタバコ屋は自動車部の再興を掛けて乾坤一擲
大勝負に出たのでした。団体戦優勝をという思いは一歩
叶いませんでしたが、一期後輩の奥村氏、井村氏を始め、
同期の優秀な連中はタバコ屋の熱い思いを理解してくれ
ていていたと思います。
フィギュア
このセピア色の写真は全関西大会の後、福岡で行われ
た全日本大会にタバコ屋が出場した時のものだと思うの
ですが全関西大会のことが尾を引いたのか、あるいは
幹部交代式を済ませ、セミの抜け殻のようになっていたの
か、タバコ屋は良い成績を残せませんでした。しかし同期
の末永、南野、酒井の各氏が頑張ってくれて団体5位入賞
を果たしたことを覚えていますが、もう45年も前のことにて
大分記憶が薄らいでいます。
これ以上あれこれ思い出したり、考え込んだりすると薄い
頭が余計薄くなるので、大会の思い出はこれくらいに留め
たいと思います。
ヂャイアント号1
部車のお話に戻ります。実はいすゞ6tトラックを見た途端、
ある種の懐かしい風景が思い出されました。タバコ屋が
子供の頃(5~6才)我が家は本業の呉服屋兼衣料品店
を営むかたわら、島で初めてのバス事業に取り組もうと
していました。それは昭和28年から32年まで(1953年~
1957年)の5年間でしたが、その時採用されたのが当時
新進の愛知機械工業製のヂャイアント号でした。写真は
当時のものでいすゞ6tトラックとは随分時代が違いますが
ボンネット型というのが共通しており昭和40年代の初め
頃までは大型トラックやバスは殆んどこのボンネット型と
呼ばれるお鼻の長いボディでした。
IMG_0048-1.jpg
余談ながら、ヂャイアント号はとにかくよく故障し、走るより
ピットで修理している時間の方が長かったように記憶して
います。サイズは現在の大型ミニバン程度だったような記
憶がありますが、乗車定員は10人くらいではなかったかと
思います。タバコ屋の先代も島では画期的なバス事業に
挑んだものの、何分デコボコ道の環境整備から始めねば
ならずその運行は困難を極め赤字続きでした。しかし5年
後には当時全国で町村合併が推進され、ふるさと中島も
村から町に変わることになり、その時船やバスの交通機
関を町営化する機運が高まり、赤字続きで途方に暮れて
いた先代は中島町にバス事業を丸ごと買い上げてもらう
ことでその危機を脱したのでした。
タバコ屋は子供にて、そのようなことはつゆ知らず、毎日
飽きもせず有害であるとも知らずに排気ガスを嗅ぎまわ
るのが日課でしたが、のどかな時代ではありました。
(関連記事:マリー・アントワネットとフェアレディZの謎
参照願います)
いすず6t-2
いすゞ6tトラックの話に戻ります。タバコ屋は何も分らぬ
まま入部したのでしたが、その後このいすゞ6tトラックは
今で言うマルチパーパスカーであることが分かったので
す。正式にはフィギュア競技用の車両ながら、ある時は
恒例の長期遠征で、食料他諸々の補給母艦として活躍
し、あるいは蚊に食われながらの即席のベッドルーム
として活躍しました。また香里体育ハウスでの合宿に行
く時は自衛隊さながらで、臨時の部員搬送車にも早変わ
りしました。もちろん写真のボディに雨除けの幌が付いて
いたのは言うまでもありません。
いすず6t-4
タバコ屋が入部するきっかけとなった懐かしいいすゞ6t
トラックでしたが、その後2回生の時までは現役で使用
されていたのを覚えています。ここで今回の物語のサブ
テーマである「当時の部車、その後の消息」という事です
が、部車の最後の始末は現役の幹部(3・4回生)がする
のが恒例で、タバコ屋の記憶に残っていないのです。
【ミステリーその1】
いすゞ6tトラックはその後どうなったんだろう?
キャブール2-1
当時のフィギュア競技の小型貨物クラスに使用されてい
た競技車両として、ニッサンキャブオールがありました。
クラブではこの小型貨物部門が一番人気があり、それを
専攻する部員も一番多かったように記憶しています。
尚、写真ではディーゼルとなっていますが部車はガソリン
車で、縦型ライトの初期タイプだったように思います。
IMG_6038-1.jpg
大学対抗の試合の前には香里体育ハウスで合宿をし、
猛練習をする訳ですが、汗みどろでステアリングをこねく
り回し難コースを攻略するものの、中々思うようにはいき
ません。おまけに練習乗車する合間にはランニング、腕
立て伏せ、腹筋、あげくには大型トラック用タイヤにロー
プをつけ、それを腰に巻いて引っ張りまわすという荒行が
待ち構えており、まじめな部員程バテてしまうという毎日
でした。尤も要領のいい部員もいて、そこらは上手に切り
抜けたようですが・・・。

余談ながらタバコ屋が入部当時は新入生が30人程もいて
押し合いへし合い状態でしたが春、夏、秋と合宿を重ねる
ごとに部員が減っていき、卒業前に気が付くと13人に減っ
ていました。恐らく入部時に皆がイメージしていたカッコイ
イ自動車部と現実の部活動があまりにもかけ離れていた
ので嫌気がさしたのか、また部内での人間関係がうまく
いかず別の世界を求めたのか、あるいは本来の学業が
おろそかになってしまうのでやむなくやめてしまったのか
そのどれかだと思います。
しかし残った同釜の13人は紆余曲折はあったものの卒業
後40年以上経った今日でも、例えは悪いですが苦楽を共
にした戦友の如き親しい交流を続けています。

ついで話として、合宿時は誰かが嫌われ役、憎まれ役に
ならなければ強くなれないので、それは概ね鬼の練習主
任か主務あたりの幹部が引き受ける役割でした。タバコ
屋の記憶ではその鬼係を担当したのは九州のラーメン王
こと末永氏で、彼のおかげで特訓を受けたり正座の罰を
受けた後輩はかなりの数にのぼると思うのですが遠い昔
のことゆえ、記憶違いかもわかりません。
IMG_6029-1.jpg
後日談ながら、合宿に使用していた香里体育ハウスは体
育会での共同使用だったため、アメリカンフットボール部
とはいつも一緒でした。血気盛りの年頃故ある夜うるさい
といって隣室のアメリカンフットボール部がふすまを蹴破り
殴り込んで来たことがありました。あわや大乱闘となるとこ
ろでしたが、お互いの上級生幹部の取りなしで事なきを得
たことがあります。またタバコ屋の同期は女っ気のない男
所帯でしたが、一期後輩は3名のお嬢さんが入部し、その
うちのF嬢はお胸が外人級にふくよかで、練習時は上下動
が激しかったためアメリカンフットボール部の一部の部員
は練習が手に付かなかったことを当時の部員筋から最近
お聞きしました??。

合宿のことを書きながらふと思い出しましたが、香里体育
ハウスは合宿には適しているものの、香里園は京都と大
阪の中間くらいのところにあり場所的には不便でした。
それを解消するためかどうか、タバコ屋が1~2回生の時
分は京都市内にもフィギュア競技の練習場がありました。
それは松山閣(しょうざんかく)と呼んでいましたが、確か
京都北西?の山の中の高台のような所にあり舗装はされ
ていませんでしたが、練習には十分の広さがありました。
そこへ先輩に連れられて時々練習に行った記憶がかすか
にあります。しかし、3~4回生の時はあまり行った記憶が
ないのですが、何故だろう?。
現在、松山閣と言うと、金閣寺の北西山中の鳴滝に京懐
石及び京湯葉料理のお店、松山閣「松山」というのがあり
ますが、その界隈だったのかあるいは別の場所だったの
か、多分先輩に聞けばわかると思いますが、誰か覚えて
いませんか~。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.2参照願います)
キャブール3
ニッサン・キャブオールに戻ります。このオクルマもいすゞ
6t同様、競技車両として使用される時以外はマルチパー
パスカーとして大活躍しました。遠征にも取り回しが比較
的楽なので、食料や備品の主力搬送車として随分重宝さ
れました。恥ずかしながらビンボー学生は遠征中も殆ど
自炊で、鍋釜一式果てはプロパンガスまで積み込んで
原始的移動生活?を体験したのでした。
9 明治大学
ここで読者の皆さんに今回最大のミステリーになるで
あろう、ある出来事をお話しないといけません。ニッサン・
キャブオールのことですが、3回生の時信州北陸遠征の
直前、遠征の荷物搬送という重大な使命を帯びていた
キャブオールは遠征直前になって確か同じ体育会のボー
ト部から依頼を受け(多分墨田川あたりでの試合用に)
ボートを東京まで運ぶアルバイトを引き受け、多分その
任務を果たした後、遠征本体に合流する計画だったと
思われますが、実際は御殿場付近でエンジンが焼き付い
て立ち往生、幸いなことに当時親戚付き合いをしていた
明治大学自動車部の合宿所が富士吉田にあり、そこから
ご好意で現場に急行、牽引して東京の明治大学自動車
部ガレージまで運んで頂いたのでした。更なる幸運なこと
に明治にはキャブオールの予備のエンジンが有るという
ことで、急遽エンジン交換ということになりました。

よもやまさかの事態に、出発を間近に控えていた遠征隊
から数人の修理部隊を選抜し、京都残留組だった同期の
平尾氏も加わって、遠征予定の俊足チェーリーX1を駆って
長躯東京へ急行し、明治のガレージを借り受けて、徹夜
でエンジン交換!
を実施したのでした。苦心惨憺の末、
明け方には無事エンジン交換を終えることが出来ました。
後日談ながら、その足で京都へ帰るため明治の仲間に東
京駅まで送ってもらった平尾氏はその時初めて首都高速
なるものを経験したそうで、感慨深いものがあったとか。

一方、遠征隊はすでに出発して北上中でしたのでキャブ
オールは修理完了後、チェリーX1とともに遠征隊を追っ
かけ、途中の諏訪湖周辺で本体とランデブー・ドッキング
を果たすという離れ業を演じた訳ですが、今となっては
懐かしい思い出です。当時はスマホもカーナビもなく、公
衆電話とゼンリンの地図?があっただけなのによくぞ合
流が出来たものだと思います。
その徹夜作業部隊は写真左から同期の酒井、南野、森本、
平尾、宮尾、右端は一期後輩で残念なことに昨年天に召
された小西(いい奴だったのに)の各氏です。
【ミステリーその2】
ニッサン・キャブオールはその後どうなったんだろう?
2代目クラウン5
トヨタが作ったキャッチコピーとして最優秀作品と思われ
るのは「いつかはクラウン」ではないでしょうか。何故か
と言いますと、このコピーは消費者の心理を憎いばかり
にえぐっており、高度成長時代の日本国民の向上心を
見事に表現しています。
2代目レジェンド4
後日談ながら、タバコ屋は卒業後もそのコピーを忠実に
実践し、メーカーは違うものの、いつかはレジェンドと言
う呪文を繰り返し、ある日ディーラーのレジェンド発表会
において、預金通帳の残高を確認もせずに、無謀にも
それ下さい!」と言ってしまったのでした。以来20年も
連れ添う恋仲になろうとは夢にも思いませんでした。
写真は宮崎のシーガイアで若手経営者の合宿セミナー
があった時、タバコ屋の島から長躯駆け付けた時のもの
です。日付プリントが1994年となっていますので平成6
年の出来事です。
DUAC80thロゴマーク
どうでもよいことながら、レジェンドのフェンダー部分に
貼ってあるワッペンはこれとほぼ同じもので、ほぼと言う
のはこれは80周年記念のものですが、貼ってあるのは
60周年大会で記念に頂いたものだと思います。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.1参照願います)

それはさておき、タバコ屋が入部当時、フィギュア競技の
普通乗用車部門の競技車として、この2代目クラウンが
ガレージに座っていました。ただしかなりくたびれた状態
のオクルマでした。このクラウンもやはりマルチパーパス
カーとして、試合の時は競技車として、また遠征時は幹
部殿が乗るフラッグシップ(旗艦)として大活躍をしました。
IMG_1948-1.jpg
忘れもしないのは北海道遠征時、本来は食料、備品等
補給品搬送はトラック部隊(キャブオールの後継車であ
るいすゞエルフ)が担当するところ、出発早々エンジンが
焼き付いてしまい、リタイヤというよもやまさかの事態が
起こり、急遽このクラウンのトランクへ食料やらプロパン
ガスやら家財道具一式詰め込んで、事なきを得たという、
懐かしくもほろ苦い思い出があります。
(大所帯での長期遠征だったので実際はクラウンのトラン
クだけで収まるはずもなく、寝袋やらその他かさばる備品
は後述のマツダ・マイクロバスへ積み込むことで難を逃れ
ました)
IMG_6039-1.jpg
余談話ながら、タバコ屋のいたずらとして、くたびれた外
観のクラウンをリフレッシュさせようと思い立ち、部車には
フェンダー部分に「同志社大学体育会自動車部」と書くの
が通例でしたが「DOSHISHA UNIV.AUTOMOBILE
CLUB」と手書きでペイントしてみました。手前味噌なが
らなかなかの仕上がりで、内心悦に入っていましたが、
そのことに誰も気付いてくれず、褒めも、くさしもされなかっ
たのが内心残念な出来事でした。
まるで幕末時代の写真のようで恐縮ながら、フェンダー部
にそのロゴが書かれているのが薄っすら見て取れますよね。
【ミステリーその3】
トヨペット・クラウンはその後どうなったんだろう?
2代目コロナ2-1
同じくフィギュア競技の小型乗用クラスで使用されていた
競技車が2代目トヨペットコロナでした。競技車とは言うも
ののビンボークラブにあっては真っサラを購入することな
ど夢の話にて、殆どはOBのご好意でクラブに寄贈された
それもかなりくたびれたオクルマを有難く活用させて頂く
と言うのが常でした。このコロナも推測ながら当時のOB
で京都トヨタの社長をされていた小西監督のご好意で頂
いたものではなかったのかと思います。

ここだけの話ながら、このコロナはマルチパーパスカー
と言うには足腰が弱すぎ、無謀にもラリー競技車として
使用されたりしたこともありますが、所詮は無茶苦茶で
山中にて道路から脇の田んぼに転落し、仰向けとなり
一夜を過ごしたという苦いエピソードもあったように思い
ます。タクロー流に言えばこれを「旅の宿」と申します。
1961-11オープンハウスSister KateⅡとエレン
余談ながら、当時自動車部の部長先生だった故オーテス・
ケーリ先生の愛車コロナは小西監督のお世話で購入され
たことは先日の記事でご紹介したとおりです。ヘッドライト
にまたがっている?ケーリ先生のお嬢ちゃんエレンちゃん
の可愛らしいこと。
(関連記事:大阪・京都・奈良・巡礼 vol.2参照願います)
【ミステリーその4】
トヨペット・コロナはその後どうなったんだろう?

以上タバコ屋が入部当時のフィギュア競技にまつわる部
車の数々をご紹介しましたが、残念なことに、当時の自動
車部の活動の中心であり、また体育会に所属する由縁で
もあったフィギュア競技がその後時代の変化に伴い、卒
業後何年かして廃止されてしまったのです。他の体育会
のクラブは変わることなく競技を続けているのに何故自動
車部だけがその競技をやめてしまったのか、残念ではあり
ますが時代に合わなくなったのが大きな理由だと思います。
だって、パワステ、オートマ、何でもござれの現代にあって
それを全否定するような競技車自体がもう入手出来なく
なっており、一つの時代が終わったということではないの
でしょうか。
デボネア2
感傷はともかく、それ以外にも思い出深い部車があれこれ
ありました。まずは三菱デボネアで、今となってはそのオク
ルマが日本に存在したこと自体ご存じない方が多いと思い
ます。
はっきりいってデボネアが開発された当時世界のトレンド
はアメリカ車で、デボネアのデザインはもろアメ車のコピー
といっても差支えないものでした。エンジンは2L程度だっ
たと思うのですがドロドロ~という排気音で走行性能云々
を語るようなオクルマではなく、何と20年以上もモデルチェ
ンジせずに作り続け走るシーラカンスと呼ばれたしろもの
でした。特別な改良をしなくても三菱財閥のエライさん方
が買ってくれるのでそのような芸当が出来た訳です。
当の部車は当時のOB会長、島治三郎氏が浪速三菱自
動車の社長だったことからクラブに寄贈されたものです。
部車としての用途は恐らく当初はフィギュア競技に使用
されたのでしょうが、やがて持て余し最後は来客者の送
迎用とか?窓際生活だったように思います。
ついでながら、タバコ屋が1回生の時はよくこのデボネア
を洗車させられたものでした。
【ミステリーその5】
三菱デボネアはその後どうなったんだろう?
マイクロバス2-1
次に、部員の搬送はいつまでも自衛隊のごとくいすゞ6tで
はいかがなものかという意見があったのかどうか、入部
以降だったと思いますがマツダのマイクロバスがありまし
た。写真は部車ではなく別物ですが、デザインもカラーも
全く同一のものでした。これは搬送専門で、遠征時など
部員の搬送には随分重宝しました。
IMG_6026-1.jpg
上の写真は2回生の時、四国一周遠征をした時のもので
女っ気のなかった当部にお嬢さんが入部し、推測ながら
上級生一同は心浮き浮きだったと思います。先頭席に座
っているのは多分T嬢だと思います。男ではありません。

ここだけの話ながら、普段は1~2回生の休憩サロン及び
トレーニング時の更衣室にも早変わりしました。ただし
タバコ屋の一期後輩からは女子が入部したので、マイク
ロバスで着替えと言う訳にもいかず、部室の奥の薄汚い
部屋?でお着替え遊ばされていたように記憶しています。
北陸遠征
上の写真は3回生の時、信州北陸遠征中のものですが、
タバコ屋の二つ目のトラウマとして、マツダ・マイクロバス
で遠征部員を搬送中、恒例ながらいきなり止めて部員を
降ろし、「これからこのバスが見える場所までランニングを
せよ!」と指示を致しました。2回生のS嬢が急にむずがり、
嫌がったのでしたが、タバコ屋はそのまま強行したのでし
た。後で聞くとS嬢は女性特有の定期現象中だったようで、
大変申し訳ないことをしたと今でも思っています。
いつの世でも無知というのは恐ろしい結果をもたらすもの
なのです。
蛇足ながら、マツダマイクロバスの横っ腹には同志社大学
遠征隊と書いた横断幕が張られているのが見て取れます。
【ミステリーその6】
マツダ・マイクロバスはその後どうなったんだろう?
学生ラリー1
競技は競技でも、自動車部のもう一つの主な活動として
ラリー競技がありましたが、競技専用車としてニッサン
ブルーバードB410SSSがありました。
話せば長い話ながら、このオクルマは初代フェアレディZ
をデザインした若き日の松尾良彦氏の作品で、もともとは
トヨペット・コロナに対抗してカロッツェリアの大御所である
イタリアのピニンファリーナ社がデザインしたものでしたが
垂れ尻の丸っこいデザインが日本では不評で販売が芳し
くなく、急遽若手の松尾氏にフェイスリフト(部分的な改良)
の指示が出されたのでした。松尾氏はその期待によく応え
前後のデザインを変更するとともに、画期的だったのは
内装を若者受けするスポーティなコクピットに変更し(具体
的にはタコメーターを含む3連メーターの採用)またネーミ
ングについても一計を案じSSSと命名しスポーティ感を演
出しました。この目論見は見事に当たり、格段に売れる
オクルマに変身するとともに、それに気をよくしたニッサン
は以後SSSをシリーズ化することになりましたが、その新
しい流れはニッサンが世界へ雄飛する元となった、名車
ブルーバードP510SSSへと連なって行きました。
サファリP510
松尾氏はB410ブルーバードでの成功実績をもとに次には
初代フェアレディZのデザインを手掛け、発売するやいなや
主力販売先のアメリカで大ブレーク、またサファリラリーを
始め世界的なラリーやレースでも大活躍しその結果当時
のポルシェやジャガー等並み居る強豪を押しのけ、世界
で最も成功した(売れた)スポーツカー!となったことは
タバコ屋の若かりし頃の忘れ得ぬ思い出となっています。
240Zサファリ1-2
尚、余計なお話ながら、アメリカ向け輸出仕様の排気量は
日本仕様の2000CCとは異なり2400CCであったことから
その呼び名は240Z(ズィー)という日本人にとっては舌を噛
みそうな言い方でした。どの世界にも大きな成功の陰には
仕掛け人というのがいるもので、アメリカでの大成功の陰
には、当時アメリカ・ニッサンの社長だった、ミスターZこと
片山豊氏の存在がありました。片山氏はまだ試作中だっ
た松尾良彦氏の作品を一目見るなり「これ買った!」と叫ん
だそうで、そのお気に入り度がわかろうと言うものです。
推測ながらタバコ屋が「それ下さい!」と言った時のような
思い入れが同様にあったのではないかと思います。
残念ながらZの生みの親である片山氏は先年90有余年の
熱き生涯を全うされ泉下の人となられました。
(関連記事:好みの基準 vol.7:カーデザイン参照願います)

部車のブルーバードB410SSSに戻ります。この物語の冒
頭、新町ガレージ入口で平尾氏始め同期生のチームが
毎日ラリーで上位入賞した時の部車がこのオクルマでした。
調整次第では高性能が発揮出来たんでしょうが普段は調
子が悪く、整備班はいつもSUキャブ!の調整に追われて
いたような記憶があります。
【ミステリーその7】
ブルーバードB410SSSはその後どうなったんだろう?
DSCN7446.jpg
尚、ラリー競技については別記事にて何度も書いている
ので今回はあまり触れないことに致しますが、フィギュア
競技同様、学生ラリーにおいても同志社は5回のラリーを
主催しており関西では最強の実力を誇っていました。
DSCN7449-1.jpg
これは悪戯好きの平尾センセがタバコ屋の赤いお嬢ちゃ
んのボンネットに同志社ラリーの記念カーバッジを載せて
撮影したらどうやねんと言うのでお調子もんのタバコ屋が
ついその甘い言葉に乗せられて撮影したものです。ただ
第1回のカーバッジを誰も見たことがないので、果たして
作られたのかどうか、誰か知っていたら教えてくれません
か~。
スカイライン2000GT-7-1
尚、特筆すべき部車として、タバコ屋が3回生の時、部員
全員がクラブでアルバイトをしたお金(ゼニモ金物店の配
達、東邦織物の社長車運転、東映太秦撮影所での役者
さん搬送等)を貯めて買ったニッサン・スカイライン2000
GT
があります。写真とは異なりますが同型車で中古車だ
ったもののかなり程度の良いオクルマで、それまでの廃車
同然の部車から見ればビックリポンのオクルマでした。

★タバコ屋はすっかり忘れていましたが、後日奥村氏から
指摘がありスカイライン2000GTの購入資金として上記以
外のスポット的な特別バイトで得た収入も充てたような?。
それにしても、対価を求めない無償の奉仕をハタチ前後の
若者がクラブのために嬉々として?やったなんて、これが
信仰、宗教でなくて何だと言うのでしょうか。
スカイライン2000GT-9
ただタバコ屋の個人的な意見としてはスカGのL型エンジ
ンはHONDA車(N360や1300)のようにビューンと回る
ものではなく重く眠たいエンジンで、タバコ屋のイメージす
るGTとは異なっていました。
ホンダ1300クーペ6
これは当時2年先輩の下村氏が乗っていたものと同じ型
とカラーのHONDA1300クーペですが、奈良のご自宅ま
でだったか?同乗させて頂いたことがあり、そのエンジン
の吹け上がりの良さ、軽快さに感動した記憶があります。
ホンダ1300エンジン-2
それもそのはず、当時HONDAはF1に参戦中で、そのF1
エンジンのコンセプトを市販エンジンに反映した2重空冷
方式
という世界でも類を見ない独創的なものでした。

開発の当事者であった本田宗一郎氏は一途にシンプルな
空冷システムにこだわっており、それをF1から市販車から
すべてに当てはめようとしていました。確かにバイクのよう
なエンジンむき出しの小排気量車では理想のシステムでし
たが、膨大な熱を発生するF1やエンジンがボンネットの中
にあり通気が十分でない市販の1000ccを超える排気量の
乗用車には通用せず、熱の処理がうまくいきませんでした。
HONDARA302
結果としてはF1、市販車ともに手痛い失敗を蒙りました。
今から思えば、独創的な発想と不屈の行動力を持つ天才
技術者であった宗一郎氏の限界がそこにあったと思います。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと vol.3:混迷期参照願い
ます)
ホンダ1300クーペコクピット
下村先輩の1300クーペの話に戻ります。そのコクピットは
当時の国産車とは一線を画するスポーティなデザインで
うっとりと見とれていたタバコ屋ですが、その時の笑い話
として、途中給油のためガソリンスタンドに立ち寄った折
に、下村先輩がハイオク20Lと言われるのを聞いてアレレ
と思いました。恥ずかしながらそれまでタバコ屋は給油と
言うと満タン!という言葉しか知らなかったのです。
そうか給油は自分の思う量だけ入れられるんやと言う子
供っぽい新鮮な驚きがあったのを今でも覚えています。
それにしても、日本人は言葉を略して表現するのが上手
な民族だと思います。満タンは多分タンクを満たすという
意味でしょうが、それ以外にも省エネとかカーナビとか短
縮言語が氾濫していますよね。

余談ながら、下村先輩はタバコ屋とは正反対の長身で
イケメンでした。例えて言うなら「あさが来た」の五代役で
あるディーン藤岡みたいな感じだったので、ここだけの話
ながら、当時秘かにハートを熱くしたクラブの後輩女子も
いたんではないかと推察します。
(関連記事:GTのお話 vol.2参照願います)
IMG_6036-1.jpg
またしても幕末時代のような写真で恐縮ながらスカイライ
ン2000GTが当部へお輿入れした頃のもので、それ以降
は、クラブのフラッグシップカーとして君臨し、ある時は
北海道遠征の旗艦として5,000km以上をノントラブルで
走破し、またある時は当部主催の同志社ラリーのオフィ
シャルカーとしてまた幹部がOBのところへいろいろおね
だりに行く時のフォーマルカーとして?活躍しました。

蛇足ながら、この写真を見ると当時のガレージがいかに
オンボロ長屋だったかと言うことが良く分かります。
北海道遠征6-1
写真は北海道遠征途中の朝の出発風景で旗艦スカイラ
インの脇でタバコ屋が恐らく走行スケジュールの説明か
何かをしているところですが、同期のギーちゃんこと森本
氏なんかはそれを無視してスカイラインを撫でくりまわして
いますよね。彼はその時一体何を考えていたんだろう?。
(関連記事:今出川でのこと vol.3:地獄の北海道遠征
参照願います)
10 スズカサキットラリー2
また新規に始まった鈴鹿でのサーキットラリーの競技車と
しても大活躍しました。写真は鈴鹿サーキットのピット裏
のパドックで写したものだと思いますが、同志社チーム
の面々です。中央ヘルメットを被ってスカGのボンネットに
牢名主のごとく鎮座しているのはラリーの帝王こと同期の
平尾氏でその右は鬼の特訓王もしくは九州のラーメン王
こと末永氏です。また後列、手をかざしているのが奥村氏
でこの3名が交代でドライブし、ハイスピード状態での周回
の正確さやピット作業の迅速さを競う競技でした。同期の
ギーちゃんこと森本氏は例によって平尾氏の横で太宰治
が考え込んでいるような難しいポーズを取っています。
ちなみにこの第1回目のサーキットラリーにおいて同志社
チームは見事3位入賞を果たしました。
S4791.jpg
ただ4年間、クラブとともに過ごしたタバコ屋も、サーキット
ラリーの記憶だけがスッポリ抜け落ちており、おそらく一時
期体調を崩し、オカラダの申し上げにくいある部分を切除
手術するため1ヶ月程度帰省していた時期と重なるのでは
ないかと思ったりしますが、遠い昔のことながら記憶にない
のです。
サーキットラリー1
スカイラインその後として、タバコ屋はすでに卒業していま
したが、翌年からのサーキットラリーは女子の部も出来た
そうです。その試合にて鈴鹿を激走中のT嬢とS嬢だと思
いますが、女子チームはチーム優勝!の栄誉に輝きまし
た。試合車のペインティングが前年のものとかなり違うの
がおわかり頂けるでしょうか。
尚、今までクラブのプレステージカーとして君臨してきた
スカイライン2000GTも経年劣化は避けられず、外観が
ひどい状態になりつつあるのは成りたてのOBとしてやや
残念に思いました。
IMG_6034-1.jpg
結局スカイライン2000GTも当部においては究極のマルチ
パーパスカーとして限界有効活用?またの名を使い倒し
にされたのでした。
余談ながら、日本広しと言えども大学の自動車部で程度
の良いスカイライン2000GTを所有していたのは同志社
だけだったのではないでしょうか。
【ミステリーその8】
スカイライン2000GTはその後どうなったんだろう?
それ以外にも、いすゞベレットとかブルーバード410の
普通仕様車がありましたが、かなり脇役的な存在であり
それなりの活躍はしたものの、タバコ屋の記憶からは
薄れてしまっています。
チェリーX1-2
番外編として、一年間だけの部車であったと言うべきか
3回生の時に大阪ニッサンチェリーから新発売になった
チェリー・X1セダンを1年間の貸与(今で言うモニター)
という形でお預かりしたことがありました。別の記事でも
紹介していますが、このチェリー・X1は旧プリンスの技術
陣が総力を挙げて開発した意欲作で、前輪駆動(FWD)
OHV4気筒横置きエンジンを採用し、そのコンセプトは
世界の名車、オースチン・ミニと同一というか丸ごとパク
リのオクルマでした。
チェリーX1-3-1
当時の日本はまだ欧米に追い付き追い越せと日夜血の
滲むような努力をしていた時代で、2輪メーカーであった
HONDAが4輪車に進出するに当たり本田宗一郎氏は
チェリー同様、オースチン・ミニをお手本とし、軽自動車と
いう日本独特の規格にHONDAバイクの空冷4サイクル
360CCエンジンをミニ同様横置きに搭載し、軽にしては広
い室内とその格安なプライス、また何と言ってもバイクの
ようにビューンと吹け上がるエンジンの心地よさにより、
SUBARU360等既存の車種をさておいて、いきなり軽のベ
ストセラーに躍り出たのはタバコ屋世代にとって忘れられ
ない思い出です。
チェリーX1-13
スペックはともかく、チェリーのデザインは意欲作だけあっ
て、それまでの国産車とは一線を画しており、大変愛くるし
いキュートなデザインでありしかも無駄なラインがなく、今
時のチンケな国産車とは月とスッポンの違いでした。ただ
Cピラー周辺の処理だけはやや難があり斜め後方の視界
がほぼゼロだった記憶があります。またコクピットも大衆
車ゆえ安物の素材ではあったものの非常にスポーティな
デザインで、好感の持てるものでした。
チェリーX1-5
魅力満点のチェリーでしたが、欠点が2つだけありました。
一つは上記の斜め後方の視界の悪さで、もう一つはミッシ
ョンがエンジンに合わせて横向きだったため、シフト方向
とは直角になってしまい、それをリンケージで繋いで操作
するようになっていました。同じエンジンを積むサニーは
通常の縦置きミッションだったため非常に操作感が優れ
ていましたが、チェリーはシフトする時にゴキッという音が
し、その操作感も頼りないものでとてもスポーティとは言
い難いものでした。それ以外は概ね大満足のチェリー嬢
でした。

ここだけの話ですが年金生活者となってしまったタバコ屋
ながら、今でも安価で入手出来るなら、このチェリーX1を
セカンドカーとして老後の茶飲み友達にしたいところです
が、40年以上前のオクルマにてレストアが必要でしょうし、
それはタバコ屋の赤いお嬢さんことフェアレディZの若返り
エステ?の試みでほとほと懲りているので二の足を踏んで
しまいます。
(関連記事:好みの基準 vol.5:懐かしのチェリーX1参照
願います)
チェリーX1-35-1
そのチェリー・X1ですが、新車などには縁のなかった我が
自動車部に新車のしかも高性能なX1がお輿入れしたもの
ですから、各部員からは引っ張りだこで、ラリーの試合や
同志社ラリーの試走、遠征での先行偵察隊等、縦横無尽
の活躍をしてくれました。(写真は2ドアですが貸与された
のは4ドアでした。またカラーはこの写真と同色のクリーム
イエローでした)
チェリーX1-25
とにかくチェリーに搭載されていた横置A型1200CCエン
ジンはSUキャブレター2基で武装され、OHVながら軽やか
によく回り、若者の勇み心!を痺れさせるオーラを持って
いました。おそらく当時の国産車のこのクラスのオクルマ
ではその軽量ボディと相まって断トツの高性能車だったと
思います。
チェリーX1-34-1
初陣の大成果として同期の平尾氏と井上、増本、佐々木
チームが当部を代表して第14回毎日ラリーに出場し学生
の部で見事優勝!を飾りました。それ以来ラリーに於いて
は同志社に平尾ありと一目置かれる存在となりました。
(写真はイメージで貸与車とは異なります)

ゴム動力を使った動くオモチャ教育の元仕掛け人であり
今では熱心な宣教師として各地を飛び回っている元校長
センセも青春時代にはこんな一面があったんです。彼の
わかりやすい熱血指導には定評があり、やがて教え子の
中からノーベル賞受賞者を輩出するかも知れません??。
(関連記事:校長先生の見果てぬ夢 vol.2:晴れ舞台参照
願います)
(関連HP:京都まなびの街 生き方探究館参照願います)
北陸遠征
ただここだけの話ですが、これが貸与車であるということ
を忘れてかなり乱暴に扱った部員もいたことは事実で、
途中いろいろダメージを蒙り修理はしたものの返還時に
はそれが問題となり、タバコ屋はニッサンチェリー販売に
対し苦渋の謝罪をした記憶があります。当時まだ若輩の
学生ながら大人の社会と接触を持つ以上、大きな責任が
あることを痛感したタバコ屋でした。
チェリーX1-23
チェリーX1に関わる余談話として、3回生のある日、京大
の自動車部キャプテン以下数人が同志社のガレージに
怒鳴り込んで来たのです。曰く「チェリーX1の新車が同志
社に貸与されたと聞いたが、京大に貸与されないのはけ
しからん、どう言うことなんや!」といきなり喧嘩腰のお言
葉でした。タバコ屋は京大自動車部キャプテンともあろう
お方が何と品性のないものの言い方をされるものかと、
内心情けなく思いながらも、その時応対したのは心細い
ことにタバコ屋一人だけだったと思うのですが、周りには
包丁などの切れ物は置いておらず、平常心とは程遠い
状況でしたが「そのことはニッサン・チェリーさんが関西
の特定自動車部に貸与すると決めたこと、文句があるな
らニッサン・チェリーに言うのが筋であろう」と申しました。
京大のキャプテンもその後、言葉は濁したものの、自分
の言っていることがヤボなことだと気付いたのかお供の
数人と口惜しそうに引き上げて行きました。
思えば当然のことで、ニッサン・チェリー側にしてみれば
高性能なチェリーX1をモニタリング貸与するに当たり、
フィギュア競技、ラリーでは関西最強の同志社に仕向ける
のは当然で何も弱小チームの京大に声を掛けることは
なかったのだと思います。
【ミステリーその9】
ニッサン・チェリーX1はその後どうなったんだろう?
最後のミステリーの解答は極めて簡単で、その後の消息
としてお輿入れの1年後ニッサン・チェリー販売にお返しに
行ったのでした。ただし1年間乱暴に扱ったせいで修理費
もかさみ、また貸与車を傷めたせいで丁重に謝罪はした
ものの、先様もよい顔はして頂けず、後味の悪い思い出
として記憶に残っています。
おしん2-1
思えばタバコ屋は自分から殴り込みを掛けたことはありま
せんが、アメリカンフットボール部事件と言い、京大自動車
部事件と言い、いつも殴り込まれてきたように思います。
後年NHKの一大ベストセラーとなった「おしん」を見た時、
何故か無性に共感を覚えたのはそのような体験があった
せいかも知れません。

以上タバコ屋がかつて愛したボンドカーならぬ部車を長々
とご紹介しましたが、ボンドカーとはあまりにもかけ離れた
世界のお話にて読者の皆さんは興醒めしてしまわれたの
ではないでしょうか。しかしタバコ屋にとっては浮世離れ
したロータス・エスプリなどとは比較にならぬくらい深く愛
着のあるオクルマ達だったんです。
北陸遠征-1
ちなみに007はご存じジェームズボンドのエージェントNO
ですが、冒頭タイトルの205とは全日本学生自動車連盟
に登録された同志社大学自動車部のNOであり、ボンド
のように特別なライセンスがあった訳ではありませんが、
タバコ屋にとっては007以上に205という数字は格別な
数字であり暗号なのです。
それはタバコ屋とその仲間たちの青春を数字に記号化し
た、一種のアイデンティティ(自己証明書)なのかも知れ
ません。
IMG_6028-1.jpg
巻末特別付録として、タバコ屋が生涯公開すまいと決め
ていた秘蔵写真をご紹介致します。2回生の終わりころ、
タバコ屋がまだプリプリしていた頃、2年先輩の大伴氏と
福永氏はガレージの北隣の小森酒店に下宿されていまし
たが、来春の卒業に当たり、下宿の後釜として2人必要な
ので誰かということになり、タバコ屋とS氏、バラしますと
小田氏(旧姓佐々木)が候補に挙がり、結局狭い下宿部
屋に二人で同居することになりました。また大伴氏が所
有していた中古のくたびれた(失礼)HONDA-N360(通
称Nコロ)を譲りたいがいかがなものかと打診されたので、
二人で共同所有することにし、1万円づつ出し合って大伴
氏へ車両代としてお渡ししました。Nコロはよく走り、ボデ
ィはくたびれていたもののエンジンは絶好調で、その後の
2年間、二人の足として随分活躍してくれました。

尚、無駄話ながら卒業を間近に控えたある日、同期生で
お別れボーリング大会をやろうやと言うことになり、全員
で近づきつつある別れの寂しさをこらえながらその日は
ボーリングを楽しんだのですが、タバコ屋はフィギュアの
試合での悔しさのうっ憤を晴らすかのようにパーフェクト
かそれに近い成績で優勝しました。身内で優勝したって
何も嬉しくはなく、試合で優勝していればこの日はブービ
ーだって何だってよかったんです。

やがてタバコ屋も愛着のある今出川キャンパスと新町ガレ
ージに別れを告げる時が来て、二人で相談の上、Nコロを
自動車部に寄贈することにしました。その後しばらくして
卒業式前後だったか?香里体育ハウスへ何かの用で行
った時、Nコロがいたのは見かけたのですが、それ以降
2年間親しんだNコロとは会わずじまいです。
どうでもよいことながら、Nコロはバックランプがしょぼくて
夜間使い物にならなかったので、解体屋に行きトラック用
のバックランプを求めリアトランク部に付けていました。
その後のかすかな消息では、その魔法のランプは一期
後輩の井村氏が自身のNコロに我々の形見分け?として
お付け遊ばされたそうですが、寄贈したオクルマですから
何も申し上げることはありません。
【ミステリーその10】
Nコロ改めチャンタ号はその後どうなったんだろう?

今回の007改め205物語、いかがだったでしょうか。何しろ
作者がイヤン・ぶれミング氏にてあちこちブレまくりのお話
だったと思いますが、長い迷走記事を最後まで飽きずに
ご精読頂いたことに感謝致します。

(尚、記事中の写真は一部、平尾氏を始め井村氏やDAC
の吉﨑氏所有のものをお借り致しました。また幕末風の
古ぼけた部車の写真は当部の部誌DER WINKERの内、
森本氏編集16号及び井村氏編集17号より流用させて頂き
ました。記事中の映画や寺社の歴史解説については一部
ウィキペディアから流用させて頂き、またタバコ屋独自の
解釈もあることをご了解願います)

コメント

No title

ちわっす!
007に出てくる車はいつも素晴らしい車ばかり。 やはりイギリスの車が中心なので限られてはきます。 ボンドカーはアストンマーチンですが、前回は異色のBMWだったような。 今回の007も見てきました。 最新のも良いですが、DB5以前の車も味がありかっこいい感じでした。 ジャガーにランドローバーも常連です。ローバーと言えば、レンジローバーが部車にありました。ばかでかく頑丈ではありましたがなぜか乗った記憶はありません。
日野のトラックも記憶に薄くあったようななかったような。 懐かしい合宿所の写真ですが、動かない古い車が入っていたようですが、これも記憶が曖昧です。 
マツダのマイクロは途中で廃車になりニッサン?のマイクロバスに変わったと思います。 このマイクロバスの思い出は遠征時に何回かは後部座席をベッド代わりにしていたことや、1年後輩が遠征途中で休憩停車直後にラジエターの水量チェックの時にウェスを当てずにキャップを緩めて熱水が飛び出火傷してしまった場面が甦ります。 エルフも名神走行中に異音がしてエンジンブローとなり廃車。 トヨタスターレットは、明治との富士吉田合宿の時に神社の裏からスバルラインまでの裏道おダートを走りましたが、非常に扱いやすい車で、ハンドル切りアクセルを踏むときれいに後ろが流れてくれ、流れ具合もアクセル加減で自由に変えられるということを理解できた車でした。この車は九州へ試合に行く移動の途中中国道? のどこかで私は後部座席にいて1年後輩が運転していて側溝?に入ってしまい結果廃車になっています。(この後私も謹慎処分を受けています) 
p410ブルはグニャグニャのシンクロミッションのイメージで、スカGは別格なので丁寧に乗らなければとか壊したら大変なことにとかの感じでした。 
部車ではないでけどHONDAの1300クーペは1年上の先輩が乗っていたのですが、もっと上の先輩から引き継いでいたのでしょうか。
やはり一番大切に乗られていたのはスカGに間違いありませんが、最終的にどうなったのかは記憶にないのは不思議ではあります。
当時の私は体力がなかったこともありフィギュアには興味がなく、
100%真剣には取り組んでいませんでした。(すみません)
私の考えは、車の本質はある地点から目的の地点に早く安全に移動するためのものであり、オイル缶をおいてちまちま切り返しをするのはズレていると思っていたからでしょうか。 やはり、ラリーやサーキットラリーのような競技のほうがより本来的だと思います。 最近の部員不足も車の普及が一因であることは間違いないですが、部活動自体が車の本質に沿ったような活動が幅が狭かったり奥が浅かったりといろんな複雑な要素の絡み合いがうまくほどけていないのも一因ではないかとも思っています。 
それに、車は機械であるのでメカニックというアプローチもあると思います。

 

Re:上山青年の青春

拝復、ちわっすです。今回の長編記事、読むのが大変だったでしょうが、さっそくコメント頂戴し有難うございます。

そうですか、上山青年はお仕事に似合わず007のファンのようで最新作も見られたとか。タバコ屋はもっぱらオールドファンでショーン・コネリー、ロジャー・ムーア以降は興味を失いました。ただボンドカーだけは気になります。

205物語に関する部車その後の消息について上山情報をあれこれ頂き有難うございます。う~ん、やはりスカイライン2000GTの最後が気になりますよね。上山青年曰く「部車ではなかったものの、HONDA1300クーペは1年上の先輩が乗っていたのですが・・・」ということは吉村氏の年代の筈ですが、え!、誰だろう?。タバコ屋が知っているのは下村先輩だけなんですが。

また曰く「当時の私はフィギュアには興味がなく・・・」元学ラン体育会時代の生き残りのタバコ屋としては残念なオコトバですが、これは個人の好みですので仕方ありません。

何はともあれ、学年は異なるにしても歴史のある時期のひと時を一緒に過ごせたと言うことは何物にも代えがたい財産だとタバコ屋は思っています。

恐縮ながら、今回も禁じ手の書き足しをそれもかなり大規模にやっていますので、再度読み返して見て下さい。特にキャブオールのミステリーが解決しましたのでこれは必読です。それにしても書き足しの結果、異説007は超大作となってしまいました。

No title

ちわっ!
HONDA 1300クーペに乗っていたのは、吉村さんの同期の鈴木さんでした。 ということはその下村先輩からのお下がりだったのかも知れませんね。
私は乗せてもらったことがありませんでしたので黄色とDDACという言葉だけ覚えています。 
残念ながら鈴木さんは卒業後に若くして亡くなられました。 

Re:HONDA1300クーペの謎

拝復、そうでしたか、HONDA1300クーペの当部2人目のオーナーは鈴木君でしたか。彼はタバコ屋が3回生の時の1回生で、元F1ドライバーの鈴木亜久里氏似のイケメンでクラブ随一のトールボーイでしたよね。北海道遠征にも参加して、函館では地獄のランニングにもよく耐えてくれた記憶があります。シャイで優しくていい奴でしたが若くして天に召されたことはタバコ屋もよく覚えています。いい奴だったと言えば、昨年亡くなった1期後輩の小西氏と性格がよく似ていて、しいて言えば鈴木君のほうがややポジティブで明るかったように思います。

そのオクルマが下村先輩のお下がりだったかどうかはわかりませんが、そうであればタバコ屋が3回生の時の出来事だった訳で同期生や下級生の身辺のことはかなり敏感に情報が飛び交っていた筈ですが、記憶にないのです。これはHONDA1300クーペの新たなミステリーに発展しそうです。もし上山青年も機会があったら調べて教えて下さい。決算書の調査分析はジェームズ・ボンド並みにプロでしょうから。

ちなみに、タバコ屋が自動車部現役時代のあこがれのGTカーは、ここだけの話ながらHONDA1300クーペでした。ただ当時の国産車は運輸省の規格で制約があったのだと思うのですが、ホイールベースに対してトレッドが狭くデザインのバランスが悪かったと思います。あのデザインでもう少しトレッドが広ければ縦横バランスが良くなり、現在でも十分通用するハイカラなデザインだったと思います。

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
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