福井巡礼 vol.6:ああ旧車よ(中篇の続き)

平成29年7月17日
クノッソス宮7
巡礼団4人衆は膨大な旧車コレクションを前にして、まる
でクレタ島の迷宮(ラビリンス)クノッソス宮殿にでも迷い
込んだ如くになりました。
クノッソス宮2-2
途中には悩ましいお姿をした数々のオクルマが微笑ん
でおり、その都度そのお姿に見とれることになると、一行
は果たしてその迷宮から出て来られるのでしょうか。
MGTF
あれはいつの頃の事だったのか・・・。タバコ屋がこのオ
クルマかっこいいな!と思ったのは。遠いセピア色の記
憶を辿ってみると、多分その皮切りは小学生時代、タバ
コ屋の母校松山東高校の先輩でもある故、伊丹十三氏
が愛用した大英帝国のスポーツカーMGだったと思うん
です。(伊丹先輩はTFでしたがタバコ屋の思い出にある
のは初期のTDでした。写真はTFです)さっそく安モンの
プラモデルを組み立て、後生大事に飾っていたのを思い
出します。
DSCN3589.jpg
時は過ぎ、今から思えばタバコ屋の先代は随分キカイ
好きで、SONYのバカ重いオープンリールのテープレコー
ダーを愛用し、ショウバイのセンセの講義録を熱心に聞
いていたのを覚えています。さてその父はタバコ屋が高
校3年の頃、ということは昭和43年(1968年)なんですが、
NISSANサニー4ドアセダンを購入しました。タバコ屋は
まだ免許がなかったので横に乗せて貰うだけでしたが
随分モダンな印象がありました。博物館にはその同じ年
に登録されたサニークーペが展示されていました。
サニー1000クーペ-3
タバコ屋がMG-TDの次にかっこいいなと思ったのは実は
このサニークーペでした。スリムで無駄のないボディに当
時としては斬新なファストバックデザインを採用したとても
おしゃれなオクルマでした。リアゲートが跳ね上げ式では
なく、トランク部しか開かない形式でしたので実用面では
今一つでしたが、スマートさに惹かれて購入した人が多
かったのではないでしょうか。リアトランクのエンブレムが
またかっこよくて・・・。
サニー1200GX-6
サニーで特徴的だったのはその軽量(645kg!)でスマ
ートなボディもさることながら、軽やかに吹け上がるエン
ジンでした。A型エンジンと呼ばれ、L型エンジンとともに
NISSANの屋台骨を支えた看板エンジンでした。L型の
重くて眠い特性とは真逆で、ビューンと軽快によく回り、
給排気が同じ側にあるターンフローでしかもOHV機構
のいわば古めかしいメカだったにも拘わらず性能は抜
群で、後に傑作エンジンと呼ばれるようになりました。
旧ミニ-16
ルーツはミニなどにも搭載された大英帝国のオースチ
ン製エンジンで、戦後の一時期NISSANにとってはオー
スチン社がセンセだった訳です。見た目もそっくりだと
思いませんか。
さてサニーの評価ですが、「隣のクルマが小さく見えま~
す」なんていうセコいCMを流す前の初代サニーは軽量
コンパクト、必要十分の動力性能を備え近代的大衆車
の草分けとして高度成長時代を切り開いた意味で「アッ
パレ」を差し上げます。
DSCN3590.jpg
続いてはNISSANチェーリーです。こちらはサニーより
やや遅れて開発されたものの、合併前の旧プリンスが
総力をあげて開発した意欲作で、前輪駆動横置きエン
ジン、2層式ギヤボックスレイアウト等、アレック・イシゴ
ニス博士が発明したオースチン・ミニのメカをそっくりパ
クッたものでした。エンジンはNISSANと合併したために
サニーと共通のA型エンジンを横置きにして搭載されま
した。それにより偶然ながらパッケージデザインからエン
ジンまでオースチン・ミニの完全パクリ版となりました。
以後、大衆車クラスはすべてこの合理的なレイアウトが
採用されることになりますが、アレック・イシゴニス博士
はさぞかし面目躍如たるものがあったことでしょう。
展示車は昭和昭和45年(1970年)の登録ですから、タ
バコ屋が同志社大学自動車部2回生の頃のものです。
チェリーX1-2
チェリーはその斬新なメカもさることながら、ネーミング
同様可愛らしいデザインが特徴で、特にスポーティ版で
あるX・1はグリルのオレンジ色のウインカーランプが特
徴的で結構精悍なフェイスとなりタバコ屋にとってはサニ
ークーペの次にかっこいいなと思ったオクルマでした。
チェリーX1-3-1
リアがまたシンプルながらも可愛らしいデザインでタバコ
屋のお気に入りでしたが、Jラインと呼ばれるCピラー周
辺のデザインは今一つで、斜め後方視界はゼロに近く、
もっと他に方法があったように思います。
ケンメリスカイライン1
余談ながら、このデザインコンセプトは4代目スカイライン
通称「ケンメリ」にも引き継がれ、確かに個性があり格好
良かったのかも知れませんが、斜め後方視界ゼロという
悪しき伝統は引き継がれました。
チェリーX1-25
チェリーのエンジンはサニーと同じA型OHVエンジンを
横置きに搭載しエンジン下部にギヤBOXをくっつける
方法でプロペラシャフトを省略し、軽量(670kg!)かつ
広いキャビンを確保することに成功しました。写真は
スポーティ版のX・1のものですがSUツインキャブでチュ
ーニングし、1200ccで80馬力程度ながら車重がメチャ
軽いためキビキビとよく走りました。
北陸遠征-1
ところで、そのチェリーX・1と同志社大学自動車との間
には深いご縁と思い出があるのですが、いったん話せ
ばフェアレディZの記事よりも長くなってしまいますので、
かいつまんでお話し致しますと、昭和46年(1971年)、
タバコ屋が自動車部の幹部を拝命した3回生の時です
が、大阪ニッサンチェリーより、新発売を記念して光栄に
も、モニターとして我が自動車部に1年間そのX・1を貸与
して頂ける事になったのです。
S575-1.jpg
当時はモータースポーツの一環としてレースほどオカネ
が掛からないラリーが盛んで、我が自動車部も「同志社
ラリー」を主催し第3回まで開催するに至っていました。
部内にもラリーおたく、メカおたく、レースおたく、部活の
取り仕切りおたくと、そのカテゴリーにおいてそれぞれ得
意な科目でグループ化していたのですが、このチェリー
X・1貸与のお話しは平尾センセを中心とするラリーおたく
にとっては願ってもないおいしいお話で、その後平尾セン
セを中心に部員一丸となり、何と第4回、5回と続けさまに
同志社ラリーを成功させたのでしたが、その裏でコース
作成の試走にはこのチェリーX・1が縦横の働きをしてく
れたのでした。その間、筆舌に尽し難い様々なトラブル
も経験し、苦渋の決断もあったりしましたが、幸い死亡
事故等による破滅的なアクシデントが起こらなかった事
は不幸中の幸いだったのかも知れません。

蛇足ながら、写真は同志社ラリーのコース作成で試走
中に写した若き日の平尾青年と庄坪青年です。チェリー
X・1を挟んでお二人の胸の三つ葉のクローバーが誇ら
しげです。
チェリーX1-34-1
さてチェリーの評価ですが、当時としては極めて斬新な
エンジン横置き前輪駆動車として、特にX・1は和製ミニ
クーパーとして颯爽とデビューし、タバコ屋を始めとする
オクルマ好きの若い衆をビビらせた点で「アッパレ」を差
し上げたいと思います。ただし横置きミッションゆえにシ
フトチェンジには無理があり、特徴的なゴキッというシフ
トフィールだったのには「喝」です。

蛇足ながらメカオンチのタバコ屋にとってはシフト方向が
ギヤBOXと直角になる構造のシフトってどうやってやるん
だろうと今でもミステリーの部分です。
DSCN3540.jpg
次はNISSANブルーバードです。当時NISSANはフェアレ
ディと言い、このブルーバードと言い、オーナー自らが
夢に溢れたネーミングをし、それが多くの人に愛された
という微笑ましくものどかな時代でもありました。展示車
は昭和55年(1980年)の登録ですから6代目ということに
なります。
ブルーバード3
ブルーバード、幸せを運ぶ青い鳥ですよね。初代が発
売されたのは昭和34年(1959年)ですが、その後例の
ピニンファリーナがデザインしたタレ尻の2代目となり、
タバコ屋の青春時代にはスーパーソニックラインと呼ば
れる直線的でスマートなデザインの3代目となりました。
ブルーバードは2代目以降曲線デザイン、直線デザイン
を交互に繰り返し、直線デザインのみが成功するという
ジンクスが出来、その中でも最も成功したのがこの3代
目でした。
P510サファリ仕様-1
当時NISSANは世界に打って出ようと目論んでいる最中
であり、世界に認めてもらう手っ取り早い方法として、世
界ラリー選手権に果敢に挑戦しつつありました。我らが
裕ちゃんこと石原裕次郎が映画化した「栄光への5,000
キロ」で一躍有名になったDATSUNブルーバードP510-
SSSは、エドガー・ハーマンのドライブにより、昭和45年
(1970年)悲願のサファリラリー総合優勝を遂げることに
なりました。タバコ屋が大学2回生の頃の出来事です。
P510サファリ仕様-3-1
ビックリポンのこのお写真はタバコ屋の1期後輩で、京
都の某和紙製品老舗のいとはんである福ちゃんが銀
座のニッサンギャラリーに立ち寄られた際、偶然P510
ワークス仕様車が展示されてあった時のものを頂いた
貴重なお写真です。尚彼女からは掲載許可を頂いてお
りますので念のため。

ついでながら、彼女が同志社大学自動車部在籍中には
ご両親におねだりしてブルーバード1600SSSを買って貰
い、クラブのガレージに乗り付けたものの、心ない先輩
に無断乗車され、乙女の心はいたく傷付いたとか・・・。
その時無断乗車したやつ、出て来い!。
サファリP510-3
ブルーバードの評価につきましては、ある意味昭和40年
代のNIPPONを代表するオクルマでもあり、その国際ラリ
ー特にサファリラリーでの活躍により世界で最もタフで壊
れないオクルマというイメージを獲得したことは「アッパレ」
印以外にはあり得ません。ただしチェリー同様そのシフト
フィールはポルシェシンクロ特有のグニュッとした感覚で
メリハリがなく、シフトの爽快さという点ではサニー等の
ワーナータイプに数段劣っており、「喝」でしょう。
DSCN3560.jpg
さてオクルマ好き、ラリー好きの御三家メーカーと言えば
昭和40年代当時、NISSAN、ミツビシ、スバルだったので
はないでしょうか。その中でもマニアックでメカ志向のや
や変態っぽい方が好まれたのがSUBARUだったと思う
んです。その理由は独創的なメカニズムにありました。
写真はSUBARU1000で昭和42年(1967年)登録のもの
です。
スバル1000-11
SUBARU1000が独創的だったのはそのメカニズムで、
水平対向4気筒(BOXER)エンジンを縦置きにし、前輪
駆動としたことでフラットで広いキャビンを生み出しまし
た。ボディデザインもシンプルで無駄なラインがなく好
感が持てるものでしたが、2代目以降は徐々にやぼっ
たいデザインとなり、タバコ屋の好みからはズレていき
ました。そのBOXERエンジンはボロボローという独特の
エキゾーストノートを発し、マニア好みの個性的メカニズ
ムと相まって後にスバリストと呼ばれる熱烈ファン集団
を生み出すこととなりました。

余談ながら、それまでもっぱら欧米車の技術のパクリを
重ねてきたNIPPON車でしたが、SUBARUのエンジニア
の意地の結晶でもあるこのオクルマのメカは初めて欧
米のエンジニアの注目するところとなり、アルファロメオ
のコンパクトセダン、アルファ・スッドにはSUBARU1000
のメカが丸パクリされたことは知る人ぞ知る裏話です。
上山君1
今回の巡礼団4人衆の一人、タバコ屋の3期後輩で通称
パンタロンな人」上山青年もメカマニアの例に漏れず、
SUBARUの熱心な信奉者で、自動車部在籍中から中古
の1300G・SPORTSを購入し武骨なラリータイヤを装着し
て乗り回したようですが、雪深い福井のご出身という出
自が影響し、その後はSUBARUの4WDを延々と乗り継
ぎ、VOLVO等の遍歴の後、最近BMW・330Xi(4WD)と
いう誰も買わないようなオクルマを購入された由、変態
メカマニアの面目躍如たるものがあると思いませんか。

さて、SUBARU1000の評価ですが、その独創的メカニズ
ムにより欧米の技術者の鼻を明かしたという点で「アッ
パレ」を差し上げたいと思います。2代目以降のデザイ
ンについてはその野暮ったさに対し「喝」でしょう。
DSCN3561.jpg
ミツビシギャランGTO・MRです。昭和46年(1971年)登録
となっていますから、タバコ屋が大学3回生の頃のオクル
マです。GTOは当時流行り始めていたスペシャリティー
カー、もしくはアメリカンマッスルカーの草分け的な存在
で、ギャランの派生車でした。
ギャランGTO-2
そのエンジンルームです。ギャランンのSOHC1600cc
エンジンをDOHC化したものを搭載し高性能を誇りまし
た。ボンビー学生だったタバコ屋はこんな高級なオクル
マには乗ったことがありませんが、ギャランのフツーの
セダンには乗ったことがあり、そのエンジンはNISSAN
のL型エンジンとは雲泥の差で軽やかに吹け上がりまし
た。しゃれにもなりませんが、ギャラーンというようなエ
キゾーストノートだったのを覚えています。
ギャランサザンクロス
当時のミツビシはNISSAN同様ラリーに力を入れていて
オーストラリアのサザンクロスラリー等に果敢に挑戦し
昭和47年(1972年)には名手アンドリュー・コーワンの
ドライブでギャランが悲願の初優勝を果たしました。
奇しくも丁度同じ年、NISSANはフェアレディ240Zでサフ
ァリラリー総合優勝を果たし、日本が最も輝き始めた時
代でした。
大阪産業大ラリー1
突然の写真で恐縮ながら、これは今回の巡礼4人衆の
ご先達である平尾センセの若かりし頃の写真で大阪産
業大学主催のラリーで初優勝した時のものと推察され
ます。尚、撮影は自動車部今出川ガレージ前です。

ラリーおたくの平尾青年がミツビシの活躍に影響を受け
ない筈はなく、彼の愛車はギャラン1600GSでした。それ
にしても平尾センセのお若いこと。ABURAぎってますわ。
DSCN3564.jpg
マツダの広場に移動します。マツダのアイデンティティ
(自己証明)は何かと言えばロータリーエンジンですよね。
写真は世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載した
マツダ・コスモ・スポーツです。
ロータリーエンジン1
アイデアは超革新的ではあったものの実際は出来損な
いのヴァンケルエンジンの特許をボッタクリ価格で当時
のNSU(現アウディ)から買い取ったマツダはその後聞く
も涙、語るも涙の苦闘により世界で初めて実用化に成
功したことはNHKのプロジェクトXにも採り上げられまし
たよね。展示車の登録年度は昭和43年(1968年)で、
タバコ屋が高校3年生の時のものです。
コスモ24
さてロータリー・コスモの評価ですが、誰も成し得なかった
夢のロータリーエンジンを実用化し搭載したということに
対し「大アッパレ」を差し上げたいと思います。ただし妙に
現実感のない宇宙的(まさしくコスモ)ボディデザインは
好みの問題でしょうがタバコ屋は「喝」です。
ずっと後のMAZDA787Bによるルマンでの執念の総合優
勝のお話しなどは別記事で紹介していますし長くなるの
で今回は省略致します。
DSCN3563.jpg
続いては、マツダ・カペラです。展示車の登録が昭和45
年(1970年)ですから、タバコ屋がハタチの青春真っ盛り
の頃のオクルマです。カペラの特徴は何と言っても夢の
ロータリーエンジンを搭載していたことです。結果として
ゼロヨン加速は凄まじくGTRと互角かそれ以上の15秒台
でした。ただ哀しいかな、バカッ速いのが取り柄ではある
ものの、当時としては二流メーカーの哀しさ、前回の記事
でも申し上げた「イメージの構築」及び「アイデンティティ
の確立」がまったく出来ておらず、正直なところタバコ屋
世代の話題にも上らないオクルマでした。そういう訳で
夢のロータリーエンジンを実用化し、またそれを実用セダ
ンに搭載した快挙には「アッパレ」を、またイメージ戦略の
稚拙さには「喝」を差し上げたいと思います。「愛のスカイ
ライン」に対し「風のカペラ」では勝負になりませんよね。
DSCN3541.jpg
浦島太郎の如く、まばゆいばかりの旧車達を目の前にし
て、鯛やヒラメの舞踊りを堪能しつつある巡礼団ご一行
ですが、次は我がHONDAのコーナーです。SONYと共に
戦後のNIPPONを牽引してきた双璧のメーカーと言えば
HONDAですよね。創業者本田宗一郎は原動機付き自転
車、バタバタからスタートしベンリイ号やカブ号の大ヒット
によりあれよあれよと言う間に二輪車のトップメーカーへ
とのし上がったのでしたが、次なる一手は四輪車への進
出でした。
ホンダS800-2-1
宗一郎の目論みはまずバイクのエンジン技術を応用して
360ccエンジンを開発し、それをこともあろうに軽のトラッ
クに搭載したのでした。しかし彼のホンネはスポーツカー
をやりたかった訳で、その証拠にそのエンジンとは凝り
に凝ったDOHC4気筒4キャブレター仕様で、当時参戦し
ていたF1エンジンの技術!が流用されていました。
その後、すぐにS600・800が発表され、非常にいびつな
形で、四輪車参入を果たしたのでした。

写真の展示車S600は昭和39年(1964年)登録で、タバコ
屋世代より一世代上の方々が憧れたオクルマにて自動
車部で言えば3期上の石黒先輩が乗られていたのを覚
えています。
ホンダS800-3-1
タバコ屋も一度だけ横に乗せてもらった記憶があります
が、その乗り心地はスパルタンを通り越してまるで戸板
の上に乗っているような感覚でした。一方そのコクピット
は非常に斬新かつ機能的で、タバコ屋は今でもGOOD
デザインだと思っています。またギヤシフトはカチッとし
た感じの極小ストロークで、節度のあるものでした。

ついでながら、タコメーターのレッドゾーンは9500rpm!
からとなっており、もうスポーツカーと言うよりはバイク
のエンジンですよね
F1メキシコGP
余談ながらS600・800の設計者は元ヒコーキエンジニア
でHONDA-F1の監督を務めた中村良夫さんでした。彼
はまっとうで賢い技術者でしたが、きかん坊の宗一郎氏
はなかなか勝てないF1に業を煮やして彼と対立し、勝手
に別の空冷マシンを開発した挙句J・シュレッサーの事故
死という痛ましい事態となり、F1撤退に追い込まれたこと
はHONDAの負の歴史としてタバコ屋の記憶に痛々しく残
っています。
DSCN3582.jpg
軽四トラックにDOHCエンジンを積むなんていう無謀な
ことをやらかしたその記念すべきオクルマがコレで、
ボンネットには初期のHONDAロゴマークが描かれてい
ます。尚、このオクルマは珍しい雪上車仕様!です。
DSCN3580.jpg
町工場あがりのオッサン経営者、本田宗一郎氏が全身
全霊を傾けて開発したのがこのN360でした。HONDAに
とっても四輪車に参入したのはいいものの、軽四トラック
とスポーツカーではオクルマメーカーとしての面目が立
たず、是非とも大衆乗用車の開発が必要でした。

まだ若かった宗一郎氏は不眠不休で開発に没頭し、極
めてユニークと言うか、バイクエンジンを流用したような
空冷!4サイクルSOHC2気筒エンジンを完成させたので
した。独創的なエンジン同様、パッケージもモダンな前輪
駆動方式でボディデザインも当時の常識を覆すシンプル
かつ可愛らしい2BOXカーでした。ま、言ってみれば和製
ミニのパクリ版であり事実宗一郎おじさんはミニの影響
を相当受けていたと思います。展示車は昭和44年(19
69年)登録ですから、タバコ屋が大学に入学した年のも
のでやがてその2年後には大伴先輩からこの通称Nコロ
のお下がりを譲り受けることになるのですが・・・。

その結果、当時は若者だった団塊の世代に爆発的な支
持を受け、大ヒットとなり販売台数ダントツ1位のオクル
マとなったのでした。ただその大成功の後遺症?として
宗一郎氏はF1エンジンを始め市販車のエンジンも排気
量を問わずすべて空冷でなければ気が済まず、その拘
りがあだとなり、F1での失敗や若手エンジニアとの空冷
水冷理論を巡って深刻な対立を招き、天才技術者として
の限界を示すことになりました。

蛇足ながら、事実として空冷が適しているのはエンジン
が外気にさらされるバイクのしかも500cc程度までの小
中排気量のノリモノに適したメカニズムだと思います。
(大排気量のゼロ戦も空冷でしたが大空で冷気に晒さ
れるのでオクルマとは全く状況が異なります)
DSCN3577.jpg
本田宗一郎の信念を具体化したオクルマの代表として
HONDA1300がありますが、写真の展示車は昭和45年
(1970年)登録の1300クーペ9です。
ホンダ1300エンジン-2
HONDA-1300の最大の特徴としては、空冷に拘る本田
宗一郎氏の信念によりF1マシン、RA302からのフィード
バックである一体式二重空冷(DDAC)と呼ばれる冷却
方式を採用した空冷エンジンを用いていた点で、そのス
ペックはオールアルミ製 1,298 cc 直4 SOHC 8バルブ
クロスフローで、当時の1.3 L級エンジンとしては驚異的
なシングルキャブレター仕様で100馬力、4連キャブレター
仕様は115馬力!を発生しました。

ただエンジンに力を入れすぎたために重くなり、また足
回りがそれに付いて行けず、フロントヘビーによるアン
ダーステアやタックインといった挙動で、乗りにくいオク
ルマになってしまい、宗一郎氏渾身の作にも拘わらず
N360の成功作に比べ世紀の失敗作となってしまったの
でした。
ホンダ1300クーペ11-1
ただそんなこととは夢にも思わないタバコ屋はひたすら
HONDA神話を信奉しまた自動車部の同期の連中もこの
1300にはぞっこんだったと思います。それが証拠に2期
先輩の下村キャプテンは奈良のオウチが裕福だったの
かどうか、発売間もない1300クーペ9の新車!を購入し
普段のアシにしてました。
ホンダ1300クーペコクピット
タバコ屋は一度だけ横に乗せて頂いたことがあるのです
がそのメカと言い、ボディデザインと言い、コクピットと言
い、当時の国産車とは一線を画するスポーティでアカ抜
けたシロモノで、後にタバコ屋が自称HONDA-PTA会長
を拝命する一因ともなったオクルマでした。
HONDARA109(V10)-14D.jpg
余談ながら、タバコ屋は軽やかに吹け上がるエンジンに
ぞっこんで、重くて眠いNISSAN-L型にはあまり良い印象
を持ってなかっただけに、8,000rpm!までストレスなく吹
け上がるHONDAエンジンは大のお気に入りでした。まし
てやその後のF1での大活躍は強烈なインパクトとなり、
自称HONDA-PTA会長を拝命したのでしたが、今となっ
てはそれも遠い日の懐かしい思い出となりつつあります。

さてHONDAの評価です。創業者の本田宗一郎氏の志
やよし、それには「アッパレ、アッパレ」ですが、ご自身が
あまりにもオクルママニアだったためメカに懲りすぎたこ
とには「喝」でしょう。そのレベルは客の要求をはるかに
超えていたにしろ、「過ぎたるは・・・・」という事なんです。
DSCN3598.jpg
さて国産車のシンガリは王者トヨタです。トヨタも最初か
ら王者であった訳ではなく、地道な開発、改良と丁寧な
販売活動によってその地位を築いたのですが、技術の
NISSANに対し販売のトヨタと言われ、それはタバコ屋が
ハタチの頃からだったでしょうか。写真はそこに至る前
のトヨタが開発したスポーツ800で、展示車は昭和40年
(1965年)の登録ですから、まだタバコ屋が中学生だった
頃の作品です。この可愛らしいオクルマはHONDA-S600
・800のよきライバルとして当時の若者の憧れとなったの
ですが、HONDA同様、元ヒコーキのエンジニアが設計し
ただけあってメカ及びボディは斬新かつ独創的で、エンジ
ンはパブリカの流用ながらボディは空気力学を取り入れ
た抵抗の少ない形状でしかも徹底した軽量化により重量
は僅か580 kg !に抑えられていました。
S800-2.jpg
余談ながら、今回の巡礼4人衆の一人、越前アオリイカ
こと野尻君は自動車部時代初期にこのオクルマに乗っ
ていた幸福な青年のお一人だったようですが、お聞きす
るとお父様がメチャオクルマが好きなお方(エンスー)で
まずかなりくたびれたスポーツ800を購入し、続いて中古
のパブリカを買ってきて主な部品をすべて移し変えて完
成させたワンオフカー(手作り別注品)だったそうで、蓼
食う虫も好き好きというのはこのお方のためにある言葉
ではないでしょうか。う~んその執念に脱帽ですが、一
方、大切なお父様のオクルマをパクッて京都で乗り回す
ご子息がいたとは、言語道断のようにも思われます。ま、
お父様が倅のために作られたのならハナシは別です。
S800-7.jpg
トヨタスポーツ800の評価ですが肩肘張ったものでなく、
慎ましくも可愛らしい国産初のライトウエイトスポーツカ
ーとして「アッパレ」を差し上げたいと思います。
DSCN3620.jpg
次は言わずと知れたトヨタのドル箱車種カローラですが
ブルーバードとともに当時のNIPPONを代表するオクル
マでしたよね。展示車は昭和48年(1969年)登録で発売
4年後のものですが、高度成長期の絶頂を迎えようとし
ていた当時、カローラVSサニー、コロナVSブルーバード
の開発競争及びシェア争いが激しく行われました。挙句
の果ては「となりのクルマが小さく見えま~す」なんて言
う品性に欠けるCMの登場となりました。

その熾烈なシェア争いに関して、専門的なお話しながら
トヨタは敵の2倍の販売力を持つには4倍の戦力を投入
する必要があるといういわゆるランチェスターの法則
実践したのでした。この法則は第二次大戦で投入戦力
とその結果(勝敗)を科学的に研究したランチェスター
によって発見された法則なんですが、戦後は戦争では
なく実業の世界でも応用されるようになりました。その
方程式は2乗または平方根の数式ながら、逆に言えば
4倍の戦力で戦ってやっと2倍の効果があらわれるとい
うことで、技術で劣っていたトヨタがNISSANを抜くため
に人、物、カネを販売に集中的に投入した結果、徐々に
引き離すようになり、やがてNISSANがどのように努力
しようと二度と追い付けないことになったのです。
結果は三河あきんどの勝利に終わったのでした。
DSCN3618.jpg
続いてはそのカローラの派生車種でスポーティ版と言う
より本格的なメーカーチューング車であるレビンです。
特徴はエンジンでセリカ1600GTから移植された2T-G型
1.6L のそれは、2バルブながらも高度なDOHCが採用さ
れ、115馬力を誇っていました。また当時流行のオーバー
フェンダーを装着し、ボンビーな若者の垂涎の的でした。
展示車は昭和48年(1973年)の登録ですから丁度タバコ
屋が大学を卒業した年になります。

世にボーイズレーサーという言葉があるようですが、この
オクルマはまさにそれで、高性能かつお手頃価格のオク
ルマに飢えていた当時の若者はこぞってこのレビン(しか
も中古車)のお世話になったのではないでしょうか。ライ
バルはNISSANサニー1200GX-5で、どちらとも甲乙付け
がたい魅力があったように覚えています。
DSCN3619.jpg
さて、販売のトヨタと言われながら性能イメージで劣って
いたトヨタですが、そのダルい!イメージを払拭したのが
セリカではないでしょうか。写真の展示車はセリカ・リフト
バックGTで昭和49年(1974年)の登録ですからタバコ屋
が大学を卒業した翌年のものだと思います。
セリカ6
セリカは昭和46年(1970年)に発売されましたが、日本
初のスペシャリティ・カーとして70年代に一世を風靡した
オクルマですよね。そのずっと後の4代目にはWRC(世界
ラリー選手権)への挑戦にからみ、4WDシステムを備えた
GT-FOURを発売するに至り、初代から数えて20年後!
の平成2年(1990年)に名手カルロス・サインツの手によっ
て日本車初のドライバーズタイトルを獲得することとなっ
たのですが、販売のトヨタのみならず技術のトヨタとなり
得た歴史的な一瞬でした。
DSCN3543.jpg
ご先達の平尾センセが3期後輩の上山青年にレクチャー
しているオクルマは5代目セリカGT-FOURですが、偶然
にもC・サインツが4代目セリカを駆りドライバーズチャン
ピオンに輝いた同じ年の平成2年(1990年)に登録された
ものです。ワークスカラーに塗られていますが、本物の
ワークスカーかどうかは確認出来ませんでした。

勢いに乗ったトヨタはこの5代目セリカをインタークーラ
ーやターボで重武装し、再びWRCに挑戦、3年後の平
成5年(1993年)には名手C・サインツを擁して並み居る
世界の強豪ランチア、アウディ、プジョー等を蹴散らし、
悲願のドライバーズ&メイクスダブルタイトルを獲得、
ついに世界の頂点に上り詰めたのでした。
セリカWRC-1
平尾センセのレクチャーの中味は推察ながら「なあ上山
よ、トヨタもこのセリカで世界一になったんやけど、やっぱ
4WDやないと世界では通用せ~へんのやなあ。」とか。
受講生の上山青年も普段はかなりの論客ながら、相手
が先輩にて、フムフムとかいう感じで神妙に聞き入って
いる風情です。

まったくの余談ながら、タバコ屋はその頃に何をしていた
かと申しますと、当時全国で急成長中だったホームセン
ターを中島で開設すべく研究中でしたが数年間の開発
期間を経てそのトヨタの快挙と同じ年の4月、ついに念
願の島で唯一のホームセンターを開設するに至りまし
た。コホン。
DSCN3613.jpg
さてトヨタのというか国産車の最後を飾るのは言わずと
知れた、珠玉の名車トヨタ2000GTです。展示車の登録
は昭和44年(1969年)となっていますが、形式には前期
型と後期型があり、各部のディテールからして後期型で
すが、この年はタバコ屋がちょうど同志社大学自動車部
に入学?(入部)した年なんです。
DSCN3614.jpg
トヨタ2000GTは、トヨタとヤマハが共同開発し、実際の生
産はヤマハが担当したいわゆるOEM(委託)生産車で、
昭和42年(1967年)から数年間販売された国産初の超高
級スポーツカーでした。
トヨタ2000GTエンジン-1
開発の裏話として当初ヤマハが企画した夢のスポーツ
カー構想をNISSANに持ち込んだのですがNISSANでは
既にフェアレディZの企画が始まりつつあり断られた結
果、トヨタに採用されトヨタの設計陣との共同開発という
ことになりました。芸術品のようなエンジンはトヨタのクラ
ウン用2M型エンジンをヤマハが改良チューニングし、ヘ
ッドをDOHC化するとともに当時としてはレーシングカー
用だったSOLEXキャブを3連装するという夢のようなスペ
ックでした。その結果150馬力を発生しましたが今でこそ
大した数字ではないものの、ベースの2Lエンジンの馬力
が100馬力程度であったことを考えると5割増しであり、
当時の国産2Lクラス市販車では最強馬力を誇りました。
007トヨタ2000GT-1
発売時の価格が238万円で、トヨタ自動車の高級車であ
るクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高
価でした。昭和42年(1967年)当時の日本における大卒
者の初任給がおおむね2万6000円前後であったので、
現在の価格に換算すると1500万円から2000万円程度の
超高額車でした。

トヨタはその価格で販売しても赤字だったそうですが、世
界への宣伝の意味があった訳で、そのせいもあって話題
にはことかかず、娯楽映画「007は二度死ぬ」でも定番の
ボンドカーであるアストンマーティンDB5とは別に写真の
若林映子さんが乗るトヨタ2000GTロードスター(別注品)
が採用されました。裏話として若林さんは免許を持ってお
らず実際の走行シーンはカツラを被った別の男性が運転
したそうです。
トヨタ2000GTコクピット-4
タバコ屋の思い出としては、自動車部時代5年先輩で通
称ミナミのパチンコ王と言われた西山さんのキャデラック
をご自宅まで運転して行った時、トヨタ2000GTがドドーン
と鎮座しており、その後何度かクラブのガレージにも乗っ
て来られました。タバコ屋ふぜいはこの世のものとは思
われないそのオクルマにただただ憧れと畏怖を感じて
そっとフェンダーを撫でる程度ではあったもののヤマハ
のピアノ木工技術を駆使したそのコクピットは芸術品の
如きに輝いていたのをはっきり記憶しています。
トヨタ2000GT-11
さてトヨタ2000GTの評価ですが、浮世離れしたオクルマ
だけに恐れ多く評価も何もあったものではありません。
しいて言えば高度成長時代の技術革新の頂点とも言う
べきこのトヨタ2000GTは発売に際し、当時の長時間走
行スピード記録を塗り替える等、NIPPONが世界にその
技術を誇らしげに示したことに対し「大アッパレ」を差し
上げたいと思います。またそのデザインといいクオリティ
と言い、非の打ち所がなくこれはもうオクルマというより
は「神(ゴッド)」と申し上げたほうがよろしいでしょう。

巡礼団4人衆はこれでやっと国産車を回り終えたのです
がまだ外国車が残っています。ふ~。
それにしても昭和30年代後半から40年代にかけての国
産車を見て回りそれぞれに忘れ難い思い出があるので
すが、不思議なことにフェアレディZの実車での思い出と
いうものがまったくないのです。あれだけの名車でカーグ
ラフィック等の雑誌を華々しく飾っていたにもかかわらず
先輩の誰も乗っていませんでしたし、京都の街中でも滅
多に見ることはありませんでした。
IMG_2789-1.jpg
それゆえ卒業後40年もたってからせめて「死に土産」に
乗ってみたいと思うようになったのかも知れません。
誓って申しますが、一部宇治方面のアオリイカ大魔王
氏が目論んでいる様なこれでレジェンド・オブ・ラリー
に出場し篠塚建次郎氏に一泡吹かせるなどという野望
を持っている訳ではありません。
しかし40年以上も前の昭和48年(1973年)に製造され
たオクルマをまともに走らせること自体が大変なことで、
そこには「地獄のレストア」が待ち構えていようとは当時
夢にも思いませんでした。
手前味噌になりますが、この度タバコ屋の「赤いお嬢ち
ゃん」は2度目の大規模なレストア及びチューニングを
実施し見違えるように若返ったことをご報告致します。
そのいきさつについては別の記事にて詳しくお話しする
ことに致しましょう。山口百恵ちゃんでもないでしょうが、
「♪緑の中を走り抜けてく真っ赤なZ~」なんて。
S30Z-4.jpg
後日談ながら昨年4期後輩の野尻君から膨大なお写真を
頂いた時、彼が現役時代そのZのオーナーだったのを知
りビックリ仰天し、何やら戦友に巡り会ったような懐かしい
気分がしたのですが、それ以後彼とは親密な交友が始ま
り今日に至っています。

タバコ屋は今回の記事で迷宮から這い出たかったのです
が、国産車だけで紙数が尽きてしまいました。外国車に
ついては次回の記事でお伝えすることに致します。お楽し
みに・・・。長時間のご精読有難うございました。

コメント

No title

こんにちはチャンタクロースさん。先日は平尾センセのお母様がお亡くなりになった件、お知らせ頂き有難うございました。
 
この度は福井藩領内をお忍びでご漫遊され、昔なつかし40数年前のオクルマの記憶や当時の憧れた女性などの思い出が甦ったことと思います。読み始めるとニッサン車、サニー・チェリー・スカG・ブルーバードなど名車の性能、デザインなど「チャンタ理論」を展開していて面白くかつ納得しました。チャンタクロースさんはホンダの回し者かと思いきや、案外ニッサンの影武者かと思われるフシもあり、読み進むとミツビシ、マツダ、そして本命ホンダ、さらにトヨタ2000GTまでを網羅して、読者にも良くわかるように解説されています。オクルマ好きにはたまらない記事です。ホンダの説明ブースでは行数をさいて詳しく説明しており、やはりさすが元HONDA-PTA会長ですね。アッパレ!。
 
同志社ラリーのことも出ていて懐かしく思いました。また、赤いお嬢さんがドレスアップ、グレードアップしてより美人になって帰宅したとのこと、よりいっそうじゃじゃ馬になったのではないですか。上手く乗りこなさないとお漏らししてしまいますよ。要注意!。いつも楽しいブログありがとうございます。神戸のギーより。、

No title

ちわっす!
200GTのボンドガールはずっと浜美枝だと思ってましたが、2人だったんですね。  それにしても2000GTのインパネ(ウッド)は素晴らしいの一言。さすがYAMAHAの仕事はレベルが高い。
それにしても「技術の日産」はどこへ行ってしまったんでしょうか。
HONDAもマクラーレンから愛想つかされてしまうなんて信じられない昨今の事情ですね~。

Re:神話の終わり

上山青年よ、コメント有難うございます。いっしょに見学したTOYOTA2000GT、素晴らしかったですね。まあボクらが若衆だった頃、即ちNIPPONが無限の成長を夢見て高度経済成長路線を驀進中だった頃の作品にて夢のオクルマでした。

技術の日産はどこへ行ってしまったんでしょうかというご指摘ですが、タバコ屋はエレキの方へ行ってま~す。とお答えしたいです。今NISSANはゴーンさんの采配のもと、テスラと競争でエレキ自動車の開発に血眼になっています。さてトヨタ、HONDAのハイブリッド及びプラグインハイブリッド路線が勝つのか、はたまたNISSANのエレキ路線が勝つのか、これはもう天下分け目の関が原なんです。タバコ屋はプラグインハイブリッドこそが次世代本命と思っていますが、最近外国では近い将来EV以外の製造販売を認めないなんていう物騒な法律を作ろうという動きもあり、ここで先を読み違えるととんでもないことになります。

マクラーレン・HONDA-F1のことですが、タバコ屋もじくじたるものがあり、この件についてはブログ記事にも書こうと思っています。しかしHONDAにとってはかつて第二期の栄光の時代があっただけに今のていたらくは目を覆いたいです。近日中に結論は出るでしょうが、誇り高きHONDAがアロンソには馬鹿にされマクラーレンからは愛想をつかされそうになっている現実は屈辱的です。不振の主な原因はパーツの精度不足らしく、救いとしてはどうも総力戦に突入したようで、意外な事にHONDA-JETのヒコーキエンジン製造技術を投入し名誉挽回をはかりつつあるそうですが、時すでに遅しとなるのかどうか・・・。

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【4月10日:ああ創業100年】    島のタバコ屋は先々代が呉服屋を創業以来3代目となり、その間戦後間もない頃には島のバス運営事業を試みる等様々な営みを経て今日に至っています。皆さんよくご存知のNIKONも創業100年なんですが、比較にはならないものの同じ時代を生きてきた訳です。かつてオハイオのメアリーズビルで活躍する夢を抱いたこともあった青年も年を取りました。さて今後の100年をどのように生きて地域のお役に立っていくか、タバコ屋にとっては後継者である倅への「死に土産」としてそのコンセプトを確立しておく必要があると考えています。しかし倅にとっては年寄りの余計なおせっかいに写るかも知れませんよね。
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