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鈴鹿サーキットのこと vol.1:草創期

平成24年11月18日
【HONDAの歩み】
わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、
性能の優れた、廉価な製品を生産する

これはご存知の方も多いと思いますが昭和36年HONDA
の社報に掲載された経営理念です。創業者本田宗一郎
の純粋で無垢な志が表現された極めて格調の高い文章
であると思います。
一見淡々と述べられているその内容は実現の困難なこと
ばかりで、掘っ立て小屋の町工場のおやじが発するよう
なものではなく、当時の大企業でもそのような崇高な経営
理念を掲げていたところはほとんど皆無で、宗一郎氏の
スケールの大きさを思わせます。
社員や社外に対するものというよりは、その理想と意志を
彼自身に言い聞かせ鼓舞するためのものだったのでは
ないでしょうか。
社内外で公表する、しないは別にして一つの事業を創業
継続するに当たり、経営者が経営理念を持ちそれを文章
に表現することは、ある意味実務以上に大変重要なこと
であると思います。

余談になりますが私が卒業した京都の同志社大学創立
者、新島襄先生も教え子に対し「良心之全身ニ充満シタ
ル丈夫(マスラオ)ノ起リ来ラン事ヲ
」と有名な檄文を贈り、
現在では「良心の碑」として校門前に残されていますが、
心の叫びを簡潔な文章に表すことは極めて難しいことで
もあります。
(関連記事:今出川でのことVOL.1参照願います)
本田宗一郎1
写真は昭和32年発売のドリーム号(C70)にまたがり、
得意満面の本田宗一郎氏です。彼は学歴もなく裸一貫
で成功した戦後の日本を代表する立志伝中の経営者の
一人として、知らない人もないくらいの方ですが、一人の
情熱的な技術者として常々「技術の競争は技術をもって
すべきである」また「良品に国境はない」と言い続けた方
でもありました。
彼は、当時の世界と日本の技術力の圧倒的な差を痛切
に感じており、その世界レベルに追いつき追い越したい
という負けず嫌いな彼の一途な思いが体からほとばしり
出たのが冒頭の経営理念だったと言えましょう。

恥ずかしながら、やや唐突に以下をご紹介致します。
栄えよ我がふるさと、美しき中島、
・小さな島に大きな希望

これは島のタバコ屋が島のみかん農業への危機感から
平成16年より始めた島のジュース・ジャム工場を立ち上げ
るに当たり、自己流で定めた我が社の経営理念です。

本田宗一郎氏の熱き思いとスケールとは宇宙的隔たりが
ありますが、数年間真剣に考え一途な思いを文章にした
点では若干の共通点があるかも知れません。
もっともタバコ屋は世界的視野に立ってはおらず、島の過
激な親父のレベルですのでその活動内容もたかが知れて
はいますが、発起の原点は本田宗一郎氏の生き様にあっ
たのかも知れません。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

ホンダN360-2
余談ながらタバコ屋が同志社大学自動車部の現役時代
に最初の自己所有車となったのはHONDAが実用的な乗
用車として初めて発売した軽四輪のN360でした。
先輩O氏からかなりくたびれた中古の車両を2万円で譲り
受け同期のS君と共同所有し、クルマの楽しさを教えてく
れた思い出深いオクルマでした。尚、伝統に従って?
卒業時はクラブに寄付致しました。

ところで、このN360ですが、当時の血気にはやる、若き
宗一郎氏のお気に入りはオースチンミニでした。
タバコ屋の想像ながらこのN360は本田宗一郎氏が作っ
た日本版ミニともいえ、各部のメカニズムや基本レイア
ウトはミニの丸ごとコピーとも言えるものでしたが、空冷
2気筒OHCエンジンだけはHONDA独創の、高回転まで
よく回るバイクのように気持ちの良いエンジンでした。
宗一郎氏のオースチン社に対する憧れは後の技術提携
へと繋がり、その提携の結果として生まれたのが他なら
ぬ初代レジェンドだったという訳です。
(関連記事:荒ぶる心 VOL.2:スカイライン2000GT参照
願います)
アコードハッチバック
卒業後数年は食べるのがやっとでクルマどころではあり
ませんでしたが、昭和52年頃だったでしょうか、自分のお
給料で買った最初のクルマがアコードハッチバックでした。
黄色のそのクルマは当時とても日本車離れしていてハイ
カラだった記憶があります。

ついでながら島のタバコ屋はこの2ドアハッチバックとい
うスタイルが痛く気に入ったようで、後日還暦が来て購
入することになった赤いお嬢さんこと、フェアレディ240Z
もカテゴリーは違え、同じ2ドアハッチバックであったこと
は偶然とは言えないでしょう。
レジェンド
アコードに7~8年乗ったでしょうか、次はかなり無理をし
てHONDAがイギリスのローバー社(宗一郎氏の大好きな
オースチン社はすでにローバーに吸収されていました)
と提携し共同で作った初めての大型セダン、レジェンドを
購入しました。
パワフルなHONDAのイメージに対して大人っぽいクルマ
と言うんでしょうか、V6のパワーはあまり感じませんでし
たがHONDAらしく非常に吹けあがりが滑らかで気持ちよ
く、またボディデザインやインテリア、ダッシュ等にヨーロ
ッパのセンスが光っていました。
当時国産車にはヨーロッパ車のセンスが感じられるよう
なクルマは皆無でしたので、レジェンドに乗ることは何か
知的な満足感がくすぐられるように感じました。
レジェンド2
初代レジェンドに6~7年乗ったでしょうか、平成3年には
2代目レジェンドが発売され、かなり大きすぎるボディサ
イズではあったものの、パワフルになったのとその塊感
のあるデザインが気に入り、平成4年に購入し、その後
何と20年!も乗るハメになりました。
タバコ屋もやや凝り性なところがあり、標準ではなかった
2トーンカラーに塗ってもらったり、クーペ用のアルミホイ
ールを特別に装着してもらったりして、ディーラーの店長
を困らせてしまいました。
レジェンド4
その間、故障らしい故障もなくよきパートナーとして働い
てくれ、国産車の品質向上は40年前とは隔世の感があ
りますが、近年は乗ることも少なくなり、また時代もこの
バブリーな大型車を所有する意味がなくなりつつあると
判断し、先般残念ながら手放すことになりました。
(関連記事:紅茶と人絹モスリン参照願います)

延べ40年間に及び、HONDA一色の愛車人生でした。
そのHONDAとのご縁で、後日鈴鹿サーキットを舞台に
様々な予期せぬ事件が起ころうとは・・・。
詳細はvol.4にてお話致します。
カブF号2
今ではHONDAは経営理念のとおり世界的な自動車メー
カーとなりましたが、創業当時は様々な苦難のドラマが
ありました。
創業後、写真のカブF号(通称バタバタ)やバイクのドリー
ム号、またその後ベンリィ号を次々開発し、国内ではトッ
プの2輪メーカーに成長しつつありました。
ベンリィJ号
昭和30年発売のベンリィJ号です。自転車やバタバタより
も便利だろうというので宗一郎氏がベンリィとネーミング
したと言われています。まあ当時からネーミングの由来と
いうのは意外性があり、また一面的を得ていて面白いの
ですが昨今ではムシコナーズとか言いたい放題のネーミ
ングが散見されます。
月光仮面のTV放映が始まったのが昭和33年ですから、
月光仮面のおじさんが乗っていたバイクはベンリィ号かも
知れません。(確認してないので不確かです)
それと前後してスクーターのジュノー号を発売したりもし
ましたが、スクーターの開発は不慣れだったため欠陥商
品にて売れず、また同時期にバイクの不具合によるクレ
ームも多発し返品の山となり、窮地に陥った時期があり
ました。
本田宗一郎6
本田宗一郎氏と意気投合し宗一郎氏の片腕というより
共同経営者として有名な藤澤武夫氏はすでに当時専務
として販売を一手に受け持っていましたが、クレーム処
理に追われ、技術的な問題は解決したものの(ちなみに
バイクはキャブの欠陥でした)その苦い経験から、販売
ルートを当時考えられなかった自転車販売店に求め、
巧みなDM作戦で一気に劣勢を巻き返した凄腕の経営者
でもありました。
創業当時のないないずくしの中で二人が技術と販売に
それこそ命がけで知恵を絞りに絞った結果、苦境を切り
抜けたのです。
この二人のどちらが欠けても今日のHONDAはなく、
人の出会いというものがいかに大切かということを物語
っています。
スーパーカブ号1
そのようなHONDAが昭和33年、起死回生の新製品を発
売することになります。
「オートバイでもない、スクーターでもない乗物」その名は
スーパーカブ号でした。開発に2年近くを掛け、ヨーロッパ
などの先進国の類似品を徹底的に研究し、万を持しての
発売でした。
それはわずか50ccながら音の静かな4サイクルOHV機構
を持つエンジンを積んだ可愛らしいミニバイク?でしたが、
当時まだ市販化されてなかったプラスチック樹脂をカウリ
ングに採用、また足で操作出来るクラッチ、ブレーキ等々
HONDAのアイデアと技術の粋を結集したものでした。
スーパーカブ号3
結果は空前の大ヒット、一躍HONDAのドル箱になるととも
に今日まで改良を重ねて生産累計が6,000万台以上と言
う天文学的数字となり(平成20年時点)今現在でも世界中
のHONDA工場で生産されており、世界でも類を見ない
不朽のロングセラーノリモノとなりました。またその結果
このような形状のバイクを皆がカブと呼ぶようになり、
一種の国民語として定着していきました。

余談ながら、バイクは後からまたぐものという常識を覆
し、前から足をかわして女性でも難なく乗れるというユー
ザー目線のデザインを主張したのは宗一郎氏自身で、
えぐりの部分は彼のこだわりが相当入り、徹底的に
えぐったのでガソリンタンクを置く場所がなくなってしまい
エンジニアを困らせたというエピソードが残っています。

また販売側から(ということは藤澤専務から)の要求で、
販売価格は5万5千円にすることが決まりました。
現状では採算割れとなり、それには月間3万台の生産
販売が必要で、既存の工場の能力では不可能に近いこ
とがわかり、後述の最新鋭鈴鹿製作所を建設し月3万台
の大量生産を目指すことに賭けた理由はここから来てい
ます。
マーケティング理論でよく言われるプライシング(価格設
定)の重要さをHONDAの藤澤専務は身をもって理解して
いたのです。
スーパーカブ号4

開発コンセプトの一つが「蕎麦屋が片手で運転出来る
便利な乗り物
」でしたが、それを忠実に実現したことによ
り事実蕎麦屋さんからの注文が激増したと伝えられてい
ます。
スーパーカブ号の成功は、HONDAが掲げるもう一つの
モットー「三つの喜び」即ち、作る喜び、売る喜び、買った
人の喜びをまさに事実で証明することにもなりました。

写真は当時の宣伝チラシですが、タイトルの「ソバも元気
だおっかさん」そして「きょうも話題はカブがさらった」
まさにそのとおりの結果となりました。
タバコ屋の先代が購入したSUBARUラビットスクーター
とはまた違った意味で当時のハイカラ乗り物でした。
(関連記事:こまどり姉妹参照願います)
ホンダ1300クーペ

ホンダ1300エンジン
本田宗一郎氏はエンジンとデザインにはめっぽううるさか
ったそうで、そういえば、彼の最後の作品とも言える1300
クーペは、前輪駆動横置きSOHC2重空冷、4キャブレター
という前代未聞の凝りに凝ったメカもさることながらデザ
インも当時の国産車離れした超カッコいいクルマでした
よね。スーパーカブ発売よりずっと後の昭和46年頃のお
話です。
鈴鹿製作所1
上記の理由によりさあ大変です、売れるのはいいのです
が、それに合わせて大量生産をする近代的工場が必要
になりました。全国各地の候補地の中から、熟慮の結果、
鈴鹿が選ばれ数十万坪の敷地を確保、昭和35年、当時
としては画期的だった、窓なしの完全空調設備を備えた
超近代工場が竣工したのです。
またその数年前には当時のお金で4億数千万円(現在で
80億円?)もの工作機械を欧米各国から買い集めており、
資金の調達とそれの活用が重大問題でした。
鈴鹿製作所2
それもさることながら当時で45億円(現在で800億円?)
を投資するスーパーカブ号生産のための鈴鹿工場は
HONDAの社運を賭けた巨大プロジェクトでもあったの
です。
ちなみにその時の工場コンセプトも国内目線ではなく、
スケール、ポテンシャル、クオリティ、どれをとっても世界
的視野に立ったものでした。

創業者本田宗一郎は困ったことに三度のメシよりレース
がお好きだったので、その趣味が高じて当時浅間山麓で
行われていた国内バイクレースには果敢に参加していま
したが、なかなか勝てませんでした。
その鈴鹿工場が立ち上がるよりかなり前には、無謀にも
当時バイクレースでは世界最高峰だったイギリスのマン
島TTレースに出場すると、大風呂敷宣言を出したのです。
マン島TTレース
事実その後昭和34年には後の社長となる河島喜好氏が
監督を務めレース初出場を果たし、2年後の昭和36年に
は念願の初優勝を遂げました。
その後の2輪世界GPでの大活躍に繋がっていきます。
ホンダ2輪レーサー
マン島TTレースの優勝を始め、世界GPで優勝を重ねた
栄光のGPマシンHONDA-RC143(125cc)です。宗一郎は
負けず嫌いではありましたが、勝利よりもレースを「走る
実験室」としてとらえ、その技術を市販車にフィードバック
していくという手法をとり、それは後のF1-GP参戦におい
ても伝統として受け継がれました。

話は飛びますが、鈴鹿サーキットのことです。
開設は昭和37年ですが、前述の鈴鹿製作所の用地購入、
建設と並行して同じ鈴鹿の山間部で数十万坪に及ぶ
サーキット用地が確保されました。
鈴鹿サーキット1
それ以前、ヨーロッパ各地を視察して回った宗一郎氏は、
世界の先進地にはサーキットがあり、そこで技術を磨く
ことが出来るのに、日本には本格的なサーキットが皆無
であったことと、自社でも2輪の世界GPに進出しつつあり、
近い将来、日本でもサーキットで一流のチームが競い合
う時代がやがて来ることを予感しており、誰もやらないの
ならHONDAがやろうと決心したようです。
鈴鹿サーキット4
工作機械の桁外れの購入、鈴鹿製作所の建設、それと
並行しての鈴鹿サーキットの建設と続き、宗一郎氏自身
は常々、倒産は覚悟の上で、もしそうなっても世界一の
キカイや設備が残るんだからそれは日本にとって宝だろ。
と言ってケロッとしていたとか。
同じ決心でも度肝を抜くスケールだと思いませんか。
鈴鹿サーキット6
鈴鹿サーキット開設後、夏の恒例となった鈴鹿8時間耐久
レース(通称8耐)のスタートシーンです。
街でやんちゃなお兄さんがストレートマフラーで騒音を撒
き散らし、皆のひんしゅくを買ったりしていますが、本当の
GPレースでのサウンドというものはそんなチャチな音とは
桁違いのスケールで、耳をつんざき、体が揺すられるよう
な凄さで、街のチンケなお兄さんも、やりたいのだったら、
鈴鹿でその度胸を試してもらいたいものです。

鈴鹿サーキットは今年で開設50年を迎えます。上の一連
の写真は数度にわたり改良工事を行い、ずいぶん綺麗
に充実した後のもので、開設時とはまるで別物のように
なりました。
鈴鹿サーキット9
島のタバコ屋が若い頃は、ご覧の写真のごとく、グランド
スタンドとピット、パドック以外はほとんど未整備状態で、
北野元、高橋国光といった懐かしいドライバーがHONDA
で、またその後NISSANで活躍していた頃はそれこそ一般
観客席はぺんぺん草に土留めの杭が打ってあるだけの
お粗末なものであったのを覚えています。
サーキットラリー1
突然ですがタバコ屋が同志社大学自動車部に在籍中、
4回生の頃でしょうか、一般道路を使用してのラリーが
警察の方針で出来なくなりつつあり、鈴鹿サーキットを
使用して行う変則的なラリー、即ちサーキットラリーなる
ものが始まりました。サーキットを指定された速度で正確
に周回することを競う競技で、一般の方から見ればかな
り違和感があるでしょうが、お金のない大学生のやるスピ
ード競技と言えばこのような形にならざるを得なかったの
でしょう。
タバコ屋は当時ある事情(痔の手術)で一時部活動から
離れていたのですが、確か女子が目覚しい活躍にて、
優勝したことを聞きました。その時のドライビングクルー
で、一期後輩のT嬢とS嬢です。
慣れない競技で、よく頑張ったと思います。競技車両は
別記事にてご紹介した北海道遠征時の旗艦スカイライン
2000GTです。
競技とはいえあのエレガントな容姿がサーキット走行用
に改良(破壊?)されていて、この車両を購入時の当事
者としては、複雑な心境でした。
サーキットラリー2
鈴鹿サーキットのグランドスタンド前を疾駆する同志社
大学自動車部・女子チームのスカイライン2000GTです。
一般の方には公開してない競技なので当然ながらスタ
ンドには人影はあまり見受けられません。
タバコ屋は卒業を控え部室に顔出しすることもほとんど
無くなってしまいましたが、その後スカイライン2000GTは
どうなったんだろうか。やや気になることではありますが、
聞かないほうが良い場合もあるでしょう。

いずれにしても鈴鹿サーキットは当時まだ草創期にあり、
日本の自動車産業、高速道路等の急速な発展、レース
に対する一般の関心の高まりとともにその姿を変えてい
くことになります。
鈴鹿サーキットが草創期に果たした役割は数えきれない
ほどありますが、一例として当時日本の高速道路の舗装
技術は確立されておらず鈴鹿サーキットの舗装が基準に
なったと言われています。

余談ですが、鈴鹿の代表的イベントとなったバイクの8時
間耐久、また後年開催されることとなるF-1によりその集
客数は飛躍的に増え、鈴鹿サーキット詣ではある意味
現代のお伊勢参りとも言えるのではないでしょうか。

紙数が尽きたようなので今回はこの辺で終わりにします。
次回は鈴鹿サーキットにまつわる意外なお話などを書い
てみたいと思います。

(尚、HONDAの社史に関わる記述の一部、写真等は
HONDA技研ホームページより引用させて頂きました。)

コメント

No title

こんばんわ。 
本田宗一郎は情熱の技術者だったんですね。 私は高校生の時にCB72(250cc)に乗ってました。 それにしても昔のバイクは綺麗なデザインでびっくりします。機能美なんでしょうか? 
ベンリイJ号気に入りました。
マン島TTレースのことは少しは知っていましたが、本田宗一郎のレース好きが発端とは知りませんでした。
部員の時は、本拠地の鈴鹿サーキットはバイトで2回ほど、サーキットラリーはピットクルーでした。出走車はホンダS600、ピット作業の指定にデスビのポインター交換があって、この日のため用意したポインターが違っていて、不適合とわかるまでに時間をロスしたのを覚えています。(事前に確認しておくべきでした)
私はサーキットを走っていないのですが、一度は走って見たいですが、歳なので怖さのほうが先に立ちそうです。
先輩のSさんやTさんは根性ありで、きっとガンガン走っていたのでしょうね。
ホンダ車といえば、私は一時期シビック1200RSに乗ってましたが、SUツイン(だっと思います)でよく回るエンジンでした。
現在のホンダ車で好きなのは、レジェンドとアコードツアラー、フリードくらいで何となく普通のメーカーになってしまっているように感じます。
本田宗一郎さんは現在のホンダを見てどう思うのか聞いてみたい気がします。

Re: No title

貴重なコメント有難うございます。
うわ~、ボルボをゲタ代わりに毎日多忙な日々を送られている上山氏も、
若かりし時は2WP(私の造語でワッパ)のライダーだったのですね。
それもドリームCB72とはマニアックじゃないですか。マン島TTレースを
戦ったGPマシンのデチューン版とも言える名車だったと聞いています。また
ベンリィJ号も気に入られたようで、寝た子を起こすことになりましたかね。
サーキットラリーの貴重な情報有難うございました。私も卒業が迫っており
このことはブラックボックスになっていました。HONDAS600で出場
した時もあったんですね。恥ずかしながらまったく知りませんでした。
上山基準によればレジェンドとアコードはやや合格のようで何やら好みが
似ているようでもあります。尤も私は2WPの醍醐味を知らずに過ごした
4WP派でしたが。たそがれ時期では手遅れですよね。
宗一郎氏に現代のHONDA車のことを聞いてみたいそうですが、多分
「てめえらこんなもん作って、客をなめてんのかやめちまえバカヤロー」と
言われたかも知れません。
上山青年はシビック1200RSにも乗られていたとか。シビックはHONDA
にとってあまりにも大きい存在なので、次回に詳しく取り上げようと思って
いました。CVCCというデバイス付きでない生のHONDAエンジン
だったと思うのでさぞかしよく回ったことでしょう。
どうでもいいことなのですが、上山青年の尊厳を傷つけない程度に申しますと
HONDAは元々バイクメーカーでキャブレターは伝統的に京浜精機(ケイヒン)
のものを使ってきました。シビック1200RSも多分ケイヒンのツインが装着
されていたと思うのですが、インジェクションになる前の懐かしい思い出です。

No title

ちょっと”汗”ですね。 後で気がついたのですが、そういえばCVキャブのツインだったのではと思い出しました。 SUツインが付いていたのはチェリーX1とかだったでしょうか? 今はインジェクションで一くくり、味気ないというか人の感性が入る隙間が無いメカばかりになってしまいました。

もうひとつ、デスビのポインターでなくポイント(正式にはコンタクトポイント)でした。

物忘れが多いのは歳のせいにしておいてください。

Re: No title

すみません。余分なことを言ってしまいました。やはりCVキャブでしたか、HONDA1300にも4連装で
装着されていたアレですよね。チェリーX1もホント気持ちのいいエンジンでしたね。いずれにしても兎追いしの
お話でした。有難うございました。尚、物忘れGPでは私のほうが高得点になると思います。今はまだましで
しょうがそのうち今日の朝メシ食べたかいなとか言い出すでしょうから。

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まとめ【鈴鹿サーキットのこと】

平成24年11月18日【HONDAの歩み】「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、
★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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