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鈴鹿サーキットのこと vol.2:発展期

平成24年11月23日
【HONDAの飛躍】
迫り来る総ての可能性を予知して自己のテクニックの
限界を作るな
」?????一体何のことでしょうか。
この言葉は世界で最も信頼され愛されたモータージャー
ナリスト故ポール・フレール氏が残した言葉なのです。
ベルギー生まれの彼は、若いときはベルギーのバイクチャ
ンピオンを皮切りに、四輪に転じ、F1での入賞、F2での優
勝を始めフェラーリのワークスドライバーとしてルマンに優
勝するなど、目覚しい活躍をし、一流のレーシングドライバ
ーでありながら、その後はモータージャーナリストとして活
動するかたわら、世界中の自動車メーカーに的確な助言
をし、今日の自動車産業発展に貢献した類まれな人物で
ありました。
特に日本との関係が深くとりわけHONDAとは深い親交を
持ち、当時の主だった市販車には彼のアドバイスが生かさ
れたとともに、その後MAZDAにも関わり多大な影響を与え
たことはあまり知られていません。
ポールフレール1
冒頭の言葉ですが、危険と隣あわせのレーシング走行、
もしくは一般の高速走行において、周りのことを注意深く判
断して、自分のドライビングテクニックの限界以上で走行し
てはいけません。と言っているのです。
ポールフレール2
この写真は昭和44年、彼が始めて日本に招かれ鈴鹿サー
キットで開催された「ポール・フレール・レーシング・スク
ール」においてレース・ドライビングテクニックについて
日本で初めて数式を交えた理論的な解説による実戦講
義を行っているところです。
(黒板の上にスローガンのように貼ってあるのが冒頭の
言葉です)
ポールフレール3
彼がスクールで教習車として使用したのがHONDA-S800
でした。ドアパネルにはポール・フレールと大きく書かれて
います。
このクルマを使用してレーシング走行の真髄を100人の
受講生にマンツーマンで指導したと言われています。
(こんな神様に教われるんだったら島のタバコ屋も受講し
てみたかったです。ちなみにその年はタバコ屋が同志社
大学に入学した年でした)
PF4
鈴鹿のSベンドにて。ポール・フレール講師がこれから
S800で模範走行するところです。ポール・フレール氏は
サスペンションを固め、レーシングタイヤをはいただけの
S800で、このSベンドを110km/hオーバーで走り抜けた
そうです。彼の卓越した技術があったからこその模範走
行だったのでしょう。多分受講生はまずP・F先生の横に
乗せてもらい、その後自分で走行する手順だと思われま
すが、緊張した面持ちで立っていますよね。
PF5
ところでこの講習会はHONDAが企画したものではなく、
数年前から親交のあった自動車雑誌カーグラフィックの
初代編集長、小林彰太郎氏がP・F氏に依頼したところ
快く引き受けて頂いて実現したものです。
写真は初来日の際、鎌倉に立ち寄った時のものと思われ
ます。左がポ-ルフレール(P・F)氏、真ん中はスザンヌ
夫人、右が小林彰太郎氏です。
カーグラフィック(通称CG)は鈴鹿サーキットが完成した
昭和37年に創刊された日本で始めての本格的な自動車
雑誌で、それこそHONDA同様世界的視野に立った記事
内容でした。
(ただし、ヨーロッパ車ばかり褒めるので、日本やアメリカ
の自動車メーカーは気に入らなかったようです)
彼は小林エディターとは親交があり、そのCGにFROM
EUROPEと言うコラムを連載し当時のヨーロッパの最先端
情報を日本の読者に伝えていた経緯がありました。

余談ですが、タバコ屋が同志社大学に入学したその年は、
学園紛争が最も激しかった年で授業もままならない状況
でしたが、その授業の退屈さには失望してしまいました。
(2年間の一般教養課程のことです)
老教授がカビの生えたようなノート片手に経済原論など
という感動も発見もない机上の遊びごとのような内容を
惰性的に講義していました。
マルクス理論を教えていた教授もいましたが、マルクス
主義自体が破綻した今日の状況をどう説明出来ると言う
のでしょうか。ここだけの話ですが、彼らは明らかに月給
泥棒だったと思います。これが大学かと。これは教授だけ
でなく大学側にも何を教えるかについての重大な誤りが
あったように思います。

タバコ屋は5才の時から実戦の商いは体で経験しており、
大学まで来て学びたかったのはそれを体系、理論づける
生きた講義でした。その願いは3回生以降の専門ゼミに
入ってからも満たされず、子供の頃からショウバイの実
務を経験しているタバコ屋にとっては、幼稚で物足りない
ものに思えました。同志社にドラッカー教授でもいてくれ
たらタバコ屋も最前列でノートを取るところでした。

それに引き換え、CGはジャンルは異なるものでしたが、
オクルマそのものや業界のこと世界の現状などが満載で、
発刊が待ち遠しいほどでした。但し、親からの仕送りに
頼っていたタバコ屋は高価なCGを買うことにかなりの
ためらいはありました。そのしわ寄せは学食で100円の
うどんをすするということになりましたが。
小林彰太郎1
小林彰太郎氏ですが、P・F氏を日本に招き、また彼を
本田宗一郎氏に紹介しP・F氏とHONDAとの深い親交の
きっかけを作っただけでなく、彼自身もHONDA-S600で
ヨーロッパ横断旅行を試み、当時HONDAが参戦していた
F1など当時のヨーロッパオクルマ事情をつぶさに見て回り、
それがご縁で、その後本田宗一郎氏とも親密な関係を持
つようになりました。

裏話ですが、彰太郎氏がそのS600のことでHONDA本社
にケチをつけに行った時、宗一郎氏自身が出て来られ、
丁寧に謝罪したあと、そのケチの原因と解決法を詳しく
説明されたことから、二人の親密な関係が始まったと言
われています。
ホンダS600
彰太郎氏がヨーロッパ視察に使用したS600(通称エスロ
ク)は、HONDAが2輪車事業の成功と確立の後、更に4輪
車事業に進出を図った際の初めての記念すべきクルマ
で、鈴鹿サーキットが完成した2年後の昭和39年に発売
されました。
初めて発売したクルマがスポーツカーというのもシャレ
者の宗一郎氏、ひいてはHONDAらしいやり方ですよね。
ホンダT360
実際は軽トラックT360も発売しましたが地味なカテゴリ
ーの車だったであまり目立ちませんでした。
裏話として宗一郎氏はカッコイイ車以外関心がなかった
のですが、藤澤専務がそれではお米の種にならないの
で、同時に実用的な軽トラックの発売を主張しました。
エンジンは排気量は違うものの基本設計をSシリーズと
共通にしたので、トラックとしては前代未聞のDOHCエン
ジンとなりました。(やりすぎ!)
ホンダS800-9
センセーションを巻き起こしたS600の評判に気を良くし
たHONDAは続いて昭和41年にS800(通称エスハチ)を
発売しました。P・F先生が鈴鹿を駆け抜けたあのクルマ
です。
スペックはS600とほぼ同じで、ボアアップされた排気量は
791cc、HONDA定番の京浜精機製4連CVキャブレターと、
等長エキゾーストマニホールドを装備し縦置きされた水冷
直列4気筒DOHCエンジンをフロントに搭載、足回りは前輪
がダブルウィッシュボーン、後輪はデフから先の動力伝達
に2本のローラーチェーンを用い、それをケースごとトレーリ
ングアームに使うというユニークなものでしたが、HONDAは
バイクメーカーだったのでバイクの後輪駆動システムでは
一般的な形式をそのまま4輪に応用したものでした。

ともかく当時の国産車では例を見ない凝りに凝ったメカニ
ズムでしたが実際にはその後輪駆動方式はかなり無理
があり、評判が悪かったので、後期型では一般的なデフ
と固定車軸を4リンクで支える常識的なリジッドアクスル
に改良されました。
懲りすぎて失敗する!というパターンは以後、宗一郎氏が
現役の間特に4輪においてHONDAについて回った一大特
徴となりました。
ホンダS800-4
HONDA-S800のエンジンルームです。一つ一つのパーツ
がまるで精密機械のように研ぎ澄まされ、芸術的とさえ
言える機能美を持っていました。
ついでながらこのSシリーズエンジンを設計したのは後に
社長となる若き日の久米是志氏で、当時HONDAが参戦
していたF1のエンジン設計者でもあったため、S600、800
のエンジンはHONDA-F1と同じコンセプトで作られたとい
う訳です。
ちなみに最高出力は8000回転で70馬力を発生するという
レーシングエンジン並みの桁外れの高回転型で、F1のデ
チューン版と言われるゆえんもそこにあります。

そのF1ですが、宗一郎氏は2輪でのGPで世界チャンピオ
ンとなった後、昭和39年には、無謀と言うか壮挙というか、
果敢にもF1に参戦することとなりました。
鈴鹿サーキットを作った理由の一つは、公表されていない
ものの、2輪のGPマシンと新たに参戦するF1マシンをテス
トするため、自前のサーキットを作ることが宗一郎氏の夢
であったようです。
もっとも藤澤専務はそれだけでは経済的に破綻してしまう
ので、鈴鹿サーキットを遊園地化してソロバンも合うように
仕向けたとか。
夢だけでも食えず、ソロバンだけでも感動はなく
人生とはかくも難しいものなり。
」タバコ屋の独り言です

F1に戻ります。HONDAがF1に参戦するのは昭和39年の
ことですが、実はその3年前昭和36年には2輪の世界GP
を制し、宗一郎氏の次の目標はF1でした。いくらレース好
きとはいえ夢のスケールが違いますよね。
当初はF1を研究する目的でクーパーT53を購入し、それ
をもとにHONDAオリジナルのRA270を開発しました。
ホンダRA270
本田宗一郎氏と一緒に写ったHONDA-RA270です。
プロトタイプなので実戦に投入されることはありませんで
した。
ところで、HONDAは何の技術の裏付けもなくF1に参戦した
ように見られていますが、実は戦後当時日本最大であっ
た航空機メーカーの中島飛行機がGHQにより解体され、
航空機の製造が禁止されたため、世界でもトップクラス
だった優秀なエンジニアの仕事がなくなりました。HONDA
はいずれ航空機を作るんじゃなかろうかというほのかな
期待と当面の食いブチを得るために中島飛行機の技術
者が大量にHONDAに入社していたのです。
またHONDAにしてみれば4輪車への進出を図るに当たっ
て、宗一郎おやじ一人が吼えまくっているだけでノウハウ
はゼロに等しく開発は中島飛行機の技術者に頼らざるを
得ませんでした。
航空機のエンジニアにとってはF1の開発は未知との遭遇
ではあったものの、技術的には不可能なものではありま
せんでした。
ちなみに初代HONDA-F1チームの監督となった中村良夫
氏も元中島飛行機の設計技術者でありました。その中村
氏がS600、800の開発設計に深く関わっていたことは、
あまり知られていないエピソードです。
ホンダRA271
HONDAが始めてF1に参戦した時のマシンRA271です。
当初ロータスにエンジンのみ供給する計画でしたがロー
タス側のドタキャンにより、急遽シャシーもすべてHONDA
製となりました。今改めて見ると相当時代の落差を感じ
るマシーンですが昭和39年当時は最先端でした。

しかし新参者の悲しさ、勝利とは縁のないほろ苦いデビ
ューでした。
エンジンは1.5L-V12気筒DOHCを横置きに搭載し、エンジ
ンの真ん中から駆動力をギヤボックスに導くという独創
的なもので、すべてはバイクのノウハウから応用した技
術でした。(バイクではすでに採用されていました)
ホンダRA272 F1メキシコGP
実戦によるフィードバックにより改良されたRA272です。
このマシンは参戦2年目の昭和40年1.5Lの排気量規定
最後の年、しかも最終戦のメキシコGPにおいてアメリカ
人ドライバー、リッチーギンサーにより劇的な初優勝を
遂げました。
中村監督とともにその喜びはひとしおであったことでしょ
う。傍らのレースクイーンのお衣装と髪型が当時の時代
を感じさせます。
HONDAF1RA273
翌年からは名手ジョン・サーティースと契約し、排気量規
定も3Lとなったため、マシンを新たに設計しRA273を投入
しました。エンジンは3L-V12気筒DOHC、燃料はインジェ
クションによる供給でレイアウトは常識的な縦置きとなり
ました。ボディはグッドデザインでしたが各部が凝った
メカのため何分重すぎてその実力を十分発揮出来ませ
んでした。
HONDARA300 F1イタリアGP
HONDA自製のシャシーでは勝てないと判断したサーティ
ースはHONDAにローラ社を紹介し、急遽軽量マシンを
製作、エンジンはそのままでシャシーをサーティースの
考えにそって軽量化、そのかいあってテストする時間も
ないままぶっつけ本番のデビュー戦イタリアGPにおいて
もはや伝説となった最終ラップまでもつれた末の劇的な
勝利を収めることになります。
左サーティースと右ジャックブラバムの激闘は、僅差で
サーティースの勝利となりました。彼の軽量化戦略が見
事実を結んだ瞬間です。
2輪では圧倒的なパワーを見せたHONDAといえどもF1で
の勝利はこの2回のみで、やがて排気ガス等の環境問題
が起こり、その方面に研究を集中するため5年間に及んだ
第一期のF1活動から撤退することになりました。

鈴鹿サーキットのことを書くつもりが、何やらHONDAの社
史のようになってしまいました。紙数が尽きてしまいました
のでこの続きはまた近いうちに・・・・。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
雑誌ノスタルジックヒーローより引用させて頂きました)


コメント

No title

ちわっす。
普通ではあまり知らない貴重な情報だらけですが、ポールフレールも小林彰太郎も知りませんでしたが、後の歴代社長経験者でも名前は聞いたことあるけど経歴は知りませんでした。 皆技術者でありながら会社が大きくなるにつれ技術の塊のような車や真のスポーツカーが無いのはサラリーマン社長だからではと想像します。
(余談ですが、私は、会社はある程度の大きさになればそれ以後は継続・維持していくのが消費者の選択の多様性・経済の安定性などの観点や雇用問題・国際間の経済問題などもうまく解決できるのではと思います。 際限の無い欲は 資本主義の限界・弊害になってくると思うのですが)


ところで、S8のエンジン見事にバランスが取れているように感じますというか、何か訴えているようにも感じます。 この時代のボンネットの下はスッキリしていて、見ても気持ちが良いし整備性も良かったものですが、現在の車のエンジンルームは手を入れる隙間もなし、色んなハーネスやホースでぐちゃぐちゃでプロの整備士でも触りたくないと思うような窮屈さ。 素人が下手に触るとコンピューターエラーでエンジンがかからなくなる(私も経験あり)くらいにドライバーがコンピューターに管理されているのではと思ってしまいます。
これだけのすばらしい技術や情熱があった会社なのに、最近の車作りに関してはワクワクするような情熱を感じません。 
飛行機は実用段階に入っているようですが、スポーツカーや情熱車だけを残して、飛行機メーカーとして世界をあっと言わせて欲しいもんです。

今回一番目にとまったのは、軽トラのT360です。 おぼろげながらとんでもないエンジンを積んだ軽トラだとは知っていましたが、CV4連キャブが付いていたとは。 私が中学生か高校生の頃に隣の家に来た嫁さんが嫁入り道具でこの色のこの軽トラを持ってきていました。 その人は運転が下手で、1速か2速全開でシフトアップを知らないのか?という運転でしたが、相当な高回転にもかかわらず限界を感じさせない回りっぷりでした。
DOHC・4連キャブと知るとそれもうなずけます。
今見てもデザインなかなか良いですねー。

Re: No title

熱と気合の入ったコメント有難うございます。
上山自動車少年ならたいがいのことはご存知だと思ったのですが、新たな発見をして頂いて嬉しいです。私も
HONDAのことを書きだすと止まらなくなってしまうので、なるべく避けて通るようにしてきましたが、
今回は鈴鹿もつれで突然たそがれ暴走してしまいどうもまだ数回は連載しないと止まりそうもありません。
上山氏の企業観、経営者観、とても共感します。「会社なんて小さくたっていい、自分の作る品、仕入れて売る
品にその店(会社)の主人の実印を押してお届けしようよ、客という名の友人に。儲けなんてその友人から頂いたご褒美なんだから」私もそうありたいと願う一人です。HONDAにもそうあってほしいのです。

やっぱり上山青年もそう感じましたか、私もHONDA某車のアンチロックブレーキシステムが故障し、修理
依頼したところ、システムごとアッセン交換と言われ、納得いかず、警告ランプ無視してずっと使用しました。
コンピューターシステムへのはかない抵抗でした。

今のHONDAは楽しくないのでプレミアムな車だけ残してあとはヒコーキ作ったらどうやねんというご意見
元CB乗りで元シビック特別仕様車のオーナーならではの辛らつなご意見として、とても説得力があります。

コメント拝見中に笑ってしまって恐縮でしたが、T360憶えておられたのですね。中島でもついこないだまで
農家のおいさんが半ば根性で買い換えずに乗っていました。音がやかましいのが欠点だったように思います。
嫁入り道具にT360を持参したとはすごい。瀬戸の花嫁はもっぱらスーパーカブが嫁入り道具の一つでした。
何も農作業にDOHCは必要ないと思うのですが、上山青年同様、私もこの愛嬌のあるデザインが好きでした。
赤いお嬢さんのレストアでタバコ屋はかなりお疲れ状態ですが、落ち着いたら元気なうちにT360かまたは
ステップバンあたりを復刻してみたいと思います。(たそがれおやじのはかない夢です)

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まとめ【鈴鹿サーキットのこと】

平成24年11月23日【HONDAの飛躍】「せまり来る総ての可能性を予知して自己のテクニックの限界を作る
★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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