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鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期

平成24年12月10日
【HONDA美酒に酔う】 【加筆版】
今はもう遠い過去のように思われるバブル景気の時代、
懐かしいコトバになりつつありますが、昭和61年(1985年)
頃から平成4年(1992年)頃にかけて、土地の投機に伴う
架空の資産上昇により発生した8年余りの異常な好景気
の時期を指します。
停滞していた日本の景気はこのバブルにより一気に活
況を呈しました。ほとんどすべての産業分野で前向きの
明るい話題が聞かれるようになり、ジャパンアズ・ナンバ
ーワンなどともてはやされ、その象徴的な出来事として、
三菱地所によるニューヨークのロックフェラーセンター
買収劇などがありました。日本中が戦後の高度成長期の
再来として、再び熱にうなされたように突き進みました。
fukatu-juliana1[1]
バブル末期にはディスコクラブ、ジュリアナ東京が出現し、
妙齢のお嬢さん方がお立ち台なるものに駆け上がり、
あられもない姿で集団乱舞するといった世紀末的ハシャギ
現象も起きたりしました。
fukatu-juliana2[1]
ボディコン、パラパラ、ジュリ扇などというキーワードが
もてはやされ言ってみれば、盆踊り現代版の年中興行
みたいなものでした。

当然オクルマ業界にもその流れは色濃く反映され、大排
気量車やスペシャリティーカーを競って発売するようにな
りました。
ニッサンシーマ
写真は初代ニッサンシーマで、成金主義的なものがもて
はやされる風潮からシーマ現象というコトバが生まれま
した。
ホンダプレリュード3
三代目プレリュードです。当時のホンダのドル箱車種とし
て、機能や性能よりもムードを重視したスペシャリティー
カーですが、別名デートカーとも言われ、当時の若者に
支持されました。
フェラーリテスタロッサ カウンタック
また我々一般庶民とは縁のないものであった、スーパー
カーがもてはやされ、各種のイベントの目玉になったり、
マンガなどにも連載されスーパーカーブームというのが
起きました。
写真はフェラーリ・テスタロッサとランボルギーニ・カウン
タックです。浮世離れしたしろものですが、当時は何故か
大人気でした。
今回はそのことがテーマではないのですが、時代背景
として、山本リンダさんの歌の如く、もうどうにも止まらな
という一つの大きなうねりのようなものがありました。
山本リンダ
山本リンダさんです。比較的優しいお顔のものを掲載し
ました。タバコ屋の同級生でもあり、けばいメイクのもの
は載せたくなかったのです。同級生といってもクラスメイト
でもないのに何故か親しみがあって、夏目雅子ちゃんに
見つめられた程はクラッと来ませんが、なるべく自然に
近いものを選びました。

それはさておき、HONDA-F1のお話です。
バブル時代より少し前の昭和57年(1982年)頃HONDA
は密かにF1復帰を目論みつつありました。F1エンジン
の規格が1.5Lターボとなったため、その頃ターボの研究
を進めていたHONDAは今が復帰のチャンスと判断しま
した。
昭和58年になり、まずスピリットチームにエンジンを提供
しF1復帰、様子を見た後、まもなくウイリアムズチームに
本格供給を開始し、翌59年にはアメリカGPで復帰後初の
優勝を飾りました。快進撃が始まったのは翌昭和60年
(1985年)からで、F1のプロ、ウイリアムズチームと本格
的に組むことでHONDAエンジンはその実力を発揮出来
るようになりました。
F1ウイリアムズホンダFW11-2
いきなりの写真ですが、HONDA快進撃の元になったF1
マシン、ウイリアムズFW11です。プロが作ったマシンだ
けあって、非常に軽量で、当時研究が進みつつあった
高速走行中の空気抵抗を利用してボディを地面に押し
付け(ダウンフォース)安定を良くするデザインがされて
おり、外観はずんぐりしていますが速さはトップクラスの
実力を持っていました。
事実このマシンによりHONDAがF1に復帰して4年目の
昭和61年、待望のコンストラクターズ(車体メーカー)
チャンピオンを獲得することが出来ました。
結局ウイリアムズFW11は、翌年の昭和62年(1987年)
鈴鹿F1-GPが開催された年にも鈴鹿ではフェラーリに
優勝をさらわれたものの、年間チャンピオンとなり、
HONDAにとっても鈴鹿への誇らしい凱旋となりました。

余談ながら、タバコ屋はこのややイルカにも似た丸っこい
デザインが歴代のHONDA-F1マシンの中で一番好きでし
た。冷徹なF1の世界にあって、何か愛嬌があるというか
ぬくもりを感じませんか。
HONDARA166(V6)-1.jpg
それに搭載されたエンジンはHONDA-RA166で、仕様は
1.5L-V6DOHCターボチャージャー付きでした。ターボチャ
ージャーとはわかりやすく言えば、排気ガスの圧力を利用
して強制的に燃料を送り込み、性能を向上させる装置で、
写真右下のカタツムリのような格好をしたものです。
それに対し、スーパーチャージャーという装置もありこれ
は排気ガスでなくクランクシャフトの動力を利用してター
ボチャージャーと同様の効果を狙うものです。いずれも
元を正せば航空機のエンジン技術から来ています。
尚、写真右方向が車体前方になります。

ターボチャージャーがどのくらいの効果があるかというと
通常1.5L-V6エンジンですと、良くて150馬力程度なので
すが、それが800馬力くらいまでアップするのです。
最終的には1,000馬力前後まで改良されたという話です。
馬1,000頭分とは恐ろしいほどのパワーですよね。
F1Dナイジェルマンセル F1Dネルソンピケ
その暴れ馬を乗りこなしたのはナイジェル・マンセルと
ネルソン・ピケでした。彼らは期待に応え、車体メーカー
(コンストラクターズ)チャンピオンとドライバーズチャンピ
オンの両方を獲得しました。
速いのはマンセルでしたが、彼は瞬間湯沸し器のあだ名
があり、ムラがあるので、冷静なピケの方がチャンピオン
となりました。

昭和62年(1987年)になると、日本のフジテレビがレース
の中継放送を開始、そしていよいよ鈴鹿サーキットに於
いて初めてのF1レースが開催されることとなったのです。
鈴鹿サーキット全体図
広大な鈴鹿サーキットの全体写真です。中央横方向が
メインストレートで、メインスタンド前を左へスタートし、
第一コーナー、S字、デグナー、ヘアピン、スプーン、
西ストレート、130R、シケインと続きメインストレートに
戻ってきます。コース全長5km余りで、世界のサーキッ
トの中でも有数のハイスピード・テクニカルコースとして
F1ドライバーからも高い評価を得ています。
ついでながら、HONDA鈴鹿製作所は写真左手山側を
もう少し行ったところにあります。
アコード・レジェンド
突然の写真で恐縮すがこれはタバコ屋のかつての愛車
アコード・ハッチバックと初代レジェンドが仲良く写ってい
るところです。納車時に写したものと思われます。
その当時、HONDAにはよく出入りしていました。ある日の
ことです。HONDAディーラーの店長殿が、一枚のチケット
を見せて、今度、鈴鹿で始めてF1レースがあるのでご招
待致しますが、お時間あれば行ってみませんか・・・・。
元同志社大学自動車部としては、据え膳食わぬは・・・で
断る手はありません。さっそく承諾し、思わぬ形での鈴鹿
詣でとなりました。
S63第2回F1日本GP3 S63第2回F1日本GP4
久しぶりの鈴鹿は懐かしいやら、人が多いやら、やかま
しいやら(その爆音はサーキットの数キロ先からもろに
響き、現地では耳をつんざくようなサウンドでその迫力
に正直ビビリました)
タバコ屋が学生時代の頃から比べると大分整備されて
きていましたが、まだ当時は急ごしらえの感じで、トイレ
というトイレはある種の黄色い物体がてんこ盛りといった
加減で、大混乱でした。
1日に10万人も押し寄せたらそりゃ~仕方のないことか
も知れません。仕事の出張の帰りに立ち寄ったので、
勝手がわからずうろうろしているうちにあっというまに終
わってしまった印象があります。何しろ見る場所を変えよ
うと移動するだけでも数十分はかかってしまうのです。
来年からは泊りがけで2日は滞在しないとろくに観戦出
来ないことがわかりました。
尚、瞬間湯沸し器のあだ名を持つマンセルは、予想通り
というかオーバースピードでスプーンカーブに突っ込み
コースアウトしてタイヤバリアーへクラッシュ、その後
ヘリで病院に緊急搬送されるという一幕もありました。
凱旋レースのはずだったHONDAにしては残念ながら、
優勝はフェラーリのベルガーだったと記憶しています。
S63第2回F1日本GP1
翌年の鈴鹿スプーンカーブ付近です。実はこの年から
ガラリと体制が変わり、ウイリアムズとの契約を解消し、
新たにマクラーレンと契約、また前年からロータスとも
契約していたので、HONDAは新たにマクラーレンとロー
タスの2チームにエンジン供給をすることになりました。
F1マクラーレンホンダMP4・4-1
マクラーレンMP4/4です。エンジンはウイリアムズ時代
と同じHONDA-RA166(1.5L-DOHC・V6ターボ)でしたが、
シャシー性能及びバランスがウイリアムズに比べて一段
と優れ、何と全16戦中15戦優勝という驚異的なパワーを
見せつけ、この頃からHONDA以外のエンジンではF1で
勝てないと言われるまでになりました。
空前絶後、HONDA-F1が絶頂期を極めたマシンです。
F1マクラーレンホンダMP4・4-3
このマクラーレンMP4/4は、HONDAのF1参戦史上最も
勝利に貢献したマシンとして長く歴史に名を留めることと
なりましたが、ドライバーはロータスから移籍した若き
ブラジルのエース、アイルトン・セナと世界チャンピオン
のアラン・プロストで2人の天才ドライバーは天才なるが
ゆえにその後レースごとに激しい確執を起こすことにな
ります。
F1ロータスホンダ99T-4
ロータス99Tです。エンジンはマクラーレンと同じHONDA
-1.5LV6ターボで、ウイリアムズに次ぐ速さを見せ、2回
の優勝と多くの入賞を果たしました。左右ラジエターの
上にある突起がターボエンジンンの空気取入れ口です。
F1D中島悟1 F1D中島悟2
話題は何と言っても日本人初のF1ドライバー中嶋悟を
起用したことで、もう一人は当初アイルトン・セナでした
が、ロータス2回の優勝はセナによってもたらされたもの
でした。しかしセナがマクラーレンへ移籍したため
ネルソン・ピケが中嶋のパートナーとなりました。
当時雨の中嶋と言われて雨天のレースでは抜群の速さ
だったのを憶えています。
F1マクラーレンホンダMP4・5B-2
F1の主催者側としてはマクラーレン・ホンダの一人勝ち
を阻止するためエンジン規定を変更、ターボを禁止し
自然吸気3.5Lエンジンとしました。それに合わせて開発
されたのがマクラーレンMP4/5で、依然としてトップの
競争力を持っていました。マクラーレンというF1のプロは
手堅いメーカーで、いきなりメカをがらりと変えたりせず、
良いところは残し、最低限の変更に留めました。
その結果、実戦向きの競争力あるマシンとなるのですが、
かつてHONDAが空冷のRA302を開発した時とは正反対
の手堅い手法でした。
(関連記事:鈴鹿サーキットのこと VOL.3:混迷期参照
願います)

セナ、プロストという天才ドライバーに恵まれたせいもあ
るでしょうが、主催者の意図に反して前年ほどではない
にしろ、またしても勝ち続けるという結果になりました。

後日談ですが、HONDAは結局その後ずっとマクラーレン
と組み通算69勝というF1史上空前の成績を残すことに
なります。
またHONDAはウイリアムズ及びマクラーレンとペアを組
んで以来、6年間ものあいだ、(ウイリアムズで2年、マク
ラーレンで4年)F1チャンピオンとして君臨しました。
F1のエンジン規定でターボが禁止となり自然吸気の3.5L
になった主な原因はHONDAが勝ちすぎたせいでしたが、
規定を変えてもHONDAの快進撃は留まる所を知らない
かのようでした。
HONDARA109(V10)-2.jpg
マクラーレンMP4/5に搭載されたHONDA-RA109エンジン
です。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V10でターボよりも
馬力は劣るものの使いやすい実戦向きエンジンでした。
HONDAの特徴は他のメーカーに先駆けて燃焼をコンピュ
ータ制御する技術が優れていたことで、プログラム数値を
変えるだけですぐに仕様変更が出来、このことが常勝の
一因であったと言われています。つまり現場のメカニック
はキカイ屋さんでなくコンピュータ屋さんが巾をきかせて
いたという訳です。

余談ですが、奇遇ながらタバコ屋の親戚の子がHONDA
-F1チームに入っていて、そのコンピュータ制御をやって
いました。今から思えばセナのサインでも貰っておけば
良かったと後悔しきりです。
F1マクラーレンホンダMP4・5-1
マクラーレンMP4/5で力走中のアイルトン・セナです。
やがてセナとプロストの確執は決定的となり、プロスト
はフェラーリに移籍、新たにセナとベルガーのコンビで
戦うことになりました。
F1Dアイルトンセナ-1 F1Dゲルハルトベルガー-1
言わずと知れたセナとベルガーです。その後このコンビ
はHONDAが撤退するまで仲良く続くことになります。
ちなみに2人の胸のワッペンはスポンサーロゴでマルボ
ロはタバコ、シェルは石油でおわかりかと思いますが、
BOSSというのはドイツのメンズファッションメーカーの
ロゴでこの頃から日本でもレイトンハウスとか、バブル
時代に流行ったアパレルメーカーがスポンサーになり
つつありました。
HONDAF1チームロゴ
ちなみに当時のHONDA-F1チームのロゴマークですが
時代を感じさせます。
F1マクラーレンホンダMP4・6-1
そのうち他のチームもHONDAのコンピュータシステムを
真似る等必死の努力で力を付けつつあり、以前のように
圧倒的なパワーの差がなくなり、簡単には勝てなくなって
きていました。
そこで新たに投入されたのがマクラーレンMP4/6で、ボデ
ィはともかくエンジンの主な改良点はそれまでのV10から
V12へと変更され、パワーアップを狙ったものでした。
HONDARA121(V12)-1.jpg
更なるパワーアップのため開発されたHONDA-RA121
エンジンです。スペックは3.5L-DOHC自然吸気V12で
ぜい肉を落とし性能のみを追及したそのエンジンは本
物の持つ機能美を感じますが、事実過去のHONDA-F1
自然吸気エンジンの中で最も美しくパワフルなもので、
世界一の実力を如何なく発揮しました。
F1マクラーレンホンダMP4・7-1
その後、おもにボディーの空力面に改良が重ねられ
マクラーレンMP4/7となります。ノーズの形状がやや盛
り上がったようになっているのがおわかりでしょうか。
しかし他チームの力が接近してきたこともあってアイル
トン・セナの卓越したドライビングをもってしても期待した
ほどの成績を挙げることが出来なくなってきました。
HONDARA121(V12)-2.jpg
もちろん原因は他にもいろいろあったでしょうが、美しい
ながらも見るからに重くなったエンジンの重量増が負担
になったことは想像され、以前も重量というトラウマで
苦労したHONDAでしたが、またもや同様の苦しみを味
わうこととなりました。
(後日調べ:V10よりV12のほうが重くなったというのは
タバコ屋の勘違いで実際は5kgも軽量化し馬力は数十
馬力アップさせていました。常勝が難しくなったのは他
のチームがエンジンでは勝てないのでボディの空力等
を改善し速くなり、片やマクラーレンはHONDAの強力な
エンジンに頼ってボディの改善があまり出来てなかった
と言うのが真相のようです。)

結局HONDAはそれ以降勝つことが難しくなり、当初の
参戦目的は達したことと、またバブルの崩壊に伴う本体
の業績悪化等もあって、その年、平成4年(1992年)を
もってF1から撤退することになりました。
ちなみに最終年度は旧知のウイリアムズ・ルノーが
チャンピオンとなりマクラーレンHONDAは2位に終わり
ました。
HONDAマクラーレンスタッフ写真
HONDAとマクラーレンのチームスタッフです。ラリーも
そうですが、F1も動くシカケ付き総合格闘技みたいなも
ので、その陰では大変な人数の人達が影で支えている
のです。
前に座っているのは左から、アイルトン・セナ、マクラー
レン総帥ロン・デニス、ゲルハルト・ベルガーです。

余談ですが、当時セナ個人のスポンサーにはブラジル
の国営銀行がついていました。日本銀行がスポンサー
になるようなもので、すごいと思いませんか。タバコ屋
なんか銀行からスポンサー料貰うどころか、返すべき
お金が沢山あるのですからえらい違いです。
ついでながら中嶋悟はHONDAがメインスポンサーでした。
これもすごいことです。同じナカジマでも中島のタバコ屋
なんかHONDAから鈴鹿F1-GPの招待チケット1回もらっ
たきりですから。
鈴鹿F1GP
鈴鹿サーキットに話を戻します。
多分平成3年の鈴鹿F1-GPスタートシーンです。先頭
2台がマクラーレンHONDA、右後ろ2台がウイリアムズ
・ルノー、左後ろ2台がフェラーリで、当時の力関係を
端的に表しています。
鈴鹿はスタートから第一コーナーまでやや下り坂になっ
ていて各車フル加速で雪崩れ込むのですが、たいてい
は行き場を失う車が出てきて第一コーナーでクラッシュ、
リタイアするケースが毎回ありました。
そんなに焦らなくてもと思いますが、彼らも10万人以上
が見ている中ですので、目一杯やるのでしょう。
ベンハー1
いきなりの写真で恐縮です。これはタバコ屋がまだ小学
生の頃、昭和34年封切り映画「ベンハー」のスチール写
真です。
6年半の製作期間と54億円の巨費を投じて描いた一大
スペクタクル映画で、世界的大ヒットとなった作品です。
アカデミー賞史上最多の11部門受賞し主演のチャール
トン・ヘストンは一躍トップスターとなりました。

あら筋をかいつまんで言いますと、時はローマ時代、
キリストが誕生した頃のエルサレムを舞台に迫害され
つつあったユダヤの豪族の息子ベン・ハーの数奇な運
命を通してローマの圧政とキリストの最期を描いた長
編ですが、鈴鹿F1-GPのスタートシーンを見るにつけ、
映画の中で出てくるあまりにも有名な戦車競技のシーン
が何故か思い出されます。
ベンハー2
ベンハーと旧友で宿敵のメッサラの一騎打ちのシーン
です。メッサラは車輪にのこぎり付けたりして悪どいやり
方で勝とうとするのですが、最後は競り負け自滅して
クラッシュという結果だったように憶えています。
当時はロールバーもエアバッグもありませんからメッサラ
はそれで命を落とすことになるのですが・・・。

はるかローマ時代から人間は競争しなければ気が済ま
ない生き物だったのでしょう。またスチール写真にもあり
ますが、それを熱狂したローマ市民達が鈴なりで観戦す
るという図式も何やら鈴鹿F1-GPと重なるものがあるよう
に思います。
H1第3回F1日本GP2
その第一コーナーです。先頭を行くマクラーレンHONDA
の2台に続き後続の各車が殺到しています。もつれあっ
てマシンを破損するか、右手のエスケープゾーンにはじ
き出されてリタイアする等、スタート早々、このコーナー
が修羅場に成り果てるという場面です。

多分ここでは目一杯ブレーキングするのでカーボン製の
ディスクブレーキが焼けた匂いだと思うのですが強烈な
カーバイドのような匂いがあたりに充満していたのを覚え
ています。これがF1の匂いだと思いました。
H2第4回F1日本GP2
只今、アイルトンセナがHONDAと日本の期待を一身に
背負ってトップを力走中ですが、注目頂きたいのは観客
席の人の多さです。10万人を超える観客が一ヶ所に集ま
って暴動が起きないのは日本だけだそうで、世界一マナ
ーの良い国でもあります。
場内のスピーカーからは、今ではTV報道ステーションの
キャスターとなった古館伊知郎さんが独特のプロレス実
況風のしゃべり方で興奮を煽っていたのが懐かしいです。
鈴鹿サーキットTV
一般の観客席でレースが見えずらい場所には数ヶ所、
巨大なTVスクリーンが設置されていました。見えにくいと
思いますがセナが鈴鹿で初めて優勝しトロフィーを掲げ
ているシーンです。
H4第6回F1日本GP3
平成4年HONDAがV12エンジンで挑んだ最後の年の写
真です。旗には「吼えろホンダV12、必ず帰ってこい」と
書かれていますが、それにはまた10年近く待たねばなり
ませんでした。
本田宗一郎とセナ
多分セナを招いての歓迎パーティか何かの席だと思うの
ですが、F1で絶頂を極めることは、宗一郎氏にとっても
セナにとっても夢だったと思うのです。至福の時を迎えた
2人のツーショットです。この日のシャンパンの味は格別
だったに違いありません。

話はうんと飛びます。
当時タバコ屋は島の特産品であるみかんを販売する事業
を始めていました。元がショウバイ人なので、F1を見に行く
だけでは面白くない、3日間にわたり1日10万以上の人が
押し寄せる場所で、みかんを売ることが出来ないものかと
考えていました。F1観戦に懲りもせず7年程通った後の
ある日のこと、行きつけのHONDAディーラー店長殿に
そのことを相談すると、それは島のためにも絶好の宣伝
機会だから応援したいと言うことで、さっそく鈴鹿サーキッ
トの施設購買課に掛け合ってくれました。
結果は面談したいのでサーキットまでお越し下さいという
ことでした。
H6鈴鹿サーキットホテル
喜び勇んだタバコ屋が愛車2代目レジェンドで鈴鹿サー
キットホテルに出向いた時の写真です。ここは現地を
知る意味でも一泊してから面談に臨むためでした。
生まれて初めてプレゼンなるものをやった訳ですが、
結果は大成功、GPの3日間、サーキット内の特設テント
でみかんの販売をさせてもらうことになりました。

どうでもよいことですが、敏感な読者は私の愛車レジェ
ンドの色が、他の記事でご紹介したものと違っているの
に気付かれたと思います。当初はガンメタとシルバー
グレイのツートンカラーでした。後年その上部のみを
シルバーに塗り替えたのです。尚、ホイールは店長殿
のご好意で特別にクーペ用を装着しています。
H7第9回F1日本GP3
念願かなった鈴鹿サーキットでのショウバイ、その場内
の賑わいです。
この頃になるとトイレも整備され、異様な物体のてんこ
盛りもかなり解消されてきていました。
ちなみに3日間で全国から延べ40万人近くの若者が(一
部高齢者も)この人里離れた鈴鹿に集まるという異常な
現象は当時の社会評論家も首をかしげる程で、一種の
現代版お伊勢参りとも言えるものでした。また見方を変
えると行政や公共輸送機関、地域の各種サービス業も
巻き込んだ巨大な村おこしでもありました。
H7第9回F1日本GP7
右手正面ゲートからサーキットに至る通路です。左側の
ストライプ柄テントがタバコ屋の陣取った特設売り場です。
サーキット側も遠方から売りに来たということで気を使い、
人通りの最も多い場所に設置してくれました。
今でも思い出すと有難いです。
H6第8回F1日本GP4
丁度11月の初めだったので早生みかんを販売しました。
業者さんも、ものすごい数で負けないように声を涸らして
の販売です。
H6第8回F1日本GP3
サーキット側が地元女子学生のアルバイトさんを用意
してくれて試食販売と相成りました。皆さん一般席の席
取りに必死で、みかんどころではないといった表情です。
自分も経験しているのでそのことはよくわかりました。
あの時のバイトのお嬢さんたち、今はもういい年のはず
ですがどうしているんだろう。
H7第9回F1日本GP1
翌年も販売を許可して頂き同じ場所に出店しました。
お買い上げ第一号となった、京都から来られた仲良しお
嬢さんです。エ~鈴鹿の社員さんか思ったけど愛媛から
来はったん、おいしそうやから一袋買わしてもらいますわ、
ということで記念すべき2ショットとなりました。
H7第9回F1日本GP6
この年はサーキットの売店前にも置かせて頂き、販売増
加を図りました。左手の飛ぶように売れているお弁当の
横に置いて、関連販売を図ろうというものです。スーパー
ではよくやる手法です。一緒に観戦に行った、タバコ屋の
友人で、松山の某会計事務所にお勤めのU氏がボランテ
ィアでお手伝い頂きました。
彼は到着した時から3日間、宿泊は業者さん用の無料簡
易宿泊所に同宿し3度の食事も一緒で、まるで大学時代
の合宿を再現したようなものでした。
ちなみにU氏はザウバーメルセデスチームの帽子がほし
くて、サーキット内あちこちのF1ショップを探しまくりやっと
見つけて購入、得意げに被っている一コマです。
蛇足ながらこの年はHONDAがすでに撤退しており宗一郎
氏の息子さんである博俊さん率いる無限が後を引き受け
引き続き参戦し、優秀な成績を挙げつつありました。
H7第9回F1日本GP4
忙中閑ありの1シーンです。タバコ屋もフードキャップ着用
にて戦闘態勢です。後ろ正面は上の写真のU氏、右は同
じく友人で取引先のA氏です。2人ともボランティアでよく
お手伝い頂きました。今でも感謝で一杯です。

総括と言いますか、この大遠征は、鈴鹿サーキットのご
好意で一定の成果を収めたのでしたが、ショックだったの
は隣に出店していたグレープフルーツの手絞りジュース
をカップで販売していた店でした。当方は声を涸らして
販売を試みたのに対し、そのジュース屋さんは長い行列
が出来ていたのです。お客さんに聞きました。そしたら
みかんは皮を剥かんならんし邪魔くさいけどジュースや
ったら簡単に飲めますやんか~。
カルチャーショックでした。そうかそれで長い行列が・・・。

タバコ屋が自前のジュース工場を作ろうと思ったのはこの
時かも知れません。事業の動機って案外そんなものじゃ
ないでしょうか。

ちなみに鈴鹿サーキットでお祭り期間中に何が売れたか
というと、タバコ屋の勝手な推測によれば以下のような
ものです。
1.F1グッズ・・・HONDAを中心にF1チームのキャップ、
キーホルダー、ワッペン、ブルゾン、その他諸々
2.F1公式プログラムブック・・・F1各チームの紹介や
鈴鹿サーキットの案内、各種読み物満載のガイドブック。
(有料で、確か2,000円でした。メチャ高か~)
3.お弁当、お菓子、飲み物類
(希望の島みかんも若干の売り上げには貢献しました)
4.レストラン、ファーストフード(洋風屋台)関係
5.おみやげ類(売れ筋ランキング)
 1.鈴鹿サーキットサブレ・・何の変哲もないしろもの
   でしたが、名前入りだったのでそれこそ飛ぶように
   売れていました。まあ羽田空港の東京バナナ程で
   はないでしょうが面白いほど売れるというのはあの
   ことでしょう。
  2.赤福餅・・伊勢市の老舗赤福が作っているお餅を
   あんこでくるんだもので本来はお伊勢参りのお土
   産なのでしょうが現代版お伊勢神社でも大人気で
   した。もっともずっと後になって消費期限の不正表
   示等で大問題を起こしてしまった会社ですが、何で
   も売れないのも困りますが、売れすぎるのもよくな
   いのです。

島のタバコ屋はこういう時に何が売れて皆がどのような
買い方をするのかについて、またどういうサービス体制
をとるべきか等々、大学の眠い講義でなく、緊張した実
戦の中で多くのものを学ばせて頂きました。
鈴鹿サーキットの施設購買課さんには感謝あるのみです。
それとHONDAディーラーの店長殿にも。
H7第9回F1日本GP8
突然ですがF1マシンを展示した1枚の写真です。マシン
は第一回目の鈴鹿F1-GPにおいてゲルハルト・ベルガー
のドライブにより優勝したフェラーリF187です。

注目して頂きたいのは左正面に写っている白い箱です。
見にくいですが、箱には希望の島と書かれています。
そうなんです、当時タバコ屋が特産みかんの販売を始め
るにあたってネーミングしたブランド名なのです。何故ここ
にあるのでしょうか。種明かしは実のところキャンペーン
ガールさんに持ってもらって撮影しようとセコい考えで行っ
たところすごい人だかりで断念し、売り場に帰ろうとしたと
ころ、このブースが目に留まりガードマンさんがよそ見を
している数秒間に貴重な秘密撮影をしたと言う訳です。

この写真はタバコ屋の宣伝に使った訳でもなく、単なる
思い出として撮ったものなので、時効でもありフェラーリ
さんも許してくれると思ったので掲載致しました。ガード
マンさんすみません。しかしよくそんな悪さをするヒマが
あったものです。
鈴鹿キャンペーンガール
タバコ屋の目的を達せなかったそのキャンペーンガール
嬢です。同行した友人のAさんは人だかりを巧みに切り抜
けうまいこと撮影に成功しました。それにしてもお嬢さん
のお衣装の切込みが半端でないのは時代のせいだった
のでしょうか。
老婆心ながらかなり寒い時期だったので仕事とはいえ
忍耐が必要だったと思います。

こうして苦しくも楽しい2年間の鈴鹿サーキットみかん販
売は無事終了しました。3年目はどうだったのか・・・。
同じことはなかなか続かないものです。その頃HONDAは
栃木県に新しいツインリンクもてぎを建設していました。
これはF1とは異なるアメリカのインディカーシリーズに対
応出来るサーキットでした。またそこに鈴鹿コレクション
ホールと施設購買課が移転集約されることになったの
です。従って商談は栃木県まで行かねばならずタバコ屋
もこれには尻込みしてしまい、それ頃となりました。
継続出来ていれば、品揃えの改善や自家製のジュース
等も持ち込めたのにと思い、残念でしたが程なくバブルも
終焉しF1もそれにつれて一時のような勢いは失われてい
きました。一つの時代が終わったと言うことでした。

このF1ブームとも言える過去の出来事は、HONDAがわざ
とやったことではなく、夢中でF1に挑戦し、鈴鹿サーキット
という巨大な舞台装置を準備したことで、時代の風潮が
それに乗っかった訳で、現代版お伊勢参り、ひいては
日本一の村おこしが実現したということでしょう。

まったくの余談ですが、その頃流通業界では総合スーパ
ーが全国へ出店競争を繰り広げ、ダイエー、ヨーカドー、
ジャスコ、ユニー、ニチイ(マイカル)、セイユー等が主に
新しい業態開発をすることで優位に立とうとしていました。

当時タバコ屋はニチイの主導するボランタリーチェーンに
加盟していたのですが、ニチイはマイカルと社名を変え、
サティ、ビブレ等の業態開発を進め、横浜本牧で巨大複
合タウン開発を行う等その投資は当時の日産自動車に
匹敵する規模で、タバコ屋レベルで見ると恐ろしいような
やり方でした。しかしそれはやはりバブルだったのです。
やがてマイカルは破綻し、イオンに吸収され、タバコ屋は
新しい道を模索することとなりました。

当時話題になりつつあったのがホームセンターで全国は
もとより愛媛県でもダイキさんがディックという店名で展
開を始めつつありました。そこでタバコ屋は紆余曲折の
末、島で初めてのホームセンターを開設したのですが、
奇しくもそれはバブル経済が破綻しHONDAがF1を撤退
した翌年の平成5年(1993年)の出来事でした。
(関連記事:人生いろどり参照願います)

今回は鈴鹿サーキットにまつわるさまざまな思い出を書
き綴るうちに相当長いものになってしまいました。
最後までお読み頂き感謝致します。まだ書き足したいこ
ともありますがまたいつかの機会とし、鈴鹿サーキット
シリーズ4部作はとりあえず完結とさせて頂きます。

(尚、特殊な記述や写真の一部はHONDA技研HP及び
鈴鹿サーキット発行の各年度F1-GP公式プログラムブッ
クより引用 させて頂きました)


コメント

No title

タバコ屋さんこんにちは。
昨日から読ませてもらってます。
鈴鹿サーキットでミカンを販売したのがもう17年も前になるのですね。写真を見るとやっぱりですが、お互い若い!!ですね。(笑)
まさに部活の合宿の乗りで、ずっと友人でいられるのもこの時があったからかもしれません。
タバコ屋さんのセールストークの巧みさ、物を売る事の大変さを販売員になって体験させてもらえた事、本当にいい経験をさせてもらえました。
それよりもなにも、鈴鹿の夜の寒さにはびっくりしました。
おかげで熱燗(タバコ屋さんは米のとぎ汁と言います。)が好きになったのもこの頃からです。(#^.^#)
タバコ屋さん、これからも楽しい読み物期待してます。
では。(^。^)y-.。o○

No title

ちわっす!
HONDA偏完結。これだけ書くのは大変だったでしょう。頭が下がります。
今回一番目に付いたのはやはりキャンペーンガールの写真でしたね。(煩悩満杯です)

ところで、技術というのは進歩が義務付けられているかのようですが、速さを競うだけならお金があるところだけが勝てることになってしまい、見るほうとしては面白く無い面があると思います。
もっとドライビングテクニックで競い合うレースの方が面白いのではとないでしょうか。  いくら早く走っても限界はあるし、速くなればなるほど危険度も上がるしということで、マシンの性能競争は程々にしてスピードを落としコース幅を広げてテクニックがあればコースのどこでもオーバーテイクできるようなサーキットにすれば面白くなりそうに思うのですがねえ。
HONDAがF1で一時代を築いたのは間違いないところですが、本業ではF1ほどには販売する車両は一時代を築くまでには至ってないのはちょっと寂しい感じではあります。
レジェンドに至ってはセルシオに負けないレベル(それ以上かも)の高級車でありながら、日本では売れなかったのはなぜなのか疑問ですが、私は日本人が物を評価する自分の基準が無い人が多い(自分の意見ではなく、他人の意見に左右されてしまう)ことが原因のようにも感じています。
ブランドだけで選ぶ、他人の評価が良いとそれが良いと思ってしまうなどに現れているのではないでしょうか。
車のデザインについても同じようにいえるのかも知れません。 デザイナーがかっこ良いデザインを作っても、最終決定する役員が無難?なところに変えていってしまうというような記事を読んだことがあります。
また、自動車会社の社員といえど車が好きで自分の考えを持って仕事についている社員もどれほど居るのかも疑問なところです。

鈴鹿サーキットでみかんを売っておられたとはすごいことだと思いますし、みかんジュースの思いつきなど商売とはこんなところからというのは同感しました。
成功した人も100%理論的に組み立てていって成功したのではなく、たまたま何かの縁でこれはいけるという風に感じて始めたり、人に進められてやってみたらうまく行ったとかの偶然や運みたいなものに引き付けられて成功した感じの人が多いのではないでしょうか。

人は100人いれば100人皆性格が違うので成功した人を真似ても成功するわけでもなく、結局のところ自分の運と縁と環境や性格にに左右されながら自分で納得した道を選ぶのが人生なのかなあと思ったりもします。

Re: No title

さっそくのコメント有難うございます。17年も前だったんですね。昨日のことのように思われます。
みかんの販売で行った時はサーキットさんの配慮で屋根付きの寝ぐらにタタで泊めてもらえましたがそれまでは野宿でしたよね。ブルーシートと寝袋で・・・。懐かしい思い出です。おかげで私もあの時以来、米のとぎ汁を熱燗で飲むクセがつきました。何も熱燗はTV相棒が専売特許ではないのですが、ホント寒かったですね。
またマクラーレンHONDAのピット、この世のものとは思えないほどピカピカの清潔でしたよね。病院の手術室並みでした。徹夜で調整作業をしていたのを覚えています。それを凝りもせず見物していた我々も、もの好きというか若気の至りというか・・・。
せっかく一度お読み頂いたのですが、本日ブログでは禁じ手の追加書き込みをしてしまいました。もしよろしければ再度お読み頂ければ有難いです。これを機にご遠慮なくコメントご投稿願います。

Re: No title

今回も気合の入った濃厚コメント有難うございます。
いつもながら一番痛いところを指摘されるのでドキッとしたり感動したりです。今回はキャンペーンガール嬢、掲載するかどうか最後まで迷いました。読者から不謹慎のお叱りが来るのではなかろうかと・・・。おそるおそるでしたが、逆に気に入って頂けたようで嬉しいです。もっともおいしい思いをしたのは同行のA氏でしたが。
それにしてもあの切り込みだと大切な場所がモロのはずなんですが、多分フィギュアスケート嬢のように同色の
タイツを履いていたんでしょうね。
レースのやり方についてのご指摘、もっともだと思います。ジムクラークやサーティースが活躍していた頃はその理想の形に近かったと思うのですが、近年は興行化してきて上山君が指摘される拝金主義的な内容になりつつあります。HONDAも第三期(直近)の参戦においては年間500億円に近いお金を投入しており、それでも勝てないので再々度撤退したと言う訳です。トヨタも同様の投入金額で、F1チームの中ではトップの支出額でした。うがった見方をすれば、直近のホンダ、トヨタは胴元からすれば上得意さんだったと言う事です。そのようなことでタバコ屋も第三期の活動については触れたくありません。
HONDAの上級車についてのご指摘、鋭いこと仰いますね。そのとおりです。HONDAとしてはレジェンドは相当気負って開発した車でしたが、何分売り先はアメリカで主なターゲットは若手の弁護士、医者、会計士、実業家といった、ヤングマインド&高額所得者でした。仮想敵はもちろんBMW5シリーズです。日本での発売はおまけくらいなもので、事実月販数百台レベルでした。ショウバイにはなりません。またアメリカでのアキュラブランド展開にはどうしても旗艦が必要だったのです。別の意味でのNSXとともに。
タバコ屋も当時、人様並にバブリーな気分になったことがありBMW5の購入真剣に考えましたが、そこは判官びいきのマスラオです、ドイツ野郎の車なんか乗るもんかと突っ張った気持ちでレジェンドにした経緯があります。
鈴鹿サーキットでのみかん販売、共感頂いて嬉しいです。私なりにJA(ノウキョウ)とは全く違ったやり方で
販売しようとした泣き笑いのドラマでした。HONDA-RA302のような無謀な一面もあったかも知れません。年も重ねあの時のような冒険はもう出来ませんが島を何とかしたいという気持ちは今も変わりません。
アシタ??(部外者不明)

お詫び

せっかく一度お読み頂いたのですが、またもや禁じ手の追加書き込みをしてしまいました。もしよろしければ再度お読み頂ければ有難いです。鈴鹿F1GPスタートシーンのあたりです。

一応Aライ

なかなか詳しいですね。昔のことながら懐かしい。マンセルはダンロップコーナーでスピン、クラッシュしました。実はあそこ、段差があるんです。バンプと言います。乗るとヤバイです。私もスピンしましたから。いきおい、飛ぶように流れます。今は改良されたかな?1500で1000馬力、恐ろしいエンジンだったんですよね。あの頃。今は面白くもない。スターがいない。海千山千のドライバーたちだから盛り上がったと思います。

Re:セピア色の夢

拝復、ちわっすです。
NIPPONの国策に関しまた流通経済に関し、鋭い舌鋒をご展開される上山青年ですが、今度は一転、タバコ屋の「今月の気になる写真」に対しコメント頂いたようです。A級ライセンスをお持ちだと拝察される上山青年ですが、タバコ屋の4年前の記事「鈴鹿サーキットのこと vol.4:絶頂期」を引っ張り出してコメント頂いたようです。

その通りなんです。当時はウイリアムズ・HONDA-FW11と言うお化けマシンにクレイジー・マンセルが乗り込み、観客が狂喜するような走りを披露してくれたのでしたが、今はご指摘の如くその両方とも無いですよね。F1の黄昏は必然の現象かも知れません。またその当時は荒法師、桜井淑敏監督率いるHONDA-F1チームが主にエンジンのコンピュータ制御(テレメトリー技術)によって他の強豪に対し優位を保っていたのでしたが、そのスタッフの一人がタバコ屋の住む中島出身で、私の近しい親戚のお兄ちゃんだったなんて言う事は誰も知らないですよね。あの時セナのサイン入り色紙を頼んでおけば良かったのにと今でも悔やまれます。

それもこれも今となってはセピア色に変色した懐かしい思い出となりつつあります。欲を言えば上山青年は鈴鹿を飽きるほど走って堪能されているでしょうが、タバコ屋は一度も走ったことがなく(恥ずかしながら大会時は痔の手術で帰省し療養していたのでした)、せめて死に土産に赤いお嬢さんで一度走ってみたいと思うんです。どうせ怖くてストレートで150kmくらいしか出せないでしょうが・・・。叶わぬ夢ながらその時元NISSANワークスの北野さんをお招きし模範走行を頂ければもう天にも昇る気分でしょう。

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★★島のタバコ屋の独り言★★
【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
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