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「希望の島物語」1

平成25年9月7日
これは西瀬戸内海の小さな島で起こった実際の出来事
です。
大浦湾遠景3
平成3年(1991年)のことでした。台風19号は豊後水道に
侵入、瀬戸内海西部一帯を直撃し、広島から山陰方面
へ抜け、日本海を北上、今度は再び青森に上陸し、大暴
れした挙句やっと収まりました。
超大型台風でした。結果は家屋はもちろんのこと西瀬戸
一帯のみかん園地及び青森のりんご園地が壊滅し日本
の二大果物が甚大な被害を蒙りました。わが中島も直撃
状態で雨、風に加え高潮や強風による山の斜面への潮
の吹きつけによる塩害によりみかん園地の樹木の半分
以上が枯死する事態となりました。
富永呉服店
富永呉服店のことです。大正6年(1917年)先々代が創
業以来、戦後は島で初めての三輪バス「ヂャイアント号」
を走らせ、島民の足の便利を図ったり、当時アメリカか
ら導入されつつあったセルフサービス方式を取り入れた
「中島主婦の店」を開店、またその後はやはり島で初めて
のスーパーマーケットやホームセンターを開設する等、
島の暮らしを守り、向上させることを信条に経営をしてき
ました。
(関連記事:人生いろどり参照願います)
ヂャイアント号2
未曾有の災害による島の危機に直面し、トミナガはどう
すべきか今の商いだけで良いのか悩んだ末、苦しんで
いるみかん農家さんのみかんを農協だけが売るのでな
く、我々も別の切り口、別のルートで販売し、少しでも島
の収入向上のお役に立つべきであると思い至りました。
最初は何の知識もなく、販路もあった訳ではありません
があれこれ奔走した結果、少しづつ農家さんにも理解さ
れ販路も広がっていきました。

そこで困ったのが従来は「中島みかん」という銘柄で大
阪東京の市場では結構名の知れた銘柄でしたが、我々
が別に売るとなると独自のブランドが必要であることを
痛感するようになったのです。
いろいろ悩んだ末思い浮かんだのが、現在の絶望的な
島の状況に一筋の希望の光をもたらすものでありたい
という願いを込めてブランド名を「希望の島」と命名しま
した。
希望の島ロゴ3
これも最初は老人ホームのような名前ですねとかさんざ
ん悪口を言われましたが、徐々にその名前に込められた
意味をわかって頂くようになりました。後日談ですが東京
のある専門店のお取引先からお客様が「希望の島」の
みかんを買われて病院のお見舞いに持参したところ、
そのネーミングが良かったようで患者さんから大変喜ば
れた旨を聞かされました。話、冥利に尽きました。
いよかん園地2
それも束の間、次の難題が待ち構えていました。みかん
農家では上等品から中等品、果ては等外品まであらゆ
るものを作るというより出来てしまうのです。そうなると
上等品のいいとこ取りだけをするわけにもいかず、等外
品の処理をどうするかという問題に直面しました。適切
に処理をするためにはジュース工場の建設が必要で、
まだ十分に事業として確立してない段階で加工工場へ
の投資は第3セクターとか大半を国の補助金でまかなう
事業体ならともかく純民間企業がそこまでの投資をする
ことはかなり危険な賭けでした。しかし将来のことを考え
ると、島にもせめて一つはジュース工場があるべきと結
論付け、平成16年その建設に踏み切りました。色々なと
ころを見学したり、また県の技術指導センターに製造法
を教わったりで、ほとんどハンドメイドに近い形ながらや
っと「島のジュース」製造にこぎ着けました。
工場外観2
さてそのジュースを世に出すにあたりどのようなブランド
にするか色々悩みましたが、製造方法をズバリ商品名
とすることに決め「希望の島 丸しぼり果汁」と命名しま
した。またこれは創業以来初めて「商標登録」された品で
あり当社にとっては歴史に残る一ページとなりました。
IMG_2511_3.jpg IMG_2506_3.jpg
しかし実態は再びすごろくの振り出しに戻ったようなもの
で、ジュースの製造技術、みかんの生果実とは異なる販
路開拓等、何もかもゼロからの出発でした。先代が戦後
バス事業を始めた時にも道路事情は最悪で、バスもしょ
っちゅう故障しまったく採算が取れず苦しんでいたようで、
子供心には知る由もなかったのですが、それと同様なこ
とが再び起ころうとしていました。その間、行政や国の支
援機構、また取引銀行さん等の支援を頂きながらまとも
な製品を製造出来るようになり、販路も徐々に広がって
いきました。

次のステップはジャムでした。国の支援機構から派遣し
て頂いた講師の先生の指導を受けながら、これも曲がり
なりにも自家製造出来る体制となりました。ジュースで
苦しんだのでジャムの製造は最初の時よりはかなり短
期間で技術の習得を図れました。ジュース同様、これを
世に出すに当たりまたもや色々悩んだ末、「希望の島
 手作りジャム
」と命名しました。平成20年(2008年)の
出来事です。
ジャム180g温州みかん マーマレード180gいよかん
ここまで来て問題となったのは既存の工場が手狭になっ
たのとノウハウなしで建てた工場の衛生面が不安にな
り、その諸問題を抜本的に解決するため、既に取得して
いた隣接地に第2工場を建設することにしました。これは
10年前に取得していた隣接地を早く有効活用したいとい
う思いがありました。土地を寝かせておくだけでは一円の
利益も産まないだけでなく雑草退治とか余分な手間が掛
かるだけです。またそれまでの一連の開発の集大成とい
う意味もありました。
FF工場2
新工場は紆余曲折あったものの無事竣工し、加工原材
料の搬入のしやすさ、加工原料であるみかんの屋外保
存用冷蔵庫の配置、衛生的な製造環境、また出来上が
った果汁の冷凍保存庫の新設、等々、従来から比べ格
段に環境整備がされました。
現在鋭意稼働中ですが、更なるステップとして工場で製
造されたジュースやジャムを利用して「島のスイーツ」や
ドレッシング、ポン酢等の2次加工製品を開発し、世間一
般で言われるところの「高付加価値」を目指そうとしてい
ます。ただそれは自社製造の原材料を使用するものの、
すべてを自家製造出来る訳もなく将来は別として、現状
は他社に委託して製造してもらう、いわゆるOEM生産を
意味しています。
FF工場3
実は第2工場が出来る以前、すでにいよかんを使った
ロールケーキを松山のK洋菓子店にお願いし委託製造を
試みていました。発売にあたり、伊予のタルトにちなんで
タルティ」と命名し、松山市商工会議所主催の「ふるさと
産品コンテスト」で優秀賞を頂くなどして評判も良かった
のですが、生クリームを使用しているため扱いが難しく
現状は冷蔵ケース付きの店舗を持っていないこともあっ
て通販のみの取り扱い商品となっています。次なる商品
は常温で販売出来るスイーツが待ち望まれました。
いよかんタルティ
それやこれやで試行錯誤の最中に、今まで40年近くスー
パートミナガのテナントショップとして一緒にやってきた
島で唯一の洋菓子屋である「フランセ」さんがいきなり廃
業すると言い出したこともスイーツの開発を急がねばな
らない理由の一つでした。当時島で唯一のお土産菓子
であった「媛みかん」がなくなってしまうからです。幸いに
も島内で独自のスイーツを委託で製造してくれる店が見
つかり、トントン拍子で製品化にこぎ着けることが出来た
のでした。その商品は「マドレーヌ」でいよかんのピール
や果汁を使用した100%メイドイン中島の品となりました。
中島いよかんマドレーヌ2
世に出すにあたっては以前情報誌「中島ヂャイアント」の
制作でお世話になっていた広島ギミックの小原さんに依
頼し、「中島いよかんマドレーヌ」と命名しました。
平成23年(2011年)冬から発売となり、島内の皆さんや
帰省客のお土産菓子として、現在多くのご利用を頂くま
でになりました。
(関連記事:あこがれの宮島参照願います)
楠木正成1
さて話しは800年前に溯ります。世は鎌倉から室町にか
けての混乱期で、後醍醐天皇と足利尊氏が南朝、北朝
に分かれて激しく争い不毛な戦を繰り返し覇権を争った
時代で、後年「南北朝時代」と呼ばれている頃の話です。
水軍合戦5
当時中島には「忽那水軍」と呼ばれる武装集団が西瀬
戸内海一帯を仕切っていて、中島の過去の歴史の中で
最も栄えた時代が約300年続いたのです。その代表的
な武将が忽那義範公で島にはその武勇と南朝への忠
義を称えた顕彰碑が建てられています。
忽那義範公顕彰碑
水軍とは言うものの、その実態は戦の場合の戦闘請合
(当時忽那水軍は南朝方についていました)+海上通
行税の徴収
(当時京の都から九州へ下るには瀬戸内海
航路が主体で西端に位置する中島はJR新幹線の特急
駅みたいなものでそこでキップ代を徴収していた訳です)
貿易(当時の中国は元から明への移行期でしたが貿
易はさかんだったようで日本からは刀剣や砂金、銀、胴
などを輸出、元(南宋)からは陶磁器や絹織物、胴銭、
文書などを輸入していたようです)+海賊(当時元寇によ
り滅ぼされた対馬・壱岐の生き残りが中心になり九州の
勢力も加えて元寇へのリベンジから朝鮮、中国の沿岸を
荒らしまわった倭寇に忽那水軍も関わった可能性があり
ますが検証は出来ていません。)つまりわかりやすく言え
ば「忽那水軍」とは「武装した総合商社」であったのです。
少なくとも栄えた要因は交易(商い)であり農業、漁業で
はありませんでした。
(関連記事:鉄腕ダッシュと水軍参照願います)
帆船9
かつてのスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスが大
航海時代にスケールは違うにしろ同様のことをやったの
ではないかと思います。しかし「忽那水軍」の栄光も織豊
時代の到来により天下が平定されてくるに伴い、対立の
構図による戦の請合いということがなくなり、終わりを告
げることになりました。今から約500年前、天下人秀吉に
逆らった中島は、配下の軍勢により滅ぼされてしまい、
栄光の忽那水軍の歴史は終わりました。
(関連記事:農業とレストア vol.5参照願います)
倉本先生
再び太平洋戦争後のお話に戻ります。戦後間もない当
時、ヤミ市を始めとする混乱した日本の商業のあり方を
憂い、正しい商いのあり方を啓蒙し続けた思想家で雑誌
「商業界」の主幹(編集長)でもあった倉本長治氏(写真
中央)は、それに共鳴する全国の若き商人達を激励し
ダイエー、ジャスコ、ヨーカドー他幾多のイノベーター(革
新的商人)を輩出しました。私の先代も倉本氏に共鳴し
師事していました。(写真左端が若き日の先代です)
その師が全国講演の途中で中島に立ち寄られたのです。
つぶさに島の現状を視察、島での講演も頂いたその時
に揮毫されたのが「四海皆可航」という5文字の言葉でし
た。子供の頃からその言葉を見て育った訳ですが当時は
意味がよくわかりませんでした。

蛇足ながら当時、松山地区での倉本師の弟子にはお菓
子の一六本舗さん、履物のつるやさん、書店の明屋(ハ
ルヤ)さん等、松山では成功された方々が名を連ねてい
ました。それもそのはず倉本師の思想「店は客のために
ある
」を実践した方ばかりでした。
IMG_2937.jpg
ついでながら、当時昭和30年前半は映画3丁目の夕日
に描かれているように日本中貧しいながらものどかな時
代だったのですが、その頃の中島は、瀬戸内海一帯が
戦後のみかん景気に沸き返り、一夜にして長屋門付き
の立派なみかん御殿が建ち、蔵が建ちで一種のみかん
バブルとも言える社会現象が起きていました。
結果としては「忽那水軍」以来歴史上で2番目に栄えた
時代となるのですが、それにより商業も随分潤った訳
です。
IMG_0241.jpg
当時の買い物と言えば、最寄品は島内でややの買回り
品は対岸の三津浜(現松山市)で、高級品は松山市内
でというふうに分かれていました。
手前味噌ながら富永呉服店は最寄品から高級品まで
例外的に取り扱っていました。当時のドル箱は団塊の
世代のユニホーム「学生服」でした。
三津浜港3
三津浜のことです。古くから松山の海の玄関として諸航
路の発着で賑わいました。遠く明治の世には大阪行き
の大型客船はすべてこの三津浜港が起点で、司馬遼太
郎さんの小説「坂の上の雲」にも正岡子規や秋山兄弟が
上京する場面が描かれ、子規の親友であり小説「坊ちゃ
ん」を書いた夏目漱石もこの三津浜港には子規たちと何
度も足を運んだようです。(下の写真は明治中期頃の三
津浜港の様子)
三津浜港6
また魚の集散地でもあり市場や加工業で賑わいました。
更に周辺島嶼部(中島他)の買い物場所として、さまざま
な業種の商店が立ち並び、随分栄えてきました。従って
中島は食生活の嗜好(味の好み)なども古くからこの三
津浜の影響を随分受けて来たと思うのです。味噌、醤油
はもちろんのこと、果てはお菓子(スイーツ)類もメイドイ
ン三津浜製の味になじんできました。
独断ですが、ある意味、中島の味=三津浜の味でもあ
るのです。もっと言えば、その味は遠く安芸の広島に繋
がるかも知れません。
240px-Nakajimakisen[1]
話しを「四海皆可航」に戻します。後年になり、中島が
かつて最も栄えた800年前の忽那水軍の時代に思いを
馳せた時、ハタとこの言葉が思い出されたのです。
即ち「希望の島」の事業とは「忽那水軍」の現代版であり
その5文字「四海皆可航」の実践であるべきだと・・・。
倉本師の残された言葉は何と示唆に富むものであった
ことでしょうか。そこに思いが至った時、何をすべきかと
いう迷いや悩みは消えていきました。
中島遠景
「希望の島」、生まれ育ったふるさと中島、過疎の島とな
りつつあるこの島にもダッシュまではしなくても希望を持
って前進してほしいという願いを込めて付けた名前でし
た。ここだけの話しですが、TV放映中の「鉄腕ダッシュ」
の「ダッシュ島」は中島の近くの無人島「由利島」が舞台
ですが、設定は架空の島ということになっています。
(関連記事:鉄腕ダッシュと水軍参照願います)

しかし、架空ではない現実は今までお話してきたように
困難の連続であり、「小さな島に大きな希望」を持って、
それを一つずつ実現していくことで真に希望の持てる島
としたいのです。
栄えよわがふるさと、美しき中島」それが先々代より島
の暮らしに関わって来た富永呉服店の願いであるととも
に「希望の島物語」の初めでもあり終わりであるかも知れ
ません。

(尚、写真や歴史記述の一部は ウィキペディア、他から
流用させて頂きました。)


コメント

お元気そうで何よりです

久し振りに訪問しました。

完成した新工場、順調に稼働していますか?トラブルを抱え、完成・稼働に至るまでのご苦労を存じ上げているだけに、感慨もひとしおです。気にかかっているのは、スイーツ部門です、順調に伸びているのでしょうか?ここでは具体的な話を書き込む事が出来ませんが、、、。
朝晩冷え込むようになりましたね、そろそろ冬場の繁忙期のための準備を開始する時期です。在庫一掃のタイミングですね。新しく仕込む果汁の貯蔵スペースを確保して、柑橘の仕入れ計画と生産・販売計画を生産者と相談の上、確実なものにしておく必要があります。大変でしょうが、健康にご留意の上頑張ってください。応援しています。

Re: お元気そうで何よりです

拝復、ご多忙の中、つたない記事を読んで頂き、また熱いエール有難うございます。
ご指摘の通りで、タバコ屋もたそがれの中島再生のためにはスイーツ開発が急務であると認識しています。幸いなことに現在三津浜のM洋菓子店様と次期スイーツ開発についてお話が進行中です。また水面下ではチューブゼリーの自社生産の準備も進行中です。詳細は追って順次お知らせいたします。希望の薄明かりが見えますかどうか・・・。

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【7月31日:ああ創業100年】 島のタバコ屋、即ち富永呉服店が創業100年を迎えたことは先般お伝えした通りですが、皆さんよくご存知の世界的宇宙物理学者、故ホーキング博士によれば、100年なんて宇宙的時間軸で言えば、一瞬のまばたきに過ぎない訳で「島でのことも夢のまた夢」ということになりましょう。それはともかく4才の頃から道端の草にも「コンニチハ」なんて愛想を振り撒いて来たタバコ屋にしてみれば「店は客のためにある!」以上、未来永劫、店の続く限りそのテーゼを実践し続けるしかないのです。京都で300年続く老舗料亭、老舗呉服問屋もその志があったのかどうか、お聞きしたことはありませんが、当らずとも遠からじではないでしょうか。
◆◆島のタバコ屋メニュー◆◆
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